譚海 卷之三 大嘗會
大嘗會
○大嘗會(だいじやうゑ)前後三十日、禁中神事有(あり)、每夜曉に徹して事終る、宮中燈盞(とうせん)を點ずる事數百千にして、みな土器(かはらけ)に盛る也。殿々(とのもとのも)燈(ともし)なき所なし、翠簾(すいれん)重々(ぢゆうぢゆう)透(とほ)り照して、閃閃(せんせん)として羣螢(くんけい)の如し。白河吉田の兩神祇官、宮掖(きゆうえき)深處に在(あり)て神樂歌(かぐらうた)をうたふ。蕭然淸幽言語同斷なる事也とぞ。天子每朝寅の時高みくらに御(ぎよ)す、御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也、みじろかせ給ふ時に、玉體(ぎよくたい)暗(あん)に簾外にすきておがまれさせ給ふ。堂上の雜掌諸司番々に警固をつとめ、赤墀(せきち)の下に圓座をもふけて[やぶちゃん注:ママ。]其上に候す。假寐(かりね)すれば人長(ひとをさ)來り杖にてゆりおこす、夜明(よあけ)て膝のうへを見れば、かきあはせたる素袍(すはう)の袖に霜の痕(あと)鮮(あざやか)に有。南庭よりみゆる山上の寺々は、いづれもむしろこもにて蔽隱(おほひかく)す。大嘗會中鐘磬(しようけい)の聲を禁遏(きんあつ)せらるゝ也、公卿皆唐服を着せらるゝ也。
[やぶちゃん注:「大嘗會」大嘗祭(だいじょうさい)に同じ。天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭(にいなめさい)。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じた。新嘗祭は毎年十一月に天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ自らも食す神人共食の祭儀で、当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であったが、後に即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭儀として大規模に執り行うようになり、律令ではこれを「践祚(せんそ)大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(新嘗祭)と区別した。大嘗会は大嘗の節会(せちえ)で、嘗ては大嘗祭の後に三日間に亙る群臣を集めた饗宴を伴う節会が行われていたことに由来する。以上は主にウィキの「大嘗會」を参考にした。
「燈盞」灯油を入れて火を灯す小皿。
「白河吉田」花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家白川伯王家と、卜部氏の流れを汲む公家吉田家。ウィキの「白川伯王家」によれば、室町時代に、代々、『神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』とある。
「宮掖」宮殿の脇の殿舎。皇妃・宮女のいる後宮。
「寅の時」午前四時頃。
「高みくら」「高御座」。天皇位を象徴する玉座で即位礼に於いて用いられるもの。ウィキの「高御座」によれば、『平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された』とある。
「御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也」同じくウィキの「高御座」によれば、『高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり』、『大陸文化の影響、と考える人がいるが』、「延喜式」巻第十六内匠寮に、『高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され』、『二種類の敷物を重ねる平敷であり』、『椅子ではない。伊勢奉幣の』際『の子安殿の御座や』、『清涼殿神事の』際『の天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する』とある。
「赤墀(せきち)」「丹墀(たんち)」と言う語があり、これは「宮殿の階上の庭・天子の宮殿」の意であるから、それであろう。ここは吹き曝しであることが以下の描写から判る。
「人長」それら「雜掌諸司」「人」の「長」(頭(かしら))の意であろう。
「素袍」直垂(ひたたれ) の一種。裏を付けない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸ひもに革を用いる。
「鐘磬」梵鐘と磬(けい)。磬は法要の際の読経の合図に鳴らす仏具で、板状の鋳銅製のぶら下がったものを鉢で打ち鳴らす。
「禁遏(きんあつ)」禁じて停止させること。]
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