萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 ばくてりやの世界
ばくてりやの世界
ばくてりやの足、
ばくてりやの口、
ばくてりやの耳、
ばくてりやの鼻、
ばくてりやがおよいでゐる。
あるものは人物の胎内に、
あるものは貝るゐの内臟に、
あるものは玉葱の球心に、
あるものは風景の中心に。
ばくてりやがおよいでゐる。
ばくてりやの手は左右十文字に生え、
手のつまさきが根のやうにわかれ、
そこからするどい爪が生え、
毛細血管の類はべたいちめんにひろがつてゐる。
ばくてりやがおよいでゐる。
ばくてりやが生活するところには、
病人の皮膚をすかすやうに、
べにいろの光線がうすくさしこんで、
その部分だけほんのりとしてみえ、
じつに、じつに、かなしみたえがたく見える。
ばくてりやがおよいでゐる。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」、「たえがたく」はママ(以下の初出も同じ)。この重度の強迫神経症か統合失調症の幻視のような関係妄想的展開が、こたえられぬほどに青年期の私の心臓を撲(う)った。朔太郎の病原性は私の惨めな青春のトラウマ(心傷)から秘かに侵入し、感染し、その落魄れた魂を致命的に冒した。そのマゾヒスティクな精神の傷みは密やかな至高の麻薬であった。
初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月。殆んど変化はないが、初出形を以下に示す。
*
ばくてりやの世界
ばくてりやの足
ばくてりやの口
ばくてりやの耳
ばくてりやの鼻
ばくてりやがおよいで居る
あるものは人物の胎内に
あるものは貝るいの内臟に
あるものは玉葱の球心に
あるものは風景の中間に
ばくてりやがおよいで居る
ばくてりやの手は左右十文字に生え
手のつまさきが根のやうにわかれ
そこからするどい爪が生え
毛細血管の類はべたいちめんにひろがつて居る
ばくてりやがおよいで居る
ばくてりやが生活するところには
病人の皮膚をすかすやうに
べにいろの光線がうすくさしこんで
その部分だけほんのりとして見え
じつにじつにかなしみたえがたく見える。
ばくてりやがおよいでゐる。
*
「貝るい」はママ。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『ばくてりやの世界(本篇原稿四種四枚)』とし、一篇(無題)が載る。以下に示す。表記は総てママである(くどいが、「泳」であるべきが「洗」であるのは総てママである)。
*
○
ばくてりやの足
ばくてりやの毛
ばくてりやが洗いで居る
ばくてりやが洗いで居る
生物の胎内を洗いで居る
あるものは葱の玉葱の球心に
あるものは貝類の柱の中に人體の内臟に
ばくてりやの手は上下左右十文字にはえ
人間の→血球の毛細血管のいちめんにやうにひろがつて居る
どこでもかしこも
ばくてりやがいちめんに生活棲する世界ところには
あるものは、日光のあたる畑で
あるものはこまかい砂利
うす 淺黃の あか る い日光が皮膚を通して
ほんのりしたべに色の光線がさし
哀しげな音樂がひびいて居る。
*
最後に編者注があり、『「ばくてりやの生活」と表題をつけた別稿もある』とある。
さらに、筑摩版全集第三卷の『草稿詩篇「補遺」』の「斷片」パートに、
*
○
手の爪さきが根のやうにわかれ
そこからするどい
*
というフレーズがあるが、これは本篇の断片であることが判る。]
[やぶちゃん注:前の「春夜」の終りの二連が右ページで、その左ページに、私の好きな、田中恭吉の以下の仮題(恐らくは萩原朔太郎による)「こもるみのむし」の絵がある。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」の「出品目録」(PDF)よれば、大正四(一九一五)年二月から三月頃の作で(インク・紙)とある。カラーで取り込んだものは補正していないものであるが、右上のハレーションが気になるので、エッジが粗くなるが、モノクロームに変換したものを後に掲げた。]
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