譚海 卷之三 白河家
白河家
○白河家尋常には源姓を稱す、神祇伯に拜せらるゝ時は姓を捨て某王(なにがしわう)と稱する也。内侍所御神樂には白河殿歌をうたはるゝ也。神事の庭に座せらるゝに木偶人(でく)の如く、うたふ時に至りて聲を發せらるれば、はじめて其人なる事を知るといへり。
[やぶちゃん注:「白河家」とあるが、これは花山源氏を出自とする堂上家の白川伯王家(しらかわはくおうけ:単に白川家とも)のことであろう。ウィキの「白川伯王家」によれば、『花山天皇の皇孫の延信王』(のぶざねおう)『(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元』。『花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り』、『臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯』(じんぎはく/かみ(かん)づかさのかみ:律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁としての神祇官の長官)『に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた』。『白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗ったことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない』。『非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である』。延信王は万寿二(一〇二五)年に『源姓を賜り』、『臣籍降下し』、寛徳三(一〇四六)年に『神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが』、『この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実、先の四名の間に大中臣氏が補任されている』。『顕広王は本来は源氏であり、神祇伯就任とともに王氏に復し、退任後に源氏に戻る最初の例となっており』、『以下に示す経過により、顕広王の王氏復帰をもって白川家の成立とみなすことが多い』。『顕広王の王氏復帰の背景には、神祇、すなわち』、『神を祀るという、朝廷にとって最も重要な行為を行う神祇官の長官である「神祇伯」という職務の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏の源顕房の猶子となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王が急死して弟の資宗王(源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏に復し、これらが先例となり、以後、白川家による神祇伯の世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである』。なお、『「白川」の呼称は』十三『世紀中期以降、資邦王の代から見られるようになる』。『室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称し』、『吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』。『家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった』。『江戸時代の家禄は』二百『石。他に神祇領・神事料』百『石』であった。『明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓は子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄(北白川宮能久親王の庶子)の男子の久雄を養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶』した。]