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2018/11/30

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 白い鳥

 

         白 い 鳥

 

 ⦅みんなサラーブレツドだ

  あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが⦆

 ⦅よつぽどなれたひとでないと⦆

古風なくらかけやまのした

おきなぐさの冠毛がそよぎ

鮮かな靑い樺の木のしたに

何匹かあつまる茶いろの馬

じつにすてきに光つてゐる

   (日本繪卷のそらの群靑や

    天末のturquois(タコイス)はめづらしくないが

    あんな大きな心相の

    光の環(くわん)は風景の中にすくなくない)

二疋の大きな白い鳥が

鋭くかなくし啼きかはしながら

しめつた朝の日光を飛んでゐる

それはわたくしのいもうとだ

死んだわたくしのいもうとだ

兄が來たのであんなにかなしく啼いてゐる

  (それは一應はまちがひだけれども

   まつたくまちがひとは言はれない)

あんなにかなしく啼きながら

朝のひかりをとんでゐる

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい)

けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

vaguc(バーグ)な銀の錯覺なので

   ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

どうしてそれらの鳥は二羽

そんなにかなしくきこえるか

それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき

わたくしのいもうとをもうしなった

そのかなしみによるのだが

   (ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか

    けさはすずらんの花のむらがりのなかで

    なんべんわたくしはその名を呼び

    またたれともわからない聲が

    人のない野原のはてからこたへてきて

    わたくしを嘲笑したことか)

そのかなしみによるのだが

まだほんたうにあの聲もかなしいのだ

いま鳥は二羽、かゞやいて白くひるがへり

むかふの濕地、靑い芦のなかに降りる

降りやうとしてまたのぼる

  (日本武尊の新しい御陵の前に

   おきさきたちがうちふして嘆き

   そこからたまたま千鳥が飛べば

   それを尊のみたまとおもひ

   芦に足をも傷つけながら

   海邊をしたつて行かれたのだ)

淸原がわらつて立ってゐる

 (日に灼けて光つてゐるほんたうの農村のこども

  その菩薩ふうのあたまの容(かたち)はガンダーラから來た)

水が光る きれいな銀の水だ

⦅さああすこに水があるよ

 口をすゝいでさつぱりしてから往かう

 こんなにきれいな野はらだから⦆

 

[やぶちゃん注:本篇を以って「無聲慟哭」パートは終わっている。大正一二(一九二三)年六月四日(月)の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。前の「風林」の翌日であり、ロケーションも生徒を連れた岩手山登山の帰りの柳沢の草原らしき雰囲気と読める。月曜で農学校は課業中のはずあるが、「東岩手火山」の際もそうであったように、この岩手山登山は校長公認の学校行事であった可能性が高い(但し、本当にこの日・月にかけて登山が行われたかどうかは事実確認はなされていない)。宮澤家版「手入れ本」は最終的に全篇抹消の意向を示す様態と校本全集版編者注がある。これは前のと全く同じ仕儀である。個人的には私は「月林」とこの「白い鳥」は本書にはなくてよい気がしている。少なくとも「無聲慟哭」パートに入れるべきではなかったと感ずる。そうして、トシを失った賢治には、未だ〈トシの死の後に詩を書くことは野蛮ではないか〉といった意識がトシの死後二年後の本書刊行の大正一三(一九二四)年四月にあっても、どこかに未だあったような気がする。トシを直截に詠み込んだこれら二篇を許せなかった彼が見える。それが許されるのは次の、二ヶ月後の「オホーツク挽歌」パート(大正一二(一九二三)年八月の創作群)を待たねばならなかったのである。

 本篇は賢治にしては珍しく、題名「白い鳥」を見た読者の大半が意想する通りに展開する特異点の一篇ではないかと私は思う。少なくとも私は、若き日にこの詩篇の題名を見た時、倭建命(やまとたけるのみこと)とトシの霊魂の飛翔を想起し、それが詩篇中に出てくるので、あらっと意外に思ったからである。それほど賢治の詩篇は恒常的に読者の意表を突くことを通常属性としているばかりだからである。

・「鋭くかなくし啼きかはしながら」ママ。原稿は「鋭くかなしく啼きかはしながら」で誤植であるが、「正誤表」にない。まあ、これなら人によっては「かなしく」と脳内で補正して躓かないケースもあろう。

・「vaguc」原稿は「Vague」(大文字はママ)で誤植であるが、「正誤表」にない。「vague」(賢治は「バーグ」とルビを振るが、カタカナ音写なら「ヴェィグ」に近い)は英語で「(言葉・観念・感情などが)漠然とした・曖昧な・はっきりしない」、「(態度・行動などが)紛らわしい・どうとも採れる」で語源はラテン語の「vagus」(彷徨える・(考えなどが)定まらない)である。これでは調べても意味が判らぬという点で救命不能の致命的誤植である。

・以下の部分、

   *

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい)

けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

vaguc(バーグ)な銀の錯覺なので

   ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

   *

の「わたくしは見た)」の丸括弧の始まりがないのはママ(因みに「体」はママ)。而して原稿(推敲最終形。一部の消し忘れは操作した)を見ると、

   *

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい

   けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

   
Vague(バーグ)な銀の錯覺なので

   ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

   *

となっている。これだと、丸括弧の不具合は解消されるし、中間部の二行が前後で齟齬する感じも無くなるのである。しかし、全集校訂本文は、

   *

  (あさの日光ではなくて

   熟してつかれたひるすぎらしい)

けれどもそれは夜どほしあるいてきたための

vague(バーグ)な銀の錯覺なので

  (ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が

   靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)

   *

と丸括弧を「ちやんと」の前に配しただけで澄ましている(「済まして」の誤字ではない。平然と「澄まして」いるのが「気に入らない」のである)。これは正直、太字で示した本書用原稿の形態で校訂本文とするのが妥当なのではないか? 大方の御叱正を俟つものではある。

 

・「靑い夢の北上山地からのぼったのをわたくしは見た)」底本では最後の「わたくしは見た)」の七字の文字部は字間が詰まっており、最後の丸括弧は半角のそれである(全集校異は『七字のみ字間四分アキなし』とのみで丸括弧には言及していない)。再現が面倒なのでここで注しておく。これは印刷業者が、本書本来の版組では一行字数が多過ぎ、次行に渡ってしまうのを避けるために行った、親切な仕儀である。

・「芦」二箇所のそれは、底本では下部は「」ではなく「戸」の字体であるが、表記出来ないので「芦」で示した。

 

「サラーブレツド」thoroughbred。サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された。

「あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが」「ああいう馬、誰が行ったら、おとなしくさせるのに、いいだろうか?」。

「古風なくらかけやま」岩手県滝沢市にある鞍掛山。標高八百九十七メートル。岩手山の南東の裾野の低いピークで、賢治がその景観を愛した小岩井農場の北方八キロ弱に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。ブログ・サイト「宮澤賢治の詩の世界」の「岩手山とくらかけ山」によれば、鞍掛山は網張(あみはり)火山群に属し、網張火山群の活動と形成期の初期は、更新世前・中期(約一万年前以降)であり、現在の岩手山の方は、その後の更新世中・後期に活動が開始され,成層火山体が形成され、ずっと後に山体南東部のカルデラが形成されたとあるから、岩手山を中心とした山塊の中では鞍掛山は「古風」、古株の独立峰なのである。なお、上記リンク先では先行する「岩手山」を最初に掲げて、その解釈を示しておられ、そこで否定的嫌悪的に描く岩手山は父政次郎の象徴とされ、『では、もしも「岩手山」が賢治にとって父親を象徴していたとすれば、母親を象徴するものは何でしょうか』。『それは、岩手山のふところに抱かれるように位置している、「くらかけ山」ではなかっただろうかと、私は思います』。『 まず、岩手山に寄り添うくらかけ山の姿は、妻として、主婦として、家長・政次郎を支えた妻イチの姿を、彷彿とさせるものがあります。雄大で男性的な岩手山に対して、なだらかな曲線を描くくらかけ山の山容は、優しく女性的です』。『そして、賢治の「くらかけ山」に対する感情は、岩手山に対するものとはまた少し異なって、自分がいちばん苦しい時、孤独な時に、最後の頼みとする「心のよりどころ」のようでした。「岩手山」と同じく『春と修羅』所収の「くらかけの雪」では、次のような思いが吐露されます』として「くらかけの雪」が引用されるが、リンク先の私のそれを見られたい。そこでも最終行に『(ひとつの古風(こふう)な信仰です)』と賢治は記している。さらに、『晩年になって「雨ニモマケズ手帳」に書き記された断片では、次のようになっています。

 

  〔くらかけ山の雪〕

 

くらかけ山の雪

友一人なく

たゞわがほのかにうちのぞみ

かすかなのぞみを托するものは

麻を着

けらをまとひ

汗にまみれた村人たちや

全くも見知らぬ人の

その人たちに

たまゆらひらめく

 

『これはおそらく未完に終わっており、小倉豊文氏が指摘しているように、一行目の「くらかけ山の雪」が題名であって、詩の本文は「友一人なく」から始まるのかもしれません』。『しかしいずれにしても、「友一人なく」孤独な賢治が「かすかなのぞみを托する」のは、くらかけ山の雪だったのです』。『このことからも私は、「慈母」と呼ばれた母イチの存在を、連想してしまうのです』と述べておられる。

「おきなぐさ」既出既注。キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ(翁草)属オキナグサ Pulsatilla cernua。葉や花茎など、概ね、全草が白い長い毛で覆われる。「おきなぐさ」の私の注を参照されたい。花期は四~五月であるからすでに散っているが、開花後も種子が付いた白い綿毛が目立つのでそれを、「冠毛」と言っているかとも思われる。

「樺」賢治が諸作品に記す「樺」は殆んどが白樺、ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica である。

「天末」空と山岳大地の接するスカイライン。

turquois(タコイス)」はトルコ石で、turquoise(ターコイズ:青色から緑色の色を呈する不透明な鉱物)(「turquois」は単数形)であるが、ここはターコイズ・ブルー(turquoise blue)で緑がかった青い色のこと。色見本サイトのそれをリンクさせておく。

「心相」「しんさう(しんさう)」は仏教用語では、主観としての現象世界の対象物の認識すべてを指す。即ち、我々が客観的対象と認識している、例えばここでの自然の景色は自己の観念が客観化して心の中に写した像であるとするのである。而してありがちな逆説的展開で以って最終的には「主観の心相」と「客観の色相」とは実は本質一体であるなどとのたもうてもいる。まあ、しかしここで賢治はそのような神経症的みたような意味で使ってはいまい。但し、だからと言って客観的即物的景観の意でもない。その客観的現象である「光の環(くわん)」が心に映って、彼の心を充溢させ(それが「大きな」という形容である)ているという感動を指している捩じった表現と私は採る。

「光の環(くわん)」これも前に出た日暈(にちうん)、「ハロウ」(英語:halo:ヘイロー)であろう。太陽やその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のこと。。太陽や月を光源として、それらに薄い雲がかかった際、その周囲に発生するように見える光の輪。日暈(ひがさ)。語源はギリシャ語の当該現象を指す語で、お馴染みの写真や映像で、強い光が当たった部分が白くぼやけることを指す「ハレーション」(halation)は、この「halo」に結果や状態を表わす名詞語尾「-ation」が附いたものである。他に宗教的聖像などの後光・光輪・光背の意もある。

「それは一應はまちがひだけれども」/「まつたくまちがひとは言はれない」この否定と一部留保の謂いは賢治の特異とするところであるが(ある意味では病的な関係妄想的気分を感じさせる時もある)、ここには賢治の中の二律背反のディレンマがよく現われていると言える。科学者・教師・家長・実行動的日蓮宗信徒(日蓮宗は天皇の日蓮宗化。国家の日蓮宗化を闡明している極めて政治的宗教であることは「立正安国論」を読めば一目瞭然である)という対社会的な存在としての自分(それが「白い鳥をトシと思うことは無意味で馬鹿げて誤りだ」とする)と、破戒をものともせぬ修羅の彷徨者・頽廃を孕んだ夢想家・幻想を偏愛する芸術至上主義者・突き抜けた神秘家としての反社会的存在としての自分(それが「いや! 全く間違いだとは言い切れぬ! 死んだトシに霊魂があり、それが白い鳥になることはあり得る!」と叫ぶ)を、彼は常に同時に心の内に持っている。その〈二人〉が常に言い争う。それを生身の賢治はただ黙って見ているしかない。そういう生身の賢治は恐らく発狂するしかないと思っているだろう。賢治が時に見せたという半狂乱的行動は私はそのようなものであったと考えている。

「あさの日光ではなくて」/「熟してつかれたひるすぎらしい」ここで正確な現実時間に戻っていることが判る。仮にこの生徒引率の山行の実行を想定した時、岩手山外輪山で御来光を拝んで、それから下山し、「馬返し」を経て、柳沢の放牧地辺りまで辿りついたとするなら、これは最早、朝ではない。即ち、前にあった「しめつた朝の日光を飛んでゐる」という描写は夢想感覚(心象)に於いて「朝」なのであり、この詩はオープニングから昼過ぎの現実時制であったのである。それで読者の認識は落ち着くからいいはずなのだが、そこで賢治はまた、そこに「けれどもそれは夜どほしあるいてきたための」「vaguc(バーグ)な」(「ぼんやりとした」が一番よかろう)「銀」(太陽のハレーションか「異邦人」のムルソーの「太陽が眩しかったから」の感じか)「の錯覺」による感覚変調「なので」私には「朝」なのだ(或いは後の「靑い夢の北上山地からのぼつた」のだから私は未だに「靑い夢」の中にいるのだ、と謂いたいのかも知れぬ)、と日常性をまたしても覆して、自己の故意の錯視感覚へと読者を引き戻そうとするのである。さても、これは彼の特異で偏奇なる嗜好であり、それは、ある種の読者にとっては激しい苛立ちを起させるものとなるとも思っている。そういう意味では賢治は自身の行動や言動が他者にどう感じられるかということを、相手の立場に立って考えることが出来ない、アスペルガー症候群(Asperger Syndrome)に近い人格の持ち主であったように私は考えている。アスペルガー症候群は天才にも多いということは御存じであろう。ここの表現のまどろっこしさは、賢治には極めて大真面目でしかも論理的な〈つもり〉なのである。

「ひしげて融けた金(キン)の液体」日の出や日没時の太陽は大気の屈折(回折と蜃気楼等)のために、帆立貝・円柱・円盤・四角等、多様な形に変化するのは御存じの通り。

「どうしてそれらの鳥は二羽」/「そんなにかなしくきこえるか」/「それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき」/「わたくしのいもうとをもうしなった」/「そのかなしみによるのだが」ここに賢治の非常に特異な心性がよく現われている。

彼の「悲しみ」は――私の愛する妹を失ったことによる――〈のではない〉――

のである。

愛する妹を失ったことが悲しみの核心――〈ではない〉――

のである。

彼は、二羽の鳥の鳴き声がいやまさに悲しく聴こえるのは、

「それは」自分〈「に」〉救う道を失った時、その時、同時に――「たまたま」――いや――「だから」かも知れない――愛する〈「わたくしの」〉「いもうとを」〈「も」〉「うしなつた」その「かなしみ」によるのだ

というのである。妹を失ったことは共時的に発生した副次的理由(そこに因果関係があるにしてもないにしてもそれは飽くまで二次的なものである)であって、

「わたくしの」「かなしみ」の核心は飽くまで――自分〈「に」〉救う道を失った――ことによる

というのである。この助詞の「に」が捩じれている。

「自分」の中「に」於いて、「自分」で「自分」「を救う道」を完全に「うしなつた」ことが「かなしみ」なのだ

と読むべきであろう。それはそれでよい。それは確かに真理であろう。我々は「わたくし」のこと、自分のことしか実際には真剣には考えられないものだろうからして。しかし、実は問題は別にある。論理を厳重に解析するのは賢治の性癖でもあろう。それは賢治が、

「自分」(=「わたくし」)の中で「自分」(=「わたくし」)を救う道を完全失ってしまったという「わたくし」(={自分」)の「かなしみ」、それに加えて、

その時、同時に逝ってしまった「わたくし」(=「自分」)「のいもうと」、「わたくしの」(=「自分」)愛するトシ「うしなつてしまった」「わたくし」(=「自分」)が「かなしいから」、

その「二羽」の「鳥」の鳴き声を「かなしくきこえ」させ「る」のだ

と言っている点である。何? 総てが「わたくし」「自分」の問題でしかないことは判ってるって? そうじゃない! 問題なのはこの文脈では、

逝った妹トシは、「わたくしの」ものであり、「自分」が今までずっと思っている通りの存在であるはずの「いもうと」まで「も」失ってしまった、だから悲しい

と言っている事実が問題なのだ。賢治が悲しいのは、

「自分」を唯一無条件に理解してくれていた、「わたしの」(物理的兄妹であること)、(それ以上に信仰や精神や魂までも共有していた)「わたし」だけのものであった「いもうと」まで「も」、私を置いて逝ってしまった

と誤認している点である。賢治は少なくとも、この詩篇のここでは、トシの現実世界での精神的存在を、彼の好きそうな詩語で言うなら、溶解した自身と融合体していたはずのもの(悪く言えば賢治の精神的所有物)と捉えているのである。賢治よ、トシの魂は、最早、君の思想や幻想の一部なんかじゃ、ないんだよ。トシは君の考えるより、遙かに孤高な思想を抱えて、遙かに君を慈愛の眼で見降ろして、「じぶん」を「すくふちからを」持って、あちらの世界へと旅立ったのだ。……さても……賢治がそれに気づくには……「銀河鉄道の夜」の着想を得るまで、待たねばならぬようだ……

「ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか」前の「風林」である。

 

「すずらん」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン変種スズラン Convallaria majalis var. keiskei。日本在来変種。私の偏愛する花。

「またたれともわからない聲が」/「人のない野原のはてからこたへてきて」/「わたくしを嘲笑したことか)」乖離した超自我が破戒の意識の中にある彼を嘲り笑うのである。それが実は自分の内なる自分自身そ糾弾する今一人の自分に声であることは判っている。だから「そのかなしみによるのだが」と呟かざるを得ないのである。

「まだほんたうにあの聲もかなしいのだ」現実へ戻る。二羽の鳥の声である。

「日本武尊の新しい御陵の前に」/「おきさきたちがうちふして嘆き」/「そこからたまたま千鳥が飛べば」/「それを尊のみたまとおもひ」/「芦に足をも傷つけながら」/「海邊をしたつて行かれたのだ」「日本武尊」は「やまとたけるのみこと」(「のみこと」をつけて賢治が読んでいるかどうかは不明だが、私はつけて読む)。「御陵」は「みささぎ」と訓じておく。倭建命(やまとたけるのみこと)が死後、白鳥となったとする伝承は記紀に載り、よく知られるが、そこでは通常、白鳥(鳥綱カモ目カモ科Anserinae 亜科に属する広義のハクチョウ類であるが、本来、古来から本邦に自然に飛来して来る種はオオハクチョウ Cygnus Cygnus とコハクチョウ Cygnus columbianus の二種のみであったと考えられる)とされるのである(私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕」を参照されたい)が、ここで賢治は「千鳥」(チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae の属する種の総称(チドリという種は存在しない)。本邦では十二種が観察され、その内の五種が繁殖する。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい)としている。悲劇の英雄の変身するそれとしては大きなハクチョウが相応しいように見えるが、しかし、実は「白い千鳥」(種は不明)なので、賢治の謂いは正しいのである。道三(どうさん)氏のブログ「古事記演義」の「天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル」が細かな考証をされていて、読み物としても非常に面白いのでお薦めである。悲劇の人物はよく「白鳥」となって翔け去る。浦島太郎伝説の一ヴァージョンでも老人と化した浦島は白鳥(一説に白鶴)となって飛び去ったとする。この「白き鳥」とは浦島の鶴で推測出来るように、永遠の寿命を持った神聖な鳥なのである。その存在と同じ「白鳥」となったトシが、二羽で翔けてゆくのである。賢治は実際にはその一羽を自らに擬え、天空の彼方へトシと一緒に翔けり去ってしまいたかったのではなかったか。倭建命の挿話は、或いは、ここで生徒たちにその話を賢治が語ったのかも知れぬが、そうした死の願望を隠すための仕儀と私は読む。

「淸原」花巻農学校二年生であった清原繁雄。

「ガンダーラ」現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて紀元前六世紀から十一世紀の間存続した古代王国。一世紀から五世紀にかけては仏教を信奉したクシャーナ朝(中央アジアから北インドにかけて一世紀から三世紀頃まで栄えたイラン系王朝)のもとで最盛期を迎えた。一〇二一年にガズナ朝(現在のアフガニスタンのガズナを首都としてアフガニスタンからインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝)のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。ガンダーラの最も有名な王であるインド・グリーク朝(紀元前二世紀頃から西暦後一世紀頃までの間、主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国)のメナンドロスⅠ世は仏教徒となって以降、この地にギリシャ・シリア・ペルシャ・インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術を齎した。日焼けした頭の鉢の太いくりくり頭の清原君のそれが、眼に浮かぶ。面白いカットで可愛らしく終わって、エンディングとしては私は好きだ。

「さああすこに水があるよ」「古事記」の倭建命の部分の薨去パートである「思國歌(くにしのびうた)」の箇所で、山の神を討って死の元となる深手を負った直後、玉倉部(たまくらべ)の清水で休息して、いっときだけ、一心地をつくシーンを思い出した。]

2018/11/29

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 風林

 

        風  林

 

  (かしはのなかには烏の巢がない

   あんまりがさがさ鳴るためだ

ここは艸があんまり粗(あら)く

とほいそらから空氣をすひ

おもひきり倒れるにてきしない

そこに水いろによこたはり

一列生徒らがやすんでいる

  (かげはよると亞鉛とから合成される)

それをうしろに

わたくしはこの草にからだを投げる

月はいましだいに銀のアトムをうしなひ

かしははせなかをくろくかがめる

柳澤(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも

ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには

騎兵聯隊の灯も澱んでゐる

⦅ああおらはあど死んでもい⦆

⦅おらも死んでもい⦆

  (それはしよんぼりたつてゐる宮澤か

   さうでなければ小田島國友

      向ふの柏木立のうしろの闇が

      きらきらつといま顫えたのは

      
Egmont Overture にちがひない

   たれがそんなことを云つたかは

   わたくしはむしろかんがへないでいい⦆

⦅傳さん しやつつ何枚、三枚着たの

せいの高くひとのいい佐藤傳四郞は

月光の反照のにぶいたそがれのなかに

しやつのぼたんをはめながら

きつと口をまげてわらつてゐる

降つてくるものはよるの微塵や風のかけら

よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ

⦅ほお おら……⦆

言ひかけてなぜ堀田はやめるのか

おしまひの聲もさびしく反響してゐるし

さういふことはいへばいい

  (言はないなら手帳へ書くのだ)

とし子とし子

野原へ來れば

また風の中に立てば

きつとおまへをおもひだす

おまへはその巨きな木星のうへに居るのか

鋼靑壯麗のそらのむかふ

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で

  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

  …………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて

      一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……

  ただひときれのおまへからの通信が

  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ

とし子 わたくしは高く呼んでみやうか

  ⦅手凍(かげ)えだ⦆

  ⦅手凍えだ?

   俊夫ゆぐ凍えるな

   こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい⦆

俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか

あの靑ざめた喜劇の天才「植物醫師」の一役者

わたくしははね起きなければならない

 ⦅おゝ 俊夫てどつちの俊夫⦆

 ⦅川村⦆

やつぱりさうだ

月光は柏のむれをうきたたせ

かしははいちめんさらさらと鳴る

 

[やぶちゃん注:まず、標題であるが、「ふうりん」と読んでおく。風が吹く林の意の賢治の造語と思われる。本篇は大正一二(一九二三)年六月三日(日)の作とする。校本全集年譜には同日にには、本篇が詩篇として久し振りに(後述)書かれたことを記した上、『生徒を引率しての岩手登山中のスケッチ』と記す。しかし、この日にそのような岩手登山が決行されたとは一言も書かれていない(事実確認する資料が添えられていないということである)。稗貫農学校の岩手山登山は大正十一年から始まり、夏休みの行事であった旨の記載が全集にはあるが、それは夏に限らず頻繁に行われた(或いは学校から許可された)ものだったのか。前年のそれは明らかに賢治一人の引率であったように読め、これもどうもそんな感じがする。なお、この登山は先行する前年九月に行われたそれを題材とした「東岩手火山」を一読すれば判る通り、御来光を拝むことをメインとした、午後から登り出して、九合目の小屋で一泊する甚だ危険な山行である(私は一応、高校の山岳部の顧問の経験があるが、こんな遅い時刻の登攀は許可されないし、引率もしたくない。実際、本篇では「月光」が描写される)。さらに言っておくと、底本の「目次」では『一九二二、六、三』(原本で総て半角)であるが、実は初版本「目次」の原稿が一部残っており、そこで「一九二二」と書い後、最後の「二」を「三」に訂していることから、かく決定することに一応しておく但し、後掲する本篇の初稿断片でも、この「一九二二」が出るのはかなり不審である。後述する)。このクレジットは前作「無聲慟哭」(トシの死の当日、大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジット)から七ヶ月後である(クレジットの問題は「無聲慟哭」の私の冒頭注を参照されたい)。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。本篇に限っては、「夜と柏」と題された清書後に手入れした原稿(断片か)が残っている(後掲する)。宮澤家版「手入れ本」では削除と削除痕(削除線を消しゴムで消した痕)が甚だ多く、最終的には全篇を削除していると採るのが至当であるらしい

・「(かしはのなかには烏の巢がない」本書用原稿では「烏」は「鳥」であり、校本全集校異では『おそらく誤植』とし、校訂本文を「鳥」とする。「正誤表」にない(「手入れ本」は削除志向として以下も扱わない)。まあ、普通に読むと、私は「烏」(からす)でなくて「鳥」(とり)であろうとは思う。

・「柳澤(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも」原稿は「柳澤(やなぎさわ[やぶちゃん注:「わ」はママ。])の杉はなつかしく」で「コロイドよりも」はない。「正誤表」に修正はない。しかし、この「コロイドよりも」はそもそもが意味が取れないから、とんでもない錯文の可能性が深く疑われる(全集校異には『語順誤植か』とする)「ざわ」は「さわ」の誤植であるが、「正誤表」に修正はない。しかし、校訂本文は「やなぎざわ」とし、「コロイドよりも」もそのままである。これはかなり不思議だ。

・「騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」原稿では「澱」は「淀」。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

「きらきらつといま顫えたのは」「顫えた」(ふるえた)の「え」はママ。原稿もママで「正誤表」や「手入れ本」に修正なく、校訂本文も「え」のママ。歴史的仮名遣では「顫へた」でないとおかしい。

・「わたくしはむしろかんがへないでいい⦆」末尾の二重丸括弧はママ。原稿は前に合わせて普通の丸括弧閉じるであるが、「正誤表」や「手入れ本」に修正はなく、全集校訂本文もここだけを二重丸括弧閉じるとする。しかし、これは本詩篇全体を見渡せば、丸括弧閉じると校訂するのが正しいと思うのだが。不思議。

・「…………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて」原稿は「…………此處(ここ)あ 日(ひ)あ 永(な)あがくて」と字空けがある。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

・「一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……」の「一日」のルビは原稿では「いぢにぢ」。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

 本書用原稿を見ると、標題は最初、「かしはばやしの夜」で、次に「風と哀傷」とし、三度目に「風林悲傷」とした後に、「傷」を消し、上の「悲」も削除したような形で決定されているようである。因みに、最初のそれは後に童話「かしはばやしの夜」の題名として転用されている。

 以下、「夜と柏」と題された清書後に手入れした原稿(断片か)の最終形を示す(漢字を正字化し、促音等も正字にした)。

   *

 

        夜と柏。(一九二二・六・三・)

 

こゝは草があんまり粗(あら)く、

空氣を吸ひ倒れるには適しない。

そこに水いろによこたはり

一列、生徒らがやすんでゐる。

 (陰はつめたさと亞鉛とでできてゐる。)

それをうしろへ、

私はこの草にからだを投げる。

月はいま次第に銀のアトムを失ひ、

柏はからだを黑くかがめる。

「あゝ、俺はあど死んでもい。」

「おらも死んでもい。」

 (それは宮澤かさうでなければ小田島國友、

  向ふの闇のところがきらきらつと顫ふのは

 Egmont Overture にちがひない。

  誰がいまの返事をしたかは私は考へないでいゝ。)

「傳さん、シヤツツ何枚、三枚着たの?。」

傳さんは月光のうしろの鈍い黃昏のなか、

きつと口をまげて人のよささうな笑ひかたをしてゐる。

降つて來るものはよるの微塵や風のかけら。

橫に鉛の針になって流れるものは月の光。

 

   *

「一九二二・六・三・」である。本書用原稿で誤ったものが、それ以前の草稿でも誤っているというのは、この草稿を見ながら、決定稿を書いたとすれば、やや判らぬでもない。しかし、草稿で誤り、完全時系列で構成している本書で目次部分でも誤る(最終的には修正不能の印刷上の誤植であるが、自筆目次原稿さえも西暦の一桁目を落とすというのは尋常ではない)というのは、普通は考えられない。私はこれは、トシの死を認めたくない賢治の無意識がやらかしてしまった「しくじり行為」の一つであると採れると思っている。

 

「かしは」「柏」「槲」。ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata。火山地帯では群落がしばしば見られる。カシワの葉は柏餅のそれでお判りの通り、大きく厚いために「がさがさ鳴る」ことは事実だが、だから鳥が厭がって「巢がない」とは言えないだろう。葉には殺菌作用のある芳香のあるオイゲノール(eugenol)が含まれるが、それを鳥が忌避するとも思われない。山のひっそりとした柏林を措定するための感覚的表現であろう。

「ここは艸があんまり粗(あら)く」/「とほいそらから空氣をすひ」/「おもいきり倒れるにてきしない」下草が岩肌を覗かせて疎らであるか、がさついた藪であるために、登攀の一本をとるのに深呼吸をして、ぱったりと思いっきり倒れるには適していないというのである。生徒たちはかなりバテているようだ。

「水いろ」月光を受けていることを指すのあろう。後の「かげはよると亞鉛とから合成される」も月「影は夜と亜鉛」(青白色を帯びて鈍い光沢を有する)「から合成され」て、疲れ切った少年たちを深く静かに取り巻いているのである。

「銀のアトムをうしなひ」低い位置からの月光の鋭く突き刺すようなそれが、時間の経過に伴って中天へと動くことでソフトに変化し、身に馴れて穏やか感ぜられるようになったことを、月の光の中の銀の原子の衰弱として捉えたものであろう。

「柳澤」現在の岩手県滝沢市柳沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。西端に岩手山神社があり、そこから北西に三キロ半行ったところに、「馬返し」登山口がある。

「ぼうずの沼森(ぬまもり)」「ぼうず」は月光の指す中にこんもりと丸く見えることの謂いであろう。「沼森」は現在の岩手県滝沢市鵜飼沼森。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「騎兵聯隊」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本作の解説(分割)で、『騎兵第』三『旅団(第』二十三及び第二十四『聯隊)のことで』明治四二(一九〇九)『年に盛岡市厨川に創設され』たとされ、『詩人は、岩手山中腹辺りに立っているとみられ』るとされ、ギトン氏はこちらで、『騎兵連隊のあった場所は分かりませんが、小岩井農場に騎兵が現れることもあったようですから、この近くに駐屯地があったのでしょう。現在、射撃場のあるあたりだ』った『とすると、柳沢から見て「沼森」の手前になりますが』とされる。

「柳澤の杉はなつかしくコロイドよりも」/「ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには」/「騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」この三行を眺めていると、

柳澤の杉はなつかしく

ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには

騎兵聯隊の灯もコロイドより澱んでゐる

という文字列の組み替えをしたくなる。聯隊内の電「灯も」闇の中に溶け込んでしまって「コロイドより」粒立ちを失って「澱んでゐる」ようにべったりと見える、というのはどうか?

「ああおらはあど死んでもい」/「おらも死んでもい」「あぁ! 俺(おら)はもう、後(あと)、死んでもいい!」「俺も、死んでも、いいわい!」と、歩き疲れた生徒たちが暗闇の中で、次々に音を挙げる。

「宮澤」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、「新校本全集 第十六巻(下)補遺・伝記資料篇」に『掲載されている「稗貫郡立農蚕講習所・稗貫農学校・花巻農学校在職時指導生徒卒業生名簿」を参考にすると』、これは大正一四(一九二五)年三月の『卒業生の「宮沢(臼崎)吉太郎」のことかと推測され』るとある。

「小田島國友」前記ブログで大正一三(一九二四)年三月の卒業生とし、『大正』十四『年卒業生は、この詩が書かれた時点では第』一『学年、大正』十三『年卒業生は第』二『学年』であったとされる。

「柏木立」「かしはこだち」。

Egmont Overture」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 一七七〇年~一八二七年)の、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の一七八七年の同名の戯曲のために作曲した劇付随音楽「エグモント」(Egmont:作品八十四)の序曲。曲についての解説はウィキの「エグモント(劇音楽)」を参照されたいが、『作品の題材は、エフモント(エグモント)伯ラモラールの物語と英雄的行為である。作品中でベートーヴェンは、自らの政治的関心を表明している。圧政に対して力強く叛旗を翻したことにより、死刑に処せられた男の自己犠牲と、とりわけその英雄的な高揚についてである。初演後、この楽曲には称賛の評価がついて回った。とりわけ』、ドイツの幻想作家として知られるエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 一七七六年~一八二二年:私の偏愛する作家である)『がこの作品の詩情を賛えたものが名高く、ゲーテ本人もベートーヴェンは「明らかな天才」であると述べた』とある。そちらで序曲部分を手短に聴け、以下に諸演奏へのリンクもある。ウィキの「ラモラール・ファン・エフモント」によれば、ラモラール・ファン・エフモント(オランダ語:Lamoraal van Egmont 一五二二年~一五六八年)は『フランドルの軍人、政治家。八十年戦争初期の指導者の一人』。当時、『ネーデルラント地方を支配していた神聖ローマ皇帝カール』Ⅴ『世のアルジェ遠征に従軍』、一五五四年、『イングランドへ渡り、カールの子フェリペ(フェリペ』Ⅱ『世)とメアリー』Ⅰ『世の婚儀を成立させた』一五五七年にはフェリペⅡ世の『対フランス戦におけるフランドル騎士団の指揮官を任じられ』翌年の『サン・カンタン、グラヴリーヌ』の戦い『で戦功を挙げ』、一五五九年、『フェリペからフランドル、アルトワ両州の知事に指名された』。その後、『故郷に戻り、スペインによるネーデルラント属領支配に憤った彼は、カルヴァン派の浸透し始めた地元ブルジョワ階級に支持を受け、オラニエ公ウィレム』Ⅰ『世、ホールン伯フィリップらとともに、フェリペの派遣した総督でパルマ公妃マルゲリータおよび枢機卿グランヴェルの専制に抵抗し』、一五六四『年には、グランヴェルをスペインへ退去に追い込んだ』。『しかし』、『フェリペが宗教裁判政策を改めることはなく、ラモラールはその緩和のためにスペイン宮廷へ赴くが、むなしく帰国した。その後』一五六六『年に組織された中小貴族の反対同盟には加わらなかったが、ラモラールに対する王の疑惑は解けなかった』。翌年、『新総督アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドが着任すると』、『ただちに逮捕され、翌年の裁判でモンモランシーとともに死刑を宣告されてブリュッセルで斬首刑に処された』とある。以前の「マサニエロ」といい、この手の悲劇的結末に終る英雄は修羅に生きると自認した賢治の好みではあったらしい。そこはまたそうした解析のお好きな方に丸投げすることとする。寧ろ、私にはその解剖されたエグモントの処刑の意味よりも、ここでの、「向ふの柏木立のうしろの闇が」/「きらきらつといま顫えたのは」/「Egmont Overture にちがひない」という、賢治の特異な視覚的変調と聴覚的共感覚の器楽的幻覚に非常に強く惹かれる。こんなところも、突如、あばら家にベートーヴェンが鳴り響くタルコフスキイ(「ノスタルジア」Nostalghia):イタリア・ソ連合作。一九八三年公開)とすこぶる親和性があるように思われるのである

「たれがそんなことを云つたかは」/「わたくしはむしろかんがへないでいい」これが賢治の内的な急激な精神変調の呼び水となっている。「そんなこと」とは最初の「⦅ああおらはあど死んでもい⦆」を指す。これは即ち、先の「永訣の朝」の臨終間際のトシの言葉「(Ora Orade Shitori egumo)」(おら、おらで、しとり、えぐも)を賢治にフラッシュ・バックさせてしまうのである。

「傅さん しやつつ何枚、三枚着たの」賢治が「傳さん」に呼びかけた。「傳さん」「佐藤傳四郞」は先のブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、大正一三(一九二四)年卒業生にいるとある。

「月光の反照のにぶいたそがれのなかに」「月光の反照」(はんせう:照り返し。)「の鈍い黃昏の中に」。

「降つてくるものはよるの微塵や風のかけら」常套的な星の降るような夜空に比して何とオリジナリティのある表現であることだろう。しかも、この縦(垂直)の幻想の自由落下に対し、横「に鉛の針になつてながれる」「月光」を挿し入れるのも憎い。

「にぶ」「鈍」。「鈍色(にびいろ)」「にび」と同義の色名。薄墨に藍をさした染色の伝統色名のこと。濃い鼠色。リンクするまでもないかろうが、色見本サイトのそれ

「堀田」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、やはり、大正十三年卒業生の堀田昌四郎と思われるとする。

「⦅ほお おら……⦆」/「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」/「おしまひの聲もさびしく反響してゐるし」/「さういふことはいへばいい」/「(言はないなら手帳へ書くのだ)」或いは、堀田は「はあぁ、おら、もうこれ以上、歩けん」とはっきり表明しかけて口ごもったのかも知れない。しかしそうだとしても、変調をきたした賢治にはそうした余韻として響きはしない。先の通りの「ほお おらもあど死んでもい」であり、その声は闇に、大地に、空に、宇宙に「おら、おらで、しとり、えぐも」というトシの声となって反響するのである。その幻しのトシの声に対して賢治は、「さういふことはいへばいい」/「(言はないなら手帳へ書くのだ)」という、如何にも脆弱で無効な彼賢治にしか適応不可能な処方として投げ出されるのである。生徒に言うなら確かにメモせよだろう、メモするのは何を使う? お前は彼女が欲しがった色鉛筆さえ与えてやれなかったのではなかったか? 言って楽になることもあるであろう、言っても書いてもその恐怖から逃れられぬものもあるであろう、しかし、今、ここではそうした施術は何の効果も齎さず、遂にトシの魂への呼びかけとなって、生徒たちは消え失せ、賢治の立っている空間は、一瞬にして野と風と柏の林から遂には宇宙空間へと変容してゆくのである。

「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか」ギトン氏は本詩篇については一貫して、この詩篇が創作されたとする日に生徒を引率して岩手山登山が行われたとして、検証しておられ、このシーンは実際の木星が見えていたとこちらで述べておられる。これは、この晩にちょうど木星が、よく見える位置にあったためと思われ』、『午前〇時の星図を見』る『と、この夜は、木星が南西の空に出ていた』ことが判るとして、サイト「賢治の事務所」の大正一二(一九二三)日の夜空の星座図がある『「風林」の創作』がリンクされてある。ああ! 蝎の目の前だねえ、ジョバンニ!

「鋼靑壯麗」「鋼靑」「谷」にも既に出たし、「銀河鉄道の夜」に出現するが(「六 銀河ステーシヨン」の冒頭。『そしてジヨバンニはすぐうしろの天氣輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になつて、しばらく螢のやうに、ぺかぺか消えたりともつたりしてゐるのを見ました。それはだんだんはつきりして、とうとうりんとうごかないやうになり、濃い鋼靑のそらにたちました。いま新らしく灼いたばかりの靑い鋼の板のやうな、そらの野原に、まつすぐにすきつと立つたのです』の一箇所)、他で私は見たことがない。賢治の造語と思われる。鋼(はがね)の紫色を帯びた切れるよう冴えた青のことか。

のそらのむかふ

「ああけれどもそのどこかも知れない空間」トシがいる時空間を指す。既に木星などという名指すことの出来る既知的世界でないことを賢治は無意識で感じている。そこは日蓮宗等によって安心立命する世界ではない(そもそも仏教はその元からして変生男子(へんじょうなんし)説(女は男に生まれ変わらないと往生出来ない)を抱えている)ことも、賢治は直感的に判っている。

「光の紐やオーケストラ」エグモントに引かれた連想と思われる。天界の音楽を光波のあざなえる紐に喩えたものか。

「ほんたうにあるのか」賢治にしてこうした彼の幻想を支えるものへの根源的懐疑のはっきりした表明は珍しい。これはある意味、彼には致命的な懐疑であり、危険である。

「…………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて」/「一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……」というトシからの、霊界からの通信が「ただひときれ」、「いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ」った、という驚天動地の事実(幻覚・夢想)が語られる。永劫の光明の中にいるというのか? 賢治の性癖には悪戯っぽいところがあり、虚構の怪談を語って周囲を怖がらせたりすることもあったし、童話の多くにはそうした霊界や異界性を狙ったものもはなはだ多い。しかし、どうも私はこの話はそうした創作や文学的虚構ではないように思われる。精神変調の中で実際に見た(と思っている)一通の霊界通信を読み、それは瞬時に消え失せたのであろう。汽車に乗っている際の短い夢であったとしてもそれは、確かな霊体験として賢治には意識されいるのである。

「とし子 わたくしは高く呼んでみやうか」トシの肉声の応答を求めて賢治は彼女の名を高く叫ぼうとする、と、――「手凍(かげ)えだ」(手が凍(こご)えた)――と生徒の会話で、賢治は「はっ」と現実へと帰還するのである。

「俊夫ゆぐ凍えるな」「俊夫は、よく凍えるなぁ。」。

「こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい」「こないだも、自分のボタン、俺に掛けさせたじゃないか。」。

「俊夫てどつちの俊夫」「川村」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、『字が一つ違っていますが、大正』一三(一九二四)『年卒業生の「長坂(川村)俊雄」と推測され』、『「どっちの俊夫」とあるのは、同じ学年に「高橋俊雄」もいるためで』あろうとある。次注も参照のこと。

「あの靑ざめた喜劇の天才」『「植物醫師」の一役者』「植物醫師」は
慟哭」の注で示した、この前月の五月二十五日に県立花巻農学校開校式で、賢治が演出して上演された自作劇「異稿 植物医師」(リンク先は渡辺宏氏の「宮沢賢治 Kenji-Review」の第八百五十七号)のこと。ギトン解説によれば、『河村俊雄(「川村俊夫」は賢治の誤字)も、小田島、佐藤と同級ですが、「喜劇の天才」は事実でした。そもそも、河村は、友達の受験の付き添いで来ていたのを、賢治が気に入って受験させ、その後は村長を動かし、両親を説得させて入学させた経緯があります。賢治はよほど河村が気に入っていたらしく、「植物医師」という戯曲は、河村の役柄に合わせて書いたと言われるほどです』とある。畑山博「教師 宮沢賢治のしごと」(初版一九八八年小学館刊)によれば、『長坂俊雄は「植物医師で」主役の爾薩待』(恐らくは「にさつたい」と読む。先の渡辺氏の電子化では「待」を「侍」と誤っているので注意されたい)『医師をやった。この劇は、初めは英語劇としてやるはずだったが、準備が整わず、ふつうの岩手弁の野外劇でやられることになった』とし、以下、長坂の証言として、『「わたしは医師ですから、白衣を着て、聴診器を持って診察室で待っているのです。するとそこへ、稲の病気で困っている農民が相談にやってくる。と、病人は稲なのに、お医者はいきなりその農民の脈の方を診ようとしてしまうのですね。やっていて、自分でおかしくて、おかしくてどうしようもないような劇でしたよ」』。『「それで、脈をとるとき、もう片方の手で懐中時計をポケットから出して演ずることになっていたのです。それを、わたしは、賢治先生には内緒で、シャツの下に大きな目覚まし時計を隠しておいて、いきなり取り出してみせたんです。すると観客はもちろん、賢治先生も大喜びで、わたしに喜劇の天才というあだ名をくれたのです……」』とある

「わたくしははね起きなければならない」ここは泊まった九合目の小屋の中の景で終わっているか。そこまでの実景が説明されねばならない理由はないから、それでよいのである。変調した危ない夢想にあっても、本能的に教師であった賢治は彼らを正しく岩小屋へ導いていたと考えれば、かえって読む我々もどこか、ほっと安心するではないか。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 無聲慟哭

 

           

 

こんなにみんなにみまもられながら

おまへはまだここでくるしまなければならないか

ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ

また純粹やちいさな德性のかずをうしなひ

わたくしが靑ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまへはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進(じやうしん)のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

  (おら、おかないふしてらべ)

何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら

またわたくしのどんなちいさな表情も

けつして見遁さないやうにしながら

おまへはけなげに母に訊(き)くのだ

  (うんにや ずゐぶん立派だぢやい

   けふはほんとに立派だぢやい)

ほんたうにさうだ

髮だつていつさうくろいし

まるでこどもの苹果の頰だ

どうかきれいな頰をして

あたらしく天にうまれてくれ

  ⦅それでもからだがくさえがべ?⦆

  ⦅うんにや いつかう⦆

ほんたうにそんなことはない

かへつてここはなつののはらの

ちいさな白い花の匂でいつぱいだから

ただわたくしはそれをいま言へないのだ

   (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは

わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

ああそんなに

かなしく眼をそらしてはいけない

  

[やぶちゃん注:以下の『註』は「永訣の朝」で示した通り、「無聲慟哭」の最終行のある底本の百九十ページと百九十一ページの見開きに、詩篇本文二行分を空けて、全体が八字下げで示されてあるが(原本画像)、ブラウザの不具合を生じるので、かく上げてある。]

 

 

 ※あめゆきとつてきてください

 ※あたしはあたしでひとりいきます

 ※またひとにうまれてくるときは

  こんなにじぶんのことばかりで

  くるしまないやうにうまれてきます

 ※ああいい さつぱりした

  まるではやしのなかにきたやうだ

 ※あたしはこわいふうをしてるでせう

 ※それでもわるいにほひでせう

 

[やぶちゃん注:本書の目次では前の「永訣の朝」「松の針」と合わせて以上の三篇を大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジット、トシの死の当日(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)で亡くなった)とするであるが、これはどう見ても、この日にこの三篇が書き得たとは、当日の臨終後の賢治の悲痛な状況(押入れに首を突っ込んで慟哭した)から見ても、到底、信じられない。以下、この点について考証する。

 まず以って、「永訣の朝」という標題の「永訣」という語は、トシが永遠に去ったその日に附し得るものではないと思う(少なくとも私には出来ない)。

 さらに冷静に観察すれば、「永訣の朝」「松の針」は時系列で整然と並んで配されてあり、それは「永訣の朝」の取り敢えずの既定形が出来たことを踏まえて、「松の針」が、やおら、創作され、しかもやはり安定した既定形が出来上がっていると読める。「無聲慟哭」はやはりその題名自体が、まさに深く静かに考えて、この時の自分のぎりぎりの悲傷の極みであるはずの心象を詩語にモデイファイ(「mental sketch modified」)する余裕を見せて創作され、配置されていると言える。

 これは、明らかにトシの死から有意な時間の経過が必要な仕儀である(そうしたことが瞬時に出来るのが詩人宮澤賢治だというならば、私は宮澤賢治という男を人間として逆に信用出来なくなる。それは死臭の芬々たる中で超然として小奇麗な和歌を苦吟する藤原定家みたような非人間性を覚えるからである)。

 だいたい、冒頭の「永訣の朝」の起筆が「けふのうちに」/「とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」で始まるのは、それを後に読む読者が既にしてこの人はもう亡くなっているという感覚のもとに読まれることを確信犯で前提としているのである。

 校本全集年譜に拠れば、賢治はトシの死後、現在知られる限りでは、本格的な詩作に関しては(文語詩篇ノートに同年十二月にメモらしきものはあるが、詩篇ではない)、次に載る「風林」の翌大正一二(一九二三)年六月三日まで、実にトシの死からは六ヶ月、前に書かれた「栗鼠と色鉛筆」からは七ヶ月近くも行っていないのである(但し、既に作られてあった本書で先行する「東岩手火山」の初期形「心象スケツチ 外輪山」と童話「やまなし」を四月八日附『岩手毎日新聞』に発表したり(「東岩手火山」で既注)、童話「氷河鼠の毛皮」(『岩手毎日新聞』(四月十五日附)や童話「シグナルとシグナレス」(五月に『岩手毎日新聞』に十一回で連載)したり、五月二十五日の県立花巻農学校(稗貫郡立稗貫農学校へ昇格した)新校舎(町の郊外に別に建築された)完成による開校式で自作劇「異稿 植物医師」(このリンク先は渡辺宏氏の「宮沢賢治 Kenji-Review」の第八百五十七号。そこに『初演形の台本は残っていな』い『が、出演した農学校生徒が記憶から書き起こし、再現』したものが電子化されてある)と「飢餓陣営」を演出・上演しており、文芸活動が沈滞していたわけではない)。

 トシの死の衝撃を考えれば、これは尤もな話であり、本三篇は、概ね、この詩篇封印の時間の中で醸成されたものと考えてよい。これらを決定稿に至らせずに、「風林」を書くことは、賢治には出来なかったと私は思われる。そうした「無聲」沈黙の行の中でこの三篇は産みの苦しみの末に誕生したものと捉えている。

 かく考えると、本書の「目次」クレジットの幾つかにある二重丸括弧(⦅ ⦆)の謎を解く鍵がここにはある気はする。それを持つのは、これより前の「春と修羅」「眞空溶媒」「靑い槍の葉」「原體劔舞連」だけで、本三篇以降に存在しない。

 「靑い槍の葉」は既に注した通り、本書刊行以前に「國柱會」の機関紙『天業民報』の大正一二(一九二三)年八月六日附に掲載されるという特異点の詩であるから、推敲が通常の詩よりも重ねられたことが窺え、全集年譜を見ると、創作クレジットの大正一一(一九二二)年六月十二日の条には、『この詩を労働歌として田植えの時生徒に歌わせる』とあるのである。これは田植え唄であり、唄わせてみて、歌詞としての唄い易さ等を勘案したと考えるのが自然であり、さすれば、これはこの日にプロトタイプが出来、しかも唄として実際に生徒らに歌わせ、後に『天業民報』にも発表し、本書で決定稿としたのであればこそ、この原型からは大きく変わった可能性が高い。さればこそ、その⦅起点日⦆として丸括弧が使われていると読める。

 それ以外の「春と修羅」「眞空溶媒」「原體劔舞連」は本書の中でも、「無聲慟哭」パートの三篇を別格として、ある種の「心象スケツチ」のクライマックス或いは外輪山のピークを成す中・長篇詩であり、本書用原稿の推敲跡や刊行後の手入れを見ても、原型に対する初期推敲がかなり綿密に行われていることが推測されるのである。

 それらは確かに、そのクレジットの日に起筆し、その日のうちに、一つの心象像として一応の完結したソリッドな詩形を成したものではあるが、その後に複数回、有意な改変が行われて決定稿となったのであり、それをよく理解している賢治は、そうした詩篇の産みの苦しみを自ら記憶するために、或いは、読者のここから後にはこの二重丸括弧の詩篇のグラデーションがずっと残って行くということを伝えたかったからなのではないかと思うのである。

   *

 本詩篇「無聲慟哭」の注に戻る。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。トシの死の前後に状況は前の「永訣の朝」の私の注を参照されたい

・「おまへはまだここでくるしまなければならないか」藤原嘉藤治所蔵「手入れ本」では、

 おまへはまだここでくるしまなければならないのか

とする。

・「精進(じやうしん)」のルビはママ。原稿は「しやうじん」であるから誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」の補正もない(ルビで見落とした可能性が大)。校本全集校訂本文は驚くべきことに「じやうしん」のママである。

・「(おら、おかないふしてらべ)」原稿は「(※おら、おっかなぃふうしてらべ?)」(「※」は他(前の二篇にも)にも見られ、『註』と対応させるための記号。最終校正で本文詩篇からは総て除去したものと思われる)である。最終校正で変更したものらしい。

・「⦅それでもからだがくさえがべ?⦆」/「⦅うんにや いつかう⦆」の二重丸括弧はママ。原稿は前後と同じ普通の丸括弧である。「正誤表」なし、「手入れ本」修正なし。とすれば、最終校正でここをかく二重丸括弧にして強調した可能性が強い

 

「無聲慟哭」個人的感懐であるが、私は後年、「源氏物語」の「夕顔」の帖の、夕顔が亡くなり、結局、その通夜の席に向かった光源氏が、粗末な板屋の中で僧らが無言念仏(ごくごく低声(ひきごえ)で声にならない念仏を唱えること。葬送の前にこれを唱えると、十五の功徳があるとされた)を唱える中、光が夕顔の亡骸に最後の悲傷に満ちた対面をするシークエンスを読んだ瞬間、「これこそ賢治の無声慟哭だ!」と思わず叫んでしまったのを思い出す。

   *

 道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原[やぶちゃん注:賀茂河原。]のほど、御前驅(みさき)の火もほのかなるに、鳥邊野(とりべの)の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき亂る心地したまひて、おはし着きぬ。

 邊りさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて、行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明(みあかし)の影、ほのかに透きて見ゆ。その屋には、女一人[やぶちゃん注:夕顔の侍女右近。]泣く聲のみして、外の方に、法師ばら二、三人物語しつつ、わざとの聲立てぬ念佛ぞする。寺々の初夜(そや)[やぶちゃん注:午後十時過ぎ頃の勤行。]も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。淸水(きよみづ)の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大德(だいとこ)の聲たふとくて、經うち讀みたるに、淚の殘りなく思さる。

 入りたまへれば、火取り背(そむ)けて、右近は屛風隔てて臥したり。いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか變りたるところなし。手をとらへて、

「我に、今一度、聲をだに聞かせたまへ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を盡くしてあはれに思ほえしを、うち捨てて、惑はしたまふが、いみじきこと。」

と、聲も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。

 大德たちも、誰(たれ)とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、淚落としけり。

 右近を、

「いざ、二條へ。」

とのたまへど、

「年ごろ、幼くはべりしより、片時たち離れ奉らず、馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか歸りはべらむ。いかになりたまひにきとか、人にも言ひはべらむ。悲しきことをばさるものにて、人に言ひ騷がれはべらむが、いみじきこと。」

と言ひて、泣き惑ひて、

「煙(けぶり)にたぐひて、慕ひ參りなむ。」[やぶちゃん注:御主人様の火葬の烟と一緒になって、お跡を慕って追い申し上げまする。]

と言ふ。

「道理(ことわり)なれど、さなむ世の中はある[やぶちゃん注:かように世の中は無常なものなのだ。]。別れといふものの悲しからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひ慰めて、我を賴め。」

と、のたまひこしらへて、

「かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ。」

とのたまふも、賴もしげなしや。

 

   *

「ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ」/「また純粹やちいさな德性のかずをうしなひ」/「わたくしが靑ぐらい修羅をあるいてゐるとき」トシの末期を前にして、賢治自身が露悪的に修羅道(それは自身の日蓮宗への信仰に対する激しい揺らぎを意味していよう)を彷徨している自己を暗示的に暴露する。いや、それを暴露することによって、実は逆にトシを襲う死に拮抗し、それを遠ざけようとする原始的な類感呪術的なものをも私は感ずる。

「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが」/「あかるくつめたい精進(じやうしん)のみちからかなしくつかれてゐて」/「毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき」/「おまへはひとりどこへ行かうとするのだ」「螢光菌」については、広く真正細菌 Bacteria 類には蛍光色素を持つ種が認められるが(例えば、プロテオバクテリア門 Proteobacteriaガンマプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属 Pseudomonas 等)、ここは「毒草」との並列、おぞましい「修羅」の妖光という属性から見て、一科一属一種の原始的かつ貴重なコケ植物で、暗所では金緑色(エメラルド色)に光る、マゴケ(真苔)植物門マゴケ綱マゴケ亜綱シッポゴケ目ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属ヒカリゴケ Schistostega pennata をイメージしていると採っておく(農科学者である賢治を考えれば、真正菌類でも構わない)。ウィキの「ヒカリゴケ」によれば、『北半球に分布し、日本では北海道と本州の中部地方以北に、日本国外ではロシア極東部やヨーロッパ北部、北アメリカなどの冷涼な地域に広く分布する。洞窟や岩陰、倒木の陰などの暗く湿った環境を好む。日本の自生地にはマッカウス洞窟(北海道目梨郡羅臼町)、長野県佐久市や光前寺(長野県駒ヶ根市)、群馬県嬬恋村(浅間山溶岩樹型)、吉見百穴(埼玉県)、北の丸公園(東京都)などがある』。『小型のコケ植物で配偶体(茎葉体)は』一センチメートル『程度。葉は披針形で、朔柄は』五ミリメートル『程度で直立し、先端につく朔は球形。原糸体(胞子から発芽した後の糸状の状態)は、一般的な蘚類が持つ糸状細胞の他に、直径』十五マイクロメートル(一マイクロメートルは〇・〇〇一ミリメートル)『程度の球状であるレンズ状細胞を多く持つ』。『ヒカリゴケは自力で発光しているのではなく、原糸体のレンズ状細胞が暗所に入ってくる僅かな光を反射することによる。またレンズ状細胞には葉緑体が多量にあるため』、『反射光は金緑色(エメラルド色)になる』。『生育環境の変化に敏感で、僅かな環境変化でも枯死してしまうほどに脆い存在である。そのため』、『生育地である洞窟の開発や大気汚染、乾燥化などの影響を大きく受けて、その個体数は減少し続けていると言われており、絶滅が危ぶまれている。日本ではその生育地の大部分は国立公園内にあり、採取は規制されているほか、国や地方自治体により天然記念物に指定されている』とある。「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが」は、話者である賢治にしてみれば、無論、日蓮宗であり、トシは賢治に誘われて、彼が、歌人で父方の親戚筋に当たる関徳弥らと開いていた法華経輪読会にも参加したりしたことがあり、末期の様子からも賢治は、彼女を当然の如く、自身と同行二人の日蓮宗信徒としての認識を持って言っている謂いであることは疑いない。しかし、トシの信仰はもっとオリジンなものであったようである。私が感銘した賢治関連書の一つに、山根知子氏の『宮沢賢治 妹トシの拓いた道―「銀河鉄道の夜」へむかって―』(二〇〇三年朝文社刊)があるが、その「第二部。第一章 賢治の前を歩いたトシ」で、山根氏は短い生涯の中でトシが辿った信仰遍歴を解説され、最後に、トシ直筆の「自省録」『における宗教的表現を追ってゆくと(なお、「自省録」引用中の「彼女」はトシ自身を指す)、「実在」「絶対者」「彼女の深い深いところにある本然の声」といった言葉をはじめ、特定の宗教に還元されない表現によって語り進められているところが多い。そのなかに「彼女は今こそ神と人との前にひれ伏さねばならない。/わがあやまちを許させたまへ/と祈らねばならぬ」「神の前に本当の謙遜を教へられた」ほか、「神を求める」「讃美」などキリスト教的表現があり、また「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に」という法華経の一節が使われていたり』、『「一念三千の理法や天台の学理は彼女には今は口にするだに僭越ではあるけれども、彼女の理想が小乗的傾向を去って大乗の煩悩即菩提の世界に憧憬と理想をおいてゐる事は疑ひなかった」などの仏教的表現がキリスト教的表現とも混在しながらなされており、最終的には既成の宗教の形にとらわれないでむしろそうした宗教の根底にある宇宙の生命と深く触れ、自己と宇宙との正しい関係を得ることがめざされている』。『トシの意識』は『既成の宗教にとらわれないで宗教の根底にある「宇宙の霊」をめぐる内容を指し示そうとして、その概念を示しやすい既成の宗教の表現を借りたというのが真実だろう』。この『トシの言葉から、宗教の生命に触れようとする姿勢が』『確認される。これらのトシの姿勢と相対して賢治の信仰に対する姿勢を改めて概観すると、一六歳の年に』『歎異砂信仰を父に対して宣言したことからはじまり、一八歳の年の『漢和対照 妙法蓮華経』との出会いにより』、『新たに法華経信仰および日蓮への帰依の思いが深まり、一九二〇(大正九)年末には日蓮主義団体の国柱会に入会してのち翌年一月に家出上京する頃まで、賢治の姿勢は長男として父に信仰的に自立した自分を見せたいあまりに、性急に自らの身を既成宗教や既成団体に徹底帰属させようとするものと見受けられる。しかし、のちにトシの死後において、一九二六(大正一五)年六月頃に善かれた「農民芸術概論綱要」では既成宗教に対して「宗教は疲れて」いると批判の姿勢を見せ、童話「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)においては「ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」と宗教の根底で通じ合う価値観が示され、一九二九(昭和四)年(推定)の書簡』『では「宇宙意志」を第一義として語るようになるなど、トシの姿勢に近づいてくるのである。このように見てくると、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」とトシの死に際して語ったトシの信仰への思いを、賢治は残された人生の歩みのなかで徐々に確認していったといえるように思われるのである』と述べておられる。私はこれに激しく共感する。トシは恐らく、兄を思って日蓮宗の信者であるように、その致死期にさえ振る舞って上げたのだとも思っているくらいである。トシが賢治に対して慈悲深い観音やマリアのように、である。

「苹果」賢治は概ね音の「ひやうくわ(ひょうか)」ではなく「りんご」と読んでいる。リンゴの果実。

「かへつてここはなつののはらの」/「ちいさな白い花の匂でいつぱいだから」「永訣の朝」の朝に引用した、トシのすぐ下のシゲに纏わる、逝去の夜の体験に、

   *

 重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。そして女たちは経かたびらを縫う。そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。

   *

とある。或いは、シゲがこれを語ったのを賢治は聴いたのではなかったか? 実際、後の「靑森挽歌」の中に、

   *

おしげ子たちのあけがたのなかに

ぼんやりとしてはいつてきた

⦅黃いろな花こ おらもとるべがな⦆

たしかにとし子はあのあけがたは

まだこの世かいのゆめのなかにゐて

落葉の風につみかさねられた

野はらをひとりあるきながら

ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ

   *

と出るのである。

 

「ただわたくしはそれをいま言へないのだ」/「(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)」/「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは」/「わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ」前に注したように、彼の言う「修羅」が、実は自身の日蓮宗への信仰への激しい揺らぎであるとするなら、この謂いはすこぶる腑に落ちる。賢治は「信仰」と「修羅」の自身の中のアンビバレントな「ふたつのこころ」を心眼に於いて見詰めている。しかし、それを死を前にして信仰を堅く持っているお前(トシ)――無論、これは実は誤認であると私は思っているが――には「いま」とても「言へないのだ」と賢治は述懐するのである。

「ああそんなに」/「かなしく眼をそらしてはいけない」これは賢治の最後のトシへの、精一杯の(しかしそれは実は〈独り善がりの〉でもある)声掛けである。……トシの視線は永久に賢治と読者から外(そら)され……トシは永遠の眠りに……落ちる……そこに無窮の安寧があるかないか、それは賢治と我々、惨めな生きている者の勝手な謂いである……

 

 なお、底本では、以上の末尾の『註』の後、その次のページ(百九十二ページ相当)をめくると、完全な白紙ページでノンブルもなく、見開きの左ページ百九十三ページから「風林」が始まっている。この仕儀は、パート標題の裏が白紙ページであるものの、パート内で版組としては、本書でここだけにしかない特異点である。これは本書用原稿には一ページを空ける指示は示されていない。出版上では、ここまでの組み方から見ても、ここを詰めて百九十二ページから「風林」を組んで至極、普通である。この白紙ページには私は賢治の本詩篇の余韻を醸しだすという意向が働いているのではないかと強く思うのである。]

2018/11/28

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 松の針

 

       松 の 針

 

  さつきのみぞれをとつてきた

  あのきれいな松のえだだよ

おお おまへはまるでとびつくやうに

そのみどりの葉にあつい頰をあてる

そんな植物性の靑い針のなかに

はげしく頰を刺させることは

むさぼるやうにさへすることは

どんなにわたくしたちをおどろかすことか

そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ

おまへがあんなにねつに燃され

あせやいたみでもだえてゐるとき

わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり

ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

   ⦅ああいい さつぱりした

    まるで林のながさ來たよだ⦆

鳥のやうに栗鼠(りす)のやうに

おまへは林をしたつてゐた

どんなにわたくしがうらやましかつたらう

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言つてくれ

  おまへの頰の けれども

  なんといふけふのうつくしさよ

  わたくしは綠のかやのうへのも

  この新鮮な松のえだをおかう

  いまに雫もおちるだらうし

  そら

  さわやかな

  
terpentine(ターペンテイン) の匂もするだらう

 

[やぶちゃん注:本篇も大正一一(一九二二)年十一月二十七日、トシの死の当日のクレジットを持つ(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であつた)で亡くなつた)。これは「永訣の朝」の冒頭に述べた通り、次の「無聲慟哭」でこのクレジットについては別に考証するものとする。本書以前の発表誌等は存在しない。トシの死の前後に状況は前の「永訣の朝」の私の注を参照されたい。特に全集からの二つ目の引用部に本シークエンスに相当する部分が現われる。この詩篇についても、こんなことはトシは実はしなかったのではないかというような考証を真面目腐ってやっているページを多く見かけるが、それが本当か虚構かを明らかにすることは、本詩篇をしみじみと味わうことから絶望的に遠く離れた行為であることに気づいていない彼らを私は心の底から哀れと思う。それは芥川龍之介が本当に河童の国へ行って「河童」を書いたかそうでないかを延々論議するどこかの国の不毛な国会質疑と同じ、実に馬鹿げたことである。

・「あのきれいな松のえだだよ」は底本では「あのきれいな松のえだよ」であるが、「えだよ」原稿は「えだだよ」で誤植。「正誤表」に載るので、訂した。

「そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ」/「おまへがあんなにねつに燃され」/「あせやいたみでもだえてゐるとき」/「わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり」/「ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた」及び後の「どんなにわたくしがうらやましかつたらう」賢治が自身が自らに望み而もあるべき(ゾレン:ドイツ語:Sollen:当為(とうい))と考えている行動や思想・詩想に対して、それにさえも自分勝手な(トシのことを忘れていた、或いは、忘れることで彼女の死を考えることの絶対の悲哀を拒否しようとしていた(忘れることはしかし実は出来なかった))自分を、どこか、暗に懺悔するというのは、賢治の詩篇はおろか、彼の実人生でも稀有のことだったと私は思っている。私のこの詩篇こそ、賢治の特異点と思うのである。

「ああいい さつぱりした」/「まるで林のながさ來たよだ」賢治によれば、

   *

ああいい さつぱりした

まるではやしのなかにきたやうだ

   *

である。

「ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ」/「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」/「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」/「泣いてわたくしにさう言つてくれ」これは賢治にして肉親への直截の懇請として特異点である。私は思って呟いても決して言葉に綴ることを憚る部類の言辞である点からも、極私的に、頗る特異点なのである。

「綠のかや」「かや」は蚊帳。「永訣の朝」の全集年譜の引用の後半の冒頭、『トシが病臥したのは、宮澤家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家で、八畳七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。あるときは雨がもって大さわぎをしたし、すきま風になやまされるので八畳の病室は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が高く小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない』とある「蚊帳」である。

terpentine(ターペンテイン)」は一般には「テレピン油」(マツ科の樹木のチップ或いはそれらの樹木から得られた松脂を水蒸気蒸留することによって得られる精油。油絵具の薄め液・画用液として用いられることで知られ、塗料やワニスなどの工業溶剤として広く利用される)で、英語では「turpentine」であるが、これはドイツ語(正しくは頭文字は大文字で「Terpentine」)で発音は「テルペンティーン」「松脂」のこと。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 永訣の朝

 

 

 

  無 聲 慟 哭

 

 

        永 訣 の 朝

 

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

うすあかくいつさう陰慘(いんざん)な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

靑い蒪菜(じゆんさい)のもやうのついた

これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

ああとし子

死ぬといふいまごろになつて

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

わたくしもまつすぐにすすんでいくから

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから

おまへはわたくしにたのんだのだ

 銀河や太陽、氣圈などとよばれたせかいの

そらからおちた雪のさいごのひとわんを……

…ふたきれのみかげせきざいに

みぞれはさびしくたまつてゐる

わたくしはそのうへにあぶなくたち

雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち

すきとほるつめたい雫にみちた

このつややかな松のえだから

わたくしのやさしいいもうとの

さいごのたべものをもらつていかう

わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ

みなれたちやわんのこの藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

Ora Orade Shitori egumo

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ

あああのとざされた病室の

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

   (うまれでくるたて

    こんどはこたにわりやのごとばかりで

    くるしまなあよにうまれてくる)

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 

[やぶちゃん注:本書の目次では大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジットを持つ。トシの死の当日である(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)で亡くなった)が、これはどう見ても、この日に本篇以下の三篇(後の「松の針」と「無聲慟哭」)が書き得たとは以下に示す当日の状況から見て到底、思われない。これについては本書の「目次」クレジットの幾つかにある二重丸括弧(⦅ ⦆)の解明を含め、「無聲慟哭」のところで考証したいと考えている。本書以前の発表誌等は存在しない。なお、「そらからおちた雪のさいごのひとわんを……」の末尾のリーダは底本では八点、「…ふたきれのみかげせきざいに」の冒頭のリーダは四点である。

・「Ora Orade Shitori egumo」は底本では頭の「Ora」が「Cra」で誤植しているが(但し、原稿は「(Ora Ora de Shitori egmo)」である。最終校正で他の部分は改めたか。「C」を見落としたのは「O」のカスレと見做してしまったからかも知れない)、「正誤表」にあるので(但し、「誤」を「cra」(「c」に傍点「ヽ」)、「正」を「ora(「o」に傍点「ヽ」)と小文字とするまたしても「正誤表」を誤植してしまっている)、流石にその誤りで示すのは悲惨過ぎるので、原則を破り、正しく大文字とした

 「手入れ本」は宮澤家版が最後の部分に有意な変更をしている。以下に示す。

   *

どうかこれが兜卒の食に變つて

やがてはおまへとみんなとに

聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

   *

「兜卒」はママ。「兜率天」であろうから、誤字(弥勒菩薩が釈迦入滅から五十六万七千万年、現在も、衆生を済度するために修行しているのが兜率天である)。言わずもがなであるが「食」は「しよく(しょく)」で「食べ物」。しかし、これは完全に改悪であり、採れない(「とそつ」の語の響き「食」の単漢字が生理的に私には不快だからである)松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割の最後)によれば、『草野心平は「天上のアイスクリーム」を「兜卒の天の食」に変えた点について、〈アイスクリームも悪くはない。けれども賢治は矢張りアイスクリームをも包含する天の食にしたかったのだろう。訂正された方が厳粛でカッチリしていて「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」にふさわしい、と私も思う。〉と述べてい』るらしいが、私は断然、拒否する。もしこうなっていたら、私のただの語彙感触上からの勝手な憶測であるが、本詩篇が高校の国語教科書に載る率はがっくり下がっていたと思う。賢治は後、本書刊行から二年八ヶ月後の大正一五(一九二六)年十二月発行の『銅鑼』に本篇を再掲しているが、幸いなことに、この改変は賢治の意識の中でも無効となったらしく、以上の本篇とは基本的に有意な異同はなく、ほぼ同じである。なお、他の変更が藤原嘉藤治所蔵本にはあるが、有意なものと思われないので略す。

 なお、本篇の次に「松の針」が配され、その次に「無聲慟哭」が示されるが、その「無聲慟哭」の最終行から、二行空けて、八字下げで、その前の三篇全体への「註」が配されてある(底本の百九十と百九十一ページの見開き)。以下にそれを画像で示しておく。

 

Museidoukokutyuu

 

これは、言うまでもなく、トシが逝ったその日に立て続けに詠まれた(とポーズする)絶唱群(「永訣の朝」「松の針」「無聲慟哭」三篇)の中に用いられた花巻方言(本篇のローマ字表記部一箇所を含む)を標準語訳したものである。こうした注は既に北原白秋の作品等にも認められるが、私はそれでも非常に画期的なものであったと思う。トシと交わした肉声を刻する当たって、その原型としての花巻弁を詩語に写したそれは、非常に高く評価されてよい。私は方言の肉声の強いリアリズムを詩篇で感じて激しく胸打たれたのは、賢治のこれら三篇と、山之口貘の「弾を浴びた島」(リンク先は私の電子化)だけであると言ってよい。

 ここで、校本全集の年譜からトシの死の前後を引用しておきたい。トシ病状は次第に重くなり、大正一一(一九二二)年十一月十九日には、下根子桜の宮澤家の別宅に移していた(既に「高級の霧」で注したように、七月六日の段階で、病状の悪化とともに母イチ(当時四十五歳)も看病疲れとなったことから、下根子桜(現在の花巻市桜町)にあった別宅(後に賢治が独りで自炊生活に入った場所でもある)にトシは移されていた)トシを、豊沢町の実家へ戻している。十一月十九日に豊沢町の自宅に戻った。その八日後にトシは亡くなってしまうのであった。

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号を除去した。下線は私が施した。]

一一月二七日(月) みぞれのふる寒い朝、トシの脈搏甚だしく結滞し、急遽主治医藤井謙蔵の来診を求める。医師より命旦夕に迫るをしらされ、蒼然として最愛の妹を見守る。この一日の緊張したありさまは〈永訣の朝〉〈松の針〉〈無声慟哭〉にえがかれている。

 いよいよ末期に近づいたとき、トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなづくようにして八時三〇分逝く。享年二四歳。押入れに首をつっこんで慟哭する。

一一月二八日(火) 弔問客でごつた返し、お通夜の食事を出すのに家族は追われた。宮津家には下に浄土真宗の、二階に日蓮宗の仏壇があり、賢治はその御曼陀羅に祈りつづける。

一一月二九日(水) 寒い風の吹く日、鍛冶町安浄寺で葬儀が行われる。花巻高女生徒二年以上が門前の両側に整列し、校長の追悼のことばがあった。賢治は宗旨がちがうために出ず、柩を火葬場へ送り出すとき、町角からあらわれて人びとと共に柩に手をかけて運んだ。火葬場は同じく鍛冶町(現在は藤沢町)にある地蔵寺となりの他のそばにあり、うすぐらく陰気な上に、道はじめじめとわるく叔母の梅津セツは着物にゴム靴というありさま、その上火葬場が火事で焼けていたため、野天で焼く始末であった。薪や萱を山のように積んだ。安浄寺の僧侶がかんたんな回向をしたあと、賢治は棺の焼け終るまでりんりんと法華経をよみつづけ、そこにいた人びとにおそろしいような、ふるえるような感動を与えた。遺骨は二つに分けるといい、自分の持ってきた丸い小さな罐に入れた。

   《引用終了》

なお、年譜、この直後の十二月のある日、『はげしい吹雪の日、学校の帰り妹』トシ『に似た女性を見てショックをうける』ともある。これは大正一二(一九二三)年八月一日のクレジットを持つ、次の「靑森挽歌」の残存草稿の一つ「靑森挽歌 三」の中盤に以下のように出現する。私が確かなソリッド・パートと判断する箇所のみを引用する(校本全集第二巻を用いたが、漢字を恣意的に正字化し、促音等も正字に直した)。

   *

私が夜の車室に立ちあがれば

みんなは大ていねむつてゐる。

その右側の中ごろの席

靑ざめたあけ方の孔雀のはね

やはらかな草いろの夢をくわらすのは

とし子、おまへのやうに見える。

「まるつきり肖たものもあるもんだ、[やぶちゃん注:「肖た」は「にた」。]

法隆寺の停車塲で[やぶちゃん注:これは奈良の関西本線の法隆寺駅らしい。]

すれちがふ汽車の中に

まるつきり同じわらすさ。」

父がいつかの朝さう云つてゐた。

そして私だつてさうだ

あいつが死んだ次の十二月に

酵母のやうなこまかな雪

はげしいはげしい吹雪の中を

私は學校から坂を走つて降りて來た。

まつ白になった柳澤洋服店のガラスの前

その藍いろの夕方の雪のけむりの中で

黑いマントの女の人に遭つた。

帽巾に目はかくれ

白い顎ときれいな齒

私の方にちょつとわらつたやうにさへ見えた。

( それはもちろん風と雪との屈折率の關係だ。)

私は危なくんだのだ。

(何だ、うな、死んだなんて

いゝ位のごと云つて[やぶちゃん注:いい加減なこと言って。]

今ごろ此處ら步てるな。)

又たしかに私はさうんだにちがひない。

たゞあんな烈しい吹雪の中だから

その聲は風にとられ

私は風の中に分散してかけた。

   *

 

 なお、年譜には「トシの死―一一月二七日」という注があり、これは非常に重要な事実を我々に伝えて呉れるので、かなり長いが、やはり全文を引用したい。

   《引用開始》[やぶちゃん注:下線は私が附した。]

 トシが病臥したのは、宮澤家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家で、八畳七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。あるときは雨がもって大さわぎをしたし、すきま風になやまされるので八畳の病室は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が高く小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない。母の看病疲れで七月下板子の別宅へ移ってほっとしたトシも、寒さや道の悪さ、食糧運搬の不自由などから一一月一九日再びこの病室へもどるときは「あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くて厭な家だもな」とつぶやいたが、予感通り一週間後に死を迎えたのである。

 二七日朝からみぞれ。七畳半に寝泊りしているつきそいの細川キヨが炭火をまっ赤におこし、火鉢にうつして部屋をあたため、藤本看護婦が蚊帳に入って脈をはかる。トシの脈は一〇秒に二つしか打たない。健康な人なら一〇秒に一二、三打つ。キヨがだれよりも先に二階にいる賢治へしらせ、賢治はすぐ仲町の藤井謙蔵医師へ電話、まもなく羽織袴の医師の来診があって危険がしらされた。家中が緊張し、やせて、白くとがったおとがいにも黒い長い髪のまとわりつくトシを見守っている。トシはみぞれを兄にとってきてもらつてたべ、そえられた松の針でほげしく頰を刺し、「ああいい、さっぱりした、まるで林のながさ来たよだ」とよろこぶ。

 トシは幼少から父の自慢の子であった。新しい婦人の生き方にも関心深かった父[やぶちゃん注:四十八歳。]は、母校の教諭になった娘を誇らしく思っていた。その愛娘がながい闘病生活にあえぎ、いま死へ向かおうとするのを見ては、哀れで言うすべもなく、思わず「とし子、ずいぶん病気ばかりしてひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人になんぞ生まれてくるなよ」となぐさめた。トシは「こんど生まれてくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよに生まれてくる」と答える。また母は愛情の籠ったことばで娘をなぐさめる。

 夜、母の手で食事したあと、突然耳がごうと鳴って聞こえなくなり、呼吸がとまり、脈がうたなくなる。呼び立てられて賢治は走ってゆき、なにかを索める[やぶちゃん注:「もとめる」。]ように空しくうごく目を見、耳もとへ口を寄せ、南無妙法蓮華経と力いっぱい叫ぶ。トシは二へんうなずくように息をして彼岸へ旅立った。八時半である。賢治は押入れをあけて頭をつっこみ、おうおう泣き、母はトシの足元のふとんに泣きくずれ、シゲ[やぶちゃん注:トシのすぐ下の妹。二十一歳。この年の一月に結婚していた。]とクニ[やぶちゃん注:末妹。十五歳。花巻高等女学校四年生。]は抱きあって泣いた。岩田ヤス[やぶちゃん注:賢治の父方の叔母。三十九歳。]が「泣かさるんだ、泣かさるんだ」(泣くのはもっともだ、泣いた方がいいんだ)といい、母は「ヤスさん、トシさんをおよめさんにしないでくやしい」と号泣した。やがて、賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシ梳いた

 重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。そして女たちは経かたびらを縫う。そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。

   《引用終了》

年譜の編者によるものであるが、これだけインパクトの強い年譜の注というのは極めて珍しい。名文である。

 なお、私は高校国語教師三十三年の中でたった一度だけ、この「永訣の朝」を朗読したことがあった(解析的授業はしていない。慥か、「説明しては感動が薄れるだけだね」と言った記憶がある)。賢治を敬して遠ざけ続けた私だったが、実際に音読してみると、この一篇は完全に分析を拒否して、燦然と輝く名詩篇であることが判る。

 

「あめゆじゆとてちてけんじや」既に画像で示した『註』に『あめゆきとつてきてください』とある。なお、後の童話「手紙」の「四」を鬼の首を獲ったように掲げて、これは実はチュンセ(賢治)が「雨雪とつてきてやろうか。」と聴き、ポーセ「うん」がうんと答えたから、そっちが真相で「心象スケツチ」なんだから、これは虚構だ、などと偉そうに薀蓄垂れている阿呆を見かけたが、これはもう賢治を読む資格のない輩の物言いに過ぎぬ(そもそも「心象スケツチ」で無効なものは童話も同じだよ。大馬鹿者が)。さらに言い添えると、私も二十代の頃に耳にし、その瞬間はハッとしたものの、「けんじや」はトシが賢治兄のことを「賢じゃ」(じゃは「者」で男性への尊称接尾語とするのであろう)と呼んでいたというまことしやかな話は、今の私には、いやったらしい甘さを持った、残るべきでない「賢治伝説」の如何にもな腐った「都市伝説」(アーバン・レジェンド)にしか感じられない。

菜(じゆんさい)」(校本全集校異は見落としているが、原稿は「蓴菜」である。但し、「蒪」は「蓴」の異体字であるから問題はない私の好きなスイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。天然の菱の実や蓴菜を採ったことがある私は私の世代(昭和三十二年生まれである)では珍しいであろう。

「これらふたつのかけた陶椀」「これら」というしみじみとした賢治(とトシ)の視線、「ふたつ」である理由、「かけ」ている理由、これらを綜合すれば、これは容易に賢治とトシが小さな頃から使っていた陶器の椀であろうと読める。それは後に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」/「みなれたちやわんのこの藍のもやうにも」でも明らかだ。試みに今調べてみたところ、菅原宮沢賢治「永訣の朝」におけるいくつかの疑問点について : 教材化のための作品研究の試みPDF)に、『「ふたつのかけた陶椀」とは「明らかに兄妹が幼少時に使ったお揃いの茶碗』『であるという点に,異論は出されていない。さらに「ふたつ」とは「自分ととし子の子供のころから共有した生の象徴」とする見解もある』とある。

「まがつたてつぽうだまのやうに」直進するはずの銃弾が幾折れにも左右に曲がって行くかのように、トシの病室から渡り廊下・母屋・その廊下から庭へと、走ってゆく賢治の姿を見る。この彼の事実としての曲折動態は、後の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」の直線の志向の決意に応じて、そちらを際立たせることとなる。

「蒼鉛(さうえん)いろ」「蒼鉛」はビスマス(Bi)で、純正のそれは淡く赤みがかった銀白色を呈する。

「ああとし子」/「死ぬといふいまごろになつて」/「わたくしをいつしやうあかるくするために」/「こんなさつぱりした雪のひとわんを」/「おまへはわたくしにたのんだのだ」/「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」私のこの下りにキリストを感ずる。マリアよりもキリストを感ずる。或いはマリア的キリストを感ずると言うべきか。トシはあらゆる生きとし生けるものの象徴の一人である「わたしに」、「こんなさつぱりした」「あめゆじゆ」、「雪のひとわんを」「とてちてけんじや」と「たのんだ」ことによって、あらゆる原罪を背負った人間たちを、涼やかに「ひとわん」に掬い(救い)あげて呉れたのだ、と私には響き返ってくる。

「銀河や太陽、氣圈などとよばれたせかいの」/「そらからおちた雪のさいごのひとわんを」ここでは常に膨張する幻想宇宙も所詮、ちっぽけなものへと縮まってしまっているように感じられる。賢治が普段得意としている無限の天文学的スケールの幻想が、トシとの永遠の訣別の間際になって、それも所詮、実在ではないちっぽけな仮想体に過ぎないという無常の真空を賢治は感じているのではないか?

「…ふたきれのみかげせきざいに」「二切れの御影石材に」。花崗岩の別名というか、建築用石材名である御影石(神戸市御影が産地として知られることに由来)が庭に置かれていたのである。本詩篇では具体的な人工物は極度に外されて画面外へ押し出されてある。最初から戻って見ても、実に「靑い菜(じゆんさい)のもやうのついた」二つの欠けた「陶椀」一つである。この仕儀によって、トシに含ませる「みぞれ」の純「白」の「天上のアイスクリーム」の清らかなイメージがしっかりと醸成されるようになっているのである。

「雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)」氷水化している「みぞれ」(霙)は固体と液体という物性様態の異なる二つの部分からなるので「二相系」で腑に落ちるが、それ以上にその二相は完全に分離せず、溶け合って「霙」という一体を形成している。さらに見れば、先の菅原氏の論文にも出るように、先の「ふたつ」(二つ)の陶椀といい、「ふたきれの」(二片)の御影の石材といい、この「二」は賢治とトシのみを画面の中に封じ込めるための暗号であることも容易に判る。

Ora Orade Shitori egumo「おら、おらで、しとり、えぐも」。『註』によれば、『あたしはあたしでひとりいきます』。痛烈にして悲痛な直接話法である。彼がこれのみを最後の最後にローマ字とした気持ちが私にはいたく判る。原稿では当初は「おらおらでしゆとり行(え)ぐも」としていたものを、かく書き換えている。

「くらいびやうぶやかやのなかに」/「やさしくあをじろく燃えてゐる」/「わたくしのけなげないもうとよ」ここを読む時、遠く、本「心象スケツチ 春と修羅」の「序」の冒頭の謎の詩句、「わたくしといふ現象は」/「假定された有機交流電燈の」/「ひとつの靑い照明です」/「(あらゆる透明な幽靈の複合体)」/「風景やみんなといつしよに」/「せはしくせはしく明滅しながら」/「いかにもたしかにともりつづける」/「因果交流電燈の」/「ひとつの靑い照明です」/「(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」が目から鱗が落ちる如く、氷解するのだと私は思う。

「(うまれでくるたて」/「こんどはこたにわりやのごとばかりで」/「くるしまなあよにうまれてくる)」『註』によれば、

   *

またひとにうまれてくるときは

こんなにじぶんのことばかりで

くるしまないやうにうまれてきます

   *

である。

「聖い」「きよい」。

「資糧」原義は「資金と食糧」であるが、ここは生きとし生ける衆生の魂に真に資するところの聖なる食物の意。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 山烏(やまがらす) (ミヤマガラス)

 

Yamagarasu

 

やまからす

      【今云深山烏】

山烏

 

本綱山烏似鴉烏而小赤觜穴居

△按此烏深山中希有之小於烏而觜大頭身黑光色胸

 背有白斑尾黑而長一尺許俗名深山烏

  風雅大井川ゐ杭にきゐる山烏うのまねすとも魚はとらじな公朝

一種有川烏 谷川有之小鳥【出于水禽類】

鴉舅【一名鴉兢】 似鴉而小黑色嘴邊有毛甚勁能逐鴉鴉見

 之則避

鷹舅【一名鷹兢】 似鷹而小蒼色能逐鷹蓋此二物本朝未見

 

 

やまがらす

      【今、「深山烏」と云ふ。】

山烏

 

「本綱」、山烏は鴉烏〔(からす)〕に似て、小さく、赤き觜。穴居す。

△按ずるに、此の烏、深山の中に希れに、之れ、有り。烏より小さく、觜、大きく、頭・身、黑光色。胸・背、白斑有り。尾、黑くして長さ一尺許り。俗に「深山烏」と名づく。

  「風雅」

    大井川ゐ杭〔(ぐひ)〕にきゐる山烏

       うのまねすとも魚はとらじな

                   公朝

一種、「川烏〔(かはがらす)〕」有り。谷川に、之れ、有り。小鳥なり【「水禽類」に出づ。】

鴉舅〔(あきう)〕【一名、「鴉兢〔(あきよう)〕」。】 鴉に似て、小さく、黑色。嘴の邊に毛有り。甚だ勁〔(つよ)〕く、能く鴉を逐ふ。鴉、之れを見れば則ち避〔(に)〕ぐ。

鷹舅〔(ようきう)〕【一名、「鷹兢〔(よきよう)〕。】 鷹に似て、小さく、蒼色。能く鷹を逐ふ。蓋し、此の二物、本朝〔には〕未だ見ず。

[やぶちゃん注:和名としてはカラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus を指すが、実際には現行では先の「大觜烏」ハシブトガラスCorvus macrorhynchos をも、かく呼称する。ウィキの「ミヤマガラス」を引く。分布は『ユーラシア大陸中緯度地方』で、『日本では、越冬のため飛来する冬鳥で、かつては本州西部と、特に九州に飛来したが、現在はほぼ全国に飛来する』。なお、『ニュージーランドにもかつてイギリスからの移民によって、害虫駆除の目的で持ち込まれ』、『帰化している』。全長四十七センチメートル、翼開長九十センチメートルで、『全身は黒い羽毛で覆われる。嘴は細く、成鳥では基部の皮膚が剥き出しになり白く見える』。『森林や農耕地に生息する。大規模な群れを形成する。コクマルガラス』(前項の「燕烏」コクマルガラス Corvus dauuricus)『と混群を形成することもある。樹上にコロニーを形成し、木の枝等をお椀状に組み合わせた巣を作る』。『食性は雑食で昆虫類、鳥類の卵や雛、果実、種子等を食べる』。一回に三~五個の『卵を産む。主にメスが抱卵し、その間オスはメスに対し』、『捕らえた獲物を与える』習性を持つ、とある。

「赤き觜。穴居す」嘴の色や「穴居」が文字通りの意味であるならば、他種を指している可能性がある。

「風雅」「大井川ゐ杭〔(ぐひ)〕にきゐる山烏うのまねすとも魚はとらじな」「公朝」所持する「風雅和歌集」を見たが、この一首は載らない(彼の別の一首は載る)。調べてみたところ、これは「夫木和歌抄」の誤りであることが判明した。私は同歌集を所持しないが、名夢子氏のブログ「徒然名夢子」のこちらで確認出来た。それによれば、「狂歌」とし、以下のように解説されておられる。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の行空けを詰めた。]

 

権僧正公朝(ごんのそうじょう・きみとも)  夫木和歌抄

 大井川堰杙(ゐぐい)に来居る山烏 鵜のまねすとも魚は捕らじな

 

 「大井川」は「大堰川」で丹波山中から保津峡、嵐山を経て流れる川。亀岡では大堰川、嵐山では保津川、五条通を横切る当たりから桂川と名を変える。小式部内侍のよむ歌の「生野」では大堰川と呼ばれてる。「堰杙」は井堰(いせき)という川の水の流量を変える堰(せき)で、杙(杭)が川底に打ち込まれている。堰杙では川の流れがせき止められるため、川魚が集まる。それをねらって山烏(からす)が鵜のまねをするように潜って魚を捕ろうとしているが、おぼれてそれどころではない、というのが歌意。ことわざの「鵜のまねする烏が水に溺れる」の出本が、この和歌である。枕も韻もみごとに踏まえているし、面白い。

 この歌で、最後の句「さかなはとらしな」は字余りだ。「さ」が字余りだと「かなはとらしな」、「な」が字余りだと「さかなはとらし」。普通に作れば「魚は捕らじ」で良いはずだが、わざわざ字余りにしている。すなわち「さ」と「か」を考えよ、という作者の意図だ。「さか」すなわち「釈迦」である。「釈迦」とかいて「しゃか」と読ませているだけで、呉音では「さか」だ。だから

「山烏といえども、川堰でもがいている魚を手軽に殺生しようとしないのは、お釈迦様のおかげなのだろうか」

という解釈もできる。作者が僧侶だけに。

 また、中世のころも京での死人は全て川に流して捨てた。するとこういった堰で死体がひっかかって、高貴な人の骸から衣服を剥ぎ、死体を上手に処理する、河原者が居た。

「戦乱が長く続き、民も疲弊して、戦地を逃れ京にやってきた人々が、河原者のまねをして、堰にひっかかった死体から衣服をはぎ取ろうとして、誤って足を滑らせて溺れている、なんたることだ、この世にはお釈迦様の教えは、もう伝わっていないのか」

という、解釈も可能だろう。

 なぜ、このような後者の解釈が生まれるのかというと、「さか」の字余りだけでなく、「堰杙」という詞が「共食い」に通じるからだ。もしくは「居喰い」。河原者は、川に死体が何時流れてくるかと、じっと川を眺めて一日を過ごしているのだ。流れてくると思うと、皆が一目散に堰を目掛けて水中を走り、奪い合う。「おおいかわ」、「ゐくい」、「来居る」、それぞれに「い」の音が入っている。「い」=「生く」であり「依(よりどころ)」である。

 最後の句「魚」を「うを」とすると釈迦の姿は消える。「うのまねすとも・うをはとらしな」。すると、上句で「生きる」ために山烏は水に飛び込むが、鵜のようには魚を捕れない。「う」=「生む」に通じているので、生きてはいけないとなる。こちらは悲惨だ。釈迦の慈悲すら無いわけだから、川を流れてくる死体にありつけないと、その人々は死んでいくしかない。そういう彼らでさえ、衣服ははぎ取られるのだ。実に、悲惨な世だったではないか。

 この歌が、ことわざになった背景というのがよくわかる。

   《引用終了》

和歌嫌いの私には想像だにしなかった深淵がこの一首にはあることを、名夢子氏に教えられた。心より感謝申し上げるものである。なお作者の権僧正公朝(ごんのそうじょうきんんとも)は生没年未詳の謎の人物であるが、「拾遺風体集」「夫木和歌抄」に多数入集している。所持する平成三(一九九一)年三弥井書店刊「風雅和歌集」の「作者略伝」によれば、『北条朝時男、実は従三位八条実文男か』とし、三井寺の所属で、関東に在ったとする。八条実文というのはよく判らぬが(こちらの系図によるなら、正親町(おおぎまち)三条家の八条姉小路実文らしい。子を「公朝」としている)、北条(名越)朝時(ともとき 建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)はよく知っている。第三代執権北条泰時の異母弟である。この一首は「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」にあり、「日文研」の「和歌データベース」でも確認した。正字表現で改めて示しておく。

   *

 大井川堰杙(ゐぐひ)に來居(きゐ)る山烏

    鵜の眞似(まね)すとも魚は捕らじな

   *

「川烏〔(かはがらす)〕」スズメ目カワガラス科カワガラス属カワガラス Cinclus pallasiiウィキの「カワガラス」によれば(下線太字やぶちゃん)、『ヒマラヤ北部からインドシナ半島北部、中国、台湾、サハリン、日本、カムチャツカ半島に分布する』。『生息地では、基本的には留鳥である』。『日本では、北海道、本州、四国、九州、屋久島にかけて広く分布する』。『留鳥として、河川の上流から中流域にかけてと』、『山地の渓流に生息する』。全長は二十一~二十三センチメートル、翼開長は約三十二センチメートル、体重六十五~九十グラムで、『ヒヨドリやツグミより』、『少し小さい。全身が濃い茶色(チョコレート色』。『光の具合により』、『赤茶色に見えることもある』『)の羽毛におおわれているのが名前の由来だが、カラスの仲間ではない』。『尾羽は短めで黒味の強い焦茶色』。『目は茶色で、目を閉じると白いまぶたが目立つ』。『雌雄同色』。『くちばしは黒く』、『足は灰色でがっちりしている。ミソサザイを大きくしたような体形で、短めの尾羽を立てた独特の姿勢をとる』。『幼鳥は喉から腹にかけて』、『白くて細かいうろこ模様がある』。『平地から亜高山帯の川の上流から中流の岩石の多い沢に生息する。冬期(積雪期)には下流側に生息場所を移動することもある。一年中、単独(非繁殖期は単独で行動している』『)もしくは番いで行動し群れを形成することはない。つがい形成期には、一夫二妻行動をとることがある』。『ピッピッと鳴きながら、速い羽ばたきで川面の上を一直線に飛翔する』。『頑丈な脚で岩をつかみ、水流の圧力を利用して川底を歩きながら』、『水中で捕食を行う』。『尾羽を上下に動かしたり、風切羽を半開きにしたり、まばたきし白いまぶたを見せながら、石や流木の上で休息する』。『食性は動物食』で、『水に潜ってカゲロウ、カワゲラなどの幼虫などの水生昆虫やカニなどの甲殻類、小魚を捕食する』。『水面上を泳ぎながら首を水中に入れて覗き込み、頻繁に潜水する』。『水中では水底を這うように歩き回って川底の餌を探し、『渓流の素潜り名人』と称されることがある』。『水にもぐっているときは羽毛の間に空気がふくまれるため、全身が銀色にみえる』。『ほかの鳥にくらべて繁殖を始めるのが早く』、十二月頃からオスが囀って、『縄張り宣言を行う。暖地では』一『月頃から繁殖を始める』。『滝の裏の岩の隙間にコケや植物の根で半球状のドーム形の巣をつくる』(思うに、前の「本草綱目」の「穴居」とは本種を指しているのではあるまいか?。『岩の陰やコンクリート護岸の排水口、橋桁』『などの人工物にも巣を作ることもある』。『造巣の際の雌雄の貢献度はほぼ等しく分業は行われない』。『日本では』、二~六月に一腹四~五個の『卵を産む。抱卵日数は』十五~十六『日で、雌が抱卵する育雛は雌雄共同で行う』。『雛は』二十一~二十三『日で巣立つ。雛は飛べない内から、水中を泳いだり歩くことができる』。『オスは』十二『月頃の繁殖期から「ピピピ チュシュ ピッピッ ピュュ」と鳴き始める』。『セグロセキレイ似た濁った声で「チーチージュピチリリ」と複雑に鳴く』。『地鳴きは「ピッ ピッ」』である、とある。

『「水禽類」に出づ』先行する第四十一 水禽類 河鴉 (カワガラス)を参照されたい。

「鴉舅〔(あきう)〕【一名、「鴉兢〔(あきよう)〕」。】」中文の鳥類学サイトを調べたところ、これは先に林禽類 鳩(ぎうく) (謎の鳥「くろもず」(?))の注で出したスズメ目オウチュウ(烏秋)科オウチュウ属オウチュウ Dicrurus macrocercus が所属するオウチュウ属Dicrurus に比定してあるのを発見した。色も黒いし、台湾の漢名にも「烏鶖」「烏秋」がある。中部・東部・南部と、台湾にそれぞれ亜種が一種ずつ棲息する。尾がYの字と言って呉れれば、苦労せずに済んだのに! 良安先生!

「鷹舅〔(ようきう)〕【一名、「鷹兢〔(よきよう)〕。】」「欽定四庫全書」の「山堂肆考」巻二百三十七(明の彭大翼撰)の「禽」に「鴉舅」として「此鳥似鴉而小黑色能逐鴉鴉見避之故名鴉舅一名鴉兢一種似鷹而小蒼色能逐鷹亦名鷹舅形頗類脊令」とあるのを見つけたぎりで、種同定に至らない。識者の御教授を乞う。]

芭蕉忌

本日2018年11月28日(陰暦では今日は10月21日) 
   元禄7年10月12日 
はグレゴリオ暦では 
   1694年11月28日 
である。
 
324年前の今日の午後四時頃、松尾芭蕉は亡くなった――
 
 
 芭蕉枯れて死ぬのはいつも他人也    唯至

 
 
 

和漢三才圖會第四十三 林禽類 燕烏(ひぜんがらす) (コクマルガラス)

 

Hizengarasu

 

ひぜんからす  白脰 鬼雀

       【今云肥前烏】

燕烏

 

本綱燕烏似鴉烏而大白項者以爲不祥

△按燕者乃國名【非燕雀之燕】九州肥前多有之故稱肥前烏

 

 

ひぜんがらす  白脰〔(はくたう)〕

        鬼雀〔(きじやく)〕

       【今、「肥前烏」と云ふ。】

燕烏

 

「本綱」、燕烏、鴉烏〔(からす)〕に似て大〔きく〕、白き項〔(うなじ)〕の者〔なり〕。以つて不祥と爲す。

△按ずるに、燕とは乃〔(すなは)〕ち國の名〔なり〕【燕雀〔(えんじやく)〕の燕〔(つばめ)〕に非ず。】。九州肥前、多く之れ有り。故に「肥前烏」と稱す。

[やぶちゃん注:スズメ目カラス科カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus

 既に「慈烏」の冒頭注で指摘しておいたが、現行では「ヒゼンガラス」を多くカラス科カササギ属カササギ Pica pica の別名としているが、後(次の次)に独立項で「鵲」が出る以上、良安は別種としてこれを認識しており、形態と分布から見て、良安が指しているのは、ほぼ「コクマルガラス」に違いないことが判明した。ウィキの「コクマルガラス」によれば、『種小名dauuricusは、ダウーリア地方(「ダウール族の国」、バイカル湖の東)に由来』するとあり、『大韓民国、中華人民共和国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、日本、モンゴル人民共和国、ロシア東部』に分布し、『日本には越冬のため』に、『本州西部、特に九州に飛来する(冬鳥)。(稀に北海道、本州東部、四国にも飛来することがある。)』。全長三十三センチメートルで、本邦に飛来するカラス属の中では最小種である(この事実は、本条の「鴉烏〔(からす)〕に似て大」という謂いと矛盾する。後掲引用参照)。『全身は黒い羽毛で覆われ、側頭部に灰色の羽毛が混じる。頚部から腹部の羽毛が白い淡色型と、全身の羽毛が黒い黒色型がいる』。『嘴は細く短い』。『森林や草原、農耕地などに生息する。ミヤマガラスと混群を形成することもある』。『食性は雑食で、昆虫類、鳥類の卵や雛、果実、種子などを食べる』。『繁殖形態は卵生。樹洞などに集団で巣を作り』、一『回に』四~六『個の卵を産む。主にメスが抱卵し、その間はオスがメスに捕らえた獲物を与える。給餌は雌雄共に行う』とある。同ウィキのコクマルガラスの画像を、ウィキの「カササギ」カササギの画像と比べて見て貰うと判るが、項から腹部にかけて白いのは、下から見上げたり、一定の距離で離れて見ると、カササギに似ていなくもない。私の言いが私の勝手な思いつきでない証拠に、個人論文ブログ「古事記・日本書紀・万葉集を読む」の「八咫烏について 其の二」には(下線太字やぶちゃん)、『[やぶちゃん注:前略。]和漢三才図会に「燕烏」と記されるコクマルガラスが思い浮かぶ。「案ずるに、燕は乃ち国の名なり〈燕雀の燕に非ざる也〉。九州肥前に多く之れ有り。故に肥前烏と称す」と解説されている。大陸に広く分布し、列島には多くは九州北部に冬鳥として、ないし、迷鳥として飛来する。体長は』三十三センチメートル『ほどで、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ミヤマガラスが』五十センチメートル『内外であるから』、『ずいぶん小さく、ハトほどの大きさである。和漢三才図会には、大きさの記述に誤りがあるようである。コクマルガラスには淡色型と暗色型があるが、額から顔の前面、喉から胸までは黒く、後頭から首側、腹にかけては白く、背や尾のほうになると再び黒くなっている。つまり、頭のほうから見れば、外側から黒、白、黒の三重丸になっている。的の印に見えるためか、黒丸烏と書き慣わされている。爾雅・釈鳥に「燕は白』脰『烏(こくまるがらす)」、註に「小爾雅に云ふ。白き項(うな)にして、羣(むらが)り飛ぶは、之を燕烏(こくまるがらす)と謂ふ」とある。ただし、黒丸烏をコクマルガラスと訓むのは重箱読みである。元来』『のやまとことばとしては、コクマルは、コ(子)+クマル(分)の意味として名づけられた可能性が高い』。『コクマルガラスは、止まっている限りにおいて、体の模様がカササギ(鵲)によく似る。カササギは鵲烏とも書く。漢籍を頼りに七夕の夜に列をなして天の川に架かって橋となり、牽牛と織姫とが出会っていたと知られていた。日本では現在、旧肥前国の佐賀平野にのみ生息し、天然記念物に指定されている。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に移入、定着したともいわれている。古代の文献に』、『其[倭]の地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。(魏志・倭人伝)』/『難波吉師磐金(なにはのきしいはかね)、新羅より至りて、鵲二隻(ふたつ)を献る。乃ち難波杜(なにはのもり)に養(か)はしむ。因りて枝に巣(すく)ひて産(こう)めり。(推古紀六年四月条)』/『新羅王(しらきのこにきし)の献物、馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻、及(また)種々(くさぐさ)の物あり。(天武紀十四年五月条)』/『此の[船引]山に鵲住めり。一(また)、韓国(からくに)の烏といふ。枯木の穴に栖み、春時(はる)見えて、夏は見えず。(播磨風土記・讃容郡)』『とある』。カササギは『本邦には九州北部に在来していたか、いたとしても極めて数が少なかったようである。江戸期には、カチガラス、唐ガラス、高麗ガラス、朝鮮ガラス、肥後ガラスとも呼ばれていた。和漢三才図会に、コクマルガラスは肥前烏であったから、兄弟の間柄のようである。カササギの名の由来についても、朝鮮語との関連から解かれることが多いが、和名抄に、「鵲 本草に云はく、鵲〈且略反、加佐々岐(かささぎ)〉は、飛駮馬、泥々脳の名也といふ」、また、新撰字鏡に、「嘖 側伯反、至也、呼也、烏鳴く、又加左々支(かささぎ)鳴く」とある。紀に、新羅から到来したものとして記されており、ヤマト朝廷に人にとっては、新羅や九州北部との関連が深い鳥であると捉えられていたらしい[やぶちゃん注:以下略。]』とあるのが、頼りになる証左と言えよう。

「白脰〔(はくたう)〕」「脰」は「項(うなじ)」の意。

「鬼雀〔(きじやく)〕」「本草綱目」に載る異名であるから、この「鬼」は「死者」の謂いであろう。既に「慈烏」で注したが、五行説では「色」を、「木」に「青」、「火」に「紅(赤)」、「土」に「黄」、「金」に「白」「水」に「玄(黒)」を配するのことよく知られているが、「五志」(感情や性格に相当する)は、「木」に「怒」、「火」に「喜」、「土」に「思」、「金」に「悲()「水」に「恐()を配することから、中国でも、古来から、白と黒の組み合わせは縁起が悪いとされてきた(中国の喪服は白)。さればこそ、本種の白黒という組み合わせは死をシンボライズする極めて「不祥」なもの「と爲す」ことは明らかである。だからこそ「白き項〔(うなじ)〕の者〔なり〕。以つて」と理由が語られているのである。

「肥前烏」肥前は現在の佐賀県と、対馬市・壱岐市を除く長崎県に相当する。

「燕とは乃〔(すなは)〕ち國の名〔なり〕」周・春秋・戦国時代に亙って存在した「戦国の七雄」の一つである燕(えん 紀元前一一〇〇年頃~紀元前二二二年)国。現在の河北省北部及び現在の北京を中心とする地域を支配した。首都は「薊(けい)城」で、現在の北京に当たる。

「燕雀〔(えんじやく)〕」ツバメやスズメのような小鳥。専ら、「史記」の「陳渉世家」によって、秦に反旗を翻した陳勝が、その前、日雇いの人夫であった頃、同僚らに「苟富貴無相忘」(苟(も)し富貴(ふうき)なりとも、相ひ忘るること無からん)と志に基づく感懐を口にした際、それを聞いた農地の雇主が嘲笑して揶揄した。それに彼が答えた、「嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉」(嗟乎(ああ)、燕雀安(いづ)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」/反語。「ツバメやスズメのような小さな鳥には、オオトリ(カモ目カモ科ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus 或いは大型の水鳥)やコウノトリ(コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana)のような大きな鳥の志すところは所詮判らぬものだ)と嘆いたことから、「度量の小さい人物・小人物」の意で使われることとなったのは周知の通り。]

2018/11/27

和漢三才圖會第四十三 林禽類 大觜烏(はしぶと) (ハシブトガラス)

 

Hasibuto

 

はしふと 烏鴉 老鴉

     鸒  鵯

     楚鳥

大觜烏

 

本綱大觜烏似慈烏大觜而腹下白不反哺者也狀大於

慈鳥性貪鷙好食善避繒繳

[やぶちゃん注:「本草綱目」の「大觜烏」を見ると、「集解」に「時珍曰、烏鴉大觜而性貪鷙好鳥善避繒繳」とあり、「好食」は良安の誤写であることが判った。訓読では特異的に訂した。]

肉【溫臭】 不可食止治疾勞咳及小兒癇疾

 

 

はしぶと 烏鴉〔(うあ)〕 老鴉

     鸒〔(よ)〕 鵯〔(ひつきよ)〕

     楚鳥〔(そてう)〕

大觜烏

 

「本綱」、大觜烏、慈烏〔(からす)〕に似て、大〔なる〕觜〔(くちばし)〕にして、腹の下、白く、反哺せざる者なり。狀〔(かたち)〕、慈鳥〔(からす)〕より大きく、性〔(しやう)〕、貪鷙〔(どんし)〕にして、鳥〔(とり)〕を好み、善く繒繳〔(いぐるみ)〕を避く。

肉【溫、臭。】 食ふべからず。止(たゞ)勞咳及び小兒の癇疾を治す[やぶちゃん注:最後は思うに「本綱綱目」にある「主治」の条の、処方部分を飛ばして病名だけを繋げた際、一部の字(具体的には「治疾」の「疾」で原典の「主治瘦病」の「瘦」を省略すべきところを採り、しかも「疾」と誤った)を誤判読したものと思われることから、「治疾」の「疾」を無視して書き下した。]。

[やぶちゃん注:珍しく、良安の評語がないスズメ目カラス科カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos。本邦で単に「カラス」と言った場合は同属の前項烏」=ハシボソガラス Corvus corone 或いは本種を指す。ウィキの「ハシブトガラス」から引く。『ユーラシア大陸東部(東洋区、旧北区東部)に分布する』。『日本では留鳥として、小笠原諸島を除き全国で、低地から山地まで幅広く分布する』。全長五十六センチメートル、翼開長一メートル、体重五百五十~七百五十グラム『ほどで、全身が光沢のある黒色をしており、雌雄同色。ハシボソガラスに似るが』、『やや大きく、嘴が太く上嘴が曲がっているところと、額(嘴の上)が出っ張っているところで判別できる。なお、突然変異で白い個体が出現することもあり、これはアルビノまたは白変種と考えられる』。『幼鳥は虹彩の色が青や灰色で、口の中もピンクであるなど、成鳥との外見的相違が目立つ』。『英名 "Jungle Crow" も示すように、元来は森林に住むカラスであり、現在も山間部など森林地帯に広く分布しているが、近年日本では都市部において急速に分布を拡げた』。『食性は雑食で、昆虫や木の実、動物の死骸など、あらゆるものを食べる。特に脂質を好み、石鹸や和蝋燭を食べることもある。また、小鳥やネズミなどの生きた小動物を捕食することもある。主に電柱や高木上など高所から地上を見下ろして餌を探し、餌を見つけると下りて行ってとり、高所に戻って食べる。鋭い嘴は、つつくだけでなく』、『咬む力にも優れており、肉なども引きちぎって食べることができる。生態が類似するハシボソガラスよりも肉食性が強い』。『産卵期は』四『月頃で、主に樹林内の大木に木の枝などを用いた巣を作り』二~五『卵を産む。抱卵日数は約』二十『日で、メスのみが抱卵する。雛への給餌は雌雄で行い、雛は孵化してから約』一『か月で巣立つ。その後約』一『か月は家族群で行動し、独立する。若鳥は約』三『年間』、『群れで行動し、その後』、『ペアで縄張りを構える』。『夜間』、『人が立ち入る事の無いよく茂った森に集団ねぐらをとる習性があり、冬期には特に多数が集まる』。『鳴き声は「カー、カー」と澄んでおり、ここでもハシボソガラス(少々濁る)と判別できる』。『頭のいいカラスは、雪を水の代わりに浴びる「雪浴び」や、アリを羽毛になすりつけたり、巣の上に伏せてアリにたからせる「蟻浴(アリの持つ蟻酸によって、ハジラミを退治している)」、銭湯の煙を浴びる「煙浴」など、いろいろな入浴方法を実践している』。『寿命は飼育下では約』二十『年、野生下では約』十『年とされる』。『前述のように元来は森林などに住む鳥であったが、近年都市化が進んだ日本では都市部においても分布を拡げており、「都会の鳥」としてのイメージが定着した』。『何でも食糧にしうるハシブトガラスにとって都市部は食糧が豊かであったこと、止まり木代わりになる構造物が入り組んでいること、また天敵となる猛禽類が住めなくなった事などが相まって、その数は激増し、早朝に群れで生ゴミを漁る光景や、洗濯物を干す針金製ハンガーを集めて営巣する様子などが各地で観察されるようになった』。『近年』、『都会で急激に数を増やしたのには、自治体により黒色のゴミ袋に代わり』、『透明・半透明のゴミ袋の使用が義務づけられたため、視覚に』よって『餌を探すカラスにとって』、『ゴミを漁りやすくなった事が原因の一つとして指摘されている』。『その対策として、ゴミ置き場にネット等を用いてカラスがゴミを漁れないようにする、夜間のゴミ収集を行い』、『カラスの行動する時間にゴミを残さないなどの方法』『がとられた』。『また』、二〇〇四年には、四色型『色覚であるカラスの目の特性を逆手にとり、紫外線を遮断する特殊な顔料(企業秘密)を混ぜ、カラスには中身をわからなくした黄色いポリエチレンのゴミ袋を、大倉工業と三井化学が宇都宮大学農学部杉田昭栄教授の協力で開発した。コストは従来のゴミ袋よりも高いが、大分県臼杵市や東京都杉並区などで試験的に導入されている』。『また、都市部では街路樹や電柱などでも営巣し繁殖を行うが、本能的に気性が荒くなりがちな』四~七『月の繁殖期においては、時に』、『巣の近くを歩く人間を攻撃(後頭部への蹴り)することもある』。『成鳥は滅多にトラップにかからないが、若鳥は経験不足と好奇心から捕まってしまう事がある』。『カラスは非常に知能の高い鳥で、トラップやカカシを見抜く。記憶力も高く、石や銃で狙われた経験があるものは、石を拾おうとしたり傘をライフルのように構えただけで逃げ出す。反面、幼鳥から飼い馴らしたカラスは人間に非常によく懐』(なつ)『き、トイレを覚えたり、飼い主の肩にとまって眉毛を丁寧に毛繕いしたり、さらにはキュウカンチョウ』(スズメ目ムクドリ科キュウカンチョウ属キュウカンチョウ Gracula religiosa)『のように人間の言葉を真似て喋ったりと、愛玩鳥として最も優れた特性を持つ』とある。

「反哺」前項「烏」で既出既注。

「貪鷙〔(どんし)〕」「鷙」は「荒い」の意(ワシ・タカ等の猛禽類を指す語でもある)。貪欲で獰猛なこと。

「鳥〔(とり)〕を好み」同じ鳥類を食うことを好み。

「善く繒繳〔(いぐるみ)〕を避く」「繒繳〔(いぐるみ)〕」は現行では「矰繳」が普通。「射(い)包(くる)み」の意で、飛んでいる鳥を捕らえるための仕掛けで、矢に網や長い糸を附けて、当たると同時にそれが絡みつくようにしたものを指す。それを巧みにかわすというのである。知能の高いカラスなればこそである。

「勞咳」結核。

「小兒の癇疾」「疳の虫」によって起こるとされた小児の神経症。「夜泣き」や「ひきつけ」などの発作症状が主体。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 栗鼠と色鉛筆

 

        栗鼠と色鉛筆

 

樺の向ふで日はけむる

つめたい露でレールはすべる

靴革の料理のためにレールはすべる

朝のレールを栗鼠は橫切る

橫切るとしてたちどまる

尾は der Herbst

 日はまつしろにけむりだし

栗鼠は走りだす

  水そばの苹果綠(アツプグルリン)と石竹(ピンク)

たれか三角やまの草を刈つた

ずゐぶんうまくきれいに刈つた

綠いろのサラアブレツド

  日は白金をくすぼらし

  一れつ黑い杉の槍

その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は

古い壁畫のきららから

再生してきて浮きだしたのだ

  色鉛筆がほしいつて

  ステツドラアのみぢかいペンか

  ステツドラアのならいいんだが

  來月にしてもらひたいな

  まああの山と上の雲との模樣を見ろ

  よく熟してゐてうまいから

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年十月十五日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は有意な変更と思われないので略すが、菊池曉輝氏所蔵「手入れ本」では最終連六行総てに「☓」印を附し、藤原嘉藤治所蔵本の一本(現在、所在不明)では、その前の「その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は」から以下総てを「*」で挟んで抹消を示している。本詩篇を以って「東岩手火山」パートは終り、遂に「無聲慟哭」パートがやってくる。トシの死はこの翌月十一月二十七日のことであった。

・「アツプグルリン」のルビはママ。原稿は「アツプルグリン」で誤植であるが、「正誤表」にはない。「手入れ本」や全集は訂する。

「栗鼠」哺乳綱齧歯目リス形亜目リス科 Sciurinae 亜科 Sciurini 族リス属リス亜属ニホンリス Sciurus lis

「樺」既に注した通り、賢治が「樺」と書く時は概ね「白樺」(ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica)を指す。但し、松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本篇の解説(分割版の最初)を見ると、「宮澤賢治語彙辞典」では『この詩の場合は「ダケカンバである可能性が大きい」と』するとある。しかし、ブナ目カバノキ科カバノキ属ダケカンバ Betula ermanii はシラカンバによく似ているが、それよりもさらに高い高度に分布する樹種(漢字表記「岳樺」がそれを物語る。シラカンバより樹皮がかなり赤茶色がかっていること、葉に少し光沢があること(シラカンバの葉には光沢はない)ので識別できる)であり、私は以下に示すロケーションを考えると、やはりシラカンバでよいように思われる。さても以上の点景対象から、恐らくは岩手軽便鉄道(現在のJR釜石線)沿線で花巻からそう遠くないところがロケーションであると思う。

「靴革の料理のためにレールはすべる」「つめたい露」によって湿った革靴の臭いが結果して立ち昇ってくるのを、「レール」が「すべる」の原因へと転倒して表現したものであろう。

「橫切るとしてたちどまる」横切ろうとして、ふと、立ち止まって、周囲をきょろっと見回すカット。

「尾は der Herbst」後部はドイツ語で、「der」は定冠詞、「Herbst」(ヘルプスト)は「秋」の意。無論、ニホンリスがモヘアのような大きな尾をさっち振り立てるのを季節に換喩したもの。

「水そばの苹果綠(アツプグルリン)」「水そば」は恐らく「水蕎麥」であろう。正式和名は溝蕎麦(みぞそば)でナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii葉は明るい緑色で互生する。葉の形が牛の額に似ていることから、「ウシノヒタイ」(牛の額)の異名もある。花期は晩夏から秋にかけてで、茎の先端で枝分かれした先に、直径四~七ミリメートルほどの、根元が白く、先端が薄紅色を呈する、多数の金平糖のような花を咲かせる(但し、他のタデ科Polygonaceae と同じく、花弁に見えるものは萼である)。私が偏愛するものである。花はこれウィキの「ミゾソバ」の画像)。「アツプルグリン」(補正した)は「apple Green」で柔らかい黄みのかかった緑。一般には青林檎の果皮のような、やや青みがかった薄い緑を指す。

「石竹(ピンク)」石竹色を略して示した(この頃に大正期に流行ったルビ俳句を思い出す。漢字熟語に自由な当て読みをして音数律を合わせるのである)。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の花のような淡い赤色或いは桃色に近い色。ミゾソバの蕚花弁の尖端のグラデーションである。

「三角やま」諸家諸説紛々である。松井潤氏のブログ「HarutoShura」ではこちらで、『賢治が好んで作品に取り上げた七つ森の「三角森」、あるいは乳頭山の南東にそびえる「三角山」(標高』一四一九『メートル)でしょうか』とされ、ギトン氏はこちらこちらで、後の童話「税務署長の冒険」に出る「三角山」を「江釣子森」(三百七十九メートル)と推定比定された上で、『江釣子森は、花巻西郊の湯口村と湯本村の間にある山で、見る方向によっては、とんがり帽子の三角に見え』、『地元では、むかしから江釣子森を「三角山」と呼んでいる地域があ』るとされる。さらに、『しかし』、この森は『湯口村のほうから見ると、馬の背のようにも見え』、これはまさに次に言い換えられる『綠いろのサラアブレツド』と一致するとされる((グーグル・マップ・データ)。但し、『少なくとも現在では、“江釣子森”は木立に覆われていて、草原の山ではない』と言い添えがある)。他にも「税務署長の冒険」の「三角山」は『江釣子森と瀬川を挟んだ隣にある』草井山 (四百十三メートル)』『だという説もあ』るとされつつ、本詩篇について見るなら、『草井山のほうは線路から遠すぎるように思』われるされる。『江釣子森にしろ草井山にしろ、当時ちょうど伐採されて、草の山になっていたのかもしれ』ず、『そう考えるならば』、『「草を刈つた/ずゐぶんうまくきれいに刈つた」は文字通りの草刈りではなく、森林の伐採をそう表現していることにな』り、『たしかに、少し離れた麓から見れば、バリカンできれいに刈り取ったように見えるで』あろうし、『山を被っていた森林が刈られて、地形の輪郭の線がよく見えるようになったので、馬の形』と表現したのではないか、また、『もし江釣子森ならば、作者の歩いている「レール」は、湯口を通っている花巻電鉄の線路にな』ると指摘される。『ともかく、どちらにしろ、また、別の山だとしても、「三角山」は、花巻近郊のどれかの山で、作者のいる線路からは少し離れている──早池峰のように遠くではないけれども、すぐ近くではなく、背景の山だと思ってよさそうで』あるとある。私も「綠いろのサラアブレツド」(Thoroughbred:サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された)を気持ちよく解読されている点でも、ギトン氏の説に賛同するものである。

「白金」platinum(ラテン語)。元素記号 Ptウィキの「白金によれば、『学術用語としては白金が正しいが、現代日本の日常語においてはプラチナと呼ばれることもある。白金という言葉はオランダ語の witgoudwit=白、goud=金)の訳語である』。『単体では、白い光沢(銀色)を持つ金属として存在する』とある。

「くすぼらし」「燻ぼらし」。太陽光のハレーションをかく言ったものであろう。

「早池峰(はやちね)」岩手山の南東五十四キロメートル弱の位置にある、早池峰山(はやちねさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。岩手県宮古市・遠野市・花巻市に跨り、標高千九百十七で北上山地の最高峰である。

「藥師嶽」東岩手火山の火口を取り囲む外輪山の、北西にある最高峰(岩手山のそれでもある)を薬師岳(二千三十八メートル)と称する。

「雲環(うんくわん)」山の頂上やその中・下部を山を取り巻くように掛かっている雲のことであろう。以前に出て注した「ヘイロー」(halo)、太陽の「暈環」(かさ)とする説を見たが、それでは「その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は」という情景が上手く映像に描けない。

「きらら」「雲母(きらら)」。日本画や浮世絵の「雲母摺(きらずり)」に「雲母粉(きらこ/きららこ)」(雲母を粉砕して粉状にしたもの)が用いられることは既に述べた。ここはその雲の輪に太陽光が散乱するさまを、かく「再生してきて浮きだしたのだ」と表現したものであろう。

「色鉛筆がほしいつて」これを賢治の自問自答(自己内の仮想幻想の会話)と採る向きもあるようだが、私はしかし、断然、遂に確かにトシがここに登場していると読む人間である。最終連は「ステッドラーの色鉛筆が欲しい」とトシが病床で言ったことへの、賢治の答えとしてあると読む。無論、実際にこう素気無く答えたのではなく、それを病床に届けてやろう思ったのであろうが、「來月にしてもらひたい」と賢治が思ったその来月の末、十一月二十七日の午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)でトシは逝くのであった。トシと本詩篇が全く無縁なものであるとしたら、私は「手入れ本」に見られる、異様な後半の削除の説明がつかないと思う。この最終連を消し去るのは、賢治の中の激しい悔恨の表現に他ならないと、私は思うのである。

「ステツドラア」ドイツのニュルンベルクに本拠を置く、鉛筆や色鉛筆を始めとする筆記具や製図用品の先駆である世界的メーカー、ステッドラー有限合資会社(STAEDTLER Mars GmbH & Co. KG)。一六六二年頃にニュルンベルクでフリードリヒ・シュテットラー(Friedrich Staedtler)が鉛筆を発明し、その子孫が一八三五年に創業した。一八八七年(明治二十年)に、鉛筆十二硬度及び四十八色もの色鉛筆の量産を開始しており、本詩篇が書かれた四年後の大正一五(一九二六)年には、大阪に事務所を設立し、日本でもこの頃からステッドラー社製品が進出し始めたとウィキの「ステドラにある。

「みぢかいペン」ギトンステッドラーども色鉛筆写真公開てい。小難しいテクスト論を薀蓄して展開することは好き勝手に未来の誰彼でも奔放に出来るが、直きに失われてしまうかも知れない民俗的即物的証拠物件を特定するこうした作業にこそ私は深い敬意を感ずる。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 マサニエロ

 

        マ サ ニ エ ロ

 

城のすすきの波の上には

伊太利亞製の空間がある

そこで烏の群が踊る

白雲母(しろうんも)のくもの幾きれ

   (濠と橄欖天蠶絨(かんらんびらうど)、杉)

ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの

七つの銀のすすきの穗

 (お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれてゐる、桐が)

赤い蓼(たで)の花もうごく

すゞめ すゞめ

ゆつくり杉に飛んで稻にはいる

そこはどての陰で氣流もないので

そんなにゆつくり飛べるのだ

  (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)

ひとの名前をなんべんも

風のなかで操り返してさしつかえないか

  (もうみんなが鍬や繩をもち

   崖をおりてきていゝころだ)

いまは烏のないしづかなそらに

またからすが橫からはいる

屋根は矩形で傾斜白くひかり

こどもがふたりかけて行く

羽織をかざしてかける日本の子供ら

こんどは茶いろの雀どもの抛物線

金屬製の桑のこつちを

もひとりこどもがゆつくり行く

蘆の穗は赤い赤い

  (ロシヤだよ、チエホフだよ)

はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ

  (ロシヤだよ ロシヤだよ)

烏がもいちど飛びあがる

希硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ

お城の上のそらはこんどは支那のそら

烏三疋杉をすべり

四疋になつて旋轉する

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年十月十日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。宮沢家版「手入れ本」の最終形はサイト「宮澤賢治の詩の世界」のを見られたい。

・「風のなかで操り返してさしつかえないか」「操り返して」の「操」はママ。原稿もママである。「繰り替して」の賢治の誤記。「手入れ本」でも修正していないので、賢治は「繰り返す」は「操り返す」と書くと思い込んでいた可能性が高い。こうした強い思い込みはによる長期に亙る誤用例は萩原朔太郎等にも生涯的に認められる。かく言う私は「たたり」=「祟」の字を二十九になるまで「崇」と同字であると思っていた。高校国語教師になっても、なんと七年間、そう思い続けていたのであった。

 本篇は、「城」、旧稗貫農学校裏に相当した花巻城址(後注する)の秋の実景から、「マサニエロ」(後注する)に導かれて、「伊太利亞製」の映画のような地中海イタリアはナポリの「橄欖」(オリーヴ)の香気が漂って来、城の堀端の「蘆の穗」の「赤い」色からは「ロシヤ」革命の旗から、その広大な大地の荒らしい草原へと飛翔、最後には蒼穹は「支那」の気圏へとメタモルフォーゼする。賢治の天馬空を翔るが如き詩想の変幻自在の空間的感覚変容の妙味が、たった三十五行の詩の中に複雑に圧縮されていると言える。

 

「マサニエロ」Masaniello(一六二〇年(アマルフィ生まれ)~一六四七年(ナポリにて没))はナポリの漁夫で本名は Tommaso Aniello d'Amalfi(トンマーゾ・アニエッロ・ダマルフィ)。 一六四七年、スペイン支配下のナポリで、果物税を課して属領からの収奪を強化しようとしたスペインに対し、ナポリ市民の不満が爆発、同年七月、マザニエッロの指導下で下層民による反乱が発生し、これが広範囲な市民反乱へと拡大した。彼らは王宮に侵入し、役所や牢獄を破壊、マザニエッロは「ナポリ人民の総司令官」に選出されたが、わずか五日後に仲間の一団によって暗殺された(その後、反乱は、市民だけでなく農民をも巻き込み、反スペイン暴動に発展したが、一年後にスペイン軍に鎮圧されている)。また、マザニエッロは最後は精神障害を起こしていたとも言われる。賢治が彼の名を出したのは、特に彼の革命家としてのそれに惹かれたものではなく、恐らくは彼を素材とした、フランスの作曲家ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール(Daniel-François-Esprit Auber  一七八二年~一八七一年)、が一八二七年に作曲した架空のオペラ「ポルティチの唖娘(おしむすめ)」(La Muette de Portici:一八二八年二月・パリ・オペラ座初演・全五幕)からの、賢治の好きなイタリア風人名の響きの良さからの借用に過ぎないと私は思う。反乱を背景としつつ、架空のマザニエッロの唖の妹フェネッラ(Fenella)を登場させ、彼女の死で終わる悲劇である。そのストーリーを如何にしても解釈の力動の一つにしないと気が済まない方は、ウィキの「ポルティチの唖娘」を読まれるがよかろうが、しかし数奇の妹とは、どう考えても、私にはトシにオーバー・ラップしてならない

「城」旧稗貫農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校はその後身に当たるが、位置は異なる。同校は現在の総合花巻病院附近であったらしい(グーグル・マップ・データのこちらで確認されたい))裏にある花巻城址(盛岡藩花巻郡代の居城。古くは鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)と称し、「前九年の役」の安倍頼時の城柵と伝えられる。ウィキの「花巻城」によれば、『稗貫氏は室町時代には十八ヶ城(稗貫郡宮野目村)を本城としていたが、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。周辺には八重畑館や大瀬川館など同じ稗貫一族の城郭が複数あった』。しかし、天正一八(一五九〇)年の豊臣秀吉による奥州仕置により、『稗貫氏は没落し、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政が入部、長政帰洛ののちは同族浅野重吉が目代として駐留した。しかし同年の冬、旧領を奪還しようとする和賀氏と稗貫氏が一揆を起こした(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め』、『稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正』十九『年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。同年中に稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、名称も花巻城と改められた』とある)

「白雲母」muscovite(既出既注)。雲母の一種で、ガラス光沢又は真珠光沢があり、無色又は白色透明。六角板状の結晶で、薄く剝がれる。白雲母は当時のストーブの耐熱の覗き窓に使われていた。

「濠」「ほり」。花巻城址の南方に濠跡らしき池が認められる。

「橄欖天蠶絨(かんらんびらうど)、杉」オリーヴ色をした天蚕糸で織った厚手の織物であるが、ここは杉の木を形容したものであろうが、「橄欖」をわざわざ出したのはイタリアと親和性からであろう。

「ぐみの木」茱萸の木。バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のグミであるが、私は即座に秋に実が赤く熟すアキグミ Elaeagnus umbellata を想起してしまう。赤いそれは点描されないもの季節的には、それをここに思い描いても、問題はないし、「赤い蓼(たで)」も直後に示されるので私は部分着色した画面を見る。「そんなにひかつてゆするもの」と言っているのもその実に相応しい。

「桐畑」「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。箪笥材として古くから栽培され、特に東北地方は産地として知られる。本邦産に樹木の中で最も大きな葉をつける種であり、「ゆする」というのはそれが風に靡くさまにマッチし、前の茱萸の木の「ゆする」さま、風に靡く「すすきの穂」「波」の映像とともに、描写はクロース・アップを多用した、すこぶるシネマティクなものである。

「赤い蓼(たで)の花」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta であろう。

「なんだか風と悲しさのために胸がつまる」「悲しさ」に読む者も自然、「胸がつまる」一行である。私は愛する友人で決別してしまった保阪嘉内や、日増しに病態の悪化する最愛の妹トシへの思いはこれに共振して仕方がないのだ。さればこそ「ひとの名前をなんべんも」/「風のなかで操り返してさしつかえないか」は標題のお洒落な感じのイタリア人名「マサニエロ」のそれを呟くことを意味するのであろうが、それは賢治にとっては、「銀河鉄道の夜」の「カンパネルラ」と同じく、嘉内やトシの面影に連動する響きを持っていたものとして転用造語して命名されたものなのではあるまいか。なお、ギトン氏ついで、トシ説は否定され、賢治が秘かに愛していた『宮澤家のすぐ近所の蕎麦屋の娘』『大畠ヤス子という女性だという』説(澤口たまみ「宮沢賢治 愛のうた」二〇一〇年盛岡出版コミュニティー刊に拠るとある)を出されつつ、最終的に保阪嘉内であるとされる。面白いのは、最後でギトン氏が、「繰り返して」の誤字の「操」を指して、『「操」とは、“ただ一度の恋”に対する「みさお」で』あるとされているところである。フロイトの「言い間違い」理論に重ねるなら、ちょっと興味深くはある。因みに、ギトン氏はこの「マサニエロ」の名も「まさにエロ」と読め、『賢治が「エロ」という言葉を“エロティック、性愛”の意味で使っていたことは』、森荘已池氏の「宮沢賢治の肖像」(一九七四年津軽書房刊)に、昭和六(一九三一)年の賢治の発言に、「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」とある』ことを例証として示しておられる。これも面白い立派な解釈の一つであると私は思う。

「もうみんなが鍬や繩をもち」/「崖をおりてきていゝころだ」幻想の中にあっても、収穫という農事のクライマックスの、現実の農民の活動を想起することを忘れない。彼はそれを自然の摂理の一つとして認識している(自然科学のマクロで捉えれば、農地は反自然であるが、彼は農科学者であり、そうした今風の中途半端な自称エコロジストのエコロジーは寧ろ噴飯物であろう)。

「いまは烏のないしづかなそらに」/「またからすが橫からはいる」パンして烏がインする。オフで烏の鳴き声を出すのもよい。続く「屋根は矩形で傾斜白くひかり」/「こどもがふたりかけて行く」/「羽織をかざしてかける日本の子供ら」/「こんどは茶いろの雀どもの抛物線」/「金屬製の桑のこつちを」/「もひとりこどもがゆつくり行く」のカット・バックの効果的な多用とともに、優れた映像詩となっている。

「金屬製の桑」バラ目クワ科クワ属 Morus のクワ類は、秋になると枝が灰色或いは褐色になる。

「蘆の穗は赤い赤い」賢治は山巡査」で「蘆(よし)」とルビしているから、ここもそう読んでおく。そこで注した通り、「葦(あし)」「葭(よし)」「アシ」「ヨシ」と書き換えても孰れも総て同一の、湿地帯に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。秋に咲く花は暗紫色を呈し、長さ二十~五十センチメートルの密集した円錐花序である。

「ロシヤだよ、チエホフだよ」「赤い」から「ロシヤ」(賢治と当時のロシアについては山巡査」の私の注を参照されたい)へ、それが「チエホフ」を引き出し、ロシアの広い原野が夢想される。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов:ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)には短編小説「曠野」(Степь 一八八八年発表)があり、ギトン氏はで、本篇のここは同作の印象に引かれて登場させたものと分析しておられ、「曠野」に見られるように、『チェーホフの描くロシアの大地は、人間に‘飼いならされ’ていない原初の自然の息吹に満ちて』おり、『そこに描かれた人間たちは、剥き出しの現実そのものであり、農民的な素朴な心性の奥に、おどろおどろしいものを見え隠れさせてい』て、『人間の恐るべき“なまの”姿が映し出されて』おり、賢治のここでの『詩句は、けっして情緒豊かなメルヘンだけを指してはいない』とされる。その読みの深さには何時もながら、感服する。

「はこやなぎ」本邦産種ならば、日本固有種のキントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii の別名である。箱の材料にしたことから「箱柳」と呼び、「白楊」とも書く。学名で判る通り、所謂、広義のポプラである。

「希硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の解説(分割版の最後)には、『固体の化学物質と液体の化学物質を反応させて気体を発生させるときに用いる“キップの装置”に、亜鉛の縮れた屑を入れて希硫酸を滴下させると、化学反応によって水素が発生』するが、『「稀硫酸の中の亜鉛屑は烏のむれ」というのは、その反応によって黒くなった亜鉛が細々になって移動し、あたかも「烏のむれ」が飛んでいるようにみえるという喩えなので』あろうとされる。「キップの装置」とは、オランダの化学者ペトルス・キップ(Petrus Jacobus Kipp)によって発明された、雪達磨のように縦に三つに並んだガラス製の容器から成る実験器具である。ウィキの「キップの装置を見られたい。]

2018/11/26

和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)


Karasu

からす  慈鴉 寒鴉

     孝鳥

慈烏

     【和名加良須】

ツウ ウヽ

 

本綱慈烏狀似烏鴉而小多羣飛作鴉鴉聲初生母哺六

十日長則反哺六十日可謂慈孝矣背飛向啼也凡烏類

有四種慈烏【小而純黑小觜反哺者】鴉烏【似慈烏而大觜腹下白不反哺】燕烏【似鴉烏而

大白項者】山烏【似鴉烏而小赤觜穴居者】北人喜鴉惡鵲南人喜鵲惡鴉

五雜組曰鴉鳴俗云主有凶事故女子小人聞其聲必唾

之然舊説烏性極壽三鹿死後能倒一松三松死後能倒

一烏而世反惡之何也

三才圖會云鴉見異則噪故人聞烏噪則唾性樂空曠傳

涎而孕候烏飛翅知天將雨蓋烏陽物也感陰氣而重故

俗以此占雨

△按烏者有孝慈而長壽之鳥也山林及村市多有之將

 曙之時群飛噪鳴集市中郊野貪雜穀或雛卵及腥膻

 屍肉恣食之故人強惡之至黃昏宿于叢林雖夜中月

 既出則鳴其聲如曰鵶鵶純黑而雌雄難辨自古相傳

 云烏者熊野之神使也凡病人將死之前群鳴以爲凶

 兆大忌之其肉【味酸鹹臭】人不食故烏不恐人不屑鷹鷂而

 恣啄園圃果蓏穀實竊人家所晒魚肉餅餻等噉郊野

 屍肉最貪惡之甚者也

  祝由哥烏なく万の神の誓ひかや阿字ほんふしやう加しは不可得

 續日本紀聖武帝天平十一年出雲國獻赤烏又越

 中獻白烏白烏者聞有出赤烏者尚希有之物也

日本紀云敏速帝元年高麗上表疏書于烏羽字隨羽黑

[やぶちゃん注:以上の行、何故か、行頭から始まっている。]

 既無識者辰爾乃蒸羽於飯氣以帛印羽悉寫其字

 竟宴世の中に君なかりせは烏羽にかける言の葉猶消えなまし

王辰爾 應神天皇命荒田別使於百濟搜聘有識者國

 王奉旨擇宗族遣其孫辰孫王隨使入朝天皇喜焉特

 加寵以爲皇太子之師於是始傳書籍儒風文教興焉

 其子太阿郞王【其子】亥陽君【其子】午定若生三男【長子味沙中子辰爾

 季子麻呂】從此別爲三姓各因所職命氏辰爾爲船長

 

 

からす  慈鴉〔(じあ)〕 寒鴉

     孝鳥

慈烏

     【和名、「加良須」。】

ツウ ウヽ

 

「本綱」、『慈烏は、狀、烏鴉〔(はしぶと)〕に似て小さく、多く羣飛して「鴉鴉〔(ああ)〕」の聲を作〔(な)〕す。初生、母は哺すること、六十日、長ずるときは、則ち、反哺〔(はんぽ)〕すること、六十日。「慈孝〔(じこう)〕なり」と謂ふべし。背〔(あふむ)〕き〔て〕飛び、〔また〕向〔(むか)〕ひ〔て〕啼くなり。凡そ、烏の類に四種有り。「慈烏〔(からす)〕」【小にして純黑。小さき觜。反哺する者。】・「鴉烏〔(はしぶと)〕」【慈烏に似て、大きく、觜・腹下、白く。反哺せず。】・「燕烏(ひぜんがらす)」【鴉烏に似て、大きく、白き項〔(うなじ)〕の者。】・「山烏〔(やまがらす)〕」【鴉烏に似て、小さく、赤き觜。穴居する者。】〔なり〕。北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む』〔と〕。

「五雜組」に曰はく、『鴉鳴〔(あめい)〕、俗に凶事有ることを主〔(つかさど)〕ると云ふ。故に女子・小人、其の聲を聞けば、必ず、之れに唾〔(つばき)〕す。然〔れども〕、舊説に烏の性〔は〕極めて壽〔(なが)〕し、三鹿〔(さんろく)[やぶちゃん注:継代三代のシカ。]〕死して後〔(のち)〕、能く、一松〔(いつしやう)[やぶちゃん注:一本のマツ。]〕倒ふれ、三松、死(か)れて後、能く、一烏〔(いちう)〕の倒ふる〔と〕。而るを、世に反つて之れを惡むは何ぞや』〔と〕。

「三才圖會」に云はく、『鴉、異を見れば、則ち、噪〔(さは)〕ぐ。故に、人、烏の噪ぐを聞くときは、則ち唾(つばきは)く。性〔(しやう)〕、樂〔にして〕空曠〔(くうくわう)たり〕。涎〔(よだれ)〕を傳〔(つた)〕へて孕〔(はら)〕む。烏の飛-翅〔(と)ぶ〕を候〔(うかが)ひ〕て、天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。陰氣を感じて重〔(おも)〕し。故に、俗、此れを以つて雨を占ふ』〔と〕。

△按ずるに、烏は孝慈有りて、長壽の鳥なり。山林及び村・市〔(いち)〕に多く之れ有り。將に曙〔(あけぼの)たらん〕とするの時、群飛して噪ぎ鳴き、市中・郊野に集まり、雜穀を貪り、或いは、雛・卵及び腥-羶〔(なまぐさもの)〕・屍肉〔(しにく)〕、恣〔(ほしいまま)〕に之れを食ふ。故に、人、強く之れを惡む。黃昏に至りて叢林に宿〔るも〕、夜中と雖も、月、既に出〔ずれば〕、則ち、鳴く。其の聲、「鵶鵶〔(ああ)〕」曰ふがごとし。純黑にして、雌雄、辨〔(わか)ち〕難し。古へより相ひ傳へて云はく、「烏は熊野の神使なり」〔と〕。凡そ、病人、將に死せんとするの前、群れ鳴〔くを〕以つて、凶兆と爲す。大いに之れを忌む。其の肉【味、酸、鹹。臭〔(くさ)し〕。】、人、食はず。故に、烏、人を恐れず。鷹-鷂〔(たか)〕を屑(ものゝかづ[やぶちゃん注:ママ。]とも)せず、恣〔(ほしいまま)〕に園圃の果蓏穀實〔(からこくじつ)〕を啄ばみ、人家〔の〕晒〔(さら)〕す所の魚肉・餅-餻〔(もち)〕等を竊〔(ぬす)〕み、郊野の屍肉を噉〔(くら)〕ふ。最も貪惡の甚しき者なり。

  祝由哥〔(しゆくゆうか)〕

 烏なく万〔(よろづ)〕の神の誓ひかや阿字〔(あじ)〕ほんぷしやう加〔(か)〕じは不可得〔(ふかとく)〕

 「續日本紀」、『聖武帝天平十一年、出雲國より赤き烏を獻ず。又、越中より白き烏を獻ず』と。白き烏は聞〔(ぶん)〕に出づること有〔れども〕、赤き烏は、尚、大いに希有〔(けう)〕の物なり。

「日本紀」に云はく、『敏達帝元年、高麗より上りつる表-疏(ふみ)、烏の羽に書〔(しよ)〕す。字、羽の黑き隨(ま〔にま〕に)〔しるせば〕、既に識る者、無し。辰爾〔(ときしか)〕、乃〔(すなは)ち〕、羽を飯の氣〔(かざ)〕に蒸〔(む)〕し、帛を以つて羽を印(を)して、悉く其の字を寫す』〔と〕。

 竟宴〔(きやうえん)〕〔歌〕

 世の中に君なかりせば烏羽〔(からすば)〕にかける言の葉猶〔なほ〕消えなまし

王辰爾(わうのときしか) 應神天皇、荒田〔(あらた)〕の別〔(わけ)〕に命じて、百濟に使はして、有識の者を搜聘〔(さうへい)〕せよと。國王、旨〔(むね)〕を奉〔(たま)〕はり、宗族〔(しうぞく)〕を擇〔(えら)び〕、其の孫、辰孫王をして使ひに隨ひて入朝せしむ。天皇、焉〔(これ)〕を喜び、特に寵を加へ、以つて皇太子の師と爲す。是れに於いて、始めて、書籍、傳はり、儒風〔の〕文教、興れり。其の子、太阿郞王、【其の子〔の〕】亥陽君、【其の子〔の〕】午定若、三〔(み)〕たりの男を生む【長子、味沙。中子、辰爾。季子、麻呂。】。此れより別れて、三姓と爲〔(な)〕る。各々、職〔(つかさど)る〕所に因りて氏を命じ、辰爾〔は〕「船〔(ふな)〕」〔の〕長(をさ)[やぶちゃん注:「船」という姓。]と爲る。

[やぶちゃん注:カラスの代表して、スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone。を最初に挙げている(本項の後に、この本文にも出ている別種(とするもの)として、個別独立項で、「大觜烏(はしぶと)」(カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos)・「燕烏(ひぜんがらす)」(これは現在、カラス科カササギ属カササギ Pica pica の別名ともされるが、不審なことに、後に独立項で「鵲」が出る。調べて見たところ、どうもこの「燕烏」はカササギではなく、見た目がちょっと似て、日本の西部、特に九州のカササギ分布区域内にも飛来するカラス属コクマルガラス Corvus dauuricus を指していることが判明した。それぞれでそちらで考証することとする)・「山烏」(和名としてはカラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus であるが、実際にはハシブトガラスをもかく呼称する)が続いている)。ウィキの「ハシボソガラス」によれば(下線やぶちゃん)、『英名の Carrion Crow は「死肉を食うカラス」を意味するが、実際は後述の』通り、『植物質を好む』。『ユーラシア大陸(東部、西部)』に分布し、『日本では、ほぼ全域の平地から低山に分布する留鳥』である。全長は五十センチメートル『ほどで、全身が光沢のある黒色をしており、雌雄同色。外から見える羽は黒いが、皮膚に近いところの短い羽毛はダウン』・『ジャケットのように白く柔らかな羽毛で、寒さに非常に強く冬も平気で水浴びをする』。『地肌の色は黒っぽい灰色。脚とクチバシも黒色である。突然変異で白い個体が出現することもあり、これはアルビノまたは白変種と考えられる』。『ハシブトガラスに似るが』、『やや小さく、嘴が細く上嘴があまり曲がっていないところと、額(嘴の上)が出っ張っていないところで判別できる』。『ハシボソガラスと最も近縁な種はクビワガラス』(カラス属クビワガラス Corvus torquatus。但し、中国に分布する外来種)『であり、ハシブトガラスはやや離れている』。『河川敷や農耕地など開けた環境に生息する。極度に都市化が進んだ地域や高山帯ではあまり見られない。ペアは年間を通して縄張りを持つが、非繁殖期には夜間決まった林に集団でねぐらをとる』。『鳴き声は「ガーガー」と濁って聞こえるが、ハシブトガラスのそれに似る場合もある』。『営巣は開けた場所に位置する樹木に木の枝を組み合わせたお椀状の巣を作り、巣材に針金やハンガーなどを利用することもある』。『知能は高く、仙台市などで信号停車中の車のタイヤの前にクルミを置いて割るのも本種である』。『食性は雑食で、昆虫類、鳥類の卵や雛、小動物、動物の死骸、果実、種子などを食べる。ハシブトガラスよりも比較的植物質を好む傾向にある。ハシブトガラスと違って地面をウォーキング(交互に脚を出して歩く)する時間が長いため、地面採食(土食い)もする』。『産卵期は』四『月頃で』、一回に三~五『個の卵を産む。主にメスが抱卵し、その間オスはメスに餌を運ぶ。抱卵日数は約』二十『日。雛に対する給餌は雌雄共同で行い、雛は孵化後約』一『か月で巣立つ。子育てに失敗した場合は再度』、『抱卵して子育てを行うこともあるが、前述のとおり時間を要するため、北では』一『回が限度と見られる』。『ハシブトガラスが森林に生息していたのに対し、本種は人里近くに生息し』、『住み分けてきた。かつて日本で「カラス」といえば本種を指したが、都市部へハシブトガラスが進出したため、「日本のカラス」の座をハシブトガラスに譲ることになった。実際、都市化にともなってハシブトガラスが個体数を増やしているのに対し、本種は個体数を漸減している』。『学名の種小名 corone は一般には鳴き声に由来していると考えられているが、白いカラスを従えていたギリシャ神話の太陽神アポローンの愛人、コローニスに由来しているという説もある』。『狩猟鳥ではあるが、今日肉を食用に供することはまずなく、もっぱら煩瑣な手続きを経ることなく』、『農業害鳥として駆除できるのに役立つ程度である。ただし世界的には中国や西洋において、古来より薬用として食べてきた歴史があり、いわゆるゲテモノとしてではなく』、『一般的な食材に供した例も洋の東西を問わず』、『世界的には多々ある』。『日本においては北海道の一部、秋田県、長野県、岐阜県などでかつて食用に供されてきた。なかでも有名なのが、長野県上田市の』「カラス田楽」『という郷土料理である。岐阜県においても、大正中期ごろまで地元の肉屋でカラス肉が売られていたという』とある。

 

「哺する」食べ物を口に含ませること。そこから「育(はぐく)む・慈しみ育てる」の意とあった。

「反哺〔(はんぽ)〕」ここにある通り、烏は成長の後、育てて呉れた親鳥の口に餌(えさ)を含ませて、養育の恩に報いるという。これは「事文類聚」(宋の祝穆(しゅくぼく)の撰になる類書(百科事典)。全百七十巻。一二四六年成立。先行する類書「芸文類聚」(唐の高祖(李淵)の勅命によって欧陽詢らが撰。六二四年成立。全百巻)に倣って、古典の事物・詩文などを分類したもの)などに載り、そこから「反哺の孝」(「烏さえ親の恩に報いるのだから、ましてや人は孝行せねばならない」という故事成句が生まれた。残念ながら、実際にはそんなことはしない。鳥は巣立ちすれば、親鳥とは縁がなくなり、実の親や兄弟とも喧嘩や餌の奪い合いをする。

「北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む」その理由はよく判らない。カラスの方は、或いは、黄河や長江以北を中心として形成された中国神話に於いて、カラスが太陽の使いとされていたことと関係するか。カササギは七夕伝説に於いて、織姫と彦星の間を繫ぐ掛け橋の役を担う鳥として親しまれている点が南では強調されて、福を招くと考えたか。死肉を啄むとされたところで、腐敗の早い、南の方の人がそれを現認することが多かったであろうから、憎むという理由は判る。また、北のカササギのそれは、五行説によるものであろう。五行説では色は、「木」に「青」、「火」に「紅(赤)」、「土」に「黄」、「金」に「白」、「水」に「玄(黒)」を配するのはよく知られるが、五志(感情・性格相当)は、「木」に「怒」、「火」に「喜」、「土」に「思」、「金」に「悲(憂)」、「水」に「恐(驚)」を配することから、中国でも古来から白と黒の組み合わせは縁起が悪いとされる(中国の喪服は白)ので、カササギの毛色の白黒という組み合わせは死を意味するからであろう。但し、何故、それが南で適応されなかったのかは、これまた謎である。何方か、解明の御教授を戴けると嬉しい。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「唾〔(つばき)〕す」人体から取り出された「もの」や排泄された「もの」は、人間の「生」由来するものであり、それは血腥さかったり、独特の臭気を持つことから、人間(的)でない存在である神や鬼や獣や病いや妖怪変化が忌避する対象となる。それを呪術として用いた例は、洋の東西を問わず、枚挙に暇がない。「黄金伝説」(Legenda aureaLegenda sanctorum:レゲンダ・アウレア。ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二三〇年頃~一二九八年)によるキリスト教の聖人伝集。一二六七年頃に完成)の「聖ペテロ鎖の記念」では、指で十字の印を作って龍につきつけ、さらに唾を龍の顎に吐きかけてこれを倒したとか、「ギリシア神話」では教えた占術を「私の口中に唾をはけ」と命ずる事で忘れさせたり、「新約聖書」の「マルコによる福音書」第八章では、イエスが盲人の両目に唾をつけ、両手をその上に当てて開眼させた、と個人ブログ「歯顔大笑」の「唾の呪 にある。「巫研 Docs Wikiのこちらにある、柳田や折口と同時代の民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年:本名は中山太郎治)の昭和五(一九三〇)刊の「日本巫女史」の「第一篇 固有呪法時代 第四章 巫女の呪術に用いし材料 第三節 呪術に用いし排泄物」から「二 唾液」を引く(注記号は略した)。

   *

 私は先年、客気に駆られて、紀伊国熊野神社の祭神である速玉男神(ハヤダマヲノカミ)及び事解男神(コトサカヲノカミ)の両神は、共に唾液の神格化されたものが、後に人格神となったのであると云う考証を発表したことがある。勿論、当時の私の研究には多くの欠陥があったので、吾れながらもその粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑なこと。]であったことを認めざるを得ぬのであるが、然しその結論である熊野神は唾液の神格化なりと云う点だけは、今に固く主張することが出来ると考えている。私が改めて言うまでもなく、熊野社の祭神である速玉・事解の二神は、諾尊の唾液から成りました事は神典に明記されているところである。これを「日本書紀」に徴するに、その一書に、

 伊弉諾尊追伊弉冊尊所在処(中略)。及所唾之時、化出神号曰速玉之男、次掃之時、化出神号曰泉津事解之男、凡二神矣云々。

と載せてある。而して斯くの如く唾液が神格化されるようになったのは、古く唾液には呪力が在るものと信じられた為である。諾尊が冊尊を追うて黄泉国に到り、絶妻(コトドワタ)してその穢れに触れたので、此の汚き国を去るに臨んで唾液を吐かれたのは、此の呪力によって、悪気または邪気を払われたのである。

 唾液の有した呪力に就いては、これを民俗学的に見るときは、古今を通じて、その例証の多きに苦しむほどであるが、それを一々載せることは差控えるとして、更に、事解神に就いて私見を述べんに、これは大和葛城の一言主神が、善言(ヨゴト)も一言(ヒトコト)、悪言(マガコト)も一言(ヒトコト)、言離(コトサカ)の神、我れは葛城の一言主神なりと宣(ノ)られた。その言離と同じ意味であって、現代語で云えば、唾液を吐いたのは、契りを絶った証拠であって、これ以後は言語も交わさぬぞと云うことなのである。一言主神の言離も、善悪ともに一言に云うぞ、再び問い返しても一度言離りした上は答えぬぞ、と云う意味である。

 而して此の神話から派生した唾液の呪力は、古代人の固く信仰していたものと見えて一二の記録に残されている。「日本書紀」神代巻に、天孫彦火々出見尊が兄火酢芹命と山幸海幸を交換し、兄の鈎を失いて海神の宮に至り、海神が此の鈎を得て尊に授けるときに教えるに『兄の鈎を還さん時に、天孫則ち言ひますべし、汝が生子の八十連属(ツヅキ)の裔(ノチ)、貧鈎(マチヂ)、狭々貧鈎(ササマチヂ)と言い訖りて、三たび下唾(ツバ)きて与へたまへ』と載せ、更に「古語拾遺」にも、御歳神の子が、大地主神の作れる田に至り『唾饗而還』と記したのは、二つともに唾液の呪力を示したものである。

 而して以上の記事は、一般の呪術に関するものであって、特に巫女に限られたものではないのであるが、今はさる選択をせずに記述したまでである。

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「烏の性〔は〕極めて壽〔(なが)〕し」カラスの寿命は実際に他の鳥類に比べると長い。サイト「生活110番」(害獣駆除を含むサイト)の「カラスの寿命は意外と長い! カラスにも長生きの秘訣はあるのか?」によれば、野生環境下に於けるカラスの平均寿命は十年から十五年、寿命の長い種や個体では三十年と言われており、例えばスズメ(スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus)の寿命が約六年、カラスの天敵である本邦の鷹類の代表種オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)が約十一年とされるので、『カラスはかなり長生きであると言える』とある(但し、『鳥類には長生きする種が多く』、フクロウ(フクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis)やオウム(オウム目オウム科 Cacatuidae)は六十『年以上生きることが知られてい』るとも言い添えてある)。その理由は人間社会に入り込んだことで『エサの調達が容易』になったこと、同様の理由から『天敵が少な』くなったこと、『カラスは非常に賢く危険をすばやく仲間に伝えることができるため、一斉に命を落とすことはほとんど』なく、『また』、『記憶能力も非常に優れており、危ない目にあったところには二度と近寄らないと言われてい』て、『隠したエサの場所を正確に把握することができるので、餓死する確率も低い』ことも挙げられ、他にも、『体の丈夫さも関係して』おり、『病気にかかりづらく多少の怪我ならば治療する必要がない、というほど丈夫と言われ』ている、とある。因みに、『街でカラスをよく見かける割には死骸を見かけることはほとんど』ないことから、まさにここで言われるような感じで、今も『「カラスは』百『年以上生きる」といった都市伝説も噂されてい』たりする(これはまさに一九七〇年代の関東地区限定で発生したアーバン・レジェンドの「マクドナルド猫肉説」(最近猫の轢死体を見ないマクドナルドのハンバーガーは母さんの作るのとまるで味が違う実はあれは猫の肉を使っている)とコンセプトが同一である)。『実はカラスの死骸をほとんど見かけない理由は、カラスは寿命が近づくと』、『自分の巣で余生を過ごすためだ』というのが真相で、『不慮の事故でもない限り』、彼らの『街で死骸を見ることは』、事実、『ほとんど』ないのだと記す。『また』、『死んでしまったカラスの死骸は』、速やかに『他の動物のエサになっていることが多く、そのような点もカラスが死骸として見つかる事が少ない理由』と思われるある(但し、『畑や空き地が多くある地域ではカラスの死骸をよく見かけるよう』であると言い添える)。最後に、『世界には』六十『年生きたカラスがいたという記録があり』、それは『コクマルガラス』(カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus。或いは分離して Coloeus 亜属ともする)『という比較的小さなカラスで、日本では越冬のために九州に飛んでくることが多い』種で、『もしかしたら私たちの知らないところでは、もっと長生きしているカラスがいるのかもしれ』ないと結んでいる。

「一松〔(いつしやう)倒ふれ、三松、死(か)れて」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus に属するマツ類の平均寿命は二千五百年で、最長で五千年とされる。平均寿命で計算しても、「三松」は七千五百年だから、現在のアーバン・レジェンドなんか目じゃなくなるブットびの数値だ! これをもとに――「カラスは数千年から一万年生きる」――という都市伝説を流行らせたら、どうよ!?!

「異を見れば」異変を察知すると。

「性、樂〔にして〕空曠〔(くうくわう)たり〕」性質は至って気楽なもので、のびのびとして、気持ちが広く、「あっけらかん」(東洋文庫版の「空曠」へのルビ)としている。

「涎〔(よだれ)〕を傳〔(つた)〕へて孕〔(はら)〕む」雄が雌に涎を垂らすだけで子が出来る。うへえ! ヤバい!

「飛-翅〔(と)ぶ〕を」「三才図会」の原本頁を見たが(国立国会図書館デジタルコレクション)、「翅」で間違いない。「翅翅」で飛ぶことの意があるから、かく二字で訓じておいた。

を候〔(うかが)ひ〕て、天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。「陰氣を感じて重〔(おも)〕し」「重し」とは陰気に対して甚だ敏感である、の意。

故に、俗、此れを以つて雨を占ふ』〔と〕。

「市〔(いち)〕市街地。良安の時代にカラスが既に都市棲息型へと移行していたことが判る。

「腥-羶〔(なまぐさもの)〕」生臭いもの。魚や獣の肉。

「雌雄、辨〔(わか)ち〕難し」くろ氏のサイトCrowes!!」の「カラスのオス・メスはどうやって見分けるの?」によれば、『カラスはもちろん雌雄同色。カモやヒタキのように色で見分けるのは不可能です。若鳥は光沢が少ない、などと言われますが、それでもどこまで区別できるか。大きさもほとんど差はないですから、一般的にカラスの雌雄は見ただけでは分かりません』。『雌雄でまったく差がないかといえばそうでもなくて、体のサイズを測定をしていると平均してオスの方が全体に大きく、メスの方が小さい傾向があることが今までのいろんな人の研究で分かっています。しかし、これはあくまで平均値であり、これで雌雄の識別ができる』わけではないとされる。『もう一つ、行動で見ると、繁殖期には差が出てきます。抱卵個体の観察です。抱卵というのは字の通り卵を暖めることですが、カラスの場合卵はほとんどメスが暖めます。また、ヒナに直接餌をやるのもメスが多いようです。オスはどうしているかというと、外に出て餌を採ってきて、巣の近くに隠したり、メスに渡すわけです。また、巣の周りを見張る役目もしています』。『また、抱卵中の時期のメスは、卵を皮膚に触れさせて効率よく暖めるために』、『おなかの羽根が抜け落ち、かなり白っぽく見えます(場合によっては地肌が見える)。これを「抱卵斑」といいますが、これで見分けがつく場合もあります。抱卵斑が出ればメスとして良いでしょうが、出ないメスもいるので、出ない方は雌雄不明、ということになります』とあるから、やっぱり、良安先生の言う通り、弁別は難しい。

「烏は熊野の神使なり」日本神話に於いて、神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国橿原への道案内をしたとされる八咫烏(やたがらす)で、「導きの神」として信仰され、また、中国神話の影響か、「太陽の化身」ともされる。一般的に「三本足のカラス」として知られ、古くよりその姿絵が伝わる。ウィキの「八咫烏」から引く。『熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており』、『熊野のシンボルともされる』。『近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている』。『咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約』十八『センチメートル)のことであり、八咫は』百四十四センチメートル『となるが』、『ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である』。八咫烏は「日本書紀」や「古事記」に登場するが、「日本書紀」では、『同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため』、『八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同され』ている。『八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている』。『また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる』。しかし、記紀には、『八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(』九三〇『年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったとされる』。元は『賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と』、『中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされ』、『古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説である』。『中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽に棲むといわれる』。『陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる』とある。私は熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を総て参詣し、三種の熊野牛王符(くまのごおうふ)総てを戴き、今、この書斎に飾ってある。

「鷹-鷂〔(たか)〕」タカ目 Accipitriformes に属するタカ類総てと採っておく。「鷂」は通常は、タカ類では中・小型のタカ科ハイタカ属 Accipiter のハイタカ類を指す。

「蓏〔(ら)〕」瓜(うり)類。ウリ目ウリ科 Cucurbitaceae に属する広義の瓜類を指す。古書ではマクワウリ・シロウリ・キュウリ・トウガンなどの名が見える。

「餅-餻〔(もち)〕」「餻」は餅を乾燥させて粉にしたもの、或いは、それで作った餅菓子を指すが、二字で、かく訓じておいた。

「祝由哥〔(しゆくゆうか)〕」「祝由」は古代の中国医学で呪文を唱えて病気を治療する術を指した。東洋文庫では「祝由」に『まじない』とルビする。

「烏なく万〔(よろづ)〕の神の誓ひかや阿字〔(あじ)〕ほんふしやう加〔(か)〕じは不可得〔(ふかとく)〕」本歌の出典は不詳。識者の御教授を乞う。「阿字〔(あじ)〕」は梵語(ぼんご)の字母の第一。ウィキの「梵字」の当該文字の画像)密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。「ほんふしやう」は「本不生」で前の「阿字」と合わせて、「阿字本不生」(あじほんぷしょう)で密教の根本教義の一つを指す。前に述べた通り、「阿」字は宇宙の根源であり、「本来不生不滅」、即ち、「永遠に存在するということ」をこれで意味する。この真理を体得した時、人は大日如来と一体化すると説いている。「加〔(か)〕じ」加持祈禱の「加持」。諸仏が不可思議な力で衆生を守ること。加持祈禱は密教で行者が印(いん)を結んで真言を唱え、仏の助け・保護を祈っては病気や災難を除くことであるが、ここは本来の前者の意味。「不可得」は「認知出来ないこと」。仏教では一切の存在に固定不変の実体を認めないため、その本体を追求しても「不可得」であるとし、この立場を「不可得空」と称する。

「續日本紀……」「聖武帝天平十一年」は七三九年。原文は『天平十一年正月甲午朔 十一年春正月甲午朔。出雲國獻赤烏。越中國獻白烏』。

「日本紀……」「敏達帝元年」は五七二年。「日本書紀」の原文は『敏達天皇元年五月丙辰。天皇執高麗表疏、授於大臣。召聚諸史、令讀解之。是時諸史於三日内、皆不能讀。爰有船史祖王辰爾。能奉讀釋。由是天皇與大臣倶爲讚美曰。勤乎、辰爾。懿哉、辰爾。汝若不愛於學。誰能讀解。宜從今始近侍殿中。既而詔東西諸史曰。汝等所習之業、何故不就。汝等雖衆、不及辰爾。又高麗上表疏、書于烏羽。字隨羽黑、既無識者。辰爾乃蒸羽於飯氣。以帛印羽。悉寫其字。朝庭悉之異』。

「辰爾〔(ときしか)〕」ルビはママ。良安の勘違いか、或いは、こういう和訓で読む書物があったのか、よく判らぬ。飛鳥時代の人物で、後に出る「王辰爾」(おうしんに 生没年不詳)である。名は「智仁」とも記されている。正式な氏姓は「船史(ふなし/ふねし)」。第十六代百済王の辰斯(しんし)王の子である辰孫王の後裔で、塩君又は午定君の子とされている。ウィキの「王辰爾」によれば、『渡来系氏族である船氏の祖。学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる』。欽明天皇一四(五五三)年に『勅命を受けた蘇我稲目によって派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、船史姓を与えられた』。また、ここにある通り、敏達天皇元(五七二)年には、『多くの史が』三『日かけても誰も読むことのできなかった高句麗からの上表文を解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛され、殿内に侍して仕えるように命ぜられた。上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れてそのままでは読めないようにされていたが、羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取るという方法で解読を可能にしたという』。「懐風藻」『序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」』『と表現されている』。歴史学者の『鈴木靖民や加藤謙吉によると』、「日本書紀」の『王辰爾の伝承は船氏が西文氏』(これで「かわちのふみうじ」と読む。古代の渡来系氏族で、王仁(わに:古代に百済から渡来した人物。生没年不詳。伝承によると、漢の高祖の子孫といい、「日本書紀」では、応神天皇の時に同じ百済からの渡来人であった阿直岐(あちき:記紀に見える朝鮮使節の一人で、応神天皇の時、百済王より遣わされて馬二頭を献上したという。経典に通じ、皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となった。阿直氏の祖とされ、「古事記」では「阿知吉師(あちきし)」)に推挙されて来朝し、「論語」や「千字文」を本朝に持ち込んだといわれる)の子孫と伝えられる。河内国古市郡に住み、主に文筆を以って大和朝廷に仕えた)『の王仁の伝説をまねて創作されたものだという。田中史夫は、王辰爾が中国系の王氏の姓を持っていることに着目しており』、『鈴木靖民によると、実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系百済人だという』。『子に那沛故』(なはこ)『が、孫に船王後』(ふな(ふね)のおうご)『がおり、子孫はのち連』(むらじ)『姓に改姓し、さらに一部は天長年間(』八三〇『年頃)に御船氏(御船連・御船宿禰)に改姓している』。延暦九(七九〇)年に『菅野』(すがのの)『朝臣姓を賜る事を請願した百済王仁貞・元信・忠信および津真道らの上表によれば、辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連・津連の租である』。『また、これに合致する形で新撰姓氏録において』、『辰孫王の後裔に相当する氏族に、右京の菅野朝臣・葛井宿禰・宮原宿禰・津宿禰・中科宿禰・船連のほか、摂津国の船連などがみえる』。「日本書紀」に『よれば、欽明天皇』三〇(五六九)年には『王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉』(しらいのみやけ:吉備国に設置された大和朝廷の屯倉(直轄地))『に派遣され、田部の丁籍が定められた。これにより』、『胆津には白猪史の姓が授けられ、田令に任ぜられた』。『さらに』敏達天皇三(五七四)年十月には『船史王辰爾の弟の牛が津史姓を与えられ』ている、とある。

「飯の氣〔(かざ)〕に蒸〔(む)〕し、帛を以つて羽を印(を)して、悉く其の字を寫す」飯を蒸す際の湯気の上にそれを翳(かざ)して、水蒸気を含ませて乾燥した書かれた墨の字を潤ませ、それを白い絹の布にトレースしたのである。頭(あったま)いい!!!

「竟宴〔(きやうえん)〕〔歌〕」(現代仮名遣「きょうえんか」)「竟宴」は、平安時代に宮中で進講や勅撰集の撰進が終わった後に催された酒宴を指す。諸臣に詩歌を詠ませたり、禄を賜ったりした。別に、広く祭りの後に催される宴会である直会(なおらい)をも指す。ここは前者で採っておく。

「世の中に君なかりせば烏羽〔(からすば)〕にかける言の葉猶〔なほ〕消えなまし」かなり調べてみたのであるが、この歌の出所も本歌の出典も前と同様、不詳。識者の御教授を乞う。

「應神天皇」確定的ではないが、四世紀末から五世紀初頭に実在した可能性の高い天皇。第十五代に数えられる。名は「ほんだわけのみこと」または「おおともわけのみこと」。仲哀天皇の第四皇子で、母は神功皇后。先帝が没した際、なお母后の胎中にあったため、「胎中天皇」ともいう。彼及びその時代に関する記紀の伝承は豊富で、池溝開発・内政整備の記事の他、王仁の来朝、「論語」や「千字文」の奉献を始めとして、弓月君・阿知使主らの渡来人や、漢籍・儒学・工芸の輸入などに関するものが多く、この時代に於ける大和国家の勃興と、大陸や半島の先進文化の流入とをよく示している(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「荒田〔(あらた)〕の別〔(わけ)〕」古代東国の豪族上毛野(かみつけの)氏らの先祖で、神功皇后や応神天皇の時代の人とされる。「日本書紀」によると、神功皇后の時、新羅との紛争解決のために鹿我別(かがわけ)とともに同地に派遣され、現在の慶尚南道の七国や済州島を陥れて、百済王近肖古と王子貴須と会見した。また、前の注で示した通り、応神天皇の時に、百済に使いして、阿直岐の推す王仁を招いて連れ帰った。この王仁招聘のことは、「続日本紀」の延暦九(七九〇)年七月の条の、百済王氏らの上表文中にも述べられている。神功皇后時代の新羅侵攻は、その史実性に疑いが持たれているが、早い時期から対朝鮮外交に活躍した人物が関東の勢力の中に実在したことは認められてよいだろう(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「搜聘〔(さうへい)〕」「聘」は礼を尽くして人を招く意。

「宗族〔(しうぞく)〕を擇〔(えら)び〕」王統の宗家の者を選んで。

「辰孫王」(三五六年~?)は百済の第十四代国王近仇首王(きんきゅうしゅおう ?~三八四年)の孫で辰斯王の息子。ウィキの「辰孫王によれば、『応神天皇時代、祖父近仇首王の命を受けて』、『学者王仁と一緒に』「論語」十巻と「千字文」一巻を『携え、船で全羅南道霊岩郡から日本に渡った』。彼は『百済には帰国せずに日本に定着し』、『菅野氏と葛井寺』(ふじいでら)『の始祖となる。息子太阿郎王は仁徳天皇の近侍となった』とある。

「皇太子」正規に立太子されていたのは菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)である。実際には異母兄弟の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:後の仁徳天皇)と皇位を譲り合ったが、そうこうしているうちに薨去してしまった(「日本書紀」は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)。仁徳の即位は崇神の没年から三年後で、その三年間は皇位は空席であった。

「其の子、太阿郞王、【其の子〔の〕】亥陽君、【其の子〔の〕】午定若、三〔(み)〕たりの男を生む【長子、味沙。中子、辰爾。季子、麻呂。】」この系譜はウィキの「辰孫王の家系と照らしてみても間違いない。

「三姓」菅野氏(津氏)・葛井(寺)氏・船氏の三つか。

「職〔(つかさど)る〕所に因りて氏を命じ、辰爾〔は〕「船〔(ふな)〕」〔の〕長(をさ)と爲る」水運を職掌したようである。葛井(寺)氏は後に遣唐使を輩出しているので外交を、菅野氏は後に「津氏」に改名しているところからは港湾管理を担当したか。]

2018/11/25

大和本草卷之十三 魚之上 ハス

 

【和品】

ハス 生江湖中琵琶湖ニ多シ味ヨシ長七八寸細鱗白

 色尾鬣赤初夏時出連行其性好飛躍越舩飛游

 四五月自湖底泝於河溝以網取之浮陽之魚也

 以蝦及蚯蚓爲餌釣之或曰氣味甘溫無毒養脾

 胃益氣力補虛乏和胃止瀉作鮓最美爲炙亦良

 ○順和名ニ鰣魚ヲ波曾ト訓ス然レ𪜈本草綱目所

 載鰣魚ニアラス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ハス 江湖の中に生ず。琵琶湖に多し。味、よし。長さ七、八寸。細き鱗、白色。尾・鬣〔(ひれ)〕、赤し。初夏の時、出で、連〔なり〕行く。其の性、飛躍を好み、舩〔(ふね)〕を越ゆ。飛び游ぐ。四、五月、湖底より河・溝〔(みぞ)〕に泝〔(さかのぼ)〕る。網を以つて之れを取る。浮陽の魚なり。蝦〔(ゑび)〕及び蚯蚓〔(みみず)〕を以つて餌と爲し、之れを釣る。或いは曰はく、氣味、甘、溫。毒、無し。脾胃を養ひ、氣力を益す。虛乏を補ひ、胃を和〔(なご)ませ〕、瀉を止む。鮓〔(すし)〕に作り〔て〕最も美〔(よ)〕し。炙り爲して、亦、良し。○順が「和名」に、鰣魚を『波曾〔(はそ)〕』と訓ず。然れども「本草綱目」所載の「鰣魚」にあらず。

[やぶちゃん注:条鰭綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinaeハス属ハス亜種ハス Opsariichthys uncirostris uncirostrisウィキの「ハス(魚)」より引く。『コイ科』(Cyprinidae)『魚類としては珍しい完全な魚食性の魚である』。『成魚の体長は多くの場合』、三十センチメートル、『最大で』四十センチメートル『に達する。オスの方がメスより大型になる』性的二形。『頭部を除いた体つきはオイカワ』(コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus)『に似て、前後に細長い流線型、左右も平たく側扁し、尻びれが三角形に大きく発達する。体色は背中が青みを帯び、体側から腹部にかけては銀白色である。口は下顎が上顎より前に突き出ていて、口が上向きに大きく裂け、唇が左右と前で「へ」の字に計三度折れ曲がる。目は小さく、他のコイ科魚類に比べて』、『背中側に寄っている。この独特の風貌で他の魚と容易に区別できる』。『ただ、幼魚のうちは上記のような本種の特徴が弱いため特にオイカワに酷似し』、『識別が困難な場合もある。成長するにつれ、頭部が大きくなり、眼が上方背面寄りに移動し、独特の口の形状も顕著となっていく。また、オスのほうがメスよりも本種の外部形態上の特徴が強く発現される』。『主に河川の中流』・『下流や平野部の湖沼に棲息する。酸欠に極めて弱く、高温耐性も高い方ではないが、霞ヶ浦のような水質の悪い水域にも生息することはできる』。『肉食性。アユ、コイ科魚類、ハゼ類などの小魚を積極的に追い回し』、『捕食する。独特の形状に発達した口も、くわえた魚を逃がさないための適応とみられる』。『動作は敏捷で、小魚を追い回す時や川を遡る時、驚いた時などはよく水面上にジャンプする。また琵琶湖での生態調査では、一つの地点から放流した標識個体が一月でほぼ湖全体に分散してしまったことが報告されており、長距離の遊泳力にも優れることが窺える』。『ハスはコイ科魚類、そして日本在来の淡水魚では数少ない完全な魚食性の魚で、ナマズと同様に淡水域の食物連鎖の上位に立つ。日本在来の魚食性淡水魚はナマズやドンコやカワアナゴ、カジカ類など待ち伏せ型が多いが、ハスは遊泳力が高く追い込み型である点でも唯一といえる存在であった』。『繁殖期は』六~七『月頃で、この時期のオスはオイカワに似た婚姻色が現れる。湖や川の浅瀬にオスとメスが多数集まり、砂礫の中に産卵する』。『孵化した稚魚は成魚ほど口が裂けておらず、ケンミジンコなどのプランクトンを捕食するが、成長に従って口が大きく裂け、魚食性が強くなる。 寿命は飼育下で』七『年ほどである』。『東アジアと日本に分布する』。『日本国内の自然分布は琵琶湖・淀川水系と福井県の三方五湖に限られる。しかし』二十『世紀後半頃からアユなど有用魚種の放流に混じって各地に広がり、関東地方や中国地方、九州などにも分布するようになった。今日では流れの比較的緩やかな水域ではポピュラーな魚のひとつとなっている。一部では食害の報告もあったが、他の外来種のほうがクローズアップされやすいためか、それほど問題とはされていない』。『日本以外ではアムール川水系、朝鮮半島、長江水系からインドシナ半島北部にかけての他、台湾にも分布する』。四『ヶ所の分布域ではそれぞれ』以下の通り、『亜種に区分されている』。

Opsariichthys uncirostris uncirostris(日本)

Opsariichthys uncirostris amurensis(アムール川)

Opsariichthys uncirostris(朝鮮半島・長江からインドシナ半島及び海南島。但し、亜種ではなく別種 Opsariichthys bidens とする説もある)

『容姿がオイカワに似ていることもあり、淀川流域ではオイカワを「ハス」、ハスを「ケタバス」と呼ぶ。標準和名との混乱があるので注意を要する。また、その風貌とオイカワの別称である「ヤマベ」から「オニヤマベ」と呼ぶ事もある』。『中国語では「馬口魚 mǎkǒuyú」と称し、別名に「桃花魚」、「山」、「坑爬」、「寛口」がある。地方名では、福建省の客家語で「大口魚」、莆仙語で「闊嘴耍」と呼ばれる。広東省ではオイカワとの混称で「紅車公」と呼ばれる』。『警戒心が強く、動きが機敏で引きの力も強いため、分布域ではルアーなどによる釣りの対象として人気がある。釣りの他にも刺し網や投網などで漁獲される』。『身は白身で、塩焼き、天ぷら、唐揚げ、南蛮漬け、車切り(雌の背ごしを洗いにした物)、などで食べられる。生息数が多い琵琶湖周辺では鮮魚店でも販売されている』。『中国では唐揚げかオイル焼きにすることが多い』。『神経質な』ため、『音や光などに驚いてガラス面に突進し頭をぶつけたり、ジャンプして水槽から飛び出してしまうことが頻繁にあり、それが原因で死んでしまうことがある。また、スレ傷や酸欠、水質悪化、高水温並びに水温差に弱く、上手に飼育しないとすぐに死んでしまう為、飼育の難易度は高い。成魚の場合は狭いと弱るため、最低でも』九十センチメートル『以上の水槽が不可欠となる。泳ぎは機敏で落ち着きがなく高速で泳ぎ回る』ことから、『衝突防止策としてガラス面には水草をたくさん植えて、ジャンプによる飛び出しを防止する』ので、『水槽の上部にはクッション性があるものでフタをするとよい。餌は成魚は配合飼料に慣れるのに時間がかかるため、最初のうちは小魚、赤虫の生餌などがよい。尚、配合飼料に慣れさせる為には、オイカワを一緒に飼育すると効果的である』。十センチメートル『くらいの幼魚であれば』、『成魚よりも比較的飼い易い』とある。「鰣」は福井県三方湖とこれに注ぐ鰣川(リンクはグーグル・マップ・データ)にも産し、「鰣」という名はこの鰣川に由来する。一説に鰭が早く傷むところから、「早子(はす)」とされるともあった。

「尾・鬣〔(ひれ)〕、赤し」「尾」「鬣」は分離した。ハスは個体差があるが、一部の個体は尾鰭だけでなく、他の鰭も赤みを持つものが有意に認められるからである。グーグル画像検索「Opsariichthys uncirostrisを見られたい。

「連〔なり〕行く」群れを成すの意で採る。

「浮陽」不詳。漢方用語に「浮陽」=「戴陽(たいよう)」という語があり、下部が真寒の様態で、上部が仮熱の状態を指す、とあるので、頭部が熱を持った魚で、それで、水中から飛び出る(という説明は私の勝手な解釈)というのか? よく判らぬ。

「脾胃」複数回既出既注。漢方で広く胃腸・消化器系を指す。

「虛乏」あるべきバランスのとれた正気が欠乏している状態。

『順が「和名」に、鰣魚を『波曾〔(はそ)〕』と訓ず』源順の「和名類聚鈔」巻十九の「鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六」に、

   *

鰣 「唐韻」云、鰣【音「時漢語抄」云、『波曾』。】、魚名也。似魴肥美、江東四月、有之。

   *

『「本草綱目」所載の「鰣魚」にあらず』「本草綱目」巻四十四「鱗之三」に、

   *

鰣魚【「食療」。】

釋名寗源曰、初夏時有、餘月則無、故名。

出産時珍曰、按孫愐云、鰣出江東、今江中皆有、而江東獨盛、故應天府以充御貢。每四月鱭魚出後卽出、云従海中泝上、人甚珍之。惟蜀人呼爲瘟魚、畏而不食。

集解時珍曰、鰣、形秀而扁、微似魴而長、白色如銀、肉中多細刺如毛、其子甚細膩。故何景明稱其銀鱗細骨、彭淵材恨其美而多刺也。大者不過三尺、腹下有三角硬鱗如甲、其肪亦在鱗甲中、自甚惜之。其性浮游、漁人以絲網沈水數寸取之、一絲罣鱗卽不復動才、出水卽死、最易餒敗。故袁達「禽蟲述」云、鰣魚罥網而不動、其鱗也。不宜烹煮。惟以筍・莧・芹・荻之屬、連鱗蒸食乃佳。亦可糟藏之。其鱗與他魚不同、石灰水浸過、晒乾層層起之、以作女人花鈿甚良。

氣味甘、平、無毒。詵曰、發疳痼。

主治補虚勞【孟詵。】。蒸下油、以瓶盛埋土中、取塗湯火傷甚效【寗源。】。

   *

書いてあることは、益軒が記した内容とかなり合致するのに、益軒が同名異魚と断じている理由が全く判らぬ。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 犬

 

         

 

なぜ吠えるのだ、二疋とも

吠えてこつちへかけてくる

 (夜明けのひのきは心象のそら)

頭を下げることは犬の常套(じやうたう)だ

尾をふることはこわくない

それだのに

なぜさう本氣に吠えるのだ

その薄明(はくめい)の二疋の犬

一ぴきは灰色錫

一ぴきの尾は茶の草穗

うしろへまはつてうなつてゐる

わたくしの步きかたは不正でない

それは犬の中の狼のキメラがこわいのと

もひとつはさしつかえないため

犬は薄明に溶解する

うなりの尖端にはエレキもある

いつもあるくのになぜ吠えるのだ

ちやんと顏を見せてやれ

ちやんと顏を見せてやれと

誰かとならんであるきながら

犬が吠えたときに云ひたい

帽子があんまり大きくて

おまけに下を向いてあるいてきたので

吠え出したのだ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「なぜさう本氣に吠えるのだ」底本は「なぜさう本氣にえるのだ」。誤植。「正誤表」にあるので、訂した。

・「もひとつはさしつかえないため」の「さしつかえ」の「え」はママ。「手入れ本」は宮澤家版が大きく改変しているので、その最終形を一部推敲も含めて示す。

   *

 

         

 

なぜ吠えるのだ、二疋とも

吠えてこつちへかけてくる

 (夜明けのひばは鐡のそら)

頭を下げるは犬の常套(じやうたう)

尾をふることはこわくない

それだのに

なぜさう本氣に吠えるのだ

その薄明(はくめい)の二疋の犬

一ぴきは病態の病氣の錫で

一ぴきの尾は茶の草穗

うしろへまはつてうなつてゐる

ひどく不正なわけでもないわたくしの步きかたは

そんなに不正な筈がない

それは犬の中の狼のキメラがこわいのと

もひとつはさしつかえないため

犬は薄明に溶ける

うなりの尖端(きり)にはエレキもある

ぜんたいつもあるくのに

おうしてそんなに吠えるのだ

ちやんと顏を見せてやれ

ちやんと顏を見せてやれと

誰かとならんであるきながら

犬が吠えたときに云ひたい

帽子があんまり大きくて

おまけに下を向いてきたので

吠え出したのにちがひない

 

   *

私は賢治の「手入れ」を概ね改悪と採るが、本詩篇はこの手入れをした方がよいと感ずる。

 諸家の記事を読むと、宮澤賢治は基本、犬とは相性が悪かったようであり、「頭を下げることは犬の常套(じやうたう)だ」とか、「尾をふることはこわくない」という部分はかえって誰もが当たり前に知っている犬の習性を、今までのように読者や学校の生徒に科学的・天文学的解説と同じ感じでやらかしているような滑稽さえ感じる。宮澤家では犬を飼ったことがないようで、賢治は小学生時代によく近所で飼っていた犬によく吠えられた結果、犬にトラウマがあったらしいなどと記すものもある。「心象スケツチ 春と修羅 第二集」の「丘陵地を過ぎる」(大正一三(一九二四)年三月二十四日)でも、『ははあきみは日本犬ですね/(一字下げ)生藁の上にねそべつてゐる/(一字下げ)顏には茶いろな縞もある/どうしてぼくはこの犬を/こんなにばかにするのだらう/やっぱりしやうが合はないのだな』とあり、童話「注文の多い料理店」では狩猟家の連れた『白熊のやうな』『二疋』の『犬』はのっけから、訳の分からない『山が物凄いので』という原因、『二疋いつしょにめまいを起して、しばらく吠つて、それから泡を吐いて死んでしま』わせている(その死んだはずの犬が、後で猟師たちを救いに飛び込んでくるというおかしな展開には、愚鈍な小学生だった私でも目が点になったのをよく覚えている)し、かの名作「銀河鉄道の夜」の中でも、「三、家」で、カンパネルラがジョバンニに語りかける印象的な会話の中で、「ザウエルといふ犬がゐるよ。しつぽがまるで箒のやうだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうつと町の角までついてくる。もつとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだつて。きつと犬もついて行くよ。」と出るものの、この「ザウエル」も語られるだけで、その後には登場してこない。なお、本作の一部を前の東岩手火山」の夜の宙天の星座との関係性を持たせて解釈したもの有意に見られる(それ自体は或いは正統にして正当とも言えるのかも知れない。そのために賢治は前の詩篇の最後に、不思議な『( 犬、 マサニエロ等 )』、この詩篇は次の「犬」や「マサニエロ」と続くのだ、という広告染みたそれをよく説明するようにも思われるからである。実際に「東岩手火山」では「大犬のアルフア」が名指されてはいる)。例えば、その優れた一つは、加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の『賢治の「犬」と「キメラ」』で、そこでは、「なぜ吠えるのだ 二疋とも/吠えてこつちへかけてくる」を『東天からおおいぬ座、こいぬ座が日周運動で昇ってくる様子を示している』とし、「その薄明の二疋の犬」は『薄明の東天に』、『おおいぬ座、こいぬ座が見えている』ことで、「犬は薄明に溶解する」とは、『薄明のため、見えている恒星がしだいに減り、星座はだんだんと「溶解」するように消えてゆく』ことだとされておられる。それはそれで凡愚な私は、御説御尤もと思うものの、それがそれでは詩篇全体を通したマクロな解釈へと止揚する鑰(かぎ)となるのかという点に於いて、留保せざるを得ない。誰より早く「一番星を見つけた!」のは判るが、それが詩篇全体を解明する秘鑰(ひせき)たるものであることを、果敢に続けて全き漏れなしに解釈して示すのでければ、その発見は、あのしょぼくれた「東岩手火山」のエンディングのように、あっけなく夜空は明けてしまい、星は瞬く間に見えなくなってしまう。「なぜ、吠えるのだ、二疋とも」から始まって、最後の「帽子があんまり大きくて」/「おまけに下を向いてきたので」/「吠え出したのにちがひない」まで総ての暗号文を天文学的な意味に変換して全解読しない限り、その発見は生きない、と私は思うからである。翻って、こうしたかなり詳しい天文学的知識を必要とする解析は、現在でも通常の読者の成し得るものではないと思う。いや、寧ろ、そうした天文学的知識によって部分解析した人は、逆にこの詩篇全体は何を言っているかは判らない、狂人に戯言としか思われない、と言いそうな気もするのである(私は嘗ての同僚の優れた理数の教師たちを想起した時、そうした印象を強く持つ)。また、私はそうしたテクスト論的解釈は好まない。キビ悪く、「こゝろ」の学生が「先生」の「奥さん」と結婚してしまうというようなそれまでの忌避感はないけれども。

 しかし、この一篇は徹底的に神経症的に病的であると私は思う(私のように、である)。イヌ恐怖症(Cynophobia:サイナフォビア)というわけではないが、賢治が犬に対し、完全に忌避するのでもなく、同じ生き物としての共感を抱こうとするスタートはあるものの、賢治が抱いているある漠然とした不吉な暴力的な予感を感じざるを得ない(私も同じだから、である)。「うしろへまはつてうなつゐる」には賢治の詩篇にしばしば見受けられる、ある種の、強迫神経症や統合失調症の初期症状などで見られる追跡妄想的気分の影が窺えるように思われ、「うなりの尖端にはエレキもある」は確かに今までも自然界から受ける霊的な波動を彼は電気に喩えることしばしばなのではあるが、私は寧ろ、ここでは犬の唸り声に私を害するある種の電波があるという表現置換をしたくなる。「私に悪い電波を送っている」というのは統合失調症の初期症状に高い確率で見られるのである(私は教え子(複数いた)だけでなく、その保護者からも『私は「悪い電波」に襲われている』と愁訴された経験がある。因みに彼らは後に、全員が統合失調症と診断された)。

「(夜明けのひのきは心象のそら)」ここだけが丸括弧にされている点に注意すべきである。この煽りのワン・ショットだけが陽画で「薄明」(賢治が最も好んだ語の一つであろう)の鮮やかで凛とした気に満ちた印象的なカラー画像である。「ひのき」檜。ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa。これも賢治が好んだ樹種の一つである。いや、寧ろ、「心象の」空は「夜明けの」檜が立ち竦む――その夜明けの空に立ち竦む檜の心象自体が自己の投影、心象風景であると読み換えても私はよいと思う。

「わたくしの步きかたは不正でない」歩き方が悪いとか変だとかであれば、犬は警戒して吠えて、後をつけてくることもあるだろうが、しかし「わたくしの步きかたは不正でない」のだから、彼らが私をつけてくるのは論理的に説明がつかない、とここで言っている。この謂いは、一見、正しいが、それをかくわざわざ言いつらうこと自体が、既にして何となく尋常じゃないことに気づかれよう。則ち以って神経症的なのである(私も時にそうだから、である)

「それは犬の中の狼のキメラがこわい」「キメラ」chimerachimaera。生物学で同一個体中に遺伝子型の違う組織が互いに接して存在する現象をいい、動物では「モザイク」(mosaic)とも称する。昆虫にみられるような雌雄型の入り交ったものは雌雄モザイク gynandromorphという。キメラとは、もともとはギリシア神話に出てくる幻獣キマイラ(頭がライオン、胴と尾が羊で、蛇の頭をもち,火を吐く雌の怪獣)に由来する。植物でキメラをつくるには、まず、接木(つぎき)を行い、接木部でそれを切断し、そこから新芽を生じさせてその芽の中に接穂に由来した組織と台木に由来した組織とが混在されるようにしたもので容易に作ることが出来る。混在の仕方が周辺部と内部とで異なるものを「周辺キメラ」、左右で異なるものを「区分キメラ」と呼び、普通に見かける斑入り葉も一種のキメラであり、体細胞突然変異によって生じたものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここは犬(食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ下目イヌ科イヌ亜科イヌ族イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の中に、かつての獰猛な人を襲う狼(Canis lupus)の遺伝的要素(習性)が隠れており、それが「先祖返り」のように発言して私を襲ってくるのではないか、それが「怖い」と言っているのであるが、この一見、科学的であるかのような謂いに、やはりフォビアとしての関係妄想的気分が充満して病的である。

「もひとつはさしつかえないため」「と」で並列しているために判りにくくなっている。この判りにくさ自体が神経症的気分の特性でもある。恐らくは、「犬の中の狼のキメラがこわい」のだが、「わたくしの步きかたは不正でない」のだから、「それは」実は理不尽である、私はお前に襲われる筋合い・論理的理由は皆無である、だから、私はキメラの恐れに動転して妙な行動をとったりは決してしないぞ! と冷静さを装っているのであり、そうした神経症的な自身のイラクサのような神経を押し隠し、ことさらに防衛的言辞を弄しているに過ぎないのである。

「犬は薄明に溶解する」フォビアが現実を最後に侵犯する。犬は実態を失って、彼の周囲の現況の大気の中に溶け込み、目に見えぬ恐怖として彼を襲う。しかしこれがまた、苛立った感覚の頂点でもある。

「いつもあるくのになぜ吠えるのだ」/「ちやんと顏を見せてやれ」/「ちやんと顏を見せてやれと」/「誰かとならんであるきながら」/「犬が吠えたときに云ひたい」/「帽子があんまり大きくて」/「おまけに下を向いてあるいてきたので」/「吠え出したのだ」神経症的気分が最後に徐々に鎮静してゆくのが判る。顔を見せて敵意がないことを見せてやれば、彼らは私を襲ってこないはずだ、私の「帽子があんまり大きくて」「おまけに下を向いてあるいてきたので」彼らは生き物として自然の行動として警戒し「吠え出したのだ」から、「ちやんと顏を見せてやれ」ば、それで安心なはずなのだ、というのは至って正常な普通の意識から発せられる主張である。それは極めて正当である。しかし、問題はそれがまた(「まだ」と言うべきか)、不安な捩じれを引き起こしている点にある。即ち、『「ちやんと顏を見せてやれ! ちやんと顏を見せてやれ!』と、「誰かと」並んで歩きながら、「犬が吠えた」時には「云ひたい」気分なんだ! という内的な神経症的なまどろっこしい叫びとなっている点である。並んで歩く「誰か」とは誰かを考えることは私は意味がないと思っている(心の深奥にある種の厭人的資質を持っているとも思われる賢治を考えると、心から判って貰える人物、例えば熱愛している保阪嘉内辺りを想起出来ないことはないが)。寧ろ、「誰かとならんであるく」という謂いは、社会的人間として他者とこの苛立つ世界に共存していかねばならない詩人の謂いではあるまいか? この一篇は、本質的には誰も真の私を理解してくれる他者はいないと鬱々としている、薄明に屹立する孤独な詩人の姿が私には垣間見えるのである。]

 

2018/11/24

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 東岩手火山

 

 

 

     

 

 

 

            

 

月は水銀、後夜(ごや)の喪主(もしゆ)

火山礫(れき)は夜(よる)の沈殿(ちんでん)

火口の巨(おほ)きなえぐりを見ては

たれもみんな愕くはづだ

 (風としづけさ)

いま漂着(ひやうちやく)する藥師外輪山(ぐわいりんざん)

頂上の石標もある

 (月光は水銀、月光は水銀)

⦅こんなことはじつにまれです

向ふの黑い山……つて、それですか

それはここのつづきです

ここのつづきの外輪山です

あすこのてっぺんが頂です

向ふの?

向ふのは御室火口です

これから外輪山をめぐるのですけれども

いまはまだなんにも見えませんから

もすこし明るくなつてからにしませう

えゝ 太陽が出なくても

あかるくなつて

西岩手火山のはうの火口湖やなにか

見えるやうにさへなればいいんです

お日さまはあすこらへんで拜みます)

 黑い絕頂の右肩と

 そのときのまつ赤な太陽

 わたくしは見てゐる

 あんまり眞赤な幻想の太陽だ

⦅いまなん時です

三時四十分?

ちやうど一時間

いや四十分ありますから

寒いひとは提燈でも持つて

この岩のかげに居てください⦆

 ああ、暗い雲の海だ

(向ふの黑いのはたしかに早池峰です

線になつて浮きあがつてるのは北上山地です

 うしろ?

 あれですか

あれは雲です、柔らかさうですね、

雲が駒ケ嶽に被さつたのです

水蒸氣を含んだ風が

駒ケ嶽にぶつつかって

上にあがり、

あんなに雲になつたのです。

鳥海山(ちやうかいさん)は見えないやうです、

けれども

夜が明けたら見えるかもしれませんよ⦆

  (柔らかな雲の波だ

   あんな大きなうねりなら

   月光會社の五千噸の汽船も

   動搖を感じはしないだらう

   その質は

   蛋白石、glass-wool

   あるひは水酸化礬土の沈殿

⦅じつさいこんなことは稀なのです

わたくしはもう十何べんも來てゐますが

こんなにしづかで

そして暖かなことはなかつたのです

麓の谷の底よりも

さつきの九合の小屋よりも

却つて暖かなくらゐです

今夜のやうなしづかな晚は

つめたい空氣は下へ沈んで

霜さへ降らせ

暖い空氣は

上に浮かんで來るのです

これが氣溫の逆轉です

 御室火口の盛(も)りあがりは

 月のあかりに照らされてゐるのか

 それともおれたちの提灯のあかりか

 提灯だといふのは勿体ない

 ひわいろで暗い

⦅それではもう四十分ばかり

寄り合つて待つておいでなさい

さうさう、北はこつちです

北斗七星は

いま山の下の方に落ちてゐますが

北斗星はあれです

それは小熊座といふ

あの七つの中なのです

それから向ふに

縱に三つならんだ星が見えませう

下には斜めに房が下がつたやうになり

右と左には

赤と靑と大きな星がありませう

あれはオリオンです、オライオンです

あの房の下のあたりに

星雲があるといふのです

いま見えません

その下のは大犬のアルフア

冬の晚いちばん光つて目立(めだ)つつやつです

夏の蝎とうら表です

さあ、みなさん、ご勝手におあるきなさい

向ふの白いのですか

雲ぢやありません

けれども行つてごらんなさい

まだ一時間もありますから

私もスケツチをとります)

 はてな、わたくしの帳面の

 書いた分がたつた三枚になってゐる

 殊によると月光のいたづらだ

 藤原が提灯を見せてゐる

 ああ頁が折れ込んだのだ

 さあでは私はひとり行かう

 外輪山の自然な美しい步道の上を

 月の半分は赤銅(しやくどう)、地球照(アースシヤイン)

⦅お月さまには黑い處もある⦆

 ⦅後藤(どう)又兵衞いつつも拜んだづなす⦆

  私のひとりごとの反響に

  小田島治衞(はるゑ)が云ってゐる

⦅山中鹿之助だらう⦆

  もうかまはない、步いていゝ

    どつちにしてもそれは善(い)いことだ

二十五日の月のあかりに照らされて

藥師火口の外輪山をあるくとき

わたくしは地球の華族である

蛋白石の雲は遙にたゝえ

オリオン、金牛、もろもろの星座

澄み切り澄みわたつて

瞬きさへもすくなく

わたくしの額の上にかがやき

 さうだ、オリオンの右肩から

 ほんたうに銅靑の壯麗が

 ふるえて私にやつて來る

 

三つの提灯は夢の火口原の

白いとこまで降りてゐる

⦅雪ですか、雪ぢやないでせう⦆

困つたやうに返事してゐるのは

雪でなく、仙人草のくさむらなのだ

さうでなければ高陵土(カオリンゲル)

殘りの一つの提灯は

一升のところに停つてゐる

それはきっと河村慶助が

外套の袖にぼんやり手を引つ込めてゐる

⦅御室(おむろ)の方の火口へでもお入りなさい

噴火口へでも入つてごらんなさい

硫黃のつぶは拾へないでせうが⦆

斯んなによく聲がとゞくのは

メガホーンもしかけてあるのだ

しばらく躊躇してゐるやうだ

 ⦅先生 中さ入つてもいがべすか⦆

⦅えゝ、おはいりなさい 大丈夫です⦆

提灯が三つ沈んでしまふ

そのでこぼこのまつ黑の線

すこしのかなしさ

けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ

大きな帽子をかぶり

ちぎれた朱子のマントを着て

藥師火口の外輪山の

しづかな月明を行くといふのは

 

この石標は

下向の道と書いてあるにさういない

火口のなかから提灯が出て來た

宮澤の聲もきこえる

雲の海のはてはだんだん平らになる

それは一つの雲平線(うんぴやうせん)をつくるのだ

雲平線をつくるのだといふのは

月のひかりのひだりから

みぎへすばやく擦過した

一つの夜の幻覺だ

いま火口原の中に

一點しろく光ひかるもの

わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか

私は氣圈オペラの役者です

鉛筆のさやは光り

速かに指の黑い影はうごき

唇を圓くして立つてゐる私は

たしかに氣圈オペラの役者です

また月光と火山塊のかげ

向ふの黑い巨きな壁は

熔岩か集塊岩、力い肩だ

とにかく夜があけてお鉢廻りのときは

あすこからこつちへ出て來るのだ

なまぬるい風だ

これが氣溫の逆轉だ

  (つかてゐるな、

   わたしはやっぱり睡いのだ)

火山彈には黑い影

その妙好(みやうこう)の火口丘には

幾條かの軌道のあと

鳥の聲!

鳥の聲!

海拔六千八百尺の

月明をかける鳥の聲、

鳥はいよいよしつかりとなき

私はゆっくりと踏み

月はいま二つに見える

やつぱり疲れからの乱視なのだ

 

かすかに光る火山塊の一つの面

オリオンは幻怪(げんくわい)

月のまはりは熟した瑪璃と葡萄

あくびと月光の動轉(どうてん)

    (あんまりはねあるぐなぢやい

     汝(うな)ひとりだらいがべあ

     子供達(わらしやども)連れてでて目にあへば

     汝(うな)ひとりであすまないんだぢやい)

火口丘(くわこうきう)の上には天の川の小さな爆發

みんなのデカンシヨの聲も聞える

月のその銀の角のはじが

潰れてすこし圓くなる

天の海とオーパルの雲

あたたかい空氣は

ふつと撚(より)になつて飛ばされて來る

きつと屈折率も低く

濃い蔗糖溶液(しよたうようえき)に

また水を加へたやうなのだらう

東は淀み

提灯(ちやうちん)はもとの火口の上に立つ

また口笛を吹いてゐる

わたくしも戾る

わたくしの影を見たのか提灯も戾る

  (その影は鐵いろの背景の

   ひとりの修羅に見える筈だ)

さう考へたのは間違ひらしい

とにかくあくびと影ばうし

空のあの邊の星は微かな散

すなはち空の模樣がちがつてゐる

そして今度は月が蹇(ちぢ)まる。

 

 

            ( 犬、 マサニエロ等 )

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月十八日の作。新パート「岩手東岩手火山」となっているのであるが、先の「グランド電柱」末尾の二篇「銅線」「瀧澤野」は、この前日からの同じ岩手登山のロケーション内の作品であり、それは注意深い読者なら直に判る。さすれば、賢治が、創作のある種の内的なクライマックスによって、本書の一見、編年体の整然とした順列の詩篇に対し、しかし、ある特殊な感性的区別を行って、それを読者にも理解して貰いたいと思っていることが、よく判る部分なのである(恐らくは、前に述べた創作クレジットに特殊な二重丸括弧を附すものがあるのも、これと同様にある特異点を読者に暗示させる別手法なのだと私は確信している)。ロケーションその他は前の同日作「銅線」の注の冒頭を参照されたいが、岩手山登山の九合目の泊りから翌未明の頂上での出来事が描かれている。

 本篇は本書刊行前、大正一二(一九二三)年四月七日附『岩手毎日新聞』で「心象スケツチ外輪山」という標題(「スケ」/「ツチ」は紙面では二行割注形式で挿入)発表しており(初出原稿はなく、総ルビであるが、とんでもない読みが附されてある箇所も多く、この多くの部分は当時の慣習から考えて賢治の附したものではない。近代の著名な作家でも総ルビを附す作家は泉鏡花などのごく限られた者しかおらず、殆んどは校正係が好き勝手にルビを振っていた(時には自分の趣味で文章をいじったりした!)のである。実現しなかったが、堀辰雄が、編集委員であった岩波書店の第一次「芥川龍之介全集」の編集作業に於いて、全作品の総てのルビを除去することを提案したのは実は正統にして正当なことなのであった)、本書用原稿もあるが、長詩なので、それらは電子化しない(校本全集口絵に初出画像が載っていたのでそれをもとに初出形を完全復元しようとも思ったが、一部が欠けている写真であったのでやめた)。幸い、hamagaki氏のサイト「宮澤賢治の詩の世界」のこちらで『岩手毎日新聞』版「心象スケツチ外輪山」が電子化されており(漢字は新字)本書用原稿のそれ(最終形。新字)もこちらにあり、「手入れ本」(宮澤家本)もこちらに示されてあるので、今回はそちらにおんぶにだっこすることとした。原稿との有意な気になる異同(この原稿と初版本では句読点の有無の異同が異様に激しく散見されるが、それは略した)はいつも通り、以下に示す。

・「お日さまはあすこらへんで拜みます)」の丸括弧はママ。開始点は「⦅こんなことはじつにまれです」で二重丸括弧であり、原稿でも「拜みます⦆」となっているから誤植であるが、「正誤表」なく「手入れ本」にもない。校訂本文は二重丸括弧となっている。

・「提灯だといふのは勿体ない」の「体」はママ。

・「下向の道と書いてあるにさういない」「さうい」はママ。「相違」だから歴史的仮名遣は「さうゐ」が正しい。原稿もママ、「手入れ本」もなし。驚くべきことに、全集校訂本文もそのまま。これは誤りでしょ!

・「熔岩か集塊岩、力い肩だ」は底本では「熔岩か集塊岩、力彌い肩だ」。誤植で、「正誤表」に載るので、補正した。

・「つかてゐるな、」原稿「つかれてゐるな、」。誤植であるが、「正誤表」にない。「手入れ本」は修正。

・「月のまはりは熟した瑪璃と葡萄」「瑪璃」は原稿は「瑪瑙」で誤植。しかし「正誤表」にはなく、「手入れ本」にも修正はない。校本全集は無論、原稿に従って「瑪瑙」とする。

・「やつぱり疲れからの乱視なのだ」「乱」はママ。

・「( 犬、 マサニエロ等 )」本文詩篇最終行から二行空けて、百六十七ページの最終行下方に記されている。これは原稿でも同じ(但し、丸括弧内の前後の一字空けはない)である。「犬」と「マサニエロ」は以下に続く詩篇の標題であるから、一見、後にその原稿が続くということを示す校正書きのように受け取れなくもないが、これは校本全集の校異の文字の起こしから、原稿用紙のマス目にはっきりと書かれたものであることが判るから、そうではない。「手入れ本」も除去していないのはこれが賢治の備忘メモでも何でもない、「ここにこう記すんだ」という確信犯であることを意味しているのである。即ち、これは読者に対しての予告メッセージめいたものと結果的になっている。読者は戸惑う。改頁すると、マサに詩篇「犬」が続き、その後にまたマサに「マサニエロ」がある、という仕掛けとなる。賢治の悪戯っぽい(彼は彼なりに真面目なある意味を含ませているのかも知れぬが、それは大半の読者には判らぬ、私も判らぬ)仕儀である。こういう勝手な思い込み様の部分が、私をして嘗て賢治から遠ざけた一面であるといえる。

 

「東岩手火山」サイト「いわての山々」の「岩手山」によれば、標高二千三十八メートルの岩手山は『東西二つの火山からなり、古い西岩手火山の上に新しい東岩手火山が覆っている。西岩手火山の火口は東西約』三『㎞、南北約』二『㎞の紡錘形をなし、北側の屏風岳、南側の鬼ヶ城を外輪山とする大地獄カルデラと呼ばれている。その内部に中央火口丘としての御苗代火山と御釜火山などがある。東岩手火山は西岩手火山の東斜面に形成された新しい火山で、御鉢と呼ばれる火口をもつ薬師岳、その中央火口丘である妙高岳および二次火口の御室などからなる。御室火口東部には噴気孔があり、活火山の様相を呈している』。享保一七(一七三二)年一月の『噴火では、東岩手火山の北東斜面中腹から多量の溶岩が流出し、「焼走り溶岩流」が形成された』とある。

「後夜(ごや)」仏教で一昼夜を現在の概ね四時間で六分した「六時」の最後。午前二時頃から六時前後の夜明けまでの。「晨朝(じんじょう)」・「日中」・「日没(にちもつ)」・「初夜」・「中夜」・「後夜(ごや)」。この時間毎に懺悔(さんげ)・念仏などの勤行が行われた。

「月は水銀」この前日は月齢25.3、細くなり始めた下弦の月で、当地での月の出は二十三時三十七分、月の入りはこの十八日の十五時二十七分であった。

「喪主(もしゆ)」本熟語には死者を弔う主宰者以外の意はない。しかし、それは葬儀や法要などの当主であるから、それは所謂、施主、サンスクリット語で「ダナパティ」で「陀那鉢底」「檀越(だんおつ)」漢音写される、元来は「布施を成す人」と同義であるわけで、ここは広く「仏法僧に供養する人」、読経をする人、と読み代えることが出来る。事実、既に「銅線」の冒頭注で述べた通り、賢治はこの日の午前三時頃に、頂上近くに登り、読経(無論、「法華経」であろう)を行っているのである。その後、生徒の一人藤原健太郎は目を覚まして彼とともになったが、読経が終わると、賢治はスケッチブックに何か書き始めた、とあるのである(恐らくは本詩篇の初期形なのではないかと思われる)。但し、深夜・未明・暁の火山の火口近くの凄絶感を、この「喪」という字のインパクトで狙ったものとも採れる。

「火山礫(れき)」lapilli(ラピリ)。直径二~六十四ミリメートルまでの火山砕屑(さいせつ)物。これより小さいものを「火山灰」、大きいものを「火山岩塊」と呼ぶ。火山の噴出によって空中で飛散している間に、周囲の火山灰を集めて成長するため、同心状の殻を成る場合がある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「藥師外輪山」東岩手火山の火口を取り囲む外輪山の、北西にある最高峰(岩手山のそれでもある)を薬師岳(二千三十八メートル)と称する。サイト「360@旅行ナビ」の「薬師岳」の地図を参照。同ピークからのパノラマ写真も見られる。後に出る「御室火口」の写真もある。薬師外輪山に囲まれた火口原の中央近くにある「妙高火口丘」にある複雑に抉られた旧火口の写真も見らえる。現在も噴煙が多少出、活動している。

「西岩手火山」岩手火山は、山体の三分の二を占めるこの「西岩手火山」(ここ(グーグル・マップ・データ))と、その外輪山の東に寄生火山として覆い被さった「東岩手火山」が重なった形で形成されている。国土地理院図が非常に判り易い。次の通も参照。

「火口湖」ウィキの「岩木山」によれば、『岩手山と西の黒倉山』(標高千五百七十メートル)『の間に西岩手火山のカルデラがある。このカルデラの成因は不明で、東西に』二・五『キロメートルの長い楕円をなす。中央火口丘をはさんで大地獄谷と左保沢という二つの小河川が北西に流れ出る。中央火口丘の中に、御釜湖と御苗代湖という火口湖がある。小さな御釜湖はほぼ円形で、明瞭な火口湖である。御苗代湖は南東部が火口湖で、その水があふれ出るようにして西に広がっている』とある。

「お日さまはあすこらへんで拜みます」御来光の参拝は外輪山の東の縁辺りを考えているであろう。そこからは賢治の好きな「魚の涎(よだれ)」(前の「瀧澤野」でのそれの形容と思われるもの)「焼け走り溶岩流」もよく見えるはずである。

「黑い絶頂の右肩と」/「 そのときのまつ赤な太陽」/「わたくしは見てゐる」/「あんまり眞赤な幻想の太陽だ」時間を先に行って、その景を想定して前に出してある。

「いまなん時です」/「三時四十分?」/「ちゃうど一時間」/「いや四十分あります」この日の当地での「日の出」は五時十七分であるから、「四時四十分」「四時二十分」は「日の出」の五十七分から三十七分前で、ロケーションが高地で視界が開けて空気も澄んでいるから、所謂薄明の曙になる時間を賢治は指してかく言っているものであろう。

 

「早池峰」岩手山の南東五十四キロメートル弱の位置にある、早池峰山(はやちねさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。岩手県宮古市・遠野市・花巻市に跨り、標高千九百十七で北上山地の最高峰である。

「駒ケ嶽」秋田県仙北市田沢湖生保内の駒ケ岳。標高千六百三十七メートル。岩手山の約二十キロメートル南西に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鳥海山」山形県飽海郡遊佐町吹浦の鳥海山。岩手山の約百十三キロメートル南西。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「月光會社の五千噸の汽船」雲海の「うねり」を海に見立てて、そこを照らす月とその光の連想から、夢想した賢治の幻想の船舶会社とその大型汽船である。五千トンは現在でも大型で、社名から見ても、天界をどっしりと行く豪華客船をイメージしていよう。

「動搖を感じはしないだらう」「あんな大きなうねりなら」という条件であるから、表現が逆となっていい気がするが、或いは、船が大きいならば、大きなピッチングやローリングを感ずることなしに、悠々と漂うであろうという意味か。

「その質」は雲海のその質感。

「蛋白石」(たんぱくせき)はオパール(opal)の和名。色は乳白色・褐色・黄色・緑色・青色など、多様な色を呈する。

glass-woolglasswool。ガラス繊維で出来た綿状素材。オパールでは硬質感が強く出過ぎるので、雲海の無上のソフト感を言い添えるために、かく言い換えたのであろう。

「水酸化礬土の沈殿」「礬土」(ばんど)はアルミナ(alumina:酸化アルミニウム。Al2O3。天然には鋼玉として産出する。アルミニウムの原料式)で、水酸化アルミニウム(Al(OH)3 を指す。水溶液から新たに生成したゲル状の沈殿は酸及び塩基水溶液に容易く溶解し、それはよく白濁したふわふわとして柔らかな印象に見える。

「氣溫の逆轉」気象学に於ける「逆転」は、高度に伴う大気の性質、特に気温の変化が通常と異なる現象(気温逆転)であり、普通ならば高度の上昇に伴って気温が低下するはずであるのに、逆に上昇していることを指す。これが起こる層を逆転層と呼ぶ。『一般に高温の大気は密度が低いため』、『上に移動し、対流が起こる。しかし逆転層があると』、『上の方が密度が低いため、対流は起こらない。従って逆転層によって地表近くの大気がトラップされ、濃霧になったり』する。『逆転層により、遠くの音が大きく聞こえることが多く、また電波伝播に異常が見られることもある。なお逆転層では蜃気楼が起こりやすくなる』。『逆転層は、特に秋・冬の夜間に風が弱いとき、放射冷却で地表面温度が低下することによって形成されやすい(接地逆転層)』。『また風がある場合に冷えた地表・海面の上に温かい大気が流れ込んで発生することもある(移流逆転層)』。『高気圧による下降気流で断熱圧縮が起こり、その結果ある程度の高度(』二キロメートル『程度)に気温の高い層ができることがある(沈降逆転層)』とウィキの「逆転層」にあった。まさに昔から、天狗の仕業と言われた、すぐ近くで倒木音や大きな落石音がしながら、そんな痕跡がなかったり、火の玉のような不思議な発光現象(現代のUFO現象でもしばしばこれが原因とされる。私は小学校高学年で未確認飛行物体の調査会を立ち上げたことがある人間である)があるが、まさにこの気象現象及びそれに纏わる見かけ上の擬似怪異は、科学者としても、幻想作家としても、賢治が最も好む部類のそれと言えるではないか。

「御室火口の盛(も)りあがりは」/「月のあかりに照らされてゐるのか」/「それともおれたちの提灯のあかりか」/「提灯だといふのは勿体ない」この時、科学者賢治の中に、神秘主義者或いは幻想を志向する今一人の賢治が顔を覗かせている感じがする。

「ひわいろ」「鶸色」。鶸(スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する種群の総称であるが、「ヒワ」という種は存在しない)の羽の色に因んだ、黄味の強い明るい萌黄色。これ(サイト「伝統色のいろは」の鶸色のページ)。

「北斗七星は」/「いま山の下の方に落ちてゐますが」/「北斗星はあれです」/「それは小熊座といふ」/「あの七つの中なのです」/「それから向ふに」/「縱に三つならんだ星が見えませう」/「下には斜めに房が下がつたやうになり」/「右と左には」/「赤と靑と大きな星がありませう」/「あれはオリオンです、オライオンです」/「あの房の下のあたりに」/「星雲があるといふのです」/「いま見えません」/「その下のは大犬のアルフア」/「冬の晚いちばん光つて目立(めだ)つつやつです」/「夏の蝎とうら表です」私は星には冥いので、加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の『詩「東岩手火山」をめぐる話題⑵』で、星座図を添えて判り易くこのシチュエーションの星系の賢治の説明を解説されておられるので(小さな星座図は画像を別タブで開くとよく判る)、それをリンクさせておくに留めるが、そこでは賢治の勘違いと思われる箇所として、『「北斗星」として、西隣のこぐま(小熊)座の骨格をなす主な星を「七つの中」と説明してい』るが、『こくま座の「斗」の配列を「北斗星」と呼ぶことはあまり行われてい』ないから、『「北斗七星」との思い違い』か、『あるいはおおぐま座との勘違いで』はないかと指摘され、「下には斜めに房が下がつた」ような部分というのは『「小三つ星」と呼ばれるもので』、『この中に 「オリオン座大星雲(M42)」があ』るとされる。私もちょっと気になる、「あれはオリオンです、オライオンです」(Orion)については、賢治は『星座名を異なった読みで繰り返し言ってい』る点についても、『今では星座名はIAU(国際天文連合)がその数と共に名称や境界線などを細かく規定して』いるが、『 賢治がこの詩を書いた時代には、まだ共通のルールとして決められてい』なかったことから、『読んだ書物により』、『星座名が複数あったり、日本語化されているものもあれば、ラテン読みをそのまま星座名としているものまで、実にさまざまで』あったと注しておられる(『IAUの総会で星座が現在の数に落ち着いたのは』一九二八年(昭和三年)のことであったとある)。

「私もスケツチをとります」周囲は未だ暗い暁の時刻である。スケッチのしようはあるまい? いや、そうか! この「スケツチ」はまさに「心象スケツチ」なのだ! この詩の初期形を彼は書き記しておこうとしているのだ!

「はてな、わたくしの帳面の」/「書いた分がたつた三枚になってゐる」/「殊によると月光のいたづらだ」/「藤原が提灯を見せてゐる」/「ああ頁が折れ込んだのだ」「藤原」は既に「銅線」の冒頭注で出た、この登山に参加した生徒の藤原健太郎である。ギトン氏はこちらで、『「提灯を見せてゐる」は、生徒が提灯で、賢治がメモを書いている帳面を照らしてくれたという意味で』、『藤原の回想談を見』ると、『「暗くて見えないだろうと思い、わたしがちょうちんを差し出すと、いらないと言う。それで書けるだろうかとわたしは不思議でならなかった。翌朝、のぞき見ると字が重なっている。けれども、先生はこれで十分わかるんだと言う……。」』(読売新聞盛岡支局編「啄木・賢治・光太郎」より)とある。暗い中で見ると、帳面に詩篇を沢山書いたはずなのに「書いた分がたつた三枚になってゐる」ように見えた、しかし藤原君が提灯で照らして呉れ、よく見ると、「ああ」、なあんだ、「頁が折れ込ん」でしまっていて、三枚しかないように見えたに過ぎなかった「のだ」という謂いである。

「地球照(アースシヤイン)」地球照(ちきゅうしょう、英語:earthshine)とは、月の欠けて暗くなっている部分が、地球に照らされて、薄っすらと見える現象を指す。そこが「赤銅」色に現認出来るのである。

「後藤(どう)又兵衞」安土桃山から江戸初期の武将後藤基次(永禄三(一五六〇)年~慶長二〇(一六一五)年)の通称。黒田孝高(如水)・黒田長政・豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げた智将。江戸時代に講談や軍記物などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。身長は六尺(百八十センチメートル)を超える巨漢であった。

「小田島治衞(はるゑ)」藤原健太郎と同じ農学校二年生。この登山に参加していたのであろう。

「山中鹿之助」戦国時代武将山中幸盛(天文一四(一五四五)年~天正六(一五七八)年)の通称(自署は「鹿介」)。尼子義久に仕え、伯耆尾高城を攻め落し、勇名を馳せた。永禄九(一五六六)年、尼子氏が毛利氏に敗れて降伏したが、幸盛は尼子氏再興に力を尽し、豊臣秀吉に支援を求め、その中国征伐に従軍、播磨上月(こうづき)城に拠って、毛利氏に対抗した。しかし、天正六年、落城して捕縛され、毛利方へ護送される途中、謀殺された。勇猛な美男子であったともされる。このシーンの軍配は賢治の誤りで、小田島の勝ち三日月に向かって「我に七難八苦をあたえ給え」と祈ったのは山中鹿介である。Kokoro氏のサイト「出雲の月神」の「三日月の影」の枕の部分によれば、『このエピソードにはかなり後世の潤色が入っている、ということを断っておく必要がある。というのも、最初に「七難八苦をあたえ給え」の台詞を編み出したのは、鹿介本人ではなく、幕末の松江藩の儒者、桃節山だと考えられているからである。鹿介が初めてこの台詞を口にしたのは、明治二十五年』(一八九二年)『に補訂された『出雲私史』であり、しかも同書ではまだ「三日月を拝しながら」ということになっていなかった。最終的に、彼が三日月に祈り、この台詞をしゃべった、ということにしたのは、明治初期に島根県知事などを務めた籠手田安定』(こてだやすさだ:小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を松江に招聘した人物として私は記憶している)『であると言う。そして昭和』一二(一九三七)『年、このエピソードが小学校の国語読本に『三日月の影』のタイトルで採用され、鹿介は戦前の少年達の間でヒーローとなった』。『とはいえ、鹿介がしばしば三日月を拝していたこと自体は本当だった可能性が高い。『陰徳太平記』によれば』十六『歳の少年鹿介が三日月に向かって「願わくは三十日を限り、英名を博せしめ給え」と祈ったとあり、鹿介が三日月を拝したのはこの時が初めてで、それからは常に三日月を拝するようになり、その信仰は終生変わらなかったという』(ここへの注の記載『ちょっと気になるのは、昭和』四六(一九七一)『年に初版が発行された妹尾豊三郎の『山中鹿介幸盛』には、この三日月を拝したエピソードについて「武者物語や尼子十勇士伝等には見えているが、雲陽軍実記、陰徳太平記、恩故私記には載っていない。」とあることである』)。「陰徳太平記」は『江戸期に成立した文献であり、鹿介と同時代のものではないが、全くの作り事で三日月を信仰していたなどという話は出てこないだろう。こういったことから、彼が三日月を拝する信仰をもっていたこと自体は本当だと考えて良いと思う。だが、この信仰はどこから到来したのか』。『いちおう、定説というのか、鹿介は兄から山中家の家督を譲られた際、家宝の甲冑を譲り受け、その兜の脇立てに鹿の角が使われていたため「鹿介」を名乗り、前立てに三日月の飾りが付けてあったので三日月を信仰するようになった、という伝えがある』。『しかし、いくら家督と共に譲られた兜とはいえ、そこに三日月を象った前立てが付いていただけで、月を信仰する気持になれるだろうか。むしろ、その風変わりな月への信仰を解く鍵は、もっと別のところにあると考えるべきではないか』。『山中鹿介幸盛は出雲の人である。天文十四年八月十五日に出雲国富田庄で生まれたとされる』(異説有り)。『富田庄は出雲東部を流れる富田川流域の土地で、鹿介の主家、尼子氏の本拠であった。鹿介の頃は能義郡になっていたが、分割される前は意宇郡である。そして先にも触れた通り、意宇郡は海上交通神としての神格をもつ出雲の月神信仰圏であると考えられた。してみると、三日月を拝する彼の信仰も、じつは上代から続くそうした月神信仰の流れをひくものであった可能性を感じるのである』とある。さらに考察は続くが、それはリンク先を見られたい。ともかくも、小学校国語読本に載る以前、少年たちが貪るように読んだ歴史読み物の中に既に、彼が武将として戦勝を込めて三日月に向かって「我に七難八苦を與へ給へ」と祈ったというエピソードが載っていたのである。

「二十五日の月」この大正一一(一九二二)年九月十八日の前日は旧暦七月二十五日で、その終りに月の出は起きている。

「金牛」牡牛座。この時、オリオン座の右上方に見えていた。

「さだ、オリオンの右肩から」/「ほんたうに銅靑の壯麗が」/「ふるえて私にやつて來る」「銅靑」は銅青(どうせい)色で色名。steel blueこれ(リンク先は色見本サイト)。明度のある群青色というべきか。ギトン氏はこちらで、『「オリオンの右肩」は』『オリオン座の向かって左、つまり、この日の空で言うと、ちょうど日が昇る東の空を指しているのだと思』われるとし、『星座に重ねられる巨人オリオンの姿は、右手で棍棒を振り上げて』おり、『α星(ベテルギウス)は、棍棒の先ではなく、ちょうど「右肩」の位置になり』、『この日時の星空では、オリオンは30°くらい右に(向かって左に)傾いてい』る『から、「オリオンの右肩」が、東の地平線を指すような位置関係になると思』うと述べておられる(ギトン氏の掲げておられる一九二二年九月十八日の星空の単独画像をリンクさせて貰う)。賢治の中の宇宙の霊気が壮大「壯麗」に賢治の体に降臨するのである。

「三つの提灯」三つとあるが、全集年譜では五、六人の生徒を引率したことになっているから、三人と限定するに当たらないのではないか。用意した提灯は四つだけだったのであろう。

「仙人草」キンポウゲ目キンポウゲ科センニンソウ属センニンソウ Clematis terniflora。有毒植物(全草有毒。葉や茎の汁に触れても皮膚炎を起こし、誤って食べると、胃腸炎や嘔吐を発し、多量に食べると生命の危険もある)。但し、植生から見て、同種が高地の岩手山の火口内に群生するというのは考えにくい。植物系・ガーデニング系サイトでも高地に群落を作ることはないとあるから、これは違う。しかし、まあ、賢治も「さうでなければ」と言ってはいる。

「高陵土(カオリンゲル)」ケイ酸塩鉱物で粘土鉱物の一種であるカオリナイト(kaolinite:高陵石。名は中国の有名な粘土の産地である江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)に由来する。高嶺で産出する粘土は景徳鎮で作られる磁器の材料として有名で、同質の粘土(鉱石)は「カオリン」(kaolin)「陶土」(china clay)などとも呼ばれる)のゲル(泥)状化したものの謂いらしい。但し、これも、ギトン氏がこちらで、『《御鉢》火口は、まだできて日が浅く、風化は進んでいないので、カオリンは無いと思われます』と否定しておられる。さて? その白い一帯は一体、何だったのだろうか? 本篇ではそれは明らかにされずに終わっていて、ひどく気になるのである。渡部芳紀氏の「東岩手火山」では、実はやっぱり雪だったのではないか? という仮説を立てておられる。『筆者が勝手な逞しい推測をするに、この<向ふの白いの>は、本当に雪だったのでは ないかということがある。今回この原稿を書くにあたって』、『何度も以前登山したときの写真を見てみたのだがその中に一か所雪のような真っ白なところがある。どう見ても雪である。草や粘土ではない。筆者が登ったのは九月十日、賢治が登ったのは九月十八日で一週間くらいしか違わない。とすると』、『同じところの白い物を見ているのかも知れない。<《雪ですか 雪ぢやないでせう》>と言われて<困つたやうに返事してゐる>のは、先生は雪じゃないと思い込んでいるが本当に雪だった。先生に言っていいものかどうか躊躇していたのではないか。そんなふうにも考えられなくもない。自分の写真にあまりはっきりと雪の跡があるので。少々非論理的推測をしてみた』と述べておられる。実はやっぱり「雪」だった説、私も「困つたやうに返事してゐる」少年たちのシーンのニュアンスから、強く支持したい

「一升のところ」登りの十合目で「一升」、頂上のこと。嘗てはそれを示す石標があったが、現在は撤去されている模様(ギトン氏の単体写真を参照されたい。写真の中の石造物は火口辺縁の「御鉢」に沿って並ぶ三十三観音石仏だそうである)。

「河村慶助」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)に、『川村慶助。賢治の教え子で、このとき稗貫農学校』三年生、とある。

「メガホーンもしかけてあるのだ」火口内の形状から声がよく反響するのを、自然がメガホン効果を齎して呉れているのだ、と言うのであろう。

「すこしのかなしさ」私にはこの唐突の一行が身に染みて判る。それはペシミスティクな世界観をどこかに持っている総ての人間の孤独な宿命である。

けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ

「ちぎれた朱子のマント」実際のその時の着衣を指している。「朱子」は「しゆす」で「繻子」(しゅす)のこと。経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現れるようにした織物。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢があって肌ざわりがよいが、摩擦や引っ掛けなどには弱くてほつれ易い。ギトン氏のこちらに、『賢治は、注文して作らせた黒いサテンのマントを気に入っていて』、余所行きにしていたらしいとされ、大正一四(一九二五)年に『弘前で徴兵訓練中の清六氏のところに、兄の賢治が面会に来た時の回想』に、『「私共〔訓練中の清六氏と隊友──ギトン〕がだんだん廠舎に近づいたとき、道のそばの小高いところに支那服のようなものを着た人が、太陽を背中にして直立し、逆光線に浮かび上がっているのに気づいたのであった』。(中略)『私に面会人だというので急いで行ってみると、兄が満面に笑いを浮かべて衛兵所のそばに居たのである。そこで私は先刻途中で立っていた人が兄であったことに気付いたのであるが、支那服と見えたのは実は黒い折襟の服で、それは繻子でダブダブに仕立てた変なものであった。」』(宮沢清六「兄のトランク」より)とある。確かに、彼はお洒落である。

「下向の道と書いてあるにさういない」以下によって暁時のロケーションは我々が心内で映像化しているのより遙かに暗いことが判る。実は比較的その石標の近くにいても賢治にはそれが読めないのだ。いわば、我々は映画の中の夜のシークエンスが明度が上って見えているように、本詩篇を賢治のカメラで〈見せて貰っている〉のだということに気づく必要がある。

「宮澤」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)に、『賢治の教え子で、稗貫農学校を』、この翌月の、大正一一(一九二二)年十月に退学することになる『宮沢貫一と考えられている』とある。

「雲平線(うんぴやうせん)」穏やかに平らになった雲海の果てを地平線に擬えて言った。

「雲平線をつくるのだといふのは」/「月のひかりのひだりから」/「みぎへすばやく擦過した」/「一つの夜の幻覺だ」賢治ファンタジーの洒落た「雲平線」という造語を、賢治の中の別な一人が「幻覺」だと嘲笑的に批評している。しかしその評し方も、また「月のひかりのひだりから」「みぎへすばやく擦過した」結果の「幻覺」だという謂いに於いてお洒落でファンタジックであることから逃れられていないところが、また面白いと言える。

「いま火口原の中に」/「一點しろく光ひかるもの」/「わたくしを呼んでゐる」(原稿ではここに読点が入っている)「呼んでゐるのか」それは、火口に降りてそこからまた戻ろうとする生徒の提灯の光りが最初であるが、それが見る間に、オペラの舞台のフット・ライトかスポット・ライトの如く強烈に変化し、賢治の奔放自在な夢想が幕を開ける。

「鉛筆のさやは光り」/「速かに指の黑い影はうごき」/「唇を圓くして立つてゐる私」とは、まさにそこで夢想にただぼうっと身を任せているのではなく、その幻の大「氣圈」座の「オペラの役者」を演じながら、同時に恐るべきスピードで詩を詠じ、実際にノートに書き取っている賢治を外から描写しているのである。

渡部芳紀氏の「東岩手火山」に『頂上付近の外輪山を指すか?』『右上がりのスロープになっており』、『<力強い肩>に符号する』とある。

「集塊岩」agglomerate。大小の岩石塊を多数含む火山砕屑(さいせつ)岩の総称。集塊凝灰岩・集塊溶岩などがある。集塊凝灰岩は火山礫・軽石・火山弾・火山岩塊などが火山灰で凝結されたもの。集塊溶岩は岩塊の間が溶岩で満たされたもので,一般に火口の近くに分布する。

「力い肩だ」渡部芳紀氏の「東岩手火山」に『力強い肩を思わせる形をしている。頂上付近の形状に似ている』とある。

「あすこからこつちへ出て來るのだ」現場を知らないとよく判らない。ギトンの『「あすこ」は、「向ふの黒い巨きな壁」を指しています。《御鉢めぐり》は、通常は左回りに行きます(画像ファイルの矢印とは逆)』から、『《下向の道》石標(∩)から見ると、ちょうど』、『頂上の右肩あたりから出てくることになります』という見解を単立画像とともに示しておくに留める。

「妙好(みやうこう)の火口丘」「妙好」は「御鉢」の中にある火口丘の通称である「妙高岳」のこと。その麓部分に火口がある。

「幾條かの軌道のあと」溶岩が流れた地形上の筋を指しているようである。

「海拔六千八百尺」二千六十・六〇四メートル。岩手山最高峰の薬師岳は二千三十八メートル。

「(あんまりはねあるぐなぢやい」/「汝(うな)ひとりだらいがべあ」/「子供達(わらしやども)連れてでて目にあへば」/「汝(うな)ひとりであすまないんだぢやい)」奔流する幻想に、制動がかかる。賢治自身の教師としての最低限の超自我の発する社会的倫理義務に拠る禁則警告である。ギトン氏の訳を引かせて貰う。『あんまり跳ね歩くんじゃない。お前ひとりならいいだろうが、子供ら(わらしゃども)を連れていて事故に遭えば、お前ひとりでは済まないんだぞ』。

「天の川の小さな爆發」高校一年の夏、友人と土方のアルバイトをしてテントを買い、能登半島を一周した。最初に泊まった能登金剛の砂浜で見た夜空は天空の暗黒部より星の輝きの方が多いような錯覚を起させた。その中でも、「天の川」は本当に乳液の流れのようであり、今にも流れ下ってきそうな奔流であり、確かに、まっこと、「小さな爆發」だったのを私は忘れられない。

「みんなのデカンシヨの聲も聞える」渡部芳紀氏の「東岩手火山」には、『でかんしょ節。丹波杜氏たちが「あとの半年は寝て暮らす」と歌ったところから「出稼ぎしよう」の意。今宵徹夜で騒ぎましょうの意で「徹今宵」から来たのとの説などある。明治末から大正初めにかけ全国の学生間、花柳界で歌われた。ここでは、徹夜登山で眠くなってきた生徒たちが景気付けに歌っているか?』とされ、ギトンの最後で、『デカンショを、農学校の生徒たちに流行らせたのは、宮澤、堀籠両教諭だそうです』と記される。

「オーパル」オパール(opal)。先に出た「蛋白石」に同じ。

「蔗糖溶液(しよたうようえき)」「蔗糖」はサッカロース(saccharose)・スクロース(sucrose)とも称し、サトウキビやサトウダイコン(テンサイ)などの多くの植物によって合成されるグルコースとフラクトースが一分子ずつ結合した二糖類。ショ糖を主体とする工業的製品を総称して「砂糖」と呼ぶ。「ショ糖」及び「砂糖」という言葉は混同して使われることが多いが、化学物質として扱う場合は常に「ショ糖」の名称が用いられる。「ショ糖」は光合成能力のあるすべての植物体に見いだされ,人類には甘味料として非常に古くから用いられていた歴史を持つ(平凡社「世界大百科事典」)。まあ、砂糖水でよかろうかい。ちょっと想像する判る通り、それに「また水を加へたやうなの」というのは、すこぶる腑に落ちる。あの儚い感じが。

「とにかく」「あくび」(アップ。1ショット)「と」/「影ばうし」(アップ。1ショット)/「空の」「あの邊の星は」「微かな散」(ワイド・1ショット)/「すなはち」「空の模樣が」「ちがつてゐる」(ワイドでゆっくりティルト・ダウンして→)/「そして」「今度は」「月が」「蹇(ちぢ)まる」(「蹇」(音「ケン」)の原義は「足萎(あしな)え・跛(びっこ・ちんば」で「悩む・苦しむ」「止まる・留まる」「曲がる・入り組んでしまう」であり、「易」の六十四卦の「嶮しさに行き悩むさま」を指す卦(け)でもある)(月がインしてストップしてズーム・アップ。前との1ショット)……(F・O)……あたかも父アルセイニ・タルコフスキの詩を被せながら、アンドレイ・タルコフスキが撮った映画のように(「鏡」「ノスタルジア」)私は思う、この作品はオペラ役者なんぞ扮した詩人が出たりするが、全く以ってこれ、演劇的でない。……即ち、テンションのクライマックスで幕は下りず、映画的終局、ある侘しいエピローグで、見る間に萎んでゆくのだ。……御来光の光輝を予感させながら、それを描かず、強い哀感を湛えながら、急速にフェイド・アウトしてしまうのである。……


 

2018/11/23

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 瀧澤野

 

        瀧 澤 野

 

光波測定(くわうはそくてい)の誤差(ごさ)から

から松のしんは徒長(とちやう)し

柏の木の烏瓜(からすうり)ランタン

  (ひるの烏は廣野に啼き

   あざみは靑い棘に遷(うつ)る)

太陽が梢に發射するとき

暗い林の入口にひとりたたずむものは

四角な若い樺の木で

GreenDwarf といふ品種

日光のために燃え盡きさうになりながら

燃えきらず靑くけむるその木

羽蟲は一匹づつ光り

鞍 掛や銀の錯乱

    (寬政十一年は百二十年前です)

そらの魚の涎(よだれ)はふりかかり

天未線(スカイライン)の恐ろしさ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。本詩篇を以ってパート「グランド電柱」は終わっている。ロケーションその他は前の同日作「銅線」の注の冒頭を参照されたいが、岩手山登山のトバ口での嘱目を素材とした一篇である。先に推定した「岩手山馬返し登山口」(ここ(グーグル・マップ・データ)。標高六百三十メートル)からは、ほぼ西に登るが、そこから見下ろす岩手山の東南の裾野の旧「滝澤村」、現在の滝沢市の中北部一帯が「瀧澤野」なのであろう。後で出る「鞍掛」山(八百九十七メートル)はそこから南西二キロメートル強の位置にある。登攀ルートから見て、詩篇の視線は西の岩手山及び鞍掛山のある東南方向となり、標題の「瀧澤野」は登攀を休んで顧みる方向となる。

・「柏の木」は底本では「柏の本」であるが、「正誤表」に載るので、訂した。

・「たたずむ」はママ。原稿も「たたずむ」。校訂本文もそれで載る。

・「GreenDwarf」はママ。原稿は「Green Dwarf」と有意な字空けがある。「正誤表」になく、「手入れ本」も修正はないが、校訂本文は無論、字空けを施す。

・「鞍 掛や銀の錯乱」の字空けはママ。「乱」もママ。原稿は「鞍掛」で誤植であるが、「正誤表」にはなく、何故か「手入れ本」も修正がない。校訂本文は無論、詰めている。

・「天未線」「未」はママ。原稿も「未」。校訂本文は「天末線」。既に述べた通り、「小岩井農塲」の「パート七では同じく「天未線」(原稿も「未」)であるが、前の「原體劍舞連」では「天末線」(原稿も「末」)である。前者の注で述べた通り、「未」でもニュアンスは通ると私は思うし、また、これを単なる賢治の誤字或いは書き方の誤りと断ずることを微妙に留保したい気持ちが今も、ある

「光波測定(くわうはそくてい)の誤差(ごさ)」よく判らない。私は漠然と特殊相対性理論(一九〇五年発表)の時間のズレを指した賢治得意の幻想だろうなどと勝手に思い込んできたのだが、流石にどうもそんなSF紛いの話ではなさそうだ。ギトン氏はこちらで、『植物は光を求めて生長しますが、光波を正確に測定して生長すれば均整のとれた形になるが、測定に誤差があると伸び過ぎたりして変な形になる、というサイエンス・フィクションを想定してみます』と枕され、『「誤差」とは、“誤測定”とは違います。どんなに正確に測定しても、理論値と完全に一致はしない‥その理論値(真の値)と測定値の差のことで』、『“光を測定する”という場合、光の速度を測る、波長/周波数を測る、強さを測る、位相を測る』『などの場合があると思いますが、ここでギトンの考えを言いますと、賢治の時代に、もっとも有名な「光波」の測定実験は、光速度の測定だったと思います』。『光波度の測定は』、『測定地から非常に遠い場所に鏡を置いて、測定地から光を送り、反射して戻ってきた光を、もとの光と重ねます』。『こうすると、鏡までの距離を往復するのにかかった時間だけ、反射光の位相は、もとの光の位相からずれているはずです。この位相差を測定して計算すれば光速度が求まります』(以下、次のページ)。『ところで、位相のずれた波を重ね合わせると、“干渉”がおきます。位相差に‘ゆらぎ’があれば、干渉縞──縞模様ができます』。『位相差の‘ゆらぎ’しだいで、縞模様は同心円状になったり、さまざまな形を描きます』、ここで或いは、『作者は、しだいに光度を落としてきた夕方の日差しの中で、カラマツの梢、あるいは枝先に、干渉縞のような虹色の模様を見たのではないでしょうか』? 『木の枝などに虹が見えることは、よくありますが、ニュートン・リングのような縞模様が見えたとすれば、おそらく幻視です』。『カラマツの枝々は、誤差の‘ゆらぎ’による干渉縞を派生しながら、光波を測定している』が、そこに彼ら(「から松」)自身の『測定に誤差があるために、あんなに「しん」が徒長した(伸びすぎた)枝や、伸びたりない枝があるのだ──作者は、このように考えたのではないでしょうか?』と解釈しておられる。またしても私には目から鱗であった。

「から松のしんは徒長(とちやう)し」「から松」既出既注。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi。漢字表記は「落葉松」「唐松」。その「しん」というのは恐らくはその針形をした葉であろう。その葉の「徒長」(とちょう)とは、植物の伸長成長が勝り、内容の充実を伴わない成長をする現象指す園芸用語。参照したウィキの「徒長によれば、『徒長は、高温、弱光、多湿、多窒素条件下で発生しやす』く、『徒長した植物は柔らかく、細長いという特徴があ』り、稲などの場合は、『近年の省力・軽作業化を目的とした全自動移植機や収穫機の普及に伴い、機械定植では苗のサイズに制限があり、大きすぎる苗や徒長苗は植え痛みしやすい』とあるから、先のギトン氏の謂いを援用するならば、その細かな針状の葉の伸長に微妙に違った長短が現出しているというのであろう。

「柏の木」コナラ亜属 Quercus Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata

「烏瓜(からすうり)ランタン」「烏瓜」はスミレ目ウリ科カラスウリ属カラスウリ Trichosanthes cucumeroides。その実を「ランタン」(lanthanum:手提げランプ)に擬えた。但し、岩手でもまだこの時期では赤く色づいてはいない気がする。賢治は熟したそれを夢想しているのである。周囲も暗くなり始めた。ランタンは似つかわしい。ウィキの「カラスウリ」から引くと、『花期は夏で』七~九月に『かけて』、『日没後から開花する』(以前、如何にも不思議そうに「烏瓜は花も咲かないのに実がつく」と言っている知人がいたが、このことをその人は知らなかったのであった)『雄花の花芽は一ヶ所から複数つき、数日間連続して開花する。対して雌花の花芽は、おおむね単独でつくが、固体によっては複数つく場合もある。花弁は白色で主に』五弁(四弁・六弁も『ある)で、やや後部に反り返り、縁部が無数の白く細いひも状になって伸び、直径』七~十センチメートル『程度の網あるいはレース状に広がる。花は翌朝、日の出前には萎む。こうした目立つ花になった理由は、受粉のため夜行性のガを引き寄せるためであると考えられており、ポリネーター』(pollinator:送粉者。植物の花粉を運んで受粉させ、花粉の雄性配偶子と花の胚珠を受精させる動物のこと)『は大型のスズメガ』(鱗翅目スズメガ科 Sphingidae のウチスズメ亜科 Smerinthinae・スズメガ亜科 Sphinginae・ホウジャク亜科 Macroglossinae に属する蛾の一群。私が唯一、気持ちが悪いと感じない特異点の蛾である。多分、初めての海外旅行のペルーはナスカのセスナの飛行場の待合室の庭で出逢った沢山のハチドリと似ているからだと思う)『である。カラスウリの花筒は非常に長く、スズメガ級の長い口吻を持ったガでなければ』、『花の奥の蜜には到達することはできず、結果として送粉できないためである』。『雌花の咲く雌株にのみ』、『果実をつける。果実は直径』五~七センチメートル『の卵型形状で、形状は楕円形や丸いものなど様々。熟する前は縦の線が通った緑色をしており』、『光沢がある』。十月から十一月末に『熟し、オレンジ色ないし朱色になり、冬に枯れたつるにぶらさがった姿がポツンと目立つ。鮮やかな色の薄い果皮を破ると、内部には胎座由来の黄色の果肉にくるまれた、カマキリの頭部に似た特異な形状をした黒褐色の種子がある。この果肉はヒトの舌には舐めると一瞬甘みを感じるものの非常に苦く、人間の食用には適さない。鳥がこの果肉を摂食し、同時に種子を飲み込んで運ぶ場合もある。しかし名前と異なり、特にカラスの好物という観察例はほとんどない』とある。……私は烏瓜の実が無性に好きで、毎年、アリスと一緒に裏山で烏瓜刈りをするの楽しみにしてきた……しかし昨年十月二十六日、脳腫瘍の彼女を安楽死させてしまってから、もう、それもやめてしまった……先日のこと、まさに一年ぶりに裏山に散歩に行った(糖尿病の数値が規定値を越えてしまったので運動をせねばならなくなっただけのことだ)……烏瓜は今年も沢山ぶら下がっていた……私はそれを暫く眺めていたが、採ることもなく、山を、下りた……今、私の家には、昨年、最後に末期に近かったアリスと一緒に採った烏瓜が……木乃伊になって……いくつも……ぶら下がっている……

「ひるの烏は廣野に啼き」実際のカラスが鳴いてもいようが、前のカラスウリと響き合う縁語だ。カラスウリは前に述べた通り、「夜」に咲く妖しい白いレースのような花、それは「ひるの烏」にこれもまた美事に対称するではないか。

「あざみ」キク目キク科アザミ亜科 Carduoideae、或いは、同アザミ連Cynareae アザミ属 Cirsium に属するアザミ(薊:どうもこの漢字は好きじゃない)類の仲間。岩手山附近で見られそうな種は、

ノアザミ Cirsium japonicum(本州から九州に分布。春咲きのアザミの代表で、八月ぐらいまでが花期であるが、稀れに十月に咲いている個体もある)

ノハラアザミ Cirsium oligophyllum(本州中部以北の山地の草原や林縁に見られる)

モリアザミ Cirsium dipsacolepis(本州から九州の草原。「ヤマゴボウ(山牛蒡)」の名で根を食用とする。「山牛蒡」については最近、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で詳細な注を施したので参照されたい)

ナンブアザミ Cirsium nipponicum(本州中北部では普通。アザミ類の中では分布域が比較的広い種として知られる)

タカアザミ Cirsium pendulum(北海道から本州の北部で、東アジアにも分布。茎の高さは一~三メートルにも及び、茎も太く、直径一センチメートルを超える)

などが挙げられる。

「靑い棘に遷(うつ)る」アザミと言えば「棘」(とげ)で、葉にも棘がある種が殆んどであるが、彼ら筒状の花包の下部にまで鋭いそれが生えており、ここは鮮やかな(白もあるが)花(頭状花序)がみな飛び去って、棘ばかりが目立つように遷移している様態を指している。

「太陽が梢に發射するとき」大正一一(一九二二)年九月七日の日没は五時五十九分で、登攀の開始を六時頃としているから、まさに日没直前の「馬返し」前後の景観ととることが出来るか。

「樺の木」「Green」「Dwarf」「といふ品種」三浦修氏の論文『宮沢賢治作品の「装景樹」と植生景観 ―「田園を平和にする」白樺、獨乙唐檜、やまならし―」』(『総合政策』第十一巻第二号・二〇一〇年・PDF)によれば、賢治が諸作品に記す「樺」は殆んどが白樺、ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica であることが判る。あるサイトにはそっけなく『盆栽用の矮性植物。「Dwarf」は小びと』とつまらぬ教科書の脚注の如く記してあったが、如何にもインキ臭い、「宮澤賢治の研究者でございます」的な不親切な輩が書きそうな記事だった(憚るのではなく、甚だ不快だからリンクせぬ)。岩手山の登山口「馬返し」の近くに奇形の「小びと」の「盆栽用の矮性植物」ですか。それを自分が好きな「樺の木」(白樺)の「品種」などと言ったんだ、賢治がねえ。これはそれ、ブナ目ブナ科コナラ属アメリカガシワ Quercus palustrisGreen Dwarfのこと言ってんじゃねえのかい?(リンク先は英文の庭木サイト) アメリカ・カナダ原産だが、日本にも移入されていることは、個人サイト「GKZ植物事典」のこちらでも判るぜ。なぜ、そう判るように書かねえのかね、え? なお、分類は近年、遺伝子レベルで分離・改変されているし、当時の賢治が同定を大ミスしたかどうかは私には判らない。しかし、この時期にアメリカガシワがここまで侵入していたというのは、ちょっと考えにくいわなあ。しかし「品種」と言い、実在する英名まで出してるしなあ。判らんな、侏儒の脳味噌の私には。賢治の好きな白樺から飛び出した夢幻の「Green」の色をした「Dwarf」=「森の小びとさん」なのかしらん?

「羽蟲」ここは単に夜行性の小さな飛翔性昆虫でよかろう。ヌカカ(ユスリカ上科ヌカカ科 Ceratopogonidae)だとヤバい。♀が激しく吸血し、私は山や海でさんざん刺された。後から異様に痒くなり、傷の治りも悪いのを特徴とする奴だ。

「鞍」「掛や銀の錯乱」またしても異質な、実在する「鞍掛」山(の日没の景)と、最後の太陽光の輝きの「銀の錯乱」(という形容)の並列。

「寬政十一年は百二十年前です」「寬政十一年」は一七九九年。本篇の詠まれた大正一一(一九二二)年からは百二十三年前で四捨五入すれば合致するが、当時の何を賢治は言いたいのかは、分らない。登り詰めんとする岩手山の火山活動史を見たが、ピンとくるものはない。ギトンで、『山腹火口からのマグマ噴出によって《焼け走り溶岩流》が形成された噴火は、かつては1719年』(享保四年)『に起こったと考えられていました(1903』(明治三十六年)『年の論文によるもので、賢治の時代にも、そう思われていました)』。『しかし、最近の調査で、1719年には噴火はなく、1732年』(享保十七年)『の古文書類に記録された噴火が《焼け走り溶岩流》の噴出にほかならないことが、判明しています』。『賢治は、1719年を1799年と覚え違いしていたのかもしれませんし、あるいは、“鞍掛山形成史”と同じように』(ギトン氏がどのような賢治の資料を指しているのかは不明)『賢治独自の見解を持っていたのかもしれません』とある。一七一九年と一七九九年の覚え違いというのはありそうな感じはする。但し、ウィキの「岩手山には、享保一六(一七三一)年に噴火し、『北東山麓に溶岩流(国の特別天然記念物・焼走り熔岩流)が発生』し、『現在の八幡平市の集落の住民が避難』したとあり、享保四(一九一九)年には水蒸気爆発による小噴火が発生した、とある。ともかくもこの突然の挿入は読者には頗る不親切で、私はない方がよいと思う。或いはその時、引率した生徒たちへの教授の言葉をそのまま切り取って状況的リアリズムを出そうとしたのかも知れぬが。

「そらの魚の涎(よだれ)はふりかかり」昔は『アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」か!』と思ったのを思い出す。今は、何かの現認される地形らしいという気がした。岩手山の現地を見たことがない私は、最早、ギトン氏に頼るしか術はない。その期待にしっかりギトン氏は答えて呉れておられた。で即物的な景色を示されて、かく解釈されておられる。『滝沢付近からは、《焼け走り溶岩流》が見えるのでしょうか』。『「そらの魚の涎(よだれ)はふりかかり」は、東岩手山の山裾に広がる《焼け走り》の黒い溶岩流の堆積を指していると思います』。『それは、空にいる巨大な魚が落としたヨダレだというのです』。『なにか非常に不潔で不浄な』『生理的な感覚を誘います。しかし、それにしても、魚の身体全体の大きさは、はかりしれません。生理的感覚とすれば、これは地球そのものの生理、──気圏もふくんだこの世界全体がひとつの生き物だとすれば、その“世界生物”の生理です』。『この魚は、荘子の「鵬」よりも巨大です』。私の好きな「荘子」を引かれており、最近、殆んど「ギトン」教にハマってしまっている私は、すっかり頭を縦に振るばかりである。「焼け走り溶岩流」は、ウィキの「走り溶岩流によれば、『岩手山の北東斜面山腹から山麓にかけた、標高約』五百五十~千二百『メートルに広がり、天然記念物に指定された面積は』百四十九・六三『ヘクタール、溶岩流の延長は約』四『キロメートル、岩石の種類は「含かんらん石紫蘇輝石普通輝石安山岩」で』、『一般的に輝石安山岩溶岩は粘性が大きいが、焼走り熔岩流の溶岩は粘性が小さく流動性に富んでいると言われている』。『岩手山は山頂部に爆裂カルデラと中央火口丘を持つ円錐形の成層火山であり』、貞享三(一六八六)年から昭和九(一九三四)年の『間に複数回、爆発と熔岩流噴出の火山活動記録が残されているが、焼走り溶岩流はこれら山頂部の噴火活動とは違う、中腹部にできた噴火口、いわゆる寄生火山から流出したものである』。『焼走り溶岩流が形成された火山活動の年代は従来より』、享保四(一七一九)年正月(旧暦)『とされて』きた『が、近年の研究では』、享保一七(一七三二)年』『とする説もある』。『溶岩流を作った噴出口は、岩手山の東側山腹、標高』八百五十メートルから千二百五十メートル付近まで』、『直線状に複数個所残っており、いずれも高さ』四~五メートル、直径四メートル『ほどのものである』。『焼走り熔岩流の名称の由来は、真っ赤な熔岩流が山の斜面を急速な速さで流下するのを見た当時の人々が焼走りと呼んだことによるものであると言われており、地元では古くから「焼走り」と呼ばれていた』。『熔岩流の表面は波紋状の凸凹があり、これがトラの縞模様のように見えることから「虎形」と呼ばれている。また、しわ状模様の存在は、粘性が小さい熔岩であったことを示している』。『焼走り熔岩流は噴出時期が比較的新しいため』、『風化作用が進んでおらず、その表面には未だに土壌が形成されていないことから』、『植生に乏しく』、『噴出当時の地形を留めている。溶岩流そのものは火山国日本では珍しいものではないが、表土や樹木に覆われず、地形的改変もないのは学術的に貴重であり』、現在、『国の特別天然記念物』及び『十和田八幡平国立公園の特別保護地区にも指定されている』。『今日では熔岩流末端に片道約』一『キロメートルの観察路が設けられており、積雪で閉鎖される冬季以外は自由に見学することができる。また散策路の終点には、当地を訪れた宮沢賢治による詩、「鎔岩流」の碑が建てられている』とある。「馬返し」のほぼ北、四・六キロメートルと直近ではある。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、グーグル・アースや国土地理院図で見る限り()では、「馬返し」からの登頂コースの低中度では、岩手山の東の複数の尾根筋が邪魔して、恐らくかなりの高度まで登らないと位置的には「焼け走り溶岩流」は見えないように思われる。しかも、当日の登攀開始が日没ジャストの午後六時頃であったことを考えると、私は実際にこの日の登攀中の賢治の視界に「焼け走り」が見えた可能性は非常に低いように思われる。但し、賢治の好きなそれは、見えずとも、常に彼の脳内映像として確かにあったのであり、ここで見えた見えないを云々することは意味がない

「天未線(スカイライン)の恐ろしさ」溶暗してゆく地平線は確かに絶対零度に冷たく恐い。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 銅線

 

      銅  線

 

おい、銅線をつかつたな

とんぼのからだの銅線をつかひ出したな

  はんのき、はんのき

   交錯光亂轉(くわうらんてん)

気圏日本では

たうたう電線に銅をつかひ出した

  (光るものは碍子

   過ぎて行くものは赤い萓の穗)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。全集年譜の複数の記載によれば、この日(日曜日)の午後、賢治は生徒五、六人を連れて、岩手山(標高二千三十八メートル)登山をしている。夕方に花巻から汽車で瀧沢まで行って(推定。なお、恐らく本篇はその車窓の景の嘱目を素材としたと思われる。後注参照)下車し、六時頃から「馬返し」(ここ(グーグル・マップ・データ))から登る現在の柳沢コース(同僚堀籠氏の回想による推定。「山渓」公式サイト内のこちらのコース行程図を参照)より登り始め、九合目の小屋で泊まっている。『その夜は旧暦八月十五日の満月で、岩手山頂上から拝むとおわんのような格好に見え、その中から仏さんが三体現われると』二年生の生徒であった藤原健太郎は賢治から『聞かされた』とある(但し、ここ(引用は読売編「啄木 賢治 光太郎」一〇五頁とする)には記憶の誤りがある。同日は旧暦八月二十日で、月齢は25.3、細くなり始めた下弦の月である。ページ」を見られたい)。因みにこの藤原健太郎という生徒はこの日、『汽車賃のないことを打ちあ』けていたが、賢治に『つれていってもら』ったもので、賢治は彼のために『おにぎりも持ってきてくれたという』(本「銅線」と次の「瀧澤野」は、その夜、生徒らが寝てから認められものかも知れぬ)。翌九月十八日(月)は、午前三時頃、賢治は『頂上近くで読経』している。『藤原は目ざめて提灯をもって登り』、賢治は『その後ろに立った。読経後スケッチブックに何か書きだす』とある。この最後のそれは、次の次に現われる「東岩手火山」パートの巻頭を飾る長篇詩「東岩手火山」に違いない(なお、既に夏休みは終わっており、この土・日登山というのは不審であるが、それを解明した記載をしているものは、ない。ギトン氏はこちらで、準学校行事として認められたものだったものかという仮定を立てておられるが、六人でそれは少し少な過ぎで無理があるようにも思われる。しかし『当時の畠山栄一郎校長(宮澤賢治に強く勧めて教諭に就職させた人)は、豪放磊落で懐の広い性格だったといいますから、これは十分にありうることです』というギトン氏の謂いもまた一方で頷ける気もする)。

・「はんのき、はんのき」が半角分上っているのはママ。原稿は次の行と同じ位置であり、植字ミスと断じてよい。「手入れ本」は宮澤家版が特異。以下に校本全集の注に書かれた内容の最終形と思しきものを再現して示す(植字ミスの半角は戻した)。

   *

 

          銅  線

 

    おい、銅線をつかつたな

    とんぼのからだの銅線をつかひ出したな

一部┃   はんのき、はんのき

  ┃   まさしく交錯光亂轉(くわうらんてん)

二部┃ 気圏日本では

  ┃ たうたう電線に銅をつかひ出した

三部┃   過ぎて行くのは白磁の碍子

  ┃   ひらめくものは赤い萓の穗

 

   *

「┃」は表記出来ないので、それぞれ一部・二部・三部の各部の間では繋がらず、二本ずつが繋がっている三本の線と見做してほしい。「一部・二部・三部」が校正的指示記号に過ぎないものと見做されるから、これは、『部』というのをソリッドな一組として指示していると考えるならば、一行空けが最も判り易いから、結果して私は、

   *

 

      銅  線

 

   はんのき、はんのき

   まさしく交錯光亂轉(くわうらんてん)

 

気圏日本では

たうたう電線に銅をつかひ出した

 

   過ぎて行くのは白磁の碍子

   ひらめくものは赤い萓の穗

 

   *

が賢治が思った改良形ではないかと考える。

「萓」既出既注。「萓」は「萱」の異体字。茅(かや)。既出既注。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。

「銅線」松井潤氏のブログ「HarutoShuraの本詩篇の解説では、『秋、汽車の車窓から移り行く風景をながめていると、細長い「とんぼ」のからだが線状に流れるように思えたのを「銅線」としたのだろう。細長いからだも羽の模様も、とんぼには金属細工がよくはまるようにも思えてくる』と述べておられる。一方、ギトン氏はこちらから数回に亙って、この「銅線」はまずは、実際のそれを指示しているととって、以下のように述べておられる。『この作品「銅線」は、6行目の「電線に銅をつかひ出した」という驚きの表明が、詩句の中心となっていて、これは、私たちには不可解な感じを与えます。なぜなら、私たちの常識では、電線はすべて銅を使うもので、銅線でない電線などは考えられないからです』。『しかし、昔からそうではなかったのです。これを解明されたのは、加島篤氏の『童話「月夜のでんしんばしら」の工学的考察』で』、『加島氏によりますと、電信が日本で始まった1869』(明治元年~明治二年)『年以来、電信線には、鉄線(はりがね)が使われていました』。『硬銅線が初めて通信用に使用されたのは1890年』(明治二十三年)『で、その後、銅の電信線が増えましたが、1916年』(大正五年)『末時点でも、日本の電信線総延長(約172000km)の92.4%が鉄線だったのです』とある。『そして、加島氏によれば、ちょうどこの 1921年』(大正十年)『ころ、東北では、通信線を鉄線から銅線に付け換える工事が進行していたと推測されます』(以下はこちら)。『さて、賢治自身は、電灯線や送電線は銅線でできていることを知っていたでしょうけれども、同行の生徒たちは知らなかったかもしれませんね』。『岩手山麓へ向かう汽車の中で、ホトケさまの仏像を造るのと同じ銅でできているのだ!』『ほら、付け替えたばかりの新しい電線は、赤っぽく光ってるだろう!』『と賢治から聞いて、そんな高価なものを使っているのか!!、と言って、生徒たちは驚いたかもしれません』。『そのことと』、『ちょうど秋の野原では、赤銅色の赤とんぼ(アキアカネ)』(秋茜。トンボ目トンボ科アカネ亜科アカネ属アキアカネ Sympetrum frequens。日本特産種)『がたくさん飛びまわり、「赤い萓』『の穗」がゆれているのを見て、作者は、このおどけたスケッチを考えついたのではないでしょうか?』(ギトン氏はこの「萓」をススキに限定されている。赤蜻蛉なら確かにそれが相応しい)『走る列車から見はるかす広々とした気圏の中で、銅線のように細いたくさんの赤トンボや、ススキの赤い穂の波が、真新しい銅のようにきらきらと輝いています』。『そして、線路に沿って、どこまでも続いて行く電信線もまた、いまや綺麗な銅に取り換えられて光っているのです』と極めて映像的に美しく示され、さらにここは『「気圏」を飛び回る赤トンボを指して「銅線」と言っているのか、線路沿いの電信線を指して「とんぼのからだの銅線」でできていると言っているのか、よくわからないところがあります。そればかりか、「赤い萓の穗」も、赤銅色の細い線で、「銅線」でできているようです。そして、「碍子」が親しげに、きらっと光ります。ここには、きれいな銅の電信線に彩られながら、北上の田園風景の中を力強く疾駆する機関車、果てしなく延びて行く鉄道線路──当時の近代科学技術と工業化への憧れと期待が感じられないでしょうか?』『賢治の「イーハトーヴ」は、単なる自然一辺倒ではなくて、そうした科学技術と近代化によって支えられていこうとする世界なのだと思います』。『それが、「気圏日本」と』、『やや、はにかみまじりに』、『賢治が愛称する故郷だったのだと思います』と本篇の鑑賞を締め括っておられる。美事な解釈である。

「はんのき」「榛の木」。既出既注。ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica

「交錯光亂轉(くわうらんてん)」松井潤氏の解説では、これを「交錯し」、「光」が「乱転す」るの意とされ、これは、『古代インドの仏教僧、天親が、弥陀の浄土のさまを描いた中に出てくる句のようだ』。『車窓からの景色の賢治らしい表現だ。電柱の碍子は光りを浴び、赤い萱の穂も後ろへ去っていく。「気圏日本」は、段階的に拡大する宇宙の部分としての日本。銅線も、賢治の宇宙観のなかにある』と結ばれおられる。ギトンで、これは、大乗仏教僧の世親(ヴァスバンドゥ)』(彼は尊称を「天親菩薩」とも言う)『が「無量寿経」を解説した「往生論」の一節であると指摘されている。調べて見ると、

   *

寶華千萬種 彌覆池流泉 微風動華葉 交錯光亂

   *

とある。ギトン氏は続けて、『これは、世親が、阿弥陀浄土のありさまを想像して描いている中の一部で、阿弥陀浄土には、美しいハスの花が一千万種あって、池や川や泉をあまねく覆っている。そよ風が吹いて、水辺のハスの葉を動かすと、光が入り乱れてきらきらと輝く』という意味だとされた上で、「往生論」は『日本では、浄土宗や浄土真宗で重く用いられている聖典でして、日蓮宗には関係ないのですが』(私が原典を見たのも浄土真宗のデータベース内である)、『賢治は、世親の著作には関心を持っていたようで、「青森挽歌」で、世親の『倶舎論』に基いて死後の世界を考えたりしています』。『ともかく、ここではハンノキの葉が風に吹かれて光るようすを「交錯光乱転」(光が入り乱れて、極楽浄土のように、きらきら輝く)と言っているわけです』とされる。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 竹と楢

 

         竹 と 楢

 

煩悶(はんもん)ですか

煩悶ならば

雨の降るとき

竹と楢(なら)との林の中がいいのです

  (おまへこそ髮を刈れ)

竹と楢との靑い林の中がいいのです

  (おまへこそ髮を刈れ

   そんな髮をしてゐるから

   そんなことも考へるのだ)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は宮澤家版と藤原嘉藤治所蔵本の現存本は全行に斜線を附す。今一つの現在所在不明の藤原嘉藤治所蔵本では、抹消はなく、「竹と楢(なら)との林の中がいいのです」が「竹と楢(なら)との林の中がいいですな」と修正してあった。

「竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連 Bambuseae のタケ類。代表的な一種はマダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides であるが、タケ類は世界で六百~千二百種、本邦でも百五十~六百種があるとされる(学説によって異なる)。なお、一部、各所に特定のスパンを持って転々と忽然と竹林があることが多いのは、竹細工を生業(なりわい)として漂泊したサンカの人々が、永い彼らの歴史の中で植えた結果であるとする説を私は強く支持している。

「楢」賢治が好きな木で複数回既出既注。ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、ここはその中でも主要な種とされるミズナラ Quercus crispula ととっておく。なお、竹が落葉広葉樹である水楢に混在した場合は、水楢が成長して林を形成すると、竹は太陽光を遮られて枯れてしまうから、ここはそれらの過渡期的な林か、相互が棲み分けて、しかし、遠目には一つの叢(むら)、林のように見えるものを指しているのかも知れない。

 

 しかし、問題はこの異様な応答である。そうして、竹と水楢の林なるものを想起した時、どうもそうした林(特に過渡期的混在林)は、およそ、穏やかに散策出来るような場所ではない。「煩悶」しているの「ならば」、「雨の降るとき」に「竹と楢(なら)との林の中がいい」という謂いは現実的でない。寧ろ、「煩悶」を象徴するような、散歩もし得ない場所である。しかも雨さえ降っている。とすると、この「そんな髮」と誰かが詩人を批難している「そんな髮」がキーになる。即ち、「雨の降る」「竹と楢(なら)との林」はまさにそのごちゃごちゃした「髮」の外化したものと見ることが出来、ごちゃごちゃした「髮」は、「そんな髮をしてゐるから」「そんなことも考へるのだ」という批難の言葉によって、直ちに、その下に在る、ごちゃごちゃした詩人の「脳髄」の言い換えへと変貌する。「おまへこそ髮を刈れ」! 「おまへこそ髮を刈れ」! 「そんな髮をしてゐるから」「そんなことも考へるのだ」! と批難する人は誰か? 父か? 父のような存在か? 市井の人々か? 詩人の超自我か? その批難がまるっきり不当なものであると詩人が考えているなら、そもそもがこんな詩篇を創る必要はない。無視すればよい。とすれば、表明されるその批難に対し、詩人はそれは確かに正当な一面があると認めていると読まねばなるまい。であるなら、これはやはり詩人の中の別な全く反するアンビバレントな意識・思想からのもう一人からの指弾とするのが正当であろう。……私は高校時代、髪を女みたように伸ばし、パンタロンみたようなジーンズを穿きながら、鬱々としていた。そうして四季を通じて、休日になると、住んでいた高岡市伏木の二上山の麓の奥、矢田の堤を越えて、谷川深く入り込み、最早、獣道(けものみち)でさえない中を、何時間も何時間も、目的もなく、ただ蒸し暑い中、はたまた、雪の積もった中を彷徨するのを常としていた。大の昆虫嫌いの臆病な私が、寒がりの私が、だ。だから、私はこの賢治の謂いに限りない共感を覚えるのである……
 
 

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 たび人

 

        た び 人

 

あめの稻田の中を行くもの

海坊主林(うみぼうずぼやし)のはうへ急ぐもの

雲と山との陰氣のなかへ步くもの

もつと合羽をしつかりしめろ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「うみぼうずぼやし」の「ぼうず」(正しい歴史的仮名遣は「ばうず」)と「ぼやし」はママ。原稿は「うみぼうずばやし」で「ぼ」は明らかな誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」も修正がない(他に手入れもない)。小さなルビで誤植に気づかなかった例である。「ぼうず」は古典でもあるケースで気にはならない。前の電線工夫」と同じく、一種、アフォリズム風の小品である。実景であろうが、陰鬱である。この旅人は孤高に人生を歩む賢治自身の投影であり、「もつと合羽をしつかりしめろ」と言う叱咤激励の声は無論、詩人自身へ鏡返しされて反響している。そうして、それは、私には遠く梅崎春生遺作ってったエンディングの、主人公久住五郎が、阿蘇の噴火口を巡り歩く生死の賭けをした丹尾章次に呼びかける「しっかり歩け。元気出して歩け!」の叫び声へと響き合うのである(リンク先は私のブログでの分割電子化注のそれ。その一括版(PDFにある)。

「海坊主林(うみぼうずぼやし)」で一語の賢治の造語であろう。稲田の中に残っている、一叢(ひとむら)こんもりと丸い雑木林の形状を妖怪のそれに喩えたものと採る。妖怪としての「海坊主」やそれに類する怪異はさんざん注してきたし、まず、皆さんは御存じであろう。「船幽霊」と同じものと捉えるケースもあるが、本質的には両者はその発生と出現様態に差があり、ここで賢治が名指しているのは、お馴染みの概ね円筒形の頭をしたオバQ見たような巨大な妖怪妖怪したそれである。どうしてもと言われる御仁は私のウィキの「海坊主からの引用を主とした、小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (二)の注でも参照されたい。まあ、ウィキそのものを見た方がヴィジュアル的にはよかろうかい。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 電線工夫

 

            

 

でんしんばしらの氣まぐれ碍子の修繕者

雲とあめとの下のあなたに忠告いたします

それではあんまりアラビアンナイト型です

からだをそんなに黑くかつきり鍵にまげ

外套の裾もぬれてあやしく垂れ

ひどく手先を動かすでもないその修繕は

あんまりアラビアンナイト型です

あいつは惡魔のためにあの上に

つけられたのだと云はれたとき

どうあなたは辯解をするつもりです

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿は「云はれたとき」が「いはれたとき」とひらがな。最終校正でひらがなにしたらしい。宮澤家版「手入れ本」は大きく全体を改変している(改変しないのは一・四・六行目のみ)。以下に示す。

   *

 

            

 

でんしんばしらの氣まぐれ碍子の修繕者

雲とあめとのそのまつ下のあなたに忠告いたします

それではまるでアラビヤ夜話のかたちです

からだをそんなに黑くかつきり鍵にまげ

雨着の裾もぬれてあやしく垂れさがり

ひどく手先を動かすでもないその修繕は

アラビヤ夜話のあんまりひどい寫し【模倣】です

あいつは黑い盜賊團か

惡魔のためにあすこのとこに

つけられたのだと云はれても

どうまああなたは辯解できるおつもりですか

 

   *

【模倣】は「寫し」の横に「模倣」(「倣」の字の(にんべん)を(のぎへん)に誤記している)を併記していることを示した。

「でんしんばしら」「グランド電柱」の注を参照されたい。

「氣まぐれ碍子の修繕者」「氣まぐれ」は「氣まぐれ碍子」で一語のように見え、気紛れに故障をやらかす碍子(碍子はやはり「グランド電柱」の注を参照)の謂いであるが、どうも後の謂いを見るに「雲とあめとの下」でショートしちまうかもしれない、碍子の修繕しよだなんて、それって気紛れですか? と物言いしているようにも読める。私はそう二重に読む。だから「あなたに忠告いたします」と続いて腑に落ちるからである。

「それではあんまりアラビアンナイト型です」「アラビアンナイト」は、その中の具体な話を想起して喩えているのではなく、「アラビアンナイト」から単に「魔法」を連想しているのであろう。以下、如何にも事大主義的な真黒な防雨防電用の外套を着ている(「そんなに黑く」)修理工夫が「からだをかつきり鍵にまげ」(電信柱に体を確保するために両足を挟んで(推定)上半身を鈎型に曲げて)て、「外套の裾も」ずぶ濡れで、それがまた、如何にもぬらぬらとして「あやしく垂れ」ていて、これはもう、尋常には見えないぞ! しかも「ひどく手先を動かすでもな」く(碍子の修繕であるからその作業はその大仰な姿形に反して、指先だけで行う微細な作業なのであろう)、そこにその格好で固まっている、いや! 吊り下げられているのだ! やっぱり「あんまりアラビアンナイト型」じゃないですか?! そうして「魔法」から「惡魔」が関係妄想され、あなたは誰からから、「あいつは惡魔のためにあの上に」「つけられた」者な「のだ」! と名ざされた時、「どうあなたは辯解をするつもりです」か? と謂い掛けているのである。ややブラッキーなファンタジーの切り取りである。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 山巡査

 

        山 巡 査

 

おお

何といふ立派な楢だ

綠の勳爵士(ナイト)だ

雨にぬれてまつすぐに立つ綠の勳爵士(ナイト)だ

 

栗の木ばやしの靑いくらがりに

しぶきや雨にびしやびしや洗はれてゐる

その長いものは一体舟か

それともそりか

あんまりロシヤふうだよ

 

沼に生えるものはやなぎやサラド

きれいな蘆(よし)のサラドだ

 

[やぶちゃん注:「体」はママ。大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿は「ロシヤふう」は「ロシヤ風」であるが、最終校正でひらがなにしたか。「手入れ本」は手入れなし。特異点。

「山巡査」無論、賢治の造語。言わずもがな、次の「楢」の木を擬人化したもの。それと一体となった詩人が雨の中を栗林から沼へと、自然を指差点呼しつつ巡邏してゆく。

「楢」既出既注。ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、ここはその中でも主要な種とされるミズナラ Quercus crispula ととっておく。

「勳爵士(ナイト)」「ナイト」は「勳爵士」三字へのルビ。主にヨーロッパのキリスト教国家に於いて、勲章の授与に伴って王室又は教皇から授与される、中世の騎士階級に由来した栄誉称号「Knight」の訳語。特にイギリス(連合王国)の叙勲制度に於いて王室より叙任されるものが著名。他に「勲功爵」「騎士爵」「士爵」などの訳が見られる。称号としての「ナイト」を「騎士号」とも訳す。なお、英国に於いては「ナイト」は貴族身分ではなく、世襲権を持たない準貴族の扱いである(ここはウィキの「ナイトに拠った)。

「その長いものは一体舟か」/「それともそりか」地に帰ることとなった倒木であろう。

「あんまりロシヤふうだよ」「そり」(橇)から連想された。この九年前の一九一七年(大正六年)十一月七日、「十月革命」で「ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ」政権が樹立(当時の賢治は満二十一歳で盛岡高等農林学校三年)され、そのトップにレーニンがなり、「ボリシェビキ」を改称した「ロシア共産党」を率いて内戦に勝利し、事実上の建国の始動期にあったが、本詩篇の書かれた直後、一九二二年(大正十一年)の翌月末(年末)の十二月三十日(当時の賢治は二十六歳)ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(一九一八年七月成立)に、ウクライナ・ベロルシア・ザカフカースの三つのソヴェト社会主義共和国が加わって、遂に「ソ連共産党」の一党独裁による「ソヴィエト社会主義共和国連邦」を成立させている。ロシアが世界中で大きな話題になっていた中で、この「あんまりロシヤふうだよ」という、やや傍観者的な風刺を感じさせる謂い掛けが用いられていることに着目したい。宮澤賢治はこの世紀の一大イベントとなった「ロシア革命」と巨大な社会主義国家の出現をどう思っていたか。Kenjitomorris氏のブログ賢治とモリスの館」の「宮沢賢治とロシア革命」によれば、「羅須地人協会」に出入りしていた伊藤与蔵氏の「聞き書き」を素材に、賢治が、イギリスの詩人でデザイナーであると同時にマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)が主導したデザイン運動「アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement:「美術工芸運動」。産業革命により生じた、安価ながら粗悪なステロタイプの商品の大量生産の蔓延を批判し、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張したもので、自ら「モリス商会」を設立、装飾された書籍・インテリア製品などを製作した。その製品自体は結局、高価なものになって、裕福な階層にしか使えなかったという批判もあるが、生活と芸術の一致を目指したモリスの思想は世界的に大きなインパクトを与え、「アール・ヌーヴォー(Art nouveau:新しき芸術)」・「ウィーン分離派」(Wiener Secession:一八九七年にウィーンで画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)を中心に結成された芸術家のグループ。単に「セセッション」とも表記される)・ユーゲント・シュティール(Jugendstil:一八九六年にミュンヘンで刊行された雑誌『ユーゲント』(Die Jugend:若者・青春の意)に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。「ユーゲント」は「若さ」、「シュティール」は様式を意味するドイツ語で、「アール・ヌーヴォー」と意を同じくし、「青春様式」と訳されることもある)などの美術運動にもその影響が見られる)の芸術論を読んでおり、特に『芸術と労働の関係については』『モリスなどの思想を継承してい』たとあり、このソヴィエト社会主義共和国連邦成立という壮大な歴史の実験は、賢治が『「農民芸術概論」を書き、羅須地人協会が設立、活動を始める』四『年前のこと』であるとされ、以下のように述べておられる。

   《引用開始》[やぶちゃん注:クエスチョン・マークの後に字空けを入れた]

モリスなど『ユートピア便り』の社会主義や芸術思想とロシア革命の現実が、賢治など多くの知識人の眼にどのように映り、どのように受け止められたか? プロレタリア独裁の暴力革命、「労・兵ソビエトと全国の電化」の社会主義の現実は、産業革命の工業化の資本主義を超えようとしていたモリスの「ユートピア社会主義」の夢とは、余りにもかけ離れた暗い現実ではなかったか? 知識人の間に動揺が走り、思想的混乱が生じたのも当然だったろう。東大の卒業論文のテーマにモリスを選んだ芥川竜之介が、「ただぼんやりとした不安」という謎めいた遺書を残して自殺した。「ぼんやりとした不安」の背後には、ロシア革命とソ連邦の現実があったという推測もある。[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒論(無論、英文)は戦災により消失し、現在、我々がそれを読むことは出来ない。非常に残念なことである。]

 では、こうした思想界の混乱や動揺の中で、モリスの芸術思想、そして社会主義を受容・継承しようとしていた賢治は、ロシア革命をどう受け止めていたか?

 「聞き書き」には、「私は小ブルジョア」の項目があった。賢治はそこで「革命が起きたら、私はブルジョアの味方です」と言い切り、「私は革命という手段は好きではない」とも語っていた。彼が自分の出身階層が小ブルジョアであることは、いわば客観的事実として率直に認めていたことであって、賢治らしい率直さだと思う。プロレタリア独裁のテーゼからは、小ブルジョワが反革命の側につく。そこから賢治は、自らは客観的な階層的地位からすれば、反革命の立場に立たざるを得ないことを率直に語ったのであろう。

 しかし、ここで賢治が「革命という手段は好きではない」と語っていることは、ロシア革命に対する不賛成・反対の意思表示である。プロレタリア独裁の暴力革命の方式に、賢治がはっきり反対の立場に立とうとしていたことがわかる。モリスなどの、西欧社会主義・社会民主主義の思想的伝統の流れからすれば、レーニンのボルシェビズムは相容れないものだろう。賢治のロシア革命に対する明確な否定の態度表明は、モリスなどの社会主義の思想からは、むしろ当然ともいえる立場の意思表示だったのではないか?「農民芸術論」、そして羅須地人協会の運動を理解する上でも、大事な論点提起だと思う。

   《引用終了》

(「小ブルジョア」と「小ブルジョワ」の違いはママ。著作権侵害とならないよう引用を最小限にするため、前後を省略してある)と述べておられる。これは、賢治という人間のある種の偏頗な性格や非社会性や作品群の示す世界観を鳥瞰するに、肯んずることの出来る結論であり、さすれば、この「あんまりロシヤふうだよ」という何か微苦笑を含んだ揶揄を感じさせる言い掛けも腑に落ちてくるのである。一八七〇年代のロシアの社会運動家群ナロードニキ(Народники)が提唱した「ヴ・ナロード」(в народ:ラテン文字転写:v narod:人民のもとへ)が失敗した事実とともに、賢治にはプチ・ブル階級による人民主義革命さえも絵空事に思えたに違いない。賢治は悪い意味でも良い意味でも、実は農民には成りきれなかった(成ろうとはしなかった)選民としての科学者であり、芸術家であったと私は思っている。

「やなぎやサラド」/「きれいな蘆(よし)のサラドだ」「サラド」は「サラダ」(salad)。視認する即物対象の一般名と別な並列対照物の換喩表現の名を並べるのは、新手の手法。「やなぎ」は彼の好きな「ベムベロ」=「カワヤナギ」=ネコヤナギキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gilgiana であろう。「蘆(よし)」は「葦(あし)」「葭(よし)」「アシ」「ヨシ」と書き換えても孰れも総て同一の、湿地帯に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。ウィキの「ヨシ」によれば、『もともとの呼び名は「アシ」であり、日本書紀に著れる『豊葦原(とよあしはら)の国』のように、およそ平安時代までは「アシ」と呼ばれていたようである』。「更級日記」においても、『関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書かれている』。八『世紀、日本で律令制が布かれて全国に及び、人名や土地の名前に縁起のよい漢字』二『字を用いる好字が一般化した。「アシ」についても「悪し」を想起させ』、『連想させ』て『縁起が悪いとし、「悪し」の反対の意味の「良し」に変え、葦原が吉原になるなどし、「ヨシ」となった。このような経緯のため』、『「アシ」「ヨシ」の呼び方の違いは地域により変わるのではなく、新旧の違いでしか無い。現在も標準和名としては、ヨシが用いられる。これらの名はよく似た姿のイネ科にも流用され、クサヨシ』(イネ科イチゴツナギ亜科カラスムギ連クサヨシ属クサヨシ Phalaris arundinacea)・『アイアシ』(イネ科アイアシ属アイアシ Phacelurus latifolius)『など和名にも使われている』とある。ヨシの『垂直になった茎は』二~六メートル『の高さになり、暑い夏ほどよく生長する』。『葉は茎から直接』、『伸びており、高さ』二十~五十センチメートル、幅二~三センチメートルで、『細長い』。カメラが林を抜けて湿原へ向かう。そこに大好きな「ベンベロ」(猫柳)と、こんもりとしたグリーンの、雨に洗われて生き生きと輝くサラダのような蘆原が見えてくる。ロシアが出てきた序でに、これも私はタルコフスキイに撮って貰いたい一篇である。]

2018/11/22

大和本草卷之十三 魚之上 𫙬𮈔魚 (ギギ類)

 

𫙬𮈔魚 時珍食物本草註云諸生溪河中長五六

 寸黃褐色無鱗濶口口有細齒如鋸鰓下有硬刺

 骨亦硬善吞小魚肉薄味短氣味甘平無毒主益

 脾胃和五藏發小兒痘疹多食生疥々山中

 溪河ニアリアギノ下ノ兩傍ニヒレアリ又背ニヒレアリ皆刺

 ナリ三處共ニ人ノ手ヲフルレバ人ヲサシテ痛ムナマツニ似

 テ小ナリ又鰷ノ形ニ少シ似タルモアリ黃褐色ナリ處々ニ斑

 文アリテ段ヲナスモアリ長三四寸或五六寸山州嵯

 峨ノ川ニテミコ魚ト云ハギヾノ赤キ也形狀ハ同シ筑紫

 ノ村民蜂振ト云ハリアル故名ツク海ニモ此ノ魚アリ案ニ

 本草所載之黃顙魚又號黃𩼝魚又名䱀䰲時珍云

[やぶちゃん注:「黃𩼝魚」の「𩼝」の(つくり)の下部は「甘」ではなく「耳」のように見えるが、このような漢字が見当たらないので取り敢えず、これを当てておく。中文サイトで「玉篇」なる書物に「黃鱨魚」という名が載っており、「鱨」の異体字が「𩼝」であるからである。]

 無鱗魚也身尾俱似小鮎腹下黃背上靑黃情最

 難死反荊芥今案恐クハコレ𫙬𮈔魚ト同物異名ナルヘシ

 凡異名同物多シ黃顙魚ヲタラト訓スルハ非ナリ

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:」=「糸」+「系」。]

𫙬(ギヾ)魚 時珍「食物本草」の註に云はく、『諸溪河中に生ず。長さ、五、六寸、黃褐色、鱗、無く、濶〔(ひろ)〕き口(くち)。口に細き齒、有り、鋸のごとし。鰓〔(あぎと)〕〔の〕下、硬き刺〔(はり)〕有り。骨も亦、硬く、善く小魚を吞む。肉、薄く、味、短〔(おと)れり〕。氣味、甘、平。毒、無し。脾胃を益し、五藏の和〔す〕ことを主〔(つかさど)〕る。小兒の痘疹を發し、多く食へば、疥〔(はたけ)〕を生ず』〔と〕。○處々山中溪河にあり。あぎ〔と〕の下の兩傍に、「ひれ」あり、又、に「ひれ」あり、皆、刺(はり)なり。三つ處共に、人の手をふるれば、人をさして、痛む。ナマヅに似て小なり。又。鰷〔(ハヤ)〕の形に少し似たるもあり。黃褐色なり。處々に斑文ありて段をなすもあり。長さ、三、四寸、或いは、五、六寸。山州嵯峨の川にて「ミコ魚」と云ふは「ギヾ」の赤〔きもの〕なり。形狀は同じ。筑紫の村民、「蜂振(〔ハチ〕フリ)」と云ふ。はりある故、名づく。海にも此の魚あり。案ずるに、「本草」所載の「黃顙魚」、又、「黃𩼝魚」と號し、又、「䱀䰲」と名づく。時珍云はく、『無鱗魚なり。身・尾、俱に、小〔さき〕鮎(ナマヅ)に似て、腹の下、黃。背の上、靑黃。情、最も死に難〔(がた)〕し。荊芥〔(けいがい)〕に反す。今、案ずるに、恐らくは、これ、「𫙬𮈔魚」と同物異名なるべし。凡そ、異名同物、多し。「黃顙魚」を「タラ」と訓ずるは非なり。

[やぶちゃん注:やや問題点(中国のそれは良安の推理する通り、ギギ科Bagridae のギギの仲間である可能性は結構あるが(ナマズに似てしかも時珍は「軋軋」(現代中国語では「yàyà」。「ィアィア」)と鳴くとする(後掲)からである)、別種である(本邦産種は以下に見る通り、総て日本固有種)。また、後で注するように「ミコ魚」=「蜂振」についてははギギ類ではないがあるが、本邦産種としては、

条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps(新潟県阿賀野川より以南、四国の吉野川、九州東部まで分布する日本固有種)

をまず挙げてよかろう。それ以外に、同じギギ科の、

ギギ科 Pseudobagrus 属ネコギギ Pseudobagrus ichikawai(愛知県・岐阜県・三重県(伊勢湾・三河湾流入河川)に分布する日本固有種。体色は黒褐色に黄褐色の斑紋が入る。幼魚は明色斑が明瞭であるが、成長に伴い、不明瞭となる。絶滅危惧IB類(EN))

ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis(神奈川県・富山県以北の本州に分布する日本固有種。体色は茶褐色から黒褐色。幼魚は黄色味を帯びたはっきりとした斑紋を有する)

や、長くそのギバチと同種とされてきたが、近年、染色体数の違いなどから独立種とされた、

ギバチ属アリアケギバチ Pseudobagrus aurantiacus(九州西部及び長崎県壱岐に分布する日本固有種。準絶滅危惧種(NT))

も掲げておく必要がある(後者は特に益軒のフィールド辺縁であるからである)。非常に興味深いのは、これら四種は夜行性で、音を発すること、無鱗で棘を有することなど、その習性や生態はよく似ているが、本邦内での分布が全く重なっておらず、自然に棲み分けをしている点である(熊本県球磨川にギギがいるが、これは琵琶湖からの人為移入と推測されている)。ウィキの「ギギから引く。『琵琶湖、岡山県、広島県で』「ギギ」及び「ギギウ」、『岐阜県で』「クロイカ」及び「クロザス」と呼ぶ、とある。『全長は』三十センチメートル『にもなるなど、ギギ科のなかで最も大きくなる。同じギギ科のギバチに似ているが、ギギは尾びれが』二『叉になっているので区別できる。背びれに』一『棘』七『軟条、尻びれに』二十『軟条、腹びれに』六『軟条、触鬚が』四『対。上顎に』二『対、下顎に』二『対、合計』八『本の口ひげがある。昼間は岩陰に潜み、夜間に出て』、『底生動物や小魚などを食べる。腹びれの棘と基底の骨をすり合わせ、「ギーギー」と低い音を出す』(漢字で「義義」・「鱨」本文内の私の注を参照)等と記すが、和名はこのオノマトペイアである)。『背びれ・胸びれの棘は鋭く、刺さると痛い』。『直径約』二ミリメートル『の強い粘着性のある黄褐色の卵は』千二百『粒から』二千百『ほど産卵された後に約』七十『時間で孵化し、体長』五ミリメートル『程度の稚魚となる。稚魚は』一『週間で卵黄を吸収し』九ミリメートル『程度まで成長すると、摂食を開始する』。『煮物、フライ、天ぷらなど、食用として利用される』が、現在は個体数が減ってきており、各地で希少種とされていて、保全すべき種になりかけている。私が小学校二年生の時、最初に買って貰った小学館の「魚貝の図鑑」で真っ先に魚体と名前を覚えたのがギギだった。名前が怪獣みたようだったことと、そのブッ飛びの命名由来と、危険がアブナい毒針との三役揃い踏みときた上に、その直後に裏山の溜池の水門でモッゴ(条鰭綱コイ目コイ科モツゴ属モツゴ Pseudorasbora parva獲りの最中、見かけたような気がしたから、衝撃の刷り込み効果が生じたのであった。

「𫙬𮈔(ギヾ)魚」サイト「真名真魚(まなまな)字典」のこちらで、本条を引き、最後に、この奇体な二字について、『二字とも大辞典に記載なし』。孰れも、本字一『字だけで魚の名をあらわす用例は見当たら』ず、「𮈔」或いは「絲」を『伴って、ギギをあらわす。ツクリの』「盎」『は、おそらく、ギギを中国でも現してきた』「䱀䰲」の「」の「央(オウ)」『と、まったく別文字だが』、『マナガツオやタナゴを指す』「鰪」の(へん)の(アフ(オウ))『とが、混同して(意識的か無意識かはわからないが)生まれた文字のような気がする。また、翻刻に当って』、「絲」及び「𮈔」とを『同字として活字化している場合』(「古事類苑」等)が『あり、原典執筆者の用例に戻り』、『確認が必要かもしれない』とある。

『時珍「食物本草」の註』明の汪穎の食療食養専門書「食物本草」に同時代の李時珍が注したものか。

「脾胃」漢方で広く胃腸・消化器系を指す語。

「五藏の和〔す〕こと」「心(しん)」・「肝」・「脾」・「肺」・「腎」の五つの内臓(現代医学のそれとは必ずしも一致しない)の全体のバランスを整える機能・機序。

「小兒の痘疹を發し」子どもが食べると天然痘を発症し。ちと大袈裟過ぎである。天然痘様の激しい発疹と採っておく。

「疥〔(はたけ)〕」顔面単純性粃糠疹(ひこうしん:pityriasis simplex faciei)の俗称。顔面に、境界が比較的鮮明で軽い、色素脱失性の大小の円形病変が生じる疾患。病変部は乾燥し、粃(しいな:籾殻(もみがら))や糠(ぬか)のような感じで落屑(らくせつ:皮膚の表層が大小の角質片となって剝げ落ちること)するため、白っぽく粉を掃いたように見える。通常は自覚症状がない。発赤や丘疹がみられることもある。以前は「顔面白癬」と考えられていたが、現行では白癬菌が病原体であるとは証明されていない。思春期前の小児、特に男児に多く、思春期になり、皮脂分泌が増えると自然に治癒する。症状は夏季に顕著になる。同様の病変が頭部に生じるものは「頭部単純性粃糠疹」、顔面と頭部に生じるものは「顔面頭部単純性粃糠疹」と呼ばれる(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。

「鰷〔(ハヤ)〕」複数回既出既注であるが、再掲しておく。複数の種の川魚を指す。ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称通称である。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としては、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

などが挙げられる。ここでそれらに「形に少し似たるもあり」と言うところが、私が当初、少し同定比定を躊躇したところである。以上の「ハヤ」類はナマズ目 Siluriformes のナマズ類とは全く縁がなく、普通にイメージするナマズと彼らは全く似ていないからである。しかしながら、ギギ類はこちらの小学館「日本大百科全書」の解説の脇にある博物画(クリックで拡大出来る。ネコギギ・ギバチ・ギギの三種の図がある)を見て戴くと判る通り、実はナマズの癖にナマズナマズしていない、ちょいとハヤっぽいスマートな流線型をしているのである。特にギギは尾鰭が二叉していて、似ていると言えるのである。

「處々に斑文ありて段をなすもあり」先に示した通り、若年個体にはこうした斑紋が見られる。

「山州嵯峨の川」山城国嵯峨川は嵯峨嵐山附近を流れる保津川の別称。

「ミコ魚と云ふは「ギヾ」の赤〔もの〕なり」これが一番引っ掛かった。結論から言うと、これはギギ科 Bagridae のギギ類ではない「赤佐」で、ナマズ目 Siluriformes ではあるが、アカザ科 Amblycipitidae の、アカザ属アカザ Liobagrus reini である。ウィキの「アカザ」によれば、『胸鰭と背鰭に鋭く毒のある棘条があり、その棘条に刺されると痛いことからつけられたアカザスが転訛してこの名になったとされている。他には、アカネコ、アカナマズの名がある。日本固有種で、秋田県、宮城県以南の本州と四国、九州に分布する』。『ナマズの仲間としては小型で、体長は最大』十『前後。ドジョウのように円筒形の細長い体型をしており、英名でもLoach catfish(ドジョウナマズ)と呼ばれる。体色は、やや赤色がかるが地域変異が大きい。生息域の重複や頭部の形状などの特徴から』、『ギギやギバチに若干似るが、以上のような特徴から識別は容易である。また、他種と比べて頭部が小さく』、『側線が胸鰭の後ろ近辺までしかないという違いがある。口ひげは上顎に』二『対、下顎に』二『対の計』八『本である。胸鰭に』一『本ずつ、背鰭に』一『本の刺条を持つ。刺条には毒腺があり、刺されると痛む。背鰭の後部には脂鰭があるが』、『その基底は長く、後端で尾鰭と連結する。尾鰭の後縁は丸く扇形になる』。『水温の低い河川の上流域下部〜中流域、渓流部の清澄な水底に生息する。高温に弱く、水温が』二十五『度以上になると死亡個体が出始める』。『夜行性。日中は水底の浮き石の下、岩の隙間などに隠れており、夜間や水の濁った時に活動する。形態と同様、動作もドジョウに似ており、水底の石の間を伝いぬうように動き回る。肉食性で、主に水生昆虫を捕食する』。『卵はゼリー状の物質に守られ、ひとかたまりに産み付けられる』とある。しかし、画像を幾つか並べてみると、素人目にはギバチとかなり似ており、夜行性であること、毒針を有すること等、これは益軒がギギ類と誤認しても無理はないと私は思ったものである。

『筑紫の村民、「蜂振(〔ハチ〕フリ」と云ふ』ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のアカザのページの「地方名・市場名」の欄に『ハチウオ』『ハチナマズ』とあった。一方、同氏のギギページには「ハチ」で始まる異名はないから、この呼称は正しく「アカザ」を指している可能性が頗る高いと思う。

「海にも此の魚あり」これを問題にする人がいるかも知れぬが、どっこい! 背鰭と胸鰭の第一棘条が毒棘となっている、危険海水魚として名の知れた、ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ属ゴンズイ Plotosus japonicus 「ギギ」「ハゲギギ」「ググ」(真正のギギの地方名に「クグ」がある)「ギギュウ」といった「ギギ」と同じ名・異名をも持っているのである。海に「ギギ」は「いる」んですよ!

「本草」「本草綱目」巻四十四の「鱗之四」に(「主治」は略す)、

   *

黃顙【「食療」。】

釋名黃鱨魚【古名。】。黃頰魚【「詩註」。】。䱀䰲【央軋。】黄。時珍曰、顙、頰以形、鱨以味、軋以聲也。今人析而呼爲黃、黃軋。陸璣作黃、楊謬矣。

集解時珍曰、黃顙、無鱗魚也。身尾俱似小鮎、腹下黃、背上靑黃、腮下有二橫骨、兩鬚、有胃。羣游作聲如軋軋。性最難死。陸璣云、魚身無頭、頰骨正黃。魚之有力能飛躍者。陸佃云、其膽春夏近上、秋冬近下。亦一異也。

氣味甘、平、微毒。詵曰、無鱗之魚不益、人發瘡疥。時珍曰、反荊芥、害人。

   *

「鮎(ナマヅ)」条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus。禅宗の公案を絵画化した「瓢鮎図」で知られる通り、漢語漢字・中国語としての「鮎」はナマズを指す。因みに、中国では条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis は「香魚」である(アユは北海道・朝鮮半島から中国・ベトナム北部まで、東アジア一帯に分布するが、本邦がその中心である)。

「情」性質。

「最も死に難〔(がた)〕し」なかなか死なない。ナマズ類は概して強健ではある。

「荊芥に反す」「荊芥」シソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifoliaの全草を乾燥させたもの。ウィキの「ケイガイによれば、『中国原産の草本で花期は初夏から夏』。『花穂は発汗、解熱、鎮痛、止血作用などがあり、日本薬局方に生薬「荊芥(ケイガイ)」として収録されている。荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)などの漢方方剤に配合される。「アリタソウ」という別名がある。ただし、本種はシソ科であり』、和名『アリタソウ』(有田草:ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae Chenopodieae
連アカザ属アリタソウ Chenopodium ambrosioides)『とは全く別の物である』とあるので注意が必要。漢方サイトによれば、高さは六十~八十センチメートルで、シソ科特有の強い香気を有し、初夏に淡い紫紅色の小花を穂状(すいじょう)につけた際に採取し、感冒による熱・頭痛・鼻炎・咽喉の痛みなどを改善する働きがあるとする。

『「黃顙魚」を「タラ」と訓ずるは非なり』確かに。「本草綱目」のそれは鱈(条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類。日本近海では北日本沿岸にマダラ(マダラ属マダラ Gadus macrocephalus)・スケトウダラ(スケトウダラ属スケトウダラ Theragra chalcogramma)・コマイ(コマイ属コマイ Eleginus gracilis)の三属三種が分布するが、単に「タラ」と呼んだ場合はマダラを指すことが多い)じゃあ、ないねえ。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 グランド電柱

 

         グランド電柱

 

あめと雲とが地面に垂れ

すすきの赤い穗も洗はれ

野原はすがすがしくなつたので

花卷(はなまき)グランド電柱(でんちゆう)の

百の碍子(がいし)にあつまる雀

 

掠奪のために田にはいり

うるうるうるうると飛び

雲と雨とのひかりのなかを

すばやく花卷大三又路(はなまきだいさんさろ)の

百の碍子にもどる雀

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「花卷大三又路(はなまきだいさんさろ)」の「又」はママ。原稿も「又」。「手入れ本」も修正せず。校本全集校訂本文は「叉」とする。

・「百の碍子にもどる雀」宮澤家版「手入れ本」は、

 百の碍子にしりぞく雀

とする。韻律からは「しりぞく」がよい。

 和田博文氏の「風呂で読む宮澤賢治」(一九九五年世界思想社刊。私の入浴中の愛読書の一つ)の解説に、『花巻に電燈が初めてともったのは、賢治が一六歳の一九一二(大正元)年のことだという。ランプから電気への移行は、人々の生活様式や感受性のありかたを変えた。この詩はその一〇年後に書かれているが、「グランド」(grand=堂々とした)という形容からは、その頃の電柱イメージがうかがえる』とある。松井潤ブログ「HarutoShura詩篇解説によれば、『「グランド電柱」「花巻大三叉路」ともに、賢治の造語。花巻市豊沢町の街路を豊沢橋のほうに進み、橋を渡ってから』「花巻大三叉路」『(いまの新旧国道の交差点)にいたる区間の両側に立ち並んでいた電柱のことをグランド電柱と呼んだ』とある。「花巻大三叉路」は(グーグル・マップ・データ)桜町交差点(現在は四叉路)であろう。賢治の地図でも判る通り、生家から五百七十メートル南南東で、これらはごく直近の身近な景色であったことが判る。ギトン解説によれば、『当時は、奥州街道に沿って高圧送電線の高い電柱が並んでいたそうです。これが賢治の言う「花巻グランド電柱」です。幹線の送電線ならば、ひとつの電柱に2~3段の横木と10個前後の碍子が付いていたでしょうから、立ち並ぶ電柱に付いている碍子の数を合計すれば、「百の碍子」は誇張ではないのです』とあり、別ページでは、「電柱」と「電信柱」は異なるものであることを写真で解説して下さっている。私などは今まで混同していただけに、眼から鱗であった。

「碍子(がいし)」電線を支持し絶縁するために、電柱や鉄塔に取り付ける絶縁体の器具。ごく初期は木製であったが、後に陶磁器製のものが登場し、ごく近年まで使用され、我々にはお馴染みである。現在は改良が進んで合成樹脂製のものが多い。

「掠奪」(りやくだつ(りゃくだつ))「略奪」に同じ。暴力的に奪い取って自分のものにすること。農学者としての賢治なればこそかく言うものの、雀による稲作被害は実際には有意性がないことは彼も知っていたから、ここは寧ろ、その飛ぶさまを「うるうるうるうる」と何か侘びしげに表現して、「雲と雨とのひかりのなかを」/「すばやく花卷大三又路(はなまきだいさんさろ)の」/「百の碍子にもどる雀」に同情を寄せて、優しく眺めている詩人の姿が見える。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 原體劍舞連(はらたいけんばいれん)

 

          (はらたいけんばいれん)
      
mental sketch modified

 

  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

こんや異装(いさう)のげん月のした

鷄(とり)の黑尾を頭巾(づきん)にかざり

片刄(かたは)の太刀をひらめかす

原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ

鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を

アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ

生(せい)しののめの草いろの火を

高原の風とひかりにさゝげ

菩提樹皮(まだかは)と繩とをまとふ

氣圏の戰士わが朋(とも)たちよ

靑らみわたる灝氣(かうき)をふかみ

楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ

蛇紋山地(じやもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ

ひのきの髮をうちゆすり

まるめろの匂のそらに

あたらしい星雲を燃せ

 dah-dah-sko-dah-dah

肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ

筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び

月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し

敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ

こんや銀河と森とのまつり

准(じゆん)平原の天末線(てんまつせん)に

さらにも强く鼓を鳴らし

うす月の雲をどよませ

 Ho! Ho! Ho!

     むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)

     まつくらくらの二里の洞(ほら)

     わたるは夢と黑夜神(こくやじん)

     首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ

     靑い仮面(めん)このこけおどし

     太刀を浴びてはいつぷかぷ

     夜風の底の蜘蛛(くも)おどり

     胃袋はいてぎつたぎた

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

さらにただしく刄(やいば)を合(あ)はせ

霹靂(へきれき)の靑火をくだし

四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき

樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ

赤ひたたれを地にひるがへし

雹雲(ひやううん)と風とをまつれ

 dah-dah-dah-dahh

夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ

月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並

打つも果(は)てるも火花のいのち

太刀の軋(きし)りの消えぬひま

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

太刀は稻妻(いなづま)萓穗(かやほ)のさやぎ

獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の

消えてあとない天(あま)のがはら

打つも果てるもひとつのいのち

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年八月三十一日の作。本書後尾の「目次」の創作クレジットを示す表示は、先行する詩篇「春と修羅」「眞空溶媒」「靑い槍の葉」と同様、他の詩篇のそれの丸括弧でなく、二重丸括弧のそれで『⦅一九二二、八、三一⦆』(実際には漢字と読点は半角)となっている。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「こんや異装(いさう)のげん月のした」原稿は「こんや異装(いさう)の弦月のした」とするが、最終校正で訂したものらしく、宮澤家版「手入れ本」では「こよひ異装(いさう)のげん月のした」とあって「げん」はひらがなのママである。

・「原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ」「体」はママ(原稿は新字採用なので不明だが、「手入れ本」の指示はないから、恐らくは賢治自身が「体」で書いていると推定される)。新字採用の稿本全集校訂本文も当然ながら(とは思わないが)「原体村」である。ルビの「おどり」の「お」は原稿もママ。全集校訂本文も「お」。

・「鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を」原稿では「鴇」を「鵇」(異体字)とする。宮澤家版「手入れ本」では、

 若やかに波だつむねを

と大きく改変している。

・「生(せい)しののめの草いろの火を」宮澤家版「手入れ本」では、

 ふくよかにかゞやくむねを

と大きく改変している。

・「楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ」「掬(ぶな)」は原稿では「椈」で誤植であるが、「正誤表」にはなく、「手入れ本」でも修正されていない。見落としであろう。全集では「椈」と訂する。「椈」はブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata

・「あたらしい星雲を燃せ」の後の字下げの「dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では初行の「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」と同じ。「手入れ本」も手を加えていないから、最終校正で変えたものか。

・「こんや銀河と森とのまつり」宮澤家版「手入れ本」では、

 こよひ銀河と森とのまつり

と変更している。

・「さらにも强く鼓を鳴らし」原稿では「鼓」に「こ」のルビがあるが、「手入れ本」に修正はないから、これでよしとしたものか。しかし私などは「つづみ」と訓じてしまい、「原体剣舞」を知らない読者には不親切である。

・「Ho! Ho! Ho!」原稿は「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」とするも、その下の余白に『 ノ代リニ daa 又ハdah」と注記する。最終校正でかく変更したものらしい。「ä」(ドイツ語のウムラウト(Umlaut)附き)を用いた原型は、賢治がこの詩篇で出る一連のオノマトペイアに発音上の変化を持たせることを当初は考えていたことを示している。因みにドイツ語のそれは「エ」と殆んど同じであるから、これだとそのままなら、「デェ・デェ・デェ・デェ・デェ・スコ・デェ・デェ」か。

・「むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)」「たつた」のルビはママ。本書用原稿も「たつた」。「手入れ本」は藤原嘉藤治所蔵本の現存の一本のみが「たこく」とするだけで、全集校訂本文も「たつた」である。私は「たっこく」で知っており、行ったこともあるので、「たつこく」の誤植かと思ったので調べてみたが、「たつた(たった)」の読みは見当たらない。後で引く後の童話「種山ヶ原」では「たつこく」のルビを振るから、いよいよ不審で、さらに検索してみたところ、米地(よねち)文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』(『総合政策』第十八巻第二号(二〇一七年)・PDFでダウン・ロード可能)の『達谷の読み「たつた」』に以下の記載を見出せた。

   《引用開始》

 この詩の達谷には「たつた」とルビが振られているが、その地に近い所で育った米地にはそのような呼び方を聞いた記憶はないし、歴史や地名の研究者に問い合せても、そのような読みがあったとは聞いたことがない、ということであった。

 賢治が「たっこく」という正しい読みを知っていたことは童話「種山ヶ原」では達谷に「たつこく」とルビが振られていることからもわかる。

 原稿が遺されていないので推定ではあるが、おそらく、「たつこく」と賢治が少し斜めに書いたのを、後の二文字を一字と見間違えた植字工が、左下の「く」と右上の「こ」とを合わせて「た」と読んだのであろう。『春と修羅』には誤植が多かったが、それを賢治はあまり気にしなかったらしく、存外、語感がよいので誤植をそのままにしたのかも知れない。

   《引用終了》

この最後の推理には不審がある。本書用原稿は現存し、先に述べた通り、校本全集の「校異」に活字化されており、そこには確かに「たつた」とルビが振られているからである。しかし、やはり、「たつた」という異名はなかった可能性が高いことはこれで明らかであろう。ここは一種の仮想の唄部分であり、以上の『存外、語感がよい』音数律も悪くないと賢治が思った『ので誤植をそのままにしたのかも知れない』というのも頷けないことはない。また、全く単に賢治が最初に誤記し、見落とし続けていたという大ボケもあり得る。本書では誤植ルビに関しては訂していないケースが今までも複数あったからである。

・「アンドロメダもかゞりにゆすれ」原稿では、最初、アンドロメダではなく、「カシオペア」としたものを削除し、

 Ho! アンドロメダもかゞりにゆすれ

とするが、ご覧の通り、「Ho! 」はない。最終校正で変更したものらしい。

・「太刀を浴びてはいつぷかぷ」原本では「太刀」は「大刀」で誤植であるが、「正誤表」にあるので、訂正して示した。

・「蜘蛛おどり」の「お」は原稿もママ。全集校訂本文も「お」。

・「胃袋はいてぎつたぎた」原稿は「はいて」は「吐いて」。最終校正でかくしたものらしいが、個人的には「吐いて」のままの方が躓かずによかったようには思う。「吐」という漢字が感覚的に賢治が嫌ったものと思われる。

・「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。先の校正指示が影響した印刷所側の改変かとも思われる。

・「dah-dah-dah-dahhは底本ではご覧の通り、最後の「dahh」の前にあるハイフンだけが有意に上にある。植字のミスであるが、原則に則り、再現した。なお、原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。最終校正での賢治の変更と思われる。

・「月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並」原稿は「矢なみ」。最終校正での賢治の変更か。

・「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。三つ前の注で述べた通り、先の校正指示が影響した印刷所側の改変かとも思われる。

・「獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の」底本では「星座」が「屋座」と誤植しているが、「正誤表」にあるので訂した。

・「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。同前。

 

「原體劍舞連(はらたいけんばいれん)」本詩篇を取り上げたウィキの「原体剣舞連」によれば、岩手県奥州市江刺区原体(はらたい)地区(旧仙台藩の江刺郡原体村で、後に大田代・小田代・石山・土谷地区とともに田原村となり、現在は岩手県奥州市江刺区田原の最北端地区で伊手川流域。字に土公・稲荷・内舘・山舘・沢内・谷地田(やちだ)などがある。ここはウィキの「原体」に拠った。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、どうも賢治が見たのはここではなく、もっとずっと東の種山ヶ原に近いところであるようだ。後述)に古くから伝わる民俗芸能の一つで、『踊り手に「信坊子」』(「すぼっこ」と読む。空也上人に『擬せられる聖者の仮の姿とされる』と中路正恒「ニーチェから宮沢賢治へ:永遠回帰・肯定・リズム」(一九九七年創言社刊)にある。但し、グーグル・ブックスで確認したもので私は原著を持っても読んでもいない)『「信者」「亡者」の役の全てを子供達が演じ、その純真無垢』な『清らかさにより』、『先祖の霊を鎮めようと伝えられてきた念仏踊り(鬼剣舞』(おにけんばい)『)の一種と思われる』とある。「鬼剣舞」はウィキの「鬼剣舞」によれば、『念仏踊りに分類される』もので、『正式には念仏剣舞の一つであるが、威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけ』、『勇壮に踊るところから、明治後期以降』(明治三〇(一八九七)年頃)に『「鬼剣舞」と呼称されるようになったとみられる』。『かつては男性が演じることがほとんどであったが、最近では女性の演じ手も増えている』。『この踊りの独特の歩行に、修験道の鎮魂の呪術のひとつ「反閇(へんばい)」があ』り、これは『陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、「大地を踏み』、『悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行われる舞い」の要素と、念仏によって御霊や怨霊を往生させて、災厄を防ぐ浄土教由来の信仰的要素が見られる』とある。「需要研究所」のサイト「宮沢賢治の宇宙」のこちらに、に先の中路氏の著作についての言及があり、そこに、『最近たまたま、中路正恒さんの"nomadologie" というサイトの中に「宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって」という文章があるのを見つけた』。『この中で、原体剣舞の庭元に伝わる家伝書によると、黒面をつけた人(賢治が青仮面と書いているのは実際は黒い仮面)が演じるのは空也上人であり、とすると青仮面を悪路王に結びつける賢治の解釈は誤解だと、中路さんは書いている』。『しかし、江刺市の調査によると江刺の』十四『の剣舞のなかに、ひとつだけ』、『その起源として悪路王との関係が語られている、熊野田剣舞という剣舞がある。賢治は、この剣舞のことを江刺地方の地質調査の際に聞いた可能性があるのではないかと中路さんは言う』。『また、補説によると、賢治の短歌に出てくる上伊手剣舞は熊野田剣舞と同じ系統のもののようだ。となると「原体剣舞連」の詩には、上伊手剣舞の印象が投影されている可能性も強くなる』。『この中路さんの文章のお陰で、賢治の「原体剣舞連」をめぐる事実関係がかなりすっきりしてきたようだ』とあるのを見出した。調べてみると、中路氏のサイトは「nomadologie ou pensées éphémères 遊動の哲学のために」で、そこの『「ひとつのいのち」考――宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって――』というのが、言及されたそれである。私は、「原体剣舞」を見たことがなく、その民俗学的淵源も知らないので、まずはそれをじっくりと読み解きながら本詩篇を読むのが順序ではあろう。しかしそれを踏んで注をしている余裕が今の私にはない。中路氏は賢治に大きな誤認(大徳(だいとこ)の聖人空也上人をモデルとする祭内の重要人物を悪玉蝦夷悪路王に誤認して詩篇世界を構成してしまったこと)があったと指摘されるわけだが、ここではまず読者に中路氏のそのを読んで戴き、その既読条件下を措定して必要最低限の注に留めることとする。そうでないと、この私の「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版は永久に完成しそうにないからである。悪しからず。

 なお、中路氏の言う「原体剣舞」に登場する、空也上人に擬えた、『黒面をつけた人(賢治が青仮面と書いているのは実際は黒い仮面)』=賢治が悪路王と誤認して本詩篇を書いてしまった〈その人〉は〈この人〉である(共著ブログ「イーハトーブログ」の「シュガもっち」氏の記事の写真にリンクしてある)。

 まず、この原体剣舞の舞踏を賢治が――☆いつ――★どこで――見たかであるが、これは中路氏の上記論文の冒頭で、『当時盛岡高等農林学校の学生であった宮沢賢治は、大正六(一九一七)年 の八月から九月にかけて、同級生らと地質調査のために江刺郡地方を訪れ、その際にその地方のさまざまな剣舞を目にすることになる。子供たちによって舞われるその地方の剣舞は、賢治にある強い印象を与えたようである。その印象は直ちに短歌に詠まれ、また後には物語に、詩に、そして歌曲に取り入れられてゆくことになる』とされておられる。則ち、これは先の「高原」で注した五年も前の調査行(大正六(一九一七)年八月二十八日から推定九月八日までの十日ほど)での体験に基づく回想詩篇ということになる。全集年譜でも、賢治の短歌によってこの調査行で、賢治が種山ヶ原や『江刺郡田原村原体(合併前は原体村)に行ったことが推定できる』とある。年譜の言う短歌は(以下、校本全集をもとに漢字を恣意的に正字化した「めん」は「假面」二字へのルビ。)、

 

   原體劍舞(ばい)連

 さまよへるたそがれ鳥に似たらずや靑假面(めん)つけて踊る若者

 若者の靑假面(めん)の下につくといきふかみ行く夜をいでし弦月

 

の二首であるが、これは大正六(一九一七)年十月十七日発行の盛岡高等農林学校内文芸同人誌『アザリア』第三号に(「メン」は同前)、

 

 原體劍舞(バヒ)連   賢治

 やるせなきたそがれ鳥に似たらずや靑假面(メン)つけし踊り手の歌。

 若者の靑假面の下につくといき深み行く夜を出でし弦月。

 靑假面の若者よあゝすなほにも何を求めてなれは踊るや。

 

がある。さらに、調査行の終り頃に保阪嘉内に宛てた葉書(推定九月三日・校本全集書簡番号四十)では、

 

 うす月にかゞやきいでし踊り子の異形のすがた見れば泣かゆも。

 劍まひの紅(あか)ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。

 月更けて井手に入りたる劍まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。

 うす月の天をも仰ぎ大鼓うつ井手の劍まひわれ見て泣かゆ。

 

と四首を詠んで送っている(短歌のみが記載されている。三首目の「井手」と最後の「大鼓」の、「井」と「大」には全集編者によって誤字の可能性(「伊」と「太」のであろう)を示す記号が添えられてある。以下の引用を参照)。後者の四首を掲げられた上で、中路氏は上掲の『「ひとつのいのち」考――宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって――』で、『彼は、思わず泣いてしまうほどの感銘を、この剣舞から受けたのだ。そして、これらの歌から判断すると、彼が感銘を受けたのは、まず何よりも、踊り子たちの「異形のすがた」であったようである。そして「紅ひたゝれ」が「地にひるがへる」様も、うす月の差す時刻や、太鼓の音などの環境的な状況とともに、彼には印象の深いものであったようである。さらにわれわれは、ここで、この剣舞が、「井手の剣まい」と呼ばれるものであったことにも、少し注意しておこう。「井手」とは、江刺地方のひとつの村落であり、今日普通には「伊手」と表記される土地のことである。今日その土地では、「寺地剣舞」と呼ばれる剣舞が踊られている』。『そしてこのことは、大正六年の当時も同じであったと推察される』とある。さて、それでは、ここに出る中路氏の言われる、賢治が「原体剣舞」を見た★場所――「井手」=「伊手」とはどこなのか? 調べて見ると、江刺区伊手で、この附である(グーグル・マップ・データ)。種山ヶ原の西の麓であり、或いは、種山ヶ原に遊んだ帰りに見た可能性もある。後の童話「種山ヶ原」にも「種山剣舞連」が登場し、そこで本篇の詩句が生かされてもいる。中路氏は上掲論文の「補説」で、★現在の「伊手」でも特に「上伊手」地区で、そこの「漆立屋敷」に伝承されていた剣舞であった可能性が高い、とさらに限定されておられる。また、「祭りの追っかけ」氏のブログ「祭りの追っかけ」の『原体剣舞 「太刀入り剣舞」』によれば、『この伊手は鉱山で有名な集落で、幕藩時代には相当な賑わいがあり、金掘技術とともに様々な文化が移入された地域でもある。玉里の熊野田念仏剣舞の伝書には「江刺郡伊手村漆立屋敷庭元より」伝授されたとあるので、現在では伝承が無くなっている剣舞がここにあったと推察する』ともあり、或いは我々はもうすでに賢治の見たそれを見ることは出来ないのかも知れない。なお、上記ブログ記事は解説も詳しく、写真(動画もある。但し、舞台での舞い)もあって必見である。

 なお、「原體劍舞連(はらたいけんばいれん)」の「連」というのは、祭事の――「原體劍舞」の「連」中(衆)――の意か(童話「種山ヶ原」では、『鷄の黑い尾を飾つた頭巾をかぶり、あの昔からの赤い陣羽織を着た。それから硬い板を入れた袴をはき、脚絆や草鞋をきりつとむすんで、種山劍舞連と大きく書いた澤山の堤燈に圍まれて、みんなと町へ踊りに行つたのだ。ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー。踊つたぞ、踊つたぞ。町のまつ赤な門火の中で、刀をぎらぎらやらかしたんだ。楢夫さんと一諸になつた時などは、刀がほんたうにカチカチぶつつかつた位だ』(恣意的に漢字を正字化し、促音を正字にした。後の同作からの引用も同じ仕儀を施した)と出るのはそれらしく読める)とも採れるが、或いは、詩の「連」や音楽の「連」弾のニュアンスを賢治は含ませているのかも知れない。

 「原体剣舞」はYou Tube maturinookkake氏の原体剣舞@みちのく盂蘭盆まつり」で見ることが出来る。

 

mental sketch modified既出既注

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」後の童話「種山ヶ原」での表記に倣うなら、「ダー・ダー・ダー・ダー・ダー・スコ・ダー・ダー」或いは「ダー・スコ」は「ダースコ」となる。上記の映像音声を視聴するに、原体剣舞の囃子の中の文句ではなく、太鼓囃子と鉦のそれをオノマトペイアしたものと思われる。

「げん月のした」「弦月の下」であるが、☆これが実際に見えた月であるなら、その日をそれである程度まで限定出来ることになる。ここでいつもお世話になっている「暦のページ」で調べて見ると(大正六(一九一七)年九月の月例表)、保阪宛書簡の推定が正しいとするなら、賢治が原体剣舞を実見した時に弦月は見えないことになることが判った。同年九月一日は満月で、前の三日間はあり得ず、下弦の月になるのは、推定で帰花した九月八日だからである。但し、調査行からの帰還の終期は十一日に学校の第二学期が始業しているから、十日までは確実に延ばせる(或いは江刺郡役所という公機関からの依頼調査であるからには食い込むこともあり得なかったとは言われない)し、保阪宛の葉書の日付は推定であるから、九月六日以降の体験だったのかも知れない等と、専ら、下弦の月に合わせて考えていたのだが、先に示した米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』では、

   《引用開始》

短歌からは江刺郡地質調査中の1917(大正6)年93日以前の数日間に見たことがわかる。なお、この年のお盆は岩手では旧暦で行われ、その716日が、新暦の92日であり、秋の星座アンドロメダ座が登場するのである。[やぶちゃん注:これは後の詩篇の「アンドロメダ」の解釈注ともなっている。]

   《引用終了》

とあるのを見つけてしまった。ということは、弦月は実は満月の虚構だったということになる。賢治にまんまと私は騙されて馬鹿をみたということであった。Dah……しかし……本当に私は賢治に驒されたんだろうか? この回想詩篇でその虚構が組まれたというのならまだしも、先に掲げた通り、賢治は実見したその涙さえ出た感動を短歌に、

 

 若者の靑假面(めん)の下につくといきふかみ行く夜をいでし弦月(歌稿)

 若者の靑假面の下につくといき深み行く夜を出でし弦月。(『アザリア』第三号初出形)

 

と詠んでいるのだ。詠嘆のそこにさえ最初から賢治は虚構を持ち込んだことになるが、本当にそうか? やっぱり私の中には虚構説に組み出来ない私がいるのである。

「鷄(とり)の黑尾を頭巾(づきん)にかざり」先のmaturinookkake原体剣舞@みちのく盂蘭盆まつり」330以降に道路の奥からやってくる一団の中の八名の少年剣士らの頭飾りである。なお、童話「種山ヶ原」には主人公が唄う囃し歌の形で、

   *

「ダーダー、スコ、ダーダー。

    夜の頭巾は、鷄の黑尾、

    月のあかりは………、

 しつ、步け、しつ。」

   *

と出る。中路正恒氏の『「ひとつのいのち」考――宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって――』には、『頭巾にかざられる「鶏の黒尾」は、原体剣舞で用いられ、普通「鶏羽菜 (ザイ、「采」とも記す)」と呼ばれているものであろうし、「赤ひたたれ」[やぶちゃん注:本詩篇の後半に出る。]と言われたものは、普通「座衣・尾口」と呼ばれているもののことである、と考えられるのである。尤も、これらの道具立ては、ここに描かれている限りにおいて、伊手(井出)の寺地剣舞と特に変わるところはなく、この詩の前半部の、弦月の下に異装で踊る子供たちへの共感的な感銘は』[やぶちゃん注:中略。]『賢治が「井出の剣舞」、乃至は「上伊手剣舞」と呼ぶ「剣舞」から受けた印象が基礎になっている、と考えられるのである』とある。

「片刄(かたは)の太刀をひらめかす」同前7:45以下で抜刀した少年たちの剣舞が見られる

「鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を」「鴇いろ」は鳥の鴇(ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon。私はいつも思う。このニッポニア・ニッポンという学名の鳥を絶滅させた日本人は日本人を名乗る資格はない、と)の風切羽のような黄みがかった淡く優しい桃色を指す。これ(リンク先は色見本サイト)。全体は、春という生命の息吹きの霊液(ネクター)としてのシンボライズ。

「アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ」「アルペン」は「Alpine」でここは「高山の・高山性の」という一般形容詞で、「高地の農民(農業)」で「その粒粒辛苦に春の女神がネクターを注ぎかけるの意であろう。但し、原体は河岸地で低く、高くても八十メートル、伊手でも平地部は二百メートルに満たないから、これは賢治のアルプス幻想による加飾(modified)である。

「生(せい)しののめの草いろの火を」「生(せい)東雲(しののめ)の草色の火を」「生」命の曙を越えたまさに日の出直前の地平の回折する陽光を萌える植物の「生」気の色「草」色と重ねて「生」を盛んに燃え立たせる「火」としたものであろうが、どうも造語の響きは今一つな気がする。中原中也の「春と修羅」評に現れるという「聖しののめ」という記憶違いに端を発する作品論などもあるようだが、私には語る価値もない話である。

「菩提樹皮(まだかは)」既出既注。「菩提樹(まだ)」とは本邦特産種である落葉高木アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica。ここはその樹皮を張り付けた「けら」(既出既注)、簑である。先の動画を見る限りでは現行の「原体剣舞」の少年たちの衣装は、もっと洗練されて(しまって)いる。

「氣圏の戰士わが朋(とも)たちよ」ここに賢治の彼らへの強い共感、即ち、賢治自らをも「菩提樹皮(まだかは)と繩とをまとふ」「氣圏の戰士」と自負する自己同一性(アイデンティティ)の意識が叫ばれる。

「灝氣(かうき)」現代仮名遣「こうき」。広々として澄み渡った大気。

「ふかみ」「深み」深め。深くし。

「楢」ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、ここはその中でも主要な種とされるミズナラ Quercus crispula ととっておく。

「うれひをあつめ」落葉広葉樹であるミズナラとブ(ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata)の深い葉蔭の翳りを指すか。ネガティヴなものではなく、次の「篝」に対する自然界のザイン(ドイツ語:Sein:実在・存在・本質)としての光と影であろう。

「蛇紋山地(じやもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ」蛇紋岩(じゃもんがん:serpentinite:サーペンティナイト)を主構成岩石とする北上山地を指す。「蛇紋岩(サーペンタイン)」として「カーバイト倉庫」で既出既注。その注で記した通り、現在、「日本地質学会」により「岩手県の岩石」に選定されている。「篝」は夜に行われた「原体剣舞」の祭りの篝火を北上山地の山塊に反映させたマクロとミクロの賢治マジックであろう。

「ひのきの髮」先の少年剣士の「鷄(とり)の黑尾」の「頭巾(づきん)」飾りの別形容。

「まるめろの匂のそらに」「まるめろ」はバラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga。果実はリンゴに柑橘系を合わせたような甘酸っぱいよい匂いがある。それを秋の夜の澄んだ蒼天の「灝氣」とした。

「あたらしい星雲を燃せ」宇宙規模へと無限遠に拡張し、新しい星雲をも現出させる賢治マジック。

dah-dah-sko-dah-dah」先のように童話「種山ヶ原」での表記に従うなら、「ダー・ダー・ダースコ・ダー・ダー」。

「腐植」腐植土。森林生態系に於いて地上部の植物により生産された有機物が、朽木や落葉・落枝となって地表部に堆積し、それを資源として利用するバクテリアなどの微生物やミミズなどの土壌動物による生化学的な代謝作用により、分解されて土状になったもの。厳密には土ではない(ウィキの「腐植土」に拠る)から、「と土」と並列させた賢治の表現は実は怖ろしく正確であることが判る。堆肥となるから、ここは農林業を営む人々のテリトリーである林や畑地を指す。

「炭酸に粗(あら)び」ギトン氏はこちらで、『二酸化炭素を含んだ雨水によって石灰岩が侵蝕される地質現象を、ちょっと連想させます。骨も石灰岩もカルシウム塩ですから』と注しておられる。鋭い。

「師父(しふ)」「原体剣舞」の少年たちの舞いを指導し、本番ではお囃子と祭事進行の裏方に徹する少年たちの親を指す。「師父」には「父のように敬い親しむ師匠」の意があるが、これは父宮澤政次郎(まさじろう:祖父喜助の代からの質屋・古着屋の家業を拡張して栄えさせる商才があったと同時に、読書家であり、浄土真宗の熱心な信者としてまさに花巻の知識人であったことは言うまでもなかろう)との強烈な確執を考えると、かなり意味深長な語彙と思われるが、ここではそれを考察し出すとエンドレスになるので触れない。但し、後の「心象スケツチ 春と修羅 第三集」の詩篇野の師父(昭和二(一九二七)年の創作か)を読めば、農夫の聖人的存在、土に生きる理想的人物、父でない父的存在(漱石の「こゝろ」の学生にとっての「先生」のようなものである)として至上に敬愛されていることは知っておかねばなるまい。

「准(じゆん)平原」「準平原」。Peneplain。ペネプレーン。浸食輪廻に於ける終末期の地形。長期間の浸食作用や削剥作用の働きによって土地が浸食基準面近くまで低平面化された小起伏の広い平坦面。原体はまだしも、伊手はまだその状態ではないから、ここは次の「天末線(てんまつせん)」(地平線)を幻視の仮想空間に現出させてスケールをワイドにするための演出的言辞であろう。

●「Ho! Ho! Ho!」/「むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)」/「まつくらくらの二里の洞(ほら)」/「わたるは夢と黑夜神(こくやじん)」/「首は刻まれ漬けられ」(「たつた」の読みの不審は前注参照)この囃し歌は、童話「種山ヶ原」にも、

   *

 ホウ、そら、やれ、

   むかし 達谷(たつこく)の 惡路王、

   まつくらあくらの二里の洞(ほら)、

   渡るは 夢と 黑夜神(くろやじん)、

   首は刻まれ 朱桶に埋もれ。

   *

と出る。

・「Ho!」は以上の引用から見ると、祭りの囃しの合いの手として賢治は使用している。

・「達谷」現在の岩手県西磐井郡平泉町にある毘沙門天を祀った岩窟堂「達谷窟(たっこくのいわや)」(正しくは「達谷窟毘沙門堂」)で知られる。ウィキの「達谷窟」によれば、延暦二〇(八〇一)年に、『征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた』もので、『平泉の南西約』六『キロメートルに位置する。北上川の一支流太田川を西にさかのぼると、谷を分岐する丘陵尾根があり、その先端部に現在の天台宗達谷西光寺がある。達谷西光寺境内の西側には、東西の長さ約』百五十『メートル、最大標高差およそ』三十五『メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている』。『別当は』同地にある天台宗『達谷西光寺であるが、境内入口には鳥居が建てられており』、今も『神仏混淆の社寺となっている』。『源頼朝も鎌倉への帰路に参拝している』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「惡路王」(生没年不詳)は、平安前期、坂上田村麻呂や藤原利仁に滅ぼされたと伝えられる人物で、蝦夷の族長阿弖流為(阿弖利為:アテルイ)の訛ったものとする見方もある。達谷窟を巣窟としたとされ、これを討った田村麻呂がそこに京の鞍馬寺を模して九間(十六メートル強)四面の精舎を建立し、多聞天の像を安置したと伝える。文治五(一一八九)年九月、源頼朝は平泉を攻撃、藤原泰衡らを討滅したあと、この窟に立ち寄り、田村麻呂の武勇譚を聞いている。現在、茨城県桂村の鹿島神社と同県鹿島町にある鹿島神宮には田村麻呂が納めたという悪路王の首級(木造)が伝えられており、前者は元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に徳川光圀が修理したものである。これらの事実は、蝦夷社会に広がった鹿島神に悪路王の怨霊の慰撫が求められていたことを示すものであろう(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。私の「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」や、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 六 鬼と大人と』が少しだけ(ごく少しだけである)参考になろう。中路氏は『「ひとつのいのち」考』で、『賢治は、原体剣舞の舞手たちの役を、大きく読み誤りながらも、剣舞による供養の、非常に重要な、本質的なところは、充分に、いや充分以上に、読み取っていた、と言うことが出来るであろう。本質的なところ、とは、戦に滅びた亡霊たちが自らの依りつきどころ、を見出す、ということ、それを舞手の舞において見出す、ということである。この〈依りつき〉があってはじめて、恨みを残す霊たち(「四方の夜の鬼神」たち)の、慰撫や鎮魂が可能になるであろう。賢治はそのような、真に〈招霊力〉のある剣舞の舞を見たのであろうし、そしてその〈招霊〉の働きを、「原体剣舞連」の詩において定着させたのである』。『ところで、賢治のこの剣舞に対する最大の読み誤りは、黒面をつけた〈空也上人〉を〈悪路王〉と読み違えたことである。そして、この黒面の空也上人の姿は実におどろおどろしく、実際、亡者たちの首領といった趣を持っているのである。この剣舞で空也上人は亡者たちの中にあり、そのあり方をとおして亡者たちを導いている。ここには確かに、黒面の少年を、亡者となった戦士たちの首領としての悪路王、とする解釈を、誘う要素があるであろう』と述べておられ、終りの「補説」では、賢治は上伊手地区の「上伊手剣舞」の(それは先に引用した通り、『「漆立屋敷」に伝承されていた剣舞であった可能性』の高いもの)を見、また、『剣舞と「悪路王」とを結びつける解釈のヒントを、この剣舞の連中から得た可能性もある、と考えられる』と記しておられる。なお、この地方に伝わる「剣舞」の民俗学上で判明しているところの諸伝承は引用過多となってしまうので、是非、中路氏の『「ひとつのいのち」考』を精読されたい。但し、先に示した米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』の「2. 詩のなかの悪路王」の「1)先行研究の悪路王観」では、それに反する意見が述べられている。まず、以上の中路氏の意見を中心に紹介した上で、『筆者らはこのような悪路王を悪虐人とする読みは誤りと考え、以下の諸論に賛同する』と始めて、『門屋(2000)は「冷酷無比の鬼とされた蝦夷の復権を賢治は強く願った」ことをこの詩に強く感じる、と述べた。卓見であろう。松田(2001)も行間から「遠い昔のこの気骨の抵抗者への強い思慕の念」が透けて見えるという。力丸(2001)は詩のなかの「気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる灝気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ」という箇所を、縄文の文化が弥生に押され、消え去った先住の人の怨念、地霊を鎮める祈りが剣舞に籠められている、とみた』。『米地・米地(2013)も悪路王は勇者、屈せざる者と捉え、「原体劍舞連」の仮面の踊り手たちはヤマトに抗して戦う雄々しいエミシの姿だったと記した』とするのである。私は孰れの認識も理解出来る。そのキャラクターのモデルは縄文人や弥生人やアイヌや蝦夷やアテルイや悪路王や悪鬼大武丸・高丸や、はたまた空也や坂上田村麻呂ででもあるかも知れぬ。「伝承」は「伝承」であるが故に自在にメタモルフォーゼするし、そもそも、あらゆるこの世の祭儀の真相やルーツなどは、実は、とうの昔に消滅して永遠に封印されてしまった可能性の方が高い。縄文人にまで溯るのはよいと思うが、だったら、賢治好みのネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis)やジャワ原人(ヒト属ホモ・エレクトス・エレクトス Homo erectus erectus:旧名ピテカントロプス・エレクトス Pithecanthropus erectus)、いやさ、無脊椎動物の(「剣舞」なんだから、どうよ!)「蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)」まで溯ればよかろうが。縄文人は戦いを嫌ったから戦士ではないぜ、怨念抱くのは後代の人、御霊信仰は滅ぼした方の呵責と神経症的信仰、というクソ反論もやろうと思えば出来る(無論、やる気はない)。そもそも誤認を論うなら、「剣舞」の明らかなルーツである「念仏踊り」が、若くして亡くなった者たちの霊を鎮める儀式であった(だからこそ舞の主役を演ずるのが生者である「小ども」たちなのだ)ことから始めるべきであろう。確かに言えることは――賢治は少し淋しそうな笑みを浮かべながら、彼らのインキ臭い卓上の論争を黙って聴いている――ということである。

・「二里の洞(ほら)」本邦の神話の得意の黄泉の国や人穴伝承の地底異界を匂わせたか。次注の最後の引用部も参照されたい。

・「黑夜神(くろやじん)」元はヒンズー教の夜を支配するであったが、仏教にとりいれられて天部の一尊となった黒闇天(こくあんてん)の別名。ウィキの「黒闇天」によれば、「黒闇女」「黒夜天」「暗夜天」「黒耳」などの異名を持つ。仏教では『吉祥天の妹。また閻魔王の三后(妃)の』一『柱ともされる。中夜・闇と不吉・災いをも司る女神』。『つねに姉の吉祥天と行動を共にするが、彼女の容姿は醜悪で』、『性格は姉と正反対で、災いや不幸をもたらす神と、設定されている』。「涅槃経」には『「姉を功徳天と云い』、『人に福を授け、妹を黒闇女と云い』、『人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」とある』。『ヒンドゥー教では』『シヴァ神の妃であるドゥルガーと同一視され、またヤマ(閻魔)神の妹とされた』ともされる(ここには「要出典」要請が掛かっている)。但し、「大日経疏」には『「次黒夜神真言。此即閻羅侍后也」などとあることから、密教では中夜を司り』、『閻魔王の妃とする。彼女の図画は胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に確認できる。その姿は肉色で、左手に人の顔を描いた杖を持っている』とある。先の米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』では、『「首は刻まれ漬けられ」にあたる部分は、童話「種山ヶ原」のなかの剣舞の描写では「首は刻まれ 朱桶に埋もれ」とある。祟りを畏れて刻まれた悪路王の首を、黒夜神は首桶に入れ、洞窟を通って彼の故郷へと帰す、と筆者らは解した』とし、『黒夜神は悪路王を地獄へは落とさず、彼の故郷へとその首を運んだのである』「吾妻鏡」には『「坂上将軍於此窟前、建立九間四面精舎、令模鞍馬寺安置多聞像」というくだりがある。その達谷窟の毘沙門天(多聞天)は坂上田村麻呂に化身している』。『その毘沙門天がアジールとしての窟にかくまった悪路王の魂を、故地に戻すべく、后である吉祥天と計らって、彼女の妹の黒夜神に、焔摩天が悪路王を罰しないことを懇願させ、悪路王の首を達谷窟に運ばせた、と賢治は幻想したのであろう』。『吉見(1993)は霧山のある旧増沢村(のち廃村、上衣川村、現奥州市)が原体劍舞の本家であり、霧山を賢治が達谷に変えたと考えた』。『しかし賢治は達谷から霧山へと洞窟が続いている、という伝説を用いたのである。達谷窟は凝灰岩の岩蔭洞で浅く、実際には奥に延びる洞窟は無いが、伝承では奥に秘密の洞窟があり、霧山の洞口に繋がると言われていた。(現在、霧山山腹の洞窟の入口は崩落し洞口がない。)達谷窟との距離は北西方に約10km、二里半である』。『黒夜神は達谷窟の姉夫婦に頼まれ、悪路王の首と達谷窟にあった彼の魂(夢)とを彼の棲家であった霧山へ洞窟を通って届けたのである。暗黒の洞窟でも、深夜を司る黒夜神は通過できる』。賢治はここで「わたるは夢と黑夜神(こくやじん)」と述べているが、この『「わたる」という語は二つの場を繋ぐ部分を通ることで、渡り廊下は建物間を、渡し舟は両岸の土地を繋ぐ。この場合は、磐井郡の達谷窟から胆沢郡の衣川付近の悪路王の故地霧山へと渡ったのである』。『黒夜神とともに渡るのは「夢」すなわち悪路王の魂である。悪路王の抱いた「夢」が黒夜神をして洞窟を走らせる。おそらく、その夢とは北方の民の自由と独立であろう。その悪路王の魂を受け継いで剣舞の若者は踊るのである』とある。これは、なかなか読ませる分析である。

 

「アンドロメダもかゞりにゆすれ」前注「げん月のした」を参照されたい。

●「靑い仮面(めん)このこけおどし」/「太刀を浴びてはいつぷかぷ」/「夜風の底の蜘蛛(くも)おどり」/「胃袋はいてぎつたぎた」この囃し歌は先に引用した童話「種山ヶ原」のそれに続いて、

   *

やつたぞ。やつたぞ。ダー、ダー、ダースコ、ダーダ、

   靑い 仮面(めん)この こけおどし、

   太刀を 浴びては いつぷかぷ、

   夜風の 底の 蜘蛛おどり、

   胃袋ぅ はいて ぎつたりぎたり。

   *

とある。

・「仮面(めん)こ」の「こ」は岩波の「広辞苑」に、接尾語として、『特に意味なく種々の語につく。東北地方の方言に多い』とし、「牛(べこ)っこ」「ちゃわんこ」「ぜにこ」の例を上げるそれととる。ここは囃子の音数律としても「こ」が欲しい。

・「こけおどし」「虛假威し」。愚か者を感心させる程度の浅はかな手段。また、見せかけは立派であるが、中身のないこと。

・「いつぷかぷ」は「あっぷあっぷ」と同じ。童話「種山ヶ原」に、

   *

「ホウ、そら、遣れ。ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」「ドドーン ドドーン。」

 「夜風さかまき ひのきはみだれ、

  月は射そゝぐ 銀の矢なみ、

  打ぅつも果てるも 一つのいのち、

  太刀(たち)の軋(きし)りの 消えぬひま。ホツ、ホ、ホツ、ホウ。」

 刀が靑くぎらぎら光りました。梨の木の葉が月光にせわしく動いてゐます。

「ダー、ダー、スコ、ダーダー、ド、ドーン、ド、ドーン。太刀はいなずま すすきのさやぎ、燃えて……」

 組は二つに分れ、劍がカチカチ云ひます。靑假面(あをめん)が出て來て、溺死(いつぷかつぷ)する時のような格好(かつこう)で一生懸命跳ね𢌞ります。子供らが泣き出しました。達二は笑ひました。

 月が俄かに意地惡い片眼になりました。それから銀の盃のやうに白くなつて、消えてしまひました。

   *

と「溺死」に「いつぷかつぷ」とルビする。サイト「坂上田村麻呂の旅」の「宮沢賢治の悪路王」で本詩篇を取り上げ、これは延暦八(七八九)年に紀古佐美(きのこさみ天平五(七三三)年~延暦一六(七九七)年:奈良後期から平安初期の公卿)『率いる征夷の大軍を北上川の巣伏に破った「阿弖流為(アテルイ)」を思わせる』とされ、『征夷軍兵士』四千『人が「阿弖流為」の蝦夷軍団に挟み撃ちされ、逃げ場を失って、北上川』で千三十六人もの溺死者を出して大敗したと記されてある。逆転した事実であるが、神話は規定されたシステムであって、立場が入れ替わってもそのまま起動するから、これでよいのである。そもそも岩手の「剣舞」と言っても、複数あり、それがまた、かなり違ったバリエーションを持っている。剣士が鬼面をつけているものもある。ただ、この「あっぷあっぷ」は溺れているのではなく、悪路王が正義の剣士の太刀を浴びて、断末魔の叫びを上げて血を吹き出し「あっぷあっぷ」するように、「夜風」に揺れる「蜘蛛」の「おどり」のようなジタバタをし、胃袋を丸ごと吐き出すような血みどろのスプラッター場面を夢幻しているのである。なお、勘違いしている方が多いと思うが(私もそうであったが)、「ぎつたぎた」とは「ギッタギタに斬り刻む」ことではない。これは小学館「日本国語大辞典」によれば、副詞「ぎったぎった」で方言とし、『油などのついて粘るさま』とあり、採取地を『岩手県西磐井郡平泉』としているのである。即ち、これは言うなら、「血油でギットギトになった凄惨なさま」を言っているのである。なお、ギトン氏はこちらで、この「蜘蛛おどり」を、『剣舞の独特のステップ』(先に掲げた動画を見れば判る。確かに蜘蛛と言われれば蜘蛛っぽい)を指しているとされ、但し、この動きは『じつは、地下の怨霊を鎮めるための山伏の踏み足なのだそうです』。『しかし、ここでも、賢治はそれを知らないので、「悪路王」が、田村麻呂の太刀を浴びて、断末魔の苦しみにのたうっているようすと理解しているのです』と述べておられる。ギトン氏がリンクされているYou Tube Japanese folk performing arts 東北文映研ライブラリー映像館の「北上翔南高校鬼剣舞部文化庁長官受賞記念公演は舞台であるが、皆、美しく輝いていて、見ごたえがある。必見!(ギトン氏は4:20 - 6:00 辺りで「蜘蛛おどり」のステップが見られると指示しておられる)



「霹靂(へきれき)」雷。稲妻。

「赤ひたたれ」「赤直垂」。垂領(たりくび)・闕腋(けってき)・広袖で、組紐の胸紐・菊綴(きくとじ)があり、袖の下端に露(つゆ)がついている上衣と、袴と一具となった衣服。古くは切り袴、のちには長袴を用いた。元来は庶民の労働着で、身幅・袖幅の狭い、布製の上衣であった。彼らが武士として活動するようになって、端袖(はたそで)を加え、共布の袴を着けるなど、形を整えた。鎌倉時代には幕府出仕の公服となり、江戸時代には三位以上の武家の礼服となった(三省堂「大辞林」に拠る。名称部位のそれはサイト「日本服装史」の「直垂姿の武士の画像がよい)。

「雹雲(ひやううん)」ウィキの「によれば、「雹」は積乱雲から降る直径五ミリメートル以上の氷粒で、直径それ未満の氷粒は「霰(あられ)」と呼ぶとし、『雹は激しい上昇気流を持つ積乱雲内で発生するので雷と共に発生する場合が多い』。『雹は空中で、落下して表面が融解し、再び上昇気流で雲の上部に吹き上げられて融解した表面が凍結することを繰り返す。その過程で、外側に他の氷晶が付着したり、過冷却の水滴が付着し凍結したりして、だんだんと氷粒が成長していく。そのため、大きな雹を割って内部を見ると、融解後に凍結した透明な層と、付着した氷晶の不透明な層が交互にある同心円状の層状構造をしていることが多い。成因は氷あられと全く同じであり、氷あられが成長して雹になる』とある。賢治が夢想したのはスーパーセル(supercell)のような超巨大な積乱雲であったに違いない。

「まつれ」「祭れ」。

「打つも果(は)てるも」相手を敵として討つ者も、その者から敵として討たれて滅び果てねばならない運命にある者も。

 

「萓穗(かやほ)」「萓」は「萱」の異体字。茅(かや)。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。それらの穂先。

「さやぎ」「さやぐ」の名詞化。「さやぐ」は「さやめく」で「ざわざわと音を立てる」の意。

「獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の」ギトン氏はこちらで、『「しし座」は』『日本では春の星座です』が、『しかし、こ』こで『は、“しし座流星群”のことを言っている(原体剣舞の夜に見たということではないでしょうけれども』『)という意見も有力です』。『たしかに、流星が光芒をひいて消えた後には、夜空しか残りませんから、』次行の『「消えてあとない天のがはら」へ、きれいに続きます』とされる。「火の雨」であるからにはそうであろう。但し、ギトン氏も注されておられる通り、しし座流星群(Leonids:レオニズ/フランス語 Les Léonides:レオニード)は毎年十一月十四日頃から十一月二十四日頃まで出現が見られ、十一月十七日頃に極大を迎えるので、ここで実際には見えない。

 

 最後に。何度か引かさせて戴いた、米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』の「アテルイ・悪路王への賢治の思い」を引く。

   《引用開始》

 東北以外の人々は、しばしば、東北人を侵略者の坂上田村麻呂を崇拝し、自分たちの英雄アテルイを悪鬼のように思っていた、とその愚かしさや卑屈さなどを批判してきた。

 そして、そのことを指摘したのは、戦後、非東北人である作家豊田正恒(1980)であった、と言われることが多い。彼は小説『荒野のフロンティア』(1980)の中でこう語る。「…アテルイは、まぎれもなく、古代東北の王者であったにもかかわらず、平安末あたりから悪路王の名で呼びかえられ、現地においてすら賊酋として、おとしめられている。中央中心の収奪史観によって、勝者の歴史しか残されなかったのである。(中略)なんとも情ない状態である。」

 この豊田の見解は二重に誤っている。豊田は、東北地方北東部にはアテルイないし悪路王らを追慕する伝説等が昔からあったことに気付かず、第二には、彼らを悪者に仕立てたのは、いわゆる中央ではなく、東北の仙台藩だったことを知らなかった、のである。実際は歴史上のアテルイやモレ、伝説上の悪路王や人首丸らに対して、岩手の里人は深い共感と敬意とを持っていた。それは後の安倍貞任親子に対する感情にも繋がっている。

 それを熟知する賢治は悪路王へのシンパシイを詩に籠め、豊田よりも遥かに以前、それを活字にした。戦前、大和朝廷軍は天皇の軍、皇軍で、御稜威を野蛮な東北に広める官軍であり、アテルイらは賊軍であった。戦後とは事情が違う、その状況のもとで、賢治は精一杯の表現をしたのである。

   《引用終了》

この主張に私は激しく共感するものである。]

2018/11/21

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 天然誘接

 

 

        天 然 誘 接

 

  北齊(ほくさい)のはんのきの下で

  黃の風車まはるまはる

いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません

槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち

たうたう幹がくつついて

險しい天光(てんくわう)に立つといふだけです

鳥も棲んではゐますけれど

 

[やぶちゃん注:一言言っておくと、この詩篇の版組はまず詩集ではあり得ない、とんでもないものである。131ページが開始であるが、131ページには最終行に標題「天然誘接」のみがあるのである。意図的にそうした変奇的組み方を指示する自称詩人はいるが(実際に持っている自称詩集とする自称現代詩人の本にある。誰とは言わない)、本詩篇の場合、そんな意思が作者によって反映されたなどとは到底思われない。そんなことを最終的に指示するくらいだったら、賢治はもっと数多の誤植を訂させるであろう(因みに、ある方の記載で、賢治が本書のある詩篇の版組みに於いて改ページに意図的な指示(そこで読者にブレイクが起こるように)をしたというような解釈をされているのを見かけたが、私はそれは百%ないと断言出来る)。「たうたう」はママ。原稿も同じで、手入れもない。既に出た通り、賢治の書き癖である。

 大正一一(一九二二)年八月十七日の創作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿は「グランド電柱」の「柱」の木(へん)まで書いて中止し、「天然誘接」と書き直ししている。これは本詩篇を「グランド電柱」としようとしたのでは無論なく、次の次に出る「グラン電柱」を一瞬、ここに配そうとしたか、或いはそう誤ったか、の孰れかと推察される。「手入れ本」の一本で最終行を「鳥も棲んではゐますけれども」と「も」を入れる。

「天然誘接」「てんねんよびつぎ」「誘接」「よぶつぎ」は「呼び接ぎ」とか「寄せ接ぎ」と称する「接(つ)ぎ木」の技術の一つで、穂木(ほぎ:挿し木・接ぎ木に使う枝。挿し穂や接ぎ穂。同仕儀に於いて挿す或いは接ぐ方(通常は挿される或いは接がれる方の植物体(「台木」と言う)の上部に)の植物体(片)を指す)を、元の植物体から切り離さずに接ぐ方法を言う。台木と穂木の一部を削いで接(つ)いでおいて、双方が癒着したところで、穂木の根元側を伐る手法を指す。しかし、「いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません」というのであるから、この一本杉は自然にそれが行われたものではないと言っているわけで、以下でこれは実は「槻(つき)」(バラ目ニレ(楡)科ケヤキ(欅)属ケヤキ Zelkova serrata の別名。)が一本生えており、それにすぐ脇に「杉」(裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ Cryptomeria japonica)が一本生えており、それが「いつしよに生えていつしよに育ち」、「たうたう幹がくつついて」(ということは、二本の異種木の枝が絡まって貫入し癒合して連理樹のような現象が起きたというのではなく、双方の主幹が癒合したというのである)、世間ではこの「槻」と「杉」とのハイブリッド樹を「一本杉」と称していると言うのである。こういう現象自体はあると思うが、その場合、ハイブリッドではあり得ない(被子植物と裸子植物が融合するというのは考えられない)、世間で言っているようにそれは「杉」に大方は吸収、枯れされられたのである。但し、或いは、包含された杉の洞の一部に「槻」の細胞が生きていて、枝葉を出したりする可能性はあるかも知れぬが。あまり重箱の隅を穿(ほじく)る必要はない。これは賢治の理想とした、自然・宇宙に於ける生きとし生けるのものたちの、永遠(とわ)の共生のパラダイスのシンボライズの一篇なのであろう。なお、ギトン記載孫引であるが、佐藤勝治氏の「“冬のスケッチ”研究―宮沢賢治・青春の秘唱」(増訂版・一九八四年十字屋書店刊)によると、この一本杉は実際に、当時、万丁目・新田・湯口村方面にあったとし、ギトン氏は『JR花巻駅から西へ向かい』、『東北自動車道を越えたところに“一本杉”という地名があるので、このあたりと思われ』るとされる。確認した。である(国土地理院図)。

「北齊(ほくさい)のはんのきの下で」/「黃の風車まはるまはる」これは私などは一読、先の「小岩井農塲」の「パート七」の「富士見の飛脚」の注で示した、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「駿州江尻」を想起する。中央の細い天秤棒で振り分け荷物を持った人物の薄黄色の笠部分だけが外れて、宙に舞いあがり、画面右手上部で裏を見せて飛んでいるのは「黃の風車」に相応しいと思う(「浮世絵のアダチ版画」のオンライン・ストアのこちらを見られたい)し、この絵の左手に生えている二本の木はその樹皮のごつごつした感じ、や丈の高さから、「榛の木」(ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica)だと言われると、そうかも知れないなと思わせる。絵のそれは周囲が湿地のように見受けられ、ハンノキは本邦では全国の山野の低地・湿地・沼に自生しているからである。]

2018/11/20

甲子夜話卷之五 27 本多中書、老後學鎗事

5-27 本多中書、老後學鎗事

本多氏譜弟の士、小野某家に言傳しは、中書忠勝は世に所知の驍勇なるが、鎗術は下手なりしと。中書老後まで鎗は殊に執心にて、家臣を相手にして、日々のように修行することなり。然るに相手の若士どもに中書入身をするに、殊のほか拙技にて、自由につかれしと也。又人の入身をつくにも、鎗先きかず、自身にも殘念に思はれしや、ひたすら修練怠らざりしと。常は如ㇾ此なるに、軍場に臨て敵と戰ふときは、其技の倫、世の所ㇾ云の如くなりしと。思の外の咄なり。

■やぶちゃんの呟き

「本多中書」徳川家康に仕え、武勇をもって知られた徳川四天王の一人本多忠勝(天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。生涯の合戦の中で一度も傷を受けたことがなく、私の知る限りでは、鎗の名手のはずなんだけど?

「驍勇」「げうゆう(ぎょうゆう)」強く勇ましいこと。

「若どもに」「若士」は「わかきし」と読んでおく。「若い家臣を相手に」。

「入身をする」「いれみをする」で「身を入れて相手にする」、武術では「自分から積極的に前に出る」の意があるから、それであろう。さすれば、後の「人の入身をつくにも」も、「人が進んで出てきたのを突く場合も」の意で腑に落ちるからである。

「鎗先きかず」「やりさき、利かず」であろう。必ず鎗先がぶれてしまい、ツボを押さえて突くことが出来なかったというのである。

譚海 卷之三 土御門家の事

 

土御門家の事

○土御門は陰陽博士(おんみやうはかせ)家也、因て改曆の事を掌る。其家、制作する所の測量の書器等あれども、古代の物にして、西洋の精密なるにしかざるゆゑ、今時(きんじ)は關東に測量所を置(おか)れ、御沙汰あれば空名(くうめい)を持(じ)するのみ也。

 又遠江三河より來る年始萬歳(ねんしまんざい)の免許も土御門より出す。文字は板行(はんぎやう)にて、土御門政所(まんどころ)の印有(あり)、三年に壹度つつ白銀一兩つつを出(いだ)し引替(ひきかへ)に登る、惣萬歳の名代(みやうだい)として一人上京する事也。道中關所川渡(かはわたり)等も此免許をもつて通る事也。

[やぶちゃん注:改行はママ。特異点である

「土御門家」安倍氏嫡流の土御門家のこと。室町時代の陰陽師安倍有世(ありよ嘉暦二(一三二七)年~応永一二(一四〇五)年:平安期のゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)の十四代目の子孫)の末裔。ウィキの「土御門家」によれば、『安倍氏の氏長者を代々勤めた。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様』、『本姓ではなく』、『家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている』。『応仁の乱を避けて、数代にわたり』、『若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり』、『庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた』とある。

「陰陽博士家」ウィキの「陰陽博士を引く。『律令制で陰陽寮に設置された教官の』一『つ。陰陽師を教育することを掌った。定員』一『名(ただし実数には異説あり)。正七位下相当』。「日本書紀」の持統天皇六(六九二)年の『条が初出。ただし、定員については』「続日本紀」の養老五(七二一)年に、大津首(おおつのおびと 生没年不詳)と津守通((つもり のとおる 生没年不詳)の『両名が陰陽博士として登場しており、実際には定員が複数だったとする見方もある。陰陽生』十『名を教育するのが役目であったが』天平二(七三〇)年に、『陰陽寮強化の一環として』、内三名を『陰陽得業生として給費し、更にそこから後任の陰陽師・陰陽博士が選ばれた。後には博士に対して職田』四『町が与えられた』。『奈良時代から平安時代初期にかけては、大津氏・弓削氏・滋岳』(しげおか)『氏などが、平安中期には惟宗』(これむね)『氏・安倍氏・賀茂氏などが世業としていたが、平安後期以後は安倍氏と賀茂氏による世襲となった』とある。

「改曆の事を掌る」陰陽博士やその直属の陰陽師はそうした教育職と並行して、中務省陰陽寮の機関官員としえ、占術もさることながら、天文・時・暦の編纂を主に担当する部署としての役割が目立ったものとなっていった。ウィキの「陰陽寮によれば、『四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している』。『博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦』三『博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ』。『因みに天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏や天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている』。『飛鳥時代(』七『世紀後半)に天武天皇により設置され、明治』二(一八六九)年に『時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として』、『翌年』、『廃止された』とある。天文観測や時間管理の関係上、計測のための「測量」機器類が必需品であったのである。

「今時」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村淙庵の見聞奇譚をとり纏めたもの。

「測量所」江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関で、主に編暦を司った「天文方(てんもんかた)」のこと。ウィキの「天文方によれば、渋川春海が幕府最初の公定暦としての「貞享暦」を作製し(この瞬間に土御門家の役割は終わった)、その功績を認められて『天文方に任じられた翌』年の貞享二(一六八五)年に牛込藁町の地に司天台を設置した』が、元禄二(一六八九)年には本所、同一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転』した。『春海の没後』、延享三(一七四六)年に『神田佐久間町』へ、明和二(一七六五)年には『牛込袋町に移り』、天明二(一七八二)年になって、『浅草の浅草天文台(頒暦所』(はんれきしょ)『とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用され』ており、『高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に『渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。明治二(一八六九)年に『天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止され』た。従って、ここで言う「測量所」は「浅草天文台」ということになる。

「空名を持する」公的に暦を出すに当たって、朝廷の陰陽博士として、ただ名前だけを記した(貸した)のである。

「年始萬歳」三河萬歳(みかわまんざい)のこと。愛知県の西三河地方を根拠地として(正統な狭義の文化芸能としてのそれは愛知県西尾市上町(かみまち)の「森下万歳」(西野町万歳と、同県安城(あんじょう)市別所町の「別所万歳」の二つである。ここは予祝行事を生業とした広義の大道芸のそれであるが、そこに本文に出る「惣萬歳」はいて、そうした連中たちの元締めをしていたものであろう)、正月初頭に、主に関東・関西地方を門付けして回る祝福芸。太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が一組となり、才蔵の打つ鼓の拍子に乗って祝言を述べ、滑稽な言葉のやり取りをし、舞を舞って祝儀を貰うもの。江戸時代には幕府の保護を受けて盛んに行われた。才蔵は、江戸の四日市に房総から集まる志望者より選び、一春の契約をした(主に三省堂「大辞林」に拠った)。

「板行」印刷物。

「つつ」「づつ」。後も同じ。

「白銀」銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形して紙に包んだもので、贈答用に用いた。通用銀の三分(枚)に相当する。少し後になるが、秤量貨幣の通用銀であった天保丁銀は十六匁で、これは一両の約四分の一であるから、三分だと、〇・七五両相当だから、もう一枚分の銀を足さないといけない。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 電車

 

         電  車

 

トンネルへはいるのでつけた電燈ぢやないのです

車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです

こんな豆ばたけの風のなかで

 

 なあに、山火事でござんせう

 なあに、山火事でござんせう

 あんまり大きござんすから

 はてな、向ふの光るあれは雲ですな

 木きつてゐますな

 いいえ、やつぱり山火事でござんせう

 

おい、きさま

日本の萓の野原をゆくビクトルカランザの配下

帽子が風にとられるぞ

こんどは靑い稗(ひえ)を行く貧弱カランザの末輩

きさまの馬はもう汗でぬれてゐる

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年八月十七日の創作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿は「木きつてゐますな」が「木𣏾つてゐますな」。「手入れ本」の一本は初行に「トンネルへはいるのでつけた電燈ぢやあないのです」と「あ」を入れる。

 五十日のブランクには、全集年譜を見ると、詩篇の創作は行われていないが、年譜によれば、七月十五日(年譜では直前は前の「高級の霧」の注の末尾に附した七月六日である)に丁度、この頃より一週間ほどに亙って毒蛾が発生し、猛威を振るったとあるが、年譜のある校本全集十四巻の「作品資料」の冒頭にある『岩手日報』(大正一一(一九二二)年七月十七日附)の岩手県師範学校の鳥羽源蔵氏の寄港記事を読むに冒頭で『此頃黃色の一種の蛾が皎々たる電燈の下に、集い寄つて來る』とし、『ドクテフ』『ドクガ』とするものの、この成虫の色からみて、これは鱗翅目ドクガ科ドクガ属チャドクガ Euproctis pseudoconspersa であろうと思われる(ドクガ科 Artaxa 属ドクガ Artaxa subflava の成虫は褐色である)。年譜本文には賢治はこれを素材としてこの日童話「毒蛾(リンク先は渡辺宏氏のもの。向後は何も注しない場合は総てそちらである)を書いている(これは後に「ポラーノの広場」の「五、センダード市の毒蛾」に生かされた)し、八月に入ると、八月九日には、かの「イギリス海岸」が書かれたと推定されており、旺盛な創作力は衰えを知らなかった回の「高級の霧」注の最後で紹介した妹シゲの回想にも『そのころ兄は書きたいことが、次から次へ湧きだすようで、それがとてももどかしくていちいち字にはしていられないというような時が多かったようでした』とあった通りである)。本詩篇も、読むからに、軽いギャグのショート・コントという面目がある。トシが別宅へ移され、常に実家にいる時には病床のトシと顔を合わすことはなくなった。しかし賢治はトシが気になる。しかし同時に、その哀傷の脳髄から別に奔流するミューズの天啓は、停滞させようもなかった。そうしたアンビバレントな感覚が、童話や詩篇で、代償的に軽快でジョークのようなそれを現出させていたのかも知れない。

「電車」旧花巻電気軌道(大正二(一九一三)年設立。昭和四七(一九七二)年に鉄道・軌道線は全廃されている)。本篇が書かれた大正一一(一九二二)年八月当時は、電車軌道は花巻-松倉間(路線はウィキの旧「花巻電鉄」を参照されたい)。ギトン氏のこちらで当時走っていた、怖ろしくスリム(非常な狭軌)なそれが見られる。松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説によれば、本篇が『作られた直後の』大正一二(一九二三)年五月時点では、上下合わせて』一日十六本(八往復)『だったという』と記された後、『この詩では、車窓から見た風景をメキシコに擬している』と述べておられる。とすれば、字下げの第二連は、そうした内戦(後注参照)のメキシコへの異邦的妄想気分を醸し出すための、トリック・スターの麻酔術めいた呪的文々(もんもん)なのかも知れない。

「トンネル」ギトン氏のこちらの本篇の解説によれば、『路線にトンネルは』ないから、二行目にある通り、『昼間なのに、運転士の気まぐれで車内の電灯が点いたの』だろうかと添えておられる。

「豆ばたけ」上記でギトン氏は『大豆畑』と注しておられる。

 

「萓」「萱(かや)」の異体字。茅(かや)。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。

「ビクトルカランザ」ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサ(Venustiano Carranza Garza 一八五九年~一九二〇年)は、メキシコ革命の指導者のうちの一人、メキシコ大統領。彼の大統領職中に現在のメキシコ憲法が起草された。大統領就任までは、参照したウィキの「ベヌスティアーノ・カランサ・ガルサ」を見られたい。カランサの大統領就任後、『メキシコ革命は収束に向か』い、一九一九年四月には革命家エミリアーノ・サパタが『カランサの刺客により暗殺』され、『労働者勢力はカランサへの対抗のため』、国軍の将軍にアルバロ・『オブレゴンに協力を求め、オブレゴンはこれを受け』、六『月に立憲自由党から次期大統領選への立候補を表明する。憲法は大統領の再選を禁止していたため、カランサは自分の後継としてイグナシオ・』ボニラス『を指名』した。『ボニラスはマサチューセッツ工科大学を卒業し』、『駐米大使を経験したインテリだったが』、『スペイン語が話せなかった。ルイス・モロネスの指導する労働者地域連合(CROM)を母体とした労働党、国民協同党、ユカタン社会党がオブレゴンを支持したが、翌年』一『月にカランサはオブレゴンを逮捕しようとし、オブレゴンはソノラ州に逃亡した』。三『月になると反ボニラス活動が激化し、鉄道労働組合はサボタージュによりボニラスの遊説列車を脱線させるなど妨害活動を行ったが』、『カランサはこれに対し』、『強圧策で対応、労働者を逮捕、殺害した。カランサは労働組合の争議鎮圧を口実にソノラ州に軍を派遣し、これに対し』、『ソノラ州知事アドルフォ・デ・ラ・ウエルタがソノラ独立共和国を宣言する。ソノラ州の立憲自由軍はカランサに対して宣戦布告、国内は再び内戦状態となり』、革命家パンチョ・ビリャや頭首を殺されたサパタ派の者も『立憲自由軍を支援した。立憲自由軍は』五『月にメキシコシティに侵攻、カランサはベラクルスで臨時政府の樹立を試み』、『特別列車に資産を積み込』んで『逃亡』したが、五月二十一日、『プエブラ州のトラスカラントンゴで同地の有力者ロドルフォ・エレーロ』『のだまし討ちに遭い、就寝中に暗殺された』とあり、内戦状態の部分では、偶然か、鉄道絡みの話が多い

「稗(ひえ)」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連ヒエ属ヒエ Echinochloa esculenta。この後の昭和に入ってからの米の増産に成功するまでは本邦では重要な主食穀物であったが、次の注の最後の引用部でギトン氏が述べられているように、程度の低い雑穀のイメージがここには既に漂っているようである。

「末輩」「まつぱい(まっぱい)」仲間の末に連なる者。地位・技量などの劣った者。残党。ギトンで、この第三連を、賢治が、あのひょろひょろっとした、「不思議の国のアリス」のトランプ兵を潰したみたような(失礼。これはギトン氏が仰っているのではなく、藪野の感じ)、走る花巻電気鉄道の中から見た景として捉え、『メキシコ人のような鍔の広い帽子をかぶった農夫が、草丈の高いススキの間を、馬に乗って行くのでしょう。麦わら帽子をメキシコ帽に見立てています。「ビクトルカランザの配下」は、“勝利者カランザの家来”という呼びかけで、カウボーイのような颯爽とした感じです』『しかし』最後の二行の方は、『対照的に貧弱な印象で』、『ヒエは、水田の雑草で、雑穀として栽培されることもありますが、ここでは、雑草だらけの水田の傍を、駄馬(荷物を載せた馬)を曳いて歩いているのでしょう』。『賢治は、当時のメキシコ情勢について、かなり理解していたと思われます。電車から見かけた農夫たちを、メキシコで農地改革を主張する「カランザの配下」たち、そして、カランサを支持する貧農や農業労働者に見立てて、皮肉まじりに「おい、きさま」と呼びかけているのです』。『しかし、ここで、電車に乗った作者が、優越感を感じていると思ったら』大間違いかも『しれません。というのは、作者が乗っている《花巻電気軌道》の電車ですが』、これはたった一『両編成で、いまにも倒れてしまいそうな細い車体ですから、スピードは出なかったはず』で、『とくに、花巻から温泉地へ向かって行くときは登り勾配なので、人が歩く速さより遅かったという話があります』(『その反対に、温泉地から下って来るときには、勢いにまかせて、ジェットコースターのように走ったらしい』とある)。『しかも、乗客が多いときには、屋根のないトロッコの荷台に人を乗せて、“スリム電車”が引いて走りましたから、いつ脱線して投げ出されるかも分からないくらい怖かったと言います』(ここでギトン氏は本書の後に出る大正一二(一九二三)年九月作の「昴」という詩の一節を引用、そこに「どうしてもこの貨物車の壁はあぶない」/「わたくしが壁といつしよにここらあたりで」/投げだされて死ぬことはあり得過ぎる」とある。渡辺宏氏のサイトのをまずはリンクさせておく。これは夜間にそのトロッコに乗せられて下る様子を描写したものとギトン氏は言う)。『そういう電車ですから』、「おい、きさま」』『などと呼ばわっているほうが、ろくなものに乗っていないことになります』。『おそらく、馬に乗った「ビクトルカランザ」の農夫は、作者の電車をどんどん追い越してゆくのでしょう』。或いはまた、『「貧弱カランザ」の農夫も、電車よりは速いかもしれません』し、『農夫たちには、徒歩より遅い電車は、役に立たない金持ちの道楽にしか見えないことでしょう』。『風を切って行く農夫たちの後ろから、安定の悪い木造電車に揺られてノロノロと進む作者は、自嘲ぎみに悪態をついているのです』と纏めておられる。またしてもギトン氏に解釈を助けて戴いた。謝意を表する。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 高級の霧

 

            

 

こいつはもう

あんまり明るい高級(ハイグレード)の霧です

白樺も芽をふき

からすむぎも

農舍の屋根も

馬もなにもかも

光すりぎてまぶしくて

  ⦅よくおわかりのことでせうが

   日射(ひざ)しのなかの靑と金

   落葉松(ラリツクス)は

   たしかにとどまつに似て居ります)

まぶし過ぎて

空氣さへすこし痛いくらゐです 

 

[やぶちゃん注:・「光すりぎてまぶしくて」はママ。原稿は「光りすぎてまぶしくて」で誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」にも何もない(あってしかるべき修正も「ない」し、削除されているわけでもない。これは異常な特異点である。ここを出版後に読んだ彼は、同時に何か衝撃的なフラッシュ・バックがあって、この誰もが気づくはずの誤植に気づかなかったのではなかったか?)無論、校本全集校訂本文は訂している。

・「⦅よくおわかりのことでせうが」の始まりの二十丸括弧はママ。御覧の通り、その連の終りの「たしかにとどまつに似て居ります)」の末尾は普通の丸括弧である。原稿は始まりも「(」であるから誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」の修正にもない。校本全集校訂本文は原稿通り、開始を「(」とする。

 大正一一(一九二二)年六月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。

「あんまり明るい高級(ハイグレード)の霧です」霧の持つ光と、その自然の源としての水の粒子のぎゅっと詰まった緻密さの感覚的質感に、自然の悠久(永久の時空間と言い換えてもよい)の無窮に豊饒さを喩えているようにも読める。だが、そんな濃密な霧ではしかし、白樺が芽を吹いているのも、鴉麦も、農作業用舎屋の屋根も、「落葉松」(ラリックス)も(こちらに「とどまつに似て居」ると謂い掛ける以上は誰にでも見えて判別し得る状態を実は指している)それこそ「馬も」「なにもかも」隠して見えなくなっているはずで、叙述と全く齟齬することに気づく。光すりぎてまぶしくて」まぶし過ぎて」の畳み掛け、「日射(ひざ)しのなかの靑と金」という即物的感覚描写からは、これは実は、実際の「霧」なのではなく、〈遮るもののない燦々と降り注ぐ眩し過ぎる初夏の陽光〉を描出しているのである。しかし、どうも気になることがあるのだ。……この詩篇、単なるそうした自然への手放しの謳歌にしては、形容表現に幽かに詩人のネガテイヴ、という謂いが不適切であるなら、少し身を引いている妙な捩じれた感じが纏わりついているように感じるのだ。……「こいつは」という名指しの粗さ、「もう」「あんまり」という副詞、現世的な「高級(ハイグレード)」という語の持つ語感、「光りすぎて」いて「まぶしくて」(眼を背ける感じ)、「よくおわかりのことでせうが」という改まった他人行儀な、くどくどしい不快な慇懃無礼な謂い掛け、どうでもいいような「落葉松(ラリツクス)は」「たしかにとどまつに似て居」るというさして説明したいというのでもない軽い薀蓄(近くでよく観察すりゃあ違いははっきりしてるんだ、と字背で賢治がぼそついて乱暴に言っている感じさえする)、光りが「まぶし過ぎて」、「空氣さへ」も「すこし痛いくらゐ」だという添えの感想……どうも……おかしい……ギトン氏もそこに着目されておられ、こちらで最後に、『…つまり、おおざっぱに言うと、光る空、光る山、明るすぎる新緑の林、まぶしい屋根の照り返し‥‥などは、もし、「高原」のように、そこに自己を没入できれば』(「できるならば」を字背に匂わせておられるのである)、『躍動的なエネルギーの源泉となりますが、そうでないと、作者は、“過度の明るさ”に輝く周りの世界から疎外されてしまい、憂鬱に沈み込まざるをえないのです‥』。『そうすると、「高級の霧」の「高級(ハイグレード)」とは、作者にとって必ずしも歓迎できるものではないのです』。『むしろ』、(私は「今の」と挿入したい)『自分には似合わない、敬遠したくなる、嫉妬、羨望、けむったい、迷惑だ‥‥というような語感が伴っているのではないでしょうか?』と述べておられる。同感である……

「白樺」既出既注。ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica

「からすむぎ」私の好きな単子葉植物綱イネ目イネ科カラスムギ属カラスムギ Avena fatua。既に出た「燕麥(オート)」(単子葉植物綱イネ目イネ科カラスムギ属エンバク Avena sativa)は野生種である本種の栽培種である。

「落葉松(ラリツクス)」既出既注。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi の属名。

「とどまつ」マツ科モミ属トドマツ Abies sachalinensisトドマツはモミ属の常緑針葉樹で、冬でも緑を保ち、枝は水平や斜め上に張り出す。葉は枝全体に並んで生え、先が窪んで裂けている。松毬(まつかさ)は細長く、枝の上方向に着くのを特徴とする。対して、カラマツはカラマツ属の落葉針葉樹で、秋になると、黄色く色づき、落葉するのを大きな特徴とする。枝は水平に張り出し、長枝と短枝があり、短枝には、葉が一ヶ所から束になって、花が咲いたかのように生える。松毬は「まつぼっくり」という言葉でイメージ出来る丸い形状のものである(以上は情報発信サイト「BIGRUN HOKKAIDOの「カラマツとトドマツとエゾマツの違い」に拠った)。

 本篇は既に「岩手山」の注の最後で述べた通り、大正一一(一九二二)年六月二十七日クレジットの最後の詩篇(先行する「岩手山」・「高原」・「印象」と同日の創作)である。再度言うと、ここまでコンスタントに創作し続けてきた賢治なのであるが、その次の「電車」は大正一一(一九二二)年八月十七日の創作で、五十日ものスパンが空いている。既に賢治に詳しい方は知っておられようが、この間の妹トシの病態は思わしくなく、看病をしていた母イチが看病疲れから床に臥すようになったことから、七月六日、遂にトシを下根子桜にあった別宅へ移しているのである(後掲引用参照)。私はこの日に創作された、

・何か暗く「古ぼけ」た「黑くえぐるもの」で「きたなくしろく澱むもの」と謂い掛けて不定形の何ものかを重く表象する「岩手山」

わざわざ三年も前の過去の記憶に基づいて(この事実自体が本書のここまでの共時的詠唱中では異様な特異点である)詠んで挟み込んだ回想の詩篇「高原」

・シュールレアリスムの絵画ようなスマートを気取りながら謂わく言い難い不安に満ちた暗い絵「印象」

・詩人が普段なら一体化を謳歌する自然の対象物に対してどこか距離を持って眺めている或いは忌避するような雰囲気を感じさせるこの「高級の霧」

という四篇が、詩人の内なる暗鬱さの共通項に於いて括られているように見えてしょうがないのである。やはり、これは、偶然では、ない。これはここまでの主調であった、今までの電光石火の鮮やかでファンタジックな〈賢治マジック〉のそれとは全く異質なものだと私は思うのである。

 そもそも「心象スケツチ 春と修羅」には、実は、この部分を境とする一冊の書籍としても物理的即物的な〈謎〉が存在する。

 それは、後尾に附された「目次」にある。

 「目次」ではこの「高級の霧」の次は「電車」ではなく、 

 

Mokuji

 

高級の霧 ……(一九二二、六、二七、)…… 一二八

途上二篇 ……(一九二二、六、二七、)…… 一三〇

電車   ……(一九二二、八、一七、)…… 一三一

となっているのである(リーダは八点、漢数字は半角で字空けももっと多い。当該箇所画像(見開き・モノクローム)を前に掲げた)。この上掲四篇とともに書かれたはずの「途上二篇」という心象スケッチは、しかし、本文には、全く存在しないのである。本書用原稿にもなく、下書き稿も残っていない、失われた詩篇なのである。

 しかも「目次」の末尾のページ数は、この不整合ために、当然、「電車」から実際のノンブルと順にズレ始め(「電車」の実際の開始ページは一二〇ページである。以下同じことを略して示す)、「天然誘接」が「一三二」(実際は一三一)、「腹體劔舞連」が「一三七」(実際は一三二)、「グランド電柱」が「一三九」(実際は一三七)、「山巡査」が「一四〇」(実際は一三九)、「電線工夫」が「一四一」(実際は一三九)で、その次の「たび人」で、やっと(偶然と推定される)実際の版組上から順送りとなってズレが解消され、正しくなっている。これらは本書用原稿もその通り(誤った通り)であり、「正誤表」でも全く訂されていないのである。これは一冊の書物としては、極めて異様な「目次」と本文の不対応齟齬である。

 なお、このズレと本書の版組の様態と制限容量から見て、幻しの「途上二篇」なる詩篇は、

 百三十ページ目の第一行から題名を含めて始まり、詩篇本文(題名を除いて)は最大長で十六行、最短で十行のもの

であったことが判る。この賢治によって最終段階で削除されてその片鱗さえも残存しない不思議な幻しの「途上二篇」については、管見した限りでは、誰も何も有意に具体的なことは言っていないようであるから(と言っても、私は本電子化の冒頭でも述べた通り、宮澤賢治の研究書等は、三十以降はせいぜい十数冊しか読んでいないし、研究者の単発論文や彼の特集号も幾つかは持ってはいるが、ろくに読まずに、あたら、書庫で紙魚の餌食となっているぐらいだから、既にこんなことは周知の事実なのであろうとは思う)、ここに取り敢えず記しておくこととした。

 最後に。創作が途切れた「六月二七日」の後、校本全集年譜は、同年「七月六日」(『頃』と附記)まで記載がない。七月六日の部分総てを電子化して本注を終りとする。

   《引用開始》

七月六日(木) トシを下根子桜の別宅に移す。妹シゲの回想。

「だんだん姉の病状がよくなく、七月には弱かった母が看病疲れで床につくようになったので、桜の方に姉をうつしました。私は岩田の人たちの思いやりで桜の家で看病することになりました。極度に食欲のない姉の食事と、看護婦の藤本さん、付添いのおきよさん、せんたくなどの太田のばあさん、また学校から帰ってきて泊る賢治の食事をこしらえるのが私の役目だったようです。

 お医者さまは一週間に一度くらいおいでになって、栄養をとるよりほか、しかたないとのことで、料理の知恵もなかった私はほんとに因って、姉がなくなって三十年くらい後までどの戸棚をあけてもあるはずのお魚がなかったり、おかゆばかり煮えてもおかずがまとまらなくてウロウロしている夢をよく見たものです。」

「そのころ兄は書きたいことが、次から次へ湧きだすようで、それがとてももどかしくていちいち字にはしていられないというような時が多かったようでした。」

   《引用終了》]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 印象

 

     印  象

 

ラリツクスの靑いのは

木の新鮮と神經の性質と兩方からくる

そのとき展望車の藍いろの紳士は

X型のかけがねのついた帶革をしめ

すきとほつてまつすぐにたち

病氣のやうな顏をして

ひかりの山を見てゐたのだ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。宮澤家版「手入れ本」では本文の本詩全体に斜線を引いて削除している。「X」は底本では、やや右にずれて植字されている。

 今までになく、強い陰鬱と不安を感じさせる詩篇である。

「木の新鮮と神經の性質と兩方からくる」即物的に読むならば、「ラリツクス」(既出既注。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi の属名)の樹形と枝の延び方は神経系のそれやニューロンの延伸を想起はさせる。しかし、万物に仏性があるとするならば、「木」もまた「神經」=精神を持つとも読める。しかも、その精神は「靑」である。もしかすると、それは実は「新鮮」と対峙する対象感覚ではないか? 即ち、それは「靑」冷めた精神であり、活性した「新鮮」さの中に、それとは真逆の鬱々とした蒼白もが重ねられているのではないか? それが後半のマグリットの絵にでもありそうな、何か不吉なものをさえ感じさせる「印象」とも重なるように私には思えるのである。

「展望車」諸家は、軌道上の風景を展望できるように、座席や大型の窓を特別に設けた鉄道車両とする。それに異論はない(私は主にそのマグリット的なシュールレアリスティクな幻像=「印象」に於いてという条件にあってであるが)。お世話になっているギトン氏はここから三回(下部左の「次へ→」で見られたい)に亙って、この「展望車」を緻密に考証しておられ(私は鉄道に全く興味がないので、ギトン氏の示される当時の展望車の資料提示をそのまま素直に読んだ)、最終的にこちらで、賢治が、当時存在し、賢治がかつて『東海道線で展望車を見た記憶』(それは可能性としてであるが、あり得ることをギトン氏は当時のデータを示して解説されており、私は承服出来る)『回想するきっかけが、何かあったはずで』、『そのきっかけとは、小岩井農場の《馬トロ》ではな』かったか、と推論され、『現在の観光用《馬トロ》の馭手は座っていますが、当時の業務用《馬トロ》では、馭手はトロッコの上に立って手綱を操っていたそうです』として、先の「小岩井農塲」の「パート九」でも、賢治は「馬車が行く 馬はぬれて黑い」/「ひとはくるまに立つて行く」『と、《馬トロ》に立っている馭手が描かれていました』と示され、そこから、『賢治は』大正一一(一九二二)年六月』、『長詩「小岩井農場」のための“歩行詩作”から』一『ヶ月後』に、『小岩井農場を』再度、『訪れた時に』(但し、全集年譜にはその事実は記されてはいない)、『走っている《馬トロ》の馭手が、すくっと真っ直ぐに立って、遠景に光る岩手山のほうを見ている印象から、以前に東海道線で見た展望車を思い出したのではないでしょうか?』と述べられて、この『展望車(展望デッキ)に直立する「紳士」とは、《馬トロ》の馭手ではないかと思うのです』と推定されておられる(ギトン氏の、その小岩井農場にあった旧馬車鉄道の写真はこちら)。推理小説を読むような解析・推理に私などは全く以って頭が下がり、彼の推論に異議なく賛同した。是非、ギトン氏のそれらのページを読まれんことを強くお薦めするものである。

「藍いろの紳士」「藍いろの」服を着た「紳士」では、ない。全身、「藍」色と表現したくなる、不気味な不吉な「紳士」なのである。であればこそ、続く「すきとほつてまつすぐにたち」/「病氣のやうな顏をして」いるのが、慄然とイメージされると言える。

「帶革」(おびかは(おびかわ)は獣皮革で出来たバンドであるが、特に剣や刀を腰に佩くために幅をやや広い作った革ベルトを指す。それに、不気味にそこだけ耀く金属の「X」字型の掛け金が光っている。

「ひかりの山を見てゐたのだ」「ひかりの山」は希望のようでもある。しかし、それは手の届かない彼方に輝く「ひかり」であるのかも知れず、孤独と陰鬱の「藍いろの紳士は」呆然となすすべもなく、孤独の「展望車」のデッキに立ちすくんで去ってゆく遠い「ひかりの山」を見つめているのではあるまいか? その「展望車」も遂には――点――となって消失してしまう……

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 高原(「目次」・原稿は「呌び」)

 

        高  原

 

海だべがど、おら、おもたれば

やつぱり光る山だたぢやい

ホウ

髮毛(かみけ) 風吹けば

鹿(しし)踊りだぢやい

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。奇異な点が一つある。それは本篇の標題で、後尾に配された創作クレジット附きの「目次」では、標題は(わざと本文と同じく大きくし、字間を空けた)、

 

 呌  

 

となっていることで、本書用原稿でも標題は「」であるということである(「」は「叫」の異体字である)。しかも「正誤表」にない。恐らくは、最終校正で変更したものと思われる。宮澤家版「手入れ本」では「目次」のそれに一度、「高原」と鉛筆で修正した後にそれを削除しているが、これは宮澤家版「手入れ本」では本文の本詩全体に斜線を引いて削除していることと関係していると推定される。

 なお、原稿では「光る」が「ひかる」であり、また、

「風吹けば」

「風吹げば」

で「け」が濁音表記である。さても、ここは或いは、この濁音表記「風吹げば」が正規表現なのではないか? 「手入れ本」に修正がないのは、気づかなかった(今まででも「手入れ本」は濁点・半濁点及びルビの誤植をかなり見落としている)からではないか?

 

と私には一瞬思われた。但し、全集校訂本文は濁音はない。

 本篇は全篇が方言詩で、

   *

海だろうと、俺は、思ったんだけれど

やっぱり、光る山だったじやないか!?!

ほうッツ!?!

(お前の、だから、俺のも)髪の毛は、それッ! 風が吹けばさ!

まるで、「鹿(しし)踊り」そのものじゃあないか!?!

   *

といった意味と採る。「ホウ」は或いは「鹿踊り」の一曲の囃しなのかも知れないと、各種の岩手の「鹿踊り」映像を視聴してみたが、今のところ、はっきりとは確認出来ないが、それらしく聴こえる囃し言葉はあるようだ。ただ、畑山博「教師 宮沢賢治のしごと」(初版一九八八年小学館刊)によれば、長坂俊雄・瀬川哲男・根子吉盛氏ら賢治の花巻農学校の教え子の証言によれば(長坂氏の音写(以下同じ)「ほ、ほうっ」・瀬川氏「ほうっ、ほほう」・根子氏「ほほうい、ほほうい」)、これは賢治がよく発した叫び声であり、瀬川氏は『ほうっ、ほほうというのはね、賢治先生の専売特許の感嘆詞でしたよ。どこでもかまわず、とつぜん声を出して、飛び上がるんです』(根子氏は岩手山登山の際の体験として、上記の通り、『叫びながら、大きく手を開いたり閉じたりして飛びまわりました』と証言されておられる)。『くるくる回りながら、足をばたばたさせて、はねまわりながら叫ぶんです』。『喜びが湧いてくると、細胞がどうしようもなくなるのですね。身体がまるで軽くなって、もうすぐ飛んでいっちまいそうになるのですね』(根子氏談)と述べておられる。

 松井潤ブログ「HarutoShura本篇解説によれば、大正六(一九一七)年、『盛岡高等農林学校』三『年の時、江刺郡役所(現・奥州市江刺区)の依頼で土性調査をするため、学友二人と江刺』((グーグル・マップ・データ))『を訪れている』とある。校本全集年譜によれば、同年八月二十八日で、調査対象地区は現在の岩手県奥州市江刺区岩谷堂((グーグル・マップ・データ))であった(当日着)。『この日、親友の保坂嘉内宛に「今日当地ヘ来マシタ。アシタカラ十日バカリ歩キマス。コレカラ暫ク毎日御便リ致シマス。(以下略)」という葉書を出している』。『賢治はこの調査の旅で、種山ヶ原(たねやまがはら)』(ウィキの「種山ヶ原によれば、岩手県奥州市・気仙郡住田町・遠野市に跨る物見山(種山)をピークとした標高六百から八百七十メートルに位置する高原地帯。北上高地の南西部の東西十一キロメートル、南北二十キロメートルに及ぶ平原状の山塊で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも称する賢治がこよなく愛した高原として知られ、彼はここの風景や気象を材料として童話「風の又三郎」・戯曲「種山ヶ原の夜」の他、多くの詩や短歌を残している。上記リンク地図の右端中央位置である)『をはじめとする、明るくゆったりした江刺地方の自然がすっかり気に入り、以後、何度も訪れている。この詩の舞台はそんな種山ヶ原と考えられる』とされる(他の諸家もロケーションはここに比定している)。『賢治にとって種山ヶ原は、浄福な天上により近いところであるとともに、沿岸と内陸の風がぶつかりダイナミックに変化する天候、風や雲の変幻自在な彼の心象風景に呼応する空間だった』。『雲海か、濃霧か。強風の日。海かと思って見やれば、光がさすとそこはやはり山。風に吹みまくられて同行した友人の髪の毛は、あっちへ飛び、こっちへ飛び、ぼさぼさ。それを賢治は、鹿踊りに見立てたのだろう』と述べておられる。全集年譜によれば、この時の調査には高等農林学校第一部の高橋秀松と賢治の同級生である(賢治は同校の第二部)佐々木(工藤)又治が一緒であった。花巻に戻ったのは保阪宛書簡の予定通りならば、九月八日で、十日にも及ぶ調査であったことになる(十一日には同校の第二学期が始業しているから、調査期間の延長は考え難い)。則ち、本詩篇は三年も前の回想詩ということになる。

「鹿(しし)踊り」(歴史的仮名遣は「ししをどり」)現在の岩手県・宮城県及び愛媛県宇和島市周辺で伝承されている伝統舞踊「鹿踊(ししおどり/しかおどり)」についての概要はウィキの「鹿を見られたい。サイト「いわての文化情報大事典」の「鹿解説」によれば、『獅子躍・鹿踊・鹿子躍とも書き、起源は、殺されたシカのための供養説や、山のシカの踊りを真似た遊戯模倣説、春日大社と結びつけた奉納起源説などさまざま。怪異なしし頭を付け、盂蘭盆と秋祭りに踊られる。県内の鹿踊は、舞手が太鼓を持って躍る「太鼓踊り系」と、太鼓を持たない「幕踊り系」に大別され、前者は主に県南地方の旧仙台藩領に、後者は主に遠野市を南限とする旧盛岡藩領に伝承されている。「太鼓躍り系」はさらに「行山(ぎょうざん)流」「金津(かなつ)流」などの流派に分かれ、本物のシカの角を用いる。「幕踊り系」の角は木製が多いが、田野畑村の菅窪鹿踊ではシカの頭部を模した頭を用いる』とあり、リンク先賢治落合鹿踊(花巻市東和町落合)の解説には、『身につけた太鼓を自ら打ちながら踊る太鼓踊り系の鹿踊りで、宮城県北から岩手県南地方に伝わっている。行山(ぎょうざん)流(仰山流・山口流・奥野流・奥山行山流等を含む。)・金津(かなつ)流・春日流などさまざまな流派がある。落合鹿踊の由来や伝播時期、経路などは不明だが、伝承によると』、天暦五(九五一)年、『空也上人が諸人済度(衆生済度)のために山居しているとき、周辺にやってくる八つ連れの鹿がおり、その一匹を猟師が射殺したので、その鹿を哀れみ弔うために始めた踊りという言い伝えがある。演目には、「一番庭」「二番庭」「案山子踊」「屋形踊」「御蔵踊」「露ばみ」「綱踊」「鉄砲踊」等があり種類も多い。「綱踊」は落合鹿踊の得意の演目として「ツバクロ返し」の巧技を演ずる。また、神聖な儀礼踊りとして、三光の礼がある。地元の熊野神社の例祭』(九月十九日)『および土沢鏑八幡神社の例祭』(九月十五日)『で奉納』されるとある(リンク先にダウン・ロード式の動画有り)。私は哀しいことに実演を見たことがないのだが、祭り嫌いの私でも小学生の昔から強く惹かれる踊りである(題名を思い出せないのだが、小学校高学年の時に見た(恐らくNHK教育のテレビ放送)日本映画(独立プロダクションの製作っぽいモノクロ映画であった。主役は顔をよく知っているが、今はすぐ名を出せない。それが判れば映画も判る。判り次第、追記する)で、岩手(主人公の記憶にカット・バックするそれは落合鹿踊の鹿であったように思う)から上京して商店で下働きする青年が、確か、店の主人か妻が災難に逢い、その主人の頑是ない子供たちと一緒に呆然としている。雨漏りの雫がバケツかブリキ缶に当たる。その音を聴きながら、青年が懐かしい故郷の「鹿踊り」を思い出すシークエンスにカット・バックした。その時の哀しくも激しいリズムと映像の強い印象として私にあるのである)。]

2018/11/19

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 岩手山

 

        岩 手 山

 

そらの散亂反射(さんらんはんしや)のなかに

古ぼけて黑くえぐるもの

ひかりの微塵系列(みじんけいれつ)の底に

きたなくしろく澱(よど)むもの

 

[やぶちゃん注:本篇は読みを外すと、綺麗に一行字数が揃う。再現しておく。

   *

 

        岩 手 山

 

そらの散亂反射のなかに

古ぼけて黑くえぐるもの

ひかりの微塵系列の底に

きたなくしろく澱むもの

 

   *

大正一一(一九二二)年六月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」では、

「ひかりの微塵系列の底に」を、

 ひしめく微塵の深みの底に

とするが、一字出っ張るので私はよくないと思う。

「岩手山」(いわてさん)は奥羽山脈北部、二つの外輪山からなる標高二千三十八メートルの成層火山。岩手県の最高峰。

「古ぼけて黑くえぐるもの」と「きたなくしろく澱むもの」は、この短唱の中にあって、どきりとさせるものがある。何か私は不吉なものを感ずる。私はどこかで、この作品の創作クレジット、大正一一(一九二二)年六月二十七日が気になっている。実はこの後に続く本文の詩篇「高原」・「印象」・「高級の霧」も同日のクレジットを持つ。ここまでコンスタントに創作し続けてきた賢治なのであるが、その次の「電車」は大正一一(一九二二)年八月十七日の創作で、五十日ものスパンが空いている。既に賢治に詳しい方は知っておられようが、この間の妹トシの病態は思わしくなく、看病をしていた母イチが看病疲れから床に臥すようになったことから、七月六日、遂にトシを下根子桜にあった別宅へ移しているのである。これは偶然なのかも知れず、私の不吉な印象は全くの見当違いだとされる方も多いかも知れぬ。しかし、自然幻像を楽しむ賢治にして、「そらの散亂反射」や「ひかりの微塵系列」は彼の得意とする語感用法でありながら、そこの「なかに」「底に」、「古ぼけて」「黑く」「えぐるもの」、「きたなくしろく」「澱むもの」という感官を纏わせるのは特異的にネガティヴで今までの賢治のマジックのそれとは違う異質なものを私は感じるのである。但し、hamagaki氏は(「宮澤賢治の詩の世界」のサイト主)の「宮澤賢治全詩一覧」の一行コメントでは、『ほんとは愛している岩手山の否定的描写は、父への思いのようです』とある。それも肯んぜられる。

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 風景觀察官

 

        風 景 觀 察 官

 

あの林は

あんまり緣靑(ろくせう)を盛り過ぎたのだ

それでも自然ならしかたないが

また多少プウルキインの現象にもよるやうだが

も少しそらから橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふやうにしたら

どうだらう

 

ああ何といふいい精神だ

株式取引所や議事堂でばかり

フロツクコートは着られるものでない

むしろこんな黃水晶(シトリン)の夕方に

まつ靑さおな稻の槍の間に

ホルスタインの群(ぐん)を指導するとき

よく適合し效果もある

何といふいい精神だらう

たとへそれが羊羹(やうかん)いろでぼろぼろで

あるひはすこし暑くもあらうが

あんなまじめな直立や

風景のなかの敬虔な人間を

わたくしはいままで見たことがない

 

[やぶちゃん注:・「緣靑(ろくせう)」はママ。原稿は「綠靑(ろくせう)」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」は一本で訂正。

・「それでも自然ならしかたないが」宮澤家「手入れ本」は、

 それでも木がさうならしかたないが

とする。

・「も少しそらから橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふやうにしたら」宮澤家「手入れ本」は、

 も少し雲から橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふやうにしたら

とする。因みに、本書用原稿では「橙」を「とう」と歴史的仮名遣を誤っているが、完成品は正しいところを見ると、これは珍しく、校正工か植字工の独自の采配かも知れない。

・七行目の一行空けは原稿では、「ええ」と書いたものを削除してあるだけで、行詰めの指示はないから、そのまま組むと、行空けは出来ない。最終校正段階で指示したともとれるが、或いは出来上がった一行空けを見て、賢治はその偶然の行空けが、本詩篇ではかえって後半の別カット(前からのパンでもよい)効果を発揮する思って、これいじらなかった可能性もあるように思われる。

 大正一一(一九二二)年六月二十五日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。

「風景觀察官」無論、宮澤賢治の幻想世界での架空の官名。いい響きだ。

「緣靑(ろくせう)」銅や銅合金の表面に生じる錆(空気中の水分と二酸化炭素の作用により生じる塩基性炭酸銅(CuCO3Cu(OH)2))、或いは、その錆と同成分から出来ている緑色の単斜晶系炭酸塩鉱物である孔雀石(malachite:マラカイト)から得られる明るく鈍い青緑色の顔料。古くから緑色顔料として用いられた。この色(リンク先は色見本サイト)。

「プウルキインの現象」プルキニェ現象(Purkinje Phenomenon)。チェコの生理学者・解剖学者ヤン・エヴァンゲリスタ・プルキニェ(Jan Evangelista Purkyně 一七八七年~一八六九年)が解明したことから名づけられた、暗い所では赤よりも青に対する色覚が強くなる視感度のずれの現象を指す。ウィキの「プルキニェ現象」によれば、『色は網膜の視細胞で感知しているが、明るい場所では赤が鮮やかに遠くまで見え、青は黒ずんで見える。一方、暗い場所では』、『青が鮮やかに遠くまで見えるのに対して、赤は黒ずんで見える。これは、桿体』(かんたい)『と呼ばれる視細胞の働きによるもので、人の目は暗くなるほど』、『青い色に敏感になる』のである。この表現から、陽がかなり下がった夕刻近くがロケーションであることが判り、「橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふ」が最後の射光である夕陽の要望であることで腑に落ちる。

「フロツクコート」男性用礼装として嘗て使われた(十九世紀中頃から二十世紀初頭)、ダブル・ブレストの上着であるフロック・コート(Frock Coat)は、もとの起源がポーランド軽騎兵の服装であり、乗馬の際、風が入らないように前合わせがダブルで襟が高くなったものとされており、これらの特徴を持った上着は十八世紀には既に軍服として使われていたとウィキの「フロックコート」にあるから、今、この近代的牧場(これは小岩井農場ではないようだが、それでも明治に入って盛んになったハイカラな酪農家の牧場のように思われる(一連の「小岩井農塲」でお世話になったギトン氏もこちらで、『ちょっと気になるのは、当時花巻の近くで、乳牛を何頭も(「ホルスタインの群」と書いてあります)飼う農家があったのだろうかという疑問です。日本では酪農は生乳の供給が中心でしたから、大きな都会の近くでなければ成り立ちませんでした』。『小岩井農場や、北海道の農場のように、チーズやバターを造る加工工場がある場所ならば、生乳以外にも需要があったと思いますが、花巻に乳製品工場があったという話は見たことがありません』。『もっとも、『新校本全集』に載っている当時』(大正一〇(一九二一)年頃)『の「町並図」を見ますと、宮澤賢治の自宅から近い豊沢川畔に、「牛乳(中村)」と書かれた家があります』(第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」)。『これは、『銀河鉄道の夜』でジョバンニが牛乳をもらいに行く“牧場”のような、生乳を売っている酪農家の家ではないでしょうか』と述べておられるのである)。さても、この牧場(まきば)の中景に、それを着ている作業者(指導者)がいるのは少しも場違いでないし、何か突き抜けてモダンで、「いい精神」=いい自然とその一部である人間の、トータルな霊気の充満を感じさせ、思いの外、「よく適合し」、風景上のホルスタインの白黒の肌とフロック・コートの黒と牧場の緑の色の配合の「效果もある」と賢治は感じているのではあるまいか。

「黃水晶(シトリン)の夕方」「黃水晶」は既出既注。「きずいしょう」で「citrinecitrine quartz:シトリン・クォーツ」。黄色みを帯びた水晶のことであるが、ここは落日の夕景の色彩として腑に落ちる。「シトリン」という響きも透明でよい。

「ホルスタイン」ウィキの「ホルスタイン」によれば、『ホルスタイン(Holstein)、またはホルスタイン・フリーシアン(Holstein Friesian cattle)はウシの品種のひとつで、名前はドイツの』北海に突き出たデンマークのユーラン半島の根の部分で、ドイツの最北端に位置する『シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州』(Land Schleswig-Holstein)『にちなむ。日本では主に乳牛としてのイメージが強いが、欧州では肉乳両方を目的として肥育されている』。『ライン川下流のデルタ地帯』『に産した在来種を起源として、ゲルマン民族の移動に伴われて西に進み、オランダに定着して乳用種として改良されたものである。よって、起源はドイツであるが、品種としての原産地という意味では、オランダのフリースラント』(Friesland:オランダとドイツの北海沿岸の地方名)『が正しい。ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州も、この品種が牛の主流をなしている。その後、アメリカにもオランダからもたらされた』(一七九五年~一八五二年)。『初めはホルスタインと称したが、その後』、『フリーシアンとも称され、対立したが』、一八八九年から統一してホルスタイン・フリーシアンと称することになった』本邦には、アメリカを経由して明治一八(一八八五)年に移入されて牧牛・搾乳業が盛んとなったことから、『当初はアメリカと同様の呼称を用いていたが、次第に略され、ホルスタインと呼称するようになった。なお、欧州ではむしろフリーシアンの方が共通的な呼称である』とある。因みに、子規の弟子で歌人・小説家として知られる伊藤左千夫(元治元(一八六四)年~大正二(一九一三)年)は子規から「牛乳屋」と綽名されて日記にも登場するが、彼は明治二二(一八八九)年に東京本所茅場町(現在の錦糸町駅前附近)に牛舎を建てて、乳牛を飼育して牛乳の製造販売をしていたことに由来する。また、かの芥川龍之介の実父新原敏三は明治八(一九七五)年に山口県から上京し、渋沢栄一らの経営していた箱根の牧場で働き、その才覚を買われて明治一六(一九八三)年から東京市京橋区入船町の「耕牧舎」の経営を任されていた。芥川龍之介の「點鬼簿(大正一五(一九二六)年十月発表)の「三」の冒頭で龍之介は、『僕は母の發狂した爲に生まれるが早いか養家に來たから、(養家は母かたの伯父の家だつた。)僕の父にも冷淡だつた。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかつた』と起筆しており、それに先立つ大正一四(一九二五)年一月に発表した大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――の「二 牛乳」でも、『信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の祕密だつた。誰にも決して知らせることの出來ぬ彼の一生の祕密だつた』として「牛乳」を媒介物として、しかも乳牛飼育搾乳業を営んでいた実父という存在への、極度に捩じれた意識を一章をかけて語っている(リンク先は孰れも私の古い電子テクスト)。大きな脱線かもしれぬが、記しておくことにした。

「たとへそれが羊羹(やうかん)いろでぼろぼろで」/「あるひはすこし暑くもあらうが」フロック・コートの色が実はもうすっかり焼けて色が煤け(「羊羹」色は、僅かに赤みを帯びた濃い茶色で、昔は黒染や濃紫の衣服が色褪せてきた様を形容する語であった。この色(リンク先は色見本サイト))、綻びだらけでボロボロになっていて、或いは分厚くて今の季節では夕方でも少し暑くもあるのであろうが。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 加豆古宇鳥(かつこうどり) (カッコウ?)

Katukoudori

 

かつこうとり 正字未詳

       疑此郭公

加豆古宇鳥

 

△按狀似杜鵑及蟲喰鳥而帶微赤色腹白而無黑斑耳

 脚指亦二前二後【僞爲杜鵑賣之】仲夏後有聲秋後聲止其聲は

 大而圓亮如曰加豆古宇毎棲山林不近人家

 

 

かつこうどり 正字、未だ詳らかならず。

       疑ふらくは、此れ、

       「郭公〔(かつこう)〕」か。

加豆古宇鳥

 

△按ずるに、狀、杜鵑(ほとゝぎす)及び蟲喰鳥〔(むしくひどり)〕に似て、微赤色を帶ぶ。腹、白くして黑斑無きのみ。脚指も亦、二つは前、二つは後〔(うしろ)〕【僞りて杜鵑と爲して之れを賣る。】仲夏の後、聲、有り、秋の後、聲、止む。其の聲は大にして圓亮、「加豆古宇〔(かつこう)〕」と曰ふがごとし。毎〔(つね)に〕山林に棲み、人家に近づかず。

[やぶちゃん注:ともかく困る。困ってしまう。困っている。何故かというと、もう既に先行する「林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)で、それをカッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus を同定比定してしまっているからなんである。まあ、良安自身が『疑ふらくは、此れ、「郭公〔(かつこう)〕」か』(「疑ふらくは~か」という連語とその呼応は「恐らくは・推測するに・多分」とその疑問や仮定・推察に相応に有意な分(ぶ)がある場合に用いることが多い)と言っているのであるから、困らなくてもいいと言えば、いいんだが、細かいところが気になってくる僕の悪い癖。「杜鵑(ほとゝぎす)及び蟲喰鳥〔(むしくひどり)〕に似」るというのは、良安が直前ので「ムシクイ」を同じカッコウ属のホトトギスに似ていると強引に言って呉れちゃってる(事実は私はそうは思わないのだが)ところからは誤魔化せる。「微赤色を帶ぶ」というのはカッコウのに赤褐色型はいることでクリアだが、「腹、白くして黑斑無きのみ」というのは困るだろ! カッコウで腹部が真っ白で横縞がないというのは、ちょっといないんじゃないかい? 遠目で観察者が目が悪いと白くは見えるがねぇ。「脚指も亦、二つは前、二つは後〔(うしろ)〕」」というのは「対趾足(たいしそく:zygodactyl:ザァィガァダァクトゥル:趾の内、第一趾と第四趾の二本が後方を向き、第二趾と第三趾の二本が前方を向く)という奴で、これはカッコウ目 Cuculiformes に特徴的であるからよい。季節も悪くない。良安が気に入っている鳥の有意に大きな、特徴的に響きのあるそれにしばしば用いる「圓亮」(東洋文庫版はここでは『さえてまろやか』とルビで応じている)もカッコウの鳴き声としては不満はない。「加豆古宇〔(かつこう)〕」のオノマトペイアも申し分ない。「毎〔(つね)に〕山林に棲み、人家に近づかず」のもカッコウらしい。しかし、じゃあ、なんでこんなところに独立項をわざわざ立てちゃったんだろう? という疑問が消えない。しかもお馴染みの「本草綱目」に従ったわけでもなく、明らかに本邦産の鳥という触れ込みで登場している。だが、冒頭から「かつこうどり」だけど、「正字、未だ詳らかならず」と弱気。「どんならん!」何か、追記出来そうな何かを向後も捜してはみる。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 蟲喰鳥(むしくひどり) (ムシクイ類)

 

Musikuhi

 

むしくひとり

蟲喰鳥

 

△按虫喰鳥狀似杜鵑而頭背灰黑色胸腹黃赤色翅羽

 尾皆灰黑色而有柹色斑口中黃而無聲掌指與杜鵑

 同蓋清少納言曰鶯至夏秋之末老聲鳴時名之蟲喰

 非也非鶯之老者少似鶯而多似杜鵑

 

 

むしくひどり

蟲喰鳥

 

△按ずるに、虫喰鳥は、狀〔(かたち)〕、杜鵑〔(ほととぎす)〕に似て、頭・背、灰黑色。胸・腹、黃赤色。翅-羽〔(はね)〕・尾、皆、灰黑色にして、柹色の斑〔(ふ)〕有り。口中、黃にして、聲、無し。掌〔(てのひら)〕の指は杜鵑と同じ。蓋し、清少納言が曰はく、『鶯、夏秋の末に至りて、老〔いたる〕聲〔にて〕鳴く時、名之れを「蟲喰」と名づく云々』〔とせるも〕、此の、非なり。鶯の老する者に非ず。少し、鶯に似れども、多く〔は〕杜鵑に似る。

[やぶちゃん注:旧世界ムシクイ類は、嘗ては、スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス科 Sylviidae に分類され、四百種前後が属したが、多系統であることが判明してからは、多くの科に分割された(ここはウィキの「ムシクイ類」の記載。リンク先にはその細かに分れた種が掲げられてある)。一方、小学館「日本大百科全書」では、より狭義なそれを叙述しており、『スズメ目ヒタキ科ウグイス亜科のメボソムシクイ属』(ウィキの分類表ではメボソムシクイ科メボソムシクイ属 Phylloscopus とする)・『ズグロムシクイ属』(ウィキの分類表ではダルマエナガ科ズグロムシクイ属 Sylvia とする)・『ハシナガムシクイ属』(ウィキの分類表ではハシナガムシクイ科ハシナガムシクイ属 Macrosphenus とする)『に含まれる約』四十『種の鳥の総称』とし、『ユーラシアに繁殖分布し、いずれも全長十数センチメートル、樹上性である。木の枝を移りながら、体を水平にしたままの姿勢で昆虫を採食する。伸び上がったり、わずかに飛び上がったりして、葉の裏の昆虫をとることも多いが、シジュウカラ科』(Paridae)『の鳥のように枝に逆さまにぶら下がることはない。メボソムシクイ属Phylloscopusには』十五『種あり、各種とも背面はオリーブ褐色で森林にすみ、互いによく似ているが、鳴き声と生息環境は種ごとに異なっている。日本では』六『種が記録されており』

メボソムシクイ Phylloscopus borealis

エゾムシクイ Phylloscopus borealoides

センダイムシクイ Phylloscopus coronatus

イイジマムシクイ Phylloscopus ijimae

『が繁殖し、まれな旅鳥であるほかの』二種、

キマユムシクイ Phylloscopus inornatus(旅鳥として主に日本海側の島嶼部や南西諸島で少数が観察されている。春の渡りの方が、やや記録が多い。南西諸島ではごく一部の個体が越冬している)

カラフトムシクイ Phylloscopus proregulus(稀れな旅鳥として主に日本海側の島嶼部で秋の渡り時に記録されている)

『同様、中国南部、インドシナ半島などで越冬する』とある。しかし、個人サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「センダイムシクイ(スズメ目ムシクイ科)仙台虫喰」のページを見ると、「センダイムシクイ」・「エゾムシクイ」・「メボソムシクイ」の他に

オオムシクイ Phylloscopus skopos

の画像と識別法が挙げられており、サイトの「オオムシクイ」のページには、『日本では、旅鳥として渡りの時期には日本各地を通過するほか、北海道では繁殖の可能性がある。春秋の渡り期には各地の平地でも見られる』とあるから、これも含めねばならない。同サイトの「イイジマムシクイ」はこちらで、「キマユムシクイ」はこちらでそれぞれの画像と解説が読める。カラフトムシクイはウィキがある。しかし、これらを縦覧するに、良安の謂いとは反対、私には寧ろ遙かに鶯(スズメ目ウグイス科 Cettiidae ウグイス属ウグイス Horornis diphone)に似て見え、大きさからも、とても杜鵑(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)に似ているとは感じられない。さすれば、良安の名指している「虫喰い」はこれらとは全然別種である可能性が出てくるように思われる。鳥類が守備範囲でない私にはこれが精一杯である。

「聲、無し」無論、誤りサイトサントリーの愛鳥活動でセンダイムシクイの囀りが聴ける。

「清少納言が曰はく、『鶯、夏秋の末に至りて、老〔いたる〕聲〔にて〕鳴く時、名之れを「蟲喰」と名づく云々』」所謂、「鳥尽くし」の「鶯」の中に出る(下線部)。ここで一気に電子化しておく。

   *

 鶯は、詩(ふみ)などにもめでたきものにつくり、聲よりはじめて、樣(さま)、かたちも、さばかりあてにうつくしきほどよりは、九重(ここのへ)のうちに鳴かぬぞ、いとわろき。人の「さなむある」と言ひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかりさぶらひて、聞きしに、まことに、さらに音(ね)せざりき。さるは、竹ちかき紅梅も、いとよくかよひぬべきたよりなりかし。まかでてきけば、あやしき家の見所(みどころ)もなき梅の木などには、かしがましきまでぞ鳴く。夜鳴かぬも寢(い)ぎたなき心地すれども[やぶちゃん注:お寝坊さんという感じがするけれど。]、今はいかがせむ。夏、秋の末まで、老い聲(ごゑ)に鳴きて、「蟲喰ひ」など、ようもあらぬ者は、名をつけかへて言ふぞ、くちをしく、くすしき心地する[やぶちゃん注:そんな風に呼ぶのは、何ともはや、お洒落じゃないわ。]。それもただ、雀などのやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春鳴くゆゑこそはあらめ。「年たちかへる」[やぶちゃん注:「拾遺和歌集」の「巻第一 春」の素性法師の「延喜御時、月次御屛風に」の前書を持つ歌「あらたまの年立ち歸る朝(あした)より待たるるものは鶯の聲」(五番)を指す。]など、をかしきことに、歌にも詩(ふみ)にも作るなるは。なほ、春のうちならましかば、いかにをかしからまし。人をも、人げなう、世のおぼえ、あなづらはしうなりそめにたるをば[やぶちゃん注:人間でも、落魄(おちぶ)れて、世間からも、見下されるようになってしまった人のことを。]、そしりやはする[やぶちゃん注:反語。]。鳶・烏などのうへは、見入れきき入れなどする人、世になしかし。されば、いみじかるべきものとなりたれば、とおもふに、心ゆかぬ心地するなり[やぶちゃん注:晩年の惨めさがどうにも納得できない気がするの。]。祭のかへさ見るとて、雲林院(うりんゐん)・知足院などの前に車を立てたれば、郭公(ほととぎす)もしのばぬにやあらむ、鳴くに、いとようまねび似せて、木高(こだか)き木どもの中に、諸聲(もろこゑ)になきたるこそ、さすがにをかしけれ。

   *

当時、老いさらばえたウグイスの無惨な鳴き声を出すのを、下々の者がえげつなく「蟲喰ひ」と呼んでいたというのは事実であろうから、清少納言の記載は民俗社会的に貴重なのであるが(以上が「ムシクヒ」という鳥の名が文献に出る嚆矢と考えられている)、一方で、「ムシクイ」は別種を指す語だというここでも良安の批判も、これはこれで博物学的に正しいということになる。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 報告

 

        報  告

 

さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました

もう一時間もつづいてりんと張つて居ります

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月十五日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿や「手入れ本」に異同なしで特異点。松井潤ブログHarutoShura本詩篇の解説に『物理学者、斎藤文一氏の研究などによると、この』創作日には、午後三時二十分頃から一『時間ほど、虹が架かった。とくに午後』三時二十分頃には、『主虹の最上部の赤いところが』、『東方の山並みに低くかかって、遠い山火事のように見えたと推定されるそうだ』。『このような地上の近くに低くかかる虹は珍らしく「火事だとさわぎ」になるほどの驚くべき光景だったのだろう。まさに「報告」に値するものだ』とある。

「りんと」「凜と・凛と」で、様態が凛々(りり)しく、引き締まっているさま。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 靑い槍の葉 (mentalsketchmodified)

 

Aoiyarinha

 

            

            (mentalsketchmodified

 

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

雲は來るくる南の地平

そらのエレキを寄せてくる

鳥はなく啼く靑木のほづえ

くもにやなぎのかくこどり

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

雲がちぎれて日ざしが降れば

黃金(キン)の幻燈(げんたう) 草(くさ)の靑

気圏日本のひるまの底の

泥にならべるくさの列

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

雲はくるくる日は銀の盤

エレキづくりのかはやなぎ

風が通ればさえ冴(ざ)え鳴らし

馬もはねれば黑びかり

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

雲がきれたかまた日がそそぐ

土のスープと草の列

黑くおどりはひるまの燈籠(とうろ)

泥のコロイドその底に

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

りんと立て立て靑い槍の葉

たれを刺さうの槍ぢやなし

ひかりの底でいちにち日がな

泥にならべるくさの列

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

雲がちぎれてまた夜があけて

そらは黃水晶(シトリン)ひでりあめ

風に霧ふくぶりきのやなぎ

くもにしらしらそのやなぎ

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

りんと立て立て靑い槍の葉

そらはエレキのしろい網

かげとひかりの六月の底

気圏日本の靑野原

  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)

 

[やぶちゃん注:●副題「(mentalsketchmodified)」の単語に字空きがなく、全部が繋がっているのはママ。しかも実はこの状態で百八十度引っ繰り返した状態が底本のそれである。則ち、上下(底本日本語文字列で言うなら左右)が逆になっている、アルファベットの上が左側を向いているのである。流石にこれは私のブログでは電子化は出来ないので、冒頭に画像百二十ページ目のみを掲げた。原稿は正立(アルファベットの上が右向き)でちゃんと「mental sketch modified」と単語の字空けがなされてあるから、反転も空け無しも誤植である(但し、「正誤表」にもなく、何故か「手入れ本」にも修正がない)。なお、「mental sketch modified単品詩篇「春と修羅」に既出既注であるが、丸ごと、再掲しておく。これは概ね「修飾された心象スケッチ」と訳されているようだが、しかしどうも、この「修飾された」というのは判ったようで判らない表現ではないか? そもそもが「修飾」という語は我々には辛気臭い強制学習させられた文法用語に「修飾」のイメージが強過ぎて、ピンとこないし、何となく敬遠したくなるのだ(少なくとも私はそうだ)。例えば私は「修飾」を中身がないのに外見を飾る虚飾というニュアンスを以って意地悪く使用することが殆んどで、「修飾が上手い」と言って褒めたことも人生の中で一度だってない(「修飾の仕方がおかしい」という言い方は論文指導で盛んに使いはした)。寧ろ、「飾り直された心象スケッチ」の方が、まだしっくりくる。或いは、「正確に」或いは「美的に」或いは「真に詩的に」「修正を施した心象スケッチ」の方が私には腑に落ちる。「心象のはいいろはがね」が錬金され、怒りと憎しみによる闘争心に明け暮れ、目くるめく火炎と血と肉に彩られた、素敵に慄っとする「修羅」の熱の悪夢に魘された景観(ランドマーク)へと世界が変じてゆく……と、ここまでそう書いてきて、今、さらにネットを調べて見たところが、濱田節子氏の『宮沢賢治「春と修羅」解析』を見つけた。私はその冒頭にある、『詩は一見自由奔放なスケッチに見えるが、熟慮された構想のうえにその手段としての心理的トリックを駆使した世界観の呈示である。「二重の風景」は、風景を Landscape で考えるのでなく、a view, a sight, つまり、考え方・見識と解釈すべきだと思う』。すなわち、『「二重の考え方」である。これは単純に伏線と考えるべきものでなく、時間・空間にたいする認識、「死」という不可逆な方向性とその連鎖の相互関係のなかで未来を模索する実験なのである』。『"mental sketch modified"というのは「考え方の草案をつくるのに修正(変更)されたもの」という意味だと思う』とあるのに最も従える気がしたことを言い添えておく。

・「泥のコロイドその底に」宮澤家「手入れ本」では、

 泥の澱みのその底に

と変えてある。

 本書に初めて現われる定型詩(歌詞)で、三/三/七の合いの手のリフレインの間に七七/七五/七七/七五の四行が挟まる。七連(番)で構成された「歌」、「田植え唄」としての労働歌(ワーク・ソング)である(以下の初出を参照)。

 本詩篇は本書刊行以前に、宗教団体「國柱會」の機関紙『天業民報』(てんぎょうみんぽう:日刊。後に『大日本』・『真興』・『真世界』と誌名を変更して現在に至る)の大正一二(一九二三)年八月六日附に掲載されている(本書刊行の八ヶ月前)。創作は大正一一(一九二二)年六月十二日とする。本書後尾の「目次」の創作クレジットを示す表示は、先行する詩篇「春と修羅」「眞空溶媒」と同様、他の詩篇のそれの丸括弧でなく、二重丸括弧のそれで『⦅一九二二、六、一二⦆』(実際には漢字と読点は半角)となっているその『天業民報』初出形(殆んど異同はない)を示す(全集の挿絵にある同紙の写真から起こした。所謂、新聞であるから、一行字数に限りがあるため、改行が多数行われているが、それも再現した(リフレインの最初の提示部は読点を全角で入れてあるが、後は半角にしているために最初のそれだけが送りが異なっている)。副題の「插秧歌」は音なら「そうえいか」であるが「插秧」は田植えのこと(「秧」は「稲や草木の苗(なえ)と」の意)であるから、ここは「たうえうた」と読むべきであろう。言わずもがな、「靑い槍の葉」は植えた稲の苗の緑の小さな葉先がそれでも力いっぱい鋭く蒼穹を刺すさまを表わしている。

   *

 

 靑い槍の葉插秧歌

    宮 澤 賢 治

(ゆれる、ゆれる、やなぎは

 ゆれる。)

雲(くも)は來(く)る來(く)る、南(みなみ)の地平(ちへい)、

そらのエレキを寄(よ)せて來(く)る、

鳥(とり)はなく啼(な)く 靑木(あをき)のほずえ、

雲(くも)の楊(やなぎ)のかくこ鳥(どり)。

(ゆれる、ゆれる、やなぎはゆ

 れる。)

雲(くも)がちぎれて 日(ひ)ざしが降(ふ)れば

黃金(きん)の幻燈(げんとう) 草(くさ)の靑(あを)、

氣圈(きけん)日本(にほん)の ひるまの底(そこ)の、

泥(どろ)にならべる 草(くさ)の列(れつ)。

(ゆれる、ゆれる、やなぎはゆ

 れる。)

雲(くも)は來(く)る來(く)る、日(ひ)は銀(ぎん)の盤(ばん)、

エレキづくりのかはやなぎ、

風(かぜ)が通(とほ)れば 冴(さ)え冴(さ)え鳴(な)らし、

馬(うま)もはねれば 黑(くろ)びかり。

(ゆれる、ゆれる、やなぎはゆ

 れる)

雲(くも)が切(き)れたかまた日(ひ)がそゝぐ、

泥(どろ)のコロイド その底(そこ)に、

黑(くろ)くおどりは ひるまの燈籠(とうろう)、

土(つち)のスープを 吞(の)むからす。

(ゆれる、ゆれる、やなぎはゆ

 れる)

りんと立(た)て、立(た)て靑(あを)い槍(やり)の葉(は)、

誰(たれ)を刺(さ)さうの 槍(やり)ぢやなし、

ひかりの底(そこ)で いちにちひがな

泥(どろ)にならべる 槍(やり)の列(れつ)。

(ゆれる、ゆれる、やなぎはゆ

 れる。)

雲(くも)がちぎれて また夜(よ)があけて

そらは黃水晶(しとりん) 日(ひ)でりあめ、

ふつといきつくぶりきのやなぎ

雲(くも)にしらしら そのやなぎ、

(ゆれる、ゆれる、やなぎはゆ

 れる)

りんと立(た)て立(た)て 靑(あを)の槍(やり)の葉(は)、

そらはエレキの 白(しろ)い網(あみ)、

かげとひかりの 六月(ぐわつ)の底(そこ)、

氣圈(きけん)日本(にほん)の 靑野原(あをのはら)。

(ゆれる、ゆれる、やなぎはゆれる。)

 

   *

「國柱會」(こくちゅうかい)については小学館「日本大百科全書」から引いておく(読みの一部を省略した)。『日蓮主義による在家仏教教団』。明治一三(一八八〇)年に『田中智学が横浜に組織した蓮華会に端を発し』、明治一七(一八八四)年結成した立正安国会を経て、大正三(一九一四)年、『組織を全国的に統一、静岡県三保に最勝閣正境宝殿を建立して本拠とし、国柱会が創始された。名称は、日蓮の著『開目抄』にある「われ日本の柱とならん」に由来する。創始以来、『妙宗(みょうしゅう)』『天業民報』『大日本』など』の『機関紙を発行し、文筆による伝道活動を活発に行ったが、その主張は、日蓮聖人を末法における人類救済のために必要不可欠な唯一者として仰ぎ、『法華経』を信行(しんぎょう)、日本国体を開顕し、立正安国の真世界を目ざすことにあり、在家仏教の立場から仏教改革を提唱、実践している』。昭和三(一九二八)年には、『東京・江戸川一之江に妙宗大霊廟を建立して本部(申孝園(しんこうえん))を置くに至ったが、この間、山川智応』や『伊勢丹創業者の初代小菅丹治(こすげたんじ)』『らも』、『内外から教勢の発展に努めた。著名な会員に石原莞爾』や『宮沢賢治らがいる。第二次世界大戦後も、機関紙による文書伝道の伝統を守って運動を展開している』信者数は一万八千九百七十四名(「宗教年鑑」平成二六(二〇一四)年版に拠る)。

「そらのエレキを寄せてくる」本篇では「エレキ」は重要なアイテムで、呪文のように詩篇を三箇所(後の「エレキづくりのかはやなぎ」と「そらはエレキのしろい網」で感電的にきりっとさせる効果を持つ。しかも、これは雷雲内の雷電などの物理的電気ではなく、マジックとしての「エレキテル」、所謂、電磁気のように、見えない電気が磁気を発生させて物体を「寄せてくる」ような〈幻想の磁気〉(それは空「はエレキの」白「い網」と表現した部分とマッチする。これは単に本篇の核ワードの一つである「雲」の言い換えに留まらない、もっと宇宙的(コズミック)なものである)として読まれるように作られている。その霊的な時期は「啼く」鳥を「靑木のほづえ」(「靑木」は青々とみずみずしく豊かに茂っている木という一般名詞でよい。ガリア目ガリア科アオキ属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica では余りに低過ぎて、以下の」「しずえ」と齟齬してしまう)「上枝」「秀づ枝」。「つ」は格助詞「の」の意で「上の方の枝」(反対語は「下枝 (しずえ)」。これを題に引かれて稲の苗の「穂の末」や「穂先」とする注をネット上には多く見かけるが、それでは「靑木」が無効となってしまう)に引き「寄せてくる」し、「くも」(雲)を呼び、「やなぎ」(柳・楊)に「かくこどり」(郭公鳥。カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)をも引き「寄せてくる」、或いはリフレインで「やなぎ」が揺れ続けるのもこの霊的な磁場によるものなのかも知れぬ。「エレキづくりのかはやなぎ」の「かはやなぎ」は川柳、キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gilgiana のことと思われるが、これは童話「鳥をとるやなぎ(「風の又三郎(村童スケツチ」所収。推定で大正一一(一九二二)年の作。リンク先は渡辺宏氏のもの)にも『煙山の野原に鳥を吸い込む楊の木があるって。エレキらしいって云ったよ』と登場するから、以上の解釈を補強するものである。

「黃金(キン)の幻燈(げんたう)」陽光が水田の田の面(も)に反射するイメージか。

「土のスープ」水田の豊饒な泥水。

「黑くおどりはひるまの燈籠(とうろ)」これも陽光が水田の泥水のコロイド粒子に乱反射するイメージであろう。

「そらは黃水晶(シトリン)ひでりあめ」「黃水晶」は「きずいしょう」で「citrinecitrine quartz:シトリン・クォーツ」。黄色みを帯びた水晶のことであるが、ここは翌日の空模様が不安な黄色を帯びたものであって、少し雨がぱらついたものの、同時に陽も射していて「日照り雨」、「狐の嫁入り」なのである。

「風に霧ふくぶりきのやなぎ」霊的磁気を放射するために「ブリキ」と言ったものであろう。

「りんと」「凜と・凛と」で、様態が凛々(りり)しく、引き締まっているさま

気圏日本の靑野原」あたかも今の衛星写真のような俯瞰ショットの、大気圏外からの秋津島の映像が、如何にも新鮮ではないか!

絶望

私は、後、唯一人だけ、村上昭夫の詩を全電子化するのだけを、楽しみにして生きてきた……しかし、遂に来たるTPPの発効によって、その切なる夢は無惨に潰えることとなった……これは実に私の今年の最後の最大最悪の事件となるのだ…………

和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)

 

Hototogisu

ほとゝきす  子規 杜宇

       蜀魂 子嶲

       鶗鴂 陽雀

杜鵑

       怨鳥周燕

卜ウ ケエン  催歸

本綱杜鵑狀如雀鷂而色慘黑赤口有小冠春暮卽鳴夜

啼達旦鳴必向北至夏尤甚晝夜不止其聲哀切田家候

之以興農事惟食蟲蠧不能爲巢居他巢生子冬月藏蟄

蜀王本紀云爲蜀望帝淫其臣鱉靈妻乃禪位亡去時此

鳥鳴故蜀人見杜鵑鳴而悲望帝其鳴如曰不如歸歳時

記云此鳥初鳴先聞者主別離學其聲令人吐血登厠聞

之不祥厭法但作狗聲應之又云三月三日杜鵑初鳴至

商陸子熟乃止蓋商陸不熟之前正杜鵑哀鳴之候五雜

組云有謝豹蟲以羞死見人則以足覆靣如羞狀是蟲聞

杜鵑聲則死故謂杜鵑亦曰謝豹轉借以爲名矣然不言

其蟲之形狀 万葉鶯の卵の中の霍公鳥ひとりうまれて【下畧】

按【保度度木須】 𪇖𪈜 郭公 霍公鳥 時鳥【万葉集和名抄及本

 朝古者多用此等之字皆謬矣】杜鵑狀類雀鷂而色灰黑腹白有鷹彪

 翅羽亦有白斑口中赤頭有小冠毛脛掌蒼色其前指

 二有連膜後趾二與諸鳥異矣季春鳴聲如曰本尊掛

 歟至夏最甚至初秋聲止冬月則蟄于深山中毎食蟲

 蠧但不能營巢窺鶯之虛巢借生卵凡鶯卵四或五杜

 鵑卵只二也人畜之在樊中乃不鳴冬月不育故難畜

 京洛近處多有之以爲哀愁之鳥然歌人喜聞初鳴聲

 此與歳時記之

肉【甘平】 味有臊氣不佳或云燒末服之能治痘疹熱毒

ほとゝぎす  子規 杜宇〔(とう)〕

       蜀魂 子嶲〔(しすい)〕

       鶗鴂〔(ていけつ)〕 陽雀

杜鵑

       怨鳥 周燕

卜ウ ケエン  催歸

「本綱」、杜鵑、狀、雀-鷂〔(つみ)〕のごとくして、色、慘〔(くら)き〕黑なり。赤口〔(あかぐち)〕にして、小冠、有り。春の暮れ、卽ち、鳴き、夜、啼きて、旦〔(あした)〕に達す。鳴くこと、必ず、北に向く。夏に至り、尤も甚だし。晝夜、止まず。其の聲、哀切なり。田家、之れを候〔(ま)ちて〕、以つて農事を興す。惟だ、蟲・蠧〔(きくひむし)〕を食ひ、巢を爲す能はず、他の巢に居て、子を生ず。冬月、藏蟄〔(ざうちつ)〕す。「蜀王本紀」に云はく、『蜀の望帝、其の臣鱉靈〔(べつれい)〕が妻に淫するが爲に、乃〔(すなは)ち〕位を禪〔(ゆず)〕り、亡去〔(ばうきよ)せ〕る時、此の鳥、鳴く。故に蜀人〔(しよくひと)〕、杜鵑の鳴くを見て望帝を悲しむ。其の鳴くこと、「不如歸」と曰ふがごとし』〔と〕。「歳時記」に云はく、『此の鳥、初めて鳴くときは、先づ、聞く者、別離することを主〔(つかさど)〕る。其の聲を學べば、人をして血を吐かしむ。厠(〔かは〕や)に登〔(い)りて〕之れを聞くときは不祥なり。厭(まじなひ)の法に〔は〕、但〔(た)〕だ、狗の聲を作〔(な)〕して之れに應ずべし』〔と〕。又、云はく、『三月三日、杜鵑、初めて鳴き、商陸子(やまごばうのみ)、熟すに至りて、乃〔(すなは)〕ち、止む。蓋し、商陸〔(やまごばう)〕熟さざるの前は、正に、杜鵑、哀鳴〔(あいめい)〕の候なり。「五雜組」に云はく、『謝豹蟲〔(しやへうちゆう)〕有り。羞づを以つて死す。人を見れば、則ち、足を以つて靣〔(おもて)〕を覆ひ、羞づる狀のごとし。是の蟲、杜鵑の聲を聞けば、則ち、死す。故に「杜鵑」を謂ひて、亦、「謝豹」曰ふ。轉借して以つて名と爲す』〔と〕。然れども、其の蟲の形狀を言はず。

「万葉」
  鶯の卵の中の霍公鳥〔(ほととぎす)〕ひとりうまれて【下畧。】

按ずるに【「保度度木須」。[やぶちゃん注:以下の漢字熟語は総て「ほととぎす」と訓ずる。]】 𪇖𪈜。郭公。霍公鳥。時鳥【「万葉集」・「和名抄」、及び、本朝の古へは、多く、此れ等の字を用〔ふれども〕、皆、謬〔(あやま)りなり〕。】。杜鵑の狀〔(かたち)〕、雀鷂〔(つみ)〕に類して、色、灰黑。腹、白〔にして〕鷹〔の〕彪〔(ふ)〕有り。翅-羽〔(はね)〕にも亦、白斑有り。口中、赤く、頭、小〔さき〕冠毛、有り。脛・掌は蒼色、其の前の指二つ、連〔なれる〕膜、有り、後趾二つ〔も〕諸鳥と異な〔れ〕り。季春、鳴く聲、「本尊掛けたか(ほ〔ん〕ぞんかけたか)」と曰ふがごとし。夏に至りて最も甚だし。初秋に至りて、聲、止む。冬月、則ち、深山の中に蟄〔(すごもり)〕す。毎〔(つね)〕に蟲・蠧〔(きくひむし)〕を食ふ。但し、巢を營〔(つく)〕ること能はず、鶯の虛〔(から)の〕巢を窺ひ、借りて卵を生む。凡そ、鶯は、卵、四つ或いは五つ、杜鵑の卵は只だ二つなり。人、之れを畜〔(か)〕ふに、樊〔(かご)〕の中に在れば、乃ち、鳴かず。冬月、育たず。故に畜ふは難〔(かた)〕し。京洛〔の〕近〔き〕處に、多く、之れ有り。以つて「哀愁の鳥」と爲す。然〔れども〕、歌人〔は〕初めて鳴く聲を聞くことを喜び、此れ、「歳時記」のと異な〔れ〕り。

肉【甘、平。】 味、臊〔(なまぐさ)き〕氣〔(かざ)〕有りて佳ならず。或いは云はく。燒〔きて〕末にして之れを服〔せば〕、能く痘疹〔(とうしん)〕の熱毒を治すと。

[やぶちゃん注:カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalusウィキの「ホトトギス」より引く。『全長は』二十八センチメートル『ほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウ』(カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)『やツツドリ』(カッコウ属ツツドリ Cuculus saturatus)『よりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある』。『アフリカ東部、マダガスカル、インドから中国南部までに分布する』。『インドから中国南部に越冬する個体群が』五『月頃になると中国北部、朝鮮半島、日本まで渡ってくる。日本では』五『月中旬ごろにくる。他の渡り鳥よりも渡来時期が遅いのは、托卵の習性のために対象とする鳥の繁殖が始まるのにあわせることと、食性が毛虫類を捕食するため、早春に渡来すると餌にありつけないためである』(下線太字やぶちゃん)。『日本へは九州以北に夏鳥として渡来するが、九州と北海道では少ない』。『カッコウなどと同様に食性は肉食性で、特にケムシを好んで食べる。また、自分で子育てをせず、ウグイス』(スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone)『等に托卵する習性がある』(托卵については「林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」で詳述したので、参照されたい)。『オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッ キョキョキョキョ!」と聞こえ、「ホ・ト・・ト・ギ・ス」とも聞こえる。早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。この鳴き声の聞きなしとして「本尊掛けたか」や「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られる』。『ホトトギスの異称のうち』、『「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し』、『帝王となり』、『「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去』(ゆ)『くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった』。『日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古今ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに『万葉集』では』百五十三『例、『古今和歌集』では』四十二『例、『新古今和歌集』では』四十六『例が詠まれている。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い』として、「千載和歌集」後徳大寺左大臣実定(保延五(一一三九)年~建久二(一一九二)年)の、

ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明(ありあけ)の月ぞ殘れる

と芭蕉の友人山口素堂(寛永一九(一六四二)年~享保元(一七一六)年)の知られた一句、

目には靑葉山ほととぎす初鰹

を掲げる。『他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。『枕草子』ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれる』。『平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。松尾芭蕉もこの字を用いている』。『宝井其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。ホトトギスは美しい声で鳴くが』、『醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指す』。『万葉の時代から「ウグイスの巣に卵を産んで育てさせる」という託卵の習性が知られる一方、時代や地域によってはカッコウあるいはウグイスと混同されている例もある』。よく聴く例の天下人三人の詠んだとされる『句では』、『鳴き声を愛でる鳥すなわちウグイスであるとの考え方も一般的である。従って作品中に「ホトトギス」とある場合でも、季節や時間帯によっては注意が必要となる』。『江戸時代から「厠(かわや)の中にいるときにホトトギスの声を聞くと不吉である」という言い伝え、迷信が日本各地に伝わっているが、この出典は『酉陽雑俎』および『太平広記』である』と、本文内の幾つかの記載とも繋がっているが、望帝の話は「華陽国志」に拠るもので、良安の言っている「蜀王本紀」(前漢の四川の学者揚雄作とされる秦に征服される以前の古代の「蜀」王国に関する史書であるが、偽作とされるは(ウィキの「望帝杜宇」から引く)、『男子の杜宇は天より落ちてきて、朱提に留まった。江源の井戸の中から出てきた利という女子を妻に娶った。その後、自立して王となった。その称号を望帝と称した。汶山の小さい県を治め、そこは郫』(ひ)『と言われ、人々の往来が激しかった』。『望帝は年を重ねて百歳あまりとなった。荊州で鱉霊という男が死んだが』、『その死体が無くなってしまった。荊人はこれを探したが、見つけることができなかった。鱉霊の死体は江水に沿って上流へ向かい、郫に至って遂にそこで生き返った。望帝に謁見し、望帝は鱉霊を相とした。その頃、玉山で』、『まるで堯の時のような洪水があり、望帝は治めることができなかった。鱉霊を玉山へ派遣したところ』、『民は安寧を得ることができた』。しかし、『鱉霊が治水の為に出かけていた間、望帝は鱉霊の妻と密通した。帝はこれを深く後悔し、自ら徳が薄く、鱉霊のようではないと知り』、『国を委ねて授け去った』。『堯が舜に禅譲したように、鱉霊が即位した。開明帝と号した』とあるのに基づいているのである。

「雀-鷂〔(つみ)〕」タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis。同属はタカ目タカ科の中では最も小さい体型のグループで、アジア東部の中緯度地方で繁殖し、冬は中国南部・マレー諸島・フィリピンまで渡るが、南日本で越冬するものいる。本邦では、平地や低山帯の森林で繁殖し、専ら、林の中を飛びながら、小鳥を空中で捕まえる。同属のハイタカ(ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus)よりも小型で、全長はが約二十六センチメートル、で約三十センチメートルと、ハイタカのように、の方がよりも一回り、大きい。雌雄とも上面は暗灰青色であるが、下面はが淡赤褐色、が白と黒の横縞で、一見すると別種のように見える(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「田家」農家。

「蟲・蠧〔(きくひむし)〕」これは狭義の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類ではなく、ヨシなどの茎に寄生して食害する虫類(或いはその幼虫)を指していると思われる。

「藏蟄〔(ざうちつ)〕」巣籠り。

「禪〔(ゆず)〕り」禅譲し。

「亡去〔(ばうきよ)せ〕る時」亡くなった時。

「歳時記」「荊楚(けいそ)歳時記」。中国南方の荊楚地方(長江中流域。現在の湖北省及び湖南省)の年中行事を記した月令(がつりょう:月毎の自然現象・行事・儀式・農作業などを記したもの。「時令(じれい)」とも称し、古代の制度・習俗や農業技術を知る上で重要)の一種で、梁の宗懍(そうりん)によって書かれ、隋の杜公瞻(とこうせん)によって注釈が加えられたもの。全一巻。

「先づ、聞く者、別離することを主〔(つかさど)〕る」一番初めにそれを聴いてしまった者は、近々何ものかと別離をする予兆である。

「其の聲を學べば、人をして血を吐かしむ。」人が軽率にも、その初音の鳴き声を真似する時は、直ちにその人に血を吐かせる(病いを齎す結果となる)。

「厠(〔かは〕や)に登〔(い)りて〕之れを聞くときは不祥なり」便所に入っている最中にその初音を聴いてしまった時は、身に不吉なことが起こる。

「厭(まじなひ)の法に〔は〕」その不祥を避けるには。

「但〔(た)〕だ、狗の聲を作〔(な)〕して之れに應ずべし」ただ、犬の鳴き声を真似して応じるだけでよい。

「商陸子(やまごばうのみ)」本邦の山菜としての「山牛蒡」とは、モリアザミ(キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium
dipsacolepis
)・オニアザミ(アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense)・オヤマボクチ(雄山火口:キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ Synurus pungens:和名は茸毛(じょうもう:葉の裏に生える綿毛状のもの)が嘗ては火起こし時の火口(ほくち)として用いられたことに由る)・ヤマボクチ(山火口:ヤマボクチ属ヤマボクチ Synurus palmatopinnatifidus var. indivisus)の根、及び、本物のキク目キク科ゴボウ属ゴボウ Arctium lappa
(余り知られていないの言っておくと、本種ゴボウは紫色のアザミによく似た、総苞に棘のある花を咲かせる)の根の通称総称である。しかし、アザミ類の開花期を考えてみても容易に分かる通り、これらの種子が熟すのは夏で、おかしい。そこで調べて見ると、まず、現在、ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡/アメリカヤマゴボウ) Phytolacca americana なる種が本邦に自生するが、別名に見るようにこれは北アメリカ原産で、明治初期以降に各地で繁殖した帰化植物であって、タクソンで判る通り、先の「山牛蒡」類との類縁関係はない。しかも、このヨウシュヤマゴボウは全草有毒で(果実を含む。特に種子の毒性は高い。アルカロイドのフィトラッカトキシン(phytolaccatoxin)、サポニンのフィトラッカサポニン(phytolaccasaponins)、アグリコンのフィトラッキゲニン(phytolaccigenin)などが主成分で、根には硝酸カリウム(KNO3)が多く含まれる)、誤食すると強い嘔吐や下痢を発症し、重篤なケースでは中枢神経麻痺から痙攣・意識障害へ進み、呼吸障害・心臓麻痺によって死に至ることもあるので注意が必要である(ここはウィキの「ヨウシュヤマゴボウ」に拠る)。だが、この良安の記載は「荊楚歳時記」からの引用(ややこしい部分があるのでこの注の最後に再度、注する)である。さらに既に察せられたと思うが、以上の有毒成分は当然、漢方の生薬に転じる感じがする。そこで「商陸子」「商陸」を調べると、やっぱりだブログ「健康食品辞典」の「商陸」に、『中国を原産とし』、『日本でも野生化しているヤマゴボウ科の大型多年草ヤマゴボウ(Phytolacca esculenta)の根を用いる。ヨウシュヤマゴボウ( P.americana )のほうがよく見られるが、この根は美商陸という』(ここに『ヤマゴボウの葉は食用にされるが、多量に食べないほうがよい』と続くが、素人判断は危険。以下、『漬け物で「やまごぼう(山牛蒡)」と称されているものは、キク科のモリアザミなどの根を漬けたもので、ヤマゴボウとはまったく別の植物である』とも言い添えてある)。『根には多量の硝酸カリウムや有毒な配糖体のフィトラッカトキシン』phytolaccatoxin)・サポニンであるフィトラッカサポニン(phytolaccasaponin『が含まれる。硝酸カリウムには利尿作用があり、古くから利尿薬として利用されてきた。しかし、有毒成分のフィトラッカトキシンのため、食べると嘔吐や下痢が出現し、さらには中枢神経麻痺から痙攣、意識障害が生じ、ひどければ』、『呼吸障害や心臓麻痺により』、『死亡することもある』(前掲の通り)。『漢方では』逐水・消腫の『効能があり、水腫、腹水、脚気、腫れ物などに用いる。逐水とは瀉下と利尿作用で腹水や胸水、浮腫などを治療することである』。『全身性浮腫を伴う喘息症状には木通・沢瀉などと配合する(疏鑿飲子)。肝硬変などによる腹水に牡蠣・沢瀉などと配合する(牡蠣沢瀉散)。ただし』、『毒性が強いため、慎重に投与する必要がある』。『外用として新鮮な商陸に塩を加えてつきつぶしたものを頑固な腫れ物に用いる。アメリカではヨウシュヤマゴボウの根を扁桃炎や耳下腺炎、乳腺炎、水腫などの治療に用いていたといわれる』とあり、これによって「商陸子」「商陸」は本邦の食用として出回っている「山牛蒡」ではなく、有毒植物であるナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属 Phytolacca の「ヤマゴボウ」類であることが確定する。同属は世界で三十五種あるが、本邦では帰化したものを含めて以下の三種が自生する。

ヤマゴボウ Phytolacca esculenta(中国原産)

マルミノヤマゴボウ Phytolacca japonica(日本在来種(関東以西・四国・九州。他に台湾・中国等に分布)であるが、調べてみると、これも根に硝酸カリウムを含むので危険

ヨウシュヤマゴボウ Phytolacca americana(北アメリカ原産)

因みに、サイト「三河の植物観察」のこちらで、在来種のマルミノヤマゴボウ(丸実の山牛蒡)の画像を見てみたら、家の裏山でも見かけたことがあるものであった。因みに、ヨウシュヤマゴボウの全草を食べてしまうという危険がアブナい実験をされている「ざざむし。」氏のブログ「ざざむし」(ここはずっと以前に何度か訪ねたのを思い出した)の「有毒なヨウシュヤマゴボウを上から下まで食べ尽くしてみる」も見られたい(しかし真似はなさらぬがよろしい)。なお、中文サイトの「荊楚歳時記」を調べてみたが、この記載は見当たらなかった。ところが、後に出る、「五雜組」で試しに検索してみたところが、瓢簞から駒! 「巻十 物部二」に、

   *

陸、商陸也。下有死人、則上有商陸、故其根多如人形、俗名樟柳根者是也。取之之法、夜靜無人、以油炙梟肉祭之、俟鬼火叢集、然後取其根、歸家以符煉之、七日卽能言語矣。一名夜呼、亦取鬼神之義也。此草有赤、白二種、白者入藥、赤者使鬼。若誤服之、必能殺人。又「荊楚時記」、「三月三日、杜鵑初鳴、田家候之。此鳥晝夜鳴、血流不止、至商陸子熟、乃止。」。蓋商陸未熟之前、正杜鵑哀鳴之候、故稱夜呼也。

   *

とあった!

「五雜組」既出既注。「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以下は、「巻九 物部一」に以下のように載る。

   *

謝豹、蟲也。以羞死、見人則以足覆面如羞狀。是蟲聞杜鵑聲則死。故謂杜鵑亦曰謝豹。而鵑啼時得蝦、曰謝豹。蝦。賣筍曰謝豹筍、則又轉借以爲名、其義愈遠矣。一云、「蜀有謝氏子、相思成疾、聞子規啼、則怔忡若豹。因呼子規爲謝豹。」。未知是否。

   *

「謝豹蟲」不詳。堀麦水著の加賀・能登・越中の奇談集「三州奇談」正編(宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃成立)巻之二「土下狗龍」に、老女を食い殺した家の地下に穴を掘って潜んでいた獣にを掘り出して打ち殺したが、その獣は狸に似ていたが、声は出せない獣とし、ある人は「『シタヌキ』というものである」と言ったが、感じは概ね「うごろもち(土豹)[やぶちゃん注:モグラ。]にして狗(いぬ)」のようなものであるとあり、ある好事家は、「狗龍と云ふものにて、是れが雛を謝豹蟲といふ」と答えている。「謝豹蟲は日出れば死すと聞へしが、年經ては堅剛に成りて死せざり物にや。又は是れ、別物成るや」と言っているのを見つけた程度だ。良安の言うように(末尾の「然れども、其の蟲の形狀を言はず」は良安の附言)、具体的な形状・生態が中国の本草書等には書かれていない、得体の知れぬ怪しい虫(動物)である。知りたい。

「羞づを以つて死す」顔形を見られると、恥じて死ぬ。

「万葉」「鶯の卵の中の霍公鳥〔(ほととぎす)〕ひとりうまれて」「万葉集」巻第九「雑歌(ぞうか)」の「高橋虫麻呂歌集」に載る(一七五五・一七五六番)、以下。

   霍公鳥(ほととぎす)を詠める一首
   幷(あは)せて短歌

鶯の 生卵(かひこ)の中に 霍公鳥 獨り生まれて 己(な)が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯(う)の花の 咲きたる野邊(のへ)ゆ 飛び翻(かけ)り 來(き)鳴き響(とよ)もし 橘(たちばな)の 花を居(ゐ)散らし 終日(ひねもす)に 鳴けど聞きよし 幣(まひ)はせむ 遠くな行きそ 我が屋(やど)の 花橘(はなたちばな)に 住み渡れ鳥

   反歌

かき霧(き)らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥

「幣(まひ)はせむ」は「捧げ物(贈り物)をするから」の意。

「杜鵑の卵は只だ二つなり」これは誤りホトトギスが托卵するのは一つの巣に対し、常に一卵である。万一、二卵あった場合は、別のホトトギスが時間差で産み入れたと見るべきものである(加藤昌宏神戸の野鳥観察記に拠った)。

「歌人〔は〕初めて鳴く聲を聞くことを喜び」東洋文庫版訳では注で、「新古今和歌集」の柿本人麻呂の一首(一九〇番)、

鳴く聲をえやは忍ばぬ郭公(ほととぎす)初卯(はつう)の花の陰に隱れて

と、「拾遺和歌集」の大中臣輔親(おおなかとみのすけちか 天暦八(九五四)年~長暦二(一〇三八)年)の(一〇七八番)、

足引(あしひき)の山郭公(やまほととぎす)里馴(さとな)れてたそがれ時に名のりすらしも

を例として揚げている(「足引(あしひき)の」は「山」の枕詞)。しかし前者は出典未詳で、私は人麻呂の歌とは思わない。後者は、「今昔物語集」の「巻第二十四」の「祭主大中臣輔親郭公讀和歌語第五十三」(祭主大中臣輔親、郭公(ほととぎす)を和歌に讀む語(こと)第五十三:「祭主」は伊勢神宮の神官の長を指す)の冒頭の即詠の誉れのエピソードで知られる一首。短いので載せておく。

   *

 今は昔、御堂の大納言[やぶちゃん注:藤原道長。]にて、一条殿に住ませ給ひける時、四月の朔(ついたち)の比(ころほひ)、日、漸く暮れ方(がた)に成りにけるに、男共(をのこども)を召して、「御隔子(みかうし)參れ」と仰せられければ、祭主の三位(さむゐ)輔親が勘解由(かげゆ)の判官(はうがん)にて有りけるが參りて、御簾(みす)の内に入りて御隔子を下(おろ)す程に、南面の木末(こずゑ)に、珍しく郭公の一音(ひとこゑ)鳴きて過ぎければ、殿、此れを聞し食(め)して、「輔親は此の鳴く音(ね)をば聞くや」と仰せられけるに、輔親、御隔子を參りさして[やぶちゃん注:降ろすのを途中で止めて。]、突居(ついゐ)て[やぶちゃん注:跪(ひざまず)いて。]、「承はる」と申しければ、殿、「然らば遲き」[やぶちゃん注:「それにしては歌が出来るのが遅いではないか」。]と仰せられけるに、輔親、此(か)くなむ申しける。

 足引の山ほととぎす里なれてたそかれどきになのりすらしも

と。殿、此れを聞し食して、極(いみ)じく讚(ほめ)させ給ひて、表(うへ)に奉たりける[やぶちゃん注:着ておいでになられた。]紅(くれなゐ)の御衣(おほむぞ)一つを取りて、打ち被(かづ)けさせ給ひつれば[やぶちゃん注:輔親の頭上にお掲げあそばされたので。]、輔親、給はりて、臥し禮(をが)みて、御隔子を參り畢(は)てて、御衣を肩に懸けて、侍(さぶらひ)[やぶちゃん注:侍所。護衛兵の詰所。]に出でたりければ、侍共、これを見て、「此れは。何(いか)なる事ぞ」と問ひければ、輔親、有りつる樣を語りけるに、侍共、皆、聞きて、極じく讚め喤(ののし)りけり。

   *

「歳時記」先の「荊楚歳時記」を指す。]

2018/11/18

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 芝生

 

        芝  生

 

風とひのきのひるすぎに

小田中はのびあがり

あらんかぎり手をのばし

灰いろのゴムのまり、光の標本を

受けかねてぽろつとおとす

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿との相違なし、「手入れ本」に手入れなしで、本書の中では初めてのまっさらな特異点。キャッチ・ボールをしている少年たち……その光と影と……「光」と〈少年〉の、美しいハレーションの――「標本」――のワン・ショットである……

「小田中」人名。稗貫農学校の生徒。松井潤氏のブログ「HarutoShura」の「芝生」によれば、『小田中光三。賢治の教え子で、稗貫農学校の』二回生(大正一二(一九二三)年卒)。『岩手日報』昭和八(一九三三)年九月二十四日附の『「故宮澤賢治氏葬儀」の記事に「故宮澤賢治氏葬儀は二十三日午後二時花巻町豊沢町自宅出棺同町安浄寺に於て執行されたが生前故人の徳を偲び会葬者二千を数へ盛儀を極めた弔辞は、盛岡高農上村勝爾氏、岩手県歯科医師会長今野英三氏、詩人藤原草郎、母木光、森惣一、梅野健三、花巻秋香会、花巻農学校同窓会代表小田中光三氏で弔電二十八通に及び同三時葬儀を終はった尚故人の遺言によって法華経一千部を刊行生前の知己に贈る筈である」とあるように、小田中はこのとき花巻農学校同窓会代表を務めている』とある(『岩手日報』の記事(朝刊)は筑摩版全集年譜と校合して確認した。実は記事では、見出しが「故宮澤賢氏葬儀」、冒頭が「故宮澤賢氏葬儀は」と誤植している。死してまで、つくづく〈誤植の難〉に賢治は縁があったのであった)。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 霧とマツチ

 

            

 

(まちはずれのひのきと靑いポプラ)

霧のなかからにはかにあかく燃えたのは

しゆつと擦られたマツチだけれども

ずゐぶん擴大されてゐる

スヰヂツシ安全マツチだけれども

よほど酸素が多いのだ

(明方の霧のなかの電燈は

まめいろで匂もいゝし

小學校長をたかぶつて散步することは

まことにつつましく見える)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月四日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」では一篇全部を削除する意思が認められる。ロケーションは曙の頃であろう。

「スヰヂツシ安全マツチ」「スヰヂツシ」はスウェーデンのこと。英語の形容詞「Swedish」の音写(「スゥイディシュ」が近い。因みにスウェーデン語でスウェーデン王国は「Konungariket Sverige」で、「Sverige」をカタカナ音写すると「スヴェリエ」である)で、「スウェーデン式安全燐寸(マッチ)」のこと。サイト『バーチャルミュージアム「マッチの世界」』のこちらの、スウェーデンのスモーランド地方最大の町イェンシェピング(Jönköping)にある世界で唯一の「マッチ博物館」の解説中に、一八二七年、『イギリスのジョン・ウォーカーによって塩素酸カリウムと硫化アンチモンを頭薬とする摩擦マッチが発明され』、一八四四年には『スウェーデンのジョワンとカール・ルンドスレーム兄弟もイェンシェピングにマッチ工場を設立、黄燐マッチの製造を開始しました』。『しかし、マッチ産業の初期に広まった黄燐マッチは、こすれば火がつく便利さの反面、ちょっとした摩擦や低温度でも自然発火してしまうことで火災事故をまねいたり、黄燐の持つ毒性がマッチ製造労働者にとっては』『燐中毒壊疽(えそ)という職業病に冒されてしまうことが大きな社会問題となりました』。『そこで』一八五五年(嘉永七・安政元・安政二年相当。明治維新の十三年前)に、『ジョワン・ルンドストレームは新たに発見された赤燐を基にして発火剤と燃焼剤を分離させたマッチ、つまり』、『今』、『わたしたちが使っているマッチと同じ』、『マッチの軸と箱の側面とに薬品を分けたスウェーデン式安全マッチを発明しました。これにより』、『分離発火型の安全マッチは特許も取り、世界を席巻する基盤を作り上げていきました』とある。

「よほど酸素が多いのだ」この一行に賢治マジックが燐光して、一篇の詩の蝶番となっている。

「まめいろ」農作物の商取引では「色豆(いろまめ)」という語があり、これは色の着いた豆類、小豆・大正金時・紅金時・赤豌豆(えんどう)・うずら豆等を指すから、ここは所謂「小豆色」、紫がかった赤褐色のことであろう。

「小學校長をたかぶつて散步することは」/「まことにつつましく見える」はやや意味がとり難いが、あたかも小学校の校長が児童に対して殊更に胸を張るかのように、悠然と総長の散歩をしている視界に入った人物(先のマッチを擦って煙草でも吸った人物と同じでもよいが、ここは別人の方が、個々の人間のキャラクターへの穿鑿をせずに済むので、よいように思われる)の動きを、泰然自若とした動きの感じを感覚的に捉え、それがまた朝の自然の大気に如何にも相応しく「まことにつつましく見える」とマッチングさせているのであろう。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 林と思想

 

 

 

      

 

 

 

            

 

そら、ね、ごらん

むかふに霧にぬれてゐる

蕈(きのこ)のかたちのちいちな林があるだらう

あすこのとこへ

わたしのかんがへが

ずゐぶんはやく流れて行つて

みんな

溶け込んでゐるのだよ

  こゝいらはふきの花でいつぱいだ

 

[やぶちゃん注:「蕈(きのこ)のかたちのちいちな林があるだらう」の「ちいちな」はママ。原稿もママ。「正誤表」にはない。宮澤家「手入れ本」で「ちいさな」と訂正する。大正一一(一九二二)年六月四日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。本書用原稿最終形では最終行は、

  こゝいらはふきの花でいつぱいだな

となっているが、「手入れ本」での修正はないので、最終校正段階で「な」を除去したものと推定される。確かに「な」はない方がよい。

 標題と「わたしの」自然=全宇宙存在に対する哲学的な思考が、随分速く流れ行っては、瞬時にその「林」の中で「みんな」「溶け込んで」いると賢治は語りかけてくる。大塚常樹氏の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」(一九九三年朝文社刊)の「宮沢賢治の空間認識」の「第三章 水の宇宙哲学――コロイドとモナド」末尾で、この冒頭から「溶け込んでゐるのだよ」までを引かれ、『こうして賢治の世界認識は《モナド》』(monad:ギリシア語の「モナス」(monas:「単位・一(いつ)なるもの」の意)に由来する概念で「単子」と訳される。古代ではピタゴラス学派やプラトンによって用いられ、近世ではニコラウス・クサヌスやブルーノが、モナドを、「世界を構成する個体的な単純者・世界の多様を映す一者」として捉えた。これらの先駆思想を継承して、ライプニッツは彼の主著「モナドロジー」に於いて、独自の単子論的形而上学思想を説いた。ライプニッツは物理的原子論を批判し、宇宙を構成する最も単純な要素、即ち、自然の真のアトムは、不可分であって空間的拡がりをもたぬ「単純者」であり、いわば「形而上学的点」とも言うべきものであると主張した。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『化されたコロイド粒子によって、宇宙という巨大な水溶液へと拡大し、《溶解》する。それはもはや宇宙という名の、巨大な《母の子宮》以外のなにものでもないのである』と述べておられる。

「ふきの花」キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus。私の好きな「蕗の薹」の成長して開花した花である。私は小さな頃から、「蕗の薹」に母を感じた。それは一緒に裏山にそれを摘みに行ったからばかりではなく、あの包のようなそれに母を感じた。二〇一一年三月にALSで母を亡くしてからも、私は、あの䑓(うてな)の中に赤子に戻った母がいるように感じ続けている。さればこそ、「こゝいらはふきの花でいつぱいだ」という最後の一行に私は強く打たれるし、大塚氏の評言にも激しく共感するのである。大塚氏は実はこの引用の直前で「如来の胎児(タターガタ・ガルバ)」にも言及されているのである。「タターガタ・ガルバ」はサンスクリット語で「如来の胎児」を意味し、これは「如来蔵」の説を意味する。それは、総ての人々には如来となり得る種子があるとする主張で、人々が本来持っているところの「自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)」に悟りの可能性を見出し、これを「如来蔵」又は「仏性(ぶっしょう」と呼び、すべての人々は如来の胎児を内に蔵しているというのである(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート九 / 小岩井農塲~了

 


             
パート九

 

すきとほつてゆれてゐるのは

さつきの剽悍(ひやうかん)な四本のさくら

わたくしはそれを知つてゐるけれども

眼にははつきり見てゐない

たしかにわたくしの感官の外(そと)で

つめたい雨がそそいでゐる

 (天の微光にさだめなく

  うかべる石をわがふめば

  おゝユリア しづくはいとど降りまさり

  カシオペーアはめぐり行く)

ユリアがわたくしの左を行く

大きな紺いろの瞳をりんと張つて

ユリアがわたくしの左を行く

ペムペルがわたくしの右にゐる

……………はさつき橫へ外(そ)れた

あのから松の列のとこから橫へ外れた

  ⦅幻想が向ふから迫つてくるときは

   もうにんげんの壞れるときだ⦆

わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ

ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ

わたくしはずゐぶんしばらくぶりで

きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た

どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを

白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

  ⦅あんまりひどい幻想だ⦆

わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ

どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは

ひとはみんなきつと斯ういふことになる

きみたちとけふあふことができたので

わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから

血みどろになつて遁げなくてもいいのです

 (ひばりが居るやうな居ないやうな

  腐植質から麥が生え

  雨はしきりに降つてゐる)

さうです、農塲のこのへんは

まつたく不思議におもはれます

どうしてかわたくしはここらを

Der heilige Punkt

呼びたいやうな氣がします

この冬だつて耕耘部まで用事で來て

こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで

なにとはなしに聖いこころもちがして

凍えさうになりながらいつまでもいつまでも

いつたり來たりしてゐました

さつきもさうです

どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は

  ⦅そんなことでだまされてはいけない

   ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる

   それにだいいちさつきからの考へやうが

   まるで銅版のやうなのに氣がつかないか⦆

雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです

あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも

その貝殼のやうに白くひかり

底の平らな巨きなすあしにふむのでせう

   もう決定した そつちへ行くな

   これらはみんなただしくない

   いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から

   發散して酸えたひかりの澱だ

  ちいさな自分を劃ることのできない

 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで

もしも正しいねがひに燃えて

じぶんとひとと萬象といつしよに

至上福しにいたらうとする

それをある宗教情操とするならば

そのねがひから碎けまたは疲れ

じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと

完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする

この變態を戀愛といふ

そしてどこまでもその方向では

決して求め得られないその戀愛の本質的な部分を

むりにもごまかし求め得やうとする

この傾向を性慾といふ

すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に從つて

さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある

この命題は可逆的にもまた正しく

わたくしにはあんまり恐ろしいことだ

けれどもいくら恐ろしいといつても

それがほんたうならしかたない

さあはつきり眼をあいてたれにも見え

明確に物理學の法則にしたがふ

これら實在の現象のなかから

あたらしくまつすぐに起て

明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに

馬車が行く 馬はぬれて黑い

ひとはくるまに立つて行く

もうけつしてさびしくはない

なんべんさびしくないと云つたとこで

またさびしくなるのはきまつてゐる

けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて

ひとは透明な軋道をすすむ

ラリツクス ラリツクス いよいよ靑く

雲はますます縮れてひかり

わたくしはかつきりみちをまがる

 

[やぶちゃん注:長詩「小岩井農塲」の最終章である。前の「パート八」相当は底本には存在せず、前の「(パート五 パート六)」のような標題のみの挿入も、ない。因みに「パート八」は下書き稿も全く残っていない。私は「(パート五 パート六)」でート七」として時間経過を示したように、「パート八」を示さずないことで、やはり時間と意識の経過を示したものと採っておく。また、賢治の神経症的な性癖から考えて、書いてもいないものを飛ばしてナンバリングすることは私は考え難いと判断する(そういう幻想でないただの嘘をつくことを賢治は非常に嫌ったと思う)から、私は「パート八」は実際に書かれたものと思う。下書き稿には欠損があることを考えれば、物理的に消失したか、意図的に破棄された草稿があったと考える。但し、「(パート五 パート六)」同様、そうした仕儀を私はやはり、読者に対して頗る不親切で不愉快で不快に思う気持ちが今も残ることは言い添えておく。

・「……………はさつき橫へ外(そ)れた」リーダーは一点擦(かす)れがあるが、底本では二十四点。以前にも注したが、それを再現すると、有意に下に下がってしまうので、かく字数分の三点リーダ十五点で示した。

・「ひとは透明な軋道をすすむ」「軋道」はママ。原稿は「軌道」で誤植であるが、「正誤表」にない。手入れ本でも修正がない。全集校訂本文は原稿に従って訂してある。

 

「さつきの剽悍(ひやうかん)な四本のさくら」「剽悍」は「すばしっこく、しかも荒々しく強いさま。これはその奇体な形容と、時間経過とそれから想定される位置から、パート四で登場した「向ふの靑草の高みに四五本乱れて」生えている、「なんと」もまあ、「氣まぐれなさくら」で、詩人が「みんなさくらの幽靈だ」と断じ、「むら氣な四本の櫻」と形容したそれである。

「わたくしはそれを知つてゐるけれども」/「眼にははつきり見てゐない」/「たしかにわたくしの感官の外(そと)で」/「つめたい雨がそそいでゐる」ここは主人公が、現実の外界との間に何らかの膜を張っている、一種の乖離的な精神状態が私には見てとれる。幻想を保存するための防禦機構が感官全体に抑制を加えている雰囲気を覚えるのである。それは、以下で証明される。

「ユリア」昔、異様に流行った、チャネリングの前世での修羅騎士の名前みたようで、私はちょっと失笑してしまう(失礼。しかし、あの狂乱(例えば、スピリチャル系雑誌の投稿欄に「ユリア・ペムペルという名に記憶はありませんか? 私はその時のカシオペーアです。ご連絡下さい」みたようなものが気味悪くなるほどゴマンと載っていたのだ)。閑話休題。ギトン氏はここ等で、このユリアは『保阪嘉内の可能性が高いとされ、この『小岩井農場の』彼らにとっての『《聖なる地》すなわち《下丸7号》畑の奥に自生した』この『4本の「さくらの幽霊」は、作者にとっては、同人誌《アザリア》の“4人の仲間”(作者をいれて4名)を象徴する存在であり、“4本の桜”と関連して登場している上記の「ユリア」「ペムペル」らは、《アザリア》の仲間を指していると考えられる』と解釈されておられる。この桜を「剽悍」と形容した意味も確かにこのによってはなはだ腑に落ちると言える。ギトン氏のこちらのページでは、菅原千恵子「宮沢賢治の青春」から引いて、『「若木のようだった四人の仲間たちはむらきな四本の桜ではなかっただろうか。」』、『「それは桜の木になぞらえた『アザリア』の四人の仲間のことであり、目には見えていないが心には見えている四人のことである」』、『「そうなのだ。ユリアもペムペルも、そして『……』も作者の昔の友だちだったのだ。作者はこれらの友達と春の小岩井の風景の中で出会うことによって、〔…〕』、『血みどろになつて遁げなくてもいいのですという安らかな心境を得ることができた。そしてそればかりかある一つの重大な謎が解ける。それは作者がずっとわからずに悩み続けていたものの正体を知ることでもあった。〔…〕自分とたったもう一人のたましいとのみ永久に歩こうと求めること、それは相手が男であれ女であれ、もう恋愛なのだと作者は気づいたのだ。」』という菅原氏の同様の説を示しておられる。私は若き日には「ユリア」「ペムペル」を〈天使〉みたようなものとして捉えていたが、ここに至ると、寧ろ「修羅」をともに生き、愛するものために(中世騎士道では、その愛する対象に対しては肉欲を持たないことを絶対条件とした)命を捧げて惜しまない〈聖騎士〉の印象が、今、眼前にある。但し、ギトン氏は別なところで、これらは『有翼天使だと思う』と述べてはおられる。

「カシオペーアはめぐり行く」「めぐり行く」から、星座の周極星 Cassiopeia である。因みにギトン氏はここでカシオペア座で満足されずに、面白い評釈を行っておられるので紹介しておく。ギトン氏は『星座のカシオペア座だとすると、いまいち意味不明で』、『北極星を「水車」の軸として、カシオペアがその周りをめぐる天球の日周運動を「水車」と言っている──と思えなくはない』もののとされた上で、この「カシオペーア」は、星座名であるとともに、刺胞動物門鉢虫綱根口クラゲ目サカサクラゲ科サカサクラゲ属 Cassiopea の属名でもあり(同属は多くが平らな傘を逆さにし、触手を上に立てた状態で海底の砂泥上に棲息するという変わった習性を持つ)、賢治はそのクラゲの形状を『「ガラスの水車」』に見立てて、ここで想起したのではないか? とされるのである(ギトン氏の示されたサカサクラゲの画像はこちら)。さらに、ギリシャ神話での経緯を示され、『エチオピア王妃カシオペア(Cassiopeia)は、自分の美しさを鼻にかけて自慢したので、海神ポセイドンの罰を受けて、星空に逆さ吊りにされたと』され、『したがって、星座にしろ、逆さクラゲにしろ、“罰を受けて逆さにされている”という共通点があ』るとされる。この「逆さ吊り」というのは、キリスト教史に対称物を求めるなら、真理のために殉じた殉教者たちと重なる。則ち、キリストを始めとする〈聖痕(スティグマ:stigma)〉を持った者たちである。反社会的な(保阪がアナキズム発言で退学になったことは既に述べた)ミューズの天啓を得た無頼の詩人たちには、現実社会から、車輪に逆さ吊りにされる罰を受けるイメージは被虐的にも芸術的殉教としても私には腑に落ちる。また、海産無脊椎動物フリークの私としても、サカサクラゲ(模式種はカサクラゲ Cassiopea ornata)をここに出せるのは好ましい。彼らは褐虫藻(zooxanthella:ゾーザンテラ。多くの海産無脊椎動物と細胞内共生する渦鞭毛藻類(アルベオラータ Alveolata 上門渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae)の単細胞藻類の総称)を体内に共生させている点でも、賢治が知れば必ずや興味を持つであろう(当時の賢治がそれを知っていたかどうかはちと怪しい。ゾーザンテラの共生とその機序自体が比較的新しい発見だからである)。サカサクラゲ類は鹿児島以南にしか棲息しないので、賢治が実際に見た可能性はまずないが、一般人ならありえないものの、農学を盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学し(入学宣誓式では総代として誓文を朗読している)、翌年には特待生に選ばれて授業料を免除されている彼にして、サカサクラゲの存在と学名を記憶していた可能性は高いと言える。

「ペムペル」ギトン氏はこちらで、この名は、『ネコヤナギの方言“ベンベロ”』(「パート四」で既出既注)『から来ているようですが、4人の中で年下で、学年も下だった河本義行にふさわしいと思います』とある。

「……………はさつき橫へ外(そ)れた」/「あのから松の列のとこから橫へ外れた」このリーダは例外的に「下書き稿」のこの辺りの最終形と思われるものを一部削除箇所も入れて再現して見ると、

   *

私の感覺の外でそのつめたい雨が降つてゐるのだ。

ユリアが私の右に居る。私は間違ひなくユリアと呼ぶ。

ペムペルが私の左を行く。透明に見え又白く光つて見える。

ツイーゲルは橫へ外れてしまつた。

みんな透明なたましひだ。

大きくはつきり眼をみひらいて歩いてゐる。

あなたがたははだしだ。

そして靑黑いなめらかな鑛物の板の上を步く。

その板の底光りと滑らかさ。

あなたがたの足はまつ白で光る。介殻のやうです。

[やぶちゃん注:以下、延々と続くが略す。]

   *

「ツイーゲル」の伏せ字であることが判明する。これについて、ギトン氏はこちらで、『小菅健吉になります。小菅は、卒業と同時にアメリカへ留学したために、通信も稀になり、(大正一五(一九二六)年に『帰国するまでは、賢治たちの交友圏から離れていたようです。もともと性格が大人で、それほど深い付き合いではなかったようにも思われます』とある。ウィキの「宮沢賢治」のこの写真が同人誌『アザリア』の中心メンバー四名のそれで(全体では十数名いた)、左上が保阪嘉内、右下が河本義行、左下が小菅健吉、右上が賢治である。

「頁岩」「けつがん」(shale:シェール)は堆積岩の一種。「泥板岩」とも言う。薄く割れ易い性質を持つ泥岩で、本のページ(頁)を捲(めく)るように剥離性があることから、かく名づけられた。時に泥岩がさらに固結した粘板岩(スレート)との中間の岩石をかく総称することもある。日本では中生代・新生代古第三紀の泥質岩に対して用いられる。

「古い海岸」例の童話「イギリス海岸」(大正一二(一九二三)年八月九日作。リンク先は本加工底本の渡辺宏氏のサイトのそれ)で知られる「イギリス海岸」である。個人サイトらしき「いわての川とくらし」の『宮沢賢治が名づけた「イギリス海岸」』に、『花巻市内を流れる北上川と猿ヶ石川の合流点の西岸に』、『イギリスの海岸に見られる、第三紀末・鮮新世の凝灰岩質泥岩が露出、白亜紀層を想起させることから賢治は、これを』かく『名付け』た。『また』、『賢治は花巻農学校の教員時代、よく生徒を連れて地質学の実習をし、散策・思索の場としても親しんで』いたとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

Der heilige Punkt」ドイツ語。カタカナ音写すると、「デァ・ハイリゲ・プンクト」(「Der」は定冠詞)「神聖な地点・場所」の意。

「この冬だつて耕耘部まで用事で來て」ギトンで、『「この冬」は、「屈折率」「くらかけの雪」を着想した』大正一一(一九二二)年一月六日『頃の農場訪問』と推定(全集年譜にはその一月六日に農場を訪問した事実は記されてはいない)されておられる。

「聖い」「きよい」。

「さつきもさうです」/「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」往路のパート四で出逢った小学生たちを指す。そこでは、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる」/「ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り」/「またほのぼのとかゞやいてわらふ」/「みんなすあしのこどもらだ」/「ちらちら瓔珞(やうらく)もゆれてゐるし」/「めいめい遠くのうたのひとくさりづつ」/「綠金寂靜(ろくきんじやくじやう)のほのほをたもち」/「これらはあるひは天の鼓手(こしゆ)、緊那羅(きんなら)のこどもら」と描出していた。そこでも注した通り、私はこの「瓔珞」を、賢治のがんぜない天使か菩薩のような子らへ装飾した幻視と採ることに変更はない。

「そんなことでだまされてはいけない」/「ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる」/「それにだいいちさつきからの考へやうが」/「まるで銅版のやうなのに氣がつかないか」賢治の中の厳格な(フロイト流に言うなら現実の社会的人間として従属させようとする「超自我」)が彼の幻想癖を指弾するのである。「銅版のやう」とは無機質で冷たいそれに映った過去の蒼ざめた幻影に過ぎぬとでも言いたてるのか。

「あなたがた」ユリアとペムペル。

「赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも」/「その貝殼のやうに白くひかり」/「底の平らな巨きなすあしにふむのでせう」/地獄の針の山のような「赤い瑪瑙」(「瑪瑙」は「めなう(めのう)」。石英の結晶の集合体(玉髄(ぎょくずい))で、色や透明度の違いにより、層状の縞模様を持つもの。色は乳白・灰・赤褐色など、変化に富む。宝石・装飾品とされる))で出来た「棘でいつぱいな野はら」であったとして「も」、「あなたがたは」躊躇することなく、「その貝殼のやうに白くひかり」/「底の平らな巨きなすあしに」て「ふ」んで、しかも、少しも傷つくことはないの「でせう」の謂いと採る。

「もう決定した そつちへ行くな」/「これらはみんなただしくない」/「いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から」/「發散して酸えたひかりの澱だ」「更へた」は「かへた(変えた)」(変質してしまった)、「酸えた」は「すえた」、「澱」は「おり」。再び超自我風の生硬なる倫理意識が、幻想の指弾と否定を行い、以下、妙に構えた二項対立の恋愛・性欲説が展開されるが、その言説(ディスクール)自体には私は何らの魅力も感じない。この部分は〈長詩の詩篇の〉最終章のクライマックスとしては確かに失敗である。しかし、これはそれでいいのである。何故なら、確かに、その時の詩人の心象のスケッチとして、これは真実であったことをこそ認めねばならないからである。そもそもが、本書を賢治が「詩集」と呼ばれるのを極度に嫌ったのは、これは誰かに読ませようとする甘ったるい自称詩人の似非物詩篇ではなく、あくまで宮澤賢治という憂鬱で孤高な男の心象風景の転写物、懊悩の確かな心象のスケッチなのであるからである。

「劃る」「くぎる」と読んでおく。

「宙宇」「宇宙」に同じい。

「ちいさな自分を劃ることのできない」/「この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」/「もしも正しいねがひに燃えて」/「じぶんとひとと萬象といつしよに」宮澤家「手入れ本」ではこの四行に斜線を附しているが、この四行をカットすると、ますます宗教的に辛気臭くなること極まりない。

至上福し」「至上福祉」と採っておく。この上ない「幸い」「幸せ」の意である。

「この傾向を性慾といふ」原稿では「傾向」は「變態」であるが、「手入れ本」の修正はないから、最終校正段階でかく変更したものと思われる。

「この命題は可逆的にもまた正しく」/「わたくしにはあんまり恐ろしいことだ」宗教的法悦(エクスタシー)へと高められて性欲が昇華されるベクトルが「可逆的」であるというのだから、その逆に賢治の神秘体験や幻想癖がそのまま著しく下劣なものに堕していってしまい、遂には性欲だけに生きる存在となることもあるのであり、それも「正しい」、だから私はひどく恐れるという。少なくとも、この時の賢治の心性には〈自身の拠って立つと信ずるところの自我をも致命的に傷つけんとするところの強い性の暴威〉が存在したこ「あたらしくまつすぐに起て」「たて」で命令形。ここで意識内への沈潜は終り、再び外界がはっきりと描かれるコーダへと進む。

「ラリツクス」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi の属名。

「わたくしはかつきりみちをまがる」この最後の一行が私は好きだ。

 最後に。この「小岩井農塲」ではギトン氏のサイトに非常にお世話になり、数多くの引用やリンクを張らさせて戴いた。最後に改めて、心より御礼申し上げる。

2018/11/17

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 (パート五)(パート六) パート七

 

       パート五 パート六

 

 

        ート七

 

とびいろのはたけがゆるやかに傾斜して

すきとほる雨のつぶに洗はれてゐる

そのふもとに白い笠の農夫が立ち

つくづくとそらのくもを見あげ

こんどはゆつくりあるきだす

 (まるで行きつかれたたび人だ)

汽車の時間をたづねてみやう

こゝはぐちやぐちやした靑い濕地で

もうせんごけも生えてゐる

 (そのうすあかい毛もちゞれてゐるし

  どこかのがまの生えた沼地を

  ネー將軍麾(き)下の騎兵の馬が

  泥に一尺ぐらゐ踏みこんで

  すぱすぱ涉つて進軍もした)

雲は白いし農夫はわたしをまつてゐる

またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲)

トツパースの雨の高みから

けらを着た女の子がふたりくる

シベリヤ風に赤いきれをかぶり

まつすぐにいそでやつてくる

Miss Robin)働きにきてゐるのだ

農夫は富士見の飛脚のやうに

笠をかしげて立つて待ち

白い手甲さへはめてゐる、もう二十米だから

しばらくあるきださないでくれ

じぶんだけせつかく待つてゐても

用がなくてはこまるとおもつて

あんなにぐらぐらゆれるのだ

 (靑い草穗は去年のだ)

あんなにぐらぐらゆれるのだ

さわやかだし顏も見えるから

ここからはなしかけていゝ

シヤツポをとれ(黑い羅沙もぬれ)

このひとはもう五十ぐらゐだ

 (ちよつとお訊(ぎ)ぎ申しあんす

  盛岡行ぎ汽車なん時だべす)

 (三時だたべが)

すゐぶん悲しい顏のひとだ

博物舘の能面にも出てゐるし

どこかに鷹のきもちもある

うしろのつめたく白い空では

ほんたうの鷹がぶうぶう風を截る

雨をおとすその雲母摺(きらず)りの雲の下

はたけに置かれた二臺のくるま

このひとはもう行かうとする

白い種子は燕麥(オート)なのだ

  (燕麥(オート)播(ま)ぎすか)

  (あんいま向(もご)でやつてら)

この爺(ぢい)さんはなにか向ふを畏れてゐる

ひじやうに恐ろしくひどいことが

そつちにあるとおもつてゐる

そこには馬のつかない廐肥車(こやしぐるま)と

けわしく翔ける鼠いろの雲ばかり

こはがつてゐるのは

やつぱりあの蒼鉛(さうえん)の勞働なのか

  (こやし入れだのすか

   堆肥(たいひ)ど過燐酸(くわりんさん)どすか)

  (あんさうす)

  (ずゐぶん氣持のいゝ處(どご)だもな)

  (ふう)

この人はわたくしとはなすのを

なにか大へんはばかつゐる

それはふたつのくるまのよこ

はたけのおはりの天未線(スカイライン)

ぐらぐらの空のこつち側を

すこし猫背(ねこぜ)でせいの高い

くろい外套の男が

雨雲に銃を構へて立つてゐる

あの男がどこか氣がへんで

急に鐵砲をこつちへ向けるのか

あるひは Miss Robin たちのことか

それとも兩方いつしなのか

どつちも心配しないでくれ

わたしはどつちもこわくない

やつてるやつてるそらで鳥が

 (あの鳥何て云ふす 此處らで)

 (ぶどしぎ)

 (ぶどしぎて云ふのか

 (あん 曇るづどよぐ出はら)

から松の芽の綠玉髓(クリソプレース)

かけて行く雲のこつちの射手(しやしゆ)は

またもつたいらしく銃を構へる

 (三時の次あ何時だべす)

 (五時だべが ゆぐ知らない)

過燐酸石灰のヅツク袋

水溶(すゐやう)十九と書いてある

學校のは十五%だ

雨はふるしわたくしの黃いろな仕事着もぬれる

遠くのそらではそのぼとしぎどもが

大きく口をあいてビール瓶のやうに鳴り

灰いろの咽喉の粘膜に風をあて

めざましく雨を飛んでゐる

少しばかり靑いつめくさの交つた

かれくさと雨の雫との上に

菩提樹(まだ)皮の厚いけらをかぶつて

さつきの娘たちがねむつてゐる

爺(ぢい)さんはもう向ふへ行き

射手は肩を怒らして銃を構へる

  (ぼとしぎのつめたい發動機は……)

ぼとしぎはぶうぶう鳴り

いつたいなにを射たうといふのだ

爺さんの行つた方から

わかい農夫がやつてくる

かほが赤くて新鮮にふとり

セシルローズ型の圓い肩をかゞめ

燐酸のあき袋をあつめてくる

二つはちやんと肩に着てゐる

  (降つてげだごとなさ)

  (なあにすぐ霽れらんす)

火をたいてゐる

赤い㷔もちらちらみえる

農夫も戾るしわたくしもついて行かう

これらのからまつの小さな芽をあつめ

わたくしの童話をかざりたい

ひとりのむすめがきれいにわらつて起きあがる

みんなはあかるい雨の中ですうすうねむる

  ⦅うな いいおなごだもな⦆

にはかにそんなに大聲にどなり

まつ赤になつて石臼のやうに笑ふのは

このひとは案外にわかいのだ

すきとほつて火が燃えてるる

靑い炭素のけむりも立つ

わたくしもすこしあたりたい

  ⦅おらも中(あだ)つでもいがべが⦆

  ⦅おいてす さあおあだりやんせ⦆

  ⦅汽車三時すか⦆

  (三時四十分

まだ一時にもならないも)

火は雨でかへつて燃える

自由射手(フライシユツツ)は銀のそら

ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす

すつかりぬれた 寒い がたがたする

 

[やぶちゃん注:「パート七」の「パ」が明朝体で見る限り、太字でもない(ゴシックは太字にしなくても明朝と混ざると、太字に見えるが、本書のゴシックは明らかに太字である)のはママ。単なる誤植ではあるが、「正誤表」にはないので再現した。

・「またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲)」の丸括弧半角はママ校本全集は問題にすらしていないが、見た目、明らかに眼が止まるので、再現した

・「まつすぐにいそでやつてくる」「いそで」はママ。原稿は「いそいで」で誤植であるが、「正誤表」にはない。「手入れ本」は補正して「て」を補っている。

・「シヤツポをとれ(黑い羅沙もぬれ)」「羅沙」の「沙」はママ。原稿も「羅沙」。「手入れ本」も修正せず。全集校訂本文は誤字と断じて「羅紗」とする。

・「すゐぶん悲しい顏のひとだ」「す」はママ。原稿は「ずゐぶん」であるから誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」にも修正はない(気づかなかったらしい)。全集校訂本文は無論、「ずゐぶん」。

・「なにか大へんはばかつゐる」ママ。原稿は「なにか大へんはばかつてゐる」であるから脱字であるが、「正誤表」にはない。宮澤家「手入れ本」で「て」を挿入している。

・「天未線(スカイライン)」は原稿もママで、「手入れ本」にも何もないが、全集では誤字と断じて「天末線」としている。私は何かこの仕儀には疑問がある。

・「あるひは Miss Robin たちのことか」「あるひは」はママ。歴史的仮名遣は「あるいは」が正しいが、古典でも頻繁に見られるもので問題はない。

・「それとも兩方いつしなのか」「いつし」はママ。原稿は「それとも兩方ともなのか」。「手入れ本」に修正無し。しかし全集編者は脱字とし、校訂本文を「いつしよ」と訂している。

・「(ぶどしぎて云ふのか」丸括弧閉じる無しはママ。「手入れ本」にも修正はないが、全集本文は「)」を末尾に補填している。

・「菩提樹(まだ)」の「まだ」のルビは「菩提樹」三字へのルビ。

・「すきとほつて火が燃えてるる」「るる」はママ。原稿は「ゐる」であるから誤植であるが、「正誤表」にない。「手入れ本」は修正してある。

 

 ご覧の通り、異様である。「(パート五 パート六)」というタイトルのみが示されているだけで、本文がなく、ート七」が示される。私は実は若き日に読んだ際、これを非常に不快に思って本篇「小岩井農塲」をこれで読み捨てようとしたのを思い出す。他者の公刊された詩集でこうした構成を持つものを私は知らないからであり、詩人が、そこをまるまる削除・省略したのなら、パート標題を変更して示せばよい、何らの痕跡も与えられずに、パート標題のみを示すというのは、如何にも尊大で利己的じゃないか、と強い不快を感じたからである。その感じは、ここまで諸家の解釈を参考に読み進めてきた今は、遙かに薄れた。それでもやはり、こうした仕儀は読者を戸惑わせることは永久不変である。これが、ダダイズム風に詩であるなら、それは見当違いの物言いとなろうが、賢治のこれは凡そダダ詩ではない。読者の中には、ここで私が、残っている「下書稿」や「清書稿」等と呼ばれて活字化されたものをもとに復元したり、推理したりするのを期待しておられる方がいるかもしれないが、そんなことをする気は全くない。私が本『「心象スケツチ 春と修羅」ヴァーチャル正規表現版』をやろうとした際の絶対のコンセプトは、まず本初版本自体を、実際に当時、私がこの本の読者の一人として存在していたならば、どう読み、どう感じ、どう解釈しようとしたか、の一点にあるからである。少しでもヒントが示されてあるならば、それを辿って、そうした原型を参考にしつつ、解析をすることは問題がないが、一行の詩篇をも示されないこれを、復元したり、推理することには、全く以って――私の――食指は動かぬからである。賢治はパート標題を示しだけで、読者にはその間の詩想を一切読者に示したくなかった以上、その「小岩井農塲」の中の二体の死体を墓場から掘り起し、私の切れ味の悪いメスと錆びたピンセットで剖検する趣味は私には全くないのである。悪しからず(なお、どうしてもアナトミーしたい方には、サイト「宮澤賢治の詩の世界」に「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」(解説に『出版されず削除された部分の草稿』とある)があるので見られたい)。……但し、実は注の最後の最後で、再び、ギトン氏の解釈を示すが……そこではこの不可解な「五」「六」の省略と「七」のパートの提示……に……ある仕掛けが施されているのだという、凡そ、私が何度か生き返って人生を送ったとしても、解析し得ない驚くべき地平に到達しておられるのである……。

 但し、以下読んで行くことで、直ちに、先の「パート四」から、この省略部分によって、有意な時間が経過していることが判る。それは「すきとほる雨のつぶに洗はれてゐる」と雨が降っていることによって明らかであり、しかも農夫と交わされる汽車の発車時刻の会話によって、詩人は歩行の向きを反転して、もと来た駅の方に向かって歩いている、帰途に転じていることが判明する。しかもそのメイン部分は、まだ午後の早い時間である(「盛岡行ぎ汽車なん時だべす」という問いに対して農夫は「三時だたべが」がと答えている以上、このシークエンスの開始時間は正午前後を想定してよいのではないかと思う(但し、当時の時刻表を調べたわけではない。正午から三時までの間に実際に汽車があったとすると、私の推理は崩れる)。ただ、コーダ部分でその三時の汽車の発車時刻を「三時四十分」と出し、「まだ一時にもならないも」とするところから、このパートの全時制は午後十二時前後から同四十五分前後までに絞ってよいように思われる)。果たして彼は当初(「パート一」に「くらかけ山の下あたりで」/「ゆつくり時間もほしいのだ」とある)の予定通り、鞍掛山の麓まで行ったのかどうかは本篇では判らない(違反して先の草稿を覗いてみると、かなり近くまでは行っている)。

 

「とびいろ」鳶色。既出既注。トビ(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)の羽毛の色のような赤みがかった茶色。

「もうせんごけ」言わずと知れた食虫植物の、ナデシコ目モウセンゴケ科モウセンゴケ属モウセンゴケ Drosera rotundifoliaウィキの「モウセンゴケ」によれば、『コケとあるが』、『種子植物である。ミズゴケ類の育つような湿地に生育する、背の低い草で、茎はごく短く、地面から葉を放射状に出す。葉にははっきりした葉柄があり、葉身はほぼ円形で、一面に長い毛があり、その先端から甘い香りのする粘液を出す。これに釣られるなどしてやってきた虫がくっつくと、粘毛と葉がそれを包むように曲がり、虫を消化吸収する。日当たりのよい場所に育つものでは、粘毛は赤く色づき、一面に生育している場所では毛氈を敷いたように見えることから、毛氈苔の名がある。 根はほとんど発達しない』とある。

「がま」「蒲」。単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属ガマ Typha latifolia。但し、以下の夢想であるから、実際の蒲が生えていて見えるわけではない。

「ネー將軍」一八一五年六月十八日に、ベルギー(当時はネーデルラント連合王国領)のワーテルロー近郊で、イギリス・オランダを始めとする連合軍及びプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオンⅠ世率いるフランス軍との間で行われた「ワーテルローの戦い」(Bataille de Waterloo:フランス軍が敗北してナポレオン戦争最後の戦闘となった)に於いて、フランス軍の北部方面軍総司令官として事実上の総指揮を執った元帥ミシェル・ネイ(Michel Ney 一七六九年~一八一五年:ナポレオン・ボナパルトの側近の一人で、彼をして「le Brave des Braves」(勇者の中の勇者)と言わしめた)。

「麾(き)下」「旗下」とも書く。将軍の旗本にある直属の精鋭の部隊。

「騎兵の馬が」/「泥に一尺ぐらゐ踏みこんで」「すぱすぱ涉つて進軍もした」ウィキの「ワーテルローの戦い」にある、現在の戦場となったワーテルローの場所の画像を見ても、湿地のようには見えないが、ウィキの本文を見ると、開戦『前夜の豪雨によって』、『道路の状態が悪』かったとある。ここのところお世話になっているギトン氏は、これは既に「眞空溶媒」に登場した「テナルデイ軍曹」の出典である、賢治が愛読したらしいヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」(Les Misérables)の「ワーテルローの戦い」を描出したシークエンスがネタ元であるとされて、ここここここで緻密に考証されておられる。賢治がわざわざここでこんな史実想像を差し挟んだのは、多くの兵が戦死し、フランスが大敗北を喫した「修羅」を行く馬に自身を擬え、ここに「修羅」を現出させたかったからと判る。

「トツパース」トパーズ(topaz)。ケイ酸塩鉱物(Al2SiO4(F,OH)2)。和名は「黄玉(おうぎょく)」。ウィキの「トパーズ」によれば、『様々な色を呈するが、宝石としては淡褐色のものが上質とされる』とあり、午後の早い時間の雨天の空の色、或いはそこから落ちてくる雨粒の煌めきの感覚的色彩として、腑に落ちる。

「けら」既出既注。「ケラ蓑」(螻蛄蓑)。小学館「日本国語大辞典」に『北陸から東北地方で用いられた蓑の一種。それを着たさまが虫のケラに似ているからという』とある。「玉川大学教育博物館 館蔵資料(デジタルアーカイブ)」の「蓑(みの)」に、『蓑の名称や材料は使用目的や地方によって様々であるが、肩から背中を覆う肩蓑を東北地方では「ケラ」、北陸地方では「バンドリ」と呼ぶことが多い。材料には稲の藁や山地に自生する菅(すげ)や藤等を材料とし』た、とある。

Miss Robin」「Robin」はスズメ目ツグミ科コマドリ属コマドリ Erithacus akahige の英名。彼らは♂の頭部から上胸にかけての羽衣が橙がかった赤褐色で、♀も頭部から上胸・上面が橙褐色を呈するので、このロシアの「Платок」(プラトーク)のような赤いスカーフを結んでいる二人の女の子をそれに喩えて呼称したもの。

「富士見の飛脚」よく判らぬが、これは葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「駿州江尻」の、前景左で、紙を飛ばされる男(但し、この人物は明らかに飛脚ではない)を誤認したものか? その絵の中のその男の前の男、及び、その次の次の右手中景の男、さらに遠景の二人の男の笠の感じがこのシーン(「笠をかしげて立つて待ち」)によくマッチするようには思われる。「浮世絵のアダチ版画」のオンライン・ストアのこちらを見られたい。

「二十米」二十メートル。詩人と農夫の距離。

「靑い草穗は去年のだ」去年の緑の草で、枯れることなく、冬の間も雪の下に冷凍保存されるような状態で生き長らえていたというのである。

「シヤツポをとれ(黑い羅沙もぬれ)」農夫が詩人の都会染みた羅紗張りの帽子に気後れし、話しかける前に、その場を立ち去ってしまうと困るから、自身が自身に命じたのである。

「博物舘の能面にも出てゐるし」薄暗い博物館に展示された「能面に」で「も」醸し「出」され「て」くるような、「すゐぶん悲しい」表情に見えてしまう「顏」を持って「ゐる」のひとだ「し」、という意味であろう。

「どこかに鷹のきもちもある」何となく、彼は詩人を警戒しており、その悲しい感じのする眼光の中にも、どこか、鷹が獲物を狙うような鋭い感じがあるというのである。

「雲母摺(きらず)り」浮世絵用語。錦絵の下地の摺りに用いる一技法で、「雲母板」(「きらいた」であろう)と呼ぶ同一の版を二つ作り、第一の版で下地の色を摺り、次に第二の版に糊をつけて摺り、その上に、雲母粉(「きらこ」と読んでおくが、ようは雲母を粉砕して粉状にしたものであろう)を振りかける。また、雲母粉に糊、乃至っは明礬水(みょうばんすい)を混ぜて普通に摺ったり、簡略に雲母粉と膠(にかわ)とを混ぜ、刷毛(はけ)で塗ることもある。下地に墨を用いたものを「黒雲母」(「くろきら」或いは「くろきらら」と読むか)、紅のときは「紅雲母」(「べに~」であろう)、下地が無地だと「白雲母」と呼ぶ。雲母摺りの作品は「雲母絵」(「きらえ」と読んでおく)とも称され、東洲斎写楽や喜多川歌麿の版画にその傑作が見られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。さらに調べてみると、雲母の粉以外に貝殻の粉も用い、それで背景を一色で塗り潰すものを指し、絵を持って動かすと、その配合されたものがキラキラと光るのが特徴であることが判った。太陽を背後にする雲の塊りの描写としては、この賢治の謂い自体が手が込んでいる。前にも述べたが、賢治は浮世絵が好きで、あぶな絵も所持していた。

「はたけに置かれた二臺のくるま」「馬のつかない廐肥車(こやしぐるま)」のこと。ギトン氏のこちらの解説によれば、『「馬のつかない廐肥車(こやしぐるま)」の置いてある風景から、播種作業が始まっていることは推測でき』、この『廐肥車というのはスプレッダーとよぶ二頭曳の肥料撒布車のことで』、『つまり、スプレッダーの馬が外されているのは、すでに肥料を撒布し終って、播種作業に入っているから』であると述べておられる。二頭の馬で牽く「二臺」の車とあるからには、かなり大型のものらしいが、その頃の当該農機具の画像を探してみたが、見当たらなった。ご存じの方は是非お教え願いたい。このシークエンスはそれがないと映像をイメージし難いからである。

このひとはもう行かうとする

「燕麥(オート)」既出既注。単子葉植物綱イネ目イネ科カラスムギ属エンバク Avena sativa で、同属の野生種で私たちにお馴染みの、カラスムギ Avena fatua の栽培種。粗挽き或いは圧扁した「オートミール」(oatmeal)で知られる。

「あんいま向(もご)でやつてら」「ああ、燕麦の種播きは、今、向こうでやってるわい」。

「この爺(ぢい)さんはなにか向ふを畏れてゐる」/「ひじやうに恐ろしくひどいことが」/「そつちにあるとおもつてゐる」/「そこには馬のつかない廐肥車(こやしぐるま)と」/「けわしく翔ける鼠いろの雲ばかり」/「こはがつてゐるのは」/「やつぱりあの蒼鉛(さうえん)の勞働なのか」「蒼鉛」はビスマス(bismuth:元素記号Bi)の和名。ビスマスそのものは淡く赤みがかった銀白色の金属で、柔らかく脆い。そうした蒼白と脆さを苛酷な農作業の辛さや挫折の比喩としたものか。しかしどうも、この老人が「畏れてゐる」ように見えるのは、実は強迫神経症的な宮澤賢治の側の、ある種、病的な強迫観念の投影なのではなかろうか? それを詩人は『やっぱり、昔から農民たちが抱き続けてきている「蒼鉛(さうえん)の勞働」の悲惨な予感なのだろうか?』と叙事的歴史的なものに無理矢理、言い変えて誤魔化しているように思われてならない。寧ろ、そうした鏡像と考えた時、この部分は私には、すとん、と腑に落ちるのである。

「堆肥(たいひ)」「堆積腐熟」或いは「積肥」とも呼ぶ。藁・落葉・野草・藻類などを積んで腐らせた自給肥料。材料に窒素を僅かしか含まないので、石灰窒素・石灰・硫安などを加えて分解を早めるのが普通で、これを「速成堆肥」と呼び、化学肥料を加えないものは「自然堆肥」という。堆肥の肥料成分の内、リン酸とカリウムは速効性であるが、窒素成分の大部分は有機窒素であるため、長期的持続的に肥料としての効果を現わす。肥料効果以外にも、土壌の肥沃度を保ち、土壌の物理化学的微生物学的な性質を改善する土壌改良剤としても有効である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「過燐酸(くわりんさん)」過リン酸石灰(calcium superphosphate)。第一リン酸カルシウCa(H2PO4)2·H2O と硫酸カルシウム(石膏) CaSO4 の混合物。リン鉱石に硫酸を反応させて得られる灰白色ないし灰黒色の粉末。遊離リン酸のため、酸性を呈する。「過リン酸」「過石」などと略称される。世界で最も古くから製造された化学肥料で、市販品の品位は可溶性リン酸を十五から二十六%(平均十八%前後)を含む。日本では明治一九(一八八六)年に高峰譲吉が試製し、四国のアイ(藍:タデ目タデ科イヌタデ属アイ Persicaria tinctoria)の栽培に初めて使用した。現在では、複合肥料の原料用が総生産の七割を超えている。化学的には酸性肥料であるが、生理的には中性肥料であって、連用しても、土壌を酸性化しない。肥効は速効性であるが、土壌中の鉄・アルミニウムと結合し、作物に吸収されにくくなるので、作物による利用率は、通常、他の化学肥料に比べて、低い。過リン酸石灰のこのような性質は、逆に、アルミニウムが活性化しやすい火山灰土壌などの礬土(ばんど)質土壌の改良に有効であり、大量に施用されていた。しかし、蓄積リンと将来のリン資源の枯渇問題から、消費量は横這いとなっている(以上は、主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、ギトン氏はこちらで、『賢治が、農夫に肥料の種類を聞いているのは、小岩井農場が』、このロケーションでの土質を「黒ボク土」(黒色火山性土)だと推定され、『どのように対処しているのか、非常に関心があったからで』あるとされる。黒ボク土は『日本の火山灰土に多い土壌ですが、黒くて軽く、乾くとさらさらぽくぽくしていて、しかもそういう‘くろつち’の層が非常に厚いのが特徴です』。『一見すると』、『畑の黒土(腐植土)に似ていますが、粘り気がありません。地味も非常に痩せていて、そのままではどんな作物も、全く育たないのです』。『というのは、“黒ボク土”は、強い酸性土なので、土壌の酸性によって、火山灰に含まれているアルミニウムが溶け出し、アルミニウムの毒性が、植物の生育を阻害するのだそうです』。『しかも、アルミニウムは、腐植(植物の死骸)と結合して、腐植が分解できないようにしてしまうために、植物に必要な養分(窒素、リン酸、カリ)が、腐植から溶け出て来ないのです』。『とくにリン酸は、アルミニウムに吸着されてしまうので、よほど多量にリン酸肥料をやらない限り、植物はリン酸欠乏症になります』。『また、土壌の酸性自体も、作物の生育を阻害します』。『そこで、“黒ボク土”は、①石灰で酸性を中和し、②リン酸肥料を入れて、作物が育つように改良しなければならないのです』と述べておられる。さて、ここで賢治は、自分のことを、都会の何かお偉い方とでも誤認しているかも知れない(だから身分の低い農夫として賢治を畏れているとも言える)彼に、農作業での地質改良をよく知っている自分をここで示すことで、農夫の身構えた心を解(ほぐ)そうとしているのであろうが、化学剤の模範解答をすらすら口にする彼を、農夫は逆に『やっぱり都会のお偉い先生だ』と思い込んだに違いなく、彼をしてさらに気持ちを尻込みさせることになったものと私は読む。私は実は賢治には、天才にあり勝ちな見当違いの思いやりを示すところの、サバン症候群的側面が性格の中にあったように感じている。それが結果的に、彼をして他者との円滑な関係を持続的に持つことを困難させた一因であったのではないかとも考えている。

「あんさうす」「ああ、そうです」。

「ふう」ただ、会話の間に農夫が溜息をついたものと採る。賢治の言葉に肯んじた応答とは私は思わない。何故なら、賢治の言うように、この農夫が「蒼鉛(さうえん)の勞働」の悲惨さに脅かされている者であるとするなら、「随分と気持ちのいいところだもんなあ」などという、とぼけた甘い(としか農夫は受け取らないであろう)言葉に共感などしないからである。その証拠に「この人はわたくしとはなすのを」/「なにか大へんはばかつゐる」ではないか。先に私が推定した誤解から、身構えてしまって、つい、ついた溜息に他ならない。

「天未線(スカイライン)」skyline。地平線。確かに全集校訂本文の「天末線」は「地平線」の言い換えらしくは見える。しかし、実は、後に出る「瀧澤野」の最終行でも賢治は「天未線」と原稿に書き、本書のそこも「天未線」となっているのである。そうして、実際には「地平線」とは実際には見かけの上の幻しの「線」であり、それはまさに「天と地の未だはっきりせぬ線」、架空の線であるわけで、私はこれを賢治の詩語として「天末線」で後代に伝えることに強い疑義を持つことをここに表明しておきたい。但し、「瀧澤野」の前に出る「原體劍舞連」では「天末線」で原稿もそうなってはいる。

「ぐらぐらの空のこつち側を」/「すこし猫背(ねこぜ)でせいの高い」/「くろい外套の男が」/「雨雲に銃を構へて立つてゐる」/「あの男がどこか氣がへんで」/「急に鐵砲をこつちへ向けるのか」/「あるひは Miss Robin たちのことか」/「それとも兩方いつしなのか」猟銃を構えたメン・イン・ブラック、それは狂人であって、我々に銃をぶっ放すかも知れない! いや! 或いは、あのいたいけな少女たちに銃口を向けるというのか?! それとも農夫と私、少女たちの両方を狙撃するというのか?! と、それこそ統合失調症の症状にしばしば出る、関係妄想から発展した追跡妄想・被害妄想であり、この黒ずくめの猟銃狂人男が、賢治がこの農夫に向かって歩き始めた時の視野に、実は既に捉えられていたとしたならば、先の農夫の「畏れ」もそうした異常心理から説明が可能となると私は思う。なお、ギトン氏はこちらで、『この「銃を構へて立つてゐる」男は、農場の雇ったハンター(猟師)で、播種作業に立ち会って、空砲を射ち、鳥が種子を啄ばんでしまわないように追い払う仕事をしてい』た農場関係者で、『この役目は「威銃」と呼ばれていた』とし、従って、『ライフルを構えた男がいるからといって、農夫がそれを恐れる理由はない』けれど、『しかし、賢治は、「威銃」を知っていたでしょうか?』と疑問を投げかけ』、いや、『「わたしはどつちもこわくない」と言っていますから、知っているのかもしれ』ないが、万一、『賢治は知らなくて、なぜ銃の男がいるのか分からなくて──あるいは、農場が農夫たちの作業を監視するために雇っている』、『とでも思い込んで──不気味に感じているのかもしれ』ないとされる。これはなかなか面白い観点と言え、その「威銃」を賢治が全く知らなかったとするなら、ここは病的でもなんでもなくなると言える。或いは、それを知っていながら、わざとこうしたサスペンスかホラー紛いのシークエンスを挿入して、詩篇に一種の緊張を齎そうとしたものかも知れない。変なところで茶目っ気がある賢治なら、その可能性も捨てきれぬという気もするのである。

「ぶどしぎ」「全国愛鳥教育研究会」公式サイト内の赤田秀子・杉浦嘉雄・中谷俊雄共著「賢治鳥類学」(平成一〇(一九九八)年新曜社刊)の広告の目次によれば、これはチドリ目チドリ亜目シギ科タシギ属オオジシギ Gallinago hardwickii のことであるとする。matsu_chan3氏のブログ「自然大好き」の「オオジシギ・キセキレイ」2010-05-07 09:06のコメントに、『わあ、オオジシギ来ましたか!!』『宮沢賢治は小岩井農場を歩いていて、この鳥に出会って、ビックリした様子が描かれています』。『農夫に訊くと、「ぶどしぎ」って応えるのね』。『当時は鳥の名前はみな方言だったでしょ』。『最近では小岩井ではオオジシギはもちろん見られません』。『オオジシギ、ブドシギ!! いいなあ』。『トップの写真、ズビャーク、ズビャークって声が聞こえてきそうです』とあって、この「ぶどしぎ」がオオジシギの方言名であることが判明する。ウィキの「オオジシギ」によれば、漢字表記は「大地鴫」「大地鷸」で、『インドネシア、オーストラリア東部、日本、パプアニューギニア、ロシア南東部』に分布し、『夏季に日本(主に本州中部以北、熊本県でも繁殖例あり)、ロシア(ウスリー、サハリン南部)で繁殖し、冬季になると』、『オーストラリアへ南下し』、『越冬する』。全長二十七・五~三十一・五センチメートルで体重は百~二百グラム。『日本に飛来するタシギ属の構成種では最大種で、和名の由来になっている。尾羽の枚数は』十六か十八枚。『眼上部から後頭にかけて眉状に淡黄色の筋模様(眉斑)が入る。上面や胸部を被う羽毛には』、『羽軸に沿って』、『暗褐色と赤褐色の斑紋(軸斑)が入り、羽毛の外縁(羽縁)は淡褐色。胸部を除く下面は白い羽毛で被われる。嘴基部から眼を通』って『後頭部にかけて』、『黒い筋模様(過眼線)が入り、過眼線が眉斑よりも細い個体が多い』。『嘴は長い。嘴の色彩は淡褐色で、先端が黒い。後肢の色彩は黄緑色』。『草原、湿原などに生息する。単独で生活するが、渡りの途中には小規模な群れを形成する事もある』。『食性は動物食傾向の強い雑食で、主にミミズを食べるが、昆虫、種子なども食べる』(ミミズ食というのが、このロケーションとマッチする)。『繁殖形態は卵生。繁殖期には縄張りを形成する。オスは縄張り内を鳴きながら飛翔した後に尾羽を広げて羽音を立てながら急降下、という行為を繰り返して求愛する。地表に枯草などを組み合わせた皿状の巣を作り』、四~六月に一回に四個(稀れに三個)の『卵を産む。メスのみが抱卵すると考えられている』とある。鳴き声は……こりゃ!……うへえ! ひでえもんだ! 後で賢治は「ビール瓶のやうに鳴り」と言っているが、壊れたゼンマイ仕掛けのおもちゃか、ラジオの局探しの途中の雑音みたようだわい!(リンク先はYou Tube の片山昇一氏の「野鳥 オオジシギの鳴き声」)

「曇るづど」曇りの日に。

「綠玉髓(クリソプレース)」クリソプレーズ(chrysoprasechrysophrase)は宝石の名称。和名で「緑玉髄(りょくぎょくずい)」とも称し、玉髄(chalcedony:カルセドニー:繊維状の石英。既出既注)の一種。ウィキの「クリソプレーズ」によれば、『ニッケルを含んだ蛇紋岩や他の超塩基性岩が、激しく風化したりラテライト化したりするところから生じる。オーストラリアの鉱床では、クリソプレーズは、菱苦土鉱(マグネサイト)の豊富な腐食岩石が、鉄と二酸化ケイ素の下になったところで、茶色の針鉄鉱や他の酸化鉄と共に、鉱脈や小塊となって生じる』。『非常に微細な結晶からなるため、通常の倍率では、はっきりした微分子として観察し得ない。この点において、クリソプレーズは、紫水晶(アメジスト)や黄水晶(シトリン)など、その他の水晶類と性格を異にする。これらの水晶類は基本的に透明であるが、六角の水晶の結晶からなることが容易に観察できる』からである。これを「隠微晶質」(Cryptocrystalline)と呼び、『他に隠微晶質を持つ玉髄には、瑪瑙、カーネリアン、オニキスがある』。『多くの不透明な水晶類とは異なり、クリソプレーズを価値あるものとするのは、模様の出かたよりむしろその色である。その色は、通常は黄緑色だが、深緑色のものもある。エメラルドの美しい緑色はクロムを含有するためであるが、クリソプレーズの色はエメラルドとは異なり、その構造に含まれる微量のニッケルによるものである』。『流通量の不足とその美しい緑色から、クリソプレーズは最も高価な水晶類の1つに数えられる。より品質の高いものは、しばしば硬玉と間違われる』。『カボション・カット』(cabochon cut)『(ジュエリーに使用するため、滑らかな丸いドーム状に磨く宝石のカットの一種)にすると、良質の紫水晶と同じくらいの価値を持つ』。『chrysoprase は、ギリシア語の chrysos(金)と prason(西洋ねぎ)という単語からきている』とある。

「こつちの射手(しやしゆ)」先の猟銃男のこと。

「過燐酸石灰のヅツク袋」「ヅツク」は「ズック」(「粗い麻布」を意味する「doek」というオランダ語)で、麻の繊維を太撚りにして平織りにした布。先に注した薬剤過リン酸石灰を封入したズック製の袋。

「水溶(すゐやう)十九」先の注の引用にあった市販品の品位の可溶性リン酸の平均十八%前後というのと一致する。これは定量水溶でその濃度になるという表示であろう。「學校のは十五%」というのは品質が悪いということである。

「わたくしの黃いろな仕事着もぬれる」こで初めて詩人が黄色い作業着を着ていたことが明らかにされる。誰も、そんなものを着せて、この主人公に詩人をここまで動かしてきてはいないであろう。なかなか、吃驚である。

「つめくさ」既出既注。マメ目マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens のこと。ヨーロッパ原産の帰化植物。本邦に夥しく繁殖したのは、明治以降に家畜の飼料用として導入されたものが野生化して以降のこと。

「菩提樹(まだ)皮」「菩提樹(まだ)」とは本邦特産種である落葉高木アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica(シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana は同属の別種なので注意)。漢字表記は「科の木」「級の木」「榀の木」等。ウィキの「シナノキ」によれば、『九州から北海道までの山地に分布する。幹の直径は』一メートル、『樹高は』二十メートル『以上になる。樹皮は暗褐色で』、『表面は薄い鱗片状で縦に浅く裂けやすい』。『樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く主にロープの材料とされてきた』。『古くは木の皮の繊維で布を織り』、『衣服なども作られた。アイヌは衣類など織物を作るためにシナノキの繊維を使った。現在でもインテリア小物などの材料に使われる事もある』とある。また、小学館「日本国語大辞典」の「しなのき【科木】」によれば、『和名は』「結ぶ」『意味のアイヌ語に基づく』とし、用例に幕末の本草家小野蘭山述・井岡冽(れつ)筆記の「大和本草批正(ひせい)」(貝原益軒の「大和本草」の誤謬を各個的に指摘し正した本草書)の「十二」から、『へらの木 しなのきなり。南都にてまだのまと云。大木なり』とある(太字下線やぶちゃん)。この「シナノキ」の樹「皮」を張り付けて出来た、「厚いけらをかぶつて」/「さつきの娘たちが」雨の中で「ねむつてゐる」というのは、ああ! アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Тарковский)の映画のワン・シーンのようではないか!!! 但し、これは実景ではないのかも知れない。後に出る「童話」の幻視が、フライングしてインサートされたとも思われる。

「ぼとしぎのつめたい發動機は」先のYou Tube の片山昇一氏の「野鳥 オオジシギの鳴き声」お聴きになれば、この隠喩が痛いほど、判る。

「ぼとしぎはぶうぶう鳴り」/「いつたいなにを射たうといふのだ」後者は先ほどの猟銃男への言いかけのようにも見えるが、この連なりでは、「ボトシギ」(オオジシギ)の長い嘴が鉄砲のように感じられ、奇体な機械仕掛けのその鳴き声と相俟って、「ぼとしぎよ! お前は何を撃とうとするのか?」と詩人が「ぼとしぎ」に問い掛けているような奇妙な錯読を起させる。

「セシルローズ」イギリス帝国の植民地政治家セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes 一八五三年~一九〇二年)。南アフリカの鉱物採掘で巨富を得、一八九〇年にケープ植民地の首相となり、占領地に自分の名「ローデシア」(Rhodesia:現在のザンビア・ジンバブエを合わせた地域の旧称)を冠した。南アフリカの政治・経済の実権を一手に握り、その威風は帝王を思わせ、「アフリカのナポレオン」と呼ばれた(以上はウィキの「セシル・ローズ」に拠る)。ギトン氏のこちらによると、四十九歳で死去したが、『生涯を独身で通し』たとあり、『この段階の賢治は、植民地主義に疑問を持っていなかったと思われ』、『生涯独身ということで、セシル・ローズには親しみを持っていたのではない』かと添えられ、『写真を見ると、たしかに太っていて肩が丸い』とある。ギトン氏の別ページのセシル・ローズの画像はこちら(先のウィキのものと思われる)。

「二つはちやんと肩に着てゐる」降っている雨を凌ぐために、さっきの「燐酸のあき袋を」裂いて、両肩に装着していることを言っているのであろう。

「降つてげだごとなさ」不詳。「生憎、雨が降ってきたなあ」の意か。これが、賢治の若い農夫への声掛けで、「なあにすぐ霽れらんす」(なあに、すぐ晴れますて)と農夫がごく気さくに応じたのであろう。農夫は描写されなかったが、既に焚かれていた焚火のところへと移動する(向うからやって来た若い農夫であったが、後で「農夫も戾るし」「わたくしもついて行かう」と続くので、賢治のいる位置より少し前方(先或いは左右の直近)であることが判る)。或いはこの農夫は肥料撒きに使って、放り出してあったズック袋を集めて、それを焚き代として、雨の寒さ凌ぎに焚火をしていたものかも知れぬ。

「㷔」(ほのほ)。「焰」の異体字。

「これらのからまつの小さな芽をあつめ」/「わたくしの童話をかざりたい」以下、落葉松「の小さな芽」、「パート三」の終りで「ネクタイピンにほしいくらゐだ」と言ったそれを集めて、幻想した童話の映像が立ち現れるのである。しかし、宮澤家「手入れ本」ではこの二行を斜線で消している。こうされていたら、以下の読解は非常に困難となっていたろう。

「ひとりのむすめがきれいにわらつて起きあがる」即ち、私はこの一人の娘の存在は現実ではないと採るのである。その焚火のそばで、娘(前の二人の少女の一人でもよいし、彼女たちが既に年上になっているという私の偏愛する(私はそれを何十回読んだか判らぬ)ロバート・ネイサン(Robert Nathan 一八九四年~一九八五年)の「ジェニーの肖像」(Portrait of Jennie:一九三九年刊のようであったとしても全然構わぬ。ただ以下では「みんな」とあるから、そこに寝ているのは恐らく三人以上でなくてはならない)たちが、焚火のそばで眠っていたのが、一人、ぱっ! と眼を開いて起き上がるシーンのアップである。

「うな いいおなごだもな」「にはかに」「そんなに」も「大聲」で「どな」るのは、娘の起き上がった時のその美しさに、思わず、恥ずかしがって顔を赤らめ(「まつ赤になつて」)「石臼のやうに笑ふのは」幻想の中に登場させた男の台詞で、それはさっきの現実の「若い農夫」ではないのである。だからこそ「このひとは案外にわかいのだ」という一行は、先の「わかい農夫」と矛盾しないのである。

「すきとほつて火が燃えてるる」/「靑い炭素のけむりも立つ」/「わたくしもすこしあたりたい」ここで総天然色の幻想が、「火」のクロース・アップを経て、現実へと帰還するのである。これも殆んど、タルコフスキイ! 「アンドレイ・ルブリョフ」(Андрей Рублёв)のエンディングのではないか!

「火は雨でかへつて燃える」これは一見、矛盾のようにも見えるが、或いは、賢治の心の内なる「火」の心象、「修羅」の投影なのかも知れない。

「自由射手(フライシユツツ)は銀のそら」「自由射手(フライシユツツ)」とは「フライシュッツ」(Freischuetz)で、カール・マリア・フォン・ウェーバーが作曲した全三幕のオペラ「魔弾の射手」(Der Freischütz:一八二一年ベルリン王立劇場初演)。のシノプシスと解説はサイト『クラシック音楽「名曲」の解説と名盤(Musica Classica)』のこちらを。私はオペラが嫌いで、全く分らぬので、最後にまた、ギトン氏の解釈に全面的に枝垂れかかることとする(そのため、下書き稿や清書稿が例外的に出る)。氏は、この行については、ここで、『さきほどから、けわしく輝いては、激しい動きを見せていた大空は、「自由射手(フライシユツツ)」──どこに弾を撃ってくるか分からない悪魔の狩人を産み落としたのでした』。『この行は、【下書稿】では』、

射手は銀空 黑外套

『でした。ウェーバーの『魔弾の射手』が導入されたのは、散逸した【清書稿】以後なのです』。『賢治は、「黒外套」などという生やさしいものでは足りず、《狼ノ森》⇒《狼谷》から思いついた『魔弾の射手』で、最後の仕上げをしたのだと思います』。『最後の仕上げ──“7発目の魔弾”を仕込んだのです』。『そうです』……『「パート7」こそは、“7発目の魔弾”』『なのです』……『だから』こそ『作者は、「パート5」「パート6」になる部分を削った後も、「パート7」という章の番号をそのままにしたのです』。『このパートには、毒針が隠されています………』『しかし、今回の“解読”は、このへんで止めておきましょう』。『最後まで読み解いてしまったら、皆さんが推理する楽しみを奪うことになってしまいますから』……とある。このギトン氏の考証の開始箇所はで、そこを含めて、五回分で解読しておられる。下部の「次へ→」で読まれたい。ただ、私はそれらを読んでも、ギトン氏の言われる『毒針』の『解読』は出来なかった。あなたにはそれが判るかも知れない。試みられよ……

2018/11/16

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす) (ウグイス)

Uguisu

うくひす 黃鳥 黃𪈹

     倉庚 青鳥

【鸎同】

     黧黃 黃袍

     搏黍 楚雀

イン 黃伯勞 金衣公子

 

本綱鶯狀大於鸜鵒雌雄雙飛体毛黃色羽及尾有黑色

相間黑眉尖觜青脚立春後卽鳴麥黃椹熟時尤甚其音

圓滑如織機聲乃應節趨時之鳥也【說文倉庚鳴則蠶生月令倉庚二月鳴】

冬月則藏蟄入田塘中以泥自裹如卵至春始出

肉【甘溫】此鳥感春陽先鳴所以補人食之令人不妒

三才圖會云州毎至冬月於田畝中得土堅圓如卵者

輙取以賣破之鶯在其中無羽毛候春始生羽破土而出

渚山記云鶯如鴝鵒而色蒼毎至正二月鳴曰春起至三

月止鳴曰春去採茶之候也呼爲報春鳥

 拾遺鶯の聲なかりせは雪消ぬ山里いかて春を知らまし

△按鶯【和名宇久比須】〕 出于和州奈良爲上信州奈良井之産

 次之形似目白鳥而肥黧黑而黃色腹灰白眼纎觜細

 尖而觜脚掌共灰黑色眉有三毛灰白長二三分吻有

 三髭長四五分雌及未老者其毛短鳴則揺尾冬月如

 曰喞喞似人舌皷至立春始囀季春止其聲清亮圓滑

 飛啼則急而長如曰法華經或如曰古計不盡或如曰

 月星日【謂囀三光】和州人畜鶯雛時教之以口笛竟令囀三

 光而後又置雛於側亦令習之今往往有之蓋鶯形色

 和漢大異也但立春始囀也聲清亮也古今詩歌稱美

 之者和漢不異也冬月蟄於土之説未知是非倩因土

 地物有異同也不唯鶯而蕪菁【湖東者微紅而長湖西者正白而圓】纔隔

 地異其形

 

 

うぐひす 黃鳥 黃𪈹〔(こうり)〕

     倉庚 青鳥

【「鸎」も同じ。】

     黧黃〔(りこう)〕

     黃袍〔(こうはう)〕

     搏黍〔(はくしよ)〕

     楚雀

イン 黃伯勞 金衣公子

 

「本綱」、鶯、狀、鸜鵒〔(はつかてう)〕より大なり。雌雄、雙飛〔(さうひ)〕す。体の毛、黃色。羽及び尾、黑色有り〔て〕相ひ間〔(まぢ)〕はる。黑き眉、尖れる觜、青き脚。立春の後、卽ち、鳴く。麥、黃ばみ、椹(くはのみ)、熟する時、尤も甚し。其の音〔(こゑ)〕、圓滑にして機〔(はた)〕を織る聲のごとし。乃〔(すなは)〕ち、節に應じて時を趨〔(お)ふ〕の鳥なり【「文」、『倉庚、鳴けば、則ち、蠶〔(かひこ)〕、生ず』〔と〕。「月令〔(がつりやう)〕」、『倉庚、二月に鳴く』〔と〕。】冬月には、則ち、藏蟄〔(ざうちつ)〕す。田の塘〔(つつみ)〕の中〔(うち)に〕入り、泥を以つて自〔(みづか)らを〕裹〔(つつ)み〕、卵のごとし。春に至り、始めて出づ。

肉【甘、溫。】此の鳥、春陽に感じて、先づ鳴く。人を補ふ所以なり。之れを食ひて、人をして妒(ねた)まざらしむ。

「三才圖會」に云く、『州、毎〔(つね)〕に冬の月に至りて、田畝の中に於いて土の堅-圓(かたまり)を得。卵のごとくなる者を、輙〔(すなは)ち〕取りて以つて賣る。之れを破れば、鶯、其の中に在りて、羽毛無し。春の始め、羽の生ふるを候〔(うかが)ひ〕て、土を破りて出づ』〔と〕。「渚山記」に云はく、『鶯、鴝鵒〔(はつかてう)〕のごとくして、色、蒼〔し〕。毎〔(つね)〕に、正、二月に至りて、鳴くを、「春起」と曰ふ。三月に至りて鳴き止む。〔これを〕「春去」と曰ふ。茶を採るの候なり。呼びて、「報春鳥」と爲す』〔と〕。

 「拾遺」

   鶯の聲なかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし

△按ずるに、鶯【和名「宇久比須」。】〕は、和州奈良に出づ〔るを〕上と爲す。信州奈良井の産、之れに次ぐ。形、目白鳥に似て、肥え、黧黑(すゝぐろ)くして黃色。腹、灰白。眼、纎〔(ほそ)〕く、觜、細く尖りて、觜・脚・掌、共に灰黑色。眉〔に〕三毛有り〔て〕灰白、長さ二、三分。吻、三〔つの〕髭〔(ひげ)〕有り。長さ四、五分。雌及び未だ老いざる者は、其の毛、短し。鳴くときは、則ち、尾を揺〔(ゆる)〕かす。冬月、「喞喞(つゑつつゑつ)」と曰ふがごとし。人の舌皷〔(したつづみ)〕に似たり。立春に至り、始めて囀り、季春に止む。其の聲、清亮・圓滑、飛〔び〕啼〔くに〕、則ち、急に長く、「法華經」と曰ふがごとく、或いは「古計不盡(こけふじ)」と曰ふがごとく、或いは「月星日〔(つきほしひ)〕」と曰ふがごとし【「三光を囀る」と謂ふ。】。和州の人、鶯の雛を畜ひて、時々(をりをり)之れに教ふるに、口笛を以つてす。竟〔(つひ)〕に「三光」を囀らしむ。後、又、雛を側に置きて、亦、之れを習はしむ。今、往往、之れ有り。蓋し、鶯の形色、和漢、大いに異〔(ことなる)〕なり。但し、立春に始めて囀や、聲〔の〕清亮なるや、古今〔の〕詩歌〔の〕之れを稱美するは、和漢、異ならざるなり。冬月、土に蟄(すごも)るの説、未だ是非を知らず。倩々〔(つらつらおもんみ)るに〕土地に因りて、物、異同有るや、唯〔(ただ)〕鶯のみならずして、蕪-菁(かぶら)【湖東は微紅にして長く、湖西は正白にして圓〔(まろ)〕し。】纔〔(わづ)〕かに地を隔〔つるも〕、其の形を異〔と〕す。

[やぶちゃん注:良安の言うのは、無論、スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone であるが(詳細亜種は後述)、前の「本草綱目」の叙述のそれは、大きさが有意に大きく、全身の主調色が黄色であったり、どぎつく黒い眉であったりという叙述に不審が起こる通り、スズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis であって、これはウグイスとは全くの別種で、類縁関係はないので注意!(後述(引用中))

 私にとっては雀より遙かに親しい鳥で、春の到来は寝室のすぐ裏の山からの彼らの囀りで知り、二階にある書斎の窓の直近の山桜に飛来する彼らは、窓に倚る私を恐れない。本邦で見られるウグイスは以下の亜種(主にウィキの「ウグイス」に拠る。以下の引用もこちら)。

ウグイス Horornis diphone cantans(北海道から九州まで広く分布する普通種)

ハシナガウグイス Horornis diphone diphone(普通種と比較して、やや小型で嘴が長く、囀りは活発ではなく、縄張りは狭い)

ダイトウウグイス Horornis diphone restrictus(南大東島で大正一一(一九二二)年に二羽が発見・採集されたが、その後に記録がなく、絶滅したものと考えられていたが、二〇〇一年以降に沖縄本島と喜界島に棲息していることが確認された)

リュウキュウウグイスHorornis diphone riukiuensis(繁殖地は不明。越冬のため、冬に沖縄に飛来する。但し、現在、この種には有意に異なるグループが確認されており、分割される可能性があるようだ)

 日本三鳴鳥(日本に棲息する囀りが美しいスズメ目の三種を指す。ウグイスの他は、オオルリ(大瑠璃)Cyanoptila cyanomelana コマドリ(駒鳥)Erithacus akahige(リンク先はYou Tube の音声附動画)の一種。『種の範囲の定義により、分布域は多少変化するが、大まかにいって東アジアに生息する』。『現代的な分類でのウグイス(マンシュウウグイス』(Horornis diphone canturians)『を含み』、『チョウセンウグイス』(Horornis borealis:但し、現在の最新の分類学ではマンシュウウグイスとともに広義のウグイスに含められている)『を含まない)は、日本(南西諸島を含む)、サハリン、東部・中部中国で繁殖し、南部・東南部中国、台湾、東南アジアで越冬する』。『伝統的な(』二〇〇〇『年代までの)分類に基づく場合、「広義の (sensu lato) ウグイス」(チョウセンウグイスも含む)の繁殖地には南東シベリア、中国東北部、朝鮮半島が加わる。「狭義の (sensu stricto) ウグイス」(マンシュウウグイスも含まない)は、日本(南西諸島を含む)とサハリンのみで繁殖し、南部・東南部中国、台湾で越冬する』。『ハワイ諸島にも分布するが、これは日本から移入されたものである』。『日本ではほぼ全国に分布する留鳥。ただし』、『寒冷地の個体は冬季に暖地へ移動する。平地から高山帯のハイマツ帯に至るまで生息するように、環境適応能力は広い。笹の多い林下や藪を好むが』、『さえずりの最中に開けた場所に姿を現すこともある』。『英名の「Bush Warbler」は』、「藪で囀る鳥」を『意味している。警戒心が強く、声が聞こえても姿が見えないことが多い』。『体長はオスが』十六センチメートル、メスが十四センチメートルで、『スズメとほぼ同じ大きさ』。『翼開長はオスが』二十一センチメートル、メスが十八センチメートル。『体色は、背中がオリーブ褐色で、腹面は白色、全体的に地味である。雌雄同色』。『ウグイスの卵の長径は』一・八センチメートル、『ホトトギス』(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)『の卵の長径は二・二センチメートルで、『色はほぼ同じで、ホトトギスの托卵対象となる』(托卵については「林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」で詳述したので、参照されたい。なお、「杜鵑(ほととぎす)」は次項である)。『食性は雑食だが、夏場は主に小型の昆虫、幼虫、クモ類などを捕食し、冬場は植物の種子や木の実なども食べる』。『繁殖期は初夏で、オスは縄張りをつくり「ホーホケキョ」と』実に一日に一千回ほども『鳴くことがある』。『横穴式の壺形の巣をつくり』、四~六個の卵を産み、メスが雛を育てる』。『亜種のハシナガウグイスは』二~三『個の卵を産み、オスも雛への給餌を行う』。『さえずりは「ホーホケキョ、ホーホケキキョ、ケキョケキョケキョ……」、地鳴きは「チャッチャッ」』。『さえずるのは縄張り内を見張っているオスで、「ホーホケキョ」が他の鳥に対する縄張り宣言であり、巣にエサを運ぶメスに対する「縄張り内に危険なし」の合図でもある。「ケキョケキョケキョ」が侵入した者や外敵への威嚇であるとされており、これを合図に、メスは自身の安全のためと、外敵に巣の位置を知られないようにするため』、『エサの運搬を中断し』、『身をひそめる』。『平地にて鳴き始める季節が早春であることから』、「春告鳥(はるつげどり)」の』『別名があ』り、『本州中部あたりでは 』二『月初旬頃からさえずり始め』、八『月下旬頃までが』、『よく聞かれる時期』であるが、十『月頃まで』、『弱いさえずりが聞かれることがある』。『「ホーホケキョ」とさえずるのを初めて聞いた日を『ウグイスの初鳴日』と呼び、気象庁が生物季節観測に用いている』(以下は引用元の表現や引用に問題があるので、私がオリジナルに附した)。

 平安前期の歌人で書家としても知られた藤原敏行(?~延喜七(九〇七年)又は延喜元(九〇一)年:藤原南家巨勢麻呂流の陸奧出羽按察使藤原富士麻呂の子。従四位上・右兵衛督)は「古今和歌集」の巻第十 物名」の巻頭で(四二二番)、

    鶯(うぐひす)   藤原便行朝臣

 心から花のしづくにそぼちつつうくひずとのみ鳥の鳴くらむ

と詠じている。「心から」は「自(おのずか)ら」で「自分自身の意志で」の意。「うくひず」は「憂く干ず」と鶯」の掛詞。「自分から花の雫に濡れたのに、何ゆえに鶯よ、「厭だ! 乾かぬ!」とばかり鳴くのか? ということ(因みに、次も(四二三番)彼の歌で、

    郭公(ほとゝぎす)

 來べきほど時すぎぬれや待ちわびて鳴くなる聲の人をとよむる

とホトトギスと並べてある。「とよむる」は主説は「賛美して騒がせる」の意。以下、ウィキの引用に戻る。

『古くは鳴き声を「ウー、グイス」または「ウー、グイ」と聴いていて』、『和名の由来であるとする説がある』。『東京都台東区鶯谷の地名の由来は、元禄年間に京都の皇族の出である公弁法親王が「江戸のウグイスは訛っている」として、尾形乾山に命じて京都から』三千五百『羽のウグイスを取り寄せて放鳥し、以後鳴きが良くなりウグイスの名所となったという逸話に由来する』。『日本から持ち込まれたハワイに生息している種の鳴き声(さえずり)は日本に生息しているものと比較して単純化されている』、『と国立科学博物館の筑波研究施設が発表した』。『これはハワイでは縄張り争いや繁殖の争いが』、『日本に比べて激しくないためと推測されている』。「別名」の条。『春鳥(ハルドリ)、春告鳥(ハルツゲドリ)、花見鳥(ハナミドリ)、歌詠鳥(ウタヨミドリ)、経読鳥(キョウヨミドリ)、匂鳥(ニオイドリ)、人来鳥(ヒトクドリ)、百千鳥(モモチドリ)、黄鳥(コウチョウ)、金衣公子(キンイコウシ)、報春鳥(ホウシュンドリ)、黄粉鳥(キナコドリ)、禁鳥(トドメドリ)、初音(ハツネ)』『など多くの異称を持つ』(以下、下線やぶちゃん)。『「鶯」の漢字がさす鳥は』、『日本語と中国語では異なる。日本では、本記事のウグイスのことをさす』が、『古来』、『中国の漢詩等では別上科カラス上科のコウライウグイス』(高麗鶯:スズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis:インド・インドネシア・カンボジア・シンガポール・韓国・中国・台湾・北朝鮮・バングラデシュ・フィリピン・ベトナム・ミャンマー・ラオス・ロシアに棲息し、日本には、主に日本海側に、渡りの途中、稀に飛来する旅鳥である。全長二十六センチメートル。嘴の基部から眼を通る筋模様(眼過線)が入る。眼過線は黒く、左右の眼過線が後頭部で繋がる。は全身が黄色い羽毛で覆われ、は羽毛が緑がかった黄色の羽毛で覆われる。平地から山地にかけての森林に棲息し、様々な鳴き声を上げるが、ウグイスとは全く異なる異様な(私にはその姿がグラサンを掛けた茶髪の不良少年のように見えるのと同じく、ウルトラ怪獣の異様な吠え声のように聴こえる)ものである(You Tube terumeMovie氏の「コウライウグイス」をリンクさせておく)。「黄鳥」等の名前で漢詩にも登場する(以上はウィキの「コウライウグイス」に拠った)しかし、これが本篇の「本草綱目」引用(冒頭標題の異名も総て含む)部(「巻四十九」禽部林禽類「鸎」。「本草綱目」の標題表記は「鶯」ではなく「鸎」であるので検索する場合は注意)での正体なのである! 則ち、その部分は本邦のウグイスではないコウライウグイスの記載として再読して戴く必要があるのである『のことである。両者とも美声を愛でられる鳥だが、声も外見も非常に異なり』、『分類的な類縁はない』(『現在の中国ではウグイス科』(Cettiidae)『は鶯科であり』、『ウグイスを「日本树莺」(日本樹鶯)と表記する。またコウライウグイス科』(Oriolidae)『は黄鸝科であり』、『コウライウグイスは「黄鸝」または「黄鳥」と表記する』)。ウグイスの『飼養は、古くから行なわれ、足利義政の頃に流行し、その弊害の大きさから法度において禁じられたが、江戸時代、とくに文化から弘化にかけて、流行し、徳川家治、徳川家斉もこれを愛し、小納戸役にお鳥掛という職を置いたほどであった』。その飼養法は、『一番子の雛を巣ごと持ち帰り、藁製の畚(ふご)に入れ、巣口を綿で覆い、その畚を小蒲団で包み、温かい室内に置き、雛が』、「ピピピ」と『鳴いて餌を求めたら』、『すり餌を与え、夜は暖房して寒さを防ぐ。羽翼が整って離巣するようになれば』、一『羽ずつ籠に移す。籠には親籠、雛籠、付籠、袖籠(付子の雛を持ち運ぶ)、旅籠(遠方に携行する)、水籠(水浴びさせる)などの種類がある。籠にいれたウグイスはさらに籠桶(こおけ)に入れる。籠桶はキリ製で、高さ』四十五センチメートル『ほど、幅』三十センチメートル『ほど、長さ』八十センチメートル『ほどで、正面は障子のけんどん』(倹飩:饂飩や蕎麦などの一杯盛りの食品を入れてきっちりと蓋をして落下しないように運ぶ箱のことを「倹飩箱」と称するように、上下又は左右に溝が切ってあって蓋の嵌め外しが出来るようになっている構造物の側面を指す『になっている。キリ製なのは、それ以外では、琴と同じく、鳴く音と調和しないからであるという。餌はすり餌が中心で、活き餌も用いる。すり餌は、玄米、米ぬか、青葉で作る。活き餌は、アオガエル、ヤナギの虫(ボクトウガの幼虫)、クサギの虫(コウモリガの幼虫)、エビヅルの虫(ブドウスカシバの幼虫)、イナゴなどである。その他、シンクイムシ、ミールワーム、ヨーロッパイエコオロギ、ヒメツメガエルなど』、『入手しやすい活き餌がある。時期的に早く鳴かせるには、夜飼法などの方法がある。これは夜、籠桶の障子をはずして燈火に向けるもので、これを鳥をあぶるという』。九『月中旬から始めて、冬から春にかけて鳴かせる。付子といって、親鳥が鳴く音を練習させる方法もある。親鳥の籠桶から約』二メートル『離れたところに雛の籠桶を置き、自然に鳴方を習得させるものである』とある。【2018年11月19日追記】後の「蟲喰鳥」の注で、清少納言の「枕草子」の所謂、「鳥尽くし」の章段の「鶯は」のパートを電子化して載せたので参照されたい。

 

「本綱……前に述べた通り、くどいが、ここは少なくとも「三才圖會」(ここ。国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本の解説頁の画像。挿絵は前頁にあるので、左端の三角ボタンをクリック)パートまでは(「渚山記」(唐の元結の撰になる地理書)のそれは体色を「蒼」と称しており、或いは我々の言うウグイスを指している可能性があるので留保するが、恐らくは「鴝鵒〔(はつかてう)〕のごとくして」の部分からみて、同じくコウライウグイスと思われる)スズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis の叙述と読み変えて、スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone の叙述に転じる良安の評言以下と、明確に区別して読まれたい。

「鸜鵒〔(はつかてう)〕」スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus。さんざん述べたのであるが、「和漢三才図会」で良安は、この「鸜鵒」が如何なる種を指しているかについては混乱をきたしている。失礼ながら、東洋文庫版訳でもそれをはっきりと明示しておらず、言わせて貰うなら、そうした混乱があることに目を瞑って現代語訳しているとしか思われない(この「鸜鵒」という見慣れない鳥に東洋文庫は、まず、ルビを附していない。音読みさえ躊躇されるこれにルビがないというのは、まさに訳者がこれが現在の如何なる種であるを表記するのが難しいために、安易にソッポを向いて誤魔化しているのだとしか思われないということである)。その混乱・誤認については、「林禽類 鸜鵒(くろつぐみ)(ハッカチョウとクロツグミの混同)の注で私の推理を細かく示してあるので参照されたい。

「鸜鵒〔(はつかてう)〕より大なり。雌雄、雙飛〔(さうひ)〕す。体の毛、黃色。羽及び尾、黑色有り〔て〕相ひ間〔(まぢ)〕はる。黑き眉、尖れる觜、青き脚」総てがウグイスに当てはまらず、コウライウグイスに一致する形態である。

「節」時節。

「趨〔(お)ふ〕」東洋文庫訳では『趨(あわ)す』(「合わす」であろう)とルビするが、「趨」にはそのような意味はない。私は「追ふ」の意で採った。ある時節の到来を鋭く感知して(感応して)それに遅れることなく「追う」ように同時期に一斉に囀る、と採ったのである。

文」現存する中国最古の部首別漢字字典「説文解字」。後漢の許慎の作で、西暦一〇〇年)に成立、一二一年に許慎の子許沖が安帝に奉納した。本文十四篇・叙(序)一篇の十五篇からなり、叙によれば、小篆の見出し字九千三百五十三字、重文(古文字及び篆書体や他の異体字等)千百六十三字を収録する(現行本では、これより少し字数が多い)。漢字を五百四十の部首に分けて体系づけ、その成立を解説し、字の本義を記してある(ここはウィキの「説文解字」に拠った。判り切った書物なので、今まで出てきても注していなかったことから、ここで示した)。

「倉庚、鳴けば、則ち、蠶〔(かひこ)〕、生ず」春蚕(はるご)の孵化は太陽暦で四月上・中旬である。

「月令〔(がつりやう)〕」複数回既出既注。「礼記」の「月令」(がつりょう)篇(月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。そうした記載の一般名詞としても用いる)。

「藏蟄〔(ざうちつ)〕」穴籠り。巣籠りとしたくなるが、以下に見る通り、地面の中に卵状にメタモルフォーゼして冬眠するというので、文字通りなのである。なお、コウライウグイスは二股の枝の間にハンモック状に丸い籠状の巣を作る(この巣を見た古人は樹にロープを張ってハンモックを創始したともされる)。ウグイスは先の引用に『横穴式の壺形の巣』とするが、言わずもがなながら、土中ではないから、孰れでもこの叙述はおかしい。

「塘〔(つつみ)〕」堤。

「泥を以つて自〔(みづか)らを〕裹〔(つつ)み〕、卵のごとし」良安ばかりでなく、私たちにもこの記載は全く以って不審である。

「人を補ふ所以」漢方で人の精気を補益するところのもの。

「妒(ねた)まざらしむ」他者に対する妬(ねた)み心を消させる。順正な春の「陽」の気に依って、そうした精神安定の効験がある、というのである。一種の共感呪術である。

州」湖南・湖北地方の広称。

「毎〔(つね)〕に冬の月に至りて、田畝の中に於いて土の堅-圓(かたまり)を得」汎世界的に見られる、人間を含む生命の卵生説話の残滓か? 先の「陽」の気との関わりがあるように思われる。

「候〔(うかが)ひ〕て」雛自らが察して。

「渚山記」既注。

「拾遺」「鶯の聲なかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし」「拾遺和歌集」の「巻第一 春」の、藤原朝忠(延喜一〇(九一〇)年~康保三(九六七)年:藤原北家三条右大臣藤原定方の五男)の一首(十番)、

   天曆十年三月廿九日内裏歌合に 中納言朝忠

 鶯の聲なかりせば雪消えぬ山里(やまざと)いかで春を知らまし

天曆十年はユリウス暦九一五年。「三月廿九日」はユリウス暦で三月十七日でグレゴリオ暦に換算すると三月二十二日に当たるから、現在なら、ウグイスの初音がもう聴こえている頃である。但し、当時はもっと気温が低かったから、或いはそれをまさに今かと待ち望む形の詠かも知れぬ。

「和州」大和。

「信州奈良井」現在の長野県塩尻市奈良井。木曾の三宿(奈良井宿・妻籠宿・馬籠宿)の一つとして知られる。ここ

「目白鳥」スズメ目メジロ科メジロ属メジロ Zosterops japonicus

「黧黑(すゝぐろ)く」「黧」(音「レイ・ライ・リ」)は訓で「つしむ・つじむ」と読み、「青黒い斑点が附く・さらの基底色に色が附いて滲む」の意。

「二、三分」六~九ミリメートル。

「吻、三〔つの〕髭〔(ひげ)〕有り。長さ四、五分」一・二~一・五センチメートル。ウグイスの頭部の拡大画像を幾つか見ると、個体によっては、確かに嘴の上部や下部の基部にツンと出た羽毛があり、それをかく言っているものかと思われる。

「喞喞(つゑつつゑつ)」「喞」(音「ショク・ソク」)はそれ自体が「鳴く。すだく。虫が集まって鳴く)の意があり、「喞喞」(ショクショク)は「虫がしきりに鳴くさま・悲しみ嘆くさま」に使用する。後者は「喞」に「かこつ・不平を言って歎く」の意があるからである。「喞」の現代中国音は「」(ヂィー)でこの「つゑつつゑつ」は不審。単なるオノマトペイアとしても、この漢字は当てられないように思われる。

「清亮」音が清らかで澄んでいること。

「圓滑」滑(なめ)らかで、角立(かどだ)たないこと。

「古計不盡(こけふじ)」よく判らぬが、「古へを計(おしはか)りて盡きず」の意か? 次の「月星日」辺りから、時空間を知る智を比喩するか? 識者の御教授を乞う。

『「月星日〔(つきほしひ)〕」と曰ふがごとし【「三光を囀る」と謂ふ。】』「三光鳥」の名を和名に持つのは、スズメ目カササギヒタキ科サンコウチョウ属サンコウチョウ Terpsiphone atrocaudata(囀りが「ツキヒーホシ、ホイホイホイ」と聴こえることに由る)やスズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata(異名。「キーコー、キー」と聴こえることに由る。本種は「林禽類 桑鳲(まめどり・まめうまし・いかるが)(イカル)で既出)がいるので、注意が必要。

「蕪-菁(かぶら)」(原典のルビは「蕪」にしかないが、かく判断した)アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブ(アジア系)Brassica rapa var. glabra

「湖東は微紅にして長く、湖西は正白にして圓〔(まろ)〕し」ウィキの「カブ」に『胚軸及び根は多くの場合』、『白色だが、赤色で赤蕪と呼ばれるものもあり、東日本に多いとされる』とある。]

2018/11/15

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート四



         
パート四

 

本部の氣取(きど)つた建物が

櫻やポプラのこつちに立ち

そのさびしい觀測臺のうへに

ロビンソン風力計の小さな椀や

ぐらぐらゆれる風信器を

わたくしはもう見出さない

 さつきの光澤消(つやけ)しの立派の馬車は

 いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。

 五月の黑いオーヴアコートも

 どの建物かにまがつて行つた

冬にはこゝの凍つた池で

こどもらがひどくわらつた

 (から松はとびいろのすてきな脚です

  向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか

  それとも野はらの雪に日が照つてゐるのでせうか

  氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです

  おまへさんたちの頰つぺたはまつ赤ですよ)

葱いろの春の水に

楊の花芽(ベムベロ)ももうぼやける……

はたけは茶いろに堀りおこされ

廐肥も四角につみあげてある

並樹ざくらの天狗巢には

いぢらしい小さな綠の旗を出すのもあり

遠くの縮れた雲にかかるのでは

みづみづした鶯いろの弱いのもある……

あんまりひばりが啼きすぎる

  (育馬部と本部とのあひだでさへ

   ひばりやなんか一ダースできかない)

そのキルギス式の逞ましい耕地の線が

ぐらぐらの雲にうかぶこちら

みぢかい素朴な電話ばしらが

右にまがり左へ傾きひどく乱れて

まがりかどには一本の靑木

 (白樺だらう 楊ではない)

耕耘部へはここから行くのがちかい

ふゆのあひだだつて雪がかたまり

馬橇(ばそり)も通つていつたほどだ

 (ゆきがかたくはなかつたやうだ

  なぜならそりはゆきをあげた

  たしかに酵母のちんでんを

  冴えた氣流に吹きあげた)

あのときはきらきらする雪の移動のなかを

ひとはあぶなつかしいセレナーデを口笛に吹き

往つたりきたりなんべんしたかわからない

   (四列の茶いろな落葉松(らくやうしやう))

けれどもあの調子はづれのセレナーデが

風やときどきぱつとたつ雪と

どんなによくつりあつてゐたことか

それは雪の日のアイスクリームとおなし

 (もつともそれなら暖爐(だんろ)もまつ赤(か)だらうし

     muscobite も少しそつぽに灼(や)けるだらうし

  おれたちには見られないぜい澤(たく)だ)

春のヴアンダイクブラウン

きれいにはたけは耕耘された

雲はけふも白金(はくきん)と白金黑(はくきんこく)

そのまばゆい明暗(めいあん)のなかで

ひぼりはしきりに啼いてゐる

  (雲の讚歌(さんか)と日の軋(きし)り)

それから眼をまたあげるなら

灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ

亞鉛鍍金(あえんめつき)の雉子なのだ

あんまり長い尾をひいてうららかに過ぎれば

もう一疋が飛びおりる

山鳥ではない

 (山鳥ですか? 山で? 夏に?)

あるくのははやい 流れてゐる

オレンヂいろの日光のなかを

雉子はするするながれてゐる

啼いてゐる

それが雉子の聲だ

いま見はらかす耕地のはづれ

向ふの靑草の高みに四五本乱れて

なんといふ氣まぐれなさくらだらう

みんなさくらの幽靈だ

内面はしだれやなぎで

鴇(とき)いろの花をつけてゐる

  (空でひとむらの海綿白金(プラチナムスポンヂ)がちぎれる)

それらかゞやく氷片の懸吊(けんちよう)をふみ

靑らむ天のうつろのなかへ

かたなのやうにつきすすみ

すべて水いろの哀愁を焚(た)き

さびしい反照(はんせう)の偏光(へんくわう)を截れ

いま日を橫ぎる黑雲は

侏羅(じゆら)や白堊のまつくらな森林のなか

爬蟲(はちゆう)がけはしく齒を鳴らして飛ぶ

その氾濫の水けむりからのぼつたのだ

たれも見てゐないその地質時代の林の底を

水は濁つてどんどんながれた

いまこそおれはさびしくない

たつたひとりで生きて行く

こんなきままなたましひと

たれがいつしよに行けやうか

大びらにまつすぐに進んで

それでいけないといふのなら

田舍ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ

それからさきがあんまり靑黑くなつてきたら……

そんなさきまでかんがへないでいい

ちからいつぱい口笛を吹け

口笛をふけ 陽(ひ)の錯綜(さくさう)

たよりもない光波のふるひ

すきとほるものが一列わたくしのあとからくる

ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り

またほのぼのとかゞやいてわらふ

みんなすあしのこどもらだ

ちらちら瓔珞(やうらく)もゆれてゐるし

めいめい遠くのうたのひとくさりづつ

綠金寂靜(ろくきんじやくじやう)のほのほをたもち

これらはあるひは天の鼓手(こしゆ)、緊那羅(きんなら)のこどもら

 (五本の透明なさくらの木は

  靑々とかげらふをあげる)

わたくしは白い雜囊をぶらぶらさげて

きままな林務官のやうに

五月のきんいろの外光のなかで

口笛をふき步調をふんでわるいだらうか

たのしい太陽系の春だ

みんなはしつたりうたつたり

はねあがつたりするがいい

  (コロナは八十三萬二百……)

あの四月の實習のはじめの日

液肥をはこぶいちにちいつぱい

光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴つた

  (コロナは八十三萬四百……)

ああ陽光のマヂツクよ

ひとつのせきをこえるとき

ひとりがかつぎ棒をわたせば

それは太陽のマヂツクにより

磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた

  (コロナは七十七萬五千……)

どのこどもかが笛を吹いてゐる

それはわたくしにきこえない

けれどもたしかにふいてゐる

  (ぜんたい笛といふものは

   きまぐれなひよろひよろの酋長だ)

 

みちがぐんぐんうしろから湧き

過ぎて來た方へたたんで行く

むら氣な四本の櫻も

記憶のやうにとほざかる

たのしい地球の氣圈の春だ

みんなうたつたりはしつたり

はねあがつたりするがいい

 

[やぶちゃん注:「乱」は総てママ。

・「さつきの光澤消(つやけ)しの立派の馬車は」「立派の」はママ。原稿は「立派な」であるが、「手入れ本」修正はなく、筑摩版全集校訂本文は「立派の」を採用している。

・「楊の花芽(ベムペロ)ももうぼやける……」ルビ「ベムペロ」(「へ」の半濁音「゜」)は「楊の花芽」四字へのルビであるが、原稿は「ベムベロ」(「へ」の濁音「゛」)で、誤植である。但し、「正誤表」にはなく、宮澤家「手入れ本」はこのリーダを除去しているものの、「ベムぺロ」はママである。全集本文は原稿と同じ「ベムべロ」である。nenemu8921氏のブログ「イーハトーブ・ガーデン」(美しい写真有り)の「やなぎ」に、『カワヤナギ』(ネコヤナギキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gilgiana の異名)『の若い花芽を総称して、東北ではベムベロと呼』ぶとある。

・「muscobite」はママ。原稿は「muscovite」(モスコヴァイト・白雲母)で誤植であるが、「正誤表」にはない。「手入れ本」では修正されている。無論、全集本文は正規の綴りである。白雲母は当時のストーブの耐熱の覗き窓に使われていた。私はそれが使われた実物を見たことがある。

・「ひぼりはしきりに啼いてゐる」「ひぼり」は「ひばり」の誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」にはこの補正はないが、宮澤家本でこの一行を「鳥は頻りに啼いてゐる」に直してある。無論、全集校訂本文は「ひばり」に訂している。

・「いま見はらかす耕地のはづれ」の「見はらかす」はママ。総てでママ。

・「懸吊(けんちよう)」ママ。「懸吊」(現代仮名遣「けんちょう」)は「かけつるすこと」の意。原稿は「けんちやう」であるから誤植であるが、これも誤字で、正しい歴史的仮名遣は「けんてう」手入れ本の修正はない。

 

「本部の氣取(きど)つた建物」「本部」は既出既注であるが、再三、引かさせて戴いているギトン氏の「ゆらぐ蜉蝣文字」の「第3章 小岩井農場」の、「《N》 降りしきる魂のしずく 【27】 小岩井農場・パート4」に(今回の注は多くをギトン氏のお世話になる同性愛画像の注意注はもう附さないのでリンク・クリックは自己責任でお願いする)、『《農場本部》の建物は、明治』三六(一九〇三)『年建築の』二『階建て木造建物で、現在も使われています。見るからに洒落た明治時代風(鹿鳴館風?)の木造建築で、当時は、飾りつきポーチ、バルコニー、時計台、望楼が付いていました』。『「気取った建物」と言っているのは、そのことでしょう。現在は、バルコニーと時計台が無いようですが、修築があったのでしょうか』とあり、先にも示した写真地図附きの別ページのリンクが示されてある。私は二十六前に修学旅行の引率で一度訪れたが、入口で待っていただけで、遂に何も見ずに終わった。つくづく惜しいことをしたと思う。妻が足が悪くなった今は、訪れても、農場を歩き回ることはもう望めないからである。

「櫻」前注冒頭にリンクしたギトン氏の解説に『今も《本部》の脇にある老桜(当時は若木)のようです』とある。まだ、あったのだ。

「觀測臺」同じくギトン氏の解説に、『農場が国の依頼で気象観測をしていたのだそうです。盛岡測候所が開所したのは』大正一二(一九二三)『年で、それまでは岩手県の内陸には、公の気象観測施設がありませんでした。そこで、水沢の天文台で気象観測を行なう一方、各地の事業所に国が依頼して、気象観測場所を設けていたそうです』。『小岩井農場では、《農場本部》のすぐ近くに、本部の屋根よりも高い気象観測用の櫓を建て、風力計、風信器(風向計)などの気象観測機械を置いて観測していました』とある。ギトン氏のこちらの別ページで、明治三七(一九〇七)年頃の小岩井農場本部とその気象観測台(右手に立つ櫓)の写真が見られる。但し、ここがポイントで、実はこのロケーションでは、この写真にある「觀測臺」は実は、もう無くなっているのである(後注参照)。

「ロビンソン風力計」ロビンソン風速計(Robinson's cup anemometer)のこと。三個又は四個(現行は軽くするために三個が主流)の半球形の風杯(賢治の謂う「椀」)をつけた風速計。一八四六年にアイルランドのた天文学者トマス・ロムニー・ロビンソン(John Thomas Romney Robinson 一七九二年~一八八二年)が考案した。日本の風観測で最も親しまれた風速計で、風程(ふうてい)百メートル毎に電気接点が開閉するようになっていて、電気盤又は自記電接計数器とともに使用され、平均風速を測定する。但し、風速や風の乱れの大小によって、風杯の回転が変化し易い欠点がある。現在の気象庁では明治一九(一八八六)年から昭和三五(一九六〇)年頃まで使用された。以降も、鉄道の鉄橋・高速道路の橋桁・ビルの屋上などで見かけられる(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「風信器」風向計(anemoscopewind vane)の旧称。風向を測定する器械で昭和二五(一九五〇)年以前は「風信器」と呼んだ。矢羽根を使って、その位置を機械的に自記させるもので、矢羽根の位置の変化を電気抵抗の変化に変えて記録電流計で自記させるもの、または、風向角に従って等間隔に接点を附けておき、その接点の開閉によって風向を自記させるもの等がある。矢羽根には、垂直に取り付けた二枚羽根のものと 、一枚羽根のものがあり、全体の重心が支柱の上になるように作られてある。日本では当初、風向は「風信器」で、風速は「ロビンソン風速計」(風速計がない場合には目視に拠った)で、それぞれの観測が行なわれていたが、「気象観測法」が制定された明治一九(一八八六)年から、風向観測には風信器が、風速観測にはロビンソン風速計が、それぞれ使用されるようになった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「わたくしはもう見出さない」細かいことを言うと、この「見出ださない」対象は、三行目の「そのさびしい觀測臺」から五行目の「風信器」のみが、その目的語である。「氣取つた」「本部の」「建物」やその傍らに植えてある「櫻やポプラ」はあるけれど、その横に立っていた「觀測臺」(櫓)を、私は、今はもう、見出すことが出来くなってしまった、と謂っているのである。残存する「下書き稿」には、ここは、

   *

あすこが本部だ。觀測台は無い。

全く要らなくなったのだ。

要らなくなるのが當然だ。

   *

と記した後、全集編者によれば、『この行の次に何かを挿入しようとして、余白へ線を引き出しいるが、その先に何も』書いてはいない、とある。これは気になる。「要らなくなるのが當然だ」とそっけない割に、何か書き加えたかった詩人の感懐の余韻が垣間見える。そもそも、冷徹に「全く要らなくなったのだ」から、「要らなくなるのが當然だ」という意識であれば、事実としても景観としても「全く要らな」いむさ苦しい盆踊りの櫓みたような(先のギドン氏の写真を見られよ。但し、賢治がそう思ったわけではない。私の比喩である)不要物であったのなら、それを敢えて、かく決定稿で出す必要が、ない、からである。彼がここで、無いものをわざわざ詠み込んだのは、そこに消えた「觀測臺」への懐かしさと幽かな哀感が詩人を捉えたからではなかったか? さても、ギトン氏のこちらの解説によれば、『農場に残っている記録によると、これらの観測器機は、観測方式が地上観測に変わった』大正一〇(一九二一)『年ころに観測台から、耕耘部構内に移されたとなってい』るとあり、本詩篇の創作は翌年の五月二十一日である。即ち、『賢治が来た時には、観測台自体が、もう取り壊されて無くなっていたのです』として、先に掲げた「下書き稿」を引かれ、『非常に素っ気無い言い方をしているのは、おそらく、これ以前に、観測機械が撤去されたカラの観測台を、すでに見ていたのだと思います』。『観測をしなくなったのだから、櫓を置いておく必要が無くなった、それで、取り壊された──当然のことじゃないかと言っている訳ですが、ここにはむしろ、取り壊された観測台に対する愛惜の念が、過剰と思えるほど現れています』。と言い添えて上で、さらに本決定稿では、『観測機械を取り払われたカラの櫓があった時のようすが、《心象》の中に現出しているわけです。「さびしい観測臺」という名指しは、用の無くなったヤグラの寂しさですが、作者としては、今はもう存在しないヤグラに対する愛惜の気持ちを含んでいることになります。賢治がカラの観測台を見たのは、雪に埋もれた』一『月だけではなく、前年の無雪期にも来ているのではないかという気がします。いずれにしろ、賢治は、気象観測機械があった時には、たいへん気に入って、ここを通るたびに眺めていたのだと思います。というのは』「銀河鉄道の夜」に『描かれている《アルビレオの観測所》は、ここのロビンソン風力計をモデルにしていると思われる』からで、『賢治は、ロビンソン風速計の形と動きに、とくべつな愛着を持っていたのだと思います』。『「アルビレオの観測所」の屋上に設置された「サファイアとトパース」』二『つの球は、二重星(食変光星)を思わせますが、また、ロビンソン風速計の風杯からヒントを得たようにも思えます』。『「水の速さをはかる器械です…」という鳥捕りの説明は、検札が来たために途中で切れてしまいますが、もし最後まで説明したら、“地球から見れば、この空間全体が天の川なのだから、天の川の水とは、いま窓の外を吹いている風のことなのだ”という説明になったはずです』と推察されており、私もこれに激しく共感するのである。ギトン氏が別ページで引用されている、「銀河鉄道の夜」の当該箇所(第九章「ジョバンニの切符」の冒頭部)を筑摩版校本全集第十巻を参考に、促音等はママで、恣意的に漢字を正字化して示しておく。

   *

 

        〔九、〕ジョバンニの切符

 

「もうここらは白鳥區のおしまひです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの觀測所です。」

 窓の外の、まるで花火でいっぱいのやうな、あまの川のまん中に、黑い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、靑寶玉と黃玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしづかにくるくるとまはってゐました。黃いろのがだんだん向ふへまはって行って、靑い小さいのがこっちへ進んで來、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな綠いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たうたう靑いのは、すっかりトパースの正面に來ましたので、綠の中心と黃いろな明るい環とができました。それがまただんだん橫へ外れて、前のレンズの形を逆に繰り返し、たうたうすっとはなれて、サファイアは向うへめぐり、黃いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのような風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんたうにその黑い測候所が、睡ってゐるやうに、しづかによこたはったのです。

「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」鳥捕りが云ひかけたとき、

「切符を拜見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立ってゐて云ひました。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

文中の「靑寶玉」は「サファイア」、「黃玉」は「トパーズ」のこと。現行の諸本ではそのようにルビする(但し、本文の後に出る通り、賢治は「トパース」と読んでいる)。二箇所の「たうたう」は底本のママ。「外れて」は「それて」。

「いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。」今頃、あの馬車は、どこかの隅の方で、忘れられたように停まっているのであろうし……。

「五月の黑いオーヴアコート」これはパート二に登場した、途中の道で詩人の「うしろから五月のいまごろ」なのに、「黑いながいオーヴアを着」て「やつてくる」「醫者らしいもの」のことを指している。

「冬にはこゝの凍つた池で」/「こどもらがひどくわらつた」この二行によって、この二行と以下の「(から松はとびいろのすてきな脚です」/「向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか」/「それとも野はらの雪に日が照つてゐるのでせうか」/「氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです」/「おまへさんたちの頰つぺたはまつ赤ですよ)」の丸括弧挿入部の時制が冬に巻戻って、氷結した池でスケートをする少年たちと詩人のシークエンスが描かれる。ギトン氏のこちらによると、『農場に保存されている当時の日誌には、《本部》の下にある池が冬季に厚く結氷するので、職員たちが終業後に除雪作業をして、スケート場にしていたことが、記されているそうです。この池は、長径十数メートルほどの池で、ふだんは蘆や水草に被われています』(これは岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』(二〇〇五年未知谷(みちたに)刊)に拠るとある)。以下、『つまり、農場職員の正規の仕事としてではなく、職員と家族のレクリエーションとして、池を除雪してスケートをしていたわけです。「屈折率」「くらかけの雪」の』大正一一(一九二二)年一月六日の『日誌』(農場のという意味であろう)『には、天候は「半晴」、「スケート場の手入れ」と記されているそうです。なお、子供用の小さい足のスケート靴が、当時入手できたとは思えないので、「スケート」と言っても、子どもたちは、わらぐつなどで滑ったり転んだりして遊んだの』であろうと注記されておられる。

「から松」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi。漢字表記は「落葉松」「唐松」。

「とびいろ」鳶色。トビ(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)の羽毛の色のような赤みがかった茶色。

「葱いろの春の水に」ここで時制が現在に戻る。

「楊の花芽(ベムベロ)」この方言の語源は捜し得なかったが、ネットを見る限り、現在でも東北地方で普通に用いられているようである。賢治の大正六(一九一七)年四月の歌稿の中に、

 ベムベロはよき名ならずや Benbero の短き銀の毛はうすびかり

という一首を見出せる。

「廐肥」「きゆうひ(きゅうひ)」と読んでおく(「うまやごえ」という訓もあるが)。家畜の糞尿や敷き藁などを腐らせた肥料。遅効性であるが、有機質に富む。

「天狗巢」前パートに既出既注。

「いぢらしい小さな綠の旗を出すのもあり」天狗巣病は最終的には枯死に至るが、即座にそうなるわけではないから、小さな葉(花を咲かせないのが本病の特徴であるが、ごく稀に花も咲くようで、ギトン氏の画像のこちらに実例写真がある)生ずる。

「遠くの縮れた雲にかかるのでは」ごく高い位置に出現した天狗巣病の塊りを指していよう。

「育馬部」パート三の最後の注を参照されたい。

「キルギス式の逞ましい耕地」「キルギス」(Kirghiz)は古代よりモンゴル高原北西部のエニセイ川上流にいたトルコ系民族。十三世紀頃から天山山脈北西部に南下した。十九世紀後半、ロシアに征服された。現在はキルギス共和国の主要民族。中国文献では「堅昆(けんこん)」「結骨(けつこつ)」「黠戛斯(かつかつし)」などと記す。ギトン氏のこちらによれば、『この「逞ましい耕地の線が/ぐらぐらの雲にうかぶ」と言っているのは、「下丸2号」という20ヘクタールを超える広大な畑のことで』、『《農場本部》の西側、「馬トロ』『軌道」(現在のバス通り)と川(越前堰)の間のスロープを占めていたそうです。広いスキー場くらいある耕地面が、緩やかなスロープを作り、その果ては雲の中に消えてゆくようだったといいます』(前出の「賢治歩行詩考」に拠るとする。因みに、前に少し触れた、この「馬トロ軌道」については、『小岩井農場にあった簡素な軌道馬車で、荷物の運搬や作業員の移動に使っていました。「トロ馬車」とも言います。この』大正一一(一九二二)年『当時は、《農場本部》付近と、育牛部近くの製乳所(現在、県道沿いに土産品売店があるあたり)の間を結んでいましたが、まもなく小岩井駅まで延長されま』した)と注がある。ギトン氏は『「キルギス式の逞(たく)ましい耕地の線」とは、この広大な耕地に、草原を疾駆する遊牧民キルギスの精悍なイメージを重ねているのだと思います』と述べておられる。その通りと思う。ギトン氏の「小岩井農場 略図⑴」の拡大図の左下方中央辺りかと推測される。

「みぢかい素朴な電話ばしら」同前のギトン氏の解説に『小岩井農場内の各所と、盛岡市内にある肥料店をむすんでいた私設電話線』の電信柱とある。

「(白樺だらう 楊ではない)」宮澤家「手入れ本」では、ここから実に十四行(「おれたちには見られないぜい澤(たく)だ)」まで)に斜線を附している。

「たしかに酵母のちんでんを」/「冴えた氣流に吹きあげた」積もった粉雪を「酵母の沈殿」と換喩し、馬橇が捲き上げた雪煙をかくスケール大きく表現したもの。

「セレナーデ」(ドイツ語:Serenade(南ドイツ・オーストリアでは「セレナーデ」、北ドイツでは「ゼレナーデ」と発音する)音楽用語としては、十六世紀以後、「夕べの音楽」を意味し、小夜(さよ)曲又は夜曲とも訳される。元来は、夜、恋人の窓辺でギターを奏でながら歌う歌であり、ここはそれでよい。なお、それを口笛で吹く「ひと」とは無論、詩人自身である。このやや狂乱をせ感じさせる冬の日の行動について、ギトン氏はこちらで、私が前に「習作」の注で示した、心の友とも思っていた保阪嘉内との関係の急激な悪化を大きな要因の一つとして挙げ、この『極寒の地吹雪に身を曝さなければならない“灼けるような”煩悶』は、大正一〇(一九二一)年に『おける保阪との決裂、それにからんでの宗教的信念の動揺が、大きかったのだと思』うと述べておられる。確かに肯んぜられる。

「落葉松(らくやうしやう)」先に注したカラマツ。

「それは雪の日のアイスクリームとおなし」この唐突な表現は、まず「下書き稿」の当該部分が大きな糸口となる。ソリッドなパートを抜き取る(促音は正字化した・「体」は本書で略字が多く認められることから、ママで表記した)。

   *

冬の間だつて雪が堅くなつて

馬そりがあつた位だ。

あのときはきらびやかな

ふゞきのなかでおぼつかない

セレナアデを吹き往つたり來たり

何べんおれはしただらう。

けれどもあの變てこなセレナアデが

透明な風や吹雪とよく調和してゐた。

一体さうだ。あの白秋が

雪の日のアイスクリームをほめるのも同じだ。

もつともあれはぜいたくだが。

   *

これによって、「雪の日のアイスクリーム」は賢治のオリジナルな幻想的感覚的表現ではないことが明らかとなる。賢治の残された著作類には、彼の名は殆んど認められないようであるが、千田孝之氏のサイト内の、今野真二著「北原白秋ー言葉の魔術師」(二〇一七年岩波新書刊の書評内に、宮澤賢治が本「春と修羅」初版本(千田氏は「雪と修羅」と誤記)を既に詩壇の大御所となっていた北原白秋(賢治より十一年上)に贈呈している事実が記されており、『賢治も咀嚼したうえで白秋のイメージを受け継いで』おり、『詩は概念よりもリズムこそ重要だ』、『という点で賢治と白秋は共通しているようだ』と言い添えておられる。「白秋」が敢えて「雪の日のアイスクリームをほめる」可能性は高いし、その感覚も腑に落ちるような気もする。というより、詩人或いは詩人気取りの人間は「雪の日のアイスクリーム」こそ美味なりと「ほめ」るような印象は「詩人」というレッテルの裏にこびりついた饐えた属性の一つとして嵌まり過ぎているとも言える。しかし、実は問題なのが、どうも「白秋が雪の日のアイスクリームをほめ」ている詩篇や短歌が存在しないようだということなのである(あれば、是非、御教授願いたい。さすれば、ここの注や多くの諸家の解釈は大きな変更を余儀なくされる大発見となる)。ここで私の考察は停滞してしまうが、このところお世話になっているギトン氏の「ゆらぐ蜉蝣文字」の「□第3章 小岩井農場」のこちらこちら(後者は少年の全裸画像があるので注意)では、知られた「東京景物詩及其他」(大正二(一九一三)年刊)の「花火」との関係性を指摘されている。所持する昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊「北原白秋詩集」(正字正仮名)を底本として「花火」を示す・太字は底本では「ヽ」である。

   *

 

   花  火

 

花火があがる、

銀(ぎん)と綠の孔雀玉(くじやくだま)‥パツとしだれてちりかかる。

紺靑の夜の薄あかり、

ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。

 

花火が消ゆる。

薄紫の孔雀玉‥‥紅(あか)くとろけてちりかかる。

Toron‥‥Tonton‥‥Toron‥‥Tonton‥‥

色とにほひがちりかかる。

兩國橋の水と空とにちりかかる。

 

花火があがる。

薄い光と汐風に、

義理と情(なさけ)の孔雀玉‥‥淚しとしとちりかかる。

淚しとしと爪彈(つまびき)の歌のこころにちりかかる。

團扇片手のうしろつき、つんと澄ませど、あのやうに

舟のへさきにちりかかる。

 

花火があがる、

銀(ぎん)と綠(みどり)の孔雀玉‥‥パツとかなしくちりかかる。

紺靑(こんじやう)の夜に、大河に、

夏の帽子にちりかかる。

アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。

わかいこころの孔雀玉、

ええなんとせう、消えかかる。

 

   *

これは明治四四(一九一一)年六月の作で無論、夏の情景である。また、この前年より白秋は隣家の夫人松下俊子と恋に落ちていた。この詩の書かれた翌年の七月、俊子が白秋のもとに走り、夫(別居中)によって二人は姦通罪で告訴され、二週間に亙って未決監に拘置されている。以上の情景もそうした禁断の二人の映像なのである。ギトン氏は、この詩こそがここの原拠であるとされ、『賢治が、「白秋が/雪の日のアイスクリームをほめる」と言っているのは』、『「アイスクリームひえびえとふくむ手つき‥」』『「わかいこころの孔雀玉‥消えかかる」』『という部分だと思います』。『つまり、花火のように華々しく燃え盛った恋の情熱が、一瞬にして冷えてしまう状況を、情緒深く歌にしている部分です』。『それは「贅沢だ」と言うのです』。『おそらく、花火で比喩されるような華々しい恋を、「贅沢だ」と批判しているのでしょう』。『その一方で、「同じだ」と言っているのは、どんな意味でしょうか?』『賢治の口ずさむ「変てこなセレナイデ」(「変てこなセレナアデ」に推敲)は、白秋の場合とは逆に、胸のうちから溢れ出す・灼けるような情熱であり、それが、外部の吹雪によって冷やされる関係にあります』。『つまり、白秋の“花火  アイスクリーム”とは、逆の関係になっているのです』。以下でギトン氏は初版本のこの部分を示し、『白秋の名を伏せたのは、はばかってのことでしょうから、内容的には変更は無いと思います。つまり、「雪の日のアイスクリーム」は、白秋の詩「花火」を指しています』『(この暗示は、非常に判りにくいですが)』。『白秋の名を外したことから、「花火」と無関係な解釈をするなら、次のようになるでしょう』。『風・雪とセレナーデとの釣り合いが、「雪の日のアイスクリームとおなし」だと言っている意味は、セレナーデを口ずさみながら、極寒の地吹雪の中を歩き回るという特異な趣向は、寒い日に冷たいアイスクリームを食べるという季節外れの情趣にも比べられる』、『と』。『「風やときどきぱつとたつ雪」は、隅田川に打ち上げられる花火に相当する景物です。もとは厳しいだけだった地吹雪が、賢治の推敲の過程で、次第にそうした審美的な性格を帯びてきたのです』。『そして、「あの調子はづれのセレナーデ」とは、いかにもスマートで控えめな言い方ですが、じつは作者にとっては、極寒の吹雪にも釣り合うほどの熱い情念なのです』と解析しておられる。即ち、この核心には、吹雪をも瞬時に蒸発させる賢治の熱烈な保阪嘉内への甘い「アイスクリーム」のような「暖爐(だんろ)」のように「まつ赤(か)」な「muscobite も少しそつぽに灼(や)ける」如き激しい恋情と、アンビバレントにそれを「おれたち」(複数形に注意!)「には見られないぜい澤(たく)だ」とする、それを内的に絶対零度に冷やすための凶暴な意思が働いていると私にも感じられるのである。私はこのギトン氏の解釈を、現在望み得る最も説得力のある解釈の一つとして強く推薦したい。

「ヴアンダイクブラウン」Vandyke Brown。油絵具の色名。腐食土が炭化した褐炭から、砂や木を除去して精製した顔料で、ややくすんだ茶色を指す。ヴァンダイクとは、バロック期のフランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck 一五九九年~一六四一年)で、宗教画・肖像画の名手として知られ、彼の作品に於ける暗褐色の色調の効果が絶妙であったことから、この色名に名が献ぜられた(英語の色名は彼の死後の一八五〇年の命名)。この色の絵具はまさに彼と同時代に登場した絵の具であった(以上は主に「きもの用語大全」の「ヴァンダイクブラウン」に拠った。リンク先で色を確認出来る)。

「耕耘」「かううん(こううん)」と読む。「耘」は「草を刈る」の意。田畑を耕し、雑草を取り去ること。耕して作物を作ること。なお、宮澤家「手入れ本」ではこの「春のヴアンダイクブラウン」と次行「きれいにはたけは耕耘された」は数本で抹消されてある

「白金(はくきん)」platinum(ラテン語)。元素記号 Ptウィキの「白金によれば、『学術用語としては白金が正しいが、現代日本の日常語においてはプラチナと呼ばれることもある。白金という言葉はオランダ語の witgoudwit=白、goud=金)の訳語である』。『単体では、白い光沢(銀色)を持つ金属として存在する』とある。

「白金黑(はくきんこく)」黒色の粉末状の白金。塩化白金などの水溶液をホルマリンなどで還元して得られる、強力な酸化・還元の触媒として知られる。

「雲の讚歌(さんか)と日の軋(きし)り」ギトン氏はこちらで、『共感覚』(シナスタジア:synesthesiasynæsthesia:ある刺激に対し、通常の感覚だけでなく、異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象。例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりすることを指す。英語名 synesthesia は、ギリシア語で「共同」を意味する接頭辞「syn-」と、「感覚」を意味する「aesthesis」から名づけられたもの。感性間知覚とも称する。ここはウィキの「共感覚」に拠った)とされ、『雲と太陽の輝く強い光が、音として描写されている』とする。私も同感する。私の教え子にも単位の文字や文字列(それぞれ別色彩として感知されると言っていた)に色を感じる女生徒が一人いた。

「灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ」「蛇に似たもの」とは♂の「雉子」(キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor)の有意に長い尾を指している。

「亞鉛鍍金(あえんめつき)」鍍金工法の一種で、主に鉄の表面に施し、鉄よりもイオン化傾向の大きな亜鉛が優先的に腐食することで、鉄の腐食を抑制する。亜鉛は自ら溶解して水酸化亜鉛( Zn(OH)2 :白錆(しろさび))となる。ここはキジの体色としては附合しないので、多色を持つキジが、亜鉛鍍金が鉄を保護しているように、の中で一種の保護色を成していることを指しているものと思われる。

「山鳥」日本固有種であるヤマドリは本邦には、キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans を始めとして五亜種が棲息する。キジとヤマドリの違いが判らない方は、私の和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を比較されたい。

「山鳥ですか? 山で? 夏に?」この謂いは不審。ヤマドリは名は知られるものの、野外で出逢うことは実は稀れであることから、こんな挿入が入ったか。まあ、前で「山鳥ではないと言っているのだから、この一行は寧ろ、不要な感じがする。賢治の意図も判らぬ。

「向ふの靑草の高みに四五本乱れて」/「なんといふ氣まぐれなさくらだらう」/「みんなさくらの幽靈だ」不正列とランダム、桜は桜でも、このプロムナードで既に見たソメイヨシノ(バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属(サクラ亜属)品種ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensis)の整然と豊饒に咲いた並木でない、「さくらの幽靈だ」と称していることから、これは、ギトン氏もこちらで指摘されておられるように(ギトン氏はこの後の部分でも複数回で考証されている。下部の「→次へ」を見られたい)、広義の通称「山桜」(標準種はサクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura であるが、当該種は花は白い)の類であろう。しかも、後で「鴇(とき)いろの花をつけてゐる」とあるからには、これはヤマザクラに比べて、花や葉が大きく、花の色が淡紅色であることから、ベニヤマザクラ(紅山桜)の異名を持つ、サクラ属オオヤマザクラ Cerasus sargentii である可能性が濃厚である。

「内面はしだれやなぎで」ここは「下書き稿」では、

   *

そして向ふの高みに四五本乱れて

何といふ氣まぐれなさくらだ。

みんなさくらの幽靈だ。

精神はやなぎだ。そして鴇いろの花をつける。

もう寂しくないぞ。

誰も私の心もちを見て呉れなくても

私は一人で生きて行くぞ。

こんなわがまゝな魂をだれだつて

なぐさめることができるもんか。

けれどもやつぱり寂しいぞ。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

となっているから、これは実際の「枝垂れ柳」(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica)を意味していないことが明らかになる。而してフィード・バックすると、「しだれやなぎ」に「幽靈」が呼応する。外見は妖艶な鴇色の花を飾り立てながら、その内実、精神はすでにおぞましい孤独な幽霊と化している、賢治は謂いたいのであろう。それは畢竟、絶対に現世では救出されることのない、賢治自身の孤独な精神を意味しているのではあるまいか?

「空でひとむらの海綿白金(プラチナムスポンヂ)がちぎれる」platinum sponge。塩化白金酸アンモニウム((NH4)2[PtCl6])を加熱或いは還元して得られる灰色の多孔質の海綿状物質。表面積が大きい、良好な白金触媒の一種。白金海綿を融解あるいは鍛造すると、塊状の白金が得られる。灰色の翳りを持った空の雲の一塊りが風に千切れるのを形容したものであろう。

「それらかゞやく氷片の懸吊(けんちよう)をふみ」天空に懸け吊るされてある「かゞやく氷片」は雲であるが、それを「ふみ」(踏み)行くのは、「ひとむらの」「ちぎれ」た「海綿白金(プラチナムスポンヂ)」である灰色のそれであるが、それに対し、賢治は「靑らむ天のうつろのなか」を「かたな」(刀)「のやうに」鋭く切り裂きつつ「つきすす」んで、「すべて水いろの哀愁を焚(た)」いて天空を焼き尽くし、同時に「さびしい反照(はんせう)の偏光(へんくわう)を」も「截れ」! と命じる(「偏光」とは光波の振動方向が規則的な状態を指すから、時空間の不可逆的な規律を破ることを命じていると採る)。それは今や、賢治の意識の中では、灰色ではなく、おどおどろしい「日を橫ぎる黑雲」へと変じている。これが、まさに賢治の時空間を溯る呪文であることが判る。それが以下の太古の恐竜の跋扈する中世代幻想へと、文字通り、「つきすす」むこととなるのである。但し、宮澤家「手入れ本」では「かたなのやうにつきすすみ」を「かたなのやうにつきすすめ」と命令形にしたあお、次行「すべて水いろの哀愁を焚(た)き」を縦線で消し、「さびしい反照(はんせう)の偏光(へんくわう)を截れ」から「水は濁つてどんどんながれた」までの七行にも「☓」印を附している。しかし、これらがない「パート四」は如何にも削げ落ちて瘦せたものとなり、面白さが半減する。あとの後半部の大幅な削除といい、この手入れの際の賢治が何を考えているのか、私には判らぬ。「宮澤賢治の詩の世界」の宮澤家「手入れ本」の全最終形を見られれば、一目瞭然である。これは異装をして詩人面をした若造の似非詩人の小手先で作った出来損いとしか言いようがないものに変貌してしまう。

「侏羅(じゆら)」ジュラ紀(Jurassic period)。約一億九千九百六十万年前に始まり、約一億四千五百五十万年前まで続く地質時代。三畳紀の次で白堊紀の一つ前に当たる中生代の中心時代(名前はフランス東部からスイス西部に広がるジュラ山脈に於いて広範囲に分布する石灰岩層に因む。以上はウィキの「ジュラ紀」に拠る)。

「白堊」白堊紀(はくあき:Cretaceous period)。約一億四千五百万年前から六千六百万年前の地質時代。ジュラ紀に続く時代で、中生代の終わりの時期に当たる(次代は新生代古第三紀の暁新世)。「白堊」の「堊(本来の音は「アク」で「ア」は慣用)」の字は「粘土質の土」、「石灰岩」を意味し、石灰岩の地層から設定された地質年代であるため、「白堊紀」の名がついた(「白亜」の「亜」は「堊」の同音の漢字による書き換え。以上はウィキの「白亜紀」に拠る)。

「爬蟲(はちゆう)がけはしく齒を鳴らして飛ぶ」中生代白亜紀後期に棲息していた、お馴染みの翼竜の一種である、爬虫綱†翼竜目翼指竜亜目オルニトケイルス上科 Ornithocheiroidea プテラノドン科プテラノドン属 Pteranodon のイメージ。

「田舍ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ」「ダブルカラ」は「double collar」(二枚襟)で、カッター・シャツなどの襟部分を、一部、色の違う布で二重に装飾したものを言う。私は持っていないが、画像を見ると、なかなか都会的にお洒落である。しかしここは「田舎」風とある。ギトン氏はここで、この言い方に着目され、これは『おそらく、本来のダブルカラー(二枚襟、または付け襟のシャツ)ではなくて、ノータイのワイシャツの襟をはだけて、上着の襟の外に出して重ねた着こなし』『のことではないでしょうか?』(『こういう着こなしを「襟乗せ」と云うそうです。ファッション性の高い服が増えた現在では、かえってだらしなく見えますが』)。『賢治は、ワイシャツの襟を黄色い作業服の襟の外に出して、気取って歩いていたのかもしれません』。『花巻農学校で宮澤賢治の同僚だった堀籠文之進氏』『によると、賢治は、この』大正一一(一九二二)年三月『頃から、「かたい感じがなくなっ」て「髪を伸ばしてポマードをつけたりし」ていたと言います』。『オシャレと言っても、賢治の場合はどれほどか判りませんが』、『ともかく、後世の私たちが見馴れたイガクリ頭の‘無欲質実’な写真は、どうやら“詐欺画像”のようです』とする。ここには、芸術的にも趣味嗜好に於いても、ある意味で洒落者であった現代人宮澤賢治の中に、それに反した反近代――原始人の集団的無意識への憧憬や超古代幻想への願望がパラドキシャルに存在していたことが私には強く感じられる。されば、「それからさきがあんまり靑黑くなつてきたら……」という以下の呟きは、当時の現在の現実社会に生きている賢治自身の憂鬱な色彩を意味しているように思われるのである。

「そんなさきまでかんがへないでいい」以下、眼前に見えてくる明るい、子らの登場する情景に転換する。ところが、宮澤家「手入れ本」では、驚くべきことに、次の行の「ちからいつぱい口笛を吹け」まででこの詩を終わらせているのである。「口笛をふけ 陽(ひ)の錯綜(さくさう)」を「口笛をふけ 陽(ひ)のふるひ」と直した後、ここから最終行までの四十二行に斜線を引いているのである。「宮澤賢治の詩の世界」の宮澤家「手入れ本」の全最終形を参照されたい。

「ちらちら瓔珞(やうらく)もゆれてゐるし」瓔珞(ようらく)は装身具及び仏堂・仏壇等の荘厳具(しょうごんぐ)の一種。古くはインドの貴族の装身具として用いられていたものが仏教に取り入れられたもので、菩薩以下の仏像に首飾り・胸飾りとして用いられているのをしばしば見かけ、寺院・仏壇等に於いて天蓋などの荘厳具として用いられることもある。しかし、既出のギトン氏の「《N》 降りしきる魂のしずく 【27】 小岩井農場・パート4」によると、『岡澤氏』(先に注した岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』を指す)『によれば、ポーチには瓔珞飾りが下がっていたそうです。「小岩井農場」と同日付の作品〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕は、賢治がどこかの寺院で瓔珞飾りを見て、触発されて書いたものと思っていましたが、《農場本部》建物の瓔珞だったのかもしれません』とある。ギトン氏の言う「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」は、渡辺宏氏のサイトで示すと、「心象スケッチ 春と修羅・補遺」の〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます(現存詩篇部分(冒頭部欠損))である。確かに、クレジットは『一九二二、五、二一』であり、全集年譜でも本篇「小岩井農塲」と同日の創作となっている。「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます。〕」は全体が宗教的幻想であって、実際の寺院の瓔珞ではないように読め、この本部にあった飾りとしての瓔珞が一つの契機になっていた可能性は十分にあるように思われる。ここでは、日差しの中を行く子らの純真な存在とその笑い声・歌声を、菩薩の金色の瓔珞の輝きに比喩していると私は読む。ギドン氏もこちらで、『ここに描かれている「こどもら」が、現実に賢治の出会った子どもたちだったことを明らかにされたのは、岡澤敏男氏です。いま賢治が歩いているのが、農場本部から小岩井小学校の前を通ってゆく道すじであ』ったのであり、『通学の生徒たちに出会うことは当然に考えられてよいことなのです。「透き通るもの」、‘瓔珞を付けている’といったモディフィケーション』(modification:部分的な変更や修正)『はあっても、じっさいに会った生徒たちの姿をもとにしていると考えるのは自然です』と述べておられる。

「遠くのうた」遠い過去の古いわらべ歌の謂いか。

「綠金寂靜(ろくきんじやくじやう)」涅槃寂静(煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということ)に、この自然(但し、ここは厳密には鮮やかに建設されて管理された農場としての反自然・非自然なのであるが。それも恐らく賢治は認識していたであろう。それはまた彼をして憂鬱にさせることではあったに違いない)のロケーションに相応しい緑色を帯びた金色で形容したものであろう。

「ほのほ」浄火としての炎。

「天の鼓手(こしゆ)、緊那羅(きんなら)」サンスクリット語の漢音写。元来はインド神話上の半神で、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」のインドの二大叙事詩に多く現われ、美しい声で歌を歌い、また、馬の頭をしているともされる。仏教に取入れられて、羽を持った歌神と見做されている。仏陀の教えを守護するは護法善神の一尊として八部衆の中に含められている。音楽の神であればこそ拍子(リズム)を打つ「鼓手」ででもあろう。

林務官」明治二三(一八九〇)年に施行された旧々「刑事訴訟法」で司法警察官として犯罪を捜査すべき官吏を指定しているが、これに「林務官」という官吏が含まれており、林務官は当時の農商務省が国有林管理のために各地方へ設置した林区署及びそこに所属する営林関係職員を指し、これが営林関係職員を司法警察職員として指定した最初の例である(以上は「いんちきやかた 研究分館」の「森林管理局員」に拠った)

「コロナは八十三萬二百……」「コロナ」(Corona)は太陽の周りに見える自由電子の散乱光或いは太陽表面の最も外縁にある電気的に解離したガス層を指す。参照したウィキの「コロナ」によれば、太陽表面が』六千『度程度であるのに対し、コロナは』百『万度以上と非常に高温で』、太陽表面から『高度』五百キロメートルあたりから』、『温度が上昇し始め、高度』二千キロメートルを『境に』一万度から百万度まで『急激に上昇する。なぜ』、『コロナが発生するのか、そして表面から離れているにも関わらず』、『温度が上昇するかは』、『現在でもはっきりとは分かっていない。太陽表面の運動によりひき起こされた波(アルヴェン波』(Alfvén wave:磁気流体波の一種で磁場中のプラズマの中を伝わる横波)『)が衝撃波となって温度を上げているという説や、コロナ中の小さな爆発現象が温度を上げているなど諸説ある』とある。しかし「八十三萬二百」「八十三萬四百」「七十七萬五千」という変異する数値の意味は判らぬ。現在、コロナの温度が百万度以上とするから、これはコロナの温度とみてもおかしくはないが、それでは以下のシークエンスと続かない。これは、寧ろ、コロナとして、宇宙へ放射される自由電子の散乱光の、地球表面に到達する光の束をドンブリ勘定で言っているとするなら、腑に落ちるようにも思われなくはない。なお、このコロナの数値や「太陽マヂツク」という語は実は、賢治の散文と楽譜(初回歌詞附きで、その歌詞は原稿画像を見る限り、「コロナはしちじふろくまんにひゃく」(拗音「ゃ」は小さい)とある)の特異なコラボレイション童話「イーハトーボ農学校の春」(決定稿。初期題名は「太陽マヂツク」)にも登場している。同作は大正一二(一九二三)年から翌年年頃に書かれたと推定されており、本詩篇の後に書かれた強い親和性を持った作品である。その作中では、「コロナは六十三萬二百」・「コロナは三十七萬十九」・「コロナは六十七萬四千」・「コロナは八十三萬五百」・「コロナは六十三萬十五」・「コロナは三十七萬二千」・「コロナは八萬三千十九」・「コロナは十萬八千二百」・「コロナは三十七萬二百」という細かな数値の変化を見せて九回もリフレインされてある。「新校本 宮澤賢治全集」(一九九五年筑摩書房刊)を底本とした楽譜(但し、最初だけ)を添えたものが、「青空文庫」のこちらにあるのでリンクさせておく。

「あの四月の實習のはじめの日」これは直近の一ヶ月前(本篇は五月二十一日の作)の大正一二(一九二三)年四月となる(賢治の稗貫郡群立稗貫農学校教諭着任は前年十二月三日)。畑山博著「教師 宮沢賢治のしごと」(一九九二年小学館ライブラリー刊)の賢治自筆時間割の画像を見ると(五十一ページ所収。大正一四(一九二五)年のもの)、同校の実習は毎日、午後の第六限目(最終時限)に行われた。同書の『第八章 実習「イギリス海岸」』によれば、実習は二時間配当であったが、他の教師が休みなしで二時間みっちり実働させたのに対し、賢治は効率よく生徒を作業に割り当て、一時間実働させてそれをこなしてしまい、後の一時間は『畦に寝転んだりいろいろして、話をしてくれるのです』(賢治の教え子瀬川哲男氏談)とある。

「液肥」「えきひ」。糞尿の混合物の液体肥料。

「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」先の「イーハトーボ農学校の春」には、冒頭に「太陽マヂツクのうた」がその楽譜とともに出、その後、ここと全く同じ「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」が現われ、その後に「太陽マヂツクの歌」が三度、現われる。「光炎菩薩」とは浄土真宗で親鸞が弥勒菩薩の大智を「不可思議光」と言い換えたことを想起させるが(私は無神論者であるが、親鸞の思想は青年期より興味を持ち、「教行信証」を始め、関連書はかなりよく読んでいる方である)、ここは、太陽をそうしたものに喩え、さらにその太陽光が、自然界の生きとし生けるもの総ての衆生の物心に対して無量の恵みを施す妙法を「マヂツク」(magic)と言い換えているのであろう。因みに、ギトン氏はこちらで、『前年の』大正一〇(一九二一)年十月に、フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 一八四四年~一九〇〇年)の「ツァラトゥストラはかく語りき」(Also sprach Zarathustra:一八八五年発表)を登張竹風(信一郎)なる人物が訳し、そのタイトルを「如是經 一名 光炎菩薩大獅子吼經 序品 つあらとうすとら」(訳註及び論評附き・星文館書店刊)『という題名の本が出版されて』おり、『浄土真宗では、「光炎王」というと、阿弥陀如来の別名のひとつだ』とされ、この訳[やぶちゃん注:翻案と言うべきであろう。]『にも、ツァラトゥストラの生まれ変りが親鸞だとか』『わけのわからないことが書いてある』とあり、『ともかく、宮澤賢治なら「光炎菩薩」という題名を見て』、『興味をそそられたことは、間違』いないと思われるとし、「ツァラトゥストラは語りき」』『のいちばん始めは、山の洞穴に籠っていたツァラトゥストラが、ある朝』、『昇った太陽に向かって何やら宣言してから山を下りて来る』『という始まり』であることからも、このキテレツな「如是經 一名 光炎菩薩大獅子吼經 序品 つあらとうすとら」と、この賢治の「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」の連関性を示唆しておられる。私もそれに同感する(因みに、私が所持し、愛読する哲学者の全集はニーチェとヴィトゲンシュタインの二人のそれである)賢治が狂信的なファンダメンタリストと決定的に異なる点は、科学者でもあった彼が、あらゆる分野・他宗教・他宗派をも越境し、それらの異文化的異教的思想をも積極的に理解しようとした点にあると考えており、その点に於いて、まさに宮澤賢治という存在を稀有の天才の一人と私は認識しているのである。

「ひとつのせきをこえるとき」これは先の「イーハトーボ農学校の春」のコーダによって「一つの堰を越える時」であることが判る。この小流れには去年までは「ちいさな丸太の橋(はし)」があったけれども、「雪代水(ゆきしろみづ)」(雪解け水)「で流れ」てしまってないので、肥桶(こえおけ)を担いでその堰(滞留した小さな池塘)を飛び越えねばならない、というシークエンスである。しかし……肥桶の「天秤棒」……「水を跨いで飛び越える」……「一つのせき」(それは「関」でもあるかも知れない)……意味深長ではないか(次注に続く)。

「ひとりがかつぎ棒をわたせば」/「それは太陽のマヂツクにより」/「磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた」この詩篇だけでは絶対に解読出来ない。これもまた、暗号であり、このアイテムを、先の「イーハトーボ農学校の春」(リンク先は先と同じ「青空文庫」版)の全表に照らし合わせて初めて、字背の意味するところを解読することが可能となるのである。ここもやはり、いや、こここそ、その方面に深い感受性を持っておれるギトン氏の分析を見るに若くはない。「イーハトーボ農学校の春」は『「阿部時夫」という一人の生徒のことに集中して書かれています』。『この生徒は背が高くて、体格の釣り合う相手がいなかったので、教師の賢治が、天秤棒の相棒を組んだのです』。『回想記などを見ると、賢治は、当時の日本人の平均よりは背も体格も大きくて、がっちりしていたそうです』。『しかし、阿部は、たまたま賢治と相棒を組んだというだけではありませんでした』。『「阿部時夫などが、今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑ってゐます。〔…〕けれども今日は、こんなにそらがまっ青で、見てゐるとまるでわくわくするやう、〔…〕もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでゐられるでしょうか。」』『と書いているように、浮き立つような春の嬉しさを顔に出さずにはいられない』のであり、『その生徒の素朴な性格は、作者の深く共感するところとなっていたから』なのであるとされ(ここまでの引用は)、『「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」という表現が、「小岩井農場」と『太陽マヂツク』、両方にありますが、とりあえずは、空高くから照って大地を暖めてくれるやさしい太陽──という意味にとれます』。『しかし、散文『太陽マヂツク』をおしまいまで読んでゆくと、この“菩薩のマヂック”という言葉には、特別な意味のあることが分かるのです』。『「おや、このせきの去年のちいさな丸太の橋は、雪代水で流れたな、からだだけならすぐ跳べるんだが肥桶をどうしやうな。阿部君、まづ跳び越えてください。うまい、少しぐちゃっと苔にはいったけれども、まあいゝねえ、それではぼくはいまこっちで桶をつるすから、そっちでとってくれ給へ。そら、重い、ぼくは起重機の一種だよ。重い、ほう、天びん棒がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った。太陽マヂックなんだ。ほんたうに。うまい。〔…〕』。『楊の木でも樺の木でも、燐光の樹液がいっぱい脈をうってゐます。」』『「天びん棒☆がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った」』『ことを、「太陽マヂック」と呼んでいるのです』(以下、本詩篇の四行、

ああ陽光のマヂツクよ

ひとつのせきをこえるとき

ひとりがかつぎ棒をわたせば

それは太陽のマヂツクにより

磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた

が引かれる)。これ『に対応します』。『「小岩井農場」を読んでいると、まるで、生徒たちがおおぜい並んで、天秤棒をリレーで渡しているように読めますが、そうではないのです』とされ、『じっさいには、散文のほうに書いてあるように、賢治と阿部、二人だけの体験なのです』。因みに、『いままで三人称で呼ばれていた阿部時夫が、ここでいきなり二人称になっていることに、注目すべきです。この少年に対する作者の思い入れの強さが現れていると言うべきです』。『そして、「小岩井農場」のほうでは逆に、作者と少年との私秘的な体験をカモフラージュするかのように、「ひとりが」「もひとりの」と、両者ともに三人称(ないし不定人称「ひと」)に、されているのです』。『そこで、具体的に、小川を堰き止めた細長い池を飛び越そうとしている場面を、思い浮かべてみてください』。『賢治は、長い天秤棒の片端を下腹にあて、両手で握って支えています。棒の先には重い肥え桶(カラの)が吊るされています。その棒の先が、池の向こう側にいる阿部少年の手に「磁石のように……吸い着い」たというのです』。『賢治の格好は何かを象徴していないでしょうか?』『勃起した長大な男性器が「磁石のように君の手へ吸い着いて行った」という隠れた意味をもつ表現になっていることは、否定できないでしょう』。『賢治自身は意識していない可能性もありますが』、『この程度の深層心理的解釈は許されると思います』。『『太陽マヂック』で、作者が阿部少年を誘って、他の生徒たちとは違う道を通って学校に戻ったのも、二人だけの時間を過ごすためだったと解せます』。なお、『森惣一によれば、宮澤賢治はハバロック・エリスの『性学体系』を読んでフロイトの精神分析をよく知っていたと云いますから』、『この部分も、意識して性的願望の表現として書いている可能性があります。なお、賢治はなぜ『性学体系』のような分厚い専門外の専門書を読んだかですが、同性愛志向のある自分の性欲が、異常なものではないかどうか、確かめようとしたのだと思います』とある。美事な解析である。私は諸手を上げて賛意を表するものである。因みに私は、小学校高学年でフロイトの「夢判断」に惹かれ、高校までに殆どの著作を読み終えた。今も、書斎の最上段にはフロイトの著作集が、一列、座を占めている。

「どのこどもかが笛を吹いてゐる」再び、現実の風景に戻ったかのように見せて、その実、主人公の詩人は夢想の中に未だあって、帰ってこない。だからこそ「それはわたくしにきこえない」/「けれどもたしかにふいてゐる」と続く。

「ぜんたい笛といふものは」/「きまぐれなひよろひよろの酋長だ」意味は不明だが、なんとなくしっくりくる。笛の音(ね)は確かに「きまぐれ」で「ひよろひよろ」していて定まらない呪的響きを持っている。呪的であるのは古代のシャーマン及びその呪法と結ばれることによって権威を維持した「酋長」の属性・風格である。

 最後に。このパートでは、ギトン(リンク先はサイト・トップ・ページ)のサイト内の複数の考察に、一方ならぬ助力を得た。ここに改めて謝意を表するものである。

2018/11/14

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート三

 

         パート三

 

もう入口だ〔小岩井農塲〕

 (いつものとほりだ)

混(こ)んだ野ばらやあけびのやび

〔もの賣りきのことりお斷り申し候〕

 (いつものとほりだ ぢき醫院もある)

〔禁獵區〕 ふん いつものとほりだ。

小さな澤と靑い木(こ)だち

澤では水が暗くそして鈍(にぶ)つてゐる

また鐵ゼルの fluorescence

向ふの畑(はたけ)には白樺もある

白樺は好摩(こうま)からむかふですと

いつかおれは羽田縣屈に言つてゐた

ここはよつぽど高いから

柳澤つづきの一帶だ

やつぱり好摩にあたるのだ

どうしたのだこの鳥の聲は

なんといふたくさんの鳥だ

鳥の小學校にきたやうだ

雨のやうだし湧いてるやうだ

居る居る鳥がいつぱいにゐる

なんといふ數だ 鳴く鳴く鳴く

Rondo Capriccioso

ぎゆつくぎゆつくぎゆつくぎゆつく

あの木のしんにも一ぴきゐる

禁獵區のためだ 飛びあがる

  (禁獵區のためでない ぎゆつくぎゆつく)

一ぴきでない ひとむれだ

十疋以上だ 弧をつくる

  (ぎゆつく ぎゆつく)

三またの槍の穗 弧をつくる

靑びかり靑びかり赤楊(はん)の木立

のぼせるくらゐだこの鳥の聲

  (その音がぼつとひくくなる

   うしろになつてしまつたのだ

   あるひはちゆういのりずむのため

   兩方ともだ とりのこゑ)

木立がいつか並樹になつた

この設計は飾繪(かざりゑ)式だ

けれども偶然だからしかたない

荷馬車がたしか三臺とまつてゐる

生(なま)な松の丸太がいつぱいにつまれ

陽(ひ)がいつかこつそりおりてきて

あたらしいテレピン油の蒸氣壓(じやうきあつ)

一臺だけがあるいてゐる。

けれどもこれは樹や枝のかげでなくて

しめつた黑い腐植質と

石竹(せきちく)いろの花のかけら

さくらの並樹になつたのだ

こんなしづかなめまぐるしさ。

 

この荷馬車にはひとがついてゐない

馬は拂ひ下げの立派なハツクニー

脚のゆれるのは年老つたため

 (おい ヘングスト しつかりしろよ

  三日月みたいな眼つきをして

  おまけになみだがいつぱいで

  陰氣にあたまを下げてゐられると

  おれはまつたくたまらないのだ

  威勢よく桃いろの舌をかみふつと鼻を鳴らせ)

ぜんたい馬の眼のなかには複雜なレンズがあつて

けしきやみんなへんにうるんでいびつにみえる……

……馬車挽きはみんなといつしよに

向ふのどてのかれ草に

腰をおろしてやすんでゐる

三人赤くわらつてこつちをみ

また一人は大股にどてのなかをあるき

なにか忘れものでももつてくるといふ風(ふう)…(蜂凾の白ペンキ)

櫻の木には天狗巢病(てんぐすびやう)がたくさんある

天狗巢ははやくも靑い葉をだし

馬車のラツパがきこえてくれば

ここが一ぺんにスヰツツルになる

遠くでは鷹がそらを截つてゐるし

からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし

いま向ふの並樹をくらつと靑く走つて行つたのは

(騎手はわらひ)赤銅(しやくどう)の人馬(じんば)の徽章だ

 

[やぶちゃん注:〔 〕はママ。指示板の文字をこれで示した。

「「混(こ)んだ野ばらやあけびのやび」「やび」はママ。原稿は「やぶ」。誤植。「正誤表」にはない。

・「いつかおれは羽田縣屈に言つてゐた」屈」はママ。原稿は「羽田縣※」(「※」=(上)「尸」+(下)「虫」)。この「※」は「屬」(属)の異体字であるから、「屈」は誤植である。「正誤表」にはない。「羽田」は人名で「はだ」と読み(後述)、「縣屬」(県属(けんぞく))とは旧県に於ける行政組織に於いて事務を取り扱う役人のことを指した。なお、宮澤家版「手入れ本」ではここが「羽田縣視學」となっている。「視學」は同じく当時の地方教育行政官で市視学・郡視学・府県視学があった。学事の視察及び教育指導に当たった。 現在の県教育委員会の指導主事に相当するので、県属には違いない。

・「あるひはちゆういのりずむのため」「あるひは」はママ。正しい歴史的仮名遣は「あるいは」であるが、古典や明治・大正期の作家でも「あるひは」「或ひは」と表記する作家はすこぶる多いから、違和感は殆んどない。

・「なにか忘れものでももつてくるといふ風(ふう)…(蜂凾の白ペンキ)」の三点リーダ一字分は底本のママである。原稿もママである。思うに、丸括弧を入れて本文二十八字(丸括弧は実際上は半角相当であるから二十七字分となる)というのは、本底本の一行字数では最長で、ページ組版から視認しても、ここまでが、通常の組版の下限限界ではある。原稿もそうなっているというのは、或いは印刷所とのやり取りによって事前に、最大一行字数が通知されていたからかも知れない。

「あけび」キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連アケビ属アケビ Akebia quinata。小さな頃は、家の周囲の山で近所のお兄さんたちが高木に登って採ってきては食わして呉れたものだった。今、ラップに包んでスーパーに売られているのを見ると、私は何故か哀しくなるのを常としている。

「鐵ゼルの fluorescence」「鐵ゼル」は「鐡ゲル」であろう(原稿が「ゲル」を「ゼル」に書き換えてある)。「ゲル」(Gel)は賢治の好んだ多数既出の「ゾリ」=コロイド溶液が流動性を失ってゼリー状となったもの。例えば通常は、固まった寒天・豆腐・蒟蒻(こんにゃく)などのゼリー状に固まった様態を示すもの。高分子物質又はコロイド粒子が、その相互作用により、全体として網目構造を形成し、溶媒又は分散溶媒である液相部分を多量に含んだまま、それまであった流動性を失った状態を指す。「鉄ゲル」というのは恐らく、塩化鉄(Ⅲ)(FeCl3。旧塩化第二鉄)等の三価鉄イオンの水溶液にアルカリを加えると生じる水酸化鉄(Ⅱ)(Fe(OH)2)のコロイド水溶液或いはコロイド状沈澱のことと思われる。錆を溶かしたような褐色を呈したり、澱が沈む。前にも引かせて戴いた「ギトンの読書室」内の「ゆらぐ蜉蝣文字」の「□第3章 小岩井農場」の記載を参考にさせて戴いた。それによれば、『この沈澱の化学組成は、より正確には、酸化水酸化鉄(Ⅲ)または酸化鉄(Ⅲ)の水和物(Fe2O3nH2O)と考えられてい』るとある)。また、同サイトには、そこからリンクしてカテゴリ「宮沢賢治作品の参考画像」の「鉄コロイド」が、いろいろな画像で我々の今一つ判り難いものを掲げて説明して下さっている。必見。「fluorescence」は物理用語で「蛍光(性)」・「蛍光発光」を指す。カタカナ音写は「フス」。但し、上記のコロイド溶液や沈殿が蛍光するとは思えないから、これは太陽光を受けた褐色のそれの輝きを言っただけのことか?

「白樺」ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica

「好摩(こうま)」岩手県盛岡市好摩。小岩井農場の東北十八キロメートルほど。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽田縣屈」岩手県稗貫(ひえぬき)郡(現在の花巻市の一部)担当の視学であった羽田(はだ)正。

「柳澤つづきの一帶だ」「柳澤」は次の「好摩」との位置関係から、現在の岩手県滝沢市(小岩井農場の北端が接する)柳沢附近と比定出来る。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、宮澤家「手入れ本」ではこの一行を縦線で抹消している。

Rondo Capriccioso」ほぼ一字分の字空きはママ。これは、ドイツ・ロマン派の作曲家フェーリクス・メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy 一八〇九年~一八四七年)が一八二四年に作曲した「ロンド・カプリッチョーソ Op.14 U 67 ホ長調」(Rondo capriccioso E-Dur Op.14 U 67)で、原曲はピアノ独奏曲である。スティンガー氏のブログ「東京漂流瓶集配局」の「宮沢賢治と音楽」に、原曲は『鷹揚で典雅な導入と劇的な起伏をもつ豊かな曲』とされて、You Tube の「Murray Perahia plays Mendelssohn's Rondo Capriccioso (1974)」の音源を引いておられ、さらに、『ところが賢治先生愛聴の吹奏楽バージョンは『Rondo capriccioso Vessella’s Italian Band 1912-11-05The Library of Congress > National Jukebox』で、『すっとんきょうかつキュート! なんだこれなんだこれ』という感じで、『これが「鳥の小学校」「ぎゆつくぎゆつく」ってことなのかー!と、驚愕の理解および納得を得た』と述べられ、『この』二『つのバージョンの差がほんとに面白いから、できれば両方聴いてみてもらえるとうれしい』、『詩の字面から受けるイメージが、ガラガラ音を立てて変わ』る、『たとえタイトルが同一でも、演奏者も編曲も音源もぜんぜんちがうんだから、自分の知ってる曲(と同じようなもの)だと思ってちゃいけないんだ!』という感懐を記されておられる。確かに!!! それをさまざまな鳥のけたたましい自分勝手な囀りの形容に用いたものである。これは確かに度胆の後者であろう。「ぎゆつくぎゆつくぎゆつくぎゆつく」のオノマトペイアの意味が、説明なしで判る!!!

「木のしん」「木の芯」? 一本の木の主幹軸の蔭の謂いか。

「禁獵區のためだ」とあって「(禁獵區のためでない ぎゆつくぎゆつく)」というのは後者が、丸括弧で括られ、「ぎゆつくぎゆつく」と併置されていることから、鳥たちが賢治の言った人間が都合で保護占有し得たと思っている「禁獵區のためだ」という愚かさを、指弾している囀りの訳語だからである。なお、この鳥をムクドリ(スズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリ Sturnus cineraceus)一種に限定している記載を見かけたが、確かに、彼らは鳴き声の音写は「ギャーギャー」「ギュルギュル」「ミチミチ」などであるから、この「ぎゆつく ぎゆつく」という独特のオノマトペイアとの親和性はあり、夜には一ヶ所に集まって塒(ねぐら)を形成し、冬場などには数万羽の大群となったり、河原の広葉樹や人家の竹藪に蝟集しはする。けれども、この詩篇の時制は昼間であるし、私はどうも、これらの鳥をムクドリ一種とする考えはどうか? という気もしないではない。但し、「一ぴきでない ひとむれだ」「十疋以上だ 弧をつくる」と言うあたりからは、主体はムクドリの群れで構わぬとは思う。

「三またの槍の穗」「三叉(みつまた)の槍(やり)の穗(ほ)」で、飛翔する鳥の形を、所謂、ポセイドンの持つ「トライデント(trident)」(三叉戟(さんさげき))の穂先に形象化したしたもの。

「靑びかり」これは鳥たちの翅と青空の煌めきを謂うか。

「赤楊(はん)」榛(はん)の木の別名。ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica。「赤」は、冬に楕円形を呈する雌花穂が咲くが、それが紅紫色を帯びるからか(因みに、材色は伐採直後は鮮やかなオレンジ色であるが、片材は淡黄褐色、心材はくすんだ褐色を呈するようなる)。

「その音がぼつとひくくなる」/「うしろになつてしまつたのだ」ここはドップラー効果(Doppler effectDoppler shift)のことを言っているようである。

「あるひはちゆういのりずむのため」同時に、何らかの外敵・変異を感得して、囀りが警告音に変わったからと添える。

「木立がいつか並樹になつた」宮澤家「手入れ本」ではここから最後まで全三十八行に斜線を附して全カットしている。

「生(なま)な松の丸太がいつぱいにつまれ」/「陽(ひ)がいつかこつそりおりてきて」/「あたらしいテレピン油の蒸氣壓(じやうきあつ)」前二行の実景及びその伐採された松材(恐らくは間伐材)の丸太に当たる陽の光りに蒸されて匂い立つ様子から、詩人はテレピン油(テレビンゆ:turpentine:テレビン油・ターペンタイン:マツ科Pinaceaeの樹木のチップ或いはそれらの樹木から採取された松脂を水蒸気蒸留することによって得られる精油)のそれを嗅ぎ分けようとする。

「けれどもこれは樹や枝のかげでなくて」/「しめつた黑い腐植質と」/「石竹(せきちく)いろの花のかけら」/「さくらの並樹になつたのだ」「石竹いろ」はセキチク(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis)の花のような淡紅色・ピンク色を指す。しかし、ここはすんなりと読ませて呉れない。それは逆接の接続詞「けれども」で論理的な意味で対応する前景(ここまでのプロムナード)と、それに逆接する「これ」の指示語が示す対象景(以下の軟らかく湿った腐植土質に植えられた桜並木のプロムナード)を即座に読者が想起出来にくいからである。それはとりもなおさずこの「けれでも」「これは」という論理指示の硬い語句による弊害である。寧ろ、直後の「こんなしづかなめまぐるしさ。」によって、それが腑に落ちるという形をとるが、どうもリズムが鈍ってよくない気が私はする。

「拂ひ下げ」小岩井農場が、この民間の材木屋或いは荷馬車屋に、老齢故に売り渡した「ハツクニー」(パート一で既出既注)。

「ヘングスト」Hengst。ドイツ語で、「繁殖用の牡馬・種馬」のこと。『盛岡タイムス』の「Web News」(二〇一一年 八月六日号)の元小岩井農場展示資料館館長岡澤敏男氏の「〈賢治の置土産~七つ森から溶岩流まで〉」(二百二十三回)の「ヘングスト」に、『この馬車を引くハクニー(ハツクニー)の老挽馬も、昔はさぞかし』、『名のある種馬だったのだろうと』、『〈貴種流離譚〉もどきにヘングストと呼びかけたので』あろう、『だから自負心を忘れないように「しつかりしろよ」と励まし、「威勢よく桃いろの舌をかみふつと鼻を鳴らせ」と叱咤しているの』だと記されてさらに、『賢治がハクニーの老挽馬にヘングストと名付けたのは、小岩井農場で活躍した名種馬ブラック・パフォーマー号を比喩してのことだったのではなかろうか』と述べられ、『ブラック・パーフォーマー号は小岩井農場が明治』三五(一九〇二)『年にイギリスから導入したハクニー種牡馬、大正』一〇(一九二一)『年まで』、『種付用に供されており、その産駒は農場産』百四十一『頭、場外産』八十二『頭という功績を残した名馬で』あった。『賢治が「小岩井農場」を書いたのは大正』一一(一九二二)年五月の『ことなので、ブラック・パーフォーマー号もすでに引退して払下げられ』、『松丸太の挽馬になったものと見立てたので』あろうと思われ、『それだから』、『尊称を秘め』、『ドイツ語で〈ヘングスト〉と呼び掛けたの』だとされる。同感できる。以下、『賢治はハクニーに特別の価値観をもっていたことを「小岩井農場」パート一に表明してい』るとして、パート一の当該箇所を引かれた上で、『その価値観に存在するのは小岩井農場がつくりあげた「小岩井ハクニー」と称されるハクニー改良種だったとみられ』、『「小岩井ハクニー」はサラブレッド種とハクニー種の交雑で、サラブレッド種の血液25%を保持するように配合されたハクニー改良種で』、『軽挽馬として理想に近い体型といわれ』、当時の『時勢に合っていて、種牡馬あるいは中間種の繁殖用として好評で』、『その需要が急速に高まった』こと『から、馬好きの賢治は四肢端正な「小岩井ハクニー」のコップ型体型にすっかりほれ込んだものと思われ』ると記しておられる。賢治と「ハツクニー」の「ヘングスト」の心の交感を評されていて、美事である。机上で独楽(いや、この場合「駒」か)回ししている文学研究者にはこうは書けない。

「ぜんたい馬の眼のなかには複雜なレンズがあつて」/「けしきやみんなへんにうるんでいびつにみえる……」個人ブログ「藍よりも青し」の「小岩井農場 パート3~」に、『馬の眼は焦点の合わせ方が人間とは違い、また』、『目の筋肉があまり発達していないため』、『焦点のゆがみを利用しながら、顔を動かしピントを合わせてい』るとあり、『それ以外の部分は歪んで見えるところを賢治は述べているので』あろうとある。文字通り、眼から鱗!

「なにか忘れものでももつてくるといふ風(ふう)…(蜂凾の白ペンキ)」現存する「下書稿」(完品(全原稿揃い)ではない)では、同原稿現存二枚目は「何か忘れ物でも持つて來るといふ風だ。」と書いて(十九行目)、残りの原稿用紙三分の二を空白のままに終わっている。これを見るに、少なくとも下書きの想案では賢治は、ここにさらに長いシークエンスを持ち込むつもりだったのではないかと推察することが可能である。さればこの暗号のような点景「蜂凾の白ペンキ」はその原シークエンスの中の一種のランドマークと考えてよかろう。「蜂凾」は「ほうくわん(ほうかん)」と音読みしたい。「凾」は「函」と同じいから、れは蜂養用の巣箱のことである。それに塗られた白いペンキが、陽を照り返して光っているというのである。これは何か、ひどく、そそる表象ではある。私の中にもそれは、ある秘密めいたものとして、ある。しかし、賢治のそれが何を象徴しているかは、永遠の謎である。下書稿」は「宮澤賢治世界」を参照されたい。

「天狗巢病(てんぐすびやう)」「日本花の会」公式サイト内の「サクラてんぐ巣病」によれば、これは『カビの一種が原因で発生する伝染病で、病気にかかった枝についた葉の裏面に形成された病原菌の胞子が、空気中に飛んで感染していきます。感染すると枝が異常に発生して、花が咲かなくなる病気です。放置しておくと』、『感染した枝はやがて衰弱し、枯死してしまいます』。『染井吉野の場合、病気にかかった枝は、開花時に葉が出るのでよく目立ちます』。『現時点では薬剤での防除方法が確立されていないため、病巣部を切除するしか有効な対策はありません。作業は落葉期間中に行います』。一『度の除去作業では取り残しなどがあるため、最低』三『年間は継続して除去作業を行うことが重要です。桜の中でも染井吉野は感染しやすい品種なので、周辺にこの病気にかかった桜がある場合にはこの品種を避けることや、病巣部の切除作業が出来ない場所には植えないことも一つの方法です』とある。ウィキの「てんぐ巣病」には、『植物病害の一種で、植物(多くは樹木)の茎・枝が異常に密生する奇形症状を示すものの総称である。高い木の上に巣のような形ができるため』、『この名がある。英語ではwitch's broom もしくはwitches' broom(魔女のほうき)という』。『直接の原因としては、植物ホルモンの異常が考えられる。通常は、頂芽から出るオーキシンがその下の腋芽の生長を抑えている(頂芽優勢)。しかしオーキシンに拮抗するサイトカイニンの量が多くなると、多くの芽が一度に生長することとなり、天狗巣症状が現れる』。『これを起こす原因は様々で、菌類、昆虫、線虫、ファイトプラズマ、ウイルスなどがある。特に子嚢菌類タフリナ科に属するサクラのてんぐ巣病菌』(菌界タフリナ菌亜門タフリナ菌綱タフリナ目タフリナ科タフリナ属サクラノテングスビョウキン Taphrina wiesneri)『がよく知られる。日本では、他にバッカクキン科の糸状菌・タケのてんぐ巣病菌』(菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ目バッカクキン科 Aciculosporium 属タケノテングスビョウキン Aciculosporium take)『もタケノコの生産に支障をきたすために問題化している』とある。

「馬車のラツパがきこえてくれば」何度か引かさせて戴いている、ギトンゆらぐ蜉蝣文字の「□第3章 小岩井農場によれば、この「馬車のラツパ」は先にも注で指摘した、『小岩井農場の場内を走っている軌道式の《馬トロ》が、停車場に近づいた時に鳴らす笛を指して』おり、実際には『トランペットやホルンではなく、豆腐屋の笛(チャルメラ)だった』とある(ギトン氏は優れた宮澤賢治研究をなさっておられる。但し、リンク先には男性の同性愛が苦手な方は注意されたい。上記リンク先にも美少年の美しいヌード写真が冒頭にどんと添えられているから。私は全く平気であるが)。

「スヰツツル」はスイス(Switzerland)のこと。英語のそれの「land」を外せば、音写は「スゥィトゥサァル」となる。ドイツ語やスイスドイツ語の「Schweiz」でもよいが、これは音写は前者が「シュバイツ」、後者が「シュウィーツ」であるから、英語の音写と考えた方がよかろう。渡辺宏氏は宮沢賢治 Kenji-Review(私はこれをずっと配信してもらってきており、全号を保存してある)の第四三三号で、『ここではロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」の中の「スイス軍の行進」のことです』とされ、『この曲は序曲の最後の部分で、トランペットの華やかな演奏が印象的です。「馬車のラツパ」からトランペットを思い起こすのは自然なことなのでしょう』と記しておられる(私は凡愚で渡辺氏の指摘で初めて気がつく為体(ていたらく)であったのを思い出す)。ご存じ、ジョアキーノ・ロッシーニが作曲したオペラ「ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)」序曲(フランス語:Ouverture de Guillaume Tell/英語:William Tell Overture:一八二九年作)の第四部(フィナーレ)アレグロ・ヴィヴァーチェ(March of the Swiss Soldiers)。誰も知っているそれであるが、一応、You Tube Free SchoolWilliam Tell Overture Finale (March of the Swiss Soldiers) by Gioachino Rossini - FreeSchool Radioをリンクさせておく。

「截つて」「たつて(たって)」。

「(騎手はわらひ)赤銅(しやくどう)の人馬(じんば)の徽章だ」ギトンゆらぐ蜉蝣文字の「□第3章 小岩井農場ページでは、『「人馬の徽章」は、馬と騎手、あるいは人馬ケンタウロスをデザインした徽章か商品マークが、当時あったのかもしれませんが、いまのところ見つけられません。ネット検索では、現・陸上自衛隊第1師団第1戦車大隊(静岡県御殿場市)が、ケンタウロスをあしらったシンボルマークを持っていることしか分かりませんでした』とあり、以下、本最終行について、『疾駆する馬と若い騎手の汗が混じり合った濃厚な匂いが、吹きつけて来そうです』。『ところで、この“疾駆する馬と騎手”ですが、実景をスケッチしたとすれば、単なる乗馬ではなく、競走馬を訓練している風景であるはずです。じっさい、当時、小岩井農場はサラブレッドなどの競走馬の育成に力を入れており、競走馬は、農場財政を支える最大の収入源でした』。『当時、《農場本部》の東側には《育馬部》があり』(先に引いたsuzukikeimori氏のブログ「宮澤賢治の里より」の「155 小岩井農場(その1)」の旧地図で地図中央位置に「育馬部」の表示を確認出来る)、『周辺に4ヶ所の馬場が設けられていました』(以下にあるギトン氏の別ページへのリンクを附す。写真ページ地図ページがこちらである。前者には先に出た鉄道馬車のラッパの現物画像もある)。但し、その後、『育馬部は、戦後GHQの政策で廃止され、大清水の』二『つの馬場があった部分は、農地解放により』、『農場外に払い下げられました(農場展示資料館の展示解説による)。そして、農場全体も、現在の乳製品生産を中心とする経営に推移していきます』。『作者が、どの馬場の訓練風景を見たのかは分かりませんが、いずれにしろ、この「パート』三『」の末尾の場所にそのスケッチを挿入しているのは、“見たまま”の順序ではなく、スケッチの“編集”があると思わなければならないでしょう』とある。ギトン氏の痒いところに手が届く解説に頭が下がる。]

2018/11/13

和漢三才圖會第四十三 林禽類 連雀(れんじゃく) (ヒレンジャク・キレンジャク)

 

Hirenjyaku

 

れんしやく

 連雀

 

和名抄云連雀者唐雀也今俗所稱者雀之有冠毛也是

鳥希見疑異國之鳥矣

△按連雀今處處有狀如雀之大頭背胸灰赤色翅黑有

 黃白圓文羽尾瑞畧紅其尾短黑頂上有毛冠眼頷邊

 黑常棲山林成羣以形美人畜之樊中或披尾如舞畧

 似孔雀形勢但聲不好如曰比伊比伊蓋此與練鵲字

 同音而物異其練鵲卽帶鳥【尾長】也連雀卽冠鳥【有毛冠】

 也今人稱有毛冠之鳥不曰毛冠某鳥謂有連雀

黃連雀 形狀同連雀而羽尾瑞共黃

 

 

れんじやく

 連雀

 

「和名抄」に云はく、『連雀は唐雀なり。今、俗に稱する所は、雀の冠毛有る〔もの〕なり。是の鳥、希れに見る。疑ふらくは異國の鳥か』〔と〕。

△按ずるに、連雀、今、處處に有る。狀、雀の大〔なるが〕ごとし。頭・背・胸、灰赤色。翅、黑。黃白の圓文有り。羽尾の瑞、畧〔(ほぼ)〕紅。其の尾、短くして黑く、頂の上、毛冠有り。眼・頷の邊り、黑し。常に山林に棲み、羣を成す。形の美なるを以つて、人、之れを樊〔(かご)の〕中に畜〔(か)〕ふ。或いは尾を披〔(ひら)〕いて舞ふがごと〔くすれば〕、畧〔(ほぼ)〕孔雀の形勢を似〔す〕。但し、聲、好からず、「比伊比伊〔(ひいひい)〕」と曰ふがごとし。蓋し、此れ、練鵲〔(れんじやく)〕と、字、同音にして物〔としては〕異なり。其れ、練鵲は、卽ち、「帶鳥〔(おびどり)〕」【「尾長〔(おなが)〕」。】なり。連雀は卽ち、「冠鳥〔(かんむりどり)〕」【毛冠有り。】なり。今の人、毛冠の有る鳥を稱して、毛冠と曰はずして、『某(そ)の鳥に連雀有り』と謂ふ〔なり〕。

黃連雀(きれんじやく) 形狀、連雀に同じくして、羽〔の〕尾の瑞、共に黃なり。

[やぶちゃん注:スズメ目レンジャク科レンジャク属ヒレンジャク Bombycilla japonicaウィキの「ヒレンジャク」によれば、『北東アジアに生息』し、『日本では冬鳥として見られる』。『体長は約十八センチメートル、翼開長は約二十九センチメートル。『オスとメスはほぼ同色で、全体的に赤紫がかった淡褐色であるが、頭や羽などに特徴的な部位が多い。顔はやや赤褐色みを帯び、尖った冠羽、冠羽の縁まで至る黒い過眼線、黒いのど(メスは、黒斑の下端の境界が曖昧である)などである』。『初列風切は黒褐色で、外弁は灰色、オスは白斑があるが、メスは外弁にのみ白斑がある。次列風切に灰色で先の方は黒色、先端部は赤い。レンジャク族の英名「ワックスウィング」(Waxwing)の由来である、キレンジャク』(後述)『やヒメレンジャク』(レンジャク属ヒメレンジャク Bombycilla cedrorum:北アメリカ大陸に棲息し、本邦にはいない)『に見られる次列風切の先端にある赤い蝋状の突起物は、ヒレンジャクにはない。大雨覆』(おおあまおおい:「雨覆」は「雨覆羽(あまおおいばね:wing-coverts)のことで、翼の前面を数列に並んで覆っている羽毛を指す。風切羽の基部を覆い、前方からの空気の流れをスムースにしている。後列のものは大きく、「大雨覆」と呼んで区別するほか、上面のものを「上雨覆」、下面のものを「下雨覆」、前面を「前縁雨覆」などと称する)『の先端は暗赤色』。『腹は黄色みを帯びており(キレンジャクとは異なる)、腰から上尾筒は灰色、下尾筒は赤(キレンジャクは橙褐色)、尾は灰黒色で先端が赤色である。尾羽の枚数は』十二『枚であり、漢名「十二紅」の由来となっている』。『シベリア東部・中国北東部のアムール川・ウスリー川流域で繁殖するが、森林の減少と環境悪化によって絶滅が危惧されている』。『越冬地は日本のほか、サハリン、朝鮮半島、中国南部、台湾などだが、年によって飛来数が極めて不規則であり、まったく観察されない年があったり、越冬地でも一年を通してみられることもある。日本では沖縄県中部より北の地域に』、十一月~五月に『かけて滞在する。東日本に多いキレンジャクに対して、ヒレンジャクは西日本に多く渡来し、北海道ではほとんど見られない。越冬地は低地や、丘陵地の開けた森林・農地などであり、公園や家の庭などにも餌となる果実を求めて飛来する。なお』、『ヨーロッパでも目撃報告があるが、これは飼育されていた個体が逃げたものと見られている』。『日本などに飛来する冬の非繁殖期には主に果実類、ネズミモチ、イボタノキ、ニシキギ、ヤドリギ、ノイバラ、ヤツデなどを食するが、繁殖期である夏の間は昆虫食である。ヒレンジャクは基本的に数羽から数十羽の群れで行動するが、稀に』百『羽以上の大群となることもある。また、しばしばキレンジャクとの混群もみられる。鳴き声は甲高く「ヒーヒー」「チリチリ」などと鳴くが、囀りはない。巣は、樹上に小枝を用いたお椀状のものを作り、その中には草や苔などを敷く』。『キレンジャクとともに平安時代から「連雀(れんじゃく)」「唐雀(からすずみ)」などとして知られていた。連雀の名の由来は、群で行動するためである。キレンジャクとヒレンジャクを区別するようになったのは』、『江戸時代中期からで、それぞれ』、『漢名の「十二黄」と「十二紅」に相当すると「喚子鳥」』(よぶこどり:蘇生堂主人著の小鳥の飼育法を紹介した書。宝永七(一七一〇)年刊)『などに記されている。また、ヤドリギ(古名:ほや)を食することから「ほやどり」とも呼ばれていた』とある。You Tube caabj209氏の「ヒレンジャクの鳴き声・・・」をリンクさせておく。

『「和名抄」に云はく、『連雀は唐雀なり。今、俗に稱する所は、雀の冠毛有る〔もの〕なり。是の鳥、希れに見る。疑ふらくは異國の鳥か』〔と〕』「和名類聚鈔」巻十八の「羽族部第二十八」の「羽族名第二百三十一」に、

   *

連雀 「辨色立成」に云はく、連雀は【唐雀なり。時々、群飛す。今、案ずるに、雀に黃雀・靑雀・白雀・大雀等の名有り。出ずる所は未だ詳らかならず。但し、俗に今、稱する所の者の、雀の毛冠有るものなり。是の鳥、希れに見るは、疑ふらくは、異國の鳥獸か。】。

   *

とある。

「或いは尾を披〔(ひら)〕いて舞ふがごと〔くすれば〕、畧〔(ほぼ)〕孔雀の形勢を似〔す〕」時に尾を開いて舞うような仕草をすると、それはあたかも雄の孔雀(くじゃく)がかくするような姿勢に似せて見える。

「練鵲〔(れんじやく)〕」全くの別種であるスズメ目カラス科オナガ属オナガ Cyanopica cyana のこと。黒色の帽子を被ったように見える(但し、実際の頭部の羽毛は濃紺色である)が、冠状に立ってはいない。尾羽根は青灰色(二枚×五列)で扇状に開いた際に中央の二枚が最も長く(帯状に長く見えることがそれぞれの異名の由来である)、先端が白い(雌雄同色)。良安の謂いは正しい。

「某(そ)の鳥に連雀有り」これそれの鳥に連雀があるという言い方をする。

「黃連雀(きれんじやく)」レンジャク属キレンジャク Bombycilla garrulusウィキの「キレンジャクによれば、全長約十九・五センチメートル。『体はおもに赤みのある灰褐色で、頭部には冠羽がある。次列風切羽の先端部に、赤い蝋状の突起物があるのが特徴である。これは羽軸の先端と外弁の一部が変化したものとみられており、ヒレンジャクにはないが、キレンジャクのほかヒメレンジャクにも見られる。この蝋状の物質がレンジャク科の英名「ワックスウィング」(Waxwing) の由来である』。『平地や山地の林に生息し、おもに木の実を食べる。地上』二~六メートルの『枝の上に、小枝、枯草、蘚苔類で皿形の巣を作る』。五~七月に卵を』『産み、雌が抱卵』、十三~十四日で『雛鳥が生まれる。冬は』十~三十羽ほどで群れを成し、『時にはヒレンジャクと混群』して、百『羽以上の群れを作ることもある』。『北半球の寒帯に広く繁殖分布し、日本では冬鳥として見られるが、本州中部以北に多い。木の実を求めて』、『どの程度』まで『南下するかは』、『途中の木の実の量に影響され、またその年の木の実の豊凶によって繁殖数が変動する』という。因みに、本種は『旭川市の「市の鳥」でもある』とある。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート二

 

            
パート二

 

たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし

雨はけふはだいじやうぶふらない

しかし馬車もはやいと云つたところで

そんなにすてきなわけではない

いままでたつてやつとあすこまで

ここからあすこまでのこのまつすぐな

火山灰のみちの分だけ行つたのだ

あすこはちやうどまがり目で

すがれの草穗(ぼ)もゆれてゐる

 (山は靑い雲でいつぱい 光つてゐるし

  かけて行く馬車はくろくてりつぱだ)

ひばり ひばり

銀の微塵(みぢん)のちらばるそらへ

たつたいまのぼつたひばりなのだ

くろくてすばやくきんいろだ

そらでやる Brownian movement

おまけにあいつの翅(はね)ときたら

甲蟲のやうに四まいある

飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と

たしかに二重(ふたへ)にもつてゐる

よほど上手に鳴いてゐる

そらのひかりを吞みこんでゐる

光波のために溺れてゐる

もちろんずつと遠くでは

もつとたくさんないてゐる

そいつのはうははいけいだ

向ふからはこつちのやつがひどく勇敢に見える

うしろから五月のいまごろ

黑いながいオーヴアを着た

醫者らしいものがやつてくる

たびたびこつちをみてゐるやうだ

それは一本みちを行くときに

ごくありふれたことなのだ

冬にもやつぱりこんなあんばいに

くろいイムバネスがやつてきて

本部へはこれでいいんてすかと

遠くからことばの浮標(ブイ)をなげつけた

でこぼこのゆきみちを

辛うじて咀嚼(そしやく)するといふ風にあるきながら

本部へはこれでいゝんですかと

心細(こころぼそ)さうにきいたのだ

おれはぶつきら棒にああと言つただけなので

ちやうどそれだけ大(たい)へんかあいさうな氣がした

けふのはもつと遠くからくる

 

[やぶちゃん注:・「そいつのはうははいけいだ」は底本では「そいつのほうははいけいだ」。「其奴(そいつ)の方は背景だ」であろうが、さすれば、「ほう」は「はう」の誤りである。原稿でも「ほう」であるが、「正誤表」で訂正されているので直した但し、「正誤表」がまた誤っていて、ページ数を「七四」とすべき、ところを「四七」としてしまっていて、読者には意味が判らぬものとなっている。つくづく運のない本である。まあ、しかし、ここは正誤補正されたものと採って、直す。

・「本部へはこれでいいんてすかと」「て」はママ。原稿は「で」。誤植。

 

「たむぼりん」タンバリン(tambourine)のこと。カタカナ音写は「タンバリーン」が近い。なお、サンバやボサノヴァなどのブラジル音楽で使用される似た発音のタンボリン(Tamborim)があるが、これは片面太鼓をスティックで打つ打楽器で、全く異なる。ここは飛天の楽の音(ね)のイメージか。何らかの音響的な気象現象とは思われない。恐らく、後に出るブラウン運動の微粒子の衝突の音を幻想したものと思われる。

「しかし馬車もはやいと云つたところで」/「そんなにすてきなわけではない」/「いままでたつてやつとあすこまで」/「ここからあすこまでのこのまつすぐな」/「火山灰のみちの分だけ行つたのだ」逆接の接続詞「しかし」は前の部分を指すのではなく、「パート一」の、ぐじぐじした馬車への乗車願望が満たされなかったことへの不満の代償的批評である。これはかなりの粘着質である。私は賢治の人格にはそうした妙な細部に拘る強い、神経症的な固着性を感ずる(これは私にも若干あるのでよく判る)。本書の「手入れ」もその証左である。

「すがれ」「末枯(すが)れ」(これで「うらがれ」とも読む)「盡(すが)れ」。草木の枝先や葉先が枯れること。

「ひばり ひばり」/「銀の微塵(みぢん)のちらばるそらへ」/「たつたいまのぼつたひばりなのだ」前にも注した「揚げ雲雀」の急速な上昇と縄張りを主張する鳴き声をも字背のサウンド・エフェクトとして入れ、それを見上げた刹那の視覚上のハレーショーンを組み込んだ。以下は、それを賢治得意に科学用語の錬金術で装飾する。

Brownian movement」ブラウン運動。現行では英語は「Brownian motion」。液体のような溶媒中に浮遊する微粒子(例:コロイド)が、不規則(ランダム)に運動する現象で、一八二七年に、スコットランド生まれの植物学者ロバート・ブラウン(Robert Brown 一七七三年~一八五八年)が、水の浸透圧で破裂した花粉から、水中に流出して浮遊した微粒子を顕微鏡下で観察中に現象として発見し、翌年、論文「植物の花粉に含まれている微粒子について」(A brief account of microscopical observations made on the particles contained in the pollen of plants)で発表した。参照したウィキの「ブラウン運動」によれば、『この現象は長い間原因が不明のままであったが』一九〇五年に『アインシュタインにより、熱運動する媒質の分子の不規則な衝突によって引き起こされているという論文が発表され』、『この論文により』、『当時不確かだった原子および分子の存在が、実験的に証明出来る可能性が示された。後にこれは実験的に検証され、原子や分子が確かに実在することが確認された』とある。

「おまけにあいつの翅(はね)ときたら」/「甲蟲のやうに四まいある」/「飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と」/「たしかに二重(ふたへ)にもつてゐる」四枚あるわけでは無論ないが、強力な飛翔力・上昇力を持つスズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis は、見た目の羽根全体が、体の大きさの割には閉じている時にはよく後部に延びてシャープでありながら、質的にはみっちりしてもいる。ウィキの「ヒバリ」によれば、全長十七センチメートルに対して、翼開長は三十二センチメートルあり、『後頭の羽毛は伸長(冠羽)する』。『上面の羽衣は褐色で、羽軸に黒褐色の斑紋(軸斑)が入る』。『下面の羽衣は白く、側頸から胸部にかけて黒褐色の縦縞が入る』。『胸部から体側面にかけての羽衣は褐色』、『外側尾羽の色彩は白い』。『初列風切は長く突出』し、『次列風切後端が白い』とあり、こうした羽毛の色の違いから、賢治の言う以上の謂いは実は非常に腑に落ちると言えるのである。なお、私は、雲雀が大好きだ。なお、原稿を見ると、「漆ぬりの方と」は「漆ぬりの鞘と」とあり、私は「二枚ある」の非科学性を相殺するのに「鞘」の方が良かったと感じている。

「光波のために溺れてゐる」宮澤家「手入れ本」ではこの行を縦線で抹消している。これは前行の「そらのひかりを吞みこんでゐる」という能動性を、反転させた裏からの感覚描写なのであったろうが、二項対立的になってしまって確かによくない

「イムバネス」Inverness。インバネス・コート。ケープ(cape:外套の一種。肩を覆って腰丈に達する程度までのものを指し、前開きを特徴とする)のついた袖無しの外套。丈が長く、ゆったりとしている。名称はスコットランドのインバーネス地方に由来する。日本には明治初期に移入され、男性の外套として「二重回し」「とんび」などと呼ばれて明治の中頃には特に流行した。

「心細(こころぼそ)さうにきいたの」に「おれはぶつきら棒にああと言つただけ」だった「ので」「ちやうどそ」うした冷たく荒っぽく答えた分「だけ」、「大(たい)へんかあいさうな氣がし」てしまった、というのは、ある種、つき合い難いであろう賢治の対人間の膜のようなものに対して、実は自身がある自責意識を同時に持っていたことが判る。それは賢治の、ひねくれて見える存在の核心にある、限りない対象への優しさの実在の証明である。

「けふのはもつと遠くからくる」これは或いは本パートの中で唯一、読解に困る一行であるかも知れぬが、しかし、これは前の部分の複雑した感懐の添え辞である。即ち、そうした自身の実際のすげない冷たい態度に対して、そんなことをすることへの憐憫から生ずる自己批判の感情が、直ちに彼の心内へと突き刺さるのではなく、大きな波長で、遠くの方から、投擲するように、大きな大きなカーブを描いて、彼に伝わってくる、彼を指弾してくるのである。そう解釈した時、前の聊か事大主義的ともとれる「遠くからことばの浮標(ブイ)をなげつけた」という換喩が生きてくると言えるのいではないか? その男の投げかけた問いは、大海の大波(波長)に投げて、挿し浮かべられた標的、賢治の心性のあり方を試すための「buoy」だったのである。

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート一

 

  小 岩 井 農 塲

 

[やぶちゃん注:以下、上記大パート標題のもとに、同題の「小岩井農塲」が載る。本全詩篇は詩篇本文全五百九十一行から成る長篇詩で、「パート○」(丸は漢数字)と呼ばれるゴシックの分割小見出しで一応、分かれている。但し、何故か「(パート五)」と「(パート六)」が一緒に縦一行に標題だけあって本文がなく、また、何故か「パート八」相当が存在せず、「パート七」の次に「パート九」が配されている変則的なものである。なお、本全詩篇は一九二二年五月二十一日の作とする。

 非常に長いので、注が附け難いため、パート毎に分割して示す。なお、賢治自身がパート分割をしているからには、こうした電子化表記が原詩篇を著しく損なう仕儀だとは私は考えていない。パート間にブレイク(休息)があってよいと私は思っている。全一括版は加工底本の渡辺宏氏の「森羅情報サービス」内の「宮沢賢治作品館」の「心象スケッチ 春と修羅」の「小岩井農場」、或いは、「宮澤賢治の詩の世界」のこちらで読める(但し、前者は漢字の一部が正字、後者は新字である)。なお、後者「宮澤賢治の詩の世界」では、先行する「草稿」(筑摩版全集の言う「下書稿」)の最終形態が複数のページに亙って美事に復元されてあるので(上記の本詩篇の最下部の左手にリンクがある)、そちらも参照されたい。これはなかなかに大変な作業で、感服した。因みに、その反対の右下には宮澤家「手入れ本」の全最終形も示されてある。私はここでは、その「手入れ」の内、有意に大きく変異していて気になる箇所のみを注(語注部分)で指示するに留める。

「小岩井農塲」ウィキの「小岩井農場によれば、明治二三(一八九〇)年十一月に『日本鉄道が東北本線を盛岡駅まで延伸開業した翌年の』明治二十四年、『日本鉄道会社副社長の小野義眞(おのぎしん)、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の三名が共同創始者となり』、三『名の姓の頭文字を採り「小岩井」農場と名付けられた』。『当時のこの地域一帯は、岩手山からの火山灰が堆積し冷たい吹き降ろしの西風が吹く不毛の原野で、極度に痩せた酸性土壌であったという。そのために、土壌改良や防風・防雪林の植林などの基盤整備に数十年を要した』。明治三二(一八九九)年に『三菱のオーナー一族・岩崎家の所有となる。戦前は育馬事業も行われており』、『三冠馬・セントライトなど数々の名競走馬を輩出した』。現在の『小岩井農場には、明治時代から昭和初期にかけて建設された牧畜関連の建築物がまとまって残っている。牛舎やサイロのほかに、事務所、倉庫、宿泊や職員の集会用の施設である「倶楽部」、煉瓦の躯体に土をかぶせた天然の冷蔵庫など、農場に関わる各種の建物が残っている。牛舎には大空間を確保するためにトラス架構が取り入れるなど、建築史のうえでも注目され、これらの建築群は日本の近代建築史、近代農業史を知るうえで価値が高い。これらの建物を使用しつつ保存するということが所有者である小岩井農牧の方針であり、文化庁もこうした所有者側の意向に理解を示している。牛舎では現在も牛が飼われており、現役の農場施設として使用しつつ保存するということで、文化財保存の新たな方向性を示すものでもある』とあり、『宮沢賢治は農場とその周辺の景観を愛好し、しばしば散策した。中でも』大正一一(一九二二)年五月の『散策は』、本詩篇の『もとになった。この詩の中には当時の農場の様子(飼育されていたハクニー馬や倉庫など)も描写されている』とある。]

 

 

 

          

 


         
パート 一

 

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた

そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ

けれどももつとはやいひとはある

化學の並川さんによく肖(に)たひとだ

あのオリーブのせびろなどは

そつくりをとなしい農學士だ

さつき盛岡のていしやばでも

たしかにわたくしはさうおもつてゐた

このひとが砂糖水のなかの

つめたくあかるい待合室から

ひとあしでるとき……わたくしもでる

馬車がいちだいたつてゐる

馭者(ぎよしや)がひとことなにかいふ

黑塗りのすてきな馬車だ

光澤消(つやけ)しだ

馬も上等のハツクニー

このひとはかすかにうなづき

それからじぶんといふ小さな荷物を

載つけるといふ氣輕(きがる)なふうで

馬車にのぼつてこしかける

 (わづかの光の交錯(かうさく)だ)

その陽(ひ)のあたつたせなかが

すこし屈んでしんとしてゐる

わたくしはあるいて馬と並ぶ

これはあるひは客馬車だ

どうも農塲のらしくない

わたくしにも乘れといへばいい

馭者がよこから呼べばいい

乘らなくたつていゝのだが

これから五里もあるくのだし

くらかけ山の下あたりで

ゆつくり時間もほしいのだ

あすこなら空氣もひどく明瞭で

樹でも艸でもみんな幻燈だ

もちろんおきなぐさも咲いてゐるし

野はらは黑ぶだう酒(しゆ)のコツプもならべて

わたくしを欵待するだらう

そこでゆつくりとどまるために

本部まででも乘つた方がいい

今日ならわたくしだつて

馬車に乘れないわけではない

 (あいまいな思惟の螢光(けいくわう)

  きつといつでもかうなのだ)

もう馬車がうごいてゐる

 (これがじつにいゝことだ

  どうしやうか考へてゐるひまに

  それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)

ひらつとわたくしを通り越す

みちはまつ黑の腐植土で

雨(あま)あがりだし彈力もある

馬はピンと耳を立て

その端(はじ)は向ふの靑い光に尖り

いかにもきさくに馳けて行く

うしろからはもうたれも來ないのか

つつましく肩をすぼめた停車塲(ば)と

新聞地風の飮食店(いんしよくてん)

ガラス障子はありふれてでこぼこ

わらじや sun-maid のから凾や

夏みかんのあかるいにほひ

汽車からおりたひとたちは

さつきたくさんあつたのだが

みんな丘かげの茶褐部落や

繋(つなぎ)あたりへ往くらしい

西にまがつて見えなくなつた

いまわたくしは步測のときのやう

しんかい地ふうのたてものは

みんなうしろに片附(づ)けた

そしてこここそ畑になつてゐる

黑馬が二ひき汗でぬれ

犁(プラウ)をひいて住つたりきたりする

ひわいろのやはらかな山のこつちがはだ

山ではふしぎに風がふいてゐる

嫩葉(わかば)がさまざまにひるがへる

ずうつと遠くのくらいところでは

鶯もごろごろ啼いてゐる

その透明な群靑のうぐひすが

 (ほんたうの鶯の方はドイツ讀本の

  ハンスがうぐひすでないよと云つた)

馬車はずんすん遠くなる

大きくゆれるしはねあがる

紳士もかろくはねあがる

このひとはもうよほど世間をわたり

いまは靑ぐろいふちのやうなとこへ

すましてこしかけてゐるひとなのだ

そしてずんずん遠くなる

はたけの馬は二ひき

ひとはふたりで赤い

雲に濾(こ)された日光のために

いよいよあかく灼(や)けてゐる

冬にきたときとはまるでべつだ

みんなすつかり變つてゐる

變つたとはいへそれは雪が往き

雲が展(ひら)けてつちが呼吸し

幹や芽のなかに燐光や樹液(じゆえき)がながれ

あをじろい春になつただけだ

それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね

すみやかなすみやかな萬法流轉(ばんぽうるてん)のなかに

小岩井のきれいな野はらや牧塲の標本が

いかにも確かに繼起(けいき)するといふことが

どんなに新鮮な奇蹟だらう

ほんたうにこのみちをこの前行くときは

空氣がひどく𥺝密で

つめたくそしてあかる過ぎた

今日は七つ森はいちめんの枯草(かれくさ)

松木がおかしな綠褐に

丘のうしろとふもとに生えて

大へん陰欝にふるびて見える

 

[やぶちゃん注:・「ひとあしでるとき……わたくしもでる」底本は八点リーダであるが、字が有意に下がってしまうので、六点で表記した(以下も同じ個所は同じであるから、特にこの注記はしない)

・「これはあるひは客馬車だ」底本では半角下がって組まれているが、これは組版の誤りと断じ、前後からもそうする意味はなく、現存の底本原稿もそのようになっていない。迂闊に読めば見落とすレベルであるから、ここは特異的に詰めた。

・「わたくしを欵待するだらう」「欵待」は原稿では「歡待」であるが、これでも意味は同じいので問題はない。底本校訂本文も「欵待」を採用している。

・「新聞地風の飮食店(いんしよくてん)」「新聞地風」はママ。原稿は「新開地風」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」は修正している。

・「わらじ」「草鞋」であろうが、であれば「わらぢ」が正しいが、原稿も「わらじ」。全集校訂本文もママである。

・「犁(プラウ)をひいて住つたりきたりする」「住つたり」はママ。原稿は「往つたり」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」は本行の書き換えをしながら、「住」を修正していない。気づかなかったようである。

・「馬車はずんすん遠くなる」「ずんすん」はママ。原稿は「ずんずん」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」も修正なし。気づかなかったようである。

・「すみやかなすみやかな萬法流轉(ばんぽうるてん)のなかに」のルビ「ばんぽうるてん」の「ぽ」はママ。原稿は正しく「ばんぱうるてん」であるから、誤植。「正誤表」にはない。しかし「手入れ本」には修正がない。但し、古典作品でも「法」を「ぽう」とするケースは頗る多く、気にはならない。

・「空氣がひどく𥺝密で」𥺝密」は原稿もママ。「稠密」(「ちうみつ(ちゅうみつ)」と読み、「一つ所に多く集まっていること・混み合っていること」の意)の完全な誤字であるが(「𥺝」は「康熙字典」に「𥹜𥺝」で「米粉餠」とある)、「手入れ本」にも修正したものはない。筑摩版全集校訂本文は、流石に完全な誤字として特異的に「稠密」としている。

 

「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」これは六行後で「さつき盛岡のていしやばでも」とあることから、盛岡駅でないことが判る。これは大正一〇(一九二一)年六月二十五日の盛岡・雫石間の橋場線開通とともに開業した「小岩井駅」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「化學の並川さん」宮沢家「手入れ本」では「化学の古川さん」に訂されてあるが、Michia氏のブログ「宮澤賢治、風の世界」の「宮沢賢治の直喩Ⅰ 『春と修羅』、「小岩井農場」を中心に―人間への思い―」によれば、『〈古川さん〉は盛岡高等農林学校教授古川仲右衛門』(明治一一(一八七八)年~昭和三六(一九六一)年)『と推定される。出版時には、現存人物の名前を避けていた結果と思われる』とする。原稿でも「並川」であるから、この推察は正しいかも知れない。同ブログでは続けて、『古川は』大正三(一九一四)年から大正一〇(一九二一)年まで『在職し、担当科目は、土壌、肥料、化学、分析化学、同実験、食品化学、農学大意だった』。大正四年から同七年に『在校した賢治は、指導を受け、得業論文の終りに古川の名前をあげて』『〈終リニ臨ミテ本論ヲ草スルニ際シ、終始指導ノ労ヲ執ラレタル古川教授、並ビニ多クノ注意ヲ賜ハリタル関教授ニ深謝ス。〉』と謝辞を表しており、『この詩のほかに、歌稿A546に〈ゆがみたる青ぞらの辺に仕事着の古川さんはたばこふかせり〉(歌稿B〈ゆがみたる蒸溜瓶の青ぞらに黒田博士はたばこふかせり〉)がある』とされ、『古川は』大正十年に『同校を退職して大垣に帰り、サツマイモからのアルコールの抽出などの実験、トマトの栽培の普及、電線の敷設や、医師の招聘、土壌調査、天然ガスの採掘など、農村振興に寄与した』。『在任中からの姿勢も同様であれば、賢治のその後の農業への姿勢は、古川の教育の影響とも言える』と記しておられるから、賢治にとって忘れ難い恩師であったことが窺える。なお、この「化學の並川さんによく肖(に)た」「オリーブのせびろ」を着こなした、「そつくりをとなしい農學士」の男というのは、どうにも私にはルネ・マグリットの絵の登場人物のような感じがしてならない。そこから既に私は賢治の超現実的マジックにかけられてしまっているの知れない。

「砂糖水のなかの」/「つめたくあかるい待合室」コロイド粒子の「ゾル」の空気感の表現である。

「ハツクニー」ハクニー種(Hackney)。イギリスのノーフォーク県を中心とする地方原産の馬。速歩をよくする。ノーフォークトロッター(Norfolk Trotter)にサラブレッドをかけ合せた、本来は乗用馬として改良されたものであったが、後、軽輓馬(けいばんば:軽い車や橇などをひかせる馬)として速歩能力のある馬となったもので、特に前後肢の関節を深く折り曲げ、前膝を伸展させながら歩く高揚歩様を行うことで知られる。性質は温順で、毛色は栗毛が多く、軽四輪馬車の輓馬やショー・ホースなどとして使用されるところから全部、断尾されていることが多い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「わづかの光の交錯(かうさく)だ」映画の監督或いは撮影者の意図的にハレーションを「これから五里もあるくのだし」「五里」は二十キロメートル弱。現在の小岩井駅から現在の小岩井農場の現在の管理センターまでを実測してみても、六キロメートル弱であるが、小岩井農場自体が広汎であり、次に見る通り、彼はここまでの倍以上は有にある鞍掛山山麓まで足を延ばす予定であるのだから、おかしくない。

「くらかけ山」既出既注であるが、再掲する。岩手県滝沢市にある鞍掛山。標高八百九十七メートル。岩手山の南東の裾野の低いピークで、小岩井農場の北方(直線)八キロ弱に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「おきなぐさ」既出既注

「黑ぶだう酒(しゆ)」赤ワインのこと。現在でも、赤ワインに使用されるブドウ品種は「黒ブドウ」と総称する。黒味がかった紫の果皮を持つ。なお、宮澤家「手入れ本」では、この「野はらは黑ぶだう酒(しゆ)のコツプもならべて」/「わたくしを欵待するだらう」の二行に「☓」印を附して削除している。

「本部」当時の小岩井農場内の本部と呼ばれた地区。小岩井農場本部事務所があった。suzukikeimori氏のブログ「宮澤賢治の里より」の「155 小岩井農場(その1)」で、まさにこの詩篇の通りに、小岩井駅から農場本部までの道を辿った記録が写真とともに読め、陸地測量部大正元年測図の地図も添えられている(なお、この地図から実測すると、当時の小岩井駅からこの本部まではせいぜいニキロメートル強であり、この距離の短さが、ここでの「本部まででも乘つた方がいい」という言い回しのニュアンスを腑に落ちさせる。なお、地図見ると、南東方向から北西に向けてのルートに「馬車鉄道」とあるが、賢治のそれは鉄道」ではないから、これとは関係がないものと判断する)。必見!

「あいまいな思惟の螢光(けいくわう)」/「きつといつでもかうなのだ)」馬車に乗って行きたい気が詩人の中で強く蠢いている。その紳士や御者が同乗を誘ってくれないかなどとも心内では密かに思ってもいる。しかし、賢治の持つ、ある種の、他者との接触や関係性を持つに際しての強く躊躇する感覚、不快な対人関係性を強く忌避する感覚が、同時に同じレベルで起こってきているようである。それが「もう馬車がうごいてゐる」という事実を前に、逆に「どうしやうか考へてゐるひまに」/「それが過ぎて」しまって、それまでの自分のこんがらかった意識が無化されてしまい、結局、「滅(な)くなるといふこと」を「これがじつにいゝことだ」とフィード・バックするのである。これは、この私(藪野)にはすこぶる腑に落ちることである。私も賢治と同じ感じを、日々、あらゆる場面で感ずる神経を持ってしまった人種だからである。なお、宮澤家「手入れ本」では、この二行を削除し、代りに丸括弧なしの「ところがどうだ」にしてあり、「(これがじつにいゝことだ」/「どうしやうか考へてゐるひまに」/「それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)」も一緒に「☓」印で削除している。こうした自身のアンビバレントな捩じれた感覚を賢治は最終的に抑制すべきと判断したようである。それは次の異様な削除と無縁ではあるまい。

「うしろからはもうたれも來ないのか」宮澤家「手入れ本」はこの行を縦線で削除し、そればかりか、次行の「つつましく肩をすぼめた停車塲(ば)と」から九行目の「西にまがつて見えなくなつた」までの全十行に「☓」印を附し、上部の余白に『一行空け』と指示している。強い異様な賢治の内的検閲が感じられる。

「つつましく肩をすぼめた停車塲(ば)」小岩井駅のこと。「フォト蔵」の「あそびんにん」さんの撮られた現在の小岩井駅の写真をリンクさせておく。

sun-maid のから凾」「Sun-Maid」は現在も続く、一九一二年創業のアメリカ合衆国のドライ・フルーツ会社。公式サイト(日本語)の沿革をリンクさせておく。特に主力商品であるカリフォルニア・レーズンの乾葡萄で世界的に知られ、ここもそのトレード・マークの赤い帽子を被った摘んだ葡萄を入れた籠を抱えた少女を描いた罐(空「凾」(かん))であろう(前の「ガラス障子」に繋がるなら店の飾り窓に置かれたものか、しかし敢えて「空の罐」と言っているところや草鞋と併置されていて詩人はずんずん歩いているのであれば、誰かが食べ終えて打ち捨て、汚れて錆びたもののように私は見る)。グーグル画像検索「Sun-Maidでその意匠が見られる。

「丘かげの茶褐部落」「繋(つなぎ)」「宮澤賢治の詩の世界」の『「小岩井農場」詩碑』に、『「丘かげの茶褐部落」というのは、これだけではどこのことかわかりません。しかし「盛岡手づくり村・四季だより」というページの記載によれば、これは現在は御所ダムの造成によって御所湖の湖底に沈んでしまった』、二十『数戸の「尾入野部落」あたりを指すのだそうです。昔そのあたりには、長くて高い「茶褐色」の岩肌が露出した崖があったことと関係しているようです』。『 駅から出てきた人々の行き先としてもう一つ挙げられている「繋」の部落ともども、どちらも小岩井の駅からは線路をはさんで反対側の、南の方角にあたります』とある。

「步測のときのやう」遺跡や地質調査の際の歩測による距離実測をするかのように、謂いであろう。

「犁(プラウ)」plow。英語。耕作用の犁(すき)。『しばしば農業の象徴とされる』と英和辞典にある。

「ひわいろ」「鶸色」。鶸(スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する種群の総称であるが、「ヒワ」という種は存在しない)の羽の色に因んだ、黄味の強い明るい萌黄色。これ(サイト「伝統色のいろは」の鶸色のページ)。

「嫩葉(わかば)」「若葉」に同じい。

「鶯もごろごろ啼いてゐる」これはウグイスの囀りのオノマトペイアではあるまい。あちこちの茂みの中に「ごろごろ」いて、盛んに囀ているのであろう。

「(ほんたうの鶯の方はドイツ讀本の」/「ハンスがうぐひすでないよと云つた)」「ドイツ讀本」はドイツ語学習の初級読本のことであろう。幾つかの解釈があるようだが、私は「ハンス」をデンマークの詩人で童話作家のハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年)とし(そのドイツ語訳が先の本に載っていてなんら不思議でない)、彼の、中国を舞台に小夜啼鳥(さよなきどり:スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos:「西洋の鶯(うぐいす)」とも称せられるほど鳴き声が美しいとされ、「ナイチンゲール」の名でも知られる。別名を「ヨナキウグイス」(夜鳴鶯)或いは「墓場鳥」とも)の鳴き声を巡る童話「小夜啼鳥」(デンマーク語:Nattergalen/英語:Nightingale)のこととするのが、取り敢えずは腑に落ちるウィキの「小夜啼鳥童話によれば、同作は『「みにくいアヒルの子」などとともにアンデルセンの童話の中で最も有名なもののひとつで』、「ナイチンゲール」「夜鳴きうぐいす」の『題名でも知られる』。「あらすじ」は、『中国の皇帝の住む御殿と御苑は』、『とてもきらびやかでぜいたくなものであった。世界中の国から旅行者が中国の都にやってきて、だれもが』、『その御殿や御苑に感心したが、その中でも御苑の林に住む』、『さよなきどりの声が』、『いちばん素晴らしい』、『と皆が賞賛し、その声は』、『書物を通じて』、『皇帝の耳に入るようになった。しかし』、『皇帝自身は』、『さよなきどりを知らず、家来に』、『さよなきどりを探させる』。『家来の求めに応じて宮中に赴いたさよなきどりは』、『その美しい鳴き声で皇帝を感動させ』、『宮中にとどまるが、ある日、日本の皇帝から』、『細工物のさよなきどりが贈られる。宝石で飾られた美しい細工物のさよなきどりは』、『疲れることを知らず』、『同じ節で美しい鳴き声を奏で、いつしか』、『本物のさよなきどりはいなくなってしまう。しかし、皆は』、『常に同じ節で鳴く細工物のさよなきどりで満足し』、『誰もが』、『その節を覚えてしまう』。『それから五年がたち、皇帝は重い病にかかる。皇帝はすでに死神に魅入られており、皇帝は細工物のさよなきどりの声を求めるが』、『ねじを巻くものは誰もいなかった。そこに本物のさよなきどりがやってきて』、『鳴き声を聞かせる。死神はさよなきどりの美しい声を聞くと消えてしまい、皇帝は死の淵から復活する』というものである。この寓話は、世間の人々が「ほんたうの鶯」(≒サヨナキドリ=夜啼鶯)「の方」を愛さず、「〈機械仕掛けの偽物の鴬(≒サヨナキドリ=夜啼鶯)〉を賞翫した救い難い愚かさを中心に据えているわけだが、私は、それを賢治は、「ほんたうの鶯の方」を「ドイツ讀本の」「ハンス」・アンデルセンの「ナイチンゲール」の童話では(それは「ほんたうの鶯」(「うぐひす」)「でない」「サヨナキドリ」の物語であるけれども)「ほんたうの鶯」(≒サヨナキドリ=夜啼鶯)「の方」を愚かな人々は「うぐひすでないよと云つた」哀れに悲しい話を書いていたのを思い出した、と言いたいのではなかろうか? と読むのである。即ち、ここには実は、賢治が他者に対して内心強く持っていた「君たちの認識や感覚はどこか違う! そこには致命的な誤認があるのではないか?」という他者との乖離感情に裏打ちされたものがあると読み、しかも同時にまた、それを抑圧せねばならないという意識も働いたために、この部分には表現上の舌足らずな、一見、難解に見える捩じれ(フロイト風に言えば「言い間違い」)が生じたのではないか? というのが私の分析である。

「このひとはもうよほど世間をわたり」/「いまは靑ぐろいふちのやうなとこへ」/「すましてこしかけてゐるひとなのだ」私が前の注の末尾に示した賢治の世間(外界の一部である人間社会)に対する強い乖離感覚による、批判的言辞として私にはすこぶる腑に落ちる。

「冬にきたときとはまるでべつだ」宮澤家「手入れ本」では、この行を縦線で抹消し、次行「みんなすつかり變つてゐる」以下、最後まで総てに「☓」印を附している。則ち、前の「すましてこしかけてゐるひとなのだ」という物言いを以って断ち截られてしまっているのである。これは尋常なこととは思われない。だからこそ、私は前に述べた乖離が、この「手入れ」をしている最中、ある種、病的なまでに賢治の中で昂まっていたようにさえ感ずるのである。しかし、本詩篇パートがかくされて公刊されていたら、私はこの「小岩井農場」のイメージは激しく厭な感じに変性していたと思う。

「萬法流轉(ばんぽうるてん)」日蓮宗の信者の彼らしい言い方である。万「物」流転ではないのである、「物」は単なる仮の姿の変性したものに過ぎない(私に言わせれば、「荘子」の言う「物化」そのものである)、大切な真の実在は仏教にあっては「法」(カルマ)のみである。因みに日蓮宗の「南無妙法蓮華經」の定番の筆書きは鬚文字と呼ばれ、つんつんと棘のように飛び出ているのは御存じだろう。但し、「法」にのみそれはない。カルマに棘があってはいけないのである。

「標本」これは科学的な冷たい実体標本の意味ではなく、「標本」本来の持つ意味、則ち、動物・植物・鉱物などの自然界の対象物の全種・全種類の、その自然のままの基本的属性・あるがままの正しき様態を示すために存在し、「繼起(けいき)」(着実にその核心を継ぎ、また新たに生起する)ものの総ての象徴の謂いである。それはまさに「新鮮な奇蹟」以外の何ものでもない。

「七つ森」既出既注であるが、再掲しておく。岩手県岩手郡雫石町の岩手山南麓に広がる里山の森。賢治の幻想の「イーハトーブ」世界の一部に比定されている(現在、国名勝指定)。「生森(おおもり)」・「石倉森」・「鉢森」・「三角(みかど)森」・「見立森(みてのもり)」・「勘十郎森」・「稗糠(ひえぬか)森」の七つの独立した丘陵を名数として数える。ここ(グーグル・マップ・データ)。

2018/11/12

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)

 

Annerida1

Annerida2

Annerida3

 

     蠕 蟲(アン ネリダ) 舞 手(タン  エーリン)

 

 (えゝ、水ゾルですよ

  おぼろな寒天(アガア)の液ですよ)

日は黃金(きん)の薔薇

赤いちいさな蠕蟲(ぜんちゆう)が

水とひかりをからだにまとひ

ひとりでをどりをやつてゐる

 (えゝ、8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

羽むしの死骸

いちゐのかれ葉

眞珠の泡に

ちぎれたこけの花軸など

 (ナチラナトラのひいさまは

  いまみづ底のみかげのうへに

  黃いろなかげとおふたりで

  せつかくおどつてゐられます

  いゝえ、けれども、すぐでせう

  まもなく浮いておいででせう)

赤い蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は

とがつた二つの耳をもち

燐光珊瑚の環節に

正しく飾る眞珠のぼたん

くるりくるりと廻つてゐます

 (えゝ8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

   ことにもアラベスクの飾り文字)

脊中きらきら燦(かがや)いて

ちからいつぱいまはりはするが

眞珠もじつはまがひもの

ガラスどころか空氣だま

 (いゝえ、それでも

  エイト ガムマア イー スイツクス アルフア

  ことにもアラベスクの飾り文字)

水晶体や鞏膜(きやうまく)の

オペラグラスにのぞかれて

おどつてゐるといはれても

眞珠の泡を苦にするのなら

おまへもさつぱりらくぢやない

   それに日が雲に入つたし

   わたしは石に座つてしびれが切れたし

   水底の黑い木片は毛蟲か海鼠(なまこ)のやうだしさ

   それに第一おまへのかたちは見えないし

   ほんとに溶けてしまつたのやら

それともみんなはじめから

おぼろに靑い夢だやら

 (いゝえ、あすこにおいでです おいでです

  ひいさま いらつしやます

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

ふん、水はおぼろで

ひかりは惑ひ

蟲は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア

   ことにもアラベスクの飾り文字かい

   ハツハツハ

 (はい またくそれにちがひません

   エイト ガムマア イー スイツクス アルフア

   ことにもアラベスクの飾り文字)

 

[やぶちゃん注:私が仮に使用した「8」・「γ」・「e」・「6」・「α」に相当する文字は非常に特殊なもので、現行の如何なるフォントとも異なるため、冒頭に底本の全詩篇を画像で示しておいたネット上では、信頼のおける優れた宮澤賢治サイトでも、どこも異様にでっぷりした「8」「6」の数字が無惨にも使用されてあり、これは見ただけで気分が悪くなって食指が動かなくなる)。本文では比較的近いかとも思われるフォント「Monotype Corsiva」(モノタイプ・コルシバ)を「γ」(これはTimes New Roman)使用し、それらをまた、斜体にしたり、太字にしたりして使用して底本のそれに近づけてはみた。ブラウザの不具合を考えて標題のルビを小さくした。なお、本文中の「体」はママである。

・最終行から十行前の「ひいさま いらつしやます」はママ。原稿は「いらつしやいます」となっているので誤植であるが、「手入れ本」にもない。全集校訂本文は特異的に原稿に従って補正している。

・最終行から七行前の「ふん、水はおぼろで」の「おぼろ」は底本では「おぼろ」であるが、「正誤表」に載るので訂した。

・最終行から二行目の「(はい またくそれにちがひません」の「またく」は原稿では「まつたく」で誤植

 大正一一(一九二二)年五月二十日の作。現存稿は底本原稿のみで、これ以前の発表誌等も存在しない。

 読んでいて違和感を感じた方も多いと思うが、一部の字下げに致命的な植字ミスがあり、「手入れ本」」でも修正されてあるので、以下に原稿を示す。推敲過程も示した。「■」は全集編者の判読不能字。

   *

 

     蠕蟲(アン →ネ〕リダ)舞手(タン  エーリン)

 

 (えゝ、水ゾルですよ

  おぼろな寒天(アガー)の液ですよ)[やぶちゃん注:「アガー」はママ。]

日は黃金(きん)の薔薇

赤いちいさな〔→ぜ〔→ん〕〕蟲(ちゆう)が[やぶちゃん注:これだと、本文は「ぜん蟲(ちゆう)」となるはずが、実際には「蠕蟲(ちゆう)」である。]

水とひかりをからだにまとひ

ひとりでをどりをやつてゐる

 (えゝ、8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

羽むしの死骸

いちゐのかれ葉

眞珠の泡に

ちぎれた苔の花軸など[やぶちゃん注:「苔」は底本では「こけ」。]

 (ナ〔ティテゥ→チュ〕ラナトラのひいさまは[やぶちゃん注:これだと「ナチユラトラ」(全集は促音表記を実施)となるはずだが、実際は「ナチラナトラ」である。「手入れ本」修正もない。]

  いまみづ底のみかげのうへに

  黃いろなかげとおふたりで

  せつかくおどつてゐられます

  いゝえ、けれども、すぐでせう

  まもなく浮いておいででせう)

赤い蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は

とがつた二つの耳をもち

燐光珊瑚の環節に

正しく飾る眞珠のぼたん

くるりくるりと廻つてゐます

 (えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)[やぶちゃん注:底本では、「えゝ」の後の一字空けはない。]

  ことにもアラベスクの飾り文字)

脊中きらきら燦(かがや)いて

ちからいつぱいまはりはするが

眞珠もじつはまがひもの

ガラスどころか空氣だま

 (いゝえ、それでも

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)[やぶちゃん注:底本はカタカナの読みを本文として並べるだけで、文字はない。しかし、「手入れ本」に修正はない。]

  〔→こ〕とにもアラベスクの飾り文字)

水晶体や鞏膜(きやうまく)の

オペラグラスにのぞかれて

おどつてゐるといはれても

眞珠の泡を苦にするのなら

おまへもさつぱりらくぢやない

   それに日が雲に入つたし

   〔→わたし〕は石に座つてしびれが切れたし

   水底の黑い木片は毛蟲か海鼠(なまこ)のやうだしさ

   それに第一おまへのかたちは見えないし

   ほんとに溶けてしまつたのやら

   それともみんなはじめから[やぶちゃん注:底本の致命的誤植(字下げなし)。]

   おぼろに靑い夢だやら[やぶちゃん注:底本の致命的誤植(字下げなし)。]

 (いゝえ、あすこにおいでです おいでです

  ひいさま いらつしやいます

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

ふん、水はおぼろで

ひかりは惑ひ

蟲は 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) γα〕(アルフア)[やぶちゃん注:底本はカタカナの読みを本文同ポイントとして並べるだけで、文字はない。しかし、「手入れ本」に修正はない。]

   ことにもアラベスクの飾り文字かい

   ハツハツハ

 (はい まつたくそれにちがひません

  〔88〕(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 66(スイツクス) α(アルフア)[やぶちゃん注:行を二字下げから三字下げに変更指示。底本はカタカナの読みを本文同ポイントとして並べるだけで、文字はない。しかし、「手入れ本」に修正はない。]

  ことにもアラベスクの飾り文字)[やぶちゃん注:行を二字下げを三字下げに変更指示。]

 

   *

ごちゃついたので、原稿通りに行った場合を、以下に再現してみる。

   *

 

   *

 

     蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)

 

 (えゝ、水ゾルですよ

  おぼろな寒天(アガー)の液ですよ)

日は黃金(きん)の薔薇

赤いちいさなぜん蟲(ちゆう)が水とひかりをからだにまとひ

ひとりでをどりをやつてゐる

 (えゝ、8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

羽むしの死骸

いちゐのかれ葉

眞珠の泡に

ちぎれた苔の花軸など

 (ナチユラナトラのひいさまは

  いまみづ底のみかげのうへに

  黃いろなかげとおふたりで

  せつかくおどつてゐられます

  いゝえ、けれども、すぐでせう

  まもなく浮いておいででせう)

赤い蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は

とがつた二つの耳をもち

燐光珊瑚の環節に

正しく飾る眞珠のぼたん

くるりくるりと廻つてゐます

 (えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

脊中きらきら燦(かがや)いて

ちからいつぱいまはりはするが

眞珠もじつはまがひもの

ガラスどころか空氣だま

 (いゝえ、それでも

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

水晶体や鞏膜(きやうまく)の

オペラグラスにのぞかれて

おどつてゐるといはれても

眞珠の泡を苦にするのなら

おまへもさつぱりらくぢやない

   それに日が雲に入つたし

   わたしは石に座つてしびれが切れたし

   水底の黑い木片は毛蟲か海鼠(なまこ)のやうだしさ

   それに第一おまへのかたちは見えないし

   ほんとに溶けてしまつたのやら

   それともみんなはじめから

   おぼろに靑い夢だやら

 (いゝえ、あすこにおいでです おいでです

  ひいさま いらつしやいます

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

ふん、水はおぼろで

ひかりは惑ひ

蟲は 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

   ことにもアラベスクの飾り文字かい

   ハツハツハ

 (はい まつたくそれにちがひません

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

   ことにもアラベスクの飾り文字)

 

   *

最後に宮澤家「手入れ本」の最終形を再現しておく。「《い》」は私の推定挿入補正字。

   *

 

     蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)

 

 (えゝ、水ゾルですよ

  おぼろな寒天(アガー)の液ですよ)

日は黃金(きん)の薔薇

赤いちいさなぜん蟲(ちゆう)が水とひかりをからだにまとひ

ひとりでをどりをやつてゐる

 (えゝ、8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

羽むしの死骸

いちゐのかれ葉

眞珠の泡に

ちぎれた苔の花軸など

 (赤いちいさなひいさまは

  いまみづ底のみかげのうへに

  黃いろなかげとおふたりで

  せつかくおどつてゐられます

  いゝえ、けれども、すぐでせう

  まもなく浮いておいででせう)

赤い蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は

とがつた二つの耳をもち

燐光珊瑚の環節に

正しく飾る眞珠のぼたん

くるりくるりと廻つてゐます

 (えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

脊中きらきら燦(かがや)いて

ちからいつぱいまはりはするが

眞珠もじつはまがひもの

ガラスどころか空氣だま

 (いゝえ、それでも

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

せなかきらきらかゞやいて

ちから《い》つぱいおどつてゐるといはれても

じつはからだの泡を苦にしてはねまはるなら

おまへもさつぱりらくぢやない

   それに日が雲に入つたし

   わたしは石に座つてしびれが切れたし

   水底の黑い木片は毛蟲か海鼠(なまこ)のやうだしさ

   それに第一おまへのかたちは見えないし

   ほんとに溶けてしまつたのやら

   それともみんなはじめから

   おぼろに靑い夢だやら

 (いゝえ、あすこにおいでです おいでです

  ひいさま いらつしやいます

 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

ふん、水はおぼろで

ひかりは惑ひ

蟲は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア

   ことにもアラベスクの飾り文字かい

   あゝくすぐつたい

 (はい まつたくそれにちがひません

 エイト ガムマア イー スイツクス アルフア

   ことにもアラベスクの飾り文字)

 

   *

 私は、総ての行のそれを「8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア)」で表記すべきであったと個人的には思う。

 なお、筑摩旧校本全集版ここに限らず、底本にも原稿にもある読点を、校訂本文では総て除去していることに気づいた。これはひどい仕儀で暴挙に等しく、激しく失望した。

「蠕蟲(アン ネリダ)舞手(タン  エーリン)」ルビの字空けは底本を再現しただけ。実際には「アンネリダ・タンツエーリン」でよく、「Annelida Tänzerin」。「Annelida」は動物界環形動物門 Annelida のこと。ヒル・ミミズ・ゴカイ類(多毛類)の仲間。但し、ここに出る対象生物は環形動物ではない。後注する。一方、Tänzerin」の方はドイツ語で、「踊る女・女流武道家・女性ダンサー・バレリーナ・舞姫」の意である。カタカナ音写は「テンツェリン」が近い。

「水ゾル」「ゾル」はドイツ語「Sol」で、コロイド粒子(colloid:物質が〇・一~〇・〇〇一マイクロメートル程度の微粒子となって液体・固体・気体の中に分散している状態)が液体中に分散していて且つ流動性を呈しているもの。ここはそうした水溶液を指す。

「寒天(アガア)の液」「アガア」は「agar」でテングサなどの紅藻類から粘液質を煮出して凍結・乾燥した寒天。食材の他、微生物培養の培地などに用いる。ここは恐らく、ちょっした、相応に時間が経過して、菌類・藻類・小動物等が、ある程度まで繁殖し、粘性が高まった、水溜り(後で「みづ底のみかげ」(御影石。神戸の御影地方が産地として有名だったことから、花崗岩質岩石の石材名)と出るので、池ではあっても、人造の樽とか鉢のような容器ではない)のそれを指している。

「日は黃金(きん)の薔薇」前記の水溜りの太陽光が差し、液体中の微粒子の密度が高くなっているために、複雑な乱反射を起しているのを形容していよう。

「赤いちいさな蠕蟲(ぜんちゆう)諸家の多くが、ただボウフラ(蚊(節足動物門昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角・カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidaeの幼虫)とするが、いただけない。これは「赤い」とあるのだから、明らかに通常のカの幼虫ではなく、カ下目 Culicomorpha のユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae のユスリカ(揺蚊)類の幼虫であるアカムシ(アカボウフラ)である。本邦の釣りや金魚の生餌に販売されている国産種(実際には海外からの低価格なものが多い)のそれは、ユスリカ属オオユスリカ Chironomus plumosus・アカムシユスリカ Tokunagayusurika akamusi などであるが、ウィキの「ユスリカ」によれば(下線太字やぶちゃん)、『非常に種類が多く、世界から約』一万五千『種、日本からは約』二千『種ほどが記載されて』おり、『水生昆虫の中では』一『科で擁する種数が最も多いものの一つである』とある。『成虫は』蚊『によく似た大きさや姿をしているが、刺すことはない。また』、『カのような鱗粉も持たないため、カと見誤って叩いても、黒っぽい粉のようなものが肌に付くことはない』(但し、成虫群体の死骸が喘息を引き起こすアレルゲンにはなる。しかしそれは彼らに限ったことではない)。『しばしば』、『川や池の近くで蚊柱をつくる』。蚊に『よく似ており、電灯の灯などにもよく集まるが、カとは科が異なる昆虫で、カのように動物や人を刺したり、その血液を吸うことはない。他の双翅目の昆虫同様、翅は』二『枚のみで、後翅は平均棍という微小な器官に変化している。成虫は微小』か『小型で、体長は』〇・五~一センチメートル『程度。メスの触角は普通だが、オスのそれは全方位に生えた多数の横枝』を有して『ブラシ状を呈し、カのそれよりも短めでふさふさに見える』。『幼虫はその体色からアカムシまたはアカボウフラと呼ばれるが、カの幼虫である本来のボウフラとは形状が大幅に異なる。通常』、『細長い円筒形で、本来の付属肢はない。頭は楕円形で、眼、触角、左右に開く大腮や、そのほか多くの付属器官があ』る(『これらの微細な形態』は『幼虫の分類に使われる』)。『口のすぐ後ろには前擬脚と呼ぶ』一『つの突起があり、その先端には多くの細かい爪があって付属肢の様に利用する。腹部末端にも』一『対の脚があり、やはり』、『先端に爪があり』、『体を固定したりするのに役に立っている。また通常、体の後端には数対の肛門鰓をもっており、ユスリカChironomus など一部のグループには腹部にも血鰓(けっさい:血管鰓とも言う)を有するものもある』。『川や用水路などで発生するが、特に生活排水などで汚れた「どぶ川」では大量発生することがある。ドブの泥を集めて棲管を作り、そこから上半身をのりだしてゆらゆらするのがよく見られる。ただし、種数からすれば』、『ドブにすむものはごく一部で、富栄養化の進んでいない普通の川や池沼、あるいは清流にすむものも多い。ウミユスリカ類』(ユスリカ科エリユスリカ亜科 Orthocladiinae ウミユスリカ属 Clunio・モバユスリカ属 Thalassosmittia 等)『の幼虫は潮間帯やサンゴ礁に棲む。また渓流の落ち葉に潜り込むもの、岩の上に棲管を張り付かせるもの、わずかに水が流れる岩の上に棲むもの、土壌中に棲むもの、その他、特殊な生息場をもつものも知られている。周囲の泥や砂をつづって巣を作るものもあり、ナガレユスリカ属』(ユスリカ科ナガレユスリカ属 Rheotanytarsus)『のように巣の入り口に特殊な縁飾りを作るものや、トビケラ目』(昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera)『に似た可携巣』(かけいそう:個体自体が持ち運び可能な巣。昆虫一般には蓑虫状・小型ドーム状等を呈することが多い)『を作るものなどがある。食生はデトリタスを食べるものが多いと考えられるが、モンユスリカ亜科』(Tanypodinae:五十属以上)『のように肉食のものや、他の水生昆虫に寄生するものなどもある。蛹はカのそれであるオニボウフラを細長くしたような姿で、水面に泳ぎ上がって、水面で羽化が行なわれる』。『羽化した成虫は川の近くで、たくさん柱状に集まって飛んでいることがよくある。いわゆる「蚊柱」をつくっている昆虫である。蚊柱は』、一『匹の雌と多数の雄で構成されている。これは群飛(swarming)と呼ばれる』。『蚊柱が形成される理由は交尾のためで、成虫は交尾を済ませ産卵を終えるとすぐに死ぬ。成虫の寿命は長くても』、一~『数日ぐらいである』。『また、成虫は口器が無く』、『消化器も退化して痕跡化しているので、一切餌を摂る事ができない』。ああ、蜉蝣(かげろう)たちと同じだ……吉野弘の「I was bornを思い出す(リンク先は私のものではない)……

「えゝ」後の、「いゝえ」との軽い呼応を考えれば、ここは軽い応答の添え辞である「はい」の意であろう。

「ことにも」「殊にも」。

「アラベスクの飾り文字」アラベスク(arabesqu:アラビア風)はモスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式。幾何学的文様(しばしば植物の唐草模様や動物をごくフォルム化した形を基とする)の反復形をとる。ここは言わずもがな、「8(エイト)」・「 γ(ガムマア)」・「e(イー)」・「 6(スイツクス)」・「α(アルフア)」のそれぞれの文字のような軌跡をアカムシたちが水中でダンスすることの、別比喩である。

「羽むし」「羽蟲」。狭義にはアリ・シロアリ類で、初夏から盛夏にかけての交尾期に、羽化して巣から飛び立った女王アリと雄アリを指す。所謂、「はねあり」であるが、ここは小型の薄い翅を持つ類を広く指していよう。

「いちゐ」種としては被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属イチイガシ Quercus gilva を指すが、岩手県には植生しないから(関東以西)、これは同じコナラ属 Quercus の「小楢(コナラ)」(Quercus serrata)・「水楢(ミズナラ)」(Quercus crispula)・「柏・槲(カシワ)」(コナラ亜属 Quercus Mesobalanus節カシワ Quercus dentata)・「楢柏(ナラガシワ)」(Quercus aliena)・「櫟(クヌギ)」(Quercus acutissima)の孰れかの賢治の誤認(誤呼称・当地での慣用呼称)と思われる。なお、裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidate は全く違う種なので注意。

「眞珠の泡」粘性が高まっているから、この形容は腑に落ちる。

「ナチラナトラ」私は漠然と「ナチューラ・ナトゥーラ」でラテン語に同じ意味のフランス語かイタリア語辺りの「自然」の語を組み合わせた、「本源的な自然」の意味で読んでいたが、考えてみれば、この重語には何か意味がありそうで、調べてみると、玉井晶章氏の論文『宮澤賢治「蠕虫舞手アンネリダタンツェーリン)」ナチラナトラの意味京都語文二〇一六十一月・佛教大学国語国文学会刊)PDFで、これについて、

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号と引用の字下げを除去させて貰った。]

 この単語について『定本宮澤賢治語彙辞典』を確認すると「意味不明の語だが、おそらく賢治は日本語で「天然自然」と重ねるように、ラテン語の natura (ナートゥーラ、本性、自然、ドイツ語ではナトゥールNatur)の音を借りてエキゾチックに、「本性、自然のおひめさま」の意味で使った」と説明されているが、やはりよく分からない。ただ、少なくとも賢治の造語でないことは確かなようだ。

 この「ナチラナトラ」の意味だが、大正一三年九月発行の雑誌『改造』に発表された辻[やぶちゃん注:辻潤。]の「錯覚したダダ」に、それを読み解くヒントがある

 

 しかし、中には平野青夜の如き男爵にしてエスペランチストであるダダでもあり、隠れた素晴らしい形而上学者もいるのである。ダダを単一狭隘な範疇に押し込めようとするのがそもそもの誤訳であって、一切のナチュラナトゥランスはダダなのだから、宮澤賢治君が『春と修羅』にそれを唱うことは毫も不思議とするに足りないのである。

 

 辻は平野青夜がダダ詩人でありながら、優れた形而上学者でもある視点を、賢治にも取り入れている。そして賢治がダダ詩人でありながら、詩で「ナチュラナトゥランス」を表現していると批評した。ここにある「ナチュラナトゥランス」とは一体どういう意味なのだろうか。この単語だが、恐らくはスピノザやブルーノといった西洋の近世哲学者が用いた「natura naturans」を指しているものと思われる。一般的にはスピノザが『エチカ』(一六七七年)において解説した、一切の存在を産み出す、万物の内在的原因である唯一の実体としての神の意味が知られており、「ナチュラナトゥランス」もその発音読みであると見て間違いない。

   《引用終了》

とある。森本誠一サイトに、『能産的自然(natura naturans)』として、『創造主としての神を意味し、自然はこの唯一絶対的な実体である神が生ぜしめているものとされる。スピノザの標語』とあった。同氏サイト記載によれば、スピノザは「所産的自然(natura naturata)」という語(概念)も用いており、そちらは、『神から産み出された被造物としての自然を指す。この意味での自然は神から産み出されたものとしての自然であり、それゆえ神即自然というスピノザの標語となっている』ともある。なお、「赤い蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)」について、先の玉井晶章氏は、主人公(詩人宮澤賢治)『とってのい小さな生物の本体とは、信仰の対象としての神である。「ワタシ」が「ナチラナトラのひいさま」に対して敬語を用いるのも、信仰の神に対する尊崇の念と捉えれば、すんなり読み解けるのではないだろうか』と述べてもおられることを、ここに示してはおく(それに賛同しているわけではない)。

「ひいさま」「姫様(ひめさま)」の転訛。 高貴な人の令嬢を敬っていう語。お嬢様。無論、アカムシを指す。強い目立つ赤い色は私には「ひいさま」が腑に落ちる。

「黃いろなかげ」アカムシの「おひいさま」自身の太陽光の乱反射による黄色い影。

「とがつた二つの耳をもち」アカムシの前頭部上方にある一対の触角を指すと思われる。

「燐光珊瑚の環節」「燐光」は賢治の幻想上の形容と思う(但し、「燐光」はないが、珊瑚類には「蛍光発光」するものがいることは事実である(蛍光する理由はよくわかっていない)。しかし、それをこの当時、賢治が知っていたとは思われない。こちらの旅行会社のブログの「蛍光発光ダイビング(FLUO-diving)」を参照されたい)。腔腸(刺胞)動物であるサンゴ類に対して「環節」という表現は正しい謂いである。

「水晶体や鞏膜(きやうまく)の」/「オペラグラスにのぞかれて」覗いている主体者である詩人を客体化した表現。「水晶体」は賢治の眼球の「水晶体」であり、彼の眼の「鞏膜」(角膜とともに眼球の外壁を構成する強靱な膜)であり、その前に当てがっている「オペラグラス」(ここは拡大鏡をお洒落に言い換えた。アカムシの「ひいさま」のバレエ・オペラの華麗なる舞台を見ているのだから)によって私に「のぞかれて」いるのである。

「眞珠の泡を苦にするのなら」中深のそれや水面近くのそれらは内側に働く表面張力によって、アカムシ「ひいさま」は、その球体面に吸い着いてしまうと、身動きも呼吸も不自由になってしまうからである。]

2018/11/11

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 眞空溶媒

 
 

 眞  空  溶  媒

 
 
 
      眞 空 溶 媒

       ( Eine Phantasie im Morgen

 

融銅はまだ眩(くら)めかず

白いハロウも燃えたたず

地平線ばかり明るくなつたり陰(かげ)つたり

はんぶん溶けたり澱んだり

しきりにさつきからゆれてゐる

おれは新らしくでパリパリの

銀杏(いてう)なみきをくぐつてゆく

その一本の水平なえだに

りつぱな硝子のわかものが

もうたいてい三角にかはつて

そらをすきとほしでぶらさがつてゐる

けれどもこれはもちろん

そんなにふしぎなことてもない

おれはやつぱり口笛をふいて

大またにあるいてゆくだけだ

いてふの葉ならみんな靑い

冴えかへつてふるえてゐる

いまやそこらは alcohol 瓶のなかのけしき

白い輝雪(きうん)のあちこちが切れて

あの永久の海蒼(かいさう)がのぞきでてゐる

それから新鮮なそらの海鼠(なまこ)の匂

ところがおれはあんまりステツキをふりすぎた

こんなににはかに木がなくなつて

眩ゆい芝生(しばふ)がいつぱいいつぱいにひらけるのは

さうとも 銀杏並樹(いてふなみき)なら

もう二哩もうしろになり

野の綠靑(ろくせう)の縞のなかで

あさの練兵をやつてゐる

うらうら湧きあがる昧爽(まいさう)のよろこび

氷ひばりも啼いてゐる

そのすきとほつたきれいななみは

そらのぜんたいにさへ

かなりの影(えい)きやうをあたへるのだ

すなはち雲がだんだんあをい虛空に融けて

たうたういまは

ころころまるめられたパラフヰンの團子(だんご)になつて

ぽつかりぽつかりしづかにうかぶ

地平線はしきりにゆすれ

むかふを鼻のあかい灰いろの紳土が

うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて

あるいてゐることはじつに明らかだ

(やあ こんにちは)

(いや いゝおてんきですな)

(どちらへ ごさんぽですか

  なるほど ふんふん ときにさくじつ

  ゾンネンタールが沒(な)くなつたさうですが

  おききでしたか)

 (いゝえ ちつとも

  ゾンネンタールと はてな)

 (りんごが中(あた)つたのださうです)

 (りんご、ああ、なるほど

  それはあすこにみえるりんごでせう)

はるかに湛(たた)える花紺靑の地面から

その金いろの苹果(りんご)の樹が

もくりもくりと延びだしてゐる

 (金皮のまゝたべたのです)

 (そいつはおきのどくでした

  はやく王水をのませたらよかつたでせう)

 (王水、口をわつてですか

  ふんふん、なるほど)

 (いや王水はいけません

  やつぱりいけません

  死ぬよりしかたなかつたでせう

  うんめいですな

  せつりですな

  あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)

 (えゝえゝ もうごくごく遠いしんるいで)

いつたいなにをふざけてゐるのだ

みろ、その馬ぐらゐあつた白犬が

はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて

いまではやつと南京鼠(なんきんねずみ)のくらゐにしか見えない

 (あ、わたくしの犬がにげました)

 (追ひかけてもだめでせう)

 (いや、あれは高價(たか)いのです

  おさへなくてはなりません

  さよなら)

苹果(りんご)の樹がむやみにふえた

おまけにのびた

おれなどは石炭紀の鱗木(りんばく)のしたの

ただいつぴきの蟻でしかない

犬も紳士もよくはしつたもんだ

東のそらが苹果林(りんごばやし)のあしなみに

いつぱい琥珀をはつてゐる

そこからかすかな苦扁桃(くへんたう)の匂がくる

すつかり荒(す)さんだひるまになつた

どうだこの天頂(ちやう)の遠いこと

このものすごいそらのふち

愉快な雲雀(ひばり)もたうに吸ひこまれてしまつた

かあいさうにその無窮遠(むきうゑん)の

つめたい板の間(ま)にへたばつて

瘠せた肩をぷるぷるしてるにちがひない

もう冗談ではなくなつた

畫かきどものすさまじい幽靈が

すばやくそこらをはせぬけるし

雲はみんなリチウムの紅い熖をあげる

それからけわしいひかりのゆきき

くさはみな褐藻類にかはられた

こここそわびしい雲の燒け野原

風のヂグザグや黃いろの渦

そらがせわしくひるがへる

なんといふとげとげしたさびしさだ

 (どうなさいました 牧師さん)

あんまりせいが高すぎるよ

 (ご病氣ですか

  たいへんお顏いろがわるいやうです

 (いやありがたう

  べつだんどうもありません

  あなたはどなたですか)

 (わたくしは保安掛りです)

いやに四かくな背(はい)囊だ

そのなかに苦味丁幾(くみちんき)や硼酸(ほうさん)や

いろいろはいつてゐるんだな

 (さうですか

  今日なんかおつとめも大へんでせう)

 (ありがたう

  いま途中で行き倒(たほ)れがありましてな)

 (どんなひとですか)

 (りつぱな紳士です)

 (はなのあかいひとでせう)

 (さうです)

 (犬はつかまつてゐましたか)

 (臨終(りんじふ)にさういつてゐましたがね

  犬はもう十五哩もむかふでせう

  じつにいゝ犬でした)

 (ではあのひとはもう死にましたか)

 (いゝえ露がおりればなほります

  まあちよつと黃いろな時間だけの假死(かし)ですな

  ううひどい風だ まゐつちまふ)

まつたくひどいかぜだ

たほれてしまひさうだ

沙漠でくされた駝鳥(だてう)の卵

たしかに硫化水素ははいつてゐるし

ほかに無水亞硫酸

つまりこれはそらからの瓦斯の氣流に二つある

しやうとつして渦になつて硫黃華(くわ)ができる

    氣流に二つあつて硫黃華ができる

        氣流に二つあつて硫黃華ができる

 (しつかりなさい しつかり

  もしもし しつかりなさい

  たうたう參つてしまつたな

  たしかにまゐつた

  そんならひとつお時計をちやうだいしますかな)

おれのかくしに手を入れるのは

なにがいつたい保安掛りだ

必要がない どなつてやらうか

         どなつてやらうか

            どなつてやらうか

               どなつ……

水が落ちてゐる

ありがたい有難い神はほめられよ 雨だ

惡い瓦斯はみんな溶けろ

 (しつかりなさい しつかり

  もう大丈夫です)

何が大丈夫だ おれははね起きる

 (だまれ きさま

  黃いろな時間の追剝め

  飄然たるテナルデイ軍曹だ

  きさま

  あんまりひとをばかにするな

  保安掛りとはなんだ きさま)

いゝ氣味だ ひどくしよげてしまつた

ちゞまつてしまつたちいさくなつてしまつた

ひからびてしまつた

四角な背囊ばかりのこり

たゞ一かけの泥炭(でいたん)になつた

ざまを見ろじつに醜(みにく)い泥炭なのだぞ

背囊なんかなにを入れてあるのだ

保安掛り、じつにかあいさうです

カムチヤツカの蟹の罐詰と

陸稻(をかぼ)の種子がひとふくろ

ぬれた大きな靴が片つ方

それと赤鼻紳士の金鎖

どうでもいゝ 實にいゝ空氣だ

ほんたうに液体のやうな空氣だ

 (ウーイ 神はほめられよ

  みちからのたたふべきかな

  ウーイ いゝ空氣だ)

そらの澄(ちやう)明 すべてのごみはみな洗はれて

ひかりはすこしもとまらない

だからあんなにまつくらだ

太陽がくらくらまはつてゐるにもかゝはらず

おれは數しれぬほしのまたたきを見る

ことにもしろいマヂエラン星雲

草はみな葉綠素を恢復し

葡萄糖を含む月光液(げつくわうえき)は

もうよろこびの脈さへうつ

泥炭がなにかぶつぶつ言つてゐる

 (もしもし 牧師さん

  あの馳せ出した雲をごらんなさい

  まるで天の競馬のサラアブレツドです)

 (うん きれいだな

  雲だ 競馬だ

  天のサラアブレツドだ 雲だ)

あらゆる變幻の色彩を示し

……もうおそい ほめるひまなどない

虹彩はあはく變化はゆるやか

いまは一むらの輕い湯氣(ゆげ)になり

零下二千度の眞空溶媒(しんくうようばい)のなかに

すつととられて消えしまふ

それどこでない おれのステツキは

いつたいどこへ行つたのだ

上着もいつかなくなつてゐる

チヨツキはたつたいま消えて行つた

恐るべくかなしむべき眞空溶媒は

こんどはおれに働きだした

まるで熊の胃袋のなかだ

それでもどうせ質量不變の定律だから

べつにどうにもなつてゐない

といつたところでおれといふ

この明らかな牧師の意識から

ぐんぐんものが消えて行くとは情ない

 (いやあ 奇遇ですな)

 (おお 赤鼻紳士

  たうたう犬がおつかまりでしたな)

 (ありがたう しかるに

  あなたは一体どうなすつたのです)

 (上着をなくして大へん寒いのです)

 (なるほど はてな

  あなたの上着はそれでせう)

 (どれですか)

 (あなたが着ておいでなるその上着)

 (なるほど ははあ

  眞空のちよつとした奇術(ツリツク)ですな)

 (えゝ さうですとも

  ところがどうもおかしい

  それはわたしの金鎖ですがね)

 (えゝどうせその泥炭の保安掛りの作用です)

 (ははあ 泥炭のちよつとした奇術(ツリツク)ですな)

 (さうですとも

  犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか)

 (なあにいつものことです)

 (大きなもんですな)

 (これは北極犬です)

 (馬の代りには使へないんですか)

 (使へますとも どうです

  お召しなさいませんか)

 (どうもありがたう

  そんなら拜借しますかな)

 (さあどうぞ)

おれはたしかに

その北極犬のせなかにまたがり

犬神のやうに東へ步き出す

まばゆい綠のしばくさだ

おれたちの影は靑い沙漠旅行(りよかう)

そしてそこはさつきの銀杏(いてふ)の竝樹

こんな華奢な水平な枝に

硝子のりつぱなわかものが

すつかり三角になつてぶらさがる

 

[やぶちゃん注:全二百四十八行から成る長篇詩。大正一一(一九二二)年五月十八日の作。本書後尾の「目次」の創作クレジットを示す表示は、先行する詩篇「春と修羅」と同様、他の詩篇のそれの丸括弧でなく、二重丸括弧のそれで『⦅一九二二、五、一八⦆』(実際には漢字と読点は半角)となっている。現存稿は底本原稿のみで、これ以前の発表誌等も存在しない。

 誤植が甚だ多く、最後部の三箇所以外(●で示した)は「正誤表」にも載らない。賢治自身の歴史的仮名遣の誤りや慣用誤用や口語使用も含まれるが、まず、それらを一括して箇条で掲げる。但し、原稿と相違していても、底本に用法上の違和感(私の、である)がなく、「手入れ本」での修正が行われいないものは省略した。なお、本文中の「体」はママである。

・「銀杏(いてう)」と後の「いてふ」「銀杏並樹(いてふなみき)」「銀杏(いてふ)」(最終行から四行目)はママ。最初のそれは底本原稿から、「いてふ」の誤植であることが判る。なお、「いてふ」とするのは、江戸時代の歴史的仮名遣の一つとして現に存在し、今もそう書く人も有意に多い。これは、当時、「公孫樹・銀杏」の読み(現代仮名遣「いちょう」)に対して唱えられた語源説の一つである「一葉(いちえふ)」の約されたものという説によったためであるが、現行では、正しい歴史的仮名遣は「いちやう」とされている。しかし、「手入れ本」には修正は全くない。賢治は歴史的仮名遣を「いてふ」で覚えいたということである。

・「新らしくで」原稿は「新しくて」。「で」は「て」の誤植であるが、「正誤表」にはないので、ママとした。「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「そらをすきとほしでぶらさがつてゐる」原稿「そらをすきとほして」。「で」は「て」の誤植。これには「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「そんなにふしぎなことてもない」原稿「ことでもない」。「て」は「で」の誤植。「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「冴えかへつてふるえてゐる」「ふるえる」は原稿もママ。筑摩版校訂本文も「ふるえる」のままとしている(同全集は賢治の独特の語彙や漢字使用及び表現の強い癖などの場合には、正統な歴史的仮名遣による強制補正を行っていない。これは私は正しいやり方だと考えている。同じ筑摩書房の萩原朔太郎全集が、その強制補正を朔太郎著作の総てに対し、有無を言わさず、行ってしまっているのとは大違いである)。「手入れ本」には修正はない。

・「輝雪(きうん)」ママ。原稿「輝雲(きうん)」であるから、強烈な誤植。迂闊な読者はルビで無意識に誤字と認めずに読み過ぎた者も多かろう。しかし、実は「手入れ本」には修正がないのである。高い確率で、賢治自身や彼の周辺の人々さえも、このルビで騙されて、誰一人として気づかなかったものと推定される。

・「綠靑(ろくせう)」ママ。原稿もママ。歴史的仮名遣は「ろくしやう」が正しい。筑摩版校訂本文も「ろくせう」のままとしている。

・「たうたういまは」の「たうたう」は原稿もママ。「到頭」であるから、「たうとう」が正しい。全集校訂本文は「たうたう」なままとしている。但し、「手入れ本」の二種には修正が有るから、ここは「たうとう」を校訂本文と採るべきであるように私は思う。

・「むかふを鼻のあかい灰いろの紳土が」「紳士」の誤植。「手入れ本」修正なし。私も初読時、見落とした。

・「(やあ こんにちは)」/「(いや いゝおてんきですな)」/「(どちらへ ごさんぽですか」の三行のみが字下げなしで記されているのはママ原稿では、これらは、ちゃんと一字下げとなっており、後の「なるほど ふんふん ときにさくじつ」の文字本文と綺麗に並んでいるから、これは誤植である。しかし、「手入れ本」にも修正指示がない。これはこの三行が底本の右ページ(三十八ページ)の末三行であるため、実際に本を開いて読んだ場合、ページが綴目の中央内側に反ること、また、この三行の丸括弧(「(」)のそれが、字下げしていないにも拘わらず、字下げ的な錯視的効果を与えることから、左ページの二字下げに視覚的に影響を受け、都合よく錯覚を起こしたからではないかと私は推定する。

・「湛(たた)える」原稿もママ。「手入れ本」の修正もない。筑摩版全集もママ。

・「「おれなどは石炭紀の鱗木(りんばく)のしたの」ルビは「りんぼく」の誤植。「手入れ本」修正なし。私も初読時、見落とした。

・「たいへんお顏いろがわるいやうです」末尾の丸括弧閉じるが、ない。原稿「たいへんお顏いろがわるいやうです)」。誤植。「手入れ本」の一部に修正が有る。

・「いま途中で行き倒(たほ)れがありましてな)」原稿ではルビは「行き倒(だほ)れ」。「ほ」はママであるが、「だ」は誤植である。しかし「手入れ本」には修正はない。賢治やその周辺の人々はここに限っては誤り(ポイント最小のルビ活字の濁点の誤植)を見落としていたと考えられる。

・「たほれてしまひさうだ」「たほれ」は前注と同じく原稿もママ。全集校訂本文もママ。

・「すつととられて消えしまふ」ママ。原稿は「すつととられて消えてしまふ」なので、脱字。宮澤家「手入れ本」で「て」を補う。

・「(あなたが着ておいでなるその上着)」はママ。原稿は「(あなたが着ておいでになるその上着)」なので、脱字であるが、「手入れ本」の補正はない。「おいでなる」ではどうみてもおかしいから、これは見落としたものらしい。筑摩書房版は校訂本文を「おいでなる」と特異的に現存原稿のみに依拠して訂正している。まあ、これは無理もないか。

●「犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか)」/「(なあにいつものことです)」は底本では、前行末に次行頭の「な」の活字が迷い込んで(と筑摩書房編者は理解している)、

犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですかな)

(あにいつものことです)

となっている。原稿を見ると誤植であり、「正誤表」にも載るので、原稿通りに《二箇所》を示した。

●「すつかり三角になつてぶらさがる」この最終行は底本では、

すつかり三角にならてぶらさがる  

となっているが、原稿は「すつかり三角になつてぶらさがる」で誤植であり、「正誤表」にも載るので、原稿通りに示した。

   *

 「原稿」と底本との異同で、以上以外で特に気になる点を掲げる。

・「しきりにさつきからゆれてゐる」が、原稿では「しきりにさつきからゆすれてゐる」となっているが、「手入れ本」でもこの「ゆれてゐる」部分への修正はない。最終校正刷で改したものかも知れない。但し、本書では先行する詩篇「春と修羅」で賢治は既に「ゆすれ」を二箇所で使用しており、語としての用法の強い違和感も私にはない。本篇の雰囲気からうすると、音数律上の変更とも思われない。

・唯一のリーダ使用部「どなつ……」のリーダ数は「………」で三字分である。

・その次の次の行の

ありがたい有難い神はほめられよ 雨だ

は、原稿では、

さうだ神はほめられよ 雨だ

となっている。最終校正刷で大改変したものか。印刷屋には一番嫌われる仕儀である。

・「サラアブレツト」は、原稿では「サラーブレツド」。「手入れ本」修正なし。

・「おれたちの影は靑い沙漠旅行(りよかう)」は、原稿では「おれたちの影は靑い沙漠行旅(かうりよ)」。ルビから確信犯であるが、「手入れ本」に修正がないから、最終校正刷で普通に戻したか。

   *

 「手入れ本」については非常な長詩であるので略すが、その二種の最終形を整序した電子データが、サイト「宮澤賢治の詩の世界」にある(但し、漢字は新字)。宮澤家本がこちら菊池曉輝氏所蔵本がこちらであるので、参照されたい。ただ一点、非常に興味深いのは、宮澤家本に、「ゾーネンタールが沒(な)くなつたさうですが」の横に「陽の谷」という書き入れがあることで、全集脚注では『註か? 自筆ではない可能性もある』とあることである。これは、後の注(引用)を参照されたい。

「眞空溶媒」「溶媒」(英語:solvent)は一つの溶液に於いて、その溶液が作られるに当たって、溶かされた成分を「溶質」と称し、その「溶質」を溶かすのに用いた成分を「溶媒」と呼ぶ。溶質・溶媒の区別がつけ難い場合には、多量に存在する一方を通常は「溶媒」と考える。「溶質」は気体・液体・固体の孰れでもよいが、「溶媒」は一般には液体である。ところが「眞空」では、一般人である我々には溶媒も溶質も無化されるのではないかと躓いてしまう。ここは或いは、ダダイズムやシュールレアリスムが好んで用いた、最もかけ離れていて、凡そ熟語足り得ない二概念を持つ対象を衝突させることで、新たな芸術的イメージを創出しようとした(例えばダリの事大主義画題作品「恋愛感情を表わす二個のパン」(一九四〇年:但し、その実、私はダリの作品の中では非常に好きな作品である)のように「恋愛感情」と「パン」との結合である)手法を科学用語に用いたものとも思われるし、また、「眞空」なのは宇宙空間であり、それはビッグバンから完全収縮に至る開闢と消滅のドライヴである。真空空間には充満はしていなくとも、先に出たエーテル仮説や後のアインシュタインの光量子仮説と、同人がそれと同時に一九〇五年に発表している特殊相対性理論などを考え合わせるならば、夢想された人間存在という儚い「媒質」が、そうした最新科学の特異な属性を内包する真空という「触媒」の影響を受けて、時空間をやすやすと往来し、その形象さえも自在にメタモルフォーゼさせることが出来る、と賢治は仮定したのではあるまいか?

Eine Phantasie im Morgen」ドイツ語で「朝(午前)の想像(空想・幻想)」。

「融銅はまだ眩(くら)めかず」融解した銅(銅の融点は摂氏一千八十五度弱)。日の出の太陽の色を形容しているのであろう。ブログ「金沢・金の科学館」の「融銅はまだ眩めかず」という記事で、『吹管分析という方法で銅の鉱石のひとつである孔雀石から銅を取り出せ』るとあり、『この融銅の眩めきというのが見たくなり』、学校で(ブログ主は教師らしい)硫酸銅を用いて実験してみたとされ、『木炭にドライバーで小さな穴をあけ、硫酸銅粉末を入れ、吹管で炎を吹き付けてみた』ところ、『一発で、立ち上る朝日のような球状に輝く銅が出てきた』とあり、『実験を見ていた生徒も「すごい!」と感動した』と記されて、『賢治もこの実験をやって感動したに違いないと思え』たと述べておられる。その実験映像を見られたい。これは確かに、日の出後に赫奕(かくやく)とする太陽そのものである。

「ハロウ」英語「halo」(英語読み:ヘイロー)とは、太陽やその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のことである。日暈(にちうん)。太陽や月を光源として、それらに薄い雲がかかった際、その周囲に発生するように見える光の輪。日暈(ひがさ)。語源はギリシャ語の当該現象を指す語で、お馴染みの写真や映像で、強い光が当たった部分が白くぼやけることを指す「ハレーション」(halation)は、この「halo」に結果や状態を表わす名詞語尾「-ation」が附いたものである。他に宗教的聖像などの後光・光輪・光背の意もある。

「銀杏(いてう)なみき」の「その一本の水平なえだに」「りつぱな硝子のわかものが」「うたいてい三角にかはつて」「そらをすきとほしでぶらさがつてゐる」「けれどもこれはもちろん」「そんなにふしぎなことてもない」私の大好きなアメリカのブラザーズ・クエイ(Brothes Quay)の「ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋」(The Cabinet of Jan Svankmajer:一九八四年)や、そこでオードされたチェコスロバキア・プラハ生まれのシュルレアリストでアニメーション作家・映像作家ヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer 一九三四年~)の素晴らしい諸作品を面白がれる余裕があれば、この数行は難解でも何でもない。

「いまやそこらは alcohol 瓶のなかのけしき」この「alcohol 瓶のなかのけしき」は生物のアルコール液浸標本のことであろう。アルコールでは長期の固定保存は不可能で、経年劣化が進むと、対象生物によっては、繊維組織が抜け出たり、個体の一部や全体が溶解を起して液中に崩れたり、溶け出したりする。以下の形容は、饐えた臭いと、黄変して雪の降るようになったり、個体表面が崩れて、内部へと裂け目の出来た標本瓶たちのカット・バックだ。高校まで理科部(中学・海塩核班/高校・生物班)であった私には、当たり前の日常の風景であった。無論、ここは公孫樹並木(瓶)とその隙間の「輝」く「雲」が切れて、そこから垣間見える「海」の如くに「蒼」黒い空の実景をそれらに換喩して夢想を楽しんでいるのである。……ああ……それにしても……まさに今の私(藪野)にとっては、自身の記憶自体が、誰も見に来ない理科室の展示棚の中のそうした液浸標本みたようなものである……

「あの永久の海蒼(かいさう)がのぞきでてゐる」前注に述べた通り、であるが、それは次の換喩である「新鮮なそらの海鼠(なまこ)の匂」からのフィード・バックとも言えよう。

「二哩」一マイルは一キロ六百十メートル弱。二マイルは三キロ二百十九メートル弱。

「昧爽(まいさう)」夜明け。「昧」は「暗い」で「爽」は「明るい」の意であるから、夜明け方のほの暗い時間。曙(日の出直前までの時間帯)である。辞書によっては「暁(あかつき)」とするが、これは正しくない。「あかつき」とは朝であるが、まだ真っ暗な状態、「曙」の前の時間を明確に分けて指す語だからである。

「氷ひばり」「神戸宮沢賢治の会」の公式サイトの「会報No.39 -氷ひばり-」に、『その鳴き声が透き通っているところから、賢治がつけた早春のひばりの総称。従って次行の「きれいななみ」とは、ひばりの声波のことで』あるとある。

「ゾンネンタール」上記引用先には、『ドイツの俳優、あるいは近所の資産家、との説がありますが、賢治は単に語呂が面白くて会話中にその名を登場させたとの説が妥当のようです』とあるが、それこそ『単に』『語呂が面白くて』で終わらせるというのは、考証・考察ではない、『単』なる感想・思いつきでしかない。面白い語呂なんだったら、「存念垂る」のアナグラムでもいいんですね、とツッコみたくなる。私は若き日にこれを読んだ時は「ネアンデタール」人を直ちに想起した(と言ってもその単連想であって、それが賢治のミラクル・ワールドに繋がるものとは思ってはいなかった)。この如何にも怪しい名の解読は大塚常樹氏の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」(一九九三年朝文社刊)に於いて、まさに目から鱗の解読がなされてある。その「無意識が見させる夢――中生代爬虫の悪夢――」の中で大塚氏は、

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号は省略させて戴いた。]

ここに登場する「ゾンネンタール」は、「原人」の隠喩であろう。この名について恩田逸夫はネアンデルタール人ヒント説を[やぶちゃん注:昭和四六(一九七一)年角川書店刊「日本近代文学大系 三十六 高村光太郎・宮沢賢治集」の注釈。大塚氏の注に拠る。]、栗原敦は役者ゾンネンタール説を提示している[やぶちゃん注:平成四(一九九二)年新宿書房刊「宮沢賢治 透明な軌道の上から」。同前。]。仮に「原人」と把握すれば、「しんせき」「ごくごく遠いしんるゐ」[やぶちゃん注:本詩篇の後の部分。]の意味も明らかになる。すなわち《現人類》の遠い親戚であり、彼らと同様の原始人であったころの記憶や感情が《現人類》にも残存している、という意味になるからである。この一節のすぐ後に、自分は石炭紀の鱗木の下の一匹の蟻だ、という一節があることからも「ゾンネンタール」の発想の基盤に進化論や地質年代的知識があったことはほぼ間違いないだろう。

 この「ゾンネンタール」(宮沢賢治家所蔵本には、賢治の手入れかどうかは不明だが、陽の谷、という訳語が記入されている[やぶちゃん注:ネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis)の本格的な科学的研究の対象となった化石の発見(一八五六年)場所であるドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷(ドイツ語: Neanderthal 又は Neandertal)であった。綴りが二種あるのは、一九〇一年にドイツ語の「正書法」改革により、「Thal」(タール:谷)の綴りが「Tal」に改められたからで、命名時の綴りを保持するのが分類学上の慣例であることから、ネアンデルタール人の学名 Homo neanderthalensis(ヒト亜種とする場合は Homo sapiens neanderthalensis は綴り方の変更の影響を受けないことによる)。]は、栗原の言うように作品後方の「泥炭」の「タール」に引っかけた名前でもあるだろう。賢治が地質時代の悪夢をしばしば体験したこと、石炭紀や白堊紀の湿地(氾濫原)が修羅のさまよう場所としてイメージされたことは本書の「序論」でも詳しく見たとおりである。泥炭地帯とはこうしたはるかむかしの氾濫原や湿地帯の、今日的地層地帯のことにほかならない。「ゾンネンタール」は「冬のスケッチ」にも、

  しろびかりが室をこめるころ

  澱粉ぬりのまどのそとで

  しきりにせのびをするものがある

  しきりにとびあがるものがある

  きっとゾンネンタールだぞ。

と描かれている。ここにも過去の「原人」の記憶に対する、賢治の恐怖心が読み取れるのではないか。

   《引用終了》

と述べておられるのである(「冬のスケッチ」は以前にも注で出したが、創作年代は不詳であるものの、製作史的には賢治の短歌時代と口語詩時代の狭間に位置する若い頃のものと推定される短唱的作品群で、引用は旧稿本全集では第六巻の「七」パートにあるソリッド(この五行で完結している)なものである)。これは、まさしく、田舎の冴えない高校生であった私が「ネアンデルタール人」をこの語に重ねたときの、何とも言えぬ慄然とした感じを開明して呉れたのである。そうしてそれは後にユングの著作に触れ、その「集団的無意識」説を読んだ時の、私の中の妙に腑に落ちるもの(これを以って私の小学生高学年以降のフロイトの汎性理論への無批判な信望は瓦解した)をも解き明かして呉れたのでもあった。宮澤賢治を全的に解読するには彼のファンダメンタルな日蓮宗への信仰部分を除去して語ることは全く不可能だと思っているが、それ以上に、賢治の科学者(特に地学・古生物学)を中心とした博物学的自然哲学的な学際的解析が不可欠であることは言うまでもなかろう。而してこの大塚常樹氏(現在、お茶の水大学基幹研究院人文科学系教授)の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」は、まさにそうした、特に後者の部分をターゲットとした論考として、他に類を見ない研究書として、非常に優れたものであるので一読をお薦めするものである。大塚氏は、かの原子朗氏の「新宮沢賢治語彙辞典」(一九九九年東京書籍刊。私は所持しないのでここで活用できないのは残念である)の分担執筆者の筆頭者でもあられる。因みに、大塚常樹氏の連れ合いである大塚美保氏(現在、聖心女子大学日本語日本文学科教授)は第一線の森鷗外の研究者として知られるが、彼女は私が最初に担任を持った生徒であり、お二人の結婚式にも招待され、錚々たる日本文学研究者たちの並居る中、ユングの「ヨブへの答え」を朗読するというトンデモ祝辞をやらかしてしまった(これは全くの偶然で、ただ直近で読んだそれにいたく感銘していたことからなのであるが)。今思うと、まっこと恥ずかしい限りであるが、しかし、懐かしい思い出である。

「花紺靑」「はなこんじやう(はなこんじょう)」と読む。紫色を帯びた暗い青色のこと。サイト「伝統色のいろは」の「花紺青」に、『人類最古のコバルト顔料「スマルト」の和名。スマルトはエジプトやミケーネ文明の頃から用いられて』おり、『日本では顔料の「紺青色 こんじょういろ」の中でも、人造の顔料を「花紺青」、天然のアズライト』(藍銅鉱:らんどうこう:azurite:アズライト。炭酸塩鉱物の一種で、「ブルー・マラカイト」と呼ばれる宝石でもある)『を原料とする顔料を「石紺青 いわこんじょう」と呼んで区別してい』る、とある。色はリンク先で確認されたい。曙方の地面の色であろうが、そこに金の皮の林檎があるのだとすれば、それは異界を示す色でもあろう。

「苹果(りんご)」「苹」(音「ヘイ・ヒヤウ(ヒョウ)」)は原義は「浮草(うきくさ)」或いは「蓬(よもぎ)」であるが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の、まさに、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の中でリンゴが「苹果」と表記されている。「林檎」と「苹果」では意味の違いがあるのか』という質問への回答として、

   《引用開始》

『日本語源大辞典』(小学館)の「りんご」の項に「林檎」は「西洋リンゴが普及する以前の和リンゴの総称」で、「中国では、古く西洋から伝わったリンゴを『奈』「頻婆』『苹果』などと表した。それに対し、中国原産のものが『林檎』である」と示される。また、『新宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍)の「苹果」の項でも「『林檎』は、もともと西洋リンゴ輸入前の小粒の和リンゴの総称で、西洋リンゴ(大りんご)の表記は『苹果』であった」としている。明治29年刊行の『果樹栽培全書第二編』(博文館)を確認したところ、「苹果樹栽培法」の中で「苹果ナルモノハ一名『おふりんご』ト称シ本邦在来林檎ノ一種」で「苹果ハ即チ漢名ニシテ清國ニハ其産アリ欧米産ノ品ト異ナラズ」と記されている。

   《引用終了》

「(金皮のまゝたべたのです)」/「(そいつはおきのどくでした」/「はやく王水をのませたらよかつたでせう)」/「(王水、口をわつてですか」/「ふんふん、なるほど)」/「(いや王水はいけません」/「やつぱりいけません」/「死ぬよりしかたなかつたでせう」/「うんめいですな」/「せつりですな」/「あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)」/「(えゝえゝ もうごくごく遠いしんるいで)」「王水」の後の読点は原稿にもあり、底本にもあるのに、何故か、全集校本の校訂本文では除去されている。「王水」は「わうすい(おうすい)」と読み、濃塩酸と濃硝酸の混合物である。通常は濃塩酸三に対して濃硝酸一を加えたものを指し、強酸化剤として知られ、硝酸では溶解しない金・白金などの貴金属をも溶かすことから、この名を持つ。この部分については、先に引用した大塚常樹氏の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」の引用文の直前で、『恐らくこの幻想的な会話は、シンボリックな会話である。「金の華果」を食べて死ぬとは、有名な失楽園のパロディであろう。「うんめい」「せつり」にはこうしたキリスト教的な人類の宿命(原罪)が暗示されていよう』(以下、『また』を挟んで、先の引用の『ここに登場する「ゾンネンタール」は……』と続く)とあり、激しく共感する。

「南京鼠(なんきんねずみ)」モルモットのこと。齧歯目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus の実験用・愛玩用の飼養白変(アルビノ)種。

「おれなどは石炭紀の鱗木(りんぼく)のしたの」/「ただいつぴきの蟻でしかない」同じく大塚氏は「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」の、巻頭にある「宮沢賢治の空間意識」の中で、この二行を引かれ、『この「鱗木」は実は杉の遠い祖先と言われている。賢治が影響を受けたドイツの進化論生物学者エルンスト・ヘッケルの提唱する、進化論的生命発生原則(本書「宮沢賢治とへッケル」を参照されたい)に従えば、五年位の若い杉(いわば子供の杉)は、祖先の「鱗木」に非常によく似ていることになるのである。「春と修羅」で賢治が描いた「Zypressen」[やぶちゃん注:発音は「ツュプレッセン」で、ドイツ語で糸杉類(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科イトスギ属 Cupressus)を指す。英語の「Cypress」(サイプレス)のこと。先行する「春と修羅」の注を参照されたい。]、すなわち糸杉は、よく言われるようにゴッホの「糸杉」が念頭に置かれていただけではなく、石炭紀の「鱗木」のイメージが重ねられていたのである』とある。大塚氏は『ゴッホの「糸杉」』に注され、『大正八年』(一九一九年)『ころの短歌に「ゴオホサイプレスの歌」の連作がある)と述べておられる。これは、以下(底本は校本全集第一巻を用いた)、

   *

 

ゴオホサイプレスの歌

 

サイプレスいかりはもえてあまぐものうづまきをさへやかんとすな

 

雲の渦のわめきのなかに湧きいでゝいらだちもゆるサイプレスかも

 

灯のしたにうからつどふをなはひとりたそがれに居てものおもひけん

 

薄明穹まつたく落ちて燐光の雁もはるかの西にうつりぬ

 

   *

で、また別な同時期の歌稿に(「巻」を恣意的に正字化した)、

   *

 

サイプレス

忿りは燃えて

天雲のうづ卷をさへ灼かんとすなり。

      ※

天雲の

わめきの中に湧きいでて

いらだち燃ゆる

サイプレスかも。

 

   *

とある(「忿り」は「いかり」、「天雲」は「あまぐも」と読んでおく)。大塚氏の挙げられた、エルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)は、「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題で知られた、私の好きな生物学者・自然哲学者で、今まで多くの記事で述べてきたが、ここは取り敢えず私見を殆んど交えていない、「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル」をリンクさせておく。なお、彼の名は、後の「青森挽歌」の中に「ヘツケル博士!」/「わたくしがそのありがたい證明の」/「任にあたつてもよろしうございます」という挿入句の中に登場する。

「苦扁桃(くへんたう)」アーモンド(Almond:バラ目バラ科モモ亜科サクラ属ヘントウ Amygdalus dulcis であるが、ここは感覚的な美的比喩であろう。或いは、その種子から油を搾った滓(かす)を発酵させたものを蒸留して得る無色の液体(主成分はベンズアルデヒド)で香料に用られる苦扁桃油(くへんとうゆ)の杏の種のような匂い(朝の地面や植物からの揮発したものの混淆した微かな甘酸っぱい匂い)かも知れない。

「その無窮遠(むきうゑん)の」/「つめたい板の間(ま)」蒼穹の果てのイメージである。

「リチウムの紅い熖をあげる」リチウム(lithium)の炎色反応は深紅色。winnie1046氏のYou Tube の動画を見られたい。

「褐藻類」不等毛植物門褐藻綱 Phaeophyceae。ごく一部を除いて海産の多細胞藻類で、コンブ目 Laminariales(英語:Sea kelp)等、極めて大型になるものが含まれる。ここで賢治が「にかはられた」と言っているのは、日の出から推移した景観色をかく言ったものであろうが、それはその実景に太古の海のイメージをも幻視しているようにも感じられる。

「(どうなさいました 牧師さん)」と声を掛けてくる人物がいて、「あんまりせいが高すぎるよ」と不満の心内語が発せられる。声を掛けてきたのが、後の胡散臭い風体の「保安掛り」と読め、さすれば、ここは主人公(詩人宮澤賢治)を、その田舎にしては妙な風采から「牧師」と誤認したのであろう(あのお馴染みの賢治の帽子とコートの姿に逢えば、私も牧師と誤認する気がする)。後半で「でおれといふ」/「この明らかな牧師の意識から」とある。

「苦味丁幾(くみちんき)」「苦味チンキ」(「チンキ」は「tincture」チンキ剤で、生薬をアルコールで浸出させたり、溶かした水液薬剤)は異の芳香をもつ苦い黄褐色の液剤で、センブリを原料とする苦味薬を橙皮(トウヒ)・サンショウなどの芳香剤と混じてアルコールで浸出したもの。健胃薬とする。

「硼酸(ほうさん)」(底本の「硼」は「月」が「萠」のように斜体であるが、表示出来ないので以上で示した)。ホウ酸(Boric acid)或いはオルトホウ酸は、H3BO3またはB(OH)3で表わされるホウ素のオキソ酸で、温泉などに多く含まれ、殺菌剤・殺虫剤・医薬品(うがい薬・軟膏の基剤・眼科の結膜の洗浄や消毒及び目薬の保存料等)に用いられる。四角な背嚢を背負い、その中にこれらのものが入っているというのは、所謂、行商の薬売りのポーズであるが、無論、他の人物同様、幻影の産物である。

「黃いろな時間」「露」とあるから、黄昏時を指すのか? 夕暮れとなって夜露が下りれば蘇生するというのか?

「沙漠でくされた駝鳥(だてう)の卵」の比喩が「硫化水素」の臭いのするような「ひどい風」を形容するか。

「無水亞硫酸」二酸化硫黄の俗称。所謂、亜硫酸ガス。同前。

「硫黃華(くわ)」「いわうくわ(いおうか)」は人工的には硫黄の蒸気を急冷して固化させて得られる黄色の粉末。天然には硫黄泉の噴出口に見られる。「昇華硫黄」とも呼ぶ。

「氣流に二つあつて硫黃華ができる」このくどいリフレインの表現としての意味(「氣流に二つあ」るという解説)は私にはよく判らない。しかし、強力な硫黄臭を読者にも嗅がせ、しかも主人公も、その毒気に詩人の意識が薄れてゆくことを表わしているのであろうとは思われる。

「テナルデイ軍曹」ヴィクトル・ユーゴー(Victor Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)が一八六二年に執筆したロマン主義の名作「レ・ミゼラブル」(Les Misérables)に登場する悪党テナルディエ(Thénardier)のこと。非常に詳しいウィキの「レ・ミゼラブル」の、「登場人物」の彼の条を参照されたい。

「みちからのたたふべきかな」「御力の讃ふべきかな」。「ウーイ」に挟まれた、冒頭の「神は」褒「められよ」という命令形と、この紋切型の讃嘆表現は、前の「液体のやうな空氣」を吸い込み過ぎて酔っぱらった(酸素は劇薬であり、酸素濃度が高まると、酸素酔いを起こすことは周知の通り)雰囲気を醸し出している。

「そらの澄(ちやう)明 すべてのごみはみな洗はれて」/「ひかりはすこしもとまらない」/「だからあんなにまつくらだ」空気中の塵が無くなり、乱反射を起こす対象物が存在しなくなれば、光りは人間の眼には見えなくなるという理屈よりも、またしても真空溶媒が起動して、新たな時空間の反転現象が起きているのであろう。「太陽がくらくら」してくるほどに。日没と日入りを繰り返しては時間が逆転し、同時に太古の時間の「數しれぬほしのまたたきを見」るというのか?

「マヂエラン星雲」マゼラン星雲(Magellanic Clouds:マゼラン雲)は、地球のある銀河系のすぐ隣にある銀河で、大マゼラン星雲と小マゼラン星雲の二つの不規則型銀河からなる(天球上では互いは約二十三度離れている)。視直径はそれぞれ十・八度、四・七度と、非常に大きく、肉眼では、名の通り淡い小さな雲のように見え、南十字星とともに南半球の空を代表する天体で、明るさでは全天随一とされるが、日本からは見えない。十五世紀頃から、南方へ行く船乗りの間で、その存在が知られていたが、初めて世界一周の航海をしたフェルディナンド・マゼラン(一四八〇年~一五二一年:航海途中、フィリピンで戦死したが、彼が率いたスペインの艦隊は翌年に帰国を果たし、史上初の世界一周が成し遂げられた)に因んで名づけられた。距離が約一六万光年と、我が銀河系に最も近い銀河であることから、その明るい星々は一つ一つに分解して観測できるため、天文学上、きわめて重要な天体とされる。近年ではマゼラン星雲を取り囲む水素ガスの雲が発見され、これらが天球上をほぼ一周するように分布していることから、大・小マゼラン星雲は、互いに重力的に引き合う二重銀河となって、我々の銀河系の周囲を約十億年かけて回っているとの説が有力である(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「草はみな葉綠素を恢復し」/「葡萄糖を含む月光液(げつくわうえき)は」/「もうよろこびの脈さへうつ」時空間が逆回転していると仮定すれば、これらの反転再生(文字通りの「再生」、「蘇生」である)は私には悉く腑に落ちるのである。それ故に、「泥炭」になってしまったはずの「保安掛り」が、「泥炭」のままに「なにかぶつぶつ言つてゐる」のも少しも不自然ではないのである。

「サラアブレツド」thoroughbred。サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された。

「零下二千度」摂氏(
degree Celsius:セルシウス度。人名の中国語漢訳「摂爾修斯」に基づく略号)マイナス二百七十三・一五度(華氏(degree Fahrenheit:ファーレンハイト度:人名の中国語漢訳「華倫海特」に基づく略号)四百五十九・六七度)が絶対零度(Absolute zero)の下限であることは、無論、賢治は知っていたから、この数値は確信犯の幻想。「眞空溶媒」は恐るべき低温世界であり、総てのエネルギをブラック・ホールのように瞬時に吸引して「それでもどうせ質量不變の定律だから」日常的観察では質量は不変であるが、アインシュタインの特殊相対性理論では質量も変化することは賢治も知っていたろうが、ここは流石に、読者を煙にまくことはしなかったということか。

「奇術(ツリツク)」原稿では最初、「トウリツク」と振って、「ツリツク」に直している。無論の「trick」のこと。

「北極犬」所謂、ハスキー犬(HuskySiberian husky)を、極地方に住む北アメリカのインディアンやイヌイットの人々は「北極犬」と呼ぶようである。

「犬神」これは単なる犬を支配する神の意。本邦の土俗の「犬神」とは無縁(そちらについて暗い方は最近の私の仕儀、古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事を読まれたい)。]

2018/11/09

ブログ1160000アクセス突破記念 梅崎春生 百円紙幣

 

[やぶちゃん注:『日本』昭和三三(一九五八)年三月号に発表された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。以下、簡単に注する。

・「百円紙幣」ここに登場するのは日本銀行兌換券の「乙号券」(通称「一次百円」)と呼ばれるもので、表面に聖徳太子と夢殿、裏面に法隆寺境内図が描かれている。サイズは縦九センチ三ミリ・横十六センチ二ミリ。発行開始日は昭和五(一九三〇)年一月十一日で、通用停止日は昭和二一(一九四六)年三月二日。新円切替(昭和二一(一九四六)年二月十六日夕刻に幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた金融緊急措置令を始めとする新紙幣(新円)の発行と、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策に対する総称)の際には証紙を貼付し、臨時に新券の代わりとした「証紙貼付券」が発行されたから、本作の発表の時点でも通用していたものと思われる。以上を参照したウィキの「百円紙幣のパブリック・ドメインの画像(表・裏)を以下に掲げておく。

 

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・「はさめて呉れたんだい?」の「はさめて」はママ。後も同じ。

・「譫妄(せんもう)状態」意識混濁に加え、奇妙で脅迫的な思考や幻覚・錯覚が見られるような精神状態を指す。病的なものやそれに準じた拘禁性のもの、入院などによる抑制などによっても生じるし、寝ている人間を急に起こしたりした場合にも起こることがある。

・「西木東夫」ルビがないが、難読氏名で「にしきはるお」(五行思想の「春」は「東」である)と読んでおく。

・「五尺八寸」一メートル七十五センチメートル。梅崎春生も身長は高かった。

 本電子化は、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1160000アクセス突破記念として公開する。【2018年11月9日 藪野直史】] 

 

   百 円 紙 幣

 

 酒癖なんて言うものは、その人の身についたものでなく、ちょいとしたことで変化するものですねえ。何かの機会で酔い泣きをすると、それが癖になってしばらく泣き上戸(じょうご)になったり、それからいつの間にか怒り癖がついて怒り上戸(じょうご)になったり、そんな具合に一定のものではないようです。

 今から二十年ばかり前、僕がかけ出しのサラリーマンの頃、妙な酒癖が僕にとりついたことがあります。どんな癖かと言うと、酔って戻って来て、部屋のあちこちに紙幣や銀貨をかくすと言う癖なのです。

 どうしてこんな困った癖がついたか。

 ある夜、おでん屋でいっぱい傾けながら、連れの同僚が僕にこんなことを言いました。物を拾う話から、このような話になったんです。

「この間の大みそかは実にうれしかったねえ」

「何を拾ったんだい?」

 と僕は訊(たず)ねました。

「拾ったわけじゃないんだがね」

 同僚は眼を細めて、たのしげな声を出しました。

「日記帳の大みそかの欄をあけて見たら、そこに十円紙幣がはさまっていたのさ」

「へえ。そいつはどう言うわけだね。誰がはさめて呉れたんだい?」

「誰もおれなんかにはさめて呉れないよ。はさんだのはおれ自身らしいのだ」

「君が?」

「そうなんだよ。酔っぱらって、はさんだらしいんだ」

 この同僚も酒好きで、泥酔するたちで、僕同様まだ独身でした。

「どう言うわけではさんだか、もちろんおれは覚えてないが、大みそかになって、夜ひとり静かに日記帳を開く。すると思いもかけぬ十円紙幣が出て来る。そこでおれはあっと驚き、かつ喜ぶ。その驚きと喜びを、酔っぱらったおれが期待したらしいのだね。つまりこれは、酔っぱらいのおれから、素面(しらふ)のおれへの、暮れのプレゼントなんだろうと思うんだが、どうだね」

 なるほどねえ、僕はすっかり感服した。感服のあまりに、僕にそれと同じ酒癖がついてしまったと言うわけです。酔っぱらって戻ってから、なるほどあの話は面白かったなあ、おれもひとつやって見よう、素面(しらふ)のおれは実にしょんぼりして可哀そうだからなあ、ひとつここに五円紙幣をはさんで置いてやるか、てな具合にかくしてしまうらしい。らしいと言うのは、素面の時にはその時のことがよく思い出せないからです。

 僕も同僚に劣らぬ酒好きで、酒を味わう方でなく、ひたすら酩酊(めいてい)するたちで、しかも酩酊すると前夜の記憶をさっぱり失ってしまうたちでした。金(かね)かくしの好条件が具っていたというわけです。

 その頃僕は独身で、アパートに一部屋を借りて住んでいました。月給は八十円か八十五円、今の金に直して三万四、五千円ぐらいなものですか。アパート代は月十四、五円です。時勢とは言いながら、今のサラリーマンにくらべて、比較にならぬほど豊かでした。だから、毎日ではないが、遇に二度ぐらいはラクに飲める。飲んで紙幣をかくす余裕もあったのも当然です。

 で、その頃から、僕の部屋のあちこちから、たとえば押入れの中の夏服の胸ポケットから、風邪薬の袋の中から、硯(すずり)箱の硯の下から、ありとあらゆる突拍子もないところから、一円紙幣だの五十銭銀貨などが、ぽっかりと発見される、と言うようなことが起きて来ました。机の裏に五円紙幣が押しピンでとめてあるのを、偶然な機会に発見したこともあります。しかしたいていは小額紙幣や銀貨で、何故そういうことになるかと言えば、十円紙幣などはかくしても、翌朝眠が覚めて在り金を勘定する。いくら飲んだくれでも、おでん屋なんかで飲む分では、一晩に十円も使う筈(はず)はないのですから、ははあ、昨夜かくしやがったな、と気が付く。そしてあちこち探し廻って、しらみつぶしに探し廻って見つけてしまうということになるのです。十円紙幣を探し廻っているついでに、五十銭玉を三個も四個もおまけに発見することなどもあって、たのしいと言えばたのしいようなもんですが、とにかくそれは困った酒癖でした。

 古雑誌をクズ屋に売り払う時でも、一応全頁をめくってしらべないと、はさんだまま売ってしまうおそれがある。油断もすきもないのだから、かないません。

 月末になって、金がなくなる。いっぱいやりたい。どこかにかくれてやしないかと、部屋中を探し廻って、一枚の五十銭銀貨すら見付け出せなかった時の空しさ、侘(わび)しさ、哀しさは、これはもう言語に絶しました。そんな時には素面(しらふ)の僕は、飲んだくれの僕を、呪(のろ)う気持にすらなるのです。

「チェッ。こんな時のために、五円紙幣一枚ぐらい、かくして置いたってよさそうなもんじゃないか。一体何をしてやがんだい!」

 酔っぱらったら必ずかくすと言うんじゃなく、酔っぱらった時の気分や、持ち金の多寡、その他いろいろの条件がそろった時、初めてかくそうと言う考えを起すらしい。だから、何時でも、部屋の中のどこかに、金がかくされているわけではありません。だからこんな具合に、すっぽかされることも、度々あるのです。

 しかしこれは、別に他人に迷惑をかける悪癖じゃありませんから、特別に努力して矯正しようとも思ってなかったのですが、その酒癖のために、僕はある時大損害を受けるということになりました。以下がその話です。

 ある晩友達と一緒に飲み、れいの如く酔っぱらって、ひとりでアパートに戻って来た。ずいぶん飲んだので、翌朝は宿酔の状態で眠が覚めた。枕もとにゃ洋服やネクタイ類が、脱ぎ捨てられたまま散乱しています。僕は痛む頭をやおらもたげ、不安げに上衣を引寄せた。内ポケットから袋を引っぱり出し、逆さにしました。

「おや。おかしいぞ」

 僕はおろおろ声で呟(つぶや)き、あわててあたりを見廻しました。

「一枚足りないぞ。また昨夜かくしやがったのか」

 袋と言うのはボーナス袋で、ないと言うのは百円紙幣のことなのです。昨日二百五十余円のボーナスを貰い、百円紙幣が二枚入っていた筈なのに、今朝袋から出て来たのは、百円紙幣が一枚だけで、あとは十円や五円が数枚。昨夜ハシゴで飲んで廻ったとは言え、百円紙幣に手がつく筈は絶対になかったのです。

「まさか落したんじゃないだろうな。落したとすればたいへんだぞ」

 百円紙幣は、今の金に直すと、四万円ぐらいにでも当るでしょうか。その値打において、今の五千円紙幣の七、八枚分に引合うでしょう。いくらのんきな僕でも、さすがに顔があおくなって、眼がくらくらするような気分でしたねえ。

 早速僕は電話で会社に、病気で欠勤する旨(むね)を伝え、痛む頭を押さえながら、直ちに百円紙幣探しに取りかかりました。十円紙幣や五円紙幣なら、ボーナスの翌日のことですから、いずれどこからか出て来るだろうと、笑って放って置けるが、百円紙幣となればそうは行かない。かくしたのか落したのか、はっきりさせて置かないことには、何にも手がつきません。

 それに僕の給料は八十円そこそこなんですから、百円紙幣にお眼にかかれる機会はほとんどなく、それ故に実際以上に貴重に思われるのでした。探す手付きに熱意がこもったのも、当然と言えるでしょう。

 そしてその百円紙幣は見付かったか。

 午前中潰(つぶ)しての探索も、ついに効は奏さず、とうとうその百円紙幣は発見されなかったのです。たかが六畳の部屋で、独身者だから荷物も多くはない。午前中かければ、もう探すところはなくなってしまうのです。洗濯して行李にしまってあった足袋の中から、五十銭銀貨が二枚ころがり出ただけで、肝腎(かんじん)の百円紙幣はついにどこにも発見されませんでした。

「ああ。何たることだ!」

 僕は天井を仰いで、がっかり声を出した。

「折角二枚貰ったのに、残るはこれ一枚になってしまった」

 残る一枚を大切そうに撫でながら、僕は痛嘆しました。実際昔の百円紙幣は、今の四万円分だけあって、実にどっしりして威厳がありましたねえ。表には聖徳太子と夢殿の図。『此券引換に金貨百円相渡可申候』という文字。裏には法隆寺の全景が印刷してあります。眼をつむれば今でも、その模様や字の形が、瞼の裡にありありと浮んで来るほどです。紛失したんだから、なお一層記憶が鮮明であるのかも知れません。

 でも、百円紙幣がなくなったからって、そう何時までも大の男が、嘆き悲しんではいられない。忘れてしまうというのではないが、その嘆きも時が経つにつれ、だんだん薄れて行ったようです。

 そして二箇月ほど後、僕はこのアパートから、食事付きの下宿に引越すことになりました。アパートは食事付きでないので、月給を貰うと、ついゴシゴシと飲み過して、月末には飯代にも窮するということになり勝ちです。下宿なら金がなくなっても、飯だけは食わせて呉れますからねえ。 

 

 下宿に移ってから四箇月経って、次の賞与、つまり暮れのボーナスですな、それが出ることになりました。額は前期に毛の生えた程度です。

 その晩僕は同僚たちとあちこち飲み廻り、いい気持に酩酊、十二時過ぎに下宿に戻って参りました。どっかと机の前に坐り、ボーナス袋から紙幣を取出した。その百円紙幣を一枚つまみ上げたとたん、僕の手は僕の意志に反して、と言うより手自身が意志を持っているかのように、狐の手付きのような妙な動き方をしたのです。僕はびっくりして、自分に言いました。

「おい。どうしたんだい?」

 すると手の動きは、はたととまった。(ここらは酩酊していて、翌朝のぼんやりした記憶ですから、たいへんあやふやです)

「へんだねえ」

 ふたたび僕は僕に言いました。

「何かやりたいんじゃないか。やりたいように、やってみたらどうだい」

 何か微妙な感覚が僕の内部にひそんでいて、それがしきりに僕をうながすらしい。僕はそれを探りあてるために、

「こうして」

「こうやって」

「次にはこうやって」

 と呟(つぶや)きながら、その感じを確かめようとすると、僕は自然にそのまま立ち上り、百円紙幣を四つに折り、ふらふらと部屋の隅に歩き、自然と背伸びの姿勢となった。紙幣をつまんだ指が、鴨居(かもい)にかかりました。紙幣をその溝に押し込もうとするようです。

「なるほど」

 一種の譫妄(せんもう)状態での動作だし、どうもぼんやりしている。それから僕は机の前に戻って来て、はげしいねむ気を感じたが、必死の努力で机上の紙片に今のことを書きつけたらしいのです。素面(しらふ)の僕に知らせようとしたのか、そこらは全然はっきりしない。漠として、夢魔におそわれたようです。

 で、翌朝、宿酔の状態でぼんやりと眼が覚めました。見ると机上の紙に、字がぬたくってある。ほはあ、何か書いてあるな。何度も指でなぞって見て、やっと判読出来ました。

『カモイの中に百円札かくした』

 昨夜の動作が、その文字の意味から、漠とした形ですが、端から少しずつつながるようにして、思い出されて来ました。僕はふらふらと立ち上って、鴨居(かもい)を探ると、はたして四つ折りの百円紙幣がそこから出て来た。

「どうもおかしいぞ」

 百円紙幣をつまんで寝床に戻った時、ある荒涼たる疑念が、突然僕の胸につき上げて来ました。酔っぱらって百円紙幣をつまんだ。条件反射的に鴨居にかくした。これは一体どう言うことなのか。深層心理に埋もれていたものが、酩酊(めいてい)時に百円紙幣に触れたとたんによみがえり、それを素面の僕に知らせるために、僕にそんな動作を取らせたのではないか。

「あのアパートの部屋には、鴨居に溝があったかどうか?」

 あのアパートでの百円紙幣探しで、自分の荷物は丹念に点検したけれども、鴨居のことには注意が向かなかったことを、僕はぱっと思い出したのです。

「しまったなあ。どうすればいいか」

 溝があったとすれば、その中に百円紙幣がかくされている可能性は充分にある。しかしあの部屋には、もう他人が住んでいる。おいそれと入ってのぞいて見るわけには行かない。泥棒と間違えられる。と言って、五円や十円ならあきらめるけれど、ことは百円紙幣だ。月給を上廻る額の紙幣が、あの部屋の鴨居に、現実に眠っているかも知れぬ。現在の住人も、一々鴨居の中まで調べはしないだろうから(調べる必要はないわけだから)百円紙幣があそこに温存されている可能性はたいへん多い。僕は声には出さず、自問自答しました。お前はどうする? あきらめるか。放って置くか。お前に放って置けるか。いいか。百円だぞ。汗水出して働いた一箇月の給料より多いんだぞ。しかももともと、お前の所有物なんだぞ。誰のものでもない。お前の金なんだぞ。どうする? 

 

 とにかくその男と、いや、女である可能性もある。その人物と、どういう方法かで、近づきになる必要がある、と僕は思いました。

 アパートは下宿と違って、鍵がかかるのですから、その鍵を持った当人に近づかねば、あの部屋には入れない。

 で、僕は勤めの余暇、休日などを利用して、調査を開始しました。あの鴨居に四つ折りの百円紙幣が入っているとして、百円紙幣に脚は生えていないのだから、逃げたり消失したりするわけはない。だから、急がなくてもいいようなものの、やはり早くカタをつけた方がいい。無ければ無いでいいから、気持をはっきりさせたい。こう言う気持、お判りでしょうねえ。

 西木東夫。これがあのアパートの部屋の住人の名でした。齢は僕より三つか四つ上。勤め先は市役所の会計課です。西木がこの部屋の住人となったのは、僕が引越して三日目のことで、当分あの部星から引越すつもりはないらしい。と言うのは、アパートの管理人に訊(たず)ねてみたら、なかなか居心地の良い部屋だと、西木は満足しているとの答だったのです。満足しているとすれば、当分引越しはしないでしょう。引起しするんだったら、も一度僕があの部屋を借りてもいい、そう思ったんですがねえ。

 以下、管理人からそれとなく聞き出したことと、僕が尾行したりして調べたことをないまぜにすると、西木はたいへん几帳面(きちょうめん)な性格で、会計課なんかには打ってつけな性質で、毎日の生活も判でも押したようにきまっている。朝出て行く時間や、夜戻って来る時間も、特別の場合をのぞいて、五分と狂いがない程です。食事は外食で、アパートの近くに大野屋と言う安食堂があり、朝と夕方はそこで食事をするのです。調査の関係上、僕も西木と並んで飯を食べてみましたが、なにしろ定食が朝が十銭、昼と夕が十五銭というのですから、たいへん安い。したがって味の方はあまり上等ではありません。そして毎日の献立がほとんど変化がなく、よく毎日々々ここに通って、同じものを食っておられるなと、ちょっと感心させられる程でした。几帳面な性格だからして、西木は飯の食べ残しなんかしない。一粒残さず食べてしまう。食べ終ると、パチンと銅貨を置き、背を丸めてとっとと出て行く。西木は背が高かった。五尺八寸はあったでしょう。背が高いから、あんな猫背になるのでしょう。

 背が高いと言う点で、僕はちょっと心配でした。背が高けりや高いほど、鴨居には近くなるわけですからねえ。

 酒はどうかって?

 その点僕もよく観察したのですが、西木も酒は好きらしい。好きらしいけれども、ケチなのか、あるいは給料がすくないのか、度々は飲まないようです。二週間に一度だけ、それも土曜日だけで、勤め先の近くででも飲んで来るのか、大野屋に入って来る時刻が、二時間やそこらは遅れる。赤い顔をして入って来て、定食を注文する。定食の前に一本つけさせることもあったようです。

 西木に近づきになるためには、この土曜日を利用するのが最上だ。僕はそう考えました。洒と言うものは、見知らぬ同士をよく仲良しにさせますからね。それに僕らは、もう見知らぬ同士じゃなかった。調査の関係上、僕はよく大野屋に出入りして、飯を食ったり酒を飲んだりしていたので、向うでも僕の顔を覚え込んだようでした。話こそしたことはないが、向い合って飯を食ったこともあるのですから、顔ぐらい覚えるのは当然でしょう。

 そしてある土曜日、僕は大野屋におもむき、ちびちびと盃(さかずき)をかたむけながら、西木東夫が入って来るのを待っていました。大野屋のお銚子は、一本二十銭でした。シメサバなんかを肴に、ちびちびやっていると、のれんを肩でわけるようにして、猫背の西木が入って来ました。予期した通り、顔が赤くなっています。時刻が遅いので、他にお客は一人もいませんでした。

 僕の斜め前に腰をおろすと、西木はちらと僕の方を見ました。僕の前にはもうお銚子が四本も並んでいます。西木はそれを見て、定食を注文しようか、それとも一本つけさせようかと、ちょっと迷ったらしいのです。そこで僕はすかさず、酔っぱらい声で話しかけました。

「どうです?」

 僕は盃を突き出しました。

「一杯行きませんか」

 西木は面くらったように眼をぱちぱちさせましたが、少しは酒が入っていることとて、すぐに乗って来ました。

「そうですな。いただきますか」

 西木は席を僕の前にうつし、女中を呼んで、自分のお銚子と肴を注文しました。

「寒いですなあ。お酒でも飲まないと、やり切れないですなあ」

「そうですね。帰っても待っているのは、つめたい蒲団だけですからねえ」

 と僕は相槌(あいづち)を打ちました。

「あなたもお独りですか」

「そうですよ。アパート暮しですよ」

「そうですか。僕も以前アパートに住んでたこともあるが、アパートは下宿より寒々しいですな」

 僕は西木に酒を注いでやりました。

「どちらのアパートです?」

 西木はアパートの名を言いました。僕はわざとびっくりしたような声を出しました。

「へえ。僕もそのアパートに住んでいたことがあるんですよ」

「ほう。どの部屋ですか」

「二階の六号室です」

「ほう」

 今度は西木がびっくり声を出した。

「僕が今住んでいるのは、その部屋なんですよ」

「それはそれは」

 僕は眼を丸くして、また西木に盃をさしました。

「奇遇と言いますか。ふしぎな御縁ですなあ」

「ほんとですねえ」

 同じ部屋に住んだという因縁だけで、西木はとたんに気を許したらしいのです。いっぺんに隔てが取れて、西木は急におしゃべりになりました。もちろん僕も。

 部屋の話から管理人の話、勤め先の話から月給の話などに立ち入る頃には、僕らの卓にはもう十本ほども並んでいました。僕は作戦上、自分はあまり飲まず、もっぱら西木に飲ませるようにと心がけたので、西木もすっかり酩酊したようでした。

 そろそろ看板の時間が近づいたので、僕は手を打って女中を呼び、いち早く十円紙幣を出して、勘定を済ませてしまいました。几帳面な性格だから、西木はしきりに割勘を主張して、

「そりゃ悪いよ。僕も出すよ」

 と言い張りましたが、

「いいんだよ。お近づきのしるしだから、いいんだよ」

 と僕は無理矢理に西木を納得させました。

 それから二人は大野屋を出て、ぶらぶらとアパートの方に歩き出しました。西木は酒に強いようで、あれほど飲ませたのに、あまり足もふらついていないようです。

 アパートの前にたどりつくと、僕は帽子に手をかけて、

「では」

 と言うと、こちらの作戦通り、儀礼的にでしたが西木は僕を呼びとめました。

「ちょっと寄って、お茶でも飲んで行かないか」

「そうだねえ」

 僕は考えるふりをして、それから答えました。

「じゃ寄らせて貰うか。昔の部屋も見たいから」 

 

 靴を脱いで階段を登り、西木のあとについて部屋に入る時、僕の胸はわくわくと高鳴った。ちらと見上げると、ちゃんと鴨居に溝がついているではありませんか。

「ちょっと待ってて呉れ給え」

 西木は外套も脱がず、薬罐(やかん)を下げて廊下に出て行きました。部屋の中に水道がないので、洗面所まで汲みに行ったのです。

「今だ!」

 僕はばっと壁にへばりつき、鴨居の溝をさぐり始めました。ずうっとさぐって行くと、東北隅の溝のところで、ぐしゃっと指に触れたものがある。僕の心臓はどきりと波打ちました。

「しめた。あったぞ」

 声なき声を立てて、それをつまみ出すと、驚いたことにはそれは百円紙幣でなく、数枚の十円紙幣でした。その時入口のところから、僕の背中めがけて、つめたい声が飛んで来た。

「君はそれを取るために、今日僕に近づいて来たのか!」

 いっぺんに空気がひややかになって、緊張が部屋いっぱいに立ちこめました。僕は西木をにらみながら、指先で十円紙幣の枚数を読んだ。それは五枚ありました。

「あれをくずして、五十円使ったのは君か!」

 僕も低い声で言い返しました。

「あれは君の金ではない筈だぞ」

「しかしここはおれの部屋だぞ」

 西木はめらめらと燃えるような眼で、僕をにらみ据えた。

「おれの部屋の中で勝手なことをする権利は、君にはない。家宅侵入罪で告発するぞ」

「じゃ出て行きやいいんだろ。出て行きゃ」

 僕は五枚の十円紙幣を、そろそろと内ポケットにしまい込みました。

「そのかわり、この五十円は、僕が貰って行くぞ」

 西木は何か言い返そうとしたが、思い直したらしく、空の薬罐を持ったまま、じりじりと部屋に上って来た。二人はレスリングの選手のように油断なくにらみ合ったまま、ぐるぐると部屋を廻った。そして僕は扉のところに、西木はその反対側に位置をしめたのです。僕は声に力をこめた。

「では、帰らして貰うぞ。あばよ」

 うしろ向きのまま、僕は廊下に出た。そろそろと扉をしめました。階段の方に歩きながら、追っかけて来るかなと思ったが、西木はついに追っかけて来ませんでした。そして僕は無事に靴をはき、寒夜の巷(ちまた)に出ました。

 百円紙幣の話は、これでおしまいです。とうとう百円紙幣は取り戻せず、半額だけが僕の手に戻って来た。

 でも、あの鴨居の中の百円紙幣を、どうやって西木は見付け出したのだろう。その疑問は二十年経った今でも、僕の頭に残っています。鴨居の溝なんかのぞき込むなんてことは、なかなかない筈のもんですがね。

 偶然の機会に百円紙幣を発見、そして西木は金に困る度に少しずつ使ったのではないか、と僕は想像しています。丁度半金使い果たした時に、僕があらわれたと言うわけでしょう。ちゃんとおつりを元の鴨居に隠して置くところに、彼の几帳面さがあったわけでしょう。その几帳面のおかげで、僕は半金を取り返せたのですから、むしろ僕は感謝すべきだったのかも知れません。
 
 

1160000アクセス突破間近なれば

現在、ブログ・アクセスは1159925である。今日は父の家のリフォームほかで朝から大忙しであった。今夕もネットは開けない。明日は早朝から町内会の参加する祭りの販売担当で一日仕事となれば、夜までやはりネットは開けない。されば、フライングとなるが、記念テクストの公開にこれから取り掛かる。悪しからず。

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 かはばた

 

      か は ば た

 

かはばたで鳥もゐないし

(われわれのしよふ燕麥(オート)の種子(たね)は)

風の中からせきばらひ

おきなぐさは伴奏をつゞけ

光のなかの二人の子

 

[やぶちゃん注:これを以ってパートとしての「春と修羅」は終わっている。大正一一(一九二二)年五月十七日の作。現存稿は底本原稿のみで(大きな異同を感じないので略す)、これ以前の発表誌等も存在しない。「手入れ本」は、菊池曉輝氏所蔵本が全行文字末(二行目は「種子は」の後)に「……」を附し、宮澤家本が、「おきなぐさは伴奏をつゞけ」を「どのおきなぐさもゆれつゞけ……」と改変している。

「かはばた」「川端」と採っておく。

「しよふ」は「背負ふ」であろうか。

「燕麥(オート)」単子葉植物綱イネ目イネ科カラスムギ属エンバク Avena sativa で、同属の野生種で私たちにお馴染みの、カラスムギ Avena fatua の栽培種である。明治のごく初期に日本に移入され、東北や北海道で盛んに栽培された。粗挽き或いは圧扁した「オートミール」oatmealで知られる他、味噌やウィスキーの原料、及び肥料に用いられた。……亡き祖母がよく作ってくれたオートミール……美味しくなかったけど、今は懐かしい……。

「風の中からせきばらひ」「われわれのしよふ燕麥(オート)の種子(たね)は」の係助詞「は」は、この主格をも示すように読め、だとすれば、燕麦の乾いた種子の籾等を吸い込んで咳払いをするのは「風」とも読める。孰れにせよ、実在の「われわれ」ではあるまい。

「おきなぐさは伴奏をつゞけ」「おきなぐさ」は「おさ」で既出既注であるが、「伴奏をつゞけ」はよく判らない。次の不詳の「光のなかの二人の子」(あるネット記載では後の「小岩井農場」で「わたくしの遠いともだちよ」と賢治が呼びかける「ユリア」と「ペムペル」のような存在とあるのを見かけた)が天使のような存在の幻視とすれば(これも前の続きで、実際の子どものようには私にも読めない)、彼らが奏でる天界の楽の音(ね)を「おきなぐさ」が先取り、奏でているというのであろうか?]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 おきなぐさ

 

      お き な ぐ さ

 

風はそらを吹き

そのなごりは草をふく

おきなぐさ冠毛(くわんもう)の質直(しつぢき)

松とくるみは宙に立ち

  (どこのくるみの木にも

   いまみな金(きん)のあかごがぶらさがる)

ああ黑のしやつぽのかなしさ

おきなぐさのはなをのせれば

幾きれうかぶ光酸(くわうさん)の雲

 

[やぶちゃん注:実は底本では「金(きん)の」の「きん」のルビは「金」にではなく、その下の平仮名「の」に振られてしまっている。「正誤表」にはないが、誰が見ても判る完璧な誤植であり、これは再現すると、とんでもないことになるので、当初に決めた自身の原則に敢えて逆らって特異的に訂した。大正一一(一九二二)年五月十七日の作。現存稿は底本原稿のみで(大きな異同を感じないので略す)、これ以前の発表誌等も存在しない。

「おきなぐさ」私の好きな、キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ(翁草)属オキナグサ Pulsatilla cernua。葉や花茎など、概ね、全草が白い長い毛で覆われる。花期は四~五月で、暗赤紫色の花を花茎の先端に一つだけつけ、萼片(我々がオキナグサの花と思っているものが蕚である)の外側も白い毛で覆われる。開花後も種子が付いた白い綿毛が目立つ。和名は白く長い綿毛がある果実の集まった姿を、老人の白頭に喩えたもの。別名でネコグサとも呼ぶ。童話「おきなぐさ」の冒頭で賢治は(筑摩版全集から引くが、漢字を恣意的に正字化した。促音は底本のまま採った。空欄はママ)、

   *

 うずのしゅげを知ってゐますか。

 うずのしゅげは 植物學ではおきなぐさと呼ばれますがおきなぐさといふ名は何だかあのやさしい若い花をあらはさないやうにおもひます。

 そんならうずのしゅげとは何のことかと云はれても私にはわかったやうな亦わからないやうな氣がします。

 それはたとへば私どもの方でねこやなぎの花芽をべむべろと云ひますがそのべむべろが何のことかわかったやうなわからないやうな氣がするのと全くおなじです。とにかくべむべろといふ語のひびきの中にあの柳の花芽の銀びらうどのこゝろもち、なめらかな春のはじめの光の工合が實にはっきり出てゐるやうに、うずのしゅげといふときはあの毛莨科[やぶちゃん注:「きんぽうげか」。キンポウゲ(金鳳花)科 Ranunculaceae の別な漢字表記。]のおきなぐさの黑朱子[やぶちゃん注:「くろしゆす(くろしゅす)」。「黒繻子」とも書く。濃黒色に染めた綿サテンの生地。しなやかな風合いと美しい光沢が特徴。]の花びら、靑じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、それから六月のつやつや光る冠毛がみなはっきりと眼にうかびます。

 まっ赤なアネモネの花の從兄、きみかげそうやかたくりの花のともだち、このうずのしゅげの花をきらいなものはありません。

 ごらんなさい。この花は黑朱子ででもこしらえた變り型のコップのやうに見えますが、その黑いのはたとへば葡萄酒が黑く見えると同じです。[やぶちゃん注:以下は、後で示す引用に続く。]

   *

と記している。

「質直(しつぢき)」通常は「しつちよく(しちょく)」の読みが普通。地味で真面目なこと。「質朴」に同じい。

「金(きん)のあかご」胡桃の実の換喩。

「黑のしやつぽ」オキナグサの花は、開花の初め頃は俯いて咲き、暗赤紫色のそれは、黒ずんで見えるので、それを指しているように思われる。

「おきなぐさのはなをのせれば」これは賢治がオキナグサの花を摘んで瞼に乗せ、寝転がっているのではあるまいか? 童話「おきなぐさ」では先に続けて賢治は(同前)、

   *

この花の下を終始往ったり來たりする蟻に私はたづねます。

「おまえはうずのしゅげはすきかい、きらひかい。」

 蟻は活撥に答へます。

「大すきです。誰だってあの人をきらひなものはありません。」

「けれどもあの花はまっ黑だよ。」

「いいえ、黑く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります。」

「はてな、お前たちの眼にはそんな工合に見えるのかい。」

「いいえ、お日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだらうと思ひます。」

「さうさう。もうわかったよ。お前たちはいつでも花をすかして見るのだから。」

「そしてあの葉や莖だって立派でせう。やわらかな銀の糸が植えてあるようでせう。私たちの仲間では誰かゞ病氣にかかったときはあの糸をほんのすこうし貰って來てしずかにからだをさすってやります。」

「さうかい。それで、結局お前たちはうずのしゅげは大すきなんだらう。」

「さうです。」

「よろしい。さよなら。氣をつけておいで。」

   *

とある。賢治が花を摘むのは不適切不謹慎と言われるのであれば、ここで賢治は蟻になってオキナグサの花を通して陽を仰いでいる、とすればよかろうかい。Azaleaブログ宮沢賢治と「アザリア」の友たちの「おきなぐさ作品に関することでそのように撮影されたオキナグサの素敵な画像を見ることが出来る。必見!

「幾きれ」「幾巾」。幾片もの。

「光酸(くわうさん)」科学用語に「光酸発生」という語が存在する。サンアプロ㈱研究所高嶋祐作光酸発生剤PDF)によれば、『光酸発生剤は、光を照射されることにより酸を発生する化合物である。発生する酸は、主に二つの用途で用いられる。一つは光硬化性樹脂のカチオン重合を開始させる光カチオン重合開始剤である。光硬化性樹脂は、飲料缶用塗料、コーティング剤、3Dプリンターなどに用いられる三次元光造形用樹脂、光

硬化型接着剤、半導体や液晶用のネガ型レジストなどで実用化されている。もう一つは、半導体のフォトリソグラフィー』『に用いられる化学増幅型レジストである。ここでは、酸はアルカリ不溶性のレジストを可溶性に変える反応の触媒となる』とある(私は理解して引用しているのではない。そうした現象や薬物が存在することを示すために半可通で引用している。悪しからず)。また、小林ブログ宮澤賢治、風の世界風―1922年5月 (2)オキナグサに、

   《引用開始》

『標準化学用語辞典』(丸善 1991)によると〈光酸化〉は「光の吸収によって起こる酸化反応の総称。光を吸収した物質の酸化から光励起種が酸性物質を活性化して起こす酸化までを含む」とあり、他の辞典で光による退色等も含むとあります。賢治が何を意図して〈光酸〉という語を使ったかは不明ですが、雲が太陽光によって、化学変化を起こしたような色彩に変化していることだと思います。

   《引用終了》

とある。肯んじられる解釈である。なお、小林氏はこの前の部分で、先の「黑いしやつぽのかなしさ」を問題にされ、これを実際に、当時、賢治が被っていた帽子と採って、以下のように考察されておられる。

   《引用開始》

 ここで大きな疑問は〈黒のしやつぽ〉がなぜ〈かなし〉いのか、〈黒のしやつぽ〉とは何かです。5月14日の日付の詩「休息」に〈帽子をとつてなげつければ黒のきのこしやつぽ〉があり、時間的、位置的にも近いので、同じ帽子と見て良いと思います。これは、風景にそぐわない帽子―すなわち自分という繋がりでしょうか。

 賢治は終生帽子を愛用していたようです。よく知られているのは、ベートーヴェンを真似たという写真で着用している、ボーラーハット―山高帽―で盛装用です。これは黒色ですが〈きのこしやつぽ〉とは言えない気がします。2000年7月24日岩手日報記事によると、父政次郎氏が賢治に買い与えたものらしいという茶色のフェルト帽が見つかりましたが、これも山高帽型です。

 佐藤隆房『宮沢賢治素顔のわが友』(冨山房)に出て来る帽子は、麦わら帽子、鉋屑帽子、黒い帽子、パナマの帽子などでした。(ちなみに鉋屑帽子(かんながらぼうし)は鉋屑で編みあげた帽子で、1924年農学校の生徒たちと土質調査に行った時に着用していたとされます。現在も存在するもので、ヒノキなどで編めば心地よい香りに包まれそうです。)

 1922年当時、あるいは賢治は身だしなみを意識して黒いお洒落な帽子を着用して野原を歩き、この帽子の違和感を持ち始めたのかもしれません。〈かなしさ〉という言葉は、賢治のそんな心の動きを表現しようとしたものでしょうか。

 空の底に横たわった賢治は、その帽子とオキナグサを一つの絵として捉えて後、そのまま眼を空に向けます。ここでも手元の〈黒のしやつぽ〉から上方の〈雲〉への視線の変化があります。

   《引用終了》

とあり、確かに「休息」に続く詩篇としては、実際の帽子という読みは自然であり、同じく解釈として共感出来るものがある。但し、そうすると、この一行だけが、賢治自身の実映像と心象風景ということになり、やや詩篇全体からは浮いた(という表現が悪ければ、特異点としての)カット挿入とは、なる。いや、寧ろ、小林氏の賢治の実動作の実映像に私のオキナグサを透かして陽を見る夢想を重ねれば、それはそれでしっくりくるものと私にはなるように思われる。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 休息

 

      休   息

 

そのきらびやかな空間の

上部にはきんぽうげが咲き

 (上等の butter-cup(バツタ カツプ)ですが

  牛酪(バター)よりは硫黃と蜜とです)

下にはつめくさや芹がある

ぶりき細工のとんぼが飛び

雨はぱちぱち鳴ってゐる

 (よしきりはなく なく

  それにぐみの木だつてあるのだ)

からだを草に投げ出せば

雲には白いとこも黑いとこもあつて

みんなぎらぎら湧いてゐる

帽子をとつて投げつければ黑いきのこしやつぽ

ふんぞりかへればあたまはどての向ふに行く

あくびをすれば

そらにも惡魔がでて來てひかる

 このかれくさはやはらかだ

 もう極上のクツシヨンだ

雲はみんなむしられて

靑ぞらは巨きな網の目になった

それが底びかりする鑛物板だ

 よしきりはひつきりなしにやり

 ひでりはパチパチ降つてくる

 

[やぶちゃん注:十四行目「どての」(土手の)は底本では「どこの」となっているが、「正誤表」に「どこ」とあるので、その通りに訂した。ルビの「バツタ」「バター」の違いはママ。大正一一(一九二二)年五月十四日の作。現存稿は底本原稿のみで(大きな異同を感じないので略す)、これ以前の発表誌等も存在しない。底本原稿は、

【異同】下げの二つ目の第四連「(よしきりはなく なく」/「それにぐみの木だつてあるのだ)」の二行の本文字下げは、底本より一つ下、則ち、二行とも本文三字下げ(一行目の丸括弧の始めは三字目)となっている。

・【推敲跡】その一行目の

「よしきりはなく なく」がもとは、

 かけすはやる やる

であったのを書き換えている。

・【推敲跡】一字下げ最終連の

「よしきりはひつきりなしにやり」の「よしきり」が、前条と同じく、元は「かけす」であったものを書き換えている。

以外には異同はない。

 宮澤家「手入れ本」は、字下げ第二連「(上等の butter-cup(バツタ カツプ)ですが」/「牛酪(バター)よりは硫黃と蜜とです)」に「☓」印を附してある。なお、「それにぐみの木だつてあるのだ」の「それに」を抹消しながら、またその横に「それに」と書き直している。

「きんぽうげ」「butter-cup(バツタ カツプ)」キンポウゲ(金鳳花)目キンポウゲ科キンポウゲ属 Ranunculus。キンポウゲ科 Ranunculaceae の彼らは全世界に二千種以上いるから断定は控えるが、賢治が見ているのは、私の好きな亜高山性・高山性の、ミヤマキンポウゲ Ranunculus acris var. nipponicus ではないかと感じている。「buttercup」は「キンポウゲ(属)」(ラナキュラス)の英名。現行ではハイフンは不要。「バターの盃」。英語のスラングでは「可愛い子ちゃん」や、可憐で弱々しい対象を親しみを込めて呼ぶ際にしばしば用いられる。

「つめくさ」既出既注。マメ目マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens のこと。ヨーロッパ原産の帰化植物。

「芹」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica。私は亡き母と裏山の池の傍の湿地でよく摘み取ったのを懐かしく思い出す……。

「ぶりき細工のとんぼ」隠喩。

「よしきり」鳴き声が特徴的な(私は姿も鳴き声も好き)、鳥綱スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ(葦切)科 Acrocephalidae のヨシキリ類(鳴き声と動画は例えばYou Tube ここ(オオヨシキリ)やここ(コヨシキリ))。本邦ではヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus・ヨシキリ属コヨシキリ Acrocephalus bistrigiceps の二種が夏鳥として渡って来る。私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 剖葦鳥(よしはらすずめ)(ヨシキリ)も参照されたい。

原稿の元の「かけす」はスズメ目カラス科カケス属カケス Garrulus glandarius。私は体験上は印象のよくない鳥である(だから賢治が変えて呉れたのは嬉しい)が、ウィキの「カケスによれば、『「ジェー、ジェー」としわがれた声で鳴く。英語名の『Jay』はこの鳴き声に由来する。また他の鳥の鳴き声や物音を真似するのが巧く、林業のチェーンソーや枝打ち、木を倒す時の作業音を「ジェージェー」の間奏を入れつつ再現することもある。飼い鳥として人に慣れたものは人語の真似までする』とある。

「ぐみの木」バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のグミ類は本邦に十数種が植生するが、分布から考えると、アキグミ Elaeagnus umbellata ではないかと思う。ウィキの「グミによれば、『根にフランキア属』(真正細菌放線菌門放線菌綱フランキア目フランキア科フランキア属 Frankia)『の放線菌が共生し』、『窒素固定を行うので、海岸などのやせた土地にも育』ち、『方言名に「グイミ」がある。グイはとげのこと、ミは実のことをさし、これが縮まってグミとなったといわれる。その他に中国地方ではビービー、ブイブイ、ゴブなどとも呼ばれている』とある。なお、アキグミの実(但し、本ロケーション時期とはずれて、秋に朱から赤色の球形果をつける)は食用になるものの、タンニンを多く含むため、そのままでは強い渋みがある。但し、実にトマトの七倍から十七倍ものカロチンの一種リコピン(lycopene)を含むことでもよく知られる。

「しやつぽ」シャッポ。帽子。フランス語「chapeau」であるが、特にツバのある帽子を指す。茸狩りで見つけた者が帽子を投げて採る前に占有を主張するのはヨーロッパではごく普通のことである。精神分析医のフロイトはこれの名人であった。「キノコ」「帽子」「被せる」……彼の汎性理論の教科書みたような事実である。

「鑛物板だ」鉱物質で出来た平滑で鋭く輝く板のようだ。

「ひでり」「陽照り」。「旱」ではない。]

2018/11/08

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 習作

Syusaku1

Syusaku2


      習  作

 

キンキン光る

西班尼(すぱにあ)製です

  (つめくさ つめくさ)

こんな舶来の草地でなら

黑砂糖のやうな甘つたるい聲で唄つてもいい

と┃また鞭をもち赤い上着を着てもいい

ら┃ふくふくしてあたたかだ

よ┃野ばらが咲いてゐる 白い花

と┃秋には熟したいちごにもなり

す┃硝子のやうな實にもなる野ばらの花だ

れ┃ 立ちどまりたいが立ちどまらない

ば┃とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ

そ┃みきは黑くて黑檀(こくたん)まがひ

の┃ (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)

手┃このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると

か┃かんがへたのはすぐこの上だ

ら┃じつさい岩のやうに

こ┃船のやうに

と┃据えつけられてゐたのだから

り┃……仕方ない

は┃ほうこの麥の間に何を播いたんだ

そ┃すぎなだ

ら┃すぎなを麥の間作ですか

へ┃柘植(つげ)さんが

と┃ひやかしに云つてゐるやうな

ん┃そんな口調(くちやう)がちやんとひとり

で┃私の中に棲んでゐる

行┃和賀(わが)の混(こ)んだ松並木のときだつて

く┃さうだ

 

[やぶちゃん注:「┃」は底本では連続(改ページ部分は除く)長い横線である(本篇全画像を上に示した)。大正一一(一九二二)年五月十四日の作。現存稿は底本原稿のみで(大きな異同を感じないので略す)、これ以前の発表誌等も存在しない。

 さて、この各行の一字目を縦に読む(これだけは、横書電子化のうま味のあるところで、すんなり読めて意味も用意に採れる)と、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という七五調定型詩のようなものが現われる。さてもこれは、大正八(一九一九)年一月一日に、かの「藝術座」が松井須磨子主演で(明治一九(一八八六)年~大正八(一九一九)年:この公演中の四日後の一月五日に東京市牛込区横寺町(現在の東京都新宿区横寺町)にあった「芸術倶楽部」の道具部屋に於いて縊死自殺した。ともに劇団を立ち上げた不倫相手島村抱月(妻子がいた)は二ヶ月前の前年の十一月五日にスペイン風邪で病死しており、それが自死の引き金であった)東京有楽座で公演した、かのメリメ原作のビゼーのオペラ「カルメン」の劇中歌として、北原白秋が作詞し(但し、白秋は英訳本「カルメン」からアリア「ハバネラ」(Habanera:冒頭の歌詞から「恋は野の鳥」(L'amour est un oiseau rebelle)の題名でも呼ばれる)を意訳したもの)、中山晋平が作曲した「戀の鳥」の詩句の一部を下敷きとして組み直したものである。以下に、所持する正字正仮名の新潮文庫昭和二五(一九五〇)年刊「北原白秋詩集」より引く。

   *

 

   恋の鳥

    ――『カルメン』の唄より――

       (カルメンのうたふ小曲)

 

捕らへて見みればその手から、

小鳥は空へ飛んで行く、

泣いても泣いても泣ききれぬ、

可愛いい、可愛い戀の鳥。

 

たづねさがせばよう見みえず、

氣にもかけねばすぐ見みえて、

夜も日も知らず、氣儘鳥、

來きたり往(い)んだり、風の鳥。

 

捕(と)らよとすれば飛とんで行き、

逃げよとすれば飛びすがり

好(す)いた惚(ほ)れたと追つかける、

翼(つばさ)火の鳥、戀の鳥。

 

若しも翼を擦り寄せて、

離しやせぬぞとなつたなら、

それこそ、あぶない魔法鳥、

戀ひしおそろし、戀の鳥。

 

   *

見て戴けば、判る通り、第二連冒頭の「捕(と)らよとすれば」に、第一連の「その手から」/「小鳥は空へ飛んで行く」を接合したものである。但し、こう歌詞をいじくり、しかも、奇妙な形の本詩篇の構造を考えると、そこには、何か、誰かにしか判らない暗号とまで言わないまでも、本篇本文の意味するところを、誰かに何か匂わせるような性質が、この詩篇には潜ませてあるのではないか? という思いはしてくる。そんな思いの中でネット上を調べてみたところ、azalea氏のブログ『宮沢賢治と「アザリア」の友たち』の「八ヶ岳エスペラント館|宮澤賢治センター2月の定例研究会 とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く[作品に関すること]」に行き当たった。そこには、まさに私が推測した通りの可能性が語られていたので、少々、吃驚した。賢治がこの詩を密かに捧げたと思われる相手の候補は、かの「銀河鉄道の夜」のカンパネルラのモデルともされる同い年の盛岡高等農林学校時代(保阪の方が一年後輩。同校の文芸同人誌『アザリア』でともに詩や文章を競ったが、大正七(一九一八)年三月発行の第六号に保阪が寄稿した「社会と自分」という文章の中に、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があったことが問題視されて保阪は退学処分となった)からの親友で文芸記者から農業実践家となった保阪嘉内(ほさかかない 明治二九(一八九六)年~昭和一二(一九三七)年)であった(保阪についてはウィキの「保阪嘉内」ウィキの「宮澤賢治」を参照されると、概ね、関係が判るが、端折って言うと、宗教上の問題で、大正一〇(一九二一)年(賢治が東京へ家出した年)の七月に二人は決裂してしまい、以後は悲しいことに、書簡のやり取りも激減し、疎遠となってしまった)。azalea氏のブログには、以下のように記されてある。まず『「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という賢治の詩「習作」に書かれているものと同じ詩句が、保阪家で歌われてきた家庭歌の歌詞の一節にもなってい』たことが語られ、この白秋の詩篇が改変されてあるのは(書簡番号は後に合わせて半角とし、行空部分には「*   *   *」を附した)、

   《引用開始》

これは賢治の記憶違いでしょうか、それとも何か意味があるのでしょうか。

私は、これが大正8年に賢治と嘉内が再会したことを物語っていることの一つではないかと考えています。

ではなぜ、そう考えるのかと言えば、当時としては流行歌であった「恋の鳥」の歌詞を賢治も嘉内も同じように間違えるとは思えないからです。

しかも賢治はこの詩句をアンダーラインを引いた上に右から左に横一列に書くという、ずいぶん目立った書き方をしています。

そこには何らかの意図があると思わざるを得ません。

   *   *   *

ここで賢治の書簡を見ると、大正9年7月22日付け保阪嘉内宛の書簡166に「東京デオ目ニカゝッタコロハ」という文言があります。これは大正7年12月31日付け保阪嘉内宛の書簡102で賢治が「私は一月中旬迄は居なけばならないのでせう。/あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか」と嘉内に再会を持ちかけていることと対応するものと考えてよいのではないでしょうか。

大正8年、東京では1月1日から芸術座で松井須磨子主演の「カルメン」が上演されました(その松井須磨子は1月5日未明に自殺し、公演は中止になってしまいますが)。「恋の鳥」はその劇中歌の一つで、当時の流行歌ともなりました。

おそらく二人が大正8年に再会した時、一緒に「カルメン」を見たか(註2)、あるいは「カルメン」か「恋の鳥」について語りあった(松井はトルストイ原作の「復活」を演じていますし、嘉内は白秋の作品を好んでいたので十分あり得ることと思います)ことがあったのではないでしょうか。

その時、おそらくは嘉内が「僕なら1番と3番を一緒にして『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』とするけどな。その方が絶対にいいよ」みたいなことを言った。

賢治は「習作」を発想した時、その嘉内の言葉を思い出した。

もしかしたらその時の賢治の心の中には「恋の鳥」の旋律が流れていたのかも知れません。

さらには、その再会の時に話題となった諸々のこと(たとえば*[やぶちゃん注:伏字で中略する。ブログ主の知人の個人ハンドル名が出るため、*で伏字とした。]さんが推測されているように書簡102aにつながることなど)も思い出したかも知れません。

そして、賢治は上述のようにして「習作」にその詩句を記した。

この詩を含む『春と修羅』が嘉内の元に賢治から送られ、嘉内は「習作」を読んでニヤリと笑った・・・というのは想像しすぎですが、そんな感じで賢治を懐かしく思い出したのではないでしょうか。

(この時なにがしかの手紙も本と一緒に入っていたかも知れません)

「『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』か、懐かしいな。そういえば、そんなことがあったな。賢治さんは、覚えていてくれたんだねえ・・・」

この詩の中に、二人にしかわからない暗号のようなものが隠されているとすれば、そういうことではないかと思います。

   *   *   *

嘉内は『春と修羅』を開き「習作」を目にするたびに、賢治と東京で大正8年に再会した時のことを思い出し、やがてその詩句に自分の賢治への思いを交えて歌を作った。

それがどの時点のことかは今のところ見当がつきませんが、早ければ『春と修羅』が刊行された大正13年のこと、遅ければ嘉内が賢治の没後に花巻を訪ねたころのことのような気がします。

このようにして生まれたのが、保阪家の家庭歌(「勿忘草の歌」という題は保阪庸夫氏が2007年に付けたものです)として伝わっている歌ではないでしょうか。

   *   *   *

要は、

(1)『春と修羅』所載の「習作」に記された標記の詩句は賢治から嘉内に宛てたメッセージのようなものであり、それを汲み取った嘉内が同じ詩句を使って家庭歌を作ったのではないか

(2)そのメッセージは大正8年に賢治と嘉内が再会したことに由来するものと思われる

ということですが、いずれもまだまだ想像の域を出るものではありません。[やぶちゃん注:以下、引用が度を越すので略すが、以下の部分も非常に重要な考察を行っておられるので、リンク先を読まれんことを切に願う。]

   《引用終了》

とあるのである。推論ではあるけれども、以上は謎めいた特異敬体を持つ本篇を考える上で、極めて重要な提言であると思われる。なお、そこに出る「保阪家の家庭歌」(「勿忘草の歌」)というのは、ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の『「勿忘草」の人に示されていたので、以下に引く(「心友 宮沢賢治と保阪嘉内」からの引用とある。恣意的に漢字を正字化し、歴史的仮名遣に変更した。「保坂」はママ)。

   *

 

   勿忘草(わすれなぐさ)の歌

            ―保坂家家庭歌―

 

捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く

仕合はせ尋ね行く道の遙けき眼路に淚する

 

抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く

仕合はせ求め行く道にはぐれし友よ今何處(いづこ)

 

流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水淺葱(みづあさぎ)

波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く

 

   *

その一行目はまさしくこれだ。そこには『保阪嘉内が家族とともによく歌っていたという』ともあった。

 「手入れ本」は藤原嘉藤治所蔵本の一本(現在、所在不明のもの)で、二行目の「西班尼(すぱにあ)製です」が「西班尼(すぱにあ)製のそら」で「です」を削除、「(あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)」の「痛いもや」(「靄」であろう)を「痛い霧」と変えているだけである。この改変の少なさも本書中の今までのそれと比して特異点であり、本詩篇が何か特別な個人的思い入れがあることと関係があるようにも思われる。

「西班尼(すぱにあ)」イスパニア。スペイン王国(Reino de España)。「西班牙」が一般的であるが、こうも漢字表記する。「スペイン」は英語表記の「Spain」に基づく通称。

「つめくさ」マメ目マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節 シロツメクサ Trifolium repens のこと。ヨーロッパ原産の帰化植物。本邦に夥しく繁殖したのは、明治以降に家畜の飼料用として導入されたものが野生化して以降のことであるから、「こんな舶来の草地」という謂いはすこぶる正しい。

「鞭をもち赤い上着を着てもいい」ここまでドライヴしてくると、これは一読、「カルメン」の一場面だろうと推測出来る。生憎、私は正当なオペラの「カルメン」の舞台を見たことがない(有名どころの海外のモダン・バレエ脚色を二種見たが、私には退屈で、愛したアントニオ・ガデス舞踏団のそれだけが記憶に残っているだけ)のだが、何となくありそうな感じがした。「赤い上着」はカルメンの衣装だし、「鞭」も鳴らすとこがあったような気がした。うろ覚えでは仕方がないので、調べてみたところ、やはり、ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の『賢治は「カルメン」を見たか(本篇)』にあった。詳しくはそちら(海外の舞台リハで鞭を鳴らすシーンが動画でリンクされてある)を見られたい

「黑檀(こくたん)」ツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros に属する熱帯性常緑高木の数種に与えられている総称。インド・スリランカなどの南アジアからアフリカに広く分布する。本黒檀(セイロン・エボニー/イースト・インディアン・エボニー)Diospyros ebenum が最も知られる最高級種で、インドやスリランカを原産とする。他にインドネシア原産の縞黒檀(マカッサル・エボニー/カリマンタン・エボニー)Diospyros celebica・ラオスなどの東南アジア原産の斑入(ふいり)黒檀(ブラック・アンド・ホワイト・エボニー/ペール・ムーン・エボニー)Diospyros malabarica・ラオスやベトナムなどの東南アジア原産の青黒檀(ムン・エボニー/ブラック・アンド・ホワイト・エボニー)Diospyros mun などがある。しかし「野ばら」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora の木の幹って「黑檀まがひ」の感じかなぁ。家の亡き母が丹精した薔薇の木の幹は確かにごつごつとして黒っぽいけど。

「すぎな」シダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属スギナ Equisetum arvense。この栄養茎が「杉菜」で、胞子茎が土筆(つくし)。

「間作」「あひさく(あいさく)」とも読むが、「かんさく」でよかろう。農作物の収穫後に次の作物を作り始めるまでの余暇期間を利用して、野菜などを栽培すること。

「柘植(つげ)さん」これは木の柘植ではない。先に引いた「宮澤賢治の詩の世界」の『「勿忘草」の人に、『柘植六郎という盛岡高等農林学校の教授で、園芸などを担当していたということです(『新宮澤賢治語彙辞典』より)』とある。保阪と繋がる人物がここに出てきた。ブログ主も『賢治は、どこかの(スペイン風とも感じられる)気持ちのよいつめくさの草地を歩いているようですが、もう』四『年あまり前に卒業した盛岡高等農林学校のことを思い出して、書き込んでいるのです』と記しておられる。これはますます賢治と保阪の本詩篇での関係性が、いやさかに浮かび上がって来ざるを得ない。

「和賀(わが)」松井潤ブログ「HarutoShura習作記事に、『「和賀」は岩手県中西部の地域で、秋田県との県境の』一千『メートル級の山々が連なる和賀山塊や国内最大級のブナの巨木のある原生林などで知られる。かつては多くの鉱山があって賑わい、賢治はひんぱんに出かけている。かつては和賀軽便軌道が敷設され、軌道と道路の両側に松並木が植えられていたようだ』とある。岩手県和賀郡西和賀町の和賀岳は標高千四百三十九メートル。(グーグル・マップ・データ)。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 風景

 

      風   景

 

雲はたよりないカルボン酸

さくらは咲いて日にひかり

また風が來てくさを吹けば

截られたたらの木もふるふ

 さつきはすなつちに厩肥(きうひ)をまぶし

   (いま靑ガラスの模型の底になってゐる)

ひばりのダムダム彈(だん)がいきなりそらに飛びだせば

  風は靑い喪神をふき

  黃金の草 ゆするゆする

    雲はたよりないカルボン酸

    さくらが日に光るのはゐなか風(ふう)だ

 

[やぶちゃん注:現存稿は底本原稿のみで、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年五月十二日の作。原稿にある校正指示が完成品では生かされていないので(「手入れ本」には揷する操作が示されていないから、後に取り消したのかも知れない)、その通りにした場合を復元してみる

   *

 

      風   景

 

雲はたよりないカルボン酸

さくらは咲いて日にひかり

また風が來てくさを吹けば

截られたたらの木もふるふ

 さつきはすなつちに厩肥(きうひ)をまぶし

 ひばりのダムダム彈(だん)がいきなりそらに飛びだせば

   (いま靑ガラスの模型の底になってゐる)

  風は靑い喪神をふき

  黃金の草 ゆするゆする

    雲はたよりないカルボン酸

    さくらが日に光るのはゐなか風(ふう)だ

 

   *

宮澤家「手入れ本」の最終形(一部は私が推定で処理した)は、以下のようになっている。

   *

 

      風   景

 

雲はたよりないカルボン酸

さくらは咲いて日にひかり

また風が來てくさを吹けば

截られたたらの木もふるふ

 ……さつきはすなつちに厩肥(きうひ)をまぶし

   いまは模型のコバルトガラス――

むらさきなダムダム彈(だん)が

いきなりそらに飛びだせば

  風は靑い喪神をふき

  黃金の草 ゆするゆする

    雲はたよりないカルボン酸

    さくらが日に光るのはゐなか風(ふう)だ

 

   *

但し、最後の二行は、一度、上まで引き上げて、三行にし、

   *

……雲はたよりないカルボン酸

さくらは白く日に光る。

氣海の蛙の卵である

   *

と大きく改変しながら、後で☓印等で削除している(「光る。」の句点はママ)。また、菊池曉輝氏所蔵本では、「ひばりのダムダム彈(だん)がいきなりそらに飛びだせば」を、

   *

ひばりの黑いダムダム彈(だん)が

いきなりそらに飛びだせば

   *

と「黑い」を挿入した上で、二行に分けられてある。

「カルボン酸」(carboxylic acid)はカルボキシル基を持つ有機化合物の総称。カルボキシル酸とも呼ぶ。代表的な有機酸で、脂肪酸・アミノ酸・ヒドロキシ酸・ケト酸などもこれに含まれる。ウィキの「カルボン酸」によれば、『生物が作りだすカルボン酸、およびその塩は自然界に普遍的に見出すことができるので、物質としては有史以来』、『親しまれてきた。錬金術の時代以来、単離・命名されて来たので』、『酢酸のような慣用名を持つものが少なくない』とある。このウィキの記載から、それを「雲」の形容に「たよりないカルボン酸」とした辺りは、前の「雲の信號」の〈性的な雲〉のイメージと親和性があるようにも読める気がする。そもそもこの冒頭は見開き左ページ(二十三ページ)で四行示されているが、その右ページと左ページ三行が前の「雲の信號」の全篇提示となっているから、読者が前の詩を十分に引きずって読む可能性はすこぶる高くなるように組まれているのである。但し、ブログ宮澤賢治世界」の「二相系いろいろでは、応用化学者神代瑞希氏の「化学の視点から捉える賢治作品のおもしろさ~なぜ雲はたよりないカルボン酸のイメージなのか~」の講演の中で、『カルボン酸の説明や従来のこの部分の解釈を紹介した後、結局このイメージは、代表的なカルボン酸である酢酸から由来しているのではないかという考えを示されました。酢酸は融点が比較的高く、たとえば実験室に置いてある試薬も冬になると凍ったりすることから、「はっきりしない⇒たよりない」という印象が生まれたのではないか、「酢酸が凍ったり溶けたりする様子が高等農林の体験等から思い出されたのでは?」「雲ができたり消えたりするイメージ?」との推測です』。『また発表時のスライドでは、⑴過冷却状態にある液体の酢酸に、核となる微粒子を入れると見る見る固化して、液体と固体が共存した状態になる様子、⑵酢酸に炭酸塩を入れると二酸化炭素の泡が発生して、まるで雲が湧くように見える様子、という二種類の動画も見せて下さって、とても印象的でした』とあった。科学者宮澤賢治を支点にすれば、それもすこぶる腑に落ちる。

「たらの木」セリ目ウコギ科タラノキ属タラノキ Aralia elata

「すなつち」「砂土」。

「厩肥(きうひ)」牛・馬・豚等の家畜の排泄物と敷き藁との混合物で、有機質肥料として自給肥料の中でも重要なものとされる。

「ひばりのダムダム彈(だん)」「ダムダム彈」(dumdum bullet)はイギリスがインドで植民地反乱を鎮圧するために用いた銃弾。カルカッタ郊外のダムダム地区の兵工廠で製造したことから、十九世紀末頃からこう呼ばれた。通常の銃弾の弾頭は鉛の芯を銅又はニッケルで包んであるため、動物や人間に当ると、貫通するが、ダムダム弾は被銅の先端を取り除き、且つ、被銅を薄くしてあるため、命中すると、柔らかい鉛が潰れ、傘のように広がる盲管銃創となり、殺傷能力に大きな効果があった。残虐であるという理由から、一八九九年の「ハーグ平和会議」で国際的に戦時の使用が禁じられた(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここは、スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ亜種ヒバリ Alauda arvensis japonica が、驚くべきスピードで高く上がって行く、「揚げ雲雀」とも呼ばれる、縄張り宣言の飛翔を、強力な兵器としてのダムダム弾に擬えたのであろう。ヒバリについての博物学的なことは、最近私がものした和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)を参照されたい。

「いま靑ガラスの模型の底になってゐる」「風は靑い喪神をふき」「黃金の草 ゆするゆする」これらは賢治独特の詩語法で異界的硬質的違和感(悪く言えば、ちょっと判り難く)を確信犯で出しているが、要は、独り、農作業をし、いささか疲れた賢治が、畑の土や作物の様子、そこを吹き抜ける五月の風、収穫時を迎えた麦畑の黄金色の穂の揺らぎをカット・バックしたものであろう。「喪神」は「魂が抜けたようにぼんやりすること・放心」の意であるが、ここはそこに立っている心地よい疲労の中の賢治の、心象の投影された田園風景であると言える。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 雲の信號

 

      雲 の 信 號

 

あゝいゝな、せいせいするな

風が吹くし

農具はぴかぴか光つてゐるし

山はぼんやり

岩頸(かんけい)だって岩鐘(がんしやう)だって

みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ

  そのとき雲の信號は

  もう靑白い春の

  禁慾のそら高く掲(かか)げられてゐた

山はぼんやり

きつと四本杉には

今夜は雁もおりてくる

 

[やぶちゃん注:「岩頸(かんけい)」のルビの「かんけい」はママ(底本原稿も「かんけい」なので誤植ではない。但し、無論、「がんけい」が正しい)。現存稿は底本原稿のみで(大きな異同はないので示さない)、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年五月十日の作。宮澤家「手入れ本」は、以下のようになっている。

   *

 

      雲 の 信 號

 

あゝいゝな、せいせいするな

風が吹くし

農具はぴかぴか光つてゐるし

山は! ぼんやり

岩頸(かんけい)だって岩鐘(がんしやう)だつて

みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ

  そのとき雲の信號は

  もう靑じろい禁慾の

  春ぞら高く掲(かか)げられてゐた

山はぼんやり

きつと四本杉には

今夜は雁もおりてくる

 

   *

「雲の信號」農事の開始を告げる春の雲の到来

「岩頸」「火山岩頸」の略。火山体が浸食されて、火道(かどう:volcanic vent:マグマが地中に貫入したその通り道)を満たしていた溶岩などが塔状に露出して残った岩体。岩栓(がんせん)・突岩(とつがん)とも呼ぶ。山塊・山麓・海岸線・海中等に楯状に突き出る岩の塊りで、大きなものでは、アメリカ合衆国ワイオミング州北東部にある、スピルバーグの映画「未知との遭遇」(一九七八年日本公開)で知られるようになった「デビルス・タワー(Devils Tower)」がそれ。

「岩鐘」賢治の呼称で、前の岩頸の、なだらかな円錐(釣鐘)状の突出を指しているようである。地球物理学者で日本文藝家協会(日本文芸家協会)会員でもある島村英紀サイト地球科学者と読む宮沢賢治の「その1:楢ノ木大学士の野宿が賢治の複数の作品も引用されていて、素敵だ。そこに『賢治の研究家で、「賢治の事務所」というホームページを開設しておられる加倉井厚夫(かくらい あつお)』(同サイトからは私も既に引用させて戴いている)『さんから教えていただいたことによれば、 賢治が見ていた岩頸は、盛岡の西南西の郊外の南昌山あたりではないか、という』とある。そこにリンクされてある需要研究所サイトイーハトーヴォの「南昌山も必見。南昌山は岩手県岩手郡雫石町と紫波郡矢巾町との境にある、標高八四八メートルの山で、岩の鐘(私が画像を見た限りでは口の広い鉢)を伏せたような均整のとれた形をしている。坂上田村麻呂の時代から霊山として崇敬され、賢治も何度も訪れていた(ここはウィキの「南昌山に拠った)。(頂上は岩手県紫波郡矢巾町煙山。グーグル・マップ・データ)。

「みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」人類が生まれる以前の太古の造山運動の時代を想起し、自身の性的衝動をそこに昇華(フロイト的な意味で)しようとしている賢治がそこには、いる。

「そのとき雲の信號は/もう靑じろい禁慾の/春ぞら高く掲(かか)げられてゐた」「雲」個人ブログトポイポイねっと中路正恒 第二ブログの「≪宮沢賢治の雲≫ 芸術学コース 須田雅子の「(3)性的な雲」に、『押野武志は、性欲や性愛を煩悩とみなし、克服しようとする賢治が、「おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ、雲にだって女性はゐるよ」と藤原嘉藤治に話したというエピソードを紹介している』とあるのは、この字下げ第二連の謎めいた謂いを読み解く、強力な鍵のように思われる。雲が性欲の象徴であるとすれば、「人」類「未生以前」の「太古」の意識の中では、「雲の信號」(肉体的性的衝動)「は」「もう靑じろい禁慾の」「春ぞら」遙か「高く」手の届かないところに「掲(かか)げられて」「ゐた」と賢治は謂うのではないか? その時は、あたかも地蔵菩薩像の股間のように、男根は渦を巻いて内部に貫入して封蔵されていたのだ、とでも言えそうな気が煩悩即菩提を嘯く私には、する、のである。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 陽ざしとかれくさ

 

      陽ざしとかれくさ

 

    どこからかチーゼルが刺し

    光(くわう)パラフヰンの 蒼いもや

    わをかく、わを描く、からす

    烏の軋り……からす器械……

(これはかはりますか)

(かはります)

(これはかはりますか)

(かはります)

(これはどうですか)

(かはりません)

(そんなら、おい、ここに

 雲の棘をもつて來い。はやく)

(いゝえ かはります かはります)

    ………………………刺し

    光パラフヰンの蒼いもや

    わをかく わを描く からす

    からすの軋り……からす機關

 

[やぶちゃん注:底本のリーダ数は三行目の二箇所が孰れも八点(私が打ったのは三点リーダで六点)、「刺し」の上が四十四点(同前二十七点)、最終行のそれが八点であるが(同前六点)、その個数分を打つと、底本の前後の行との見た目のバランスをとることが難しくなるので、再現していない。リーダ数は異なるが(従ってもっと詰って黒く見える)、当該一行の長さは底本と全く同じ位置にあるようになっている。序でに言うと、の始まりや終わりの前後に次がある場合、底本では半角ほどの有意な空隙が見られるが、これも見た目がずれるので再現してはいない(この注は以降のリーダが使用される詩篇では繰り返さない。悪しからず)

 大正一一(一九二二)年四月二十三日の作。本詩篇は本底本刊行前の初出誌がある。大正一三(一九二四)年三月九日発行の『反情』第二号(反情社刊。花巻で梅野草二氏が編集していた雑誌)で、掲載は本底本の刊行の前月である。掲載されたそれを示す。「からすの機關」の「の」が入っている点を除いて変化はない。

   *

 

    陽ざしとかれくさ 宮澤賢治

 

 どこからかチーゼルが剌し[やぶちゃん注:「刺」が異体字。]

 光(くわう)パラフ井ンの 蒼いもや[やぶちゃん注:「ヰ」が漢字の「井」。]

 わをかく、わを描く、からす

 烏の軋り……からすの器械……[やぶちゃん注:「の」が入っている。]

(これはかはりますか)

(かはります)

(これはかはりますか)

(かはります)

(これはどうですか)

(かはりません)

(そんなら、おい、ここに

 雲の棘をもつて來い。はやく)

(いゝえ かはります かはります)

    ………………………剌し[やぶちゃん注:「刺」が異体字。]

 光パラフ井ンの蒼いもや[やぶちゃん注:「ヰ」が漢字の「井」。]

 わをかく わを描く からす

 からすの軋り……からすの機關[やぶちゃん注:「の」が入っている。]

 

   *

同誌の目次では標題は「陽ざしとかれ草」となっている。

 底本用原稿もあるが、リーダ数の違い等で、特に目立った異同はないので略す。「手入れ本」も有意な違いがないので、略す。

 「手入れ本」では宮澤家本が三行目冒頭の「わ」を「輪」に直した後、字下げの第一連四行全部と、字下げ最終連四行全部に斜線を附している。この第二連だけで一つの心象スケッチ(詩篇)としようという裁断は、なかなか凄いものがある。

「チーゼル」teasel(英名)。キク亜綱マツムシソウ目マツムシソウ科ナベナ(チーゼル)属オニナベナ Dipsacus sativus。異名「羅紗掻草(ラシャガキグサ)」。二年草で高さは約一・五メートル、茎に棘(とげ)がある。葉は線形で、夏、淡紫色の頭状花を穂状につけ、総苞(そうほう)は先が鉤状を呈する。乾燥した穂は硬く、織物の起毛に利用する。ヨーロッパ原産。別名「おになべな」。これM.Ohtake氏のサイト「四季の山野草」内)。

「わを描く」前の「わをかく」と差別化して「輪をえがく」と読んでおく

「光(くわう)パラフヰン」太陽光の眩しさやハレーションをパラフィンに喩えたものであろうが、賢治らしい独特の造語ではある。

「烏の軋り」「からすのきしり」。後の「器械」や「機關」はカラスのその啼き声を機械の軋り音と捉えたものであろう。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 谷

 

      

 

ひかりの澱

三角ばたけのうしろ

かれ草層の上で

わたくしの見ましたのは

顏いつぱいに赤いうち

硝子樣(やう)鋼靑のことばをつかつて

しきりに歪み合ひながら

何か相談をやつてゐた

三人の妖女たちです

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月二十日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。末尾二行を削除した跡が残る本書用原稿があるので、以下に示す(促音は全集のママ)。

   *

 

      谷

 

ひかりの澱

三角ばたけのうしろ

かれ草層の上で

わたくしの見ましたのは

顏いつぱいに赤いうち

硝子樣(やう)鋼靑のことばをつかつて

しきりに歪(ゆが)み合ひながら[やぶちゃん注:ルビは本書では生かされていない。]

何か相談をやってゐた

三人の妖女たちです

ちらちら南の紺沃度(こんようど)の地平線を見てゐましたよ

わるいでせうか

 

   *

「紺沃度(こんようど)」ここは空と地平の間合いの色を示している。「沃度」はヨード(ヨウ素)であるが、ヨードは単体の気体では紫色で、御存じの液体(但し、概ね、単体ではなく「ヨウ素液」=ヨウ素ヨウ化カリウム溶液)では褐色である。篇中の時制がよく判らぬが、谷がロケーションで、「ひかりの澱」(「澱」は「おり」或いは「よどみ」であるが、時制を考証するに際しては、そこに沈んでたまさかに積り残っている残光の「おり」の方が都合がいい。「よどみ」を否定するものではないが、「よどみ」だと、朗読の際の初発の音としてはやや締りに欠く気がする)ときて、以下の描写や幻想性から察するに、夕刻と読めるように思う。紫紺色でも紺色がかった褐色でも孰れもイメージとしては悪くないが、逢魔が時なら、前者の方が少し慄っとする素敵な切れ味がある。

 なお、宮澤家本「手入れ本」では、全面に斜線で削除意向を示し、行方不明の方の藤原嘉藤治所蔵本では、最終行を「三人の老いた妖女たちでした」と修正しつつも、やはり削除を示す全行上方の赤い弧線がある

「三角畑」固有や通称地名ではなく、定型を成さない耕地面積の非常に狭い、谷の奥に作られた貧農のちっぽけな三角形の畑であろう。もう誰も耕してはいないのかも知れない。

「顏いつぱいに赤いうち」気持ちの悪い、赤く爛れた小さな腫れ物・おできの類いであろう。妖婆の馴染みのアイテムである。

「硝子樣(やう)鋼靑」私はこれで賢治の造語した一単語と採り、「ガラスやうこうせい(ガラスようこうせい)」と読みたい(当初、「こうじや(こうじょう)」と読もうと思ったが(群青(ぐんじょう)の例がある)、だったら彼はルビを振るだろうと考え直した)。「鋼靑」とは恐らく、青鋼(あおはがね/あおこう)は別名「青紙」とも呼ばれるそれであろう(白鋼にクロムとタングステンなどを加えて熱処理特性や耐摩耗性を強化した最高級の鋼で、刀や包丁に使われる。下級のものに白鋼・黄鋼があり、これら「青紙(あおがみ)」・「白紙」・「黄紙」と呼ぶこともあるが、これは實光包丁職人ブログ」のこちらの記載を読むと、昔、金属会社で『製造した鋼を区別する時に青い紙、白い紙、黄色い紙を貼って目印にしていたからと言われ』、『色自体に意味は』ないあるから、高級な鋼を叩いた時のような、非常に高く、ガラスのような透明感のある、独特の金属的な響きを指していると考える。

「歪み合ひながら」妖女(原稿からはより効果的に醜い老婆)が如何にも怪しい顔で(老婆ならいつものそれをより皺くちゃにして)話し合っているのを、物理的に「否(ゆが)み合ひながら」(原稿)とするのは感覚的には腑に落ちる。それが素直な「相談」ではなく、喋くりが自己主張となり、相手を罵るようなニュアンスへと転ずるとならば、話し合い自体が「歪み合」うというのも、これまた、腑に落ちる連想である。而して、この妖女(老婆)たちが、逢魔が時の妖しい時刻に、何か、意味あり気に交わしている、その「相談」なるものが「歪」んだ、則ち、「正しくない」性質の謀議である、或いは、不吉なやりとしてであるとすれば、「歪」の字は、ますます、この描かれた画面に感染増殖する漢字として、特異的に機能することが判る。

「三人の妖女たち」「ひかりの澱」んだ谷の、見捨てられた「三角畑」の、そのまた後ろの昏いところの、枯草が谷の湿気に饐えているその上で(「で」だと作者がそこにいるようにも読めるが、ここはそこに彼女たちがいると私は採る)、顔に赤く膿んだ汚いできものを一杯こしらえている、硝子のような、透き通った、突き刺すような、鋼のようにキンキンとする声で話し合っている、「三人の妖女たち」、それは顔の醜さからも原稿にある通り、「老婆」である、鬼婆である、とすれば、これは誰もが、かのシェイクスピアの「マクベス」の冒頭に荒野に出現する、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」の三婆の魔女を思い出すし、賢治の目論みも、まず、そこにあると考えてよかろう。

 

 綠蔭に三人の老婆わらへりき   西東三鬼

 

三鬼の俳句を知らぬ方は、どうぞ、やぶちゃん正字化版西東三鬼句集或いはブログ・カテゴリ「西東三鬼」へ参られよ。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 有明

 

      有  明

起伏の雪は

あかるい桃の漿(しる)をそそがれ

靑ぞらにとけのこる月は

やさしく天に咽喉(のど)を鳴らし

もいちど散亂のひかりを呑む

   (波羅僧羯諦(ハラサムギヤテイ) 菩提(ボージコ) 薩婆訶(ソハカ))

 

[やぶちゃん注:「菩提(ボージコ)」のルビの「コ」は「ユ」の誤植。「正誤表」には載らない。「手入れ本」にはここの修正が四冊総てにないから、賢治は気づかなかった可能性が高い。本書用原稿が現存する。本書以前の発表誌等は存在しない。上記の誤植があるので、原稿を示す。

   *

 

      有  明

起伏の雪は

あかるい桃の漿(しる)をそそがれ

靑ぞらにとけのこる月は

やさしく天に咽喉(のど)を鳴らし

もいちど散亂のひかりを呑む

   (波羅僧羯諦(ハラサムギヤテイ) 菩提(ボージユ) 薩婆訶(ソハカ))

 

   *

最終行のそれは御存知、「般若心経」(正しくは「般若波羅蜜多心經」)のコーダに現れる真言(マントラ:元来はサンスクリット語で「文字」「言葉」を意味する語。「真言」はその漢訳。大乗仏教に於いて仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した比較的短い言葉を指す)の末尾部分。

   *

呪曰(そくせつしゆわち)「羯諦(ぎやてい)羯諦(ぎやてい)波羅羯諦(はらぎやてい)波羅僧羯諦(はらそうぎやてい)菩提薩婆訶(ぼじそわか)」般若心經(はんにやしんぎやう)

   *

ウィキソースの「摩訶般若波羅蜜多心経によれば、大谷光瑞述の「般若波羅密多心経講話」(大乗社)所収のサンスクリット文では(私の嗜好からローマン斜体で示す)、

   *

tad yathā gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā.

iti prajñā-pāramitā hṛdayaṃ samāptaṃ.

   *

だそうである。真言は訳さないのが仏者の習いとされるが、私は無神論者であるから、

   *

羯諦 羯諦 波羅羯諦(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい)

:往(ゆ)ける者よ! 往ける者よ! 彼岸(ひがん)へと往ける者よ!

波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)

:全き彼岸へと往ける者たちよ!

菩提薩婆訶(ぼじそわか)

:悟りそのものである汝らに幸いあれ!

   *

といった意とされるようである。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 春光呪咀

 

        春 光 呪 咀

 

いつたいそいつはなんのざまだ

どういふことかわかってゐるか

髮がくろくてながく

しんとくちをつぐむ

ただそれつきりのことだ

  春は草穗に呆(ぼう)け

  うつくしさは消えるぞ

    (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)

頰がうすあかく瞳の茶いろ

ただそれつきりのことだ

       (おおこのにがさ靑さつめたさ)

 

[やぶちゃん注:標題の「咀」はママ詩篇の内容からは「呪詛」であろうと思われるが、「手入れ本」の書き換え(宮澤家本が「春日呪咀」と書き換える)でも「咀」のままであり、現存する本書用原稿(「心象スケツチ 春と修羅」の通し原稿。第三葉から第四葉。本篇もこれ以前の発表誌等は存在しない)でも「咀」のままである。即ち、これは誤植ではないのである。牽強付会すると、「咀」や「咀嚼」には、「詩文などをよく読んでその意味を深く味わう」の意はあるものの、それで解釈するのにはおよそ無理がある。筑摩版全集も現行、校訂本文を強制補正して「春光呪詛」とする。私もそれが正しいと思う。さすれば、「詛」を「咀」とするのは宮澤賢治自身の思い込みの誤認なのか? にしても、「手入れ本」には他者が関わっており、それを指摘する者はいなかったものか? そうしたちょっとしたことも、言い難い雰囲気が賢治にはあったのかも知れない(それは何となく想像は出来る)。しかしやはり、多くの作家が「椽」を「緣」とする誤認慣用とはわけが違い、甚だ不審を覚える誤字ではある。大正一一(一九二二)年四月十日の作。

 ともかくも「春と修羅」には「春日呪詛」や「春光呪詛」は如何にも有効にして嵌まりまくったアイテムではある。

 が、「いつたいそいつはなんのざまだ」「どういふことかわかってゐるか」と呪詛する相手、この呪詛の中に見え隠れする女、「髪がくろくてながく」「しん」「と」「くちをつぐむ」「ただそれつきりの」女、「頰がうすあかく」て「瞳の茶いろ」い女は誰か?……それは無論、「草穗に呆(ぼう)け」「うつくしさは」季節が移りゆけば「消える」もので、「ただそれつきりのこと」になるもんだ、消え果るもん「だ」、だから結局は「ここ」の実在「は蒼ぐろくてがらんとしたも」のでしかない「んだ」、「おお」! 何というここの本質の「この」! 「にがさ」! 「靑つめたさ」だろう! と「呪」詛する対象は「春」の女神であろう……あろうが……しかし……それは同時に……宿痾にとり憑かれ、死地へと順調に向かって行かざるを得ない運命を背負った――賢治だけの美神――ミューズ――妹トシへの――のっぴきならない――切羽詰まった呪詛の乱暴さを纏った、哀訴だったのではあるまいか? 但し、諸家の中には、前の並びの「戀と病熱」から「春と修羅」から本篇への流れに、当時、賢治に好きな女性ができて、その人物に激しく恋をしていたのだと推定する向きもある。それも、まあ、よかろう。

 以下、先の原稿を示す(促音表記は筑摩書房全集校異のママ)。

   *

 

 春光呪〔→咀〕[やぶちゃん注:書き換えた字も「咀」。]

 

いったいそいつはなんのざまだ

どういふことかわかってゐるか

髮がくろくてながく

しんとくちをつぐむ

ただそれっきりのことだ

  春は草穗に呆(ぼう)け

  うつくしさは消えるぞ

     (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)[やぶちゃん注:完成品より下げが一字分多い。]

頰がうすあかく瞳の茶いろ

ただそれっきりのことだ

   (おおこのにがさ靑さつめたさ)[やぶちゃん注:最初、五字下げで書いたものを、後から、三字下げに改めている。]

 

   *

宮澤家「手入れ本」は七行目に激しい変更の後があるが、最終形を示す(変更過程は後で示す)。

   *

 

        春 日 呪 咀

 

いつたいそいつはなんのざまだ

どういふことかわかつてゐるか

髮がくろくてながく

しんとくちをつぐむ

ただそれつきりのことだ

  春は草穗に呆(ぼう)け

  あてごとはみんな消えるぞ[やぶちゃん注:傍線はママ。筑摩版の修正箇所指示は傍点「・」であるから、これは「手入れ本」自身の「あてごと」に傍線を引いてあると判断する。]

    (ここらはいったい蒼くくろくて

     ひどくがらんとしたもんだ)[やぶちゃん注:二行化している。]

頰がうすあかく瞳の茶いろ

ただそれつきりのことだ

       (このにがさ靑さつめたさ

        このにがさ靑さつめたさ)[やぶちゃん注:リフレインで二行化。]

 

   *

以上の変更過程は以下。

・標題は「光」を消して一旦、右に「日」と記すも、それを削除、再び左に「日」と書く。

・「髪がくろくてながく」は最終形では変更はないが、一度、「髪がくろくてぐん」と書き(「ん」は全集編者推定)「ん」を削除し、「ぐなり」と挿入するも、それを結局、削除している。

・「(ここらはいったい蒼くくろくて)」は最初、丸括弧内の「ここは」を「いったいここは」と書き換え、それを「こ〔こ〕[やぶちゃん注:「こ」を挿入。]らはいったい」としてある。

 藤原嘉藤治所蔵本(二種を無視して、基本的な手入れ決定版とされるもののみを示す)では、

   *

 

        春 日 呪 咀

 

いつたいそいつはなんのざまだ

どういふことかわかつてゐるか

髪がくろくてながく

しんとくちをつぐむ

ただそれつきりのことだ

  春は草穗に呆(ぼう)け

  あてごとはみんな消えるぞ

    (ほんたうはここらは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)

頰がうすあかく瞳の茶いろ

ただそれつきりのことだ

       (このにがさ靑さつめたさ

        このにがさ靑さつめたさ)

   *

である。これらの「手入れ」に出る「あてごと」は恐らく「當て事」で、「頼り・頼みにしていること・当てにしていること」の意と思われる。]

2018/11/07

毎夜の訪れ

毎夜
草食動物のするかのように
記憶を反芻をし
四象限を想起して
そこに自分の過去をドットしては
それを丁寧に数える
自身の悔恨と怨念と
あらゆる出逢いと別れを
そうして
その数に等しい自分の心音を
左耳に聴きながら
たまさかの眠りに堕ち
午前二時半までに目覚める
これが最近の
私のルーティン…………

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 春と修羅

 

         

       ( mental sketch modified )

 

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の濕地

いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模樣

(正午の管樂(くわんがく)よりもしげく

 琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた靑さ

四月の氣層のひかりの底を

唾(つばき)し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)

碎ける雲の眼路(めぢ)をかぎり

 れいらうの天の海には

  聖玻璃(せいはり)の風が行き交ひ

   ZYPRESSEN 春のいちれつ

    くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ

     その暗い脚並からは

      天山の雪の稜さへさへひかるのに

      (かげらふの波と白い偏光)

      まことのことばはうしなはれ

     雲はちぎれてそらをとぶ

    ああかがやきの四月の底を

   はぎしり燃えてゆききする

  おれはひとりの修羅なのだ

  (玉髓の雲がながれて

   どこで啼くその春の鳥)

  日輪靑くかげろへば

   修羅は樹林に交響し

    陷りくらむ天の椀から

    黑い木の群落が延び

      その枝はかなしくしげり

     すべて二重の風景を

    喪神の森の梢から

   ひらめいてとびたつからす

   (氣層いよいよすみわたり

    ひのきもしんと天に立つころ)

草地の黃金をすぎてくるもの

ことなくひとのかたちのもの

けらをまとひおれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

まばゆい氣圈の海のそこに

(かなしみは靑々ふかく)

ZYPRESSEN しづかにゆすれ

鳥はまた靑ぞらを截る

(まことのことばはここになく

 修羅のなみだはつちにふる)

 

あたらしくそらに息つけば

ほの白く肺はちぢまり

(このからだそらのみぢんにちらばれ)

いてふのこずえまたひかり

ZYPRESSEN いよいよ黑く

雲の火ばなは降りそそぐ

 

[やぶちゃん注:字下げ総てママ(実は原稿(後掲)の指定通りになっていない箇所が別な校正指示含め、存在する)。

「のばらのやぶや腐植の濕地」は底本では「のばらのやぶや腐植の溫地」であるが、「正誤表」に従い、特異的に訂した

「天山の雪の稜さへさへひかるのに」の「さへ」の一つは衍字であるこが、以下の原稿から判明する。

 大正一一(一九二二)年四月八日の作品。なお、本書後尾の「目次」の創作クレジットを示す表示は、他の詩篇のそれの丸括弧でなく、二重丸括弧のそれで『⦅一九二二、四、八⦆』(実際には漢字と読点は半角)となっている。これは本書用「目次」原稿の残存部によって、特に賢治がそうしていることが判るのであるが、これが何を意味しているのかは、よく判らないが、賢治にとってその日付がある特別な意味を持つ日付であることは、かのトシを送った「永訣の朝」「松の針」「無聲慟哭」の三篇が同じく『⦅一九二二、一一、二七⦆』となっていることからも推測できる。その意味はまた、最後の目次を電子化する際に考えたいと思っている。本書用校正指示の入った全原稿(三枚)が現存する(これ以前の発表誌等は存在しない)。但し、後掲する通り、「黑い木の群落が延び」の一行他の不審から、決定稿ではないか、或いは、見本刷の校正段階で例外的に見直して変更した箇所があるように思われる。以下に示す。校正指示その他(書き換え)は底本とした全集の校異のそれを参考にオリジナルに附した。〔 〕及び「→」は書き換えの過程を示す。【ナシ】はもともとその行或いは文字・記号が無かったことを指す(前者は行挿入かと思われる)。

   *

 

         

      (mental sketch modified

 

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の濕地

いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模樣

(正午の管樂(くわんがく)よりもしげく

 琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた靑さ

四月の氣層のひかりの底を

唾(つばき)し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)

碎ける雲の眼路(めぢ)をかぎり

れいらうの天の海には[やぶちゃん注:上部余白に橙色のクレヨンで「1下」の指示。以下、同一の字下げは、その指示のみを【 】で附す。]

聖玻璃(せいはり)の風が行き交ひ【2下】

Zypressen〔の→は→、〕春〔は→の〕いちれつ【3下】[やぶちゃん注:完成本では欧文は総て大文字で、読点も生かされていない。]

くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ【4下】

その暗い脚並からは【5下】

天山の雪の稜さへひかるのに【6下】

(〔かげらふと波と白い偏光→なみだちゆらぎつかげらふと白い偏光→かげらふの波と白い偏光〕)【7下】[やぶちゃん注:完成本では六字下げ。]

まことのことばはうしなはれ【7下】

雲はちぎれてそらをとぶ【5下】

ああかがやきの四月の底を【4下】

はぎしり燃えてゆききする【3下】

おれはひとりの修羅なのだ【2下】

(玉髓の雲がながれて【3下】[やぶちゃん注:完成本では二字下げ。但し、今までの版組から見ても、次の三字下げ指示との絡みで(この指示では次の行が一字上に出っ張ってしまう)、ここは完成品の二字下げが、結果として正しい。後の私の復元を見れば、一目瞭然。]

 どこで啼くその春の鳥)【3下】

日輪靑くかげろへば【2下】

修羅は樹林に交響し【4下】

陷りくらむ天の椀から【5下】

〔(喪神はしづみまた燃え)→(穹窿は燃え)→(その喪神の穹窿は燃え)〕[やぶちゃん注:最後に一行を全抹消。]

〔燐光→雲の〕魯木の群落〔は→が〕延び【6下】[やぶちゃん注:これだと、決定稿は「雲の魯木の群落が延び」となるが、完成本では「黑い木の群落が延び」となっている。

その枝はかなしくしげり【7下】

〔風景もうちつらぬかれ→すべて二重の風景を〕【6下】

〔【ナシ】→喪神の森の梢〔を→から〕〕【5下】

ひらめいてとびたつからす【4下】

〔【ナシ】→(〕氣層いよいよすみわたり【5下】[やぶちゃん注:完成品では四字下げ。全集校異ではこれを指摘していない。但し、前の「(玉髓の雲がながれて」のケースと全く同じで次の行との絡みで、ここは完成品の四字下げが、結果として正しい。後の私の復元を見れば、一目瞭然。]

ひのきもしんと天に立つころ)【5下】

草地の黃金をすぎてくるもの

ことなくひとのかたちのもの

けらをまとひおれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

まばゆい氣圈の海のそこに

(かなしみは靑々ふかく)

ツィプZypressen しづかにゆすれ[やぶちゃん注:完成本では欧文は総て大文字。]

鳥はまた靑ぞらを截る

(まことのことば〔【ナシ】→は〕ここになく

 修羅のなみだはつちにふる)

[やぶちゃん注:ここに元は行空けはなく、欄外に『一行あけ→』という校正指示が入る。]

あたらしくそらに息つけば

ほの白く肺はちぢまり

(このからだそらのみぢんにちらばれ)

いてふのこずえまたひかり

Zypressen いよいよ黑く[やぶちゃん注:完成本では欧文は総て大文字。]

雲の火ばなは降りそそぐ

 

   *

この原稿の指示に忠実に従った場合を復元してみる。不審な箇所の行末に《★》を附した。

   *

 

         

      (mental sketch modified

 

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の濕地

いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模樣

(正午の管樂(くわんがく)よりもしげく

 琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた靑さ

四月の氣層のひかりの底を

唾(つばき)し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)

碎ける雲の眼路(めぢ)をかぎり

 れいらうの天の海には

  聖玻璃(せいはり)の風が行き交ひ

   Zypressen、春のいちれつ《★》

    くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ

     その暗い脚並からは

      天山の雪の稜さへひかるのに

       (かげらふの波と白い偏光)

      まことのことばはうしなはれ

     雲はちぎれてそらをとぶ

    ああかがやきの四月の底を

   はぎしり燃えてゆききする

  おれはひとりの修羅なのだ

   (玉髓の雲がながれて

   どこで啼くその春の鳥)《★》

  日輪靑くかげろへば

    修羅は樹林に交響し

     陷りくらむ天の椀から

      雲の魯木の群落が延び《★》

       その枝はかなしくしげり

      すべて二重の風景を

     喪神の森の梢から

    ひらめいてとびたつからす

     (氣層いよいよすみわたり

     ひのきもしんと天に立つころ)《★》

草地の黃金をすぎてくるもの

ことなくひとのかたちのもの

けらをまとひおれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

まばゆい氣圈の海のそこに

(かなしみは靑々ふかく)

Zypressen しづかにゆすれ《★》

鳥はまた靑ぞらを截る

(まことのことばはここになく

 修羅のなみだはつちにふる)

 

あたらしくそらに息つけば

ほの白く肺はちぢまり

(このからだそらのみぢんにちらばれ)

いてふのこずえまたひかり

Zypressen いよいよ黑く《★》

雲の火ばなは降りそそぐ

 

   *

「春と修羅」いろいろな見解が識者によって出されているが、私はごく自然に、「修羅」を四季のどれに当てるかと聴かれれば、迷うことなく、「春」に当てる感性に生きているから、くだくだしく解析する理由がない。「春は修羅である。」とは、私にはごく当たり前の真命題である。

mental sketch modified概ね「修飾された心象スケッチ」と訳されているようだが、しかしどうも、この「修飾された」というのは判ったようで判らない表現ではないか? そもそもが「修飾」という語は我々には辛気臭い強制学習させられた文法用語に「修飾」のイメージが強過ぎて、ピンとこないし、何となく敬遠したくなるのだ(少なくとも私はそうだ)。例えば私は「修飾」を中身がないのに外見を飾る虚飾というニュアンスを以って意地悪く使用することが殆んどで、「修飾が上手い」と言って褒めたことも人生の中で一度だってない(「修飾の仕方がおかしい」という言い方は論文指導で盛んに使いはした)。寧ろ、「飾り直された心象スケッチ」の方が、まだしっくりくる。或いは、「正確に」或いは「美的に」或いは「真に詩的に」「修正を施した心象スケッチ」の方が私には腑に落ちる。「心象のはいいろはがね」が錬金され、怒りと憎しみによる闘争心に明け暮れ、目くるめく火炎と血と肉に彩られた、素敵に慄っとする「修羅」の熱の悪夢に魘された景観(ランドマーク)へと世界が変じてゆく……と、ここまでそう書いてきて、今、さらにネットを調べて見たところが、濱田節子氏の『宮沢賢治「春と修羅」解析』を見つけた。私はその冒頭にある、『詩は一見自由奔放なスケッチに見えるが、熟慮された構想のうえにその手段としての心理的トリックを駆使した世界観の呈示である。「二重の風景」は、風景を Landscape で考えるのでなく、a view, a sight, つまり、考え方・見識と解釈すべきだと思う』。すなわち、『「二重の考え方」である。これは単純に伏線と考えるべきものでなく、時間・空間にたいする認識、「死」という不可逆な方向性とその連鎖の相互関係のなかで未来を模索する実験なのである』。『"mental sketch modified"というのは「考え方の草案をつくるのに修正(変更)されたもの」という意味だと思う』とあるのに最も従える気がしたことを言い添えておく。

「諂曲(てんごく)」自分の気持ちを枉(ま)げて人に媚び諂(へつら)うこと。私は如何なる信仰をも持たないが、たまたまこの語の検索に「創価学会」の「修羅界」の解説ページがヒットした。強力な日蓮宗信徒であった賢治のために開いて見てみると、『修羅とは、もともとは阿修羅といい、争いを好む古代インドの神の名です』。『自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっているのが修羅界の特徴です』。『他人と自分を比べて、自分が優れて他人が劣っていると思う場合は、慢心を起こして他を軽んじます。そして、他者の方が優れていると思う場合でも、他者を尊敬する心を起こすことができません。また、本当に自分よりも強いものと出会ったときには、卑屈になって諂うものです』。『自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちています。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるのも修羅界の特徴です』。『ゆえに、大聖人は「諂曲なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは自身の本音を隠して相手に迎合していくことです。「諂」は「へつらう、あざむく」という意味で、「曲」は「道理を曲げて従う」ということです』。『修羅界は、貪瞋癡』(とん/じん/ち)『の三毒(貪り、瞋り、癡かという三つの根本的な煩悩)にふりまわされる地獄・餓鬼・畜生の三悪道と異なり、自分の意思で行動を決めている分だけ、三悪道を超えているといえます』。『しかし、根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいいます』とのたもうてあった。「諂曲なるは修羅」というのは「観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)」(正しくは「如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいめつごごのごひゃくさいにはじむかんじんのほんぞんしょう)」の略。文永一〇(一二七三)年四月に佐渡流罪中であった日蓮(当時五十二歳)が記し、下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の武士富木常忍(ときじょうにん)に与えた書)の中の一節に出る。「創価教学研究室(Tommyのブログ)」のこちらが、当該箇所の原文(但し、新字)と現代語訳が電子化されてあり、判り易い。

「おれはひとりの修羅なのだ」真の飽くなき闘争・修羅とは己(おのれ)自身との孤独な戦いをこそ、その究極のものとする。

「ゆすれ」「搖れ」。揺れ動き。揺らぎ。

「眼路(めぢ)」目で見える限りの総ての範囲。

「れいらう」「玲瓏」。(玉(ぎょく)などが透き通るように)美しく輝いていること。

ZYPRESSEN 春のいちれつ」まず原稿の読点は不要であろう。発音は「ツュプレッセン」で、ドイツ語で糸杉類(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科イトスギ属 Cupressus)を指す。英語の「Cypress」(サイプレス)のことである。ギトン氏のサイト内の「【ユーラシア】ルバイヤートと宮沢賢治(5)」が賢治の詩を丁寧に拾って、賢治が心象内に描いた「イトスギ」(サイプレス)は後に出る「ひのき」(檜:ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa)の変容であるという検証が画像をふんだんに用いて分かり易く語られてある。私の偏愛する「ルバイヤート」やゴッホやアルノルト・ベックリンの「死の島」と絡めて語られあるのもまっこと嬉しい(なお、老婆心乍ら、同性愛が苦手な方はギトン氏のホーム・ページは決して開かない方がよろしいと存ずる)。

「くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ」「光素(エーテル)」(ether)は古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、ずっと想定され続けてきた、全世界を満たすただ一種の元素或いは物質の仮名。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、地・水・火・風に加えて「エーテル」を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学ではエーテルに対し、静止する絶対空間の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられたが、十九世紀末のマイケルソン=モーリーの実験で、エーテルに対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経て、一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱するに至って、エーテルの存在は否定された(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。なお、「手入れ本」の所在不明の方の藤原嘉藤治所蔵本では、

 くろぐろと光素(エーテル)を吸へば

とする。

「天山」仮想された天空高く聳える山と採っておく。

「玉髓」「ぎよくずい(ぎょくずい)」は元は鉱物 chalcedony(カルセドニー)、石英(二酸化ケイ素(SiO2)の結晶)の非常に細かな結晶が網目状に集まって緻密に固まった鉱物の変種。美しいものは宝石として扱われる。脂肪光沢であったり、透明・半透明、白・灰・淡青・褐色等を呈する。ここはそれを雲の色として形容した(モディファイした)もの。

「陷りくらむ」「陷り」は「おちいり」、「くらむ」は「眩む」であろう。「天の椀」とは蒼穹の比喩であろう。その虚空の下に永く続く闘争の修羅場は空ろな墓穴のように突き抜けて存在し、その天界との絶望的な隔たりは眩むばかりなのである。

「黑い木の群落が延び」「手入れ本」所在不明の方の藤原嘉藤治所蔵本では、

 黑い魯木の群落が延び

と「魯」を補っている「魯木」は不詳だが、或いは、石炭紀に栄え、ペルム紀後期に絶滅したシダ植物門トクサ綱トクサ目ロボク科ロボク属†Calamites(カラミテス)類のことではないかと私は考えている。石炭とともに見出される化石としてのみ知られる木本様植物類で、現生のトクサ類(シダ植物門トクサ綱 Equisetopsida)に近縁で、高さ約八十センチメートルほどの木である(現行のトクサは草であって木本ではない)。参照したウィキの「ロボクによれば、リンボク(ヒカゲノカズラ植物門ミズニラ綱リンボク目リンボク科リンボク属†Lepidodendron)『などとともに沼沢地に群生していたと考えられる。現生の蘆(アシ)のような形をしていたため』、『蘆木(ロボク)と呼ばれている』。『幹にはタケのような「節」があり、そこに茎と細長い葉(』二十五『本ほど)が輪生し、茎の先端の胞子穂に胞子を作って繁殖した。幹には二次木部を形成した(二次篩部はなかった)が、幹や茎は現生トクサ類と同じく』、『中空であった。幹が折れたり』、『破れたりすると』、『樹脂で埋められることがあり、これは化石にもよく見られる。また地下茎を横に伸ばし、これによって無性生殖することもできた(この時代の樹木としては唯一の例)』。彼らが絶滅した同じころ、『現生のトクサ科に含まれる種が発生した』とある。漢字表記は違うが、賢治好みの空想の茂りに相応しいからである。

「喪神の森」科学者であった賢治は、同時に、古えの民俗社会を希求するシャーマンでもあった。しかし、彼の佇む森には、もはや、神は姿を消していた。消沈した独り内的な修羅に生きねばならぬ賢治は、遂に自己の心の内に沢山の精霊たちを呼び込み、「イーハトーヴの森」を創成するに至るのであった。

「ことなくひとのかたちのもの」紛れもなく、ごく普通の、人の姿をしたもの。

「けらをまとひおれを見るその農夫」「けら」は「ケラ蓑」(螻蛄蓑)。既出既注。なお、所在不明の方の藤原嘉藤治所蔵本では、

 けらをまとひいまおれを見るその農夫

とする。

「ほんたうにおれが見えるのか」実在の農夫に、この私の修羅と自然とが交響する非実在の世界に生きているはずの、この今の悲愴な私の姿が見えるのか!? 見えてしまっているのか?! と反問・驚愕しているのである。

「截る」「きる」。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 戀と病熱

 

        戀 と 病 熱

 

けふはぼくのたましひは疾み

烏(からす)さへ正視ができない

 あいつはちやうどいまごろから

 つめたい靑銅(ブロンヅ)の病室で

 透明薔薇(ばら)の火に燃される

ほんたうに、けれども妹よ

けふはぼくもあんまりひどいから

やなぎの花もとらない

 

[やぶちゃん注:「ブロンヅ」はママ。現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年三月二十日の作品。本書で初めて最愛の妹トシ(明治三一(一八九八)年十一月五日~大正一一(一九二二)年十一月二十七日:二歳歳下)がはっきりと詠まれた詩篇である。トシはこの前年大正十年の六月頃より病臥し、八月には熱が続き(この八月中旬にトシの病気の電報を受け、賢治は東京から花巻に帰っている)、九月に遂に喀血(母校であった花巻高等女学校教諭心得(英語・家事担当)を九月十二日附で退職している)した。本詩篇には「病室」とあるが、私の所持する諸本では、この時期にトシが病院に入院していた事実は見出せなかったから、この「病室」とは、自宅のそれを指すようである(翌年七月六日に病状が悪化し、母も看病疲れとなったことから、下根子桜(現在の花巻市桜町)にあった別宅(後に賢治が独りで自炊生活に入った場所でもある)に一旦、移され、十一月十九日に豊沢町の自宅に戻り、その八日後に亡くなった)。菊池曉輝氏所蔵「手入れ本」では、一行目の「たましひは」を「たましひも」とした後、全行に斜線を引く。宮澤家本では、同じく「たましひは」を「たましひも」とした後、全体を以下のように六行目を除いて、大きく改変している。

   *

 

        戀 と 病 熱

 

けふはわたしの額もくらく

烏(からす)さへ正視できない

 いもうとちやうどいまごろ

 つめたく陰氣な靑銅(ブロンヅ)いろの病室で

 透明薔薇(ばら)の火に燃されだす

ほんたうに、けれども妹よ

けふはわたしもあんまり重くひどいから

やなぎの花もとつて行かない

 

   *

なお、全集校異に、『本作品については』、『先駆的な断片が「冬のスケッチ」』(で注記した)『見られる』とある。そこで掲げられているのは以下である。筑摩版全集第六巻の「冬のスケッチ」(一七)と(三七)の分離した詩篇である(漢字を正字化した)。

   *

からす、正視にたえず、

また灰光の桐とても

見つめんとしてぬかくらむなり。

   *

あまりにも

こゝろいたみたれば

いもうとよ

やなぎの花も

けふはとらぬぞ。

   *

前の「灰光」は「くわいくわう(かいこう)」で、石灰光・灰光灯とか呼ばれた、カルシウム・ライト(calcium light)の輝きを指すのであろう。これは酸素と水素を細管から吹き出させて燃焼させて得られる無色の炎(酸水素炎)のことである。キリ(シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa)の樹皮は灰白色で、縦に浅く裂け、あたかもそれは白い火炎のように見えるからである。「ぬかくらむなり」は「額(ぬか)眩むなり」であろう。

 

「戀と病熱」奇妙なだ。恋の病いとトシの結核の熱を引っ掛けたなどという不謹慎な感覚は賢治にはあり得ない。「けふはわたしもあんまり重くひどいから」とは何だ? それが賢治の側の「熱」い「戀」の「病」いのそれであったとするなら? それなら詩篇全体が異様に腑に落ちるではないか? その相手は誰かというのは、まあ、それが判らないと詩篇が読み解けないわけではないから、ここは、やめておこう。悪しからず。賢治の相手の穿鑿が好きな人はネット上にワンサカいる。そちらでどうぞ。

「疾み」「やみ」と読んでいよう。

「あいつはちやうどいまごろから」肺結核の発熱は一般に夜になってから起こるのを常としている。

「つめたい靑銅(ブロンヅ)の病室」これは暗い部屋の比喩形容のように読まれがちだが、実景の色だと思う。後に注で全文を引く予定であるが、校本全集の年譜には、「トシの死―一一月二七日」という注があり、そこに『トシが病臥したのは、宮澤家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家で、八畳七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。あるときは雨がもって大さわぎをしたし、すきま風になやまされるので八畳の病室は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が高く小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない』とあるのである。トシの病室は何と、一年を通じて屏風を立て回し、青蚊帳を吊っていたのだ。これを「つめたい靑銅(ブロンヅ)の病室」と言わずして何と言おうか!

「透明薔薇(ばら)の火」妖しい結核の症状としての激しい熱と、その熱性譫妄症状の苦しみを示している。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 ぬすびと

 

        ぬ す び と

 

靑じろい骸骨星座のよあけがた

凍えた泥の亂(らん)反射をわたり

店さきにひとつ置かれた

提婆のかめをぬすんだもの

にはかにもその長く黑い脚をやめ

二つの耳に二つの手をあて

電線のオルゴールを聽く

 

[やぶちゃん注:現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年三月二日の作品。非常に難解な一篇で、私は正直、最初から最後まで全くお手上げである。ただ、敢えて言うなら、これは全体が明け方の「骸骨星座」(後注参照)の変容の過程を「ぬすびと」とイメージしたものであって、「凍えた泥の亂反射をわた」って行くのも、「店さきにひとつ置かれた」「提婆のかめをぬすんだもの」も、「にはかにもその長く黑い脚をやめ」るのも、「二つの耳に二つの手をあて」て「電線のオルゴールを聽く」のも、その「骸骨星座」そのものなのではないか? と私は思う。それが一方で、それを見る「ぬすびと」と自認する賢治自身の実際の行動や意識の写像でもあるのではないか? という半可通ながらも、私の読みではある。なお、全集校異に、『本作品については』、『先駆的な断片が「冬のスケッチ」』と題する賢治の創作の比較的初期に浄書され、晩年に至るまで手入れが行われた詩篇群の中に『見られる』とある。そこで掲げられているのは以下である。筑摩版全集第六巻の「冬のスケッチ」(一六)の冒頭である。

   *

にはかにも立ち止まり

二つの耳に二つの手をあて

電線のうなりを聞きすます。

   *

 

「骸骨星座」このような星座は無論、ない。賢治の異界空間の架空の星座名とも採れるが、加倉井厚夫氏のサイト「賢治の事務所」の『「ぬすびと」の創作』では、『類似した名前として「りゅうこつ(竜骨)座」という星座があ』るものの、『賢治のいた花巻はほぼ北限を超えたあたりで、まず見ることは不可能な星で』あり、『りゅうこつ座として考えても』三『月の夜明け方では時間的にも見ることは困難な星座で』あるとされ、『草下英明著「宮沢賢治と星」によると、「青じろい骸骨星座のよあけがた」とは、「明け方、薄明の空に一、二等級の輝星だけが消え残って、星座を構成している主要部分、即ち、星座の骨組みばかりが残っていると見て、星座の骸骨、つまり骸骨星座を連想したと考えられる。」とあ』ることから、加倉井は『その様子を「さそり座」 を見本に』、創作クレジットの一九二二年三月二日のそれで、シミュレートされている。私は星を見ることに冥い人間であるが、面白い。必見。「さそり座」は賢治の因縁の星座であるから、説得力が、いや増す。また、加倉井氏は最後に、『斎藤文一氏「宮澤賢治 星の図誌」』(一九八八年平凡社刊)『のなかでは、「提婆のかめをぬすんだもの」 の「かめ」を「みずがめ座α星」とし、「黒い脚」を「銀河鉄道の夜」にみられた「琴の星(こと座)の脚」として解釈され、その関連を指摘してい』るともある。天文暗愚の私にはこれだけで目くるめいてしまった。

「提婆のかめをぬすんだもの」「提婆」は「だいば」と読み、提婆達多(だいばだった 前四世紀頃)のこと。インド人で、仏伝によれば、釈尊の従兄とされる。釈尊が青年時代にヤショーダラー姫を妻として迎える際、釈迦と争って敗れ、後に釈尊が悟りを得て仏となった際には釈尊の力を妬んで、阿闍世(あじゃせ)王と結託して釈尊を亡きものにしようと企んだりし、遂には生きながら無間地獄に落ちたとされる仏敵である。なお、宮澤家「手入れ本」及び現存する藤原嘉藤治所蔵本では、

 靑磁のかめをぬすんだもの

と改変しており、菊池曉輝氏所蔵本は、「提婆」を抹消するも、語を補っていない。これから見てこの「提婆」については、賢治自身、比喩表象素材としては疑念があったようであるが、にしても「提婆のかめをぬすんだもの」で賢治が意図しようとしたイメージは不学な私にはその意味が全く判らない。日蓮宗のファンダメンタリストであった、賢治のみぞ知るという気はする。

「黑い脚」前注の加倉井氏の引用を参照されたい。これを後の「電線」から賢治の妖怪画のような電信柱と採る説を読んだが、それでは「をやめ」をが、全く続かないから私には採れない。

「電線のオルゴール」前に示した「冬のスケッチ」からも、これは風に鳴る電線の音からのイメージである。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 コバルト山地

 

         コバルト山地

 

コバルト山地(さんち)の氷霧(ひやうむ)のなかで

あやしい朝の火が燃えてゐます

毛無森(けなしのもり)のきり跡あたりの見當(けんたう)です

たしかにせいしんてきの白い火が

水よりくどしどしどしどし燃えてゐます

 

   *

現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年一月二十二日の作品。

「コバルト山地」北上平野から東を見た北上山地を表現したとされる。諸注はこれを「コバルトブルー」(強く明るい青)だとするが、そうだろうか? 少なくとも実景は「氷霧のなか」の「山地」の日の出なのである。とすれば、私は金属としてのコバルト(cobalt)の純粋なものを賢治はイメージしているように思う。則ち、切れるような鋭い銀白色(不純物を含んだそれはくすんだ灰色であるが、採らない)である。大方の御叱正を俟つ。

「毛無森(けなしのもり)のきり跡」「毛無森」は幾つかの同名の場所や同定比定地があるようだが、映像のスケールを大きく採るならば、早池峰山の西方約六キロメートルの位置にあるピーク「耳無森」(標高千四百二十七メートル)であろう((グーグル・マップ・データ))。個人サイト「ギトンの読書室によれば、「けなし」は『アイヌ語で木がたくさんという意味』であるらしく、「もり」は『狼森(おいのもり)、七つ森』「盛岡」の「もり」『などと同じく、山や丘を意味する方言古語』とある。「きり跡」はよく判らぬが、同引用元では『毛無森のてっぺんの』、『木が生えていない平らな頂上部を云っている』か、或いは『たまたま』この当時、『中腹斜面に、大きな伐採跡があったの』かも知れない、とある。または、山塊がそこで東へ有意に下り始めるから、そこを「きり」と言い、それを造山運動の「跡」と言ったものかも知れない。

「たしかにせいしんてきの白い火が」「せいしんてき」は無論、「精神的」の意。ひらがな書きにした一つの理由はクレシェンド的になだらかに増える行字数(行末曲線)を揃えることが大きな理由であろう。読みを除去して示して見る。

   *

 

         コバルト山地

 

コバルト山地の氷霧のなかで

あやしい朝の火が燃えてゐます

毛無森のきり跡あたりの見當です

たしかにせいしんてきの白い火が

水よりくどしどしどしどし燃えてゐます

 

   *

なお、全集脚注に宮澤家本「手入れ本」では、『「せいしんてき」を縦線で消し、代りの語句を挿入しようと線を引き出しているが、結局、そこに』は『何も記していない』とある。菊池曉輝氏所蔵本は、

 たしかにひどく何かせいしんてきの白い火が

とする。

「水よりくどしどしどしどし燃えてゐます」現存する藤原嘉藤治所蔵本では、

 水よりくどしどしどしどし燃えております

とする。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 カーバイト倉庫

 

      カーバイト倉庫

 

まちなみのなつかしい灯とおもつで

いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との

山峽(さんけふ)をでてきましたのに

これはカーバイト倉庫の軒

すきとほつてつめたい電燈です

  (薄明(はくめい)どきのみぞれにぬれたのだから

   卷烟草に一本火をつけるがいい)

これらなつかしさの擦過は

寒さからだけ來たのでなく

またさびしいためからだけでもない

 

[やぶちゃん注:一行目「おもつで」の濁音はママ(誤植。「手入れ本」四冊の内の三冊で濁点が消されてあり、全集校訂本文も「て」である。抹消がない藤原嘉藤治所蔵本の一本は賢治没後の全集編集のために誰かが宮澤家「手入れ本」を転写したものと推定されるので、この抹消無しを問題にするには当たらない)。「で」の誤植があるので、正しいものを以下に示す。

   *

 

      カーバイト倉庫

 

まちなみのなつかしい灯とおもつて

いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との

山峽(さんけふ)をでてきましたのに

これはカーバイト倉庫の軒

すきとほつてつめたい電燈です

  (薄明(はくめい)どきのみぞれにぬれたのだから

   卷烟草に一本火をつけるがいい)

これらなつかしさの擦過は

寒さからだけ來たのでなく

またさびしいためからだけでもない

 

   *

現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年一月十二日の作品。なお、宮澤家「手入れ本」の最終形は、

   *

 

      カーバイト倉庫

 

まちなみのなつかしい灯とおもつて

いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との

山峽(さんけふ)をでてきましたのに

これはカーバイト倉庫の軒

すきとほつてつめたい電燈です

  (みぞれにぬれたのだから

   卷烟草に一本火をつけろ)

汗といつしょに擦過する

この薄明のなまめかしさは

寒さからだけ來たのでなく

さびしさからだけ來たのでもない

 

   *

という大きな改変を指示している。

「カーバイト倉庫」「カーバイト」(carbide)は「カーバイド」とも呼び、広義には「炭化物」の総称であるが、中でも特に炭化カルシウムCaC2を指すのが一般的。純粋なものは無色の結晶であるが、通常は不純物のために灰黒色を呈する。水と反応してアセチレンを生ずる(今は無き江ノ島弁天橋のおでん屋が懐かしい……)。高温で窒素を作用させると「カルシウムシアナミド」となる。アセチレンの原料として有機化学工業に用いられ、また、石灰窒素原料として重要である。生石灰(酸化カルシウムCaO)と炭素とを電気炉の中で約摂氏二千度に熱して焼成する(ここは平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。ABAPO-OTTANTA氏のブログ「私に仏教は必要か・宮沢賢治の仏教を考える」の『詩「カーバイト倉庫」を読む』に、『「カーバイト倉庫」の場所は、賢治研究者によって賢治時代の岩手軽便鉄道(後のJR釜石線)、岩根橋(達曽部』(たつそべ)川橋梁・六連アーチ橋)『近くにあったとされてい』るとあり(ここ(グーグル・マップ・データ)知られた東南東二・七キロにある「宮守川橋梁」とは別で、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなったのは実はこちらであるとも言われている)、大木利治氏のサイト「産業技術遺産探訪」の「達曽部川橋梁」がリンクされており、そのリンク先に二十『世紀のはじめに石灰岩を原料とする「石灰窒素法」(空気中の窒素を工業的に固定する化学的方法)が発明・実用化されました。これによってカーバイトから肥料用石灰窒素やアセチレンガスを工業的に生産することが可能となりました』。『現在の宮守村岩根橋周辺では』、大正七(一九一八)年に水力発電所(岩根橋第』一『発電所)が建設され、その電力と、北上山地の豊富な石灰岩を原料とするカーバイトの生産を行う工場が操業をはじめました』。『宮沢賢治の盛岡高等農林学校農学科第二部(農芸化学)卒業(得業)論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物二対スル価値」や、羅須地人協会での』二千『枚を超す肥料設計書、東北砕石工場での技師として肥料用石灰(炭酸カルシウム)の調整や販売など、貧困に苦しむ当時の農民の救済を心から願う宮沢賢治にとって、カーバイト工場や水力発電所に関心を示していたことは、その作品から読み取ることが出来ます』。『宮沢賢治が「銀河の発電所」と呼んだ水力発電所(岩根橋第』一『発電所)は「春と修羅 第二集 五〇八 発電所」、カーバイト工場は』『(春と修羅 カーバイト』倉庫(リンク先では「工場」となっているので訂した)『)に登場します』とある。前者の「春と修羅 第二集 五〇八 発電所」(以下に見る通り、大正一四(一九二五)年四月二日のクレジットがある)を全集から、何時もの仕儀で漢字を正字化して示しておく。

   *

 五〇八

        發電所

            一九二五ヽ四ヽ二ヽ

鈍った雪をあちこち載せる

鐵やギャブロの峯の脚

二十日の月の錫のあかりを

わづかに赤い落水管と

ガラスづくりの發電室と

  ……また餘水吐の靑じろい瀧……

くろい蝸牛水車(スネールタービン)で

早くも春の雷氣を鳴らし

鞘翅發電機(ダイナモコレオプテラ)をもって

愴たる夜中のねむけをふるはせ

むら氣な十の電壓計や

もっと多情な電流計で

鉛直フズリナ配電盤に

交通地圖の模型をつくり

大トランスの六つから

三萬ボルトのけいれんを

塔の初號に連結すれば

幾列の淸冽な電燈は

靑じろい風や川をわたり

まっ黑な工場の夜の屋根から

赤い傘、火花の雲を噴きあげる

   *

促音は全集に従った。「萬」は「心象スケツチ 春と修羅」と後の「小岩井農場」で「萬」の字で使用されているのを参考に「万」を代えた。「ギャブロ」(gabbro)は深成岩の一種である斑糲岩(はんれいがん)。この詩篇、最新科学工業機器に、現生生物や古生物(例えば「コレオプテラ」は「Coleoptera」で現生の甲虫(コウチュウ)目、「フズリナ」は有孔虫で、狭義には絶滅したリザリア Rhizaria 界レタリア Retaria 門有孔虫亜門 Foraminifera Polythalamea 綱フズリナ目 Fusulinida である)をカップリングして私などにはすこぶる面白いのだが、ここで我慢して注はこれ以上はしない(いつかはしたいなぁ……)。

「蛇紋岩(サーペンタイン)」蛇紋岩(じゃもんがん:serpentinite:サーペンティナイト)は主に蛇紋石(serpentineMg3Si2O5(OH)4)からなる岩石。ウィキの「蛇紋岩等によれば、『変成岩ないし火成岩中の超塩基性岩のどちらかに分類され』、『岩石の表面に蛇のような紋様が見られることから、蛇紋岩と命名された』。二〇一六年五月には「日本地質学会」に『よって「岩手県の岩石」に選定された』。『蛇紋石』『を主要構成鉱物とする超塩基性岩でかんらん岩などが水と反応し、蛇紋岩化作用(もしくは蛇紋石化作用)を受けることで生成する。蛇紋石化作用は主に超塩基性岩類中のカンラン石で起こり、カンラン石と水から蛇紋石と磁鉄鉱が生成される反応で表される。蛇紋岩化作用の程度は岩体により様々で、作用の弱いものは原岩を構成する鉱物が多く残り、作用の強いものはそのほとんどが蛇紋石化している』。『クロム、石綿、ニッケルなど鉱物資源を内包していることが多い。このためセメントの材料や石材に使われ、鉱業開発が進められる場合もある』。また、植物に必要なマグネシウムを多く含むことから、苦土(くど:下剤などで使われる酸化マグネシウムが苦いことに由来)肥料の『原料として』も『用いられる』とある。

「  (薄明(はくめい)どきのみぞれにぬれたのだから」今は所在不明の藤原嘉藤治所蔵本の一本では、

   (日暮れのみぞれにぬれたのだから

とする。]

2018/11/06

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 丘の眩惑

 

      丘 の 眩 惑

 

ひとかけらづつきれいにひかりながら

そらから雪はしづんでくる

電(でん)しんばしらの影の藍靛(インデイゴ)や

ぎらぎらの丘の照りかへし

 

   あそこの農夫の合羽(かつぱ)のはじが

   どこかの風に鋭く截りとられて來たことは

   一千八百十年代(だい)の

   佐野喜の木版に相當する

 

野はらのはてはシベリヤの天末(まつ)

土耳古玉製(ぎよくせい)玲瓏(れいらう)のつぎ目も光り

    (お日さまは

     そらの遠くで白い火を

     どしどしお焚きなさいます)

 

笹の雪が

燃え落ちる、燃え落ちる

 

[やぶちゃん注:「まつ」は「末」一次へのルビである。最終行の読点は下部に全く空きがなく「燃え落ちる、燃え落ちる」となっているが、これは組版のせいと断じ(賢治は一行の詩句中に読点を滅多に打たないこと、その他の部分でこうした仕儀を宮澤賢治は行っていないことから)、無視した。因みに、驚いたことに、ここの部分、全集で採り挙げていないばかりか、校訂本文では、

燃え落ちる 燃え落ちる

と何の断わりも注記もなしに、字空けを施したものを掲げてある。言っておくが、今まで示した「手入れ本」にもこの部分の修正は、ない、のである。これは一体、どうしたことか?! ネット上を見ても、本詩篇はこの字空けのものが氾濫している。これは正直、ゆゆしきことであると私は思う。

 なお、本底本では「目次」が「奥附」の前、本文の最後に廻っているのであるが、そこでは、標題が「丘の眩惑」ではなく、「丘の幻惑」となっている但し、これは目次の誤植と採っておき、問題にしないこととする。

 現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年一月十三日の創作とする。

「藍靛(インデイゴ)」(英語「Indigo」)は鮮やかな藍色(青藍色)の色名。「靛」(音「テン・デン」)は植物の「藍」(被子植物門双子葉植物綱タデ目タデ科イヌタデ属アイ Persicaria tinctoria)及びそれによる「藍染め」の意で重語である。

「あそこの農夫の合羽(かつぱ)のはじが」宮澤家版「手入れ本」では、

 その旅人の合羽(かつぱ)のはじが

とする。

「どこかの風に鋭く截りとられて來たことは」同前では、

 どこかの風に鋭く截られて來たことは

とする。

「一千八百十年代(だい)の/佐野喜の木版に相當する」「一千八百十年代」は文化七(一八一〇)年から文政二(一八〇九)年まで。以下の「佐野喜の木版」というのは、江戸後期(文政から天保(一八一八年~一八四四年)頃)の草双紙・人情本・版画などの版元として知られた佐野屋喜兵衛(生没年未詳)が仕切った地本(じほん)問屋(寛文期(一六六一年~一六七三年)から江戸で始まった地本を製作販売した問屋。地本とは江戸で出版された大衆本の総称で洒落本・草双紙(赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻(ごうかん))・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などが含まれる)。江戸芝に住み、屋号は「喜鶴(きかく)堂」で「佐野喜(さのき)」と称した(以上は諸辞書等に拠る)。ウィキの「佐野屋喜兵衛によれば、喜鶴堂、佐野喜と号す。『姓は奥村』で、書肆としては、『享保』(一七一六年~一七三六年。但し、一説では宝暦(一七五一年~一七六四年)とも)『から慶応年間』(一八六五年~一八六八年)『に日本橋平松町、芝神明前三島町長兵衛店で営業してい』た。『歌川広重、歌川国芳、渓斎英泉らの錦絵などを出版している』とあり、以下に、歌川広重「江戸名所」・歌川広重「不二三十六景」・歌川広重「東都名所」(横大判・錦絵揃物・天保)・歌川広重『江戸近郊八景之内』(横大判・錦絵揃物・天保八年)・歌川国芳「駒形の朝霧」・渓斎英泉「浮世美人十二ヶ月」・渓斎英泉「今様美人競」(大判・錦絵揃物・文政中期)・二代目歌川広重 「新吉原仲の町」を掲げている。宮澤賢治は浮世絵が好きで、あぶな絵や春画の類なども所持していたようである(当時、彼から密かにそれを見せられたことがあるという当時の彼の生徒の話を聞いたことがある)。そうした総合芸術としての本邦の浮世絵の木版画の芸術的価値と、今、現に見ている、無名の農夫の合羽の端が風雨で削られ擦り切れているその経年の辛苦の事実と、その形象が、全く以って等価である、と賢治は讃嘆しているのである(なお、本叙述の具体的な絵を特定して考察した記事なども見つけなかなか面白く読んだが、そこに記されている書誌データ等にかなり不審があるので、リンクや言及はやめる)。なお、同じく宮澤家版「手入れ本」では、

 佐野喜の版に至當する

とし、菊池曉輝氏所蔵本は、

 佐野喜の版に相當する

としている。

「天末」地平線。

「土耳古玉製(ぎよくせい)玲瓏(れいらう)のつぎ目も光り」「土耳古」は「トルコ」と読み、「玲瓏」は「玉(ぎょく)などが透き通るように美しいさま・輝くさま」を指すが、どうもこの箇所は読みが難しいと思う。ここは私は、読みを分離して丸括弧で示した如く、「玉製玲瓏(ぎよくせいれいらう)」の四字熟語ではなく、前行の「野はらのはては」/「シベリヤの天末(まつ)」とやや対構造になって、「土耳古(トルコ)玉製(ぎよくせい)/玲瓏(れいらう)のつぎ目も光り」と読むのではないか? と考える(実際に朗読してみれば、その方がリズムも至って自然で難がない)。そもそもが「玉製玲瓏」では熟語として普通は成立せず、かといって「土耳古玉製玲瓏」などというながながしい非詩的な塊りは私には考えられない。意味の上からも、「土耳古玉製」は賢治がそれを表わす語を詩語として非常に愛した、トルコ石=turquoise(ターコイズ:青色から緑色の色を呈する不透明な鉱物。水酸化銅アルミニウム燐酸塩で化学式 CuAl6(PO4)4(OH)8·4H2O)であり、それ故にブレイクが入って、その「玲瓏の」と続くのだと考える。そんなことは判り切った話だ、という御仁は、あなたの所有している電子データの読みの附け方をよく確認して見るとよい。恐らく、殆どは「玉製玲瓏(ぎよくせいれいろう)」で「玉製(ぎよくせい)玲瓏(れいらう)」とはなっていないから。下手な朗読は聴きたくもなかったが、一つ我慢して試してみたが、いやいや、残念なことに一気に長虫のようにニョロリと「とるこぎょくせいれいろう」読んでいた。大方の御叱正を俟つものではある。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 日輪と太市

 

      日輪と太市

 

日は今日は小さな天の銀盤で

雪がその面(めん)を

どんどん侵しかけてゐる

吹雪(フキ)も光りだしたので

太市は毛布(けつと)の赤いズボンをはいた

 

[やぶちゃん注:現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年一月九日の創作とする。但し、筑摩書房版全集校訂本文及び現行の「春と修羅」に於いては、この詩篇は、二行目の頭の「雪」は「雲」である。以下にそのようにしたものを示す。

   *

 

      日輪と太市

 

日は今日は小さな天の銀盤で

雲がその面(めん)を

どんどん侵しかけてゐる

吹雪(フキ)も光りだしたので

太市は毛布(けつと)の赤いズボンをはいた

 

   *

これはそうされて見ると、「雪」よりも腑には落ちる。寒天の天空の今にも変ずるさまが、映像的に遙かにワイドに迫るからである。但し、「手入れ本」の菊池曉輝氏所蔵本で「雲」と訂されてあるのみで、他の三冊の「手入れ本」ではそのままである。何故、なのかは判らぬ。ここからは、宮澤賢治の初期形ではこれはやはり「雪」であった可能性を否定は出来ない(但し、次注も参照されたい)。

「太市」は「たいち」で少年の名であろう。後の大正一三(一九二四)年十二月一日に刊行される宮澤賢治の唯一の刊行童話集「注文の多い料理店」(副題「イーハトヴ童話」)に所収された「水仙月の四日」に(渡辺宏氏の「森羅情報サービス」内の「宮沢賢治作品館」にある同作を、筑摩版全集第十一巻で校合し、漢字を恣意的に正字化した。読みは一部を除いて省略した。太字は全集では傍点「・」。「カリメラ」はプリン等の上にかける、あの「キャラメル」のこと)、

   *

 雪婆(ゆきば)んごは、遠くへ出かけて居りました。

 猫のやうな耳をもち、ぼやぼやした灰いろの髪をした雪婆んごは、西の山脈の、ちぢれたぎらぎらの雲を越えて、遠くへでかけてゐたのです。

 ひとりの子供が、赤い毛布(けつと)にくるまつて、しきりにカリメラのことを考へながら、大きな象の頭のかたちをした、雪丘(ゆきをか)の裾を、せかせかうちの方へ急いで居りました。

(そら、新聞紙(しんぶんがみ)を尖つたかたちに卷いて、ふうふうと吹くと、炭(すみ)からまるで靑火が燃える。ぼくはカリメラ鍋に赤砂糖(あかさとう)を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮るんだ。)ほんたうにもう一生けん命、こどもはカリメラのことを考へながらうちの方へ急いでゐました。

 お日さまは、空のずうつと遠くのすきとほつたつめたいとこで、まばゆい白い火を、どしどしお焚たきなさいます。

 その光はまつすぐに四方に發射し、下の方に落ちて來ては、ひつそりした臺地の雪を、いちめんまばゆい雪花石膏(せつくわせきかう)の板(いた)にしました。

 二疋の雪狼(ゆきおいの)が、べろべろまつ赤な舌を吐きながら、象の頭のかたちをした、雪丘の上の方をあるいてゐました。こいつらは人の眼には見えないのですが、一ぺん風に狂ひ出すと、臺地のはずれの雪の上から、すぐぼやぼやの雪雲をふんで、空をかけまはりもするのです。

   *

とあり、このシークエンスとの映像的親和性が本篇はすこぶる高いと私には思われるから、この太市もやはり少年としてよかろうと思う。しかし、それは、この「水仙月の四日」の中では人間の少年ではない。「猫のやうな耳をもち、ぼやぼやした灰いろの髪をした」「雪婆(ゆきば)んご」という、賢治によって創出・造型された異界世界の妖怪的異人の親族である妖怪的少年「雪童子(ゆきわらす)」(この後の本文に出る)であり、上記の「二疋の雪狼(ゆきおいの)」というのは、人間の眼には見えない、その「雪童子」が使役する眷属という設定である。さすれば、私などはそこからフィード・バックして、この少年も人間の少年であるよりも、既にして「序」の謂う「因果交流電燈の」「靑い照明」に照らし出された、賢治的異界の異人としての少年であると私は読みたくなる。そうすることで、この詩篇は全く異なった、強烈な色彩を帯びた、雪を呼ばう虚空の天界のアクロバティクなショーの様相を見せるからである。而して、この「水仙月の四日」を読んでしまうと、やはり本篇の二行目の冒頭は「雪」ではなく、「雲」でありたい、と思わずにはいられなくなるのである。

「吹雪(フキ)」小学館「日本国語大辞典」の見出し「ふき【吹】」の項では、三番目に『吹雪(ふぶき)。暴風雪』とし、なんと、次にこの宮澤賢治の詩篇の二行目を使用例として示す。最後の『方言』の部分で、吹雪の意の採集地として岩手県及び同県盛岡市の他、青森県・宮城県及び同県仙台・山形県及び同県庄内地方・秋田県・福島県・新潟県・鳥取県を挙げる。

「太市は毛布(けつと)の赤いズボンをはいた」「手入れ本」の一つでは、

 太市は毛布(けつと)の赤いズボンをはいる

とするが、これは前行の「ので」を受けると、動態が起こらないので、私はだめだと思う。また、別な一本では、この行を二行に分けた上で、「急いで」を挿入し、

 太市は急いで

 毛布(けつと)の赤いズボンをはいた

としている。しかしこれも、二行に分離することによってブレイクが入ってしまい、「急いで」のスピード感が相殺されてしまうからだめだし、では一行ではどうかというと、それはそれで一行の長さがここまでの四行に比して、有意にずるずると下がってしまい、それはそれで「急いで」のそれが相殺されてしまうからだめだと私は思う。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 くらかけの雪

 

      くらかけの雪

 

たよりになるのは

くらかけつづきの雪ばかり

野はらもはやしも

ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして

すこしもあてにならないので

ほんたうにそんな酵母(かうぼ)のふうの

朧(おぼ)ろなふぶきですけれども

ほのかなのぞみを送るのは

くらかけ山の雪ばかり

   (ひとつの古風(こふう)な信仰です)

 

[やぶちゃん注:現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。「手入れ本」の一種では題名を「くらかけ山の雪」とする。「手入れ本」の別な一本では、全体に斜線をつけている。これも前の「屈折率」と同日の大正一一(一九二二)年一月六日の作とする。

「くらかけ」岩手県滝沢市にある鞍掛山。標高八百九十七メートル。岩手山の南東の裾野の低いピークで、賢治がその景観を愛した小岩井農場の北方八キロ弱に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ほんたうにそんな酵母(かうぼ)のふうの」全体抹消していない別な「手入れ本」の一本では、

 まことにそんな酵母(かうぼ)のふうの

とする。さらに別な一本では、

 まことにあんな酵母(かうぼ)のふうの

とする。

「朧(おぼ)ろなふぶきですけれども」全体抹消していない別な「手入れ本」の一本では、

 朧(おぼ)ろなふぶきではありますが

とする。

「くらかけ山の雪ばかり」同前では、

 くらかけ山の雪ばかりです

とする。但し、また別な「手入れ本」の一本では、「です」を挿入した後、また抹消しているから、賢治の意識の中では最終的には「です」は、ない、と考えてよいように思われる。

「(ひとつの古風(こふう)な信仰です)」同前では、この行を抹消している。また、もう一本の「手入れ本」では、一旦、「くらかけ山の雪ばかり」を「くらかけ山の雪ばかりです」と直した後、この行を抹消しているが、次いで、「くらかけ山の雪ばかりです」としたものを、再度、元の「くらかけ山の雪ばかり」に戻し、この行を丸括弧なし・字下げなしで再生させている。則ち、末二行を、

   *

くらかけ山の雪ばかり

ひとつの古風(こふう)な信仰です

   *

としてある。

 ここで「手入れ本」三種四本の四冊が最終的に示している形を筑摩書房版全集の校異に従って復元してみると(こうした復元は同全集でも成されていない)、まず、宮澤家所蔵本が、

   *

 

      くらかけ山の雪

 

たよりになるのは

くらかけつづきの雪ばかり

野はらもはやしも

ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして

すこしもあてにならないので

まことにあんな酵母(かうぼ)のふうの

朧(おぼ)ろなふぶきではありますが

ほのかなのぞみを送るのは

くらかけ山の雪ばかりです

 

   *

であり、菊池曉輝氏所蔵本では、

   *

 

      くらかけの雪

 

たよりになるのは

くらかけつづきの雪ばかり

野はらもはやしも

ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして

すこしもあてにならないので

ほんたうにそんな酵母(かうぼ)のふうの

朧(おぼ)ろなふぶきですけれども

ほのかなのぞみを送るのは

くらかけ山の雪ばかり

ひとつの古風(こふう)な信仰です

 

   *

藤原嘉藤治所蔵本の一本(全抹消がかけられる以前の手入れまで)では、

   *

 

      くらかけの雪

 

たよりになるのは

くらかけつづきの雪ばかり

野はらもはやしも

ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして

すこしもあてにならないので

まことにそんな酵母(かうぼ)のふうの

朧(おぼ)ろなふぶきではありますが

ほのかなのぞみを送るのは

くらかけ山の雪ばかりです

 

   *

藤原嘉藤治所蔵本の、今、一本(現在、所在不明)では、

   *

 

      くらかけの雪

 

たよりになるのは

くらかけつづきの雪ばかり

野はらもはやしも

ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして

すこしもあてにならないので

まことにあんな酵母(かうぼ)のふうの

朧(おぼ)ろなふぶきではありますが

ほのかなのぞみを送るのは

くらかけ山の雪ばかりです

 

   *

ということになり、四冊の内で最終行が生き残っているのは、一冊だけである。「手入れ本」三種の様態を見るに、賢治の最終的な意識の中では、この最終行の存否には強い迷いがあり、実は削除を望む感覚の方が強かった可能性が高いことが窺われるように思われる。

 なお、後に本篇を元にして、新たに詠みかけた(全集校異にそうある)断片と思われるものが、所謂、現行、「アメニモマケズ手帳」と全集で呼ばれる手帳の中に記されてあるので、それも推敲の後のものを掲げておく(校本全集第六巻「補遺詩篇Ⅰ」所収。幸い、漢字に正字化するものはない)。

   *

 

くらかけ山の雪

友一人なく

たゞわがほのかにうちのぞみ

かすかなのぞみを托するものは

麻を着

けらをまとひ

汗にまみれた村人たちや

全くも見知らぬ人の

その人たちに

たまゆらひらめく

 

   *

全集校異には『未完の終わったもの』とする。「けら」は「ケラ蓑」(螻蛄蓑)のことであろう。小学館「日本国語大辞典」の「けらみの【螻蛄蓑】」に『北陸から東北地方で用いられた蓑の一種。それを着たさまが虫のケラに似ているからという』とある。玉川大学教育博物館 館蔵資料(デジタルアーカイブ)の「蓑(みの)に、『蓑の名称や材料は使用目的や地方によって様々であるが、肩から背中を覆う肩蓑を東北地方では「ケラ」、北陸地方では「バンドリ」と呼ぶことが多い。材料には稲の藁や山地に自生する菅(すげ)や藤等を材料とし』た、とある。]

2018/11/05

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 屈折率

 

 
 
 
     春 と 修 羅 



      屈 折 率

 

七つ森のこつちのひとつが

水の中よりもつと明るく

そしてたいへん巨きいのに

わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ

このでこぼこの雪をふみ

向ふの縮れた亞鉛(あえん)の雲へ

陰氣な郵便脚夫(きやくふ)のやうに

  (またアラツディン、洋燈(ラムプ)とり)

急がなけばならないのか

 

[やぶちゃん注:「アラツディン」の「ィ」の促音表記はママ。現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。右ページにピッタリで組まれていて清しい。しかし、「手入れ本」の一種では、一旦、八行目「  (またアラツディン、洋燈(ラムプ)とり)」総てを縦線で抹消した上、全体に斜線をつけている。この詩が詠まれたのは、その目次の創作年月日クレジットによれば(この条件も以後は略す)、大正一一(一九二二)年一月六日である。因みに、賢治は大正一〇(一九二一)年十二月三日に稗貫郡立農学校教諭となっているから、本篇(推敲を神経症的に行う賢治の癖を考えると、これはプロトタイプというのが恐らく正しいが、以降はこの注はいれない)の執筆は教諭着任から丁度、一ヶ月後のこととなる。

「七つ森」岩手県岩手郡雫石町の岩手山南麓に広がる里山の森。賢治の幻想の「イーハトーブ」世界の一部に比定されている(現在、国名勝指定)。「生森(おおもり)」・「石倉森」・「鉢森」・「三角(みかど)森」・「見立森(みてのもり)」・「勘十郎森」・「稗糠(ひえぬか)森」の七つの独立した丘陵を名数として数える。(グーグル・マップ・データ)。

「アラツディン」不詳。諸家の諸推理は結論に至っていない。「洋燈(ラムプ)」から、かの「アラジンと魔法のランプ」の主人公のことかとするもの、宮澤賢治自身の異界的な異人としての称とするもの等、それらの解釈を読むのは相応に面白い。確かに「岩手」をアナグラムして「イーハトーブ」を生成現出させた(岩手の歴史的仮名遣「いはて」を捩った」とする説は定説化している。但し、本人はその名について何も語っておらず、異論もある)ように、アラジン=アラー・アッディーンのそれというのも、何となく腑には落ちる。

「急がなけばならないのか」違和感はないが、削除をしていない別な「手入れ本」の一本では、この最終行を、

 急がなければならないのですか

と「れ」を挿入し、しかも敬体に直している。]

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」ヴァーチャル正規表現版始動 / 序

 ブログ・カテゴリ「宮澤賢治」を創始し、宮澤賢治の詩を集めた「心象スケツチ 春と修羅」ヴァーチャル正規表現版を始動する。賢治はこれが「詩集」と呼ばれることを好まなかったので、本書を呼ぶにはこの呼称に拘ることとする。

 使用底本は所持する昭和五八(一九八三)年刊の日本近代文学館刊行・名著復刻全集編集委員会編・ほるぷ発売の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」内の、関根書店大正一三(一九二四)年四月二十日発行の初版本を用いた。

 天才的詩人宮澤賢治(明治二九(一八九六)年八月二十七日~昭和八(一九三三)年九月二十一日:結核と急性肺炎のために満三十七歳で亡くなった)は、ファンの裾野が広く、ネット上でもかなり多くの個人サイトが、個人サイトとは思われないマニアックな精緻さで電子化がなされてある。しかし、ちょっと調べて戴ければ、じきに分かる通り、実は賢治の作品を正字(私は旧字を正字とは思ってはいないが、かといって旧字という言い方も気に食わないのでかく使用している)で電子化したデータはまずみかけることがない。これは恐らく、近代文学至上、これ以上、優れた全集は望めないものの一つ(私はそれに個人的には所持する学研の「国木田独歩全集」を加えたい)と思う、筑摩書房版の原「校本 宮澤賢治全集」(昭和四八(一九七三)年~昭和五二(一九七七)年刊。私は妻の所有物として所持している)でさえも、新字採用であることが非常に大きな理由であると思う。則ち、彼は日本を代表する戦前の詩人の確かな一人でありながら、圧倒的に、新字に変換されてしまった詩篇しか現在の我々は見ることが出来なくなっているのである。但し、一つ慰みはある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画でなら、同初版(但し、外装は初版のそれではない)を視認することは出来る

 なお、加工用データとしては、私が電子データとして最も信頼し、ネットを始めたその日からずっとお世話になってきた、最も優れた個人の宮澤賢治サイトである、渡辺宏氏の「森羅情報サービス」内の「宮沢賢治作品館」にある、「心象スケッチ 春と修羅」(これは、宮澤賢治生誕百『年を記念して、国立国会図書館から発見された、「春と修羅」初版本』の『復刻出版され』ものを電子化したものとある。上記のリンク先のものであろうか。但し、漢字は新字で拗音も拗音表記されてしまっている)を使用させて戴いた。なお、渡辺氏は現在、闘病中であられ、当該サイトの更新は本年六月三十日で止まってしまった。ここに、渡辺氏が再び元気に戻って来られ、再開されんことを切に祈る。

 また、本「心象スケツチ 春と修羅」は植字・校正が杜撰で、誤りが甚だ多いことでも悪名が高いが、基本、誤植部分は「正誤表」に載るものは、読者が、それを訂して読むことが出来るので補正を行い、注を附し、その他の「正誤表」に載らぬものは(有象無象、驚くべき多数、存在する)そのままで示し、注でそれを指示することとする。校合資料としては上記筑摩書房版全集を用いた。注はストイックに附すが、初期形・推敲原稿等は、推敲が甚だしく、驚くべき膨大な量になるので、私がどうしても示したいと思うなるべく少数に留めるつもりであるあるが、宮澤賢治の詩篇の生成過程や創作後の改変願望に基づく書き込み(本書には後に示すように三種四本(冊)の宮澤賢治自身及びその指示或いはその転写による「手入れ本」が存在し、その誘惑は危険度が高いと同時に激しい依存性を持った麻薬に等しい。どうなるか、分らぬ。また、私は小学四、五年生の頃に賢治の伝記を読んで石にも魂があるという考え方に心打たれてから、相応に彼の作品を読んできた。しかし、とある理由のあって、ある時期から私は彼を敬して遠避けてきた。それでも、校本全集の後に出た「新修宮澤賢治全集」は持っていた(結婚後に妻が校本全集を持っていたので、賢治を愛していた同僚の友人教師にそれは贈った)。従って、私はそれほど賢治をディグしてはいない。彼の時に難解な表現箇所に関しては、私の繊弱で貧困な智力の及ばぬものも多く出てくるものと考えている。そういう時こそは積極的に多くある宮澤賢治の個人サイトの知見を大いに参考にさせてもらおうと思っている。

 本電子化では、底本に合わせて明朝体を用いることとし(アルファベットは私の趣味でローマン体とした)、ルビは丸括弧で後に附した。画像として示したくなる箇所は、積極的にとり込んで示すこととし(例えば以下に示す「序」は画像でもとり込んで、本初版の組版を視認出来るように掲げた)、ヴァーチャルにも味わえるようにした。なお、初版であることを示すためと、一部の誤植の存在を事前に示すために、フライングして奥附(画像でも掲げた)及びその裏にある「正誤表」(画像のみ)を、この電子化の冒頭に特異的に挿入して示しておいた。字のポイントや字間はなるべく底本に類似するようには努めたが、必ずしも再現はしていない。【2018年11月5日始動 藪野直史】]

 

Hakohyousi

 

修羅

   心象スケツチ

 

    宮沢賢治

 

[やぶちゃん注:箱表紙。]

 

 

Hakose

 

 春と修羅   宮沢賢治

 

[やぶちゃん注:箱の背。「と」はご覧の通り、有意にポイントが小さい。箱の裏は何もない(表紙・背の貼紙の周囲と同じ薄暗い黄土色に淡い縦縞の用紙)ので省略した。]

 

Hontai

 

詩集 春と修羅  宮澤賢治作

 

20181213101623


[やぶちゃん注:本体の表紙・背・裏表紙の全景。背を電子化した。「詩集」は右からの横書。なお、本体の天(あたま)部分は藍色に染められているが、装本の関係上、取り込みが難しいので諦めた【2018年12月13日追記:携帯で撮影したものを上に掲げた。】。ただ、後に示す「序」本文を拡大すると、上部にその色の染み出しを確認出来るので、見られたい
周囲の白い部分は私がとり込む際に上敷きとした紙の色で、本体とは無縁である。本底本の解説書の中村稔氏の「作品解説」及びウィキの「春と修羅」によれば、この背文字を書いたのは歌人で国文学者の尾山篤二郎(とくじろう 明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)で、『これは賢治の親戚である関徳弥の歌の師であるという縁からだった』(ウィキ)とある。冒頭注で述べたように、賢治はこの作品を「詩集」と呼ばれることを嫌ったにも拘らず、ここに「詩集」とあるのは、『これは題字を頼んだ歌人尾山篤二郎が書い』てしまった『ものを、尾山に遠慮してそのまま印刷したもので、堀尾青史』(せいし)の「年譜 宮澤賢治伝」(一九九一年中央公論社刊)に『よると、賢治はこの本ができあがると、自分で』この背にある「詩集」の『文字をブロンズの粉をぬって消した、という。自分で書いているものを』、『詩ではない、心象スケッチ、つまりは、心にあらわれるさまざまの事象をスケッチしたものにすぎない、と宮沢賢治が考えていたことは、友人たちへの書簡などから窺われるが、一面ではこれは賢治の謙遜にちがいない。同時にその反面、じぶんが書いているものはそれまで詩として知られていた文学の表現形式にあてはまらないものと彼が考えていたこと、いいかえれば、彼の作品に対する自負心のあらわれと、みられないわけでもない』(中村稔氏)とある。また、この『天・地・小口を含む寒冷紗風』(寒冷紗(かんれいしゃ)は荒く平織に織り込んだ布で、織り糸には主に麻や綿などが用いられ、実際、製本では本の表紙や背を補強するために用いられることが多い)『荒目麻布』の『墨・藍の二色木版刷』の『薊か蒲公英』(たんぽぽ)『の図柄』(上記解説書の編集部の「復刻製作の概要」の本書の解説より引用)を描いた装幀は染色工芸家として知られた広川松五郎(明治二二(一八八九)年~昭和二七(一九五二)年:新潟県出身。大正一四(一九〇三)年の「パリ万国装飾美術工芸博覧会」で銀賞。翌年には工芸団体『无型(むけい)』を創立して同人となった。昭和四(一九二九)年の帝展で特選、後に審査員を勤め、昭和十年には母校である東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。昭和二五(一九五〇)年には染色研究団体『示風会』を創立している。友禅染・蠟染めを得意とした)である。]

 

 

 

Okuduke

 

大正十三年三月廿五日印刷

              定價 貮圓四拾錢

大正十三年四月二十日發行

 

 春     著 者     宮 澤 賢 治

 と   著  東京市京橋區南鞘町十七番地

 羅 印  書 發行者     關 根 喜太郎

 修   檢  岩手縣花卷川口町百九番地

 奥   印 印刷者     吉 田 忠太郎

 付

    東京京橋區南鞘町十七番地

發行所              關

    
振替口座東京 五五七九番

[やぶちゃん注:奥附。電子化では検印の周囲を囲むギザギザの円形や飾り罫は省略した。は「宮沢」である。]

 

Seigohyou

 

[やぶちゃん注:奥附(左ページ)の裏に印刷されてある(則ち、本体と一体)正誤表。使用活字や傍点など、電子化すると、ごちゃごちゃするだけなので画像のみで示した。全部で二十箇所が掲げられているが、実際には誤植はもっと激しくあり(各篇冒頭で逐一指摘する)、しかも、この「正誤表」自体に複数の誤りがある(これは出版物として致命的である)。それはまず、(1)上段の七項目目で、頁が「四七」とあるが、これは「七四」の誤記(原稿により、賢治の誤記載であることが判る)である。次に、(2)下段の五項目目「一八四」で、行が「一一」と活字されているが、これは「二」の誤植である(挿入補正した二番目の「だ」の傍点「ヽ」も落ちている)。次の、(3)「二三七」の英文であるが、修正されべき「正」の綴りが「suqer」とあるべきところなのに、「suger」と誤植(原稿は正しく「super」)となってしまっている――★序でに言っておくと、校本全集版の『〔初版正誤表〕』の「異同」のこの部分の編者注は誤植を指摘しながら、そこで誤った綴りを『super』と〈誤っている〉ことを発見してしまった!――恐るべし! 賢治はその死後四十年後に刊行された(賢治は昭和八(一九三三)年九月二十一日に亡くなり、校本全集の校合参照している第二巻は昭和四八(一九七三)年七月刊である)栄えある豪華な全集にあってさえも〈誤植の修羅〉に生きていたのであった!★――さて、この内、(1)(2)は本書を買った読者が注意深く読めば、誤植を見出せる。従って、特異的に以下ではこれらを補正して本文を示し、冒頭注でそれを示す。修正されべき「誤」の綴りが「suqer」とあるべきところなのに、「suger」と誤植(原稿は正しく「suqer」)となってしまっている。この内、(1)(2)は本書を買った読者が注意深く読めば、誤植を見出せる。従って、特異的に以下ではこれらを補正して本文を示し、冒頭注でそれを示す。(3)に就いても、読者は戸惑うものの、「正誤表がまた間違ってら!」と微苦笑を浮かべつつも、正しい「superficial」という語への訂正と気づけるから、これも本文を訂し、注でそれを示す。それ以外は、原則、濁点・半濁点・ルビの誤りに至るまで、「正誤表」に載らないものは、総て、これを再現する。これは決して意地の悪い仕儀なのではない。本書の用語特性を考えた時、当時の読者が戸惑った最終文字正規表記形を示すことが私のこの電子化の基本的な構想である以上、そう操作することが正しいと考えるからである。それでこそ漢字を正字にしただけのものではない、初版本「心象スケツチ 春と修羅」の正規表現版と言えるからである。それを馬鹿らしいと一蹴する方は、ここを去られ、元のそれとは似ても似つかぬネットの随所に氾濫している新字体・促音・拗音表記のそれで満足されるが、よかろう。 以下、改めて本文の扉から入る。]

 

 

Tbira

 

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―――心象スツケチ―――――――――――――

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――――春 と 修 羅―――――――――――

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――――――――――大正十一、二年―――――

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[やぶちゃん注:パラフィン紙を挟んで、見開き左ページ。十三本の縦罫が引かれ、その罫の中に文字が打たれてある。電子化ではポイントは同じにした。早くも甚だ情けない、正誤表に現れない誤植が現われる。「心象スツケチ」はママ。無論、「心象スケツチ」である。賢治が可哀想!

 

 

 

Jyo1

Jyo2

Jyo3

Jyo4tobira

 

  

 

わたくしといふ現象は

假定された有機交流電燈の

ひとつの靑い照明です

(あらゆる透明な幽靈の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの靑い照明です

(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 

これらは二十二箇月の

過去とかんずる方角から

紙と鑛質インクをつらね

(すべてわたくと明滅し[やぶちゃん注:「わたく」はママ。「わたくし」の誤植(「し」の脱字)。]

 みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつゞけられた

かげとひかりのひとくさりづつ

そのとほりの心象スケツチです

 

これらについて人や銀河や修羅や海膽は

宇宙塵をたべ、または空氣や𪉩水を呼吸しながら

それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

たゞたしかに記錄されたこれらのけしきは

記錄されたそのとほりのこのけしきで

それが虛無ならば虛無自身がこのとほりで

ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 

けれどもこれら新世代沖積世の

巨大に明るい時間の集積のなかで

正しくうつされた筈のこれらのことばが

わづかその一點にも均しい明暗のうちに

  (あるひは修羅の十億年)

すでにはやくもその組立や質を變じ

しかもわたくしも印刷者も

それを變らないとして感ずることは

傾向としてはあり得ます

けだしわれわれがわれわれの感官や

風景や人物をかんずるやうに

そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに

記錄や歷史、あるひは地史といふものも

それのいろいろの論料(データ)といつしよに

(因果の時空的制約のもとに)

われわれがかんじてゐるのに過ぎません

おそらくこれから二千年もたつたころは

それ相當のちがつた地質學が流用され

相當した證據もまた次次過去から現出し

みんなは二千年ぐらゐ前には

靑ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

新進の大學士たちは氣圈のいちばんの上層

きらびやかな氷窒素のあたりから

すてきな化石を發堀したり

あるひは白堊紀砂岩の層面に

透明な人類の巨大な足跡を

發見するかもしれません

 

すべてこれらの命題は

心象や時間それ自身の性質として

第四次延長のなかで主張されます

 

   大正十三年一月廿日 宮 澤 賢 治

 

[やぶちゃん注:本「序」は現存稿はない。無論、これ以前の発表誌等も存在しない。なお、「心象スケッチ 春と修羅」には賢治自身による「手入れ本」が三種四本(宮澤家所蔵本・菊池曉輝氏所蔵本・藤原嘉藤治所蔵本(二冊であるが、異同がある。但し、この内の一冊は現在は行方不明である))が、存在する。「複合体」及び第三連三行目「本体論」の「体」はママ。

 

「假定された有機交流電燈」「有機」体で出来た「交流電燈」は存在しないから、それは当然、「假定され」ねばならないが、これは既に「假定された」賢治独自の心象世界、幻想世界(私はそれを必ずしもファンタジックだとは思わない。寧ろ、そうした煌びやかな装飾物を纏いながら、その袷せを開くとあらゆる存在を呑み込んでしまうブラック・ホールが開孔しているようなものと捉えている)への案内の呪文であり、これを読んだ直後から、我々はそこへ否応なしに踏み込んでいる。従って、本書の詩篇を辞書的な注で補強しても、その辺縁的な見かけ上の姿を捕捉し得たかのように見えても、その幻想実体は実は、ワームのように、するりと人体を貫通して彼方へと去ってしまう。しかし、以下の詩篇に登場する科学用語の中には、秘かに生物学的文系であると自負している私にも、一般的な科学用語としての注なしには読解不能な箇所がある。そこはなるべく禁欲的を心がけながら注したとは思う。閑話休題。「有機交流電燈」は「靑い照明で」あり、「あらゆる透明な幽靈の複合体」であり、それは「風景やみんなといつしよに」「せはしくせはしく明滅しながら」「いかにもたしかにともりつづける」ものであり、別に言い換えると、それは「因果交流電燈の」「ひとつの靑い照明」なのだと謂う。「有機」体とはヒトに代表される(と私は思っていないが)〈生きとし生けるもの、総ての衆生〉と同義であろう(「因果交流電燈」の「因果」はその確信犯的使用である。同義であってもそれは双方向性のものであって、総てを仏教的宗教的世界に逐一、還元出来るなどと考えると墓穴を掘ると私は思う。そうした日蓮宗教義一辺倒でマニアックに誤解析したり、賢治教の教務部が書いたみたような如何にも気持ちの悪いサイトはネット上に有象無象ある)。私は若き日にこの部分を読んだ際、「有機」は「幽鬼」(「鬼」は単に「死者」の意である。「幽鬼」はモンスターではなく、過去現在未来に於ける死者或いはその霊魂の存在の謂いである。その証拠に「あらゆる透明な幽靈の複合体」と賢治は言い換えている)であり、だから「靑」白「い照明」なのだと思い、さらに「交流電燈」は「交流」が物理上の「電流や電圧が時間とともに大きさ及び向きが一定の周期ごとに変化すること」から、それを不可逆的と考えていた時間の「流」れに対して適応し、可逆的に、戻ったり、今よりも圧を増して遙かに進んだりすることと採った。それは本心象スケッチの中で、賢治が中生代の太古を夢想したり、既に亡くなった者たちとの「交流」を望んだりすることと激しく共鳴共振するからである。そうした時間軸を自在に往復出来るとき、「風景やみんな」は「いつしよに」になって「せはしくせはしく明滅しながら」「いかにもたしかにともりつづけ」ているように見える様態が存在するはずだと私は思うのである。さすれば、そのような遥かな時空間の旅の中では何が起こるであろう? この「交流電燈」は、そうした〈時の旅人〉の〈魂〉に、「電」気のようにビリッとくるような「交」感をも意味する根源的生命の「燈」(ともしび)なのだとも言えよう。それが専ら〈魂〉の世界の問題であり、現実界は見かけのものに過ぎないことは、次の「ひかりはたもち、その電燈は失はれ」の言い添えによって明らかだ。これは逆転した謂いなのである。即ち、見かけ上の儚い現実世界では一見、「その電燈は失はれ」たかのように見えても、時空間をドライヴし続ける、全生命の精神体は「ひかりはたもち」続けていると賢治は言うのだと私は採っている(誰か彼かは直ちに神智学の「アストラル体(Astral body)などという妖しげな語を想起されるかも知れぬが、そんな連関を暗示させるつもりは私には残念ながら、全くないことを言い添えておく。但し、アストラル(Astral)という語が「星の」「星のような」「星からの」「星の世界の」などを意味する英語であり、訳語で「星幽(せいゆう)」と表記されたりする事実は、もし賢治が知ったら、我が意を得たりと膝を打つであろうことは想像に難くない)。

「二十二箇月」本「序」の最後のクレジットは大正一三(一九二四)年一月二十日であるが、本作に納められた詩篇(ほぼ完全に昇順の編年配置)の内、最も早い時期の創作は詩篇冒頭の「屈折率」「くらかけの雪」で、それは二年前の大正一一(一九二二)年一月六日である(この創作年月日のクレジットは、本底本の「奥附」の前、本文の最後に配されてある「目次」の各詩篇の標題とページ数の間のリーダの中央に、丸括弧で年・月・日(間は読点)の順に漢数字のみで記されてある)。その期間は約「二十二箇月」となるのである。但し、この二年間、継続的に詩作が行われていたわけではない。何故なら、大正一一(一九二二)年十一月二十七日に結核で妹トシが急逝し、激しいショックを受けた賢治は同日「永訣の朝」「松の針」「無聲慟哭」を書いた後、『それから半年間、賢治は詩作をしなかった』とされ(ウィキの「賢治に拠る)、事実本書の中の当該三篇の次の詩篇の創作クレジットは、大正一二(一九二三)年六月三日の「風林」である。因みに、賢治は大正一〇(一九二一)年十二月三日に稗貫郡立農学校教諭となっているから、この「序」の執筆は教諭着任からは二年一ヶ月余り後である。

「かげとひかりのひとくさりづつ」「手入れ本」の一種では「かげとひかり」を消し、

 明暗交替のひとくさりづつ

としてある。

「海膽」「うに」。海胆。言わずもがな、棘皮動物門 Echinodermata ウニ綱 Echinoidea のあのウニである。

𪉩水」の「𪉩」は「鹽」(塩)の異体字。私は当初より「えんすい」と音読みすることを常としており、科学的な賢治の用語法からもそれでよいと考えている。

「ある程度まではみんなに共通いたします」「手入れ本」の一種には、「は」を削除し、

 ある程度までみんなと共通でもありませう

とある。

「新世代沖積世」「沖積世」(Alluvium)は、現在、「完新世」(Holocene)と呼ばれる、地質時代区分の中で第四紀の第二世に当たる最も新しい時代、最終氷期が終わる約一万年前から近未来も含む現在までとほぼ同義。参照したウィキの「完新世の注釈によれば、『沖積世の名は、地質学に時期区分が導入された』十七『世紀のヨーロッパで』、『この時代の地層が』、『ノアの洪水以降に生成された』、『と信じられたことによる。現在では神話に結びつけることは望ましくないことと、より厳密な定義が必要とされたことにより、この区分名は使われなくなった』とある。

「修羅の十億年」「修羅」を地球と置き換える解釈が一般的であるようだ。地球誕生は現在四十五億四千万年前(±五千万年)頃とされるが、約十億年前には原大陸ロディニア大陸(Rodinia:プレートテクトニクス理論で約十一億年前から七億五千万年前にかけて存在したと考えられている、世界のほぼ全ての陸塊が集まってできた超大陸)が形成され、多細胞生物が出現(十億~六億年前)したと考えられているから、生命の誕生とともに生き残るための闘争、「修羅」が始まったとするのは自然ではある。しかし、この「十億年」とは単に読者に測り知れぬ天文学的数値を示したものに過ぎぬとすれば、「修羅」とは或いはビック・バンの爆発による膨張に始まり、宇宙の生成から地球の誕生そして、収縮による宇宙そのものの消失を指すとするなら、それでよかろうとも思う私がいる。因みに、さらに言っておくと、以下、本書を通読すれば判る通り、「心象スケツチ 春と修羅」の「修羅」とは、誰にも理解されることがない宮澤賢治の心内の「修羅」であることが判る。因みに、私は彼の晩年の私塾「羅須地人協会」の「羅須」も「天地人」の六道の三善道の最上である「天」上道を「人間」道を越えて三善道の最下層「修羅」道に言い換えて、賢治得意のアナグラムで「羅修」に反転、さらに転訛したものと考えている(但し、その語源説は幾つかあるようだ。個人サイト「宮澤賢治の捜査」の「羅須地人協会の捜査」を見られたい)。

 

「おそらくこれから二千年もたつたころは」本書は大正一三(一九二四)年四月二十日発行であるから、西暦三九二四年となる。人類がいれば、の話である。私は地球のために、いないことを望む人間である。

「白堊紀」(はくあき:Cretaceous period)。約一億四千五百万年前から六千六百万年前の地質時代。ジュラ紀に続く時代で、中生代の終わりの時期に当たる(次代は新生代古第三紀の暁新世)。「白堊」の「堊(本来の音は「アク」で「ア」は慣用)」の字は「粘土質の土」、「石灰岩」を意味し、石灰岩の地層から設定された地質年代であるため、「白堊紀」の名がついた(「白亜」の「亜」は「堊」の同音の漢字による書き換え。以上はウィキの「白亜紀」に拠る)。

「透明な人類の巨大な足跡を」/「發見するかもしれません」これは既にしてシュールレアリスムである。

「けだしわれわれがわれわれの感官や」「手入れ本」の一種では、

 けだしわれわれがわれわれの感官をかんじ

とする。

「そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに」「手入れ本」の一種では、

 そしてたゞ共通に信ずるだけであるやうに

とする。

「(因果の時空的制約のもとに)」底本は「(因果の時空的制約のものとに)」となっている。「正誤表」にある通り、誤植であるので、特異的に訂した。

「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」「手入れ本」の一種では、

 われわれが信じてゐるのに過ぎません

とする。

「氷窒素」「ひようちつそ(ひょうちっそ)」と読んでおく。氷った窒素。科学的には窒素は六十ケルビン(マイナス二百十三・一五度)で固体となる。

「あるひは白堊紀砂岩の層面に」「手入れ本」の一種では、

 あるひは白堊紀砂岩の層面から

とする。

「發堀」はママ。「掘」を「堀」と表記する詩人や作家は萩原朔太郎を始めとして意想外に多い。筑摩書房版全集も校訂本文を「発堀」のママとしている

「心象や時間それ自身の性質として」筑摩版全集本文脚注によれば、「手入れ本」の別な一種では、一旦、『「時間」を判読不能の別な語に書き直そうとして中止している』跡があるとある。

「第四次延長」所謂、SF的四次元世界の意か。畑山博「教師 宮沢賢治のしごと」(初版一九八八年小学館刊。本書は非常に興味深いもので、読んでいて楽しい。但し、後半部は畑山氏の現代教育批判となっており、賢治の研究書として読むと、ちょっと「あれ?」っと感じさせる部分がある)で、賢治の花巻農学校の教え子根古吉盛氏の証言に、賢治は『生徒に、一次元から四次元までの話をしてくれ』、その中で『四次元は、もう人は空を飛ぶし、地下も走る、というようなことを話』したとある。

「第四次延長のなかで主張されます」「手入れ本」の一種では、この最終行に、さらに二行を追加して、

 第四次延長のなかで主張されます

 以下のスケッチの各項は

 四次構造にしたがひます

とする「スケッチ」の促音は参照した筑摩書房版全集の校異のママ。]

2018/11/04

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 插畵附言・萩原朔太郎「故田中恭吉氏の藝術に就いて」 / 萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版~完遂

 

2

 

[やぶちゃん注:奥附をめくると、裏はノンブルなしで、見開きの左ページに、上の恩地孝四郎の二色刷の版画「抒情(よろこびすみ)」が配されてある。

 それをめくると、見開き左ページに以下。]

 

 

 

 插  附 言   詩集附錄

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、田中恭吉と恩地孝四郎と作者萩原朔太郎の文章。田中恭吉と恩地孝四郎のそれは、個人ブログ「あどけない詩」にある、新字新仮名のデータを加工用にさせて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 上記標題紙をめくった見開き左から。ノンブルが新たに「3」から起こされて今まで通り、左下に附されてある。

 これ以降の本文は、ごく小さなポイントで組まれているが、読み難くなるだけなので、無視し、ポイントは今までの本文と同じとした。まず、田中恭吉の遺稿。最初の「恭吉」の書かれた部分までが、かっちりページ「3」に収まっている。次の韻文は、次の見開き4」と「5に収まっている。なお、「恭吉」の記名位置は、ブログ・ブラウザの不具合を考え、再現していない。]

 

朔太郞兄

 私の肉體の分解が遠くないといふ豫覺が私の手を着實に働かせて呉れました。兄の詩集の上梓されるころ私の影がどこにあるかと思ふさへ微笑されるのです。

 

 私はまづ思つただけの仕事を仕上げました。この一年は貴重な附加でした。

 

 いろんな人がいろんなことを言ふ。それが私に何になるでせう。心臟が右の胸でときめき。手が三本あり、指さきに透明紋がひかり、二つの生殖器を有する。それが私にとってたつた一つの眞實!

 

 蒼白の藝術の微笑です。かの蒼空と合一するよろこびです。

                 恭  吉

 

 

 

傷みて なほも ほほゑむ 芽なれば いとど かわゆし

こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

 ■

むなしき この日の 涯に ゆうべを 迎へて 懼るる

ひと日に ひと日を かさねて なに まち侘ぶる こころか

 ■

こよひも いたく さみしき かなしみに 包まり 寢ねむ

さはあれ まどの かなたに まどかに 薰(く)ゆる ゆうづき

 ■

痴愚の なみだを ぬぐひて わが しかばねに 見入れよ

あふげば 靑空(そら)を ながるる やはらかき 雲の こころね

 ■

わかれし ものの かへりて 身につき まつはる うれしさ

すこやかよ すこやかよ 疾く かへりね わがやに

 

月映  告別式より        恭  吉

 

[やぶちゃん注:「かわゆし」「ゆうづき」はママ。「靑空(そら)」のルビは二字へのもの。「月映」は雑誌名で、「つくはえ」と読む。大正三(一九一四)年、当時、二十代前半の美術学生で友人あった田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎らによる、木版画や詩を載せたもので、田中恭吉が亡くなる(大正四(一九一五)年十月二十三日)頃、一年ほどで終刊となった。参考にした「東京ステーションギャラリー」の展示会情報のこちらがよい。

 次が恩地孝四郎。標題「插附言」は大きなポイントで二行の頭を占有して、その右下から一字下げなしで本文は始まるが、再現し難いので、普通に次行から始めた。後の段落との関係から、最初に一字下げを行った。]

附言

 萩原君の詩は凡そ獨特なものだ。その獨特さに共通した心緖を持つ故田中恭吉がその挿を完成しないで逝いたのは遺憾なことだ。ただその稿が殘っていたことがせめてもの幸いでした。彼の最後の手紙に

「私はとうてい筆をとれない私の熱四十度を今二三度出れば私の脉百四十を、いま二三十出れば私は亡くなる。私はいますべてをすてて健康を欲してゐる。最初私は氏の詩歌の挿に百枚の豫稿をつくりその中から二十――三十の繪を選んで美しいものにしたいと思つた。そして(不明)上な勢いで着手し稿五葉をつくりしのち臥床した。」――一九一五年八月、その死後、彼の從弟の厚意によって私の手許に集まったのが、この集の包紙の表裏にかきつけた十三枚の稿と、口繪の金色の繪であった。外にどれ程あつたか分からない。十三枚のでさへ、心なき消毒人によつて害はれ[やぶちゃん注:「そこなはれ」。]浸みほけてゐる。前者は赤い藥紙に赤いインキで書かれ、後者は黑い羅紗紙に金色のインキでかかれてゐる。

[やぶちゃん注:田中の手紙の引用中の「とうてい」はママ。]

 之らの繪は彼の死ぬ三月まえに執筆せられ彼の遺したものの最も後のものです。一九一五年七月。兩種とも製版複製に困難なものであるだけ題が損じた。遺憾とする。すべて題はない。裝丁についても、彼の構想を見るべき草稿があるけれど、それは依ることの出來ない程の草稿なので止むなくそれから適はしい[やぶちゃん注:「ふさはしい」。]ものを取り出でて、心持を移して私が作つた。

[やぶちゃん注:「兩種とも製版複製に困難なものであるだけ題が損じた」「兩種とも製版複製に困難なものであるだけ」に「題が損じた」という意味が私にはよく判らない。識者の御教授を乞うものである。正直、恩地の文章は何だか捩じれていて読み難い。]

 插については彼はかういつてゐる。「他人の詩集に挿するのは重大だと思ふ。だから私がもしそれをやる場合にはむしろ原詩に執しないわがままなを挿みたいと思ふ。」

 併し乍ら、他から、私が見るに彼の資性と萩原君の資性との類似といふことよりも、いみぢい交通からなる、それは不識の美しい人生の共感だが、倍加された緊密な美がある。むろん恭吉自身のものであるが又同時に彼一個のものでもない。この病弱な、纎細な、又死に對しての生の執着の明るいそして暗い世界の存在に呼吸した生息がこれらの一線にも浸み出てゐる。一九一四年七月

[やぶちゃん注:「いみぢい」はママ。「不識」低次元の人智などでは理解し得ない、の意と解しておく。空隙なく、次の後に書かれ別文章に続いている。]

「死人とあとに殘れるもの」及び「冬の夕」は共に一九一四年十二月、彼が病苦から輕くせられてゐた頃、その「死」の体覺及「發病の回想」から生まれた心境と見るべく前者は稿では鉛筆のあとを止めてゐる。

[やぶちゃん注:「体覺」の「体」はママ。]

「悔恨」及び「懈怠」は、翌年二月、書きためた稿をまとめて集とした「心原幽趣」のうちから拔いた。その序詞。

「これ痛き感謝のこころなり。なみだにぬれしほほゑみなり。おもへばきのふ死なむとしてあやふくも生きながらへたる身かな。――畧――しひたげられ さひなまれつつ、いかばかり生きのちからのいみぢきかを ためさむねがひなり。」

[やぶちゃん注:引用中の「いみぢき」はママ。読点なしの字空けもママ。]

「悔恨」は過ぎし日のあやかしのいのちをかえりみて。「懈怠」は病み疲れた肉心の嫌忌と、又ある胥情と又腐れ果つべき肉體と。それらの心境を示して美しく。

[やぶちゃん注:「胥情」読もうなら「しよじやう(しょじょう)」だが、こんな熟語は知らない。動詞なら「見る・暫く待つ・助ける」であるが、ピンとこない。識者の御教授を乞う。

 

3

 

[やぶちゃん注:以上の文章がページ「8」(右ページ)で、その見開きの左ページに上の恩地孝四郎の二色刷の版画「抒情(ひとりすめば)」が配されてある。]

 

 假りに名づけて「こもるみのむし」とするものはおそらく同年二月――三月にかかれたものであろふ。仕上がったではないけれど、こもる病体と、外界の光輝の痛さ鋭さが美しくかかれている。

[やぶちゃん注:「病体」の「体」はママ。]

 扉にしたものは小さいアイボリ紙にかいたもので詩集空にさくエーテルの花などと橫にかいてあるのをとつて題とした、この世は光(まぶ)しい。一九一五年上半期。

 包紙に用いた「夜の花」は彼自身、もしも詩集でも出すことがあれば表紙にするのだといったもので、いま、採りたてのこの詩集に用ひた。一九一五年一月、發病後小康を得て東京市外池袋に起臥した頃かいたもので、ワツトマン紙に丹念にかかれてある。印刷で止むなくを損じたけれど彼の纖細な淸麗な情趣が籠められてゐる。

[やぶちゃん注:「ワツトマン紙」ワットマン紙(Whatman paper)は、イギリスのワットマン(James Whatman)が作った、厚い手漉きの高級図画用紙。麻や木綿の襤褸(ぼろ)を原料とした吸水性の良い紙で、特に水彩画用に適する。そのため、ワットマン紙は水彩画用紙の代名詞にもなっている。ワットマンが一七四五年に設立した「ワットマン社」は、イギリスのケント地方を代表する製紙メーカーとなっており、各種の紙を製造しているが、日本では濾紙やペーパー・クロマトグラフィー用紙の製造元として知られる。一時中断していた画用紙製造も一九六〇年代には再開されている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 私の插については別にいうべくない。すべてこの集について版を刻つたもの。

 最後に、この集が三者の心緖に快く交通して成ったことの記銘を殘しておく。

      一九一六年十二月  恩地孝四郞

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、「插附言 詩集附錄」と題した中の、「故田中恭吉氏の藝術に就いて」と題した作者萩原朔太郎の文章。これは「青空文庫」の「詩集〈月に吠える〉全篇」の末尾にある、新字旧仮名のデータを加工用に使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。太字下線は底本では傍点「●」、太字は傍点「ヽ」である。]

 

 故田中恭吉氏の藝術

 に就いて

 

 雜誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の藝術を始めて知つたのは、今から二年ほど以前のことである。當時、私があの素ばらしい藝術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはつたかと言ふことは、殊更らに言ふまでもないことであらう。實に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を、田中氏の藝術によつて一層はつきりと凝視することが出來たのである。

 その頃、私は自分の詩集の裝幀や挿を依賴する人を物色して居た際なので、この新らしい知己を得た悦びは一層深甚なものであつた。まもなく恩地孝氏の紹介によつて私と恭吉氏とは、互にその鄕里から書簡を往復するやうな間柄になつた。

 幸にも、恭吉氏は以前から私の詩を愛讀して居られたので、二人の友情はたちまち深い所まで進んで行つた。當時、重患の病床中にあつた恭吉氏は、私の詩集の計をきいて自分のことのやうに悅んでくれた。そしてその裝幀と挿のために、彼のすべての「生命の殘部」を傾注することを約束された。

 とはいへ、それ以來、氏からの消息はばつたりえてしまつた。そして恩地氏からの手紙では「いよいよ恭吉の最後も近づいた」といふことであつた。それから暫らくして或日突然、恩地氏から一封の書留小包が屆いた。それは恭吉氏の私のために傾注しつくされた「生命の殘部」であつた。床中で握りつめながら死んだといふ傷ましい形見の遺作であつた。私はきびしい心でそれを押戴いた。(この詩集に挿入した金泥の口繪と、赤地に赤いインキで薄くいた線がその形見である。この赤い繪は、劇藥を包む赤い四角の紙に赤いインキで描かれてあつた。恐らくは未完成の下圖であつたらう。非常に緊張した鋭どいものである。その他の數葉は氏の遺作集から恩地君が選拔した。)

 恭吉氏は自分の藝術を稱して、自ら「傷める芽」と言つて居た。世にも稀有な鬼才をもちながら、不幸にして現代に認められることが出來ないで、あまつさへその若い生涯の殆んど全部を不治の病床生活に終つて寂しく夭死して仕舞つた無名の天才家のことを考へると、私は胸に釘をうたれたやうな苦しい痛みをかんずる。

 思ふに恭吉氏の藝術は「傷める生命(いのち)」そのもののやるせない叫であつた。實に氏の藝術は「語る」といふのではなくして、殆んど「叫」に近いほど張りつめた生命の苦喚の聲であつた。私は日本人の手に成つたあらゆる藝術の中で、氏の藝術ほど眞に生命的な、恐ろしい眞實性にふれたものを、他に決して見たことはない。[やぶちゃん注:末尾の太い鈎括弧(閉じる)はママ。]

 恭吉氏の病床生活を通じて、彼の生命を惱ましたものは、その異常なる性慾の發作と、死に面接するえまなき恐怖であつた。

 就中、その性慾は、ああした病氣に特有な一種の恐ろしい熱病的執拗をもつて、えず此の不幸な靑年を苦しめたものである。恭吉氏の藝術に接した人は、そのありとあらゆる線が、無氣味にも悉く「性慾の嘆き」を語つて居る事に氣がつくであらう。それらの異常なる繪は、見る人にとつては眞に戰慄すべきものである。

「押へても押へても押へきれない性慾の發作」それはむざむざと彼の若い生命を喰ひつめた惡魔の手であつた。しかも身動きも出來ないやうな重病人にとつて、かうした性慾の發作が何にならうぞ。彼の藝術では、凡ての線が此の「對象の得られない性慾」の悲しみを訴へて居る。そこには氣味の惡いほど深酷な音樂と祈禱とがある。

 襲ひくる性慾の發作のまへに、彼はいつも瞳を閉ぢて低く唄つた。

 

 こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

 

 何といふ善良な、至純な心根をもつた人であらう。たれかこのいぢらしい感傷の聲をきいて淚を流さずに居られやう。[やぶちゃん注:「居られやう」の「やう」はママ。]

 一方、かうした肉體の苦惱に呪はれながら、一方に彼はまた、眼のあたり死に面接するえまなき恐怖に襲はれて居た。彼はどんなに死を恐れて居たか解らない。「とても取り返すことの出來ない生」を取り返さうとして、墓場の下から身を起さうとして無益に焦心する、悲しいたましひのすすりなきのやうなものが、彼の不思議の藝術の一面であつた。そこには深い深い望の嗟嘆と、人間の心のどん底からにぢみ出た恐ろしい深酷なセンチメンタリズムとがある。[やぶちゃん注:「にぢみ出た」はママ。]

 併し此等のことは、私がここに拙惡な文章で紹介するまでもないことである。見る人が、彼の藝術を見さへすれば、何もかも全感的に解ることである。すべて藝術をみるに、その形狀や事實の槪念を離れて、直接その内部生命であるリズムにまで觸感することの出來る人にとつては、一切の解説や紹介は不要なものにすぎないから。

 要するに、田中恭吉氏の藝術は「異常な性慾のなやみ」と「死に面接する恐怖」との感傷的交錯である。

 もちろん、私は繪の方面では、全く智識のない素人であるから、專問的の立場から觀照的に氏の藝術の優劣を批判することは出來ない。ただ私の限りなく氏を愛敬してその夭折を傷む由所は、勿論、氏の態度や思想や趣味性に私と共鳴する所の多かつたにもよるが、それよりも更に大切なことは、氏の藝術が眞に恐ろしい人間の生命そのものに根ざした叫であつたと言ふことである。そしてかうした第一義的の貴重な創作を見ることは、現代の日本に於ては、極めて極めて特異な現象であるといふことである。

             萩 原 朔 太 郞

 

[やぶちゃん注:最終段落の「繪」はママ。「專問的」もママ。「由所」は再版では「以所」で、筑摩版全集強制校訂補正では「所以」である。

 以上を以って特殊特装版の初版萩原朔太郎詩集「月に吠える」は終わっている。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 室生犀星の跋「健康の都市」・奥附(但し、まだ続き有り)

 

  

 

 

 

  


                   
君が詩集の終りに

 

 大正二年の春もおしまひのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらつた。私が當時雜誌ザムボアに出した小景異情といふ小曲風な詩について、今の詩壇では見ることの出來ない純な眞實なものである。これから君はこの道を行かれるやうに祈ると書いてあつた。私は未見の友達から手紙をもらつたことが此れが生まれて初めてであり又此れほどまで鋭く韻律の一端をも漏さぬ批評に接したことも之れまでには無かつたことである。私は直覺した。これは私とほぼ同じいやうな若い人であり境遇もほぼ似た人であると思つた。ちようど東京に一年ばかり漂泊して歸つてゐたころで親しい友達といふものも無かつたので、私は 飢ゑ渴いたやうにこの友達に感謝した。それからといふものは私たちは每日のやうに手紙をやりとりして、ときには世に出さない作品をお互に批評し合つたりした。

[やぶちゃん注:「ちようど」はママ。

「私は未知の友から一通の手紙をもらつた」残念ながら、この書簡は残っていないようである。筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第十三巻(昭和五二(一九七七)年刊)の書簡で、最初に犀星の登場するものは、大正三(一九一四)年二月二十八日附前田夕暮宛葉書(書簡番号三一)で、それはまさに犀星(満二十四歳)が朔太郎(二十七歳)に初めて対面した折りであって、『犀星氏と一日利根の河畔を步きました』とある。全集注によれば、『宛名書は「萩原生」をふくめて室生犀星の筆蹟。犀星はこの時初めて前橋の朔太郎を訪ね、二月十四日から三月八日まで滞在した』とある。この凡そ一ヶ月もの滞在を契機として以後、非常に親密となり、次の段以降で語られるように、互いを「恋人」と呼ぶほどの仲になった。但し、同全集年譜によれば、初対面時の犀星の受けた朔太郎の印象は、『生活は非常にハイカラで、手紙は洋封筒を用い、便箋は歐文字のすかし入り、部屋はごてごてしたセセッション式』(Secession-style:大正初期によく使用された語で、セセッション=ウィーン分離派の作品の特徴である幾何学的意匠や渦を巻く植物模様等見られる様式を指すことが多い)、『紅茶にウイスキーをしたたらせ、蓄音器を鳴らし、服裝は半外套洋服にトルコ帽だった』(これらの服は幾度が自分でデザインして作らせた、という注記がある)と述べている。また、犀星の後の「わが愛する詩人の伝記」(『婦人公論』昭和三三(一九五八)年三月号)には、『前橋の停車場に迎へに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを咥(くは)へてゐた。第一印象はなんて気障(きざ)な虫酸(むしず)の走る男だらうと私は身ブルヒを感じた』とある(ここは「前橋文学館」の二〇一八年二月十四日のブログに拠った)。それに対し、犀星が朔太郎に与え初対面のそれは、『田舍書生といった』印象で、『胡散臭いやつが來た、といった感じ』方で、後の朔太郎の「室生犀星の印象」(『秀才文壇』大正七(一九一八)年六月号)では(筑摩版全集を底本とした。太字は底本では傍点「ヽ」)、『室生のリズムが、どういふものかすつかり氣に入つてしまつて、たまらなく感心したのでたうとう未見の彼と逢ふことになつた。鄕里の停車場で始めて逢つた時の室生は、詩から聯想してゐたイメーヂとは、全で[やぶちゃん注:「まるで」。]ちがつた人間であつた。私は貴族的の風貌と、靑白い魚のやうな皮膚を心貌(しんばう)[やぶちゃん注:心の中に浮かべる容貌。]に畫いて居た。然るに事實は全く思ひがけないものであつた。妙に眉を怒らした眼のこはい男が現はれた時、私にはどうしてもそれが小曲詩人の室生犀星とは思へなかつた。』(改行)『かういふわけで、室生の最初の印象は甚だ惡かつた。容貌ばかりでなく、全體の態度や、言葉づかいや、言行からして、何となく田舍新聞の記者とかゴロツキ書生とかいふ類の者を思はせる所があつた』と述べている。朔太郎は勝手に犀星を繊細な美少年と堅く思い込んでしまっていたらしく、彼のごっつい容貌を見て、実際にはガックりきたのである。いや、正直、分らぬでもない。しかし、洋服にトルコ帽の半外套のヒョロ男と一緒に利根川畔を歩くのも、私は御免蒙りたくなる。但し、朔太郎は上記のそれに続けて、『然るに不思議なことは、その後益彼と親しんでくるに從つて、彼の容貌や、そのユニツクな人格や態度が、奇體に藝術的な美しさを以て見られてきた。「愛とは美なり」といふことは、實際どんな場合にも事實である。彼と私との友情が如はるに順つて、始め不快であつた彼の怪異な風采が、次第次第に快美なリズムに變つてきたのは不思議である。今の室生は勿論、全體に於て昔の金澤時代の彼とは違つて居るが、とにかく彼の容貌には、どこかヱルレエヌやベトーベンに見るやうな、藝術的の「深みある美しさ」があることを、近來になつてしみじみと感じてゐる。ほんとの美といふものは、矢張人格や心性からくる者であつて、單なる皮膚や肉づきから生れる者ではないやうだ。「偉人の容貌には奧深き美がある」といふことは、たしかに眞賓である』と讃えている。後に、その二人の間に割って入ってしまう形になったのが、芥川龍之介であることはあまり知られているとは思われない。これ以上は、脱線になる。私の非常に古い電子データである萩原朔太郎「芥川龍之介の死」をお読みあれかし。]

 私はときをり寺院の脚高な椽側から國境山脈をゆめのやうに眺めながら此の友のゐる上野國や能く詩にかかれる利根川の堤防なぞを懷しく考へるやうになつたのである。會へばどんなに心分(こゝろもち)の觸れ合ふことか。いまにも飛んで行きたいやうな氣が何時も瞼を熱くした。この友もまた逢つて話したいなぞと、まるで二人は戀しあふやうな激しい感情をいつも長い手紙で物語つた。私どもの純眞な感情を植ゑ育ててゆくゆく日本の詩壇に現はれ立つ日のことや、またどうしても詩壇の爲めに私どもが出なければならないやうな圖拔けたい意志も出來てゐた。どこまで行つても私どもはいつも離れないでゐようと女性と男性との間に約されるやうな誓ひも立てたりした。

[やぶちゃん注:「椽側」はママ。「椽」は本来は「たるき(垂木)」の意であるが、芥川龍之介を始めとして、明治・大正期の作家は「緣」の代わりに「椽」を使用する例がすこぶる多い。]

 

 大正三年になつて私は上京した。そして生活といふものと正面からぶつかつて、私はすぐに疲れた。その時はこの友のゐる故鄕とも近くなつてゐたので、私は草臥れたままですぐに友に逢ふことを喜んだ。友はその故鄕の停車場でいきなり私のうろうろしてゐるのをつかまへた。私どもは握手した。友はどこか品のある瞳の大きな想像したとほりの毛唐のやうなとこのある人であつた。私どもは利根川の堤を松並木のおしまひに建つた旅館まで俥にのつた。淺間のけむりが長くこの上野まで尾を曳いて寒い冬の日が沈みかけてゐた。

[やぶちゃん注:滞在した宿は、前橋公園からほど近い利根川畔の旅館兼下宿「一明館」。現存しないようである。]

 旅館は利根川の上流の、市街(まち)のはづれの靜かな磧に向つて建てられてゐた。すぐに庭下駄をひつかけて茫茫とした磧へ出られた。二月だといふのにいろいろなものの芽立ちが南に向いた畦だの崖だのにぞくぞく生えてゐた。友はよくこの磧から私をたづねてくれた。私どもは詩を見せ合つたり批評をし合つたりした。

 大正四年友は出京した。

 私どもは每日會つた。そして私どもの狂わしいBARの生活が初まつた。暑い八月の東京の街路で時には劇しい議論をした。熱い熱い感情は鐵火のやうな量のある愛に燃えてゐた。ときには根津權現の境内やBARの卓(テーブル)の上で試作をしたりした。私は私で極度の貧しさと戰ひながらも盃は唇を離れなかつた。そしていつも此友にやつかいをかけた。

[やぶちゃん注:「BAR」は縦書である。]

 間もなく友は友の故鄕へ私は私の國へ歸つた。そして端なく私どもの心持を結びつけるために『卓上噴水』といふぜいたくな詩の雜誌を出したが三册でつぶれた。

[やぶちゃん注:「端なく」思いがけず。何のきっかけもなく。

『卓上噴水』は朔太郎が前年六月に創設した「人魚詩社」から、十ヶ月目の大正四(一九一五)年三月に、やっと発刊した詩誌。誌名は犀星が附けたもので、発行所は金沢の室生のところであったが、第三号(同年五月号)で短命に終わった。]

 私どもが此の雜誌が出なくなつてからお互にまた逢ひたくなつたのである。友は私の生國に私を訪問することになつた。私のかいた海岸や砂丘や靜かな北國の街々なぞの景情が友を遠い旅中の人として私の故鄕を訪づれた。私が三年前に友の故鄕を友とつれ立つて步いたやうに、私は友をつれて故鄕の街や公園を紹介した。私のゐるうすくらい寺院を友は私のゐさうな處だと喜んだ。または廓の日ぐれどきにあちこち動く赤襟の美しい姿を珍らしがつた。または私が時時に行く海岸の尼寺をも案内した。そこの砂山を越えて遠い長い渚を步いたりして荒い日本海をも紹介した。それらは私どもを子供のやうにして樂しく日をくらさせた。そのころ私は愛してゐた一少女をも紹介した。

[やぶちゃん注:朔太郎の金沢の犀星を訪問したのは、大正四(一九一五)年五月八日正午に着、同月十七日の夜行で帰橋した。全集年譜によれば、『二等室から朔太郎は赤い房のついた薄鼠色の土耳古帽をやや阿彌陀にかぶり、』粗い『格子縞の洋服姿で降り立った』とある。

「尼寺」石川県金沢市金石北にある海月寺(かいげつじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「ほっと石川旅ねっと」の「月寺によれば、『犀星が若い頃、この』二『階に下宿し、後に小説「海の僧院」として、ここでの生活を作品に残している』とあり、また、個人ブログ「つとつとのブログ」の「海月寺」にも、『室生犀星は』十三『歳で高等小学校を中退して、金沢地方裁判所の給仕として就職し』たが、『ここで俳句などの先人に出会い』、『文学に目覚めた』とされる。十九歳で『金石』(かないわ:金沢市の北西部にある港町)『出張所に移った際に』、『この海月寺の』二『階に下宿し』た(わずか一年に『満たない期間で』はあった)。それでも、彼は十九『歳当時』、『すでにペンネームの「犀星」を名乗っており』、『北陸の俳壇界では知られた存在だった』という。『俳壇以外にも詩や小説を書くようになっており、寺の』二『階部屋で後に発表した多くの作品を書いて』おり、『現在も犀星の使った部屋はそのまま保存されている』という。

「愛してゐた一少女」新潮社日本詩人全集第十五巻「室生犀星」(昭和四二(一九六七)年刊)の年譜を見る限りでは、幼馴染の七つ歳下の村田艶(えん)(この大正四年で数え二十歳)のことと思われる。]

 友は間もなくかへつた。それから友からの消息はばつたりとえた。友の肉體や思想の内部にいろいろの變化が起つたのも此時からである。手紙や通信はそれからあとは一つも來なかつた。私は哀しい氣がした。あの高い友情は今友の内心から突然に消え失せたとは思へなかつた。あのやうな烈しい愛と熱とがもう私と友とを昔日のやうに結びつけることが出來なくなつたのであらうか。私には然う思へなかつた。

『竹』といふ詩が突然に發表された。からだぢうに巢喰つた病氣が腐れた噴水のやうに、友の詩を味ふ私を不安にした。友の肉體と魂とは晴れた日にあをあをと伸上がつた『竹』におびやかされた。を感じる力は友の肉體の上にまで重量を加へた。かれは、からだぢう竹が生えるやうな神經系統にぞくする恐竹病におそはれた。そしてまた友の肉體に潜んだいろいろな苦悶と疾患とが、友を非常な神經質な針のさきのやうなちくちくした痛みをえず經驗させた。

 

  ながい疾患のいたみから

  その顏は蜘蛛の巢だらけとなり

  腰から下は影のやうに消えてしまひ

  腰から上には竹が生え

  手が腐れ

  しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり

  ああけふも月が出で

  有明の月が空に出で

  そのぼんぼりのやうなうすあかりで

  畸形の白犬が吠えて居る

  しののめちかく

  さむしい道路の方で吠える犬だよ

 

 私はこの詩を讀んで永い間考へた。あの利根川のほとりで土筆やたんぽぽ又は匂い高い抒情小曲なぞをかいた此れが紅顏の彼の詩であらうか。かれの心も姿もあまりに變り果てた。かれはきみのわるい畸形の犬がぼうぼうと吠える月夜をぼんぼりのやうに病みつかれて步いてゐる。ときは春の終わりのころであらうか。二年にもあまる永い病氣がすこしよくなりかけ、ある生ぬるい晚を步きにでると世の中がすつかり變化つてしまつたやうに感じる。永遠といふものの力が自分のからだを外にしても斯うして空と地上とに何時までもある。道路の方で白い犬が、ゆめのやうなミステツクな響をもつてぼうぼうと吠えてゐる。そして自分の頭がいろいろな病のために白痴のやうにぼんやりしてゐる。ああ月が出てゐる。

[やぶちゃん注:先の引用詩は本詩集の「ありあけ」。初出形から最終行の句点意外を除去した形である。筑摩版全集の「跋・健康の都市」の校異末尾によれば、『本跋文中の引用詩は、雜誌初出形ないし犀星の記憶に基づくもので、詩集收錄作品とは一致しない』として、『ここでは假名遣、用字の誤りの校異のみにとどめた』とする。これは杜撰だろ! 私はやる!

 私は次の頁をかへす。

 

  遠く渚の方を見はたせば

  ぬれた渚路には

  腰から下のない病人の列が步いてゐる

  ふらりふらりと步いてゐる

 

 彼にとつては總てが變態であり恐怖であり幻惑(げんわく)であつた。かれの靜かな心にうつつてくるのは、かれの病みつかれた顏や手足にまつわる惱ましい蛛蜘の巢である。彼は殆んど白痴に近い感覺の最も發作の靜まつた時にすら、その指さきからきぬいとのやうなものの垂れるのを感じる。その幻覺はかれの魂を慰める。ああ蒼白なこの友が最も不思議に最も自然に自分の指をつくづく眺めてゐるのに出會して淚なきものがゐようか。私と向ひ合つた怜悧な眼付はどんよりとして底深いところから靜かに實に不審な病夢を見てゐるのである。

[やぶちゃん注:「春夜」からの引用の一行目の「見はたせば」はママ。初出形であるが、総ての末尾の読点が除去されており、元では「遠く渚の方を見わたせば、」と歴史的仮名遣は正しい。二箇所の「步いて」は最終行は「あるいて」であり、二箇所の末尾の「ゐる」は孰れも「居る、」である。

蛛蜘の巢」の「蛛蜘」はママ。敢えて直さない。「蜘蛛」は「蜘」だけで「くも」と読めるし、気がつくのは数人で、だからと言って躓くとも言えず、じきに行き過ぎ、誤読もしないとあれば、取り立てて鬼の首を獲って強制訂正する必要もないと私は感ずるからである。]

 それらの詩編が現はれると間もなく又ばつたり作がなかつた。私のとこへも通信もなかつた。私から求めると今私に手紙をくれるなとばかり何事も物語らなかつた。たうとう一年ばかり彼は誰にも會はなかつた。かれにとつて凡ての風景や人間がもう平氣で見てゐられなくなつた。ことに人を怖れた。まがりくねつて犬のやうに病んだ心と、人間のもつとも深い罪や科やに對して彼は自らを祈るに先立つて、その祈りを犯されることを厭ふた。ひとりでゐることを、ひとりで祈ることを、ひとりで苦しみ考へることを、ああ、その間にも彼の疾患は辛い辛い痛みを加へた。かれはヨブのやうな苦しみを試みられてゐるやうでもあつた。なぜに自分はかやうに肉體的に病み苦しまなければならないかとさへ叫んだ。

 かれにとつて或る一點を凝視するやうな祈禱の心持!どうにかして自分の力を、今持つてゐる意識を最つと高くし最つと良くするためにも此疾患を追ひ出してしまひたいとする心持!この一卷の詩の精神は、ここから發足してゐるのであつた。

[やぶちゃん注:感嘆符の後に字空けがないのはママ。]

 

 彼の物語の深さはものの内臟にある。くらい人間のお腹にぐにやぐにやに詰つたいろいろな機械の病んだもの腐れかけたもの死にそうなものの類ひが今光の方向を向いてゐる。光の方へ。それこそ彼の求めてゐる一切である。彼の詩のあやしさはポオでもボドレエルでもなかつた。それはとうてい病んだものでなければ窺知することのできない特種な世界であつた。彼は祈つた。かれの祈禱は詩の形式であり懺悔の器でもあつた。

[やぶちゃん注:「とうてい」はママ。

「窺知」(きち)とは「窺(うかが)い知ること」の意。]

 

  凍れる松が枝に

  祈れるままに縊されぬ

 

 といふ天上縊死の一章を見ても、どれだけ彼が苦しんだことかが判る。かれの詩は子供がははおやの白い大きい胸にすがるやうにすなほな極めて懷しいものも其疾患のえ間え間に物語られた。

[やぶちゃん注:この引用は困りものである。現行の「天上縊死」の初出形とも異なり、現在残る「月に吠える」草稿原稿(全集第一巻末に所収)の「天井縊死」のパートには原稿七種八枚が載るが、そこにもこの表現は見当たらない。或いは、最早、存在しない「天上縊死」の初期原稿の犀星の断片的な記憶なのかも知れない、などと如何にもながら、好意的に夢想してみると、少しばかり、夢が広がるようで、気持ちはいい。]

 

 萩原君。

 私はここまで書いて此の物語が以前に送つた跋文にくらべて、どこか物足りなさを感じた。君がふとしたころから跋文を紛失したと靑い顏をして來たときに思つた。あれは再度かけるものではない。かけても其書いてゐたときの情熱と韻律とが二度と浮んでこないことを苦しんだ。けれどもペンをとると一氣に十枚ばかり書いた。けれどもこれ以上書けない。これだけでは兄の詩集をけがすに過ぎぬ。一つは兄が私の跋文を紛失させた罪もあるが。

 唯私はこの二度目の此の文章をかいて知つたことは、兄の詩を餘りに愛し過ぎ、兄の生活をあまりに知り過ぎてゐるために、私に批評が出來ないやうな氣がすることだ。思へば私どもの交つてからもう五六年になるが、兄は私にとつていつもよい刺戟と鞭撻を與へてくれた。あの奇怪な『猫』の表現の透徹した心持ちは、幾度となく私の模倣したものであつたが物にならなかつた。兄の纎細な恐ろしい過敏な神經質なものの見かたは、いつもサイコロジカルに滲透していた。そこへは私は行かうとして行けなかつたところだ。

 兄の健康は今兄の手にもどらうとしてゐる。兄はこれからも變化するだらう。兄のあつい愛は兄の詩をますます砥ぎすました者にするであらう。兄にとつて病多い人生がカラリと晴れ上つて兄の肉體を温めるであらう。私は兄を福祉する。兄のためにこの人類のすべてが最つと健康な幸福を與へてくれるであらう。そして兄が此の惱ましくも美しい一卷を抱いて街頭に立つとしたらば、これを讀むものはどれだけ兄が苦しんだかを理解するやうになる。この數多い詩篇をほんとに解るものは、兄の苦しんだものを又必然苦しまねばならぬ。そして皆は兄の蒼白な手をとつて親しく微笑して更らに健康と勇氣と光との世界を求めるやうになるであらう。更らにこれらの詩篇によつて物語られた特異な世界と、人間の感覺を極度までに纎細に鋭どく働かしてそこに神經ばかりの假令へば齒痛のごとき苦悶を最も新しい表現と形式によつたことを皆は認めるであらう。

[やぶちゃん注:「假令」底本は「例令」であるが、これでは全く読めない。「假」の誤植と断じて、特異的に訂した。筑摩全集版もそう強制訂正している。]

 も一步進んで言へば君ほど日本語にかげ深さを注意したものは私の知るかぎりでは今までには無かつた。君は言葉よりもそのかげ深さとを音樂的な才分で創造した。君は樂器で表現できないリズムに注意深い耳をもつてゐた。君自らが音樂家であつたといふ事實をよそにしても、いろはにほへを鍵盤にした最も進んだ詩人の一人であつた。

 ああ君の魂に祝福あれ。

 大聲でしかも地響のする聲量で私は呼ぶ。健康なれ!おお健康なれ!。と。

 

  千九百十六年十二月十五日深更

           東京郊外田端にて

            室 生 犀 星

 

[やぶちゃん注:「健康なれ!おお健康なれ!。と。」の前の感嘆符の後の字空けがないのと、後の感嘆符の後の異例の句点はママである。]

 

 

 

 月に吠える   

 

[やぶちゃん注:次の百九十八ページ(右ページ。ノンブル有り)をめくると、上記の一行が、左やや端にある。

 その見開きの左ページが以下の奥附になっているが、本詩集はそれで終わっていない。既に「愛憐」の注で述べた通り、本書は非常に特殊な条件で作成された、数部のみ作成された一種の特装本なのであり、実は、この後まだ「挿画附言」と「詩集附録(田中恭吉・孝四郎・萩原朔太郎筆)」(途中に恩地孝四郎の版画二葉が挿し入れ)と続くのである。

 

 

 

大正六年二月 十 日印刷

             定價九十錢

大正六年二月十五日發行

 

 ┃   著 者   萩原 朔太郎

 ┃不     東京市外田端一六三

 ┃許  發行人   室生 照 道

 ┃複     東京市芝區櫻田町十九番地

 ┃製  印刷者   岡  千代彦

 ┃   ―――――――――

 發行所 東京市外田端一六三    

 發行所 東京市外西大久保二四七 白日社出版部

 

 (振替二六一六三)

 

[やぶちゃん注:傍線は底本では連続した一直線。以上全体が□で囲われ、その下方罫外に沿って右から左に、ごく小さなポイントで、

   (印刷所  自由活版所)

とある。

発行者の室生照道は室生の戸籍上の本名。ウィキの「室生犀星」によれば、犀星は明治二二(一八八九)年八月一日、旧『加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と』、『その女中であるハルという名の女性の間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として』、「照道」の『名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは』七『歳のときであり、この際』、『室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは』、『犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は』、『母親についての』ダブル・バインド(Double bind:二重拘束・二重束縛)『を背負っていた』のであり、「犀星発句集」(昭和八(一九四三)年刊)に『収められた』一句、

 

 夏の日の匹婦の腹に生まれけり

 

『は、犀星自身』、五十歳を『過ぎても、このダブル』・『バインドを引きずっていたことを』示している、とある。]

 

[やぶちゃん注:以下、「插畫附言 詩集附錄」と題した、田中恭吉と恩地孝四郎と作者萩原朔太郎の文章。田中恭吉と恩地孝四郎のそれは、個人ブログ「あどけない詩」にある、新字新仮名のデータを加工用にさせて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 笛

 

   

 

子供は笛が欲しかつた。

その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。

子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。

子供はひつそりと扉(とびら)のかげに立つて居た。

扉のかげにはさくらの花のにほひがする。 

 

そのとき室内で大人(おとな)はかんがへこんでゐた、

大人(おとな)の思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のぢれんまが大人の心を痙攣(つきつけ)させた。みれば、ですくの上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。

それは春らしい今朝の出來事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。 

 

本能と良心と、

わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人(おとな)の心のうらさびしさよ、

力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓(あかりまど)のあたりをさまよひた。

人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽靈の通りゆく姿をみた。

大人(おとな)は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた

「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」

けれどもながいあひだ、幽靈は扉(とびら)のかげを出這入りした。

扉のかげにはさくらの花のにほひがした。

そこには靑白い顏をした病身のかれの子供が立つて居た。

子供は笛が欲しかつたのである。 

 

子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。

子供は窓際のですくに突つ伏したおほいなる父の頭腦をみた。

その頭腦のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。

子供の視線が蠅のやうにその塲所にとまつてゐた。

子供のわびしいこころがなにものかにひきつけられてゐたのだ。

しだいに子供の心が力をかんじはじめた、

子供は實に、はつきりとした聲で叫んだ。

みればそこには笛がおいてあつたのだ。

子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。 

 

子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。

それ故この事實はまつたく偶然の出來事であつた。

おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。

けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。

もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、

卓の上に置かれた笛について。 

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

「痙攣(つきつけ)」はママ。再版でも同じで、「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)で「ひきつけ」とする。読者は躓くが、しかし、私は萩原朔太郎が「ひきつけ」を「つきつけ」と発音していた(そのような方言はないようであるが)可能性を排除出来ない限りに於いて、これをママとした。彼にはそうした思い込みに等しい誤った用い方がかなりあるからである。「痙攣」の表記で読者が意味不明に陥る可能性は殆んどないこともママとした理由ではある。

「偶然」は底本では「遇然」であり、再版本でも訂されていないが、初出は正しく「偶然」であり、「遇然」では読者が躓いて別な意味にとろうとする可能性もあるので、特異的に訂した。

 初出は『詩歌』大正五(一九一六)年六月号。初出形には激しい異同があるので、以下に示す(ブログ電子化していが、零から行った)。太字は底本(筑摩版全集)では「ヽ」、太字下線「良心」は「●」である。

   * 

 

  

 

子供は笛が欲しかつた。

その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。

子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。

子供はひつそりと扉(とびら)のかげに立つて居た。

扉(とびら)のかげにはさくらのはなのにほひがする。

そのとき、おとなはかんがへこんでゐた、

おとなの思想がくるくるとうづまきをした。

ある混み入つた思想のぢれんまおとなの心を痙攣(つきつけ)させた、

みればですくの上に突つ伏したおとなの額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。

それは春らしい今朝(けさ)の出來事が、そのひとの心をうれはしくしたのである。

本能と良心と。

わかちがたきひとつの心をふたつにわかたんとするおとなの心のうらさびしさよ、[やぶちゃん注:「ひとつ」は「ひと」であるが、脱字と断じ、特異的に補った。]

力(ちから)をこめてひきはなされたふたつの影はいとのやうにもつれあひつつほのぐらい明窓(あかりまど)のあたりをさまよつた、

ああ、みればまたあさましくもつるみかわしてゐるものを、[やぶちゃん注:「つるみ」は「つみる」であるが、錯字と断じ、特異的に補正した。]

ひとは自分の頭のうへに、それらの悲しい幽靈のとほりゆくすがたをみた、

透きとほる靑貝のやうな光る死蠟の手さきが、そのひとの腦づゐをかすめていつた、[やぶちゃん注:「死蠟」は「死臘」であるが、「臘」は「死蠟」(通常には「屍蠟」(しろう)。死体が蠟状に変化したもの。死体が長時間、水中又は湿気の多い土中に置かれ、空気との接触が絶たれると、体内の脂肪が蠟化し、長く原形を保つ。そうした遺体現象を指す)はこうは書かない上に、現代中国語で「干物」の意があり、イメージが生理的に厭なので、特異的に訂した。]

その手のふれるつめたい痛(いた)みから、そのにんげんの心臟が腐りかかつた。

…………かれこそはれうまちすのたぐひにて、ひとびとの良心となづくるもの。

そのときひとつのかげはひとつのかげのうへに重なりあつた、

おとなは恐ろしさに息をひそめながら祈をはぢめた、[やぶちゃん注:「はぢめた」はママ。]

「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ、」

けれどもながいあいだ、幽靈は扉(とびら)のかげを出這入りした。[やぶちゃん注:「あいだ」はママ。]

扉(とびら)のかげにはさくらのはなのにほひがした。

そこには靑白い顏をした病身のかれの子供が立つて居た。

子供は笛が欲しかつたのである。

     ×

子供は扉(とびら)をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。

子供は窓際(まどぎは)のですくに突つぷしたおほいなる父の頭腦をみた、

その頭腦のあたりははなはだしい陰影になつてゐた。

子供の視線が、蠅(はへ)のやうにその塲所にとまつてゐた。

子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。

しだいに子供の心が力(ちから)をかんじはぢめた。[やぶちゃん注:「はぢめた」はママ。]

子供は實にはつきりとした聲でんだ。

みればそこには笛がおいてあつたのだ。

子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

     ×

子供は笛についてなにごとも父に話してはなかつた。

それ故この事實はまつたく偶然の出來事であつた。

おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。[やぶちゃん注:「せ」には傍点がないが、植字ミスと断じて、特異的に訂した。]

けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。

もつとも偉大なるおとなの思想が生み落した笛について。

卓の上に置かれた笛について。 

 

   *

【二〇二二年三月二十五日追記】本篇「笛」の草稿二篇を別に「萩原朔太郎「笛」(「月に吠える」の詩集本文の末に配された長詩)の草稿詩篇二種(後者に萩原朔太郎自身による自解が附されてある)」として公開したので参照されたい。

 なお、これを以って「月に吠える」の詩篇本文は百七十五ページ(左ページ)で終わっている。] 

 

Yorokobiahure

 

[やぶちゃん注:百七十五ページをめくると、裏はノンブルなしで、見開きの左ページに、上の恩地孝四郎の二色刷の版画「抒情(よろこびあふれ)」が配されてある。]

古今百物語評判 跋 / 「古今百物語評判」全電子化注~完遂

 

 

 「百ものがたり評判」、すでに梓(あづさ)にちりばみてければ、かたへの人、とふていはく、「山岡而慍齋は、寬文壬子(じんし)の頃、身まかり給ひけるよし、卷軸(くわんぢく)に見えたり。しかあれど、「評判」のうちに、ちか比(ごろ)の例(ためし)をも引き用ゐられぬる事侍れば、故事、おくれ、評判、さきだち、何とやらむ、つゐで、ものぐるおし[やぶちゃん注:ママ。]。誠(まこと)には、而慍齋の外に和漢の達者ありて、評判、くはへながら、名、かくし侍るもののやうに思はれ候は、いかに」。予、云(いへ)らく、「いかにも、よき推量にて侍る。醫家に用(もちゆ)る「素問(そもん)」と云(いへ)る書は、其説、黃帝におこりながら、その書は戰國のすゑになりぬれど、なべての人は皆、黃帝の時に成(なり)けるやうに、おもひあへり。又、「莊子」と云(いへ)るふみも、戰國の時、漆園(しつゑん)老人があらはしぬれど、堯舜孔顏の、さながら、の給ひけるやうに、つくろひなして、三墳(ふん)の文(ふみ)にも見えず、三代の世も聞及(ききおよ)ばざる異人の姓名など、書載(かきのせ)侍るを、巵言寓言(しげんぐうげん)と申しならはせり。此草紙も、かゝるためしに類(たぐひ)せるなんかし。而慍齋の長子何がし、博識洽聞(がうがん[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」のルビ。])にて、父の才德にも越へたり。過(すぎ)つるころ、此卷(まき)を予にしめして云(いは)く、『乃(すなは)ち、翁(おう)、此書をあみなんとて、中半(なかば[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」の二字へのルビ。])にして身まかりき。いざとよ、父の志(こゝろざし)をなしてむや』と云(いひ)てければ、予、聞(きき)て、『あな賢(かしこ)、よくも知らせ給ひし物哉(かな)』とて、あらきを補ひ、しげきを除き、日あらで、此ふみなりぬれば、功(いさをし)を其(その)みなもとの作者にゆづりて、かく、梓(あづさ)になむちりばめはべる」。

 

  貞享丙寅曆季夏仲旬

    堀川通西吉水町

        梶 川 常 政

    植木町通福島町    梓行

        杉 原 正 範

 

[やぶちゃん注:最後の記名は底本とした国立国会図書館デジタルコレクションの「德川文芸類聚(とくがわぶんげいるいじゅ) 第四 怪談小説」(大正三(一九一四)年国書刊行会編刊)にはないので、国書刊行会「叢書江戸文庫」の巻二十七「続百物語怪談集」(一九九三年刊・責任編集/高田衛・原道生)のものを恣意的に正字化して用いた。

「百ものがたり評判」本書「古今百物語評判」の異名。

「梓(あづさ)にちりばみてければ」板行して市中に出回ってみると。

「寬文壬子(じんし)」寛文一二(一六七二)年。

「卷軸(くわんぢく)」文書に軸を付けて巻き込めるようにしたもの。「まきぢく(まきじく)」とも読む。

「評判」これは而愠斎の評言部分の謂いではなく、書物全体、則ち、「古今百物語評判」一書全体を指していると読むべきである。

「ちか比(ごろ)の例(ためし)をも引き用ゐられぬる事侍れば」「百物語評判卷之五 第一 痘(いも)の神・疫病(やくびやう)の神附※1※2乙(きんじゆおつ)」の字(じ)の事」(「※1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「※2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」)の「※1※2乙(きんじゆつおつ)」の私の注を参照。なお、そこで示した、太刀川清氏の論文「『百物語評判』の意義」(『長野県短期大学紀要』(一九七八年十二月発行)所収)PDF)は本「古今百物語評判」の論文(本書のみを真正面から論じた論文は少ない)としては非常に優れたものである。必読。

「つゐで」不詳。しかし、これが「ついで」の誤記ではあるまいか?(本書は歴史的仮名遣の誤りが(特にルビで)甚だ多い) とすれば、これは「ついで」で名詞「序(つい)で」(「次第(つぎて)」の転訛)で「順序・次第」の意ではないか? 時系列の順が狂っていて、読んでいるうちに、「ものぐる」ほ「し」く=異常な感じさえ覚えるようになってしまうというのである。

「評判」こちらは前後から、而愠斎の評言部分の謂いと採れる。而愠斎に問い対話する人間の話にならまだしも、この世にいない元隣の評釈部分の例に死後の巷間の出来事が語られるのでは、これこそまさに真の怪談ということになるからである。しかし、それも怪談集ならでは、寧ろ、あって読んだ後に「あれ?!」とその事実に想到して慄然とするのも、怪談の読後の醍醐味、基、凄みというべきであろう。

「予」不詳。最後の記名は版元で、この孰れかが記したというのは、通常は考えにくい。但し、この二人の名前は書肆の町人にしてやや格好が良過ぎる。先に示した、太刀川清氏の「『百物語評判』の意義」には、『近代日本文学大系「怪異小説集」の解説者(笹川種郎氏)は、版元の京都堀川通西吉水町梶川常政、植木町通福島町杉原正範の二人を、いずれも山岡元隣の門人であるというが、そうす』るなら、「序」に出る「やつがれも其座につらな」たったという下僕(やつがれ)は『そのうちの一人であったか。しかしその確証はない』とある。しかし、仮に孰れかが門人であったなら、「跋」は書けるであろう。

「醫家に用(もちゆ)る」山岡元隣は医師でもあったことをお忘れなく。

「素問(そもん)」中国最古の医書。「霊樞(れいすう)」とともに「黄帝内経(こうていないきょう:「内経」は本邦では「ないけい」「だいけい」とも読まれる。秦漢時代の成立(本文ではその少し前「戰國のすゑになり」(成り)「ぬれど」と言っている)、と伝えられ、黄帝(既出既注。中国古代の伝説上の帝王。名は軒轅(けんえん)。神農氏の時、暴虐な蚩尤(しゆう)と戦って勝利し、推されて帝となった。衣服・貨幣・暦・医薬・音律などを定めたという。五帝の一人)と名医との問答体で、古代中国の医術と身体観を記す。鍼灸医学の古典)」を構成する。「霊枢」よりも成立は古いとされ、自然哲学的な医学論が中心であるが、現行のものは唐代に大幅に改変されたものとされている。

「漆園(しつゑん)老人」荘子(紀元前三六九年頃~紀元前二八六年頃)の通称。「史記」の「老子韓非列伝」に、

   *

莊子者、蒙人也、名周。周嘗爲蒙漆園吏、與梁惠王、齊宣王同時。其學無所不闚、然其要本歸於老子之言。故其著書十餘萬言、大抵率寓言也。

(荘子は蒙人なり、名は周。周は、嘗つて蒙(もう)[やぶちゃん注:戦国時代の宋の地名。現在の河南省商丘市民権県。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の漆園(しつえん)の吏[やぶちゃん注:漆を採取する漆林の管理人。]と爲り、梁の惠王、齊(せい)の宣王と時を同じうす。其の學は闚(うかが)はざる所無く、然るに、其の要は老子の言に本(ほん)を歸(き)す。故に其の著書十餘万言、大抵は率(おほむ)ね寓言(ぐうげん)なり。)

「堯舜孔顏」古代の理想的聖王堯(ぎょう)・舜(しゅん)と、孔子と彼が最も愛した高弟顔回。

「の給ひ」「宣ひ」。

「三墳」中国古代の書籍と伝えられるものの、謎の書である「三墳五典」のこと。ウィキの「三墳五典」によれば、『どのような書であったかは諸説紛々としてわからない。三墳五典、またはそれを略した「墳典」「典墳」は、珍しい貴重な書籍を意味する語として、後世の詩文によく使われる』。但し、『三墳五典の名は』、「春秋左氏伝」昭公十二年に既に『見え、それによると』、『楚の霊王が左史の倚相をほめて「三墳・五典・八索・九丘を読むことができる」と言ったという。杜預の注は「みな古書の名である」と簡単に述べるにとどまる。このうち八索は』「国語」に『も出てくるが、韋昭は書物ではなく』、『身体の部位のこととする』。「周礼」の「春官・外史」に『「三皇五帝の書を掌る」とあり、鄭玄』(じょうげん:後漢末の学者)『注に三墳五典のこととする。三墳五典が何を指すかは、人によって説が異なる。もっとも有名なのは』、『孔安国に仮託された』『「尚書」序の『説で、「伏羲・神農・黄帝の書を三墳といい、大道を説いたものである。少昊』(しょうこう)『・顓頊』(せんぎょく)『・高辛』(帝嚳(こく)の別名)『・唐・虞の書を五典といい、常道を説いたものである」といい、また八索は八卦の説で、九丘は九州について記したものとする。書序はまた、孔子が三墳五典をもとに』「尚書」(=「書経」)百篇を『選び、八索九丘は孔子によって除かれたとする』。『そのほか、賈逵』(かき:後漢の儒学者・天文学者)『によれば、三墳は三王(禹、湯王、文王・武王)の書、五典は五帝の典、八索は八王の法、九丘は九州亡国の戒であるという。延篤は張衡の説により、三墳は三礼、五典は五帝の常道、八索は』「周礼」に『いう八議の刑(八辟)、九丘は九刑であるとする。馬融は三墳を天地人の気、五典を五行、八索を八卦、九丘を九州の数であるとする』。「釈名」(しゃくみょう:後漢末の劉熙(りゅうき)が著した辞典)『よると、三墳は天地人の三才の区分を論じたものであり、五典は五等の法であり、八索は孔子のように王にならなかった聖人の法であり、九丘は九州の地勢の違いに応じて教化するものであるとする。また、これらの書物はすべて上古の書物であり』「尚書」の「堯典」『以外は滅んだとしている』。『三墳を三皇の書とした場合、三皇は黄帝より前の人物であるので、「黄帝の時代に蒼頡が文字を作った」というもうひとつの伝説と矛盾する』。孔穎達(くえいたつ:初唐の学者)『よると、三皇の時代に字がなかったというのは緯書』(いしょ:漢代に儒家の聖典である経書類を神秘主義的に解釈した書物群。「緯」とは「経」(縦糸)に対する「横糸」であり、経書に対応する書物(群)を指して緯書と称している)に『もとづく説にすぎず、蒼頡が黄帝の史官であったとするのも一説にすぎないとして、伏犧以前に文字があったとする』。なお、「古三墳」という『書物が現存するが、宋以前の目録に見えず、宋代の偽書と考えられている』とある。

「三代」中国史で最も古い三つの王朝、夏・殷・周と採っておく。

「巵言寓言(しげんぐうげん)」「巵言」は、その時に応じて、便宜的に用いる臨機応変の言葉を指し、「寓言」は中国人の大好きな、他の事象に仮託して表現する譬え話のこと。

「洽聞(がうがん)」既出既注。通常は「かうぶん」が正しい(現代仮名遣は「こうぶん」)。「洽」は「遍(あまね)く」の意で、見聞や知識が広いことをいう。

「貞享丙寅曆季夏仲旬」「貞享」の「ひのえとら」は三年で、一六八六年。「季夏」(きか)は晩夏で陰暦六月の異称。この年は閏三月があるので、六月中旬はグレゴリオ暦では八月の上旬である。これは本「古今百物語評判」の初版のクレジットであることが確認される。

「堀川通西吉水町」現在の京都府京都市下京区吉水町(よしみずちょう)(堀川通)。(グーグル・マップ・データ)。

「梶川常政」不詳。他の書誌で書林梅花堂の書肆名を頭に被せるものがある。

「植木町通福島町」不詳。現行の福島町ならば、京都府京都市上京区福島町と、下京区福島町の二箇所がある。「植木町通」というのは現在の京都市街にはないようである。

「梓行」「しかう」。板行(はんぎょう)。出版。

「杉原正範」不詳。]

2018/11/03

古今百物語評判卷之五 第八 而慍齋の事幷此草紙の外題の事

 

  第八 而慍齋の事此草紙の外題の事

一座の人の云(いふ)、「今夜(こよひ)も既に深更に及びければ、いざ、御暇(おんいとま)申(まうし)侍らむ」とあれば、某(それがし)の云(いは)く、「此(この)ばけ物の次手(ついで)には、いな物にて候へども、今ひとつ、まぢかき不審の御座候は、先生のもの語(がたり)を承り候に、何事を尋ね候ひても、楯板(たていた)に水をながすごとく、然も、其(その)ふる事[やぶちゃん注:「古事」。]の御噂(おんうわさ)ども、まざまざ、書物を御ひかへなされ候やうに聞え侍る。かゝるうへは、さぞ、御胸中(ごきようちゆう)もすゞしく、萬(よろづ)の事に附(つき)ても、御いきどをりも有(ある)まじきやうに存じ候ふに、齋號を『而慍』と御附なされ候ふは、何事ぞや」と云へば、先生、こたへて云(いふ)、「余が齋號は御存じのごとく、「論語」に『人不ㇾ知而不ㇾ慍不亦君子乎』(人、知らず、而るを慍(いきどほ)らず。亦、君子ならずや)といふ心を用ひ申候。此心は、『こゝに人あり、身によりより、習ひてつみをきたる才德ありとても、元より、人に賣(うる)べき心ならねば、人、知らずとて、露(つゆ)許(ばかり)いきどをる心、なし。若(もし)、あげ用ひたらむ時は、時にしたがふて行(おこな)ふべきのみ、と思へるは、君子ならずや』とのたまふ。されば、某(それがし)は、君子にあらず。然る故に、すこしばかりたくはへをきたる才藝を、人、しらず。然るを、憤るがゆへ、かく齋號を附(つき[やぶちゃん注:原典のルビ。])申たるなり。と申せば、今更、おこがましき事なれど、若きより書物にふけりて、あたかも、書癖(しよへき)あるに似たり。此故に經史子集(けいしししふ)の、まちまちなるに眼をさらし、上(かみ)、伏犧(ふつき)より、下(しも)、明・淸におよぶまで、世の治亂、政(まつりごと)の得失、人の賢否(けんぴ)、事の變易(へんえき)、ひとつとして覺えずといふ事なく、醫術・卜筮(ぼくぜい)・種樹・相牛(さうぎう)の事まで、殆んど、さとし。中比(なかごろ)、禪學を好みし故に、「大藏經」五百凾(かん)のくだくしきは、さらにもいはじ、諸宗の義論、諸師の語錄に、ほゞ通達し、我(わが)日のもとの道は、淺香山(あさかやま)のふもとへもわけのぼり、にほてるうみのながれをも汲み、連歌俳諧の小技(しやうぎ)まで心がけ候へども、誠に昌黎(しやうれい)の云へるごとく、頭(かしら)、かぶろに、齒、あばらばなるまで、させることなく、たゞさびしきに打ちまかせて、「四書詳論」・「曆代異考」・「源氏家傳抄」・「百人一首新抄」・「伊勢物語言餘抄」・「つれづれ增補鐵槌」・同(おなじく)「別傳」・「方丈記抄」・「歌本草增補」・「水鏡の抄」・「たが身のうへ」・「小さかづき」・「たからぐら」・「はいかい仕やう」など、あみをき[やぶちゃん注:ママ。「編み置き」。]候(さふらふ)を、人の望(のぞみ)にまかせて、梓(あづさ)にちりばめし[やぶちゃん注:出版した。]も、あり。又、家にのこせしも、あり。かくして、世にも、かず、まへられず[やぶちゃん注:ママ。「參られず」。たいして用いられず。]、時にも知られず、草木(くさき)とともに朽果(くちはて)むは、何ぞ『而慍(而(しか)るを慍(いきどほ)る)』ならざるべきや」。某(それがし)、また、云(いは)く、「今夜(こよひ)の御物がたりを、我々、かき附(つけ)をきて[やぶちゃん注:ママ。]、後に板行(はんかう[やぶちゃん注:原本のルビ。])いたさば、外題(げだい)を何と申(まうす)べく候哉(や)。此草紙に論じ給ふ處、古今(ここん)の不思議あきらかにきこえ、其(その)博識洽聞(かうぶん)なる事、五車(しや)の書をも恥ぢざるべし」といひしかば、先生、いへらく、「若(もし)、今夜(こよひ)のはなしを書附(かきつけ)給はゞ、「百物語評判」と名附(なづけ)給ふべし。淺き名のやうに侍れども、是、古人の心に叶ひ侍る。むかし、張橫渠先生、東西の窓の銘を書きて、「砭愚訂頑(へんぐていぐはん)」と名附け給ひしかば、程子、是れをきらひて、『たゞ東西の銘と號せよ』と教へ給ひき。されば、此草紙もさまざまの名も侍るべけれど、只、今夜の實事(じつじ)にしたがひて名附給ふべし」と申されて、眠(ねむれ)るやうに見えければ、各々、退出いたしぬ。其後(そののち)、先生、寬文壬子(みづのえね)のとし、六月二十七日に、四十二歳にして果(はて)られたり。若(もし)、是にかす[やぶちゃん注:寿命を「仮に与える」の意の「假す・藉す」か。「加す」で「齢(よわい)を加える」かも知れない。]に、年を以てせば、いかばかりの事か侍らんに、殘(のこ)り多く侍らずや。先生姓は平(たひら)、山岡氏(やまをかうぢ)、諱(いみな)は元隣、字(あざな)は德甫(とくほ)、父祖は勢州山田の人なり。是も、其夜の物がたりなれば、かきつけ侍る。

[やぶちゃん注:これが「古今百物語評判」本文の掉尾である。但し、この後に別人による跋文がある(無論、電子化する)。

「論語」「『人不ㇾ知而不ㇾ慍不二亦君子一乎』(人、知らず、而るを慍(いきどほ)らず。亦、君子ならずや)」(人、知らず、而るを慍(いきどほ)らず。亦、君子ならずや)」「論語」の巻頭「学而第一」の冒頭に配された名文、

   *

子曰、「學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。」。

(子曰はく、「學びて時に之れを習ふ、亦、説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り、遠方より來たる。亦、樂しからずや。人、知らずして、慍(いきどほ)らず、亦、君子ならずや。」と。)

の末尾。「慍」(音「ヲン(オン)」)は「憤」で「憤(いきどお)る・腹を立てる・不平不満を懐く」の意。「慍(うら)みず」という訓読も広く行われる。「慍」(「憤」も)和語の古語では「慍(ふつく)む」(近世には「ふづくむ」とも)とも訓じた。

「書癖(しよへき)」愛書・読書癖。

「經史子集」漢籍の分類法。「経書(けいしょ)」(「経」は縦糸。「古今を貫く真理を載せた書物」の意から、儒教の経典を指す。中国古代の聖賢の教えを記した四書・五経・九経・十三経の類いを指す)・「史書」・「諸子」(諸子百家の書群)・「詩文集」の四部に分けるもの。

「伏犧(ふつき)」複数回既出既注。中国古代の神伏羲(ふっき)。

「明・淸」明代・清代。元隣の亡くなった寛文一二(一六七二)年は、清(一六一六年に女真族のヌルハチ(太祖)が明を滅ぼし、国号を後金として建国)の康熙十一年に当たる。

「種樹」草木を植えること。ここは本草学(植物学)の知識を指すのであろう。

「相牛」牛の外見の相(そう)を見て、その性質を占うこと。ここは前と対で、動物学的知識を指すのであろう。

『「大藏經」五百凾(かん)』仏教の聖典を総集したもの。経・律・論の三蔵を中心にそれらの注釈書を加えたもの。一切経。「凾」は「箱」。「卷」に同じいが、版本により、巻数は一千とも五百とも称し、異なるので、限定すり意味はない。

「淺香山(あさかやま)」「安積山」とも書き、福島県郡山市日和田にある山(同市片平の額取(ひたとり)山とする説もある)で歌枕。葛城王 (かずらきのおおきみ:後の左大臣橘諸兄)と采女(うねめ)との山ノ井伝説で知られる。ここはその采女の詠んだ「万葉集」巻第十六(三八〇七番)の「安積山影さへ見ゆる山の井の淺き心を吾が思はなくに」に掛けて、和歌の道の修学の志向を指すものであろうか。

「にほてるうみ」「鳰照る湖」で、鳥のカイツブリが水面に浮かんで輝いている琵琶湖の意か。歌枕の代表として前の浅香山と対で、やはり和歌の学びの精進を指しているか。

「昌黎(しやうれい)」中唐の詩人の韓愈。昌黎(現在の河北省昌黎県)の出身であると自称したことから「昌黎先生」と尊称されるが、実際には鄧(とう)州河陽(今の河南省孟州市)の出身である。唐宋八大家の一人。才気煥発で政治家としても辣腕を奮ったが、政敵も多く、憲宗の逆鱗に触れ、左遷の憂き目を受けたこともあり、官人としての半生は必ずしも順調なものではなかった。

「頭(かしら)、かぶろに、齒、あばらばなる」後者は「疎(あば)ら齒」で、抜けて隙間が多くなった歯の意であろう。韓愈の若き日(三十五歳)の文「與崔群書」(崔群に與ふる書)に、歯槽膿漏で歯が抜け、目が翳(かす)み、鬢は真っ白、頭も半白と歎いており、五言古詩の「落齒(らくし)」もある。ともに紀 頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらを参照されたい。

「四書詳論」不詳。以下、山岡元隣の著作が列挙されるが、情報が乏しく、有益な注は附せられなかった。悪しからず。

「曆代異考」不詳。

「源氏家傳抄」「源氏物語」の研究書。

「百人一首新抄」不詳。「小倉百人一首」の注釈研究書か。

「伊勢物語言餘抄」「伊勢物語」の研究書。

「つれづれ增補鐵槌」「徒然草鐡槌增補」。「徒然草」の注釈研究書。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典全文が読める。

『同(おなじく)「別傳」』不詳。

「方丈記抄」明暦四(一六五八)年刊。「方丈記」の注釈書。早稲田大学図書館古典総合ータベースで原典全文が読める。

「歌本草增補」「食物和歌本草增補」であろう。元文二(一七三七)年に「食物和歌本草」が刊行されているが、後の寛文七(一八六七)年に増補版が出ている。和歌を対象とした一種の博物書のようである。共著。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらでも、彼が担当したと思われる原典部分が読める。

「水鏡の抄」「水鏡」の研究書。明暦二(一六五六)年刊か。

「たが身のうへ」「他我身之上」。仮名草子。明暦三(一六五七)刊。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典が読める。

「小さかづき」「小巵」。仮名草子。寛文一二(一六七二)刊。

「たからぐら」「寶藏」。俳書。寛文一一(一六七一)年刊。和漢の故事を多く引き、洒落飄逸な味を持つ俳文の嚆矢とされる作品。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典が読める。

「はいかい仕やう」「俳諧仕樣」。寛文二(一八六二)年刊の俳諧作法書「誹諧小式」の外題(げだい:書物の表紙に記してある書名・題名。書物の扉や本文の初めなどの内部に記されている「内題」と異なることがしばしばあり、それは本文内でもよくある。そもそもが本書でも、正式には「古今百物語評判」であるが、本文中には「百物語評判」とする箇所が多い)。「早稲田大学図書館古典総合データベース」のこちらで原典が読める。

「洽聞(かうぶん)」現代仮名遣は「こうぶん」。「洽」は「遍(あまね)く」の意で、見聞や知識が広いことをいう。

「五車」荷車五台分。

「張橫渠」既出既注

「砭愚訂頑(へんぐていぐはん)」「砭愚」とは愚を治療すること。「砭」は中国の鍼術で用いる石で造った針。焼いて瀉血などに用いた。「訂頑」は文字通り、頑(かたく)なな点を正すの意。ここに出る話は、朱子学の入門書として南宋の朱熹と呂祖謙が編纂した「近思録」(北宋期の学者で宋学を始めたとされる、周濂渓・張横渠・程兄弟の著作をもととし、一一七六年に刊行された)に出る。

   *

横渠學堂雙牖右書訂頑、左書砭愚。伊川曰、是起爭端。改訂頑曰西銘、砭愚曰東銘。

(横渠、學堂の雙牖(さうゆう)の右に「訂頑」と書し、左に「砭愚」と書す。伊川(いせん)曰く、「是れ、爭ひを起こす端(たん)たり。『訂頑』を改め、『西銘』と曰ひ、『砭愚』を『東銘』と曰へ。」と。)

   *

「雙牖」は双方に並んだ窓の戸。

「程子」これは既出既注の北宋時代の儒学者で朱子学・陽明学のルーツとされる程兄弟「二程子」の弟の程頤(い 一〇三三年~一一〇七年)のこと。「伊川先生」と称された。

「寬文壬子(みづのえね)のとし」寛文十二年。グレゴリオ暦では一六七二年七月二十一日。]

古今百物語評判卷之五 第七 而慍齋化物ものがたりの事

 

  第七 而慍齋(じうんさい)化物ものがたりの事

一人のいはく、「宵よりの物語にさまざまの道理を仰せきかされ候が、先生は何にてもばけ物御覽候哉(や)」と問ひければ、先生、答(こた)へて云はく、「それがしこそ、ばけ物多く見候(さふらひ)て、此事を恐れ申(まうし)侍る。其次第を語り申さん。先づ、たゞ今は世に、儒學、はやり候ふ故、我、人ともに、少し、文字を讀(よみ)候へば、髮頭(かみかしら)異(こと)やうに、衣服、きらきらしくつくろひ、かしこげに物いひ、年よる人をあなどり、露(つゆ)許(ばかり)の學問に高ぶり、利慾は常の人に十倍して、口には見事に云ひなせども、實(まこと)の律義(りつぎ)、つゆばかりもなきは、俗儒・腐儒など云ひて、儒者の化物なり。身には三衣(さんえ)を着(ちやく)し、口には五戒をとけども、誠(まこと)の道心、ゆめばかりもおこらずして、破戒無慚のやからは、出家のばけたる賣僧(まいす)ならずや。其外、世俗のわざにも、傾城(けいせい)などいふ物の仕かたを見るに、思はぬ方に空啼(そらなき)し、髮をきり、爪をはなし、かたへに來りても、女房のごとく、ことかたにも、さのごとく、人をたぶらかし、金銀をすひとるは、是、女のばけ物なり。近比(ちかごろ)は又、『かぶき太夫』といふ物、あり。元より、男色(なんしよく)の道も、むかしよりいましめたれど、此比にいたりては、殊更に盛(さかん)になりて、おのれより年よりたるをも戀(こひ)しとふて、猶、まどひやすきは、好色のばけ物ならずや。其外、『判(はん)はんじ』・『はとのかい』などいふもの、一文不通(いちもんふつう)の身にて、人の分別を沙汰し、剃刀(かみそり)より薄きえりつきにて、人の貧富を論ずるは、いかなるばけ物ぞや。かやうの類(るい)、多しといへども、語り盡すまじ」と申されき。

[やぶちゃん注:コーダの一つ前で、「而慍齋」元隣(「而慍齋」は彼の別号)は遂に、この手の評釈系怪談にありがちな、真の化け物は現在の世の人の中にこそいる、という辛口の諧謔による世俗批判を展開する。そこでは、形の上では自身も含まれるという鏡返しの謙遜を加えてはいるものの、相当に辛辣であると言える。元隣の生涯が如何なるものであったかは詳らかには知らぬが、この口吻には同時代の自称文化人に対する彼の憤懣も現れているように見うけられる。

「三衣(さんえ)」既出既注であるが、再掲する。「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣のこと。

「五戒」既出既注であるが、再掲する。在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」。

「傾城」花魁(おいらん)・娼妓(しょうぎ)の異称。ここは広義の遊女・女郎でよい。

「思はぬ方に」思いもしなかった折りに。或いは、悪意にとれば、想像も出来ない方法でか。次注参照。

「空啼(そらなき)し」エキサイトニュースコラム嘘泣き、断髪、爪剥がし!?吉原遊郭の恒例、遊女とお客の駆け引きバトルは凄まじいに『吉原を始めとした遊里を端的に表現した言葉として名高いのが、『四角な卵と遊女の誠、あれば晦日に月が出る』と言うものがあり』、『これは』、『いずれも四角い卵と月末に出る月はあり得ないもの、それと並んで遊女の誠意はあるはずがないと揶揄している』とし、さらに『遊女にはミョウバンを着物に染み込ませて顔をこすり、涙を流して見せる“女郎のそら涙”つまり嘘泣きを中心に、客人を篭絡するための様々な策略があ』るとある。また、『客人を篭絡するための様々な策略があ』る『が、その最』『たる物が』「心中」で』、『一般的に心中と言えば』、『自害・自殺行為を連想させ』る『が、遊里での心中は』、「心中立」(しんじゅうだて:個人サイト「自傷行為と理解の「心中立」によれば、『自分の心の中をすっかり見せ、契りを交わした相手に愛の証拠をみせ、恋愛の誠実性を立証すること』とある)『とも言って』、『客人に対し』、『真心を示す遊女の行動を意味してい』『た。心中は大きく分けて』六『種類の行為があり、本項ではそのうちから』、「断髪」と「放爪(ほうそう)」を紹介するとある(以下、次注に続ける)。

「髮をきり、爪をはなし」上記リンク先の「2」に、一『つ目の断髪は文字通り』、『髪を斬ることで』、『遊里では髪の毛の一部を渡す』ことを指した。『しかし、殆どは髪にボリュームを持たせる』「かもじ」(髢・加文字とも書き、「髪文字」の略。髪を結ったり、垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪。人毛や牛の尻尾の毛が使われる)で『あったり、他の人から入手した物が多』かったとあり、『続いての放爪は指から爪を取って渡し、思いの丈を訴えるもので』、『爪が剥げたり』、『割れたりするのは痛い』『ので、その痛みを誓いの印としたので』あろうと思われるが、実際に自分の『爪の周りを切り回したり、痛み止めとして酢に浸すなど、色々な工夫が凝らされてい』たが、『これにも抜け道があり、妹分に頼んで』、『彼女の小指の爪を伸ばさせ、それを切って何食わぬ顔で渡したり』、井原西鶴の処女作「好色一代男」(天和二(一六八二)年の『ように死人から抜いた爪を商う業者から買う』、『などの計略があ』ったとある。

「ことかたにも」別な男のところでも。

「かぶき太夫」歌舞伎では女方の最高位の者を太夫と敬称するから、以下の叙述と一致する。それに掛けて、並外れた男色家を蔑称したものであろう。

「判(はん)はんじ」小学館「日本国語大辞典」に、「はんはんじ」、漢字表記「判判」で載り、『法師の姿をしたものや歌比丘尼』(六道図や熊野那智参詣曼荼羅などを絵解きしつつ、全国に熊野信仰を広めた熊野比丘尼が、江戸時代に宴席に侍るようになった者の呼称で、中には売春行為を行う者もいた)『などが、熊野牛王』印(熊野三山で配布した符印。妄語を正す熊野の神使である烏の絵で図案化した「熊野牛王宝印」の六文字が印刷され、朱の宝印が押してあるもの。護符や起請文を記すのに用いた)『の誓紙などで占をすること。また、その人』とある。

「はとのかい」同じく小学館「日本国語大辞典」の「鳩」の大項目内に「はとの飼い」として載り、『口先で人をたぶらかして世渡りをする人。詐欺師やいかさま師などにいう。もと、山伏や占者のような格好をして、家々を回り、熊野の新宮・本宮の事を語っては、鳩の飼料と称して金をだまし取ったところからという』とあり、「語源説」の欄に、『八幡神に託して鳩の飼料をむさぼるの義か』(「和訓栞」)、『ハトノカイ(法度害)の意か』(「大言海」)とある。

「一文不通(いちもんふつう)」一文不知とも言う。一つの文字も読み書きができないこと。「文」は文字の意で、一つの文字すらも、通じてさえ判ってさえもいないの意から。

「人の分別を沙汰し」人を占うと称して語り(事実は「騙り」)。

「剃刀(かみそり)より薄きえりつきにて、人の貧富を論ずるは」剃刀より薄い襤褸でさえないような代物を身に纏っていながら、人の金運不運を占って語る(事実は「騙る」)というのは。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀の巢

 

長 詩 二 篇

 

 

  雲雀の巢

おれはよにも悲しい心を抱いて故鄕(ふるさと)の河原を步いた。

河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。

その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、

おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。

おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。

ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髮の毛のやうに、へらへらと風こうごいてゐた。

おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。

そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。

あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。

おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。

干からびた髮の毛のやうなものをつかんだ。

河原よもぎの中にかくされた雲雀の巢。 

 

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。

おれはかわいそうな雲雀の巢をながめた。

巢はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。

いとけなく育(はぐ)くまれるものの愛に媚びる感覺が、あきらかにおれの心にかんじられた。

おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。

おれはまた親烏のやうに頸をのばして巢の中をのぞいた。

巢の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。

かぼそい植物の纎毛に觸れるやうな、たとへやうもなくDELICATEの哀傷が、影のやうに神經の末梢をかすめて行つた。

巢の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。

わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。

生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。

死にかかつた犬をみるときのやうな齒がゆい感覺が、おれの心の底にわきあがつた。

かういふときの人間の感覺の生ぬるい不快さから慘虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。

おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。

うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。

つめたい汁のやうなものが感じられた。

そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液體がじくじくと流れてゐるのをかんじた。

卵がやぶれた、

野蠻な人間の指が、むざんにも纎細なものを押しつぶしたのだ。

鼠いろの薄い卵の殼にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。 

 

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。

その可愛いらしいくちばしから造つた巢、一生けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。

いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。

おれは卵をやぶつた。

愛と悅びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。

くらい不愉快をおこなひをした。

おれは陰欝な顏をして地面をながめつめた。

地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。

なまぐさい春のにほひがする。

おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。

人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。

人間が人間の生殖機を醜惡にかんずること。

あるとき人間が馬のやうに見えること。

人間が人間の愛にうらぎりすること。

人間が人間をきらふこと。

ああ、厭人病者。

ある有名なロシヤ人の小、非常に重たい小をよむと厭人病者の話が出て居た。

それは立派な小だ、けれども恐ろしい小だ。

心が愛するものを肉體で愛することの出來ないといふのは、なんたる邪惡の思想であろう。なんたる醜惡の病氣であろう。

おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない。

ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。

ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。

おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。

おれはときどき、すべての人々かられて孤獨になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて淚ぐましくなる。

おれはいつでも,人氣のない寂しい海岸を步きながら、遠い都の雜鬧を思ふのがすきだ。

遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故鄕(ふるさと)の公園地をあるくのがすきだ。

ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。

おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。

おれはくるしくなる。

おれはさびしくなる。

心で愛するものを、なにゆゑに肉體で愛することができないのか。

おれは懴悔する。

懺悔する。

おれはいつでも、くるしくなると懴悔する。

利根川の河原の砂の上に座つて懴悔をする。 

 

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いゐる。

河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。

利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。

あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顏がみえる。

それらの顏はくらくして地面をばかりみる。

地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。 

 

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。 

 

[やぶちゃん注:太字「なにもの」「いや」は底本では傍点「ヽ」。

第二連二行目の「かわいそうな」の「かい」及び「うな」はママ。

いやのこと」の「の」はママ(「厭なこと」と同義(格助詞「の」は状態を表わす語(この場合は形容動詞の語幹)について連体修飾語を作るから誤法ではない)。

「生殖機」はママ(これは再版でもそのままで、「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)で初めて「生殖器」となっている。現行の筑摩版全集は「生殖器」である)。

「しほらしい」はママ。

「心が愛するものを肉體で愛することの出來ないといふのは、なんたる邪惡の思想であろう。なんたる醜惡の病氣であろう」の二箇所の「あろう」はママ。

 本詩篇は一行字数が、当該行改行と重なっているために、それらがあたかもだらだらと繋がって読めてしまうという困った現象が複数箇所で発生している。例えば最悪なのは、第二段の中間部の一つのクライマックス部分の頭の、

   *

わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。

生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。

死にかかつた犬をみるときのやうな齒がゆい感覺が、おれの心の底にわきあがつた。

   *

の個所で、ここは読者の殆んどが、

   *

わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。死にかかつた犬をみるときのやうな齒がゆい感覺が、おれの心の底にわきあがつた。

   *

続いた塊りとして読んでしまう可能性がすこぶる高くなるという悲劇が起こっている

「その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、」末尾読点はママ。初出形(後掲)では句点。再版では句読点なし。「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)で句点。前後との違和感が大きくなるから、ここは句点がよかろうとは思う。筑摩版全集の強制校訂補正では句点となっている。

「河原よもぎ」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属カワラヨモギ Artemisia capillaris。本種は通常のヨモギ(ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)とは別種である。河原に生えている普通の「よもぎ」(蓬)と勝手に解釈しては誤りである。茎の下部がやや木質化して半灌木(低木)状になること、花をつける長い花茎とは別に、花をつけずに先にロゼット状の葉を叢生させる短茎とが一個体の中にあるなど、一般的に我々が知っているヨモギとは外見もよく見ると素人でも判別出来るほどに異なる。それぞれの学名部分にそれで検索したグーグル画像検索画面をリンクしておいたので見られたい。

「雲雀」本篇は実際の雲雀の巣と卵と空に鳴く親の囀りが詩篇中に現れるので、最近の私の仕儀になる、ややマニアックな注を施した「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」をリンクさせておく。この注による私の、私の憂鬱の完成は、作者萩原朔太郎も許して呉れるものと思う。

「巢の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。」この表現には不審がある。視覚的効果表現を捩じったと言えば、それまでであるが、「巢の中の」は「巢の中」【に射し込んだ】そ「の」、「かすかな光線にてらされて」の意であることは言うまでもない。読者は二通りあるであろう。一行を読み終えた際に、躓いて戻り、『――「巢の中に」、そ「の」「かすかな光線にてらされて――の意だろう』と推察して読み変えて読み進む人と、一行を読み終えた際に、脳内で勝手にそのように前の部分を読み変えて拘りなく読み進める人である。しかし、孰れにせよ、この「巢の中の」には私は明白な不審が存在すると考えている。後の示す初出を見て戴きたい。この部分は初出形では、

   *

巢の庭のかすかな光線にてらされてねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。

   *

である。私が不審に感じている部分のそれ「巢の庭の」の「庭」は誤字としか思えないが、「中」を誤記したり、植字工が誤植したりする可能性は極めて低い。そうして、初出形では読点が打たれていない。されば、私は一つの可能性を考える。それは、まず、

・「庭」は「底」の誤字或いは誤読或いは誤植ではないか?

という推理である。そうしておいて、この一行に私が朗読をする際の小ブレイクを意識して読点を勝手に打たせてもらうなら、

   *

巢のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。

   *

と打つ。正規文章表現の問題は、これが韻文=詩篇である以上、厳格に云々することは馬鹿げて無効であるから、私は「巢の底に」とするべきだと主張するのではない。しかし、ここで「巢の底の、」と読点を打てば、そこに詩想(読者の詩的意識と読み代えてもよい)は、巣の底の情景である、として一旦、切ることが出来、それによって以下の「かすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほど、さびしげに光つてゐ」る情景が映像として浮かぶ、という過程に躓きはなくなるのである。さればこそ、私は、せめて朔太郎は本詩集本文では「巢の中の」の後に読点を打つべきであったと私は思うのである。大方の御叱正を俟つ。

「卵がやぶれた、」の読点はママ。再版では句読点なし。初出形は後に掲げる通り、句点である。再版の句読点なしも悪くないが、前後との違和感が過剰に大きくなるから、ここは句点がよかろう。筑摩版全集の強制校訂補正では句点となっている。これには流石に私も賛同する。

鼠いろの薄い卵の殼にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた」潰れた卵の残虐なリアリズム描写を上手く避けている。「K」の意味は不詳。

「おれは陰欝な顏をして地面をながめつめた」「ながめつめた」は「眺め詰めた」。凝っと見詰め続けたの謂いと採っておく。初出形(後掲)は普通に「ながめた」である。

「ある有名なロシヤ人の小、非常に重たい小をよむと厭人病者の話が出て居た」「それは立派な小だ、けれども恐ろしい小だ」とくれば、父親殺しを主題とするドストエフスキイの「カラマーゾフの兄弟」で、私は「厭人病者」(「の話」とあるのは誤魔化すとして)とは、トリック・スターとして重要な役割を担うことになる、カラマーゾフ家の人嫌いの下男スメルジャコフ(私は実はカラマーゾフ家の中で彼がいっとう好きなのである)を直ちに惹起し、「心が愛するものを肉體で愛することの出來ないといふのは、なんたる邪惡の思想であろう。なんたる醜惡の病氣であろう」というのは、それこそ私はまさにスメルジャコフを名指していると考えている。これを「罪と罰」のラスコリーニコフのこととることのは誤りである。彼は確かに殺人に至るまでのそれは「厭人病者」といってもよいが、彼は結果して真実と対峙することで、自らの疾患を認識するからである。また、敢えて「地下生活者の手記」なんぞを挙げるべくもあるまいと私は思う。

「雜鬧」「ざつたう(ざっとう)」。「雑踏」に同じいが、但し、雑踏(或いは「雑沓」)の場合は歴史的仮名遣は「ざつたふ」となる。

 初出は『詩歌』大正五(一九一六)年五月号。以下に初出形を示す。太字は同前ここでは改変部に傍線を施したお読みなれば判るが、これは特異的に、初出形の一部が大きく異なる。それは作者が自身の病気を語り、そこに父を登場させている部分で、そこに至ると、知られた「月に吠える」の本詩篇とは様相がガラリとかわって受け取られるものとなっている。但し、そこは、上記本篇では、ほぼ全面的にカットされているのである。

   *

 

  雲雀の巢

おれはよにも悲しい心を抱いて故鄕の河原を步いた。[やぶちゃん注:「故鄕」にルビなし。]

河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。

その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうにくらくやるせなく流れてゐる。

おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。

おれの眼のまへには河原よもぎのくさむらがある。

ひとつかみほどのくさむらである。よもぎはやつれた女の髮の毛のやうに、へらへらと風こうごいてゐた。

おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。

そのうへきちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるのでおれはぐつたり汗ばんでゐる。[やぶちゃん注:「そのうへ」の後と「照りつけるので」の後の読点がない。]

あへぎくるしむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。

おれのたましひをつかむやうにしてなにかをつかんだ。

干からびた髮の毛のやうなものをつかんだ。

河原よもぎの中にかくされた雲雀の巢。[やぶちゃん注:後に行間なしで連が続いている。]

ぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。[やぶちゃん注:最後の「ぴよ」の前の七箇所の「ぴよ」の後の読点が総て、ない。]

おれは可愛そうな雲雀の巢をながめた。

巢はおれの大きな掌の上でやさしくものやうにふくらんだ。[やぶちゃん注:「掌の上で」の読点なし。「やさしくものやうに」は「やさしくも毬のやうに」の「毬」の脱字と推定される。]

いとけなくはぐくまれるものの愛に媚びる感覺があきらかにおれの心に感じられた。[やぶちゃん注:「感覺が」の後の読点がない。]

おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。

おれはまた親烏のやうにくびをのばして巢の中をのぞいた。

巢の中は夕暮どきの光線のやうにうすぼんやりとしてくらかつた。[やぶちゃん注:「やうに」の後の読点なし。]

かぼそい植物の纎毛に觸れるやうな、たとへやうもなく DELICATE の哀傷が、影のやうに神經の末梢をかすめて行つた。

巢ののかすかな光線にてらされてねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。[やぶちゃん注:「庭」はママ。これについては、本文に附した注を参照されたい。また、「てされて」の後の読点がない。]

わたしは指をのばして卵の一つをつまみあげた。

生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。

死にかつた犬をみるときのやうな齒がゆい感覺がおれの心の底にわきあがつた。[やぶちゃん注:「感覺が」の後に読点なし。]

かういふときの人間の感覺の生ぬるい不快さから慘虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。

指と指とのあひだにはさんだ卵を日光にすかしてみた。[やぶちゃん注:冒頭に「おれは」がない。「日光に」の前の「そつと」がない。]

うすあかいぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。

つめたい汁のやうなものがかんじられた

そのときゆびゆびとのあひだに生ぐさい液體がじくじくと流れて居るのをかんじた。

卵がやぶれた

野蠻な人間の指が、むざんにも纎細なものをおしつぶしたのだ。

ねずみいろの薄い卵の殼にはKといふ字が、赤くほんのりとかゝれてゐた。 

 

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。

その可愛いらしいくちばしから造つた巢、一生けんめいでやつた小動物の仕事愛すべき本能のあらはれ。

いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。

おれは卵をやぶつた。

愛と悅びとを殺して悲しみととにみちた仕事をした。

くらい不愉快をおこなひをした。

おれは陰欝な顏をして地面をながめた

地面には小石や硝子かけや草の根などがいちめんにかがやいてゐた。[やぶちゃん注:「小石や」及び「硝子かけや」の後の読点がない。]

ぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。[やぶちゃん注:最後の「ぴよ」の前の七箇所の「ぴよ」の後の読点が総て、ない。]

なまぐさい春のにほひがする。[やぶちゃん注:以下の次に行空けがあり、連はここで切れている。「月に吠える」ではここは連続している。] 

 

おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。

人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。

人間が人間の性殖機を醜惡にかんずること。[やぶちゃん注:「月に吠える」では「生殖機」。]

あるとき人間が馬のやうに見えること。

人間が人間の愛にうらぎりすること。

人間が人間をきらふこと。

ああ、厭人病人

ある有名なロシヤ人の小、非常に重たい小をよむと厭人病者の話が出て居た。

それは立派な小だ、けれども恐ろしい小だ。

心が愛するものを肉體で愛することの出來ないといふのはなんたる邪惡の思想であろう。なんたる醜惡の病氣であろう。[やぶちゃん注:「といふのは」の後の読点がない。]

おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない。

ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけてせめては兄らしい言葉をつたことすらもない。[やぶちゃん注:「手をかけて」の後に読点がない。]

ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。

おれは病氣の父をおそれて旅行をした。

おれは家をはなれたときに、おれは汽車の窓につつぶして泣いてゐた。

おれは自分の病氣を神さまに訴へた。

旅さきで、まいにちおれは黃いろい太陽をながめくらした。

そうして父がまつたく快(よ)くなつたときに、おれは飢えた狐のやうあに憔悴してわが家へかへつてきた。

[やぶちゃん注:以上の下線部は「月に吠える」版では丸ごとカットされていおり、その代わりに、「おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。/おれはときどき、すべての人々かられて孤獨になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて淚ぐましくなる。/おれはいつでも,人氣のない寂しい海岸を步きながら、遠い都の雜鬧を思ふのがすきだ。/遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故鄕(ふるさと)の公園地をあるくのがすきだ。」という詩行が新たに書かれた。]

ああ、きのふもきのふとて、おれはたいへんのおこなひをしてしまつた[やぶちゃん注:「月に吠える」では「おれは悲しい夢を見つづけた」となる。]

おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。

おれはくるしくなる。

おれはさびしくなる。

心で愛するものを、なにゆゑ肉體で愛することができないのか。

おれは懴悔する。

懺悔する。

おれはいつでもくるしくなると懴悔する。[やぶちゃん注:「いつでも」の後の読点がない。]

利根川の河原の砂の上にすわつて懴悔をする。 

 

ぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよと空では雲雀の親たちが鳴いゐる。[やぶちゃん注:最後の「ぴよ」の前の七箇所の「ぴよ」の後の読点が総て、ない。さらに、「月に吠える」版では最後の「ぴよと」の後にも読点があるが、それもない。]

河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。

利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。

あちらにもこちらにも、うれはしげな農人の顏がみえる。[やぶちゃん注:「あちらにも」の後の読点がない。]

それらの顏はくらくして地面をばかりみる。

地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。[やぶちゃん注:「月に吠える」版では次に行空けがあって、最終行は独立一連を成すが、それがない。]

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。 

 

   *

本詩は「月に吠える」に所収する詩篇の中で、初出形から最も大きく改変されている一篇と言える。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『雲雀の巢(本篇原稿二種八枚)』として以下の短い一種(無題)がチョイスされて載る。表記は総てママである。「×」は朔太郎がふったもの。

   *

 

  

 

×おれはたちまちひばりの巢をてのひらからおとした、

おれはまた□い白いそのとき砂の上にたよりなげにおとされた鳥の巢を眺めた、

鳥の芽生、生の卵子、鳥の親、その可愛らしいくちばしから作つたりあげた巢、一生けんめいでやつた小動物の仕事、その親子の愛すべき本能のあらはれ、

いろくな善良な心、倂し感じ心、しほらしい考へが私の心の底烈しく、こみあげだ、

おれは卵をわつた、生れるべき筈のものを生れなくしてしまつた、

さるべきと悅とを殺して悲しみと呪とをみちたおこなひをした、

悲しいくらい不愉快な、もの悲しいくちおしい思ひが胸をおした、思が顏をくらくし氣分を重たくした。

 

おれは、くらい陰鬱な顏をして地面をながめた、地面の上にころがつた卵をながめたは小石など砂などなど硝子かけなど草の根などがいちめんにひろごつてゐた、

生ぐさい春のにほひがする。

ふとおれはまたあのいやなことを考へ始めた、

人間が人間がきらふといふこと、厭人病者

ああ、厭人病者

ある有名のロシヤ人の小說にこの不愉快な厭人病者の話がある。がでてゐる。

心で切に愛するものが肉體で愛することの出來ないといふのはなんといふ情ないこと無慘なパラドツクスであろう、なんといふ醜惡なことで病氣であろう。

 

   *]

2018/11/02

古今百物語評判卷之五 第六 夢物がたりの事

 

  第六 夢物がたりの事

ある人の云(いはく)、「『かんたむ[やぶちゃん注:「邯鄲」。]の枕』といふは謠(うたひ)に御座候が、出處(しゆつしよ)さふらふや」と問(とひ)ければ、先生、こたへていはく、「山谷(さんこく)が『蓋ㇾ世成ㇾ功黍一炊』(世を蓋(おほ)ひ功を成す 黍(しよ)一炊(すい))といふ詩の註に、「異聞錄」を引きて云(いへ)り。これ、仙術の事なるを、謠には佛道の事にまじへたり。上(かみ)にて申(まうす)ごとく[やぶちゃん注:前条を指す。]、其術(じゆつ)なきにもあらねば、さる事もや侍らむ。さて、夢といふものこそ、さまざまのやうす、侍れ。先づ、人の寢入りたる時は、五臟六腑のつかさどる處々(ところどころ)、何れも其態(わざ)止(やむ)といへど、本心(ほんしん)の主人は、ねいらず、かるがゆへに、思ふ處の事あれば、起(おき)たる後(のち)、おもひ出(いだ)して、是を、夢、といふなり。さて其夢に、さまざまのかはりあり。たとへば、心(しん)の火(ひ)、虛(きよ)したる人は、水を夢み、腎の水(みづ)、虛したる人は、火を夢みなどするを、病夢といふ。又、其かたちの、ふるゝ[やぶちゃん注:「觸るる」。]事に附きて、見る事、あり。足を重ねて橫に臥(ふし)たるとき、其足、うへより落(おつ)れば、かならず、高き處より落(おち)たる、と思ふ事あり。是れまた、病夢の類(るい)なるべし。又、心(こゝろ)に富貴(ふつき)を願へば、富貴をゆめみ、苦勞を思へば、苦勞を夢み、其おもふところによつて、其事をみるは、思夢(しむ)といふ。孔子の、いはゆる、『夢にだに周公をみず』と仰せられしも、此類(るい)なり。又、瑞夢(ずいむ)といふは、丁固(ていこ)が松の夢、王濬(わうしゆん)が三刀(さんとう)の夢の類(るい)、よき事あらむとては、必ず、前より其氣の相(あひ)感じてみる夢をいふなり。彼の「詩經」にとける[やぶちゃん注:「説ける」。]夢あはせのごとく、蛇をみれば、女子(によし)生れ、弓をみれば、男子(なんし)生るゝ類(るい)、もしくは、こゝもとにて云へる、一富士二鷹の類(るい)なり。又、あしき夢のみえて、かならず、其難の來(きた)るも、其理(ことわり)、又、かくのごとし。人の心は神明(しんめい)に通ずるものなれば、自然(しぜん)と其善惡を、前より、さとるなるべし。されども、起(おき)ゐて、事にふれ、人に交(まぢ)はるときは、他念おほき故に、其事、なけれども、寢入りたるときは、却(かへつ)て心の働きも專らなるべし。又、瑞夢にも思夢にも病夢にもあらず候ひて、兵庫の湊より天竺の風景を詠(なが)め、車に乘りながら、鼠穴(ねずみあな)を通る、などゝみるは、是れ、實(まこと)の夢にして、はかなき事なるべし」と評せられき。

[やぶちゃん注:「『かんたむの枕』といふは謠(うたひ)御座候」ここで元隣は何だかぐちゃぐちゃ言っているが、「邯鄲の枕」(他に「盧生の夢」「黄粱夢」「黄粱一炊の夢」等)は、唐の沈既済(しんきさい)の伝奇小説「枕中記」(ちんちゅうき)が原典私の芥川龍之介「黃粱夢」では同作の注は勿論、『原典 沈既濟「枕中記」全評釈』及び『同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」』他を附してあるので、参照されたい(私のサイトでも最もアクセスの多いページのベスト・ファイブに入るものである。殆んどは高校生・大学生で、休業の終りや試験前の時期になると大繁盛らしい)。「謠」というのは、能の「邯鄲」のこと。同話を原素材に作られた能の演目であるが、ウィキの「邯鄲の枕」によれば、『しかし道士・呂翁にあたる役が、宿屋の女主人であり、夢の内容も』「枕中記」とは『異なり』、「太平記」巻二十五などに『見えるような』、『日本に入ってから変化した』、「邯鄲の枕」の『系譜上に位置づけられると言えよう。舞台上に設えられた簡素な「宮」が、最初は宿屋の寝台を表すが、盧生が舞台を一巡すると』、『今度は宮殿の玉座を表したりと、能舞台の特性を上手く利用した佳作である』。『なお、盧生の性格や描写から憂いを持つ気品ある男の表情を象った「邯鄲男」と呼ばれる能面が存在し』、この「邯鄲」の『盧生役のほか』、「高砂」の『住吉明神などの若い男神の役でも使用される』とある。詳しくは、サイト「宝生流謡曲名寄せ」の邯鄲(かんたん)」のページがよい。

「山谷(さんこく)が『蓋ㇾ世成ㇾ功黍一炊』(世を蓋(おほ)ひ功を成す 黍(しよ)一炊(すい))といふ詩」「山谷」道人は北宋の名書家にして名詩人として知られた黄庭堅(一〇四五年~一一〇五年:宋代の詩人としては、かの蘇軾・陸游と並称され、書家としては蘇軾・米芾(べいふつ)・蔡襄(さいじょう)とともに宋の四大家に数えられて、「詩書画三絶」と讃えられ、師でもあった蘇軾と名声を等しくし、「蘇黄」と呼ばれた)の号。一節は、彼の以下に示す七「王稚川既得官云々其二」の承句。

   *

從師學道魚千里

蓋世成功黍一炊

日日倚門人不見

看盡林烏反哺兒

 師に從ひて道を學ぶこと 魚(うを)の千里

 世を蓋つて功を成すも  黍(きび)の一炊のみ

 日日(ひび) 門に倚(よ)れども人(ひと)見えず

 看(み)盡くせり 林烏(りんう)反哺(はんぽ)の兒(じ)

   *

「異聞錄」晩唐の陳翰(ちんかん)が唐代の代表的伝奇作品を集めて編んだ撰集「異聞集」(全十巻)のこと。ウィキの「異聞集(陳翰)」によれば、沈既済の「枕中記」は『文字にかなりの異同があり、編者陳翰が手を入れた様を窺わせ』、『改編の跡が顕著に判る例であ』るとする。

「謠には佛道の事にまじへたり」謡曲の「邯鄲」の終局部は仏教的無常観を基底としており、最後はシテの盧生が「南無三寶南無三寶」と呼ばわり、地謠が「よくよく思へば出離(しゆつり)を求むる」と謡う。「出離」とは迷いを離れて解脱の境地に達すること(別に「仏門に入ること」の意もある)を指す仏語である。

「本心(ほんしん)の主人は、ねいらず」面白い。精神分析学や脳生理学的に正しいことを言っているかのように見えるではないか。

「孔子の、いはゆる、『夢にだに周公をみず』と仰せられし」「論語」の「述而篇」第七の五に出る。

   *

子曰、甚矣、吾衰也、久矣、吾不復夢見周公也。

(子曰く、甚だしきかな、吾が衰ふや、久し。吾れ、復た夢に周公を見ず。)

   *

これは心理学的に正しい。孔子は自らの教えが受け入れられず、世が乱世を続けていることに耐え難く、無意識的には現実世界に失望していたものと思う。そのネガティヴなあってはならないはずの失意の致命的内実について、理想の政治を採った周公旦の夢を見なくなった自分を通して、肯定は出来ないまでも、実は強く感覚的には感じとっていたのである。

「瑞夢(ずいむ)」吉祥の予知夢。

「丁固(ていこ)が松の夢」三国時代の政治家で呉に仕えた丁固(一九八年~二七三年)は、二六八年二月に最高位の官職である三公の一つ、司徒に昇進した。「呉書」によると、以前、丁固が尚書であった頃、『松の木が腹の上に生えるのを夢に見て、ある人に「松の字は十・八・公からなる。十八年後、私は三公になっているであろう」と言っており、結局』、『夢のとおりになった』とウィキの「にある。

「王濬(わうしゆん)が三刀(さんとう)の夢」三国時代の武将で、魏・西晋に仕えて活躍した王濬(二〇六年~二八五年)は、『広漢太守だった頃』、三『本の刀を寝室の壁にかけ、その刀がもう』一『本増えるという夢を見た。不吉に思った王濬が主簿の李毅にこの話をすると』、『李毅は「三刀は州の字です。これに一刀が増えたのは領土の拡大に成功することです」とこれを祝賀した』と(事実そうなったのであろう)ニコニコ大百科」「王濬にあった。

『「詩經」にとける夢あはせ』「夢あはせ」は「夢合わせ」で「夢占」のこと。「詩経」には幾つかの夢占いが登場する。今場正美論文注 中国古代夢(PDF)によれば、

   《引用開始》

「詩経」中の関連記事によれば、[やぶちゃん注:中略。]占夢の制度は西周時代から春秋時代の初め頃の状況と概ね一致する。[やぶちゃん注:「詩経」の。]『小雅』正月に「彼の故老を召し之に占夢を訊(と)ふ」とあるのは、周王が故老(太卜[やぶちゃん注:「ふとまに」。鹿などの獣骨等を用いた占い。]は多く故老が任じていた)占夢の官を召喚して夢占いをさせていたことを示す。「小雅」斯干に「大人之を占ふ、これ熊これ熊は、男子の祥なり。これ虺[やぶちゃん注:「き」。蝮(まむし)。]これ蛇は、女子の吉祥なり」とある。「大人」は占夢官の尊称で、天子のために夢を占う。王妃が熊や羆の夢を見たら男を生み、虺や蛇の夢を見たら女を産むという予兆である。「小雅」無羊に「牧人乃ち夢む、……大人之を占ふ、衆とこれ魚とは、實にこれ豊年なり、旐とこれ旟とは、室家蓁蓁たり」とある。これは牧人が占夢の官に夢占いをしてもらうというもので、水中に魚がたくさんいる夢を見れば豊作の年となり、亀や蛇、あるいは鳥が描かれた旗の夢を見たら家族が増える兆しだと詠っている。『詩経』の小雅に見えるこうした情況から、当時、上は周王から、下は民衆まで、占夢を信じない者はいなかったといえよう。

   《引用終了》

とある。

「一富士二鷹」私の甲子夜話卷之五 5 興津鯛、一富士二たか三茄子の事の本文及び私の注を参照されたい。

「實(まこと)の夢にして、はかなき事なるべし」これは死を予兆する正夢であるとぼかして言っているようである。]

古今百物語評判卷之五 第五 仙術幻術の事

 

  第五 仙術幻術の事

 

Sinsen

 

ある人、問(とひ)て云(いふ)、「仙術というものは、天仙・地仙のわかちありて、千萬年の齡(よわひ)をたもちて、空をかけり、地をくゞり、千里を目前にちゞめ、芥子(けし)を須彌(しゆみ)になし、さまざまの奇妙あり。猶、老子を先祖(ぐわんそ[やぶちゃん注:原典のルビ。])となせるとや。さて又、幻術とふものは、魔法とひとつにて、いろいろの不思議をなし、劔(けん)をのみ、火をつかみ、身を自由にかくしなどするよし、承り候が、いかやうの理(ことわ)りぞや。うけ給はり度(たく)侍る」といひければ、先生、こたへていはく、「仙人の沙汰、三代[やぶちゃん注:続く叙述から考えると。中国史で最も古い三つの王朝、夏・殷・周の時代を指すか。その時には仙道は少しも流行ってはいなかった、というのであろう。]の盛(さかん)なるときは、なし。戰國の末に起りて、秦漢にさかむなり[やぶちゃん注:盛んとなったものである。]。老子を元祖と云(いへ)るは、「老子經」[やぶちゃん注:「老子」のこと。]に『谷神不ㇾ死』(谷神(こくしん)死せず)という論あるをとりて、無理につけそへたる説なり。秦の始皇、徐福をして、不死のくすりをもとめしより此かた、世々の帝王、民を勞して、金(こがね)をついやし給へども、終(つゐ)に得給ふ事、あらず。其(その)仙人の大將たる者、多く、刑罰にあひたり。その僞りたる事、論ずるに及ばず。扨(さて)、空をかけり、雲にのぼる事は、程子(ていし)[やぶちゃん注:(二程子。北宋の思想家。程顥(けい)と頤(こう)の兄弟。思想傾向が近いことから、一緒に論じられることが多い。彼らの学は「程学」とも称され、北宋道学の中心に位置し、宋学の集大成者朱子への道を開いた。天地万物と人間を生成調和という原理で一貫されているところに特徴がある。]の説に、人は陸(くが)につきて生るゝ者なれば、決して其理(り)なし。『もし、山中に深くこもり居て、人事をまじへず、欲をたち、松の葉をくらひなどせば、人の壽命より少し長生(ちやうせい)をする事あり』とのたまへる事、「二程全書」[やぶちゃん注:程兄弟の文集・語録・著述などを集大成した思想書。全六十八巻。明の徐必達の校訂になり、一六〇六年に刊行された。宋学の先駆となる著作集である。]に見えたり。かく、さだかならざる事を、愚なる人の信じて、深山幽谷に、猶も藥をもとめなどして餓死におよぶ者あれば、神仙の書に記していはく、『後(のち)に羽化(うげ[やぶちゃん注:原典のルビ。])して、其ゆく處を知らず』など、奧(おくゆ)かしきやうに申(まうし)なせり。又、其(それ)、刑りく[やぶちゃん注:「刑戮」。]にあふて死(しに)たる事を、たゞしき史官の書(ふみ)に記しをきたれば、又、其書には『尸解(しかい)なり』と書きたり。『尸解』とは、此形をもぬけて、たましゐを自由にするをいふことなり。其説の強(し)ゐたる事[やぶちゃん注:この場合は、「誣(し)ひたる事」が表記も意味も正しい。「事実と違うことを言うこと」である。]、知りぬべし。幻術の事は、元、天竺より起りたる事、こゝもと[やぶちゃん注:本邦。]にて云へる「魔法」のごとし。さまざまの術ある事、記したれども、仙術よりは、また、あさまなる[やぶちゃん注:程度が低い。]事にて、一通りの[やぶちゃん注:それなりに有象無象の。]法、有(あり)とみえたり。其(その)劍を吞(のむ)といふも、實(じつ)にのむにはあらず、人の目に、のむがごとく見ゆるなるべし。他(た)の事も、皆、是におなじ。さて、仙道にても幻術にても、さまざま、よく得たる者ありて、人をあざむく時は、必ず、害にあふ。畢竟、實事にあらず、もしくは、習(ならひ)あふせても[やぶちゃん注:完全に習得することが出来ても。]、身をとゝのへ、國を治(をさめ)る便(たよ)りにあらず。聖賢のいはざるところなれば[やぶちゃん注:今まで実在した真の聖賢が誰一人としてそれを述べていないものであるから。]、何の用にか立つべけむ[やぶちゃん注:反語。]。そのうへ、こゝもとにても其術の益なきしるしには、彼(か)の狐をつかふ者、白き狐を殺し、其靈をまつり、其面(おもて)の骨をさき、己(おのれ)がひたひ[やぶちゃん注:「額」。]につけぬれば、よく形をかくす、と云へり。されども、砂をまきをけば[やぶちゃん注:ママ。]、其足跡、つき、日影には、かげ、うつり、さかしき犬あれば、其(その)氣(き)を知る、と云へり。是れ、何ぞとげて益あるべけむや[やぶちゃん注:「とげて」は「遂げて」。反語。最終的に益のある術とは言い得ないものである。]。すべて、正法(しやうばう)に奇特(きどく)なしといふ事、世話(せわ)[やぶちゃん注:世間話。]ながら、よく道理にかなへり」と語られき。

[やぶちゃん注:「『谷神不ㇾ死』(谷神(こくしん)死せず)」「老子」上篇の第六章に出る。

   *

谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。

(谷神は死せず。是れを玄牝(げんぴん)と謂ふ。玄牝の門(もん)、是れを天地(てんち)の根(こん)と謂ふ。綿綿(めんめん)として存(そん)するがごとく、之れを用ゐて勤(つ)きず。)

   *

訳すなら、

――流れて已まぬ谷川の神は決して死なない。それは「神秘なる牝」と名ざす。「神秘なる牝」のその「入口」、そこが天と地の動静の根源である。それは細々とした流れであるが、どれだけ汲み出しても、在り続け、決して尽きることはない。――

の意である。

「尸解」元隣の謂いは正しくない。尸解とは尸解仙という仙人となる様態の一つを指す語である。これは、生きているうちに羽化登仙したり、仙化(せんげ)する高級なものではなく、人が、一旦、死んだ後に生返り、他の離れた土地で仙人になることを指すからである。「ブリタニカ国際大百科事典」に(コンマを読点に代えた)、『死体を残して霊魂のみが抜け去るものと、死体が生返って』、『棺より抜け出るものとがある。前者の場合も、死体は腐敗せず、あたかも生きているがごとくであるという』。晋(二六五年~四二〇年)の道教研究家葛洪(二八三年~三四三年)の撰した神仙術のバイブル「抱朴子」(内篇二十篇・外篇五十篇が伝わり、特に内篇は神仙術に関する諸説を集大成したもので、後世の道教に強い影響を及ぼした。私の愛読書の一つである)『では、昇天する天仙や名山に遊ぶ地仙よりも、尸解仙が低い地位におかれている。これは不死であるはずの仙人が死の形をとるからである』とある通りである。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 田舍を恐る

 

  田舍を恐る 

 

わたしは田舍をおそれる、

田舍の人氣のない水田の中にふるへて、

ほそながくのびる苗の列をおそれる。

くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。

田舍のあぜみちに座つてゐると、

おほなみのやうな土壤の重みが、わたしの心をくらくする、

土壤のくさつたにほひが私の皮膚をくろづませる、

冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。 

 

田舍の空氣は陰欝で重くるしい、

田舍の手觸りはざらざらして氣もちがわるい、

わたしはときどき田舍を思ふと、

きめのあらい動物の皮膚のにほひに腦まされる。

わたしは田舍をおそれる、

田舍は熱病の靑じろい夢である。 

 

[やぶちゃん注:太字「きめ」は底本では傍点「ヽ」。「くろづませる」「腦まされる」の「腦」はママ。萩原朔太郎の強烈な田舎への生理的嫌悪感の表出であり、彼の故郷喪失者としてのの面目の公的宣言である。初出は『感情』大正六(一九一七)年一月で、プレ広告である。一連構成でもあり、幾つかの異同があるので、初出形を示す。太字は同前。

   *

 

  田舍をおそる 

 

わたしは田舍をおそれる

田舍の人氣のない水田の中にふるへて

ほそほそとのびる苗の列をおそれる

くらい家屋の中にすむ、まづしい人間のむれをおそれる

田舍のあぜみちに座つてゐると

おほなみのやうな土壤の重みが、わたしの心をくらくする

土壤のくさつたにほひが私の皮膚をくろづませる

冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする

田舍の空氣は陰欝で重くるしい

田舍の手ざわりはざらざらして氣もちがわるい

わたしはときどき田舍を思ふと

きめのあらい動物の皮膚のにほひになやまされる

わたしは田舍をおそれる

田舍は熱病の靑白いゆめである

          詩集「月に吠える」より

 

   *

「手ざわり」はママ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『田舍を恐る(本篇原稿七種十枚)』として以下の二三がチョイスされて載る。孰れも無題。表記は総てママである。

   *

 

  

 

おれは田舍に行つゐたとき、

はげしい熱病にかゝつてゐた、いろいろなおそろしいものものをみた、

よにもさびしい思をした

たとへばむしあついたんぼみちにたつてには、

すえた苗の列をながめてゐたがはえてゐた

それがくるしいほど光つてゐた

とほりがゝりの百姓 でも

土壤にはくさつた熱病のいきではくさつた肉のにほひがした

おれはくらいまづしい家屋の中では

はだかの人間が

しなびたはだか女の乳房をみた

あらゆるものが

田舍は桑ののあほくさいにほひをかぐと、空氣の中はおれはあの靑をかぐと、するとな さけないあぢきない、心になる、

いろいろなものの熱病

きめのあらい 人間 皮膚の手さはりが

百姓たちはその子供たちのたゞれた目に

おれの心をおびやかした

田舍ではなにもかもぐちたなくあらあらしかつた、[やぶちゃん注:「ぐちたくなる」には編者によるママ注記が右に附されてある。]

おれの足は氣味のわるいものをふみつけた

田舍はしみしみ

おそろしい手

きめのあらい生物の皮膚を織物をなぜるやうな感覺が

いつも熱病のやうにおれをくるしめた、

おれのうすい皮膚しんけいをいたいたしくすりぬいた、

それで 田舍の風景 田舍のいやらしい生活

おれは田舍を思ふと、いつもくるしい熱病のやうな心になる、

田舍はえたいのわからぬ憂鬱の恐怖である、

 

 

  

 

田舍の田の中で水が→靑い稻の苗→水が光つてゐた、つめたい水がながれてゐた、

水の中から水のながれうづまきの中にあほい稻の苗がひよつこり こつくりと顏を出してゐた、〉ううつけてある、

さびしいこの光る苗の列をみる靑いさびしい列をみてゐると

犬はさびしいいやな遠白い心になつた、

また、みんな ひとつまみほどの苗のひよつこである、

とほいさびしい 田舍の空のはてに 田舍の水田の中で、 水の 子供たちが話をしてゐる、 かはいらしい苗が列んでゐる、

みんな泣きた

いまにも 「雨がぼつぼつふつてきたよ

きめのあらい、むくむくした土攘の

百姓が通つた、

くさいくさい桶を

田舍に ゐる ゐるときの心はくるしい、→田舍はひとの心をくるしくする

田舍はおそろしくくさつた 土攘のにほひを 食物をたべてゐた、

土ぜう のたぐひは、

いちにちひとりでどこまで步いていつても

田舍の→そのへんのあぜみちの草はなにかのきいろく死んでゐたしなびてゐるし

田舍では人間のの土壤のにほひをかぐと

いきものの 頭が 肌が しなび くさつてくる、

きめのあらい馬の

おまけにしつきりなしにわたしはおつかけられて

くさつた生物の死骸のにほひはするしのにほひがするので

犬はわるものゝために毒を主人にのまされてゐた、犬は主人に述子になつたので、よるもさびしい聲を出して鳴いてゐたで吠えてゐた、[やぶちゃん注:「述子」は「迷子」の誤字であろう。]

そのへんの草はきいろくしなびてゐるし

そしてくさつた土壤のにほひをかぎながら

草むらの中で死んでしまつた、

だんだしだいに心が弱つていつた、

とうとう→しまひにおそろしく頑丈な

しまひのあのきれいな犬は

 

田舍の水田の中で苗が光つてゐる、

 

 

 

  

 

わたしは田舍をおそれる、

田舍の人氣のない水田のなかで、すいすいとほそほそとのびる苗の列をおそれる。

くらいおほきい家屋にすむ貧しい人々のむれをおそれる。

田舍はあらつぽい布

田舍の田にきて座つてゐると

さむいさむい

うねうねとうねつた

おほなみのやうな土壤のおもみをおそれるがわたしの心をくら重くする。

冬のさびしい大風と木立→おほかぜ木立と灰色の空をがわたしの胸をかなしくする、

田舍の靑くさい桑の葉のにほひが、わたしの生活を陰鬱にする皮膚をくろずませる、

わたしは田舍を思ふと

おそろしく大きな→みにくいきめのあらい動物の皮膚肌のにほひになやまされる、

田舍はくらいいつも陰鬱で退屈で人間が下等野卑である。

鉛のやうに重くるしい

田舍の 人間 粗野な農民はわたしを好まない

田舍にはきれいな娘はゐない

田舍には美しいものはひとつもない。

田舍には 文明的 美しい建築がない、

田合はあらつぽい布のやうなものだ。

田舍はわたしにとつては

わたしは田舍のあらつぽい自然をおそれる、

わたしが田舍に生活するのは

ざらざらしたきめあらつぽい→かたい荒目の自然の帆布の

しんけいをすりむくやうだ、

きやしやな高貴の織物をすりむくやうだ、

田舍は病身の詩人にとつてくるしい→おそろしい熱病やみの靑白い夢である。

 

   *

言っておくが、私はこの社会的生活者として失格であった自らを詩人と自負する男のこれらの田舎の習俗や民人(たみびと)を差別し、軽蔑する、痙攣的詩篇を、激しく生理的に嫌悪する人種であることを表明せずにはいられない。――言ってやろうか? 朔太郎? 「そうしたお前を、都会は、ますます致命的に不可逆的に病的に憂鬱にさせ、晩年の、詩想も思想もない畸形の日本主義の奈落へと、お前を陥れたことを、心から無慚極まりない、と、感ずるね。」と。

 なお、これを以って「見知らぬ犬」パートは終り、残る詩篇本文は長篇詩二種「雲雀の巢」と「笛」のみである。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 白い共同椅子

 

  白い共同椅子 

 

森の中の小徑にそふて、

まつ白い共同椅子がならんでゐる、

そこらはさむしい山の中で、

たいそう綠のかげがふかい、

あちらの森をすかしてみると、

そこにもさみしい木立がみえて、

上品な、まつしろな椅子の足がそろつてゐる。 

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集校訂本文は「そふて」を「そうて」と強硬補正している。私には訳が判らぬ。なお、言わずもがなであるが、「共同椅子」は公共のベンチのこと。初出は『感情』大正五(一九一六)年十月。初出形を以下に示す。

   *

 

  白い共同椅子

 

森の中の小徑にそふて

まつ白い共同椅子がならんでゐる

そこらはさむしい山の中で

たいそう綠のかげがふかい

あちらの森をすかしてみると

そこにもさびしい木立がふるえてゐて

まつしろな椅子の脚がならんでゐる。 

 

   *

「ふるえて」はママ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『白い共同椅子(本篇原稿三種三枚)』として以下の二篇がチョイスされて載る。孰れも無題。表記は総てママである。

   *

 

  白い共同椅子

 

森の小径を步いてゐると

まつ白い→のな洋風のぺンチが並んでゐるとあつた

山の中に都會をもとむ

そこはさびしい田舍の山の中であつた

文明の

わたしはひぐらしの聲を

わたし のむなしいが ベンチ 美しい椅子をみ出した

あほい 水々しい木の葉のかげが

わたし はうれしくなつて手をくみ□せた、→の感情が はその椅子を美しいとおもつた

椅子はほんとに上品で美しくみえた、

わたしはこのうへもなく滿足した、

それゆゑ雙手で椅子の背をゆつぶりながら

心もちくびをかたむけてかしげて

ひぐらしの鳴くのをきいてゐた。

 

 

  白い共同椅子

 

森の中の小径をあるいてゐるとにそふて

まつ白い共同椅子がならんでゐ

そこらはさむしい山の中で

朝から凉しい風が吹いてゐた

椅子は ほんとに美しかつた ほんとに上品な形をしてゐた

しめつぽい草木がいちめんにしげつてゐた

自分 わたしはたいそう滿足して

しづかな→じつにまことに閑靜な林の中ところである

そのへんの椅子草にねころんで

しづかに菓子をたべてゐると

木の葉→みどりの木の葉あちらこちらの葉のかげにも

椅子は上品な椅子の足が並んでゐた

しづかに落付いて→日がくれ

 

ふとした心持から

わたしはたいそう滿足して

わたしは雙手で椅子の背をゆすぶりながら

たいそううれしい→愉快な→滿足して愉快な心もちで

氣どつた樣子をして わたしはおほきな感情にふけりながら

日ぐらしのなくのをきいてゐた

 

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 孤獨

 

  孤  獨

 

田舍の白つぽい道ばたで、

つかれた馬のこころが、

ひからびた日向の草をみつめてゐる、

ななめに、しのしのとほそくもえる、

ふるへるさびしい草をみつめる。

 

田舍のさびしい日向に立つて、

おまへはなにを視てゐるのか、

ふるへる、わたしの孤獨のたましひよ。

 

このほこりつぽい風景の顏に、

うすく淚がながれてゐる。

 

[やぶちゃん注:「しのしのと」聴いたことがない形容動詞或いは副詞である。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。唯雰囲気的に、当初は、「篠」、小さい竹類の総称である篠竹(しのだけ)から、そんな風に細くて頼りない感じの謂いかと理解していたが、調べて見ると、「しの(篠)」には、別に、紡績の中間工程で繊維の長さを揃えて平行に並べた紐状の繊維の束(これに撚(よ)りをかけて糸にする)の意があることが判った。朔太郎の故郷群馬と言えば紡績だ。この意からの朔太郎の造語かも知れないなどと私は夢想したりしたが、まあ、副詞の、動きが「なよなよ」としているさまの意の「しなしな」の訛りとするのが穏当か。

 初出は『感情』大正五(一九一六)年十月号。初出は二連構成でやや異同もあるので、以下に示す。

   *

 

  孤獨

 

田舍の白つぽい道ばたで

つかれた馬のこころが

ひからびた日向(ひなた)の草をみつめてゐる

ななめに、しのしのとほそくもえる

ふるえる、さびしい草をみつめる。

 

田舍のさびしい日向(ひなた)に立つて

おまへはなにをみてゐるのか

ふるえる、わたしの孤獨のたましひよ

この白つぽい風景の顏に

うすく淚がながれてゐる。

 

   *

二箇所の「ふるえる」はママ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 海水旅舘

 

  海水旅舘 

 

赤松の林をこえて、

くらきおほなみはとほく光つてゐた、

このさびしき越後の海岸、

しばしはなにを祈るこころぞ、

ひとり夕餉ををはりて、

海水旅舘の居間に灯(ひ)を點ず。

               くぢら浪海岸にて 

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎は大正五(一九一六)年七月二十五日、新潟県柏崎市鯨波(くじらなみ)にある鯨波海岸((グーグル・マップ・データ))の「蒼海(そうかい)ホテル」(現存する。(グーグル・マップ・データ))に避暑しており、本詩篇はこの宿で詠まれたものと推定される(同地から八月九日に渋温泉に廻った)。サイト柏崎の情報「陽だまり」大正年代の面影残す「蒼海ホテル」を見られたい。

 初出は『狐ノ巢』(狐紡社発行の群馬の県内向け雑誌という他は不詳)大正五年九月号。初出形は二行目が「とほきおほなみはくらく光つてゐた、」となっていること、「こころ」が「こゝろ」、「夕餉」に「ゆうげ」(ママ)のルビがあること以外は変更はない。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『海水旅館(本篇原稿四種二枚)』として以下の二篇が載る。孰れも無題。表記は総てママである。

   *

 

  

 

あかき松の→松林の→松ばらの赤松の砂丘をこえて

ほのぐらき海のとほきおほ波はくらく→ほのかにほのぐらく光つてゐた

とほき あはれまづしき越後の村

このさびしげなる越後の海岸

いつしんにわれはなにを祈るこゝろぞ

海水旅館の居間に灯を點ず、

 

 

  

 

赤松の砂丘をこえて

とほきおほなみはくらく光つてゐた

このさびしき越後の海岸

われはしばしはなにを祈るこゝろぞ

ひとり夕餉をお はりて電球に手をのべ

海水旅館の居間に灯を點ず、

 

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 山に登る 旅よりある女に贈る

 

  山に登る

        旅よりある女に贈る

 

 山の頂上にきれいな草むらがある、

その上でわたしたちは寢ころんで居た。

眼をあげてとほい麓の方を眺めると、

いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。

空には風がながれてゐる、

おれは小石をひろつて口(くち)にあてながら、

どこといふあてもなしに、

ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

 

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのである。

 

[やぶちゃん注:初出は『感情』大正六(一九一七)年一月号であるから、これも同様、プレ広告で、詩篇末下方に『詩集「月に吠える」より』とある。初出形は、添辞の「贈る」が「送る」であること、詩篇総てに句読点がないこと、「ねころんで居た」が「ねころんでゐた」、「口」にルビがないこと、「お前」は「おまへ」、「思つてゐる」が「思つて居る」である以外は、変更はない。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『山に登る(本篇原稿四種四枚)』として以下の二篇が載る。前者は同題であるが、添え辞があり、『――旅先より室生に送る――』とし、後者は無題。表記は総てママである。太字は底本では傍点「﹅」。

   *

 

  山に登つたときの記憶

     旅ノ消息

     ――旅先より室生に送る――

 

山の頂上にきれいな草むらがある、

おれわたしはそこへ登つていつた。

そのうへで わたし おれたちは ひるめ ねころんでゐた。そのうへでおれたちはねころんでゐた。

空には風がながれてゐる

目をあげてとほい麓の方をながめると、

いちめんにひろびろした海のけしきのやうに思はれた、

わたしはおれはまるい石ころをひろつて、くちびるにあてながら

どこといふあてもなしに

おれわたしはおまへのことを考へながら思ひつめて

おれはぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた→あるいてゐる→あるきはじめたあるい★てゐる//てゐた★[やぶちゃん注:「★」「//」の記号は私が附した。二候補が並置残存していることを示す。以下でも同じ。]

くいつまでもいつまで步いてゐたい、

すこしはなれたところで馬のなき聲がきこえてくる、

みれば麓の方から

百姓づれがあがつてくるのだ、

おれは はればれしたおれの心が

山の頂上にのぼつてゐると

からだ中が靑々してしまつて

なんにもかんがへることがなくなるのだ。

          ――ある女に――

          ――旅先よりKにおくる――

 

   *

K」は室生犀星のこととしか思われないのだが、このイニシャルは不審。「K」で始まる彼の本名(照道)・呼称・号や、朔太郎と二人の関係の中で作られた綽名は私は知らない。元がエレナ詩篇であるが、それでも「K」は同じく不審である(エレナのモデルは馬場ナカ。「エレナ」は彼女の洗礼名。彼女は結婚して佐藤姓となっているが、孰れも「K」というイニシャルとは無縁である)。他の女性では、思い当たる人物は私には判らぬ。なお、後に編者注があり、『本稿には、欄外のあちらこちらに次の各行が記されている』として、

   *

おれは けふもしきりにおまへのことを思ひつめてゐるのである。

やつぱり、あなたを思ひつめてゐるのである。

おれはあのひとを戀してゐる

   *

とある。

   *

 

  

 

山の頂上にきれな草むらがある

わたしはいつもそこへのぼつていつた、そこの上で私たちはねころんでゐた

目をあげてとほい麓の方を眺めると

いちめんにひろくした海のけしきのやうに思はれた

空には風がながれてゐる

わたしおれは石ころ小石を、ひろつて、くちにあてながら

どこといふあてもなしに

ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた

おまへのことを

しきりにあのひとのことを思つてゐるのである、

おまへのことを思ひつめてゐるのである、

むかしのゆめを追ひかけてゐるのである。

          旅中より E女に

   *

この「E女」はエレナで腑に落ちる。後に編者注があり、『本稿には、欄外のあちらこちらに次の各行が記されている。』として、

   *

おまへあなたのことを思つてゐるのである、

おまへと逢ひ★たくなつた//たいのである、★

            旅中より、(室生に)

(おれはあのひとを戀してゐ るのだ、おまへに逢ひたいのだ、

しきりとお前に逢ひたいのであるたくなつたるのである、

しきりに一目お前とあひたいのだ、たくなつたのだ、

あのが戀しいのである、

しきりにおれはおまへに逢ひたいのだ

おれはあのひとを戀してゐたのだ、

   *

と記されてある。この草稿版を見るに、これらは、朔太郎が本来はエレナ詩篇として書いたものを、対象を親友室生犀星に変換して意識的に倒錯させている不全な半隠蔽半露呈の奇体な詩篇であることが判る。とすれば、「K」とは、その異性から同性へとズラす過程で、半意識的或いは無意識にイニシャルを書き間違えた、フロイトの言う「言い(書き)間違い」であるように思われる。とすれば、不審な「K」は、わざと変えたものの、本名に名のナカの「カ」がその淵源であるとも言えるのかも知れない。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 蛙よ

 

  蛙  よ 

 

蛙(かへる)よ、

靑いすすきよしの生えてる中で、

蛙(かへる)は白くふくらんでゐるやうだ、

雨のいつぱいにふる夕景に、

ぎよ、 ぎよ、 ぎよ、 ぎよ、 と鳴く蛙(かへる)。 

 

まつくらの地面をたたきつける、

今夜は雨や風のはげしい晚だ、

つめたい草の葉つぱの上でも、

ほつと息をすひこむ蛙(かへる)、

ぎよ、 ぎよ、 ぎよ、 ざよ、 と鳴く蛙(かへる)。 

 

蛙(かへる)よ、

わたしの心はお前から遠くはなれて居ない、

わたしは手に燈灯(あかし)をもつて、

くらい庭の面(おもて)を眺めて居た、

雨にしほるる草木の葉を、 つかれた心もちで眺めて居た。 

 

[やぶちゃん注:太字「すすき」と「よし」は底本では傍点「ヽ」。「しほるる」はママ。歴史的仮名遣では「しをるる」が正しい。朔太郎得意のオノマトペイアを使ったもので、ここだけ、特異的に底本の奇妙な特性(詩篇本文内の文末でない読点は、有意に打った字の右手に接近し、その後は前後に比して一字分の空白があるように版組されている。これは朔太郎の確信犯なのだろうが、これを再現しようとすると、ブラウザ上では、ひどく奇異な印象を与え、そこで躓いてしまう(少なくとも私は躓く)ので今までは「猫」以外では無視してきた)を再現してみた。その理由は、読者がそこで立ち止まり、そこに同時に蛙の「ぎよ」と「ぎよ」の鳴き声の絶妙なタイム感覚が生まれるのを、これで示したかったからである。但し、それに合わせて最終行の読点の後も空けた。一篇内では統一しないと、私の下らぬ恣意と不統一を指弾されるかも知れぬからである。しかし、私はもし、この詩を朗読したとしたら、最終行を、「雨にしほるる草木の葉を、」で止めて、有意な間を空けて「つかれた心もちで眺めて居た。」と読むから、これはまた、非常に私には自然で違和感はないのである。

 初出は『感情』大正六(一九一七)年一月号連構成やルビ(総てない)及び読点を含め、詩行順列その他の表現に有意な異同があるので、以下に示す。太字は同前。

   * 

 

  蛙よ

 

蛙よ

靑いすすきよしの生えてる中で

蛙は白くふくらんでゐるやうだ

雨のいつおあいにふる夕景に

ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。

つめたい草の葉つぱの上で

ほつと息をすひこむ蛙

ぎよ、ぎよ、ぎよ、ざよ、と鳴く蛙。 

 

まつくらの地面をたたきつける

今夜は雨や風のはげしい晚だ

蛙よ

わたしの心はお前から遠くはなれて居ない

わたしは手に燈灯をとつて

くらい庭の面を眺めて居た

雨にしほるる草木の葉を、つかれた心もちで眺めて居た。

          詩集「月に吠える」より

 

   *

二連構成はママ。或いは、編集上の凡ミスかも知れない。因みに、これは詩集刊行の一ヶ月前のプレ広告となる。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『蛙よ(本篇原稿一種二枚)』として以下の一篇が載る。表記は総てママである。太字は底本では傍点「﹅」。

   *

 

  蛙よ

 

蛙よ、

靑いすすきよしの生えて居る中で、

蛙は白くふくらんでゐるやうだ、

雨のいつぱいにふる夕景に、

ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。

 

まつくらの地面をたたきつける、

今夜は雨や風のはげしい晚だ、

つめたい靑い草の葉つぱの上で、

ひきがへるがほつと息を吸ひこむやうだ。

 

雨のいつぱいにふる中で、

ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。

 

蛙よ、

わたしの心はお前から遠くはなれて居ない。

わたしは手に燈灯(ともしび)をもつて、

くらい庭の隅を眺めて居た、

雨にしほるる草木の葉を、隙間からひつそりと眺めて居た。

 

   *

以上の後に編者注があり、『附記として次の文がある』

として、

   *

 「蛙よ」の詩このやうに推稿す、先のと入れ代えにしてほし。

  これは詩集に入れるなれば是非たのむ、

   *

と記し、『右の附記によって、本稿は雜誌翌表作の修正稿と認められるが、じっさいには印刷の』(ママ)『まにあわなかった。』とある。ということは、これが――幻しの初出――であった可能性がすこぶる高いことになる。甚だ興味深い。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 靑樹の梢をあふぎて

 

  靑樹の梢をあふ

  ぎて 

 

まづしい、さみしい町の裏通りで、

靑樹がほそほそと生えてゐた。 

 

わたしは愛をもとめてゐる、

わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる、

そのひとの手は靑い梢の上でふるへてゐる、

わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。

 

わたしは遠い遠い街道で乞食をした、

みぢめにも飢えた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで淚をながした、

うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを步きまはつた。 

 

愛をもとめる心は、かなしい孤獨の長い長いつかれの後にきたる、

それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。 

 

道ばたのやせ地に生えた靑樹の梢で、

ちつぽけな葉つばがひらひらと風にひるがへつてゐた。 

 

[やぶちゃん注:「飢えた」「みぢめ」「飢えた」はママ。なお、本篇は全五連から成っているが、恐らく、当該詩集を読んだ人の中で、迂闊な読者(叙述的には切れており、句点も打たれているので「かなり迂闊な」人物だけとは思うが)は全三連で読む可能性がある。たまたま、そこ(第一連と第二連の間、及び、第四連と第五連の間)で改ページがなされてあるからである。ただ、寧ろ、綺麗に連を改ページのリズムで誤たず組めると朔太郎は踏んで、標題を改行しているのであろうから、寧ろ、そういう読者は朔太郎の「読者」の範疇に属さない大阿呆ということに朔太郎自身によってされてしまうのかも知れない。

 初出は『感情』大正六(一九一七)年二月号。第二連二行目「そのひとの手は靑い梢の上でふるへてゐる、」以外は行末に句読点がないこと、第二連冒頭「わたしは愛をもとめてゐる、」が「わたしは愛をもとめて居る」となっていること、同二行目の「乙女」に「おとめ」(ママ)のルビがあること、第二連最終行「わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。」の「ゐる」が「居る」となっていること、詩篇末下方に『詩集月に吠えるヨリ』とある以外は、仮名遣いの誤りも含めて同じである。これもまた、と同様、共時的広告である。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『靑樹の梢をあふぎて(本篇原稿五種六枚)』として二篇の無題がチョイスして載る。表記は総てママである。後者の一部にある「○」印は朔太郎自身が附したもの。

   *

 

  

 

くらい

まづしい、くらいさむしい町の裏通りをあるいてゐると

ほそなが靑樹がほそほそと生えてゐた

ひからびた葉つぱが、梢→風靑空でふるえてゐた

わたしはそこを通り かゝつて

くらいまづしい家屋の窓から

わたしおまへはほそい手をさし出してゐ

手はひからび葉つぽのやうにふるえてゐる

だれがおまへを愛してゐる

わたしはいつもひとりでその道を通る

おまへはわたしを

 

おれは淚をながしてお前をこゝにまつてゐる、

いつもおまへ を愛して→の手

わたしを愛する、心のまづしい女をその道にもとめてゐる、

その→女そのひとの手は靑白い空の下で葉つぱのやうにふるえる

わたしは愛をもとめてゐる

けれどもかなしい窓の下にちかづいて嵐のやうにおまへをよんでゐる、

ああ、みな、おまへは煙のやうに消える、

はまづしい裏通りの靑樹を求める心はさびしい感情である、孤獨の長い長い病氣つかれののちにきたる、それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である、

けれどもわたしおれはいつもまづしい町の裏通をあるいてゐる

そして陰氣な心で道ばたの空地にふるえる靑樹をながめる、みてゐる、

靑い空は遠い天上を遠いところに光つてゐる

そして私の心は、かなしいくらい窓をみつめる、

窓にはまぼろしのやうな手が見知らぬ女の手がまぼろしのやうにふるえてゐる、

ああ おれのかなしみは心は遠い遠い街道のほとりにかなしむのだ、

おれの心臟は乞食のやうにおととろへきつてゐる、

 

 

  

まづしい、田舍の陰氣な町の裏通りで

靑樹がほそほそと生えてゐる、

白つぽい街路の隅まづしい陰氣な長屋がしろつぽい街道の空では上でふるへてゐる、

葉つぱがひらひらうごいてゐる、街

路ばたのまづしい、くらい家屋の窓の中で

あるときおまへはしくしくと泣いてゐたやうだ

黃いろい→小さな→道ばたのきたないまづしい、くらい窓の中から

おまへは手をさしのばしてゐた、

なにを求めんとしておまへのくるしい心が

人氣のない街道に向つてあへいでゐた手をのばしてゐるのだ、

ほそい かなしい病身の 女の手が夕ぐれの窓にふるえてゐる おまへの顏 おまへの苦しい心の愛を求めてゐるのだ、

おれは淚をながしてゐる

 

○おれは淚をながしてゐる

○陰氣なしろつぽい街路の上をあるいてゐる

○おまへのかなしい病氣の窓の下に立つてゐるのだをもとめるために

ふるえるお前の愛の手をもとめ

そうして空氣の中で淚でそれをぬらすために

 

おれはおまへを愛してゐる

また見も知らぬおまへの愛を愛してゐる、

まづしい、不幸な、病氣の、女をあはれむ

おまへの愛をもとめてゐる、

死ん□婦のやうな

よもふしあはせな、さびしい草のやうな少女の愛をもとめてゐる、

 

おれは そのひとの手は靑白い空

ああ少女の愛をもとめてゐる

愛をもとめる心は、さびしいくるしい、孤獨のながいながい→つかれのためいきである、

それはおほきな湧きあがる海のやうな熱病の感情である、

けれどもおれはいつでもまづしい町の裏通りを步いてゐる

そこの空地にふる生える靑木をみつめてゐる

そしておれの心はかなしくくらい窓の下 で遠い遠い 靑い はればれした靑空の下 をさまよひながら

おれの心は陰氣な窓の下にたたづみながら

み知らぬ少女の、ふるえるさびしい手をもとめてゐる、

その手は靑白い空氣の中で幽靈のやうにふるえてゐる、

ああこの田舍はおれの心臟をくさらした、

いまは乞食のやうに

いつさいの「不幸」からな幽靈がおれの背後から石をなげつけてゐたのだ、

ああ、おれの心はこの遠いまづしい街路の上で

おれの心はほこりのやうにかなしみさまよひかなしみてゐるのだ、

おれの心臟はくさり きつて→はてて かゝつてゐる

おれの生涯は乞食

ああなになれば乞食のごとくに

ああおれはくさりきつた心臟→乞食のやうに→この故鄕をはなれて〉くさりきつた心臟といんきな田舍の町を捨てゝしまつて

おれはどこかの新らしい都をもとめ行かねばならぬ

田舍はわたしの心臟をくらした、

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 見しらぬ犬

 

 

見知らぬ犬

 

 

  見しらぬ犬

 

この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、

みすぼらしい、後足でびつこをひいてゐる不具(かたわ)の犬のかげだ。

ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、

わたしのゆく道路の方角では、

長屋の家根がべらべらと風にふかれてゐる、

道ばたの陰氣な空地では、

ひからびた草の葉つばがしなしなとほそくうごいて居る。 

 

ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、

おほきな、いきもののやうな月が、ぼんやりと行手に浮んでゐる、

そうして背後(うしろ)のさびしい往來では、

犬のほそながい尻尾の先が地べたの上をひきづつて居る。 

 

ああ、どこまでも、どこまでも、

この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、

きたならしい地べたを這ひまはつて、

わたしの背後(うしろ)で後足をひきづつてゐる病氣の犬だ、

とほく、ながく、かなしげにおびえながら、

さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせの犬のかげだ。 

 

[やぶちゃん注:パート標題と本篇標題の表記が異なるのはそのままである。既に示した冒頭の「目次」でもそうなっているので、これは確信犯である。太字「いきもの」「ふしあはせ」は底本では傍点「ヽ」。「不具」のルビ「かたわ」はママ。第二連三行目の「そうして」はママ。二箇所の「ひきづつて」もママ。本篇も詩集標題の由来の一篇である。初出は『感情』大正六(一九一七)年二月号。標題が「見知らぬ犬」であること、冒頭部が二行目で一行空けになっていること、最終行末の句点を除いては一切の行末の句読点がないこと、三度のリフレインの「ああ」の後が読点なしの字空けになっていること、詩篇末下方に『詩集月に吠えるヨリ』とある以外は、仮名遣いの誤りも含めて同じである。なお、筑摩版全集の★全正誤表★では、本文を初出と同じく、★冒頭二行目に『一行あき』と訂正をしている★が、これは★誤り★である。私の底本とする復刻本「月に吠える」では、ページの初行とノンブルの位置関係から、たとえ、それが改頁部分でも(この間が、まさに127から128の改頁)、行空けがあるかないかは、他のページとちょっと比較して見れば、物理的に誰でも一目で判る。――★ここには行空けは物理的に絶対に存在していない★――のである。則ち、則ち、少なくとも――★「月に吠える」初版に従う「見知らぬ犬」には冒頭二行目に行空けを作ってはいけない★――のである。【2022年12月4日追記:先日、「東京新聞」公式サイト内のこちらの記事で「見しらぬ犬」の萩原朔太郎の自筆原稿冒頭の一枚の画像を見ることが出来た(原稿用紙記載。但し、その原稿がどの時期の原稿であるかどうかは判らない。「月に吠える」編輯用の原稿であると無批判に確定は出来ないのである)。そこでは、★確かに一行空けがある★ことが判った。恐らく、萩原朔太郎は左改頁行空けになる部分には無意識的にブレイクがあると捉え、厳密な精緻な校正は行っていないだろうと踏んでいる。これは一種の非常に不幸なケースである。因みに、現行、本詩篇冒頭にすぐ行空けを施していないのは、多分、私のこれだけである。しかし、確かに初版はそうなっているのであるからして、★私の初版底本による正規表現版の本篇は完全に正当にして正統である★と宣言するものである。最終本詩集は大正六(一九一七)年二月十五日発行であるから、朔太郎は本詩篇をほぼ同時に自身の編集する『感情』(大正五(一九一六)年に犀星と創刊した詩誌)に載せたのである。言わば、広告である。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『見知らぬ犬(本篇原稿六種七枚)』として一篇の無題がチョイスして載る。表記は総てママである。詩篇本文中の「○」印は萩原朔太郎が当該フレーズの欄外(恐らくは上罫線の外)に附したマーキングである旨の編者注があるので、以下のように配置した。

   * 

   

 この見も知らぬ犬が私のあとをついてくる、

 みつぼらしい後足でびつこをひいてゐる不具の犬だ、

 ああ わたしはどこへ行くのか知らない、

 わたしのゆく道路の方角では、

 長屋の家根がべらべらと風にふかれてゐる、

 わたしのうしろのくらい地面では道ばたの□しい★空地//草むら★では、[やぶちゃん注:「★」「//」の記号は私が附した。二候補が並置残存していることを示す。]

 犬のほそながい後足尻尾のさきが地べたの上をひきづつてゐる。

○ああわたしはどこへ行くのか知らない、

○空には白いおほきな月が出てゐても

○わたしのうしろの

 

○ひからびた艸の葉つぱしなしなと風にふるゑゐる

 

 ああわたしはどこへ行くのか知らない、どこまでもどこまでも

 まづしい町のこのみもしらぬ犬がわたしのあとをついてゐる、

 きたならしい、病氣のやうな地べたを這ひまわつて

 わたしのうしろで後足をひきづてゐる病氣の犬だ

 おほきな、かなしい月におびえながら遠くながくかなしげにおびえながら

 さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせの犬の影だ

   *

古今百物語評判卷之五 第四 龍宮城幷山の神附張橫渠の事

 

  第四 龍宮城山の附張橫渠の事

Ryuuguu


ある人、問(とふ)ていはく、「蒼海の底に龍王のある事、世俗にも申しならはし、又、諸經(きやう)にも多く見えたり。俵藤太(たはらのとうた)が物がたりには、湖にもあるやうにきこえ侍るが、覺束なく存ぜられ候。猶も、唐土(もろこし)に河伯(かはく)など申すは、河の神の事にや。又、山靈(さんれい)と申すも、山の神の事にて侍るか、此類いかゞ」と問ひければ、先生、答へて云ふ、「山神(さんじん)・水神・龍王の類、何れも、あるべし。然れども、其形は、その類々なるベし。もし、其(それ)、年を經たるものあらば、たまたま、人にも變化(へんげ)すまじきにあらねど、もと、人とはおなじ類(るい)にあらず。然るを其さまを人間のやうにいひ、住所をも、宮室のやうに作りなせるは、ひが事なり。佛經(ぶつきやう)に八大龍王などいへるは、佛(ほとけ)の説法によりて異類の感應したる道理をとけるなるべし。俵藤太の物語は、元より、さだかなる事にあらねば、論ずべきにあらず。そのかみ、張橫渠先生、海神を祭り給ふに、其形を人になして衣冠を着せ給へるを、張橫渠のあやまりなりと、朱文公そしり給へる事、「朱子語類」にみえたり。また、河伯の名、「莊子(さうじ)」が寓言に出でたり。「酉陽雜爼」などの妄説は信するにたらず」とかたられき。

[やぶちゃん注:「俵藤太が物がたりには、湖にもあるやうにきこえ侍る」湖は琵琶湖。藤原俵藤太秀郷の三上山(みかみやま)の百足退治で、唐橋を渡る俵藤太の前に龍宮の姫が変身した大蛇が現れるように、橋の下にある淵が竜宮に繫がっているとする伝承があり、橋の東詰めには藤太や竜宮の王を祀る龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)もある。サイト「不思議のチカラ」の「龍宮城はどこにある? 浦島太郎、山幸彦の物語と俵藤太の百足退治伝説」が判り易くコンパクトに纏めてある。なお、南方熊楠の「十二支考 田原藤太竜宮入りの話」(リンク先は「青空文庫」)も天馬空を翔るが如き熊楠の自在な思考の展開が格段に面白い。お薦めである。

「河伯」中国神話や幻想的地誌や博物書に出現する黄河の神。平凡社「世界大百科事典」によれば、中国の神話にみえる北方系の水神で、「山海経」の「大荒東経」に、殷の王亥が有易(狄(てき))に身を寄せて殺され、河伯も牛を奪われたが、殷の上甲微が河伯の軍を借りて滅ぼした。そのことは「楚辞」の「天問」にも見え、殷と北狄との闘争に河伯が殷に味方したことを示す。卜辞に河の祭祀を言うものが多く、五十牛を犠牲として沈めることがあり、水神と牛との関係が指摘されており、「楚辞」の「九歌」の「河伯」は、その祭祀歌である、とある。また、ウィキの「河伯」からも引いておく。『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす』。『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』。『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六『世紀末から』七『世紀にかけての遺跡からも』、『河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』。「西遊記」の『登場人物の沙悟浄は、日本では河童とされるが、中国では河伯とされる』とあるが、私は九州の河童伝承には河伯の影響が確かにやや認められる部分があるとも思うが(しかしそれは後代の後付のように感じられる)、其れとは独自に平行進化した本邦の水棲幻想生物としての河童が存在し、これが、混淆したものと考えている。則ち、本邦の河童の真正ルーツとしての「河伯」は私は認めないということである。

「山靈(さんれい)」は山の神も含まれるが、もっと広範で、本邦の山に纏わる神霊的存在から、山中の幻獣的魑魅魍魎・精霊(すだま)の類、及び、広く山中でしばしば起こる怪異現象を包含したものである。

「其形は、その類々なるベし」まさに前で注したような感じで、その形状・属性・生態は、そのそれぞれで違ったものを持っているようである、というのである。

「張橫渠」北宋の思想家張載(一〇二〇年~一〇七七年)。小学館「日本大百科全書」によれば、横渠鎮(現在の陝西省眉県)の出身であったことから、世に「横渠先生」と称された。『異民族の侵入もある土地柄から、青年時代、軍事を論ずることを好んだが、范仲淹(はんちゅうえん)との出会いを契機に名教(儒教)に志し、仏老の書にも目を向けながら』、『研鑽』『の日々を送った』三十八歳で親族であった、後に儒学者となる程頤(ていい)ら『とともに科挙に及第し、地方官として』、『特に辺境の民政軍事面に見識を示した。やがて神宗』『に召され、三代の治の復活を進言して古礼を説き井田(せいでん)制を主張したが、結局王安石』『とあわず、故郷に帰り』、『講学に専念した。陝西』(関中)『で講学したので、その学派を関学と称する。張載はとくに思想的に仏教との対決を試み、その幻妄説の排撃を意図して「太虚(たいきょ)即気」論を唱えた。そして仏者の心性説に対抗すべく、気の存在論と心性論の統一を図ろうとした。虚無・空無を否定して気が聚』『まると万物となり、気が散じると太虚となると考え、人間の認識のいかんにかかわらず』、『万物の変化は気によることを明確にした。物の生成をめぐる一気と陰陽の関係の分析や、気質という概念の提出は、天地の性、気質の性という性論、気質を変化させるという修養論とともに、朱子学の形成に大きく関与した。また明清』『時代、王廷相』『や王夫之』・『戴震』ら、『いわゆる気の思想家に多大の影響を与えている。著作には』「正蒙」・「西銘(せいめう)」「易説」などがある。同書を中文サイトで検索してみたが、残念ながら、当該記載は見出せなかった。

「朱文公」朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の諡。南宋の地方官で儒学者。宋以降の中国及び本邦の思想界に圧倒的な影響を及ぼした。彼は北宋道学を集大成し、宇宙論・人性論・道徳論の総ての領域に亙る理気の思想を完成させた大儒。

「朱子語類」朱熹がその門弟たちと交わした内容を没後に黎靖徳が集成し、門類に分類した書。全百四十巻。一二七〇年完成。

『河伯の名、「莊子(さうじ)」が寓言に出でたり』「荘子」の「外篇」の「秋水篇」にメイン・キャストの一人として登場する。人間の道徳律に縛られる黄河の河伯神に対し、黄海の神北海若が、「井蛙不可以語于海者、拘于虛也。夏蟲不可以語于冰者、篤于時也。曲士不可以語于道者、束于教也。」(井蛙(せいあ)は以つて海を語るべからず、虛に拘(とら)はれればなり。夏蟲は以つて冰(こほり)を語るべからず、時に篤(あつ)ければなり。曲士は以つて道を語るべからずとは、教へに束(しば)らるればなり。)と答えることで知られる。「篤」は生存を時季に限定固定されていることを指す。「井の中の蛙、大海を知らず」の原拠であるが、「荘子」本文の校異から言うと、「蛙」ではなく「魚」とするのが主流である。

『「酉陽雜爼」などの妄説』晩唐の学者段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる、荒唐無稽な怪異記事を集録した「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)には河伯が登場する奇談が複数載る。]

「団三郎狢の子孫」よりメール着信

退屈な日常に埋没している人間たちに見放された私でも、愛しい妖怪たちは忘れずにいて呉れた。本朝、メールを開くと、中の一つに、昨日の逢魔が時に送られてきたメールがあった。開いてみると、最後に《団三郎狢の子孫より》とあったのだ!!! そこには、実に、今も生きておられる団三郎狢の末裔の方が(これは実はおちゃらけた比喩ではないのである。以下の本文を見られたい)、確かな今に残る私の愛する妖怪「団三郎狸」の情報を寄せて下さったのだ!


に緊急追記した。「真怪」からの真情報をとくと見られたい。

2018/11/01

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 さびしい人格

 

  さびしい人格

 

さびしい人格が私の友を呼ぶ、

わが見知らぬ友よ、早くきたれ、

ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐやう、

なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさふ、

遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居やう、

しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居やう、

母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、

母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はそう、

ありとあらゆる人間の生活の中で、

おまへと私だけの生活について話し合はふ、

まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、

ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

 

わたしの胸は、かよわい病氣したをさな兒の胸のやうだ。

わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。

 

ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、

けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、

山の頂に立つたとき、虫けらはさびしい淚をながした。

あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

 

自然はどこでも私を苦しくする、

そして人情は私を陰欝にする、

むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて、

とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、

ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、

ああ、都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、

またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

 

よにもさびしい私の人格が、

おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る、

わたしの卑屈な不思議な人格が、

鴉のやうなみすぼらしい樣子をして、

人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。

 

Sabi1

Sabi2

Sabi3

Sabi4

 

[やぶちゃん注:本詩篇は、私にとって曰く因縁のある偏愛の詩篇で、初出形も既に示してあるが、ここで改めてマニアックに注し、初出も零から電子化する。また、特異的に上に原本画像も添えた

「そうそうとして」は私は思いの外、多層的なニュアンスを感じる。「その言葉は秋の落葉のやうに」「膝の上にも散つてくる」形容であるから、それはまず、私はヴィジュアル的には「蹌蹌として」を感ずる。即ち、二人の「まづしいたよりない」けれど「二人だけの秘密の生活について」の終りがないかのように語り合う、その互いの夢想を語り合う言葉が《ふらふらと動き回るかのように、よろめくように、たよりなく》散って来るのである。しかしそれは同時に「たよりなく」儚(はかな)いものであることを象徴するように「怱怱・匆匆として」、《忙(せわ)しげで、慌ただしいげな》ものでもあるであろう。また、それは「秋の落葉のやう」でもあるのだから、「滄滄として」、《冷たく、冷ややかな》感覚をも惹起し(但し、「滄滄」の歴史的仮名遣は「さうさう」である。しかし、本詩篇の仮名遣いを見れば、そうした物言いは無効であろう)、その果てしない儚い夢の物語りは、また、落ち葉のように「層層として」、幾重にも重なって冷たく侘びしげに降り積もり重なるのではなかったか? 先のようにその歴史的仮名遣を無化すれば、そこに「愴愴(さうさう)として」(痛み悲しみ、悄然とするさま)いるネガティヴな気持ちも添え得る。或いは、その二人の会話が、まるでさびしげではあるが、二人の愛のたまさかに美しく澄んだ楽器の奏でる音のように響くとするなら、「錚錚として」さえも、「ある」のではあるまいか?

 本詩集所収の本詩篇は仮名遣いの誤りが非常に多く、時には若い読者は誤読するケースもある(第一連の終りから三行目の末尾「話し合」(あ)「はふ」を「話しは合(あ)ふ」と誤読して読んだ生徒がいたのを思い出す。いや、あれは若き日の私だったか?)ほど酷い。第一連に集中している。それらを以下に、かく示す。枠囲い太字が誤りの文節で、行末の【 】内が正しい表記。

   *

さびしい人格が私の友を呼ぶ、

わが見知らぬ友よ、早くきたれ、

ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐやう、【ゐよう】

なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさふ、【くらさう】

遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居やう、【居よう】

しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居やう、【居よう】

母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、

母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はそう、【合はさう】

ありとあらゆる人間の生活の中で、

おまへと私だけの生活について話し合はふ、【合はう】

まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、

ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

   *

次が第二連の二行目。

   *

わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。【ふるへる】

   *

そして詩篇末行。

   *

人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。【ふるへて】

   *

である。中には、本詩は好きだが、はなはだ読み難いとして失望される向きもあるやも知れぬ。そこで、ここに一応、筑摩書房版の強制補正(例えば「欝」は「鬱」に、「秘」は「祕」に、「虫」は「蟲」になっている。しかし、萩原朔太郎は「蟲」は嫌いだったかも知れぬ)された本文を示しておく

   *

 

 さびしい人格

 

さびしい人格が私の友を呼ぶ、

わが見知らぬ友よ、早くきたれ、

ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、

なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、

遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、

しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、

母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、

母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はさう、

ありとあらゆる人間の生活の中で、

おまへと私だけの生活について話し合はふ、

まづしいたよりない、二人だけの祕密の生活について、

ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

 

わたしの胸は、かよわい病氣したをさな兒の胸のやうだ。

わたしの心は恐れにふるへる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。

 

ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、

けはしい坂路をあふぎながら、蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた、

山の頂に立つたとき、蟲けらはさびしい淚をながした。

あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

 

自然はどこでも私を苦しくする、

そして人情は私を陰鬱にする、

むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて、

とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、

ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、

ああ、都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、

またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

 

よにもさびしい私の人格が、

おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る、

わたしの卑屈な不思議な人格が、

鴉のやうなみすぼらしい樣子をして、

人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る。

 

   *

本詩篇の初出は『感情』大正六(一九一七)年一月号である。以下に初出を示す。本詩集の特異な仮名遣いの誤りがそのままあるのが判り、これは誤りなのではなく、或いは、萩原朔太郎自身の確信犯の遊戯的韻律的実験であるのかも知れぬという気が強くしてくるのである。とすれば――筑摩書房版全集の強制補正自身は暴挙ということになるのである。

   *

 

 さびしい人格

 

さびしい人格が私の友を呼ぶ

わが見知らぬ友よ、早くきたれ

ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐやう

なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさふ

遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居やう

しづかに、しづかに二人でかうして抱き合つて居やう

母にも父にも兄弟にも遠くはなれて

母にも父にも知らない孤兒の心をむすび合はそう

ありとあらゆる人間の生活の中で

おまへと私だけの生活について話し合はふ

まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について

ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。[やぶちゃん注:本初出では全詩篇中、ここだけに句点がある。]

 

わたしの胸は、かよはい病氣したおさな兒の胸のやうだ[やぶちゃん注:「かよい」「さな兒」はママ。]

わたしの心は恐れにふるえる、せつないせつない、熱情のうるみに燃えるやうだ

 

ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた

けはしい坂路をあほぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた[やぶちゃん注:「あぎながら」はママ。二行後も同じ。]

山の頂に立つたとき、虫けらはさびしい淚をながした

あほげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた

 

自然はどこでも私を苦しくする

そして人情は私を陰欝にする

むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて

とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ

ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ 都會の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙[やぶちゃん注:字空けによる連続はママ。大きな改変箇所である。

またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ

 

よにもさびしい私の人格が

おほきな聲で見知らぬ友をよんで居る

わたしの卑屈な 不思議な人格が[やぶちゃん注:字空けはママ。]

鴉のやうなみすぼらしい樣子をして

人氣のない椅子の片隅にふるえて居る[やぶちゃん注:大きな改変箇所。「冬枯れの」がない。]

 

   *

本詩は萩原朔太郎遺愛の詩篇でもあったようで、「月に吠える」再版は勿論、その後の萩原朔太郎自身の編集になる、詩集「蝶を夢む」(大正一二(一九二三)年新潮社刊)・「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)・「萩原朔太郎集」(昭和一一(一九三六)年新潮文庫刊)にも収録されている。そこでの異同は例の特異な仮名遣いの常例法への変更や句読点(有無・字空けを含む)異同に留まるものが、一例を除いて(後述)総てであるので、再版を含め、後の四詩集での表記を示すのは流石に神経症的であるからやめておく。

 ただ、一点、現在、本詩篇の第一連の後ろから四行目が、

 

ありとあらゆる人間の生活(らいふ)の中で

 

と平仮名のルビが振られるものが一般的に知られており、私も無批判に、そう朗読してきたのだが(しながら、その実、気障ではなはだ厭な感じが付き纏って、気持ち悪くなるのを常としていた)、実はこれは昭和三(一九二八)年三月に第一書房から刊行された「萩原朔太郎詩集」にのみあるルビなのである。現在、私は、この「生活」は、創作時の朔太郎の詩想にあっては、あくまで「せいかつ」と読むべきものであったと考えている。向後、本詩を朗読される方は、あくまで「せいかつ」と詠むことを強くお薦めするものである。]

 

 

 

Kaikon

 

[やぶちゃん注:「さびしい人格」の終わったページをめくると、白紙ページ(ノンブル無し。百二十三ページ相当)となり、その左ページに田中恭吉の「悔恨」がある。これは生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)によれば、正確には、シリーズ『心原幽趣Ⅰ』の「悔恨 第一」で、大正四(一九一五)年二月二十六日作で、紙にインクで金彩を施したものである。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 肖像

 

  肖  像 

 

あいつはいつも歪んだ顏をして、

窓のそばに突つ立つてゐる、

白いさくらが咲く頃になると、

あいつはまた地面の底から、

むぐらもちのやうに這ひ出してくる、

ぢつと足音をぬすみながら、

あいつが窓にしのびこんだところで、

おれは早取寫眞にうつした。 

 

ぼんやりした光線のかげで、

白つぽけた乾板をすかして見たら、

なにかの影のやうに薄く寫つてゐた。

おれのくびから上だけが、

おいらん草のやうにふるへてゐた。 

 

[やぶちゃん注:「ぢつと」はママ。

「早取寫眞」(はやどりしやしん(はやどりしゃしん))は、スナップ・ショットのこと。瞬間を捉えて撮影した写真の意。

「おいらん草」(おいらんさう(おいらんそう))は「花魁草」で、この場合はクサキョウチクトウ(ツツジ目ハナシノブ科フロックス属クサキョウチクトウ Phlox paniculata)の異名。草夾竹桃は世界的に知られる観賞用植物で花は通常、六、七月咲きで、直径二センチメートルほどの合弁花が数十輪、比較的密な円錐花序を作って開花し、花序は上手く手入れをすれば、十数センチメートルから二十センチメートル以上にもなる(ここはウィキの「クサキョウチクトウを参照した)。花色には青紫、藤色、紅、白などがあり、筒の部分が白く抜けるものもある。なお、「花魁草」は別にゴゼンタチバナ(バラ亜綱ミズキ目ミズキ科ミズキ属ゴゼンタチバナ亜属ゴゼンタチバナ Cornus canadense)の異名でもあるが、草体も花も小さく、このブレた自分の頭部の画像の比喩には向かない。

 初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。以下に初出形を示す。

   * 

 

  肖像

 

あいつはいつも歪んだ顏をして、

窓のそばに突つ立つてゐる。

白いさくらが咲く頃になると、

あいつはまた地面の底から、

むぐらもちのやうに這へ出してくる。

ぢつと足音をかぞへながら、

あいつが顏を出したところを、

おれは早取寫眞にうつした。 

 

ぼんやりとした光線のかげで、

白ぽけた乾板をすかして見たら、

なにかの影のやうに寫つてゐた。

おれのくびから上だけが、

おいらん草のやうにふるへてゐた。 

 

   *

「這へ出して」はママ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『肖像(本篇原稿五種五枚)』として三篇(標題は最初は「鼠」、次は「鼠殺し。」、最後は無題)がチョイスして載る。表記は総てママである。

   * 

 

  

 

鼠があるいてる

くろい[やぶちゃん注:前後よりも事前削除。]

そこにも

こゝにも

 

   *

ここに編者注があり、この断片は以下の「鼠取り殺し。」と『同一の原稿用紙の右上半分に書かれており、その發想のもとになったものと思われる。』とある。

   *

 

  取り殺し。

 

の男いつは鼠とりの名人だをとる人だ

あいつは毒藥黑い瓶をもつて居る

あいつのほそい手にかゝつては

どんな鼠でも殺される

あいつはいつでも白い歪んだ顏をして

部屋のまん中窓のそばにつつ立つて居る

あいつはまたむぐらもちやうに

地面の下からでも★を//からでも★あるいて居るくる[やぶちゃん注:「★」「//」の記号は私が附した。二候補が並置残存していることを示す。]

ぢつと足音をきゝながら

あいつが鼠を殺してるところを

おれは早取寫眞にうつした

そしてだが白ぼけた乾板には

馬鹿 氣のぬけた顏をした顏ばかりうつつた

ぢつとすかして見たとき

ひつそり藥をかつてみた

ゆうれいのやうに

氣のぬけたやうな

Aぼんやりしたおれの→男のおれの顏ばかり

Aかげのやうに浮んだうつつて居た。

B氣のぬけたおれの男の顏が

Bおれわたし自身のかげ顏が

Bゆうれいのやうにうつつて居た、

Cぼんやりした顏が光線で

Cわたしの顏ばかりだけが

Cかげのやうに映つて居た。

Dうすぼんやりした光線で

Dかげのようにうつつて居た

Dわたしのおれのまつしろい顏が

Dおれのくびから上だけが

Dうす氣味わるく

Dさむそうにほゝえんで居た。→笑つて居た、ふるへて居た。

[やぶちゃん注:以上の「A」~「D」と「/」は私が附した。「A」「B」「C」「D」の四つのフレーズ(連)群が並置残存していることを示す。]

 

 

  

 

白い櫻が咲くころになると

あいつはいつも歪んだ顏をした

おれの窓のところそばにつつ立つてゐる

白いさくら……

あいつはまた地面の下から

むぐらもちのやうに步いてくるはひ出してくる

ぢつと足音をきゝながら

あいつがうしろをむいた 草から顏を出したところを

おれは早取寫眞――

だが白ぼけた乾板には

うすぼんやりした光線の作用で

なにかのかげのやうにうつつて居た

おれのくびから上だけが

おいらん草のやうにふるへてゐた、

 

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 白い月

 

  白 い 月

 

はげしいむし齒のいたみから、

ふくれあがつた頰つぺたをかかへながら、

わたしは棗の木の下を堀つてゐた、

なにかの草の種を蒔かうとして、

きやしやの指を坭だらけにしながら、

つめたい地べたを堀つくりかへした、

ああ、わたしはそれをおぼえてゐる、

うすらさむい日のくれがたに、

まあたらしい穴の下で、

ちろ、ちろ、とみみづがうごいてゐた、

そのとき低い建物のうしろから、

まつしろい女の耳を、

つるつるとなでるやうに月があがつた、

月があがつた。

            幼童思慕詩篇

 

 

[やぶちゃん注:二箇所の「掘」るとあるべきところの「堀」はママ(兼て指摘した通り、これは萩原朔太郎の書き癖)。「坭」は「どろ」と読み、「泥」の異体字。「みみづ」もママ。言わずもがなであろうが、「棗」は「なつめ」でクロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba。初出は未詳。本詩集で初めて公開されたものの可能性が高いように私には思われる。蚯蚓の動きとカット・バックした月の出のアップが凄い。彼の少年期の追想詩篇は孰れも優れて痛く胸を撲(う)つ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『白い月(本篇原稿六種七枚)』として二篇(最初は無題、後は「白い月(幼兒の追懷)」)がチョイスして載る。表記は総てママである。

   *

 

  

うすくけぶれるみどりの中に

つらつら柳がもえはぢめたそめた

遠火にもえるうぐひすな

そこの沼のそこにはふかく

くかすかにきえて しぼんでゆくさくらの花びらと

あほ白い蛙の死

ほのかにしぼむおぢきそう

や□□柳しんねりと

すべつこい女の顏を

するするとなでるやうに月があがつた

 

   *

以上の後編者注があり、『この草稿の終りの部分が「白い月」に採られたと思われる』とする。

   *

 

  思ひ出→月の思ひ出→幼兒の追懷

  白い月(幼兒の追懷)

 

はげしいむし齒痛からむしばのいたみから

白くふくらんれあがつたほつぺたをかゝへながら

わたしはなつめの木の下を堀つてゐた。

なにものかをもとめかの草の種をうえまかうとして

わたしは やさしいきやしやなゆびを坭だらけにしながら[やぶちゃん注:「坭」「泥」の異体字。]

つちの下つめたい地べたを堀つくりかへしたとき

ああ

わたしはそれをおぼえて居る

うすくらいらさむい冬の日のくれ方に

いちにちたそがれごろに

ぼんやりした このまあたらしい穴の を→中で 底で

みゝづ 土壤の下では

ほそいみゝづがうごめいてゐた

そしてみゝづがちよろくとうごいてゐた

そのときまつ白い近い建物のうしろの方から

まつしろい女の耳を

つるつるとなでるやうに月があつた

月があがつた。

 

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 五月の貴公子

 

  五月の貴公子

 

若草の上をあるいてゐるとき、

わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、

ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、

まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどつて居る、

ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、

わたしは柔和の羊になりたい、

しつとりとした貴女(あなた)のくびに手をかけて、

あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、

若くさの上をあるいてゐるとき、

わたしは五月の貴公子である。 

 

[やぶちゃん注:太字「すてつき」は底本では傍点「ヽ」。「おどつて」はママ。初出は『どくだみ』大正六(一九一七)年二月号であるが、これは筑摩版全集は、解題にこの情報があるのみで、初出誌を入手或いは参照出来なかったため、初出形は載らない

 なお、「あやめおしろい」については、国立国会図書館レファレンスデータベースに、「ポーラ化粧文化情報センター」の事例として、『萩原朔太郎の詩「』五『月の貴公子」に出てくる「あやめ白粉」について、どのような白粉だったのか知りたい』があり、その「回答」には『化粧品業界の年鑑、業界紙で、「五月の貴公子」を収載する『月に吠える』の刊行』の大正六『年に近い資料を調査、該当の商品はなく』、五『月からの連想=あやめで、「あやめ白粉」は実際に販売されていた商品ではなく、朔太郎の創作の可能性がある』とし、『確認した業界年鑑、新聞は輸入品も網羅しているが、団体に所属しない輸入があった可能性はあ』るとあって、『白粉は、粉白粉、煉白粉、水白粉など形状が数種類あり、いずれも香りづけ(賦香)されることが多』く、『当時の流行の香りは、バイオレット(スミレ)やムスク(ジャコウ)、(ホワイトロース=ホワイトローズ(白薔薇)で、所内で行っている業界紙や婦人雑誌の調査などでは、アヤメ(イリス・オリス)はあまり目にすることがない』とする。以下の「回答プロセス」の欄に、「東京小間物化粧品名鑑」(大正二(一九一三)年刊)を見たところ、『「あやめ」「イリス・オリス」と関連する白粉商品な』いが、『化粧水「イリスレヰト(尾張屋)」水白粉の可能性はあ』るとし、さらに、『イリスの香料(化粧品原料)の輸入は記載があり、商品名に明記がなくても、アヤメの香りがする白粉があった可能性は高い』とある。また、同じ「東京小間物化粧品名鑑」の昭和七(一九三二)年刊本には、『「あやめ」「イリス・オリス」と関連する白粉商品』はないものの、『頭髪用の香油に「イリス香油(井上太兵衛商店)」があ』るとある。流石に蛇の道は蛇で、凄いレファレンスだ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『五月の貴公子(本篇原稿二種三枚)』として一篇が載る。表記は総てママである。

   *

 

  五月の貴公子

 

若草のうへをあるいて居るとき

わたしの素足くつは白い→ぬれた→靑い光る足あとをのこして行く

わたしのほそいすてつきのさき銀が草でみがかれ

わたしのまるめてぬいだ手ぶくろは宙でおどつて居る

ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして

わたしはやさしい柔和な白い羊になる

そつときて→ひつそりとある いて

しつとりと貴女のくびに手をかけて

あたらしいあやめおしろいの匂をかいでやる。

若くさのうへをあるいて居るとき

わたしは若い五月のプリンスだ。

   *

最後に編者注があり、「若草の上を步いてゐる若草の上をあるいて居るとき」という題の別稿もある旨の記載がある。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 戀を戀する人

 

  戀を戀する人

 

わたしはくちびるにべにをぬつて、

あたらしい白樺の幹に接吻した、

よしんば私が美男であろうとも、

わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、

わたしはしなびきつた薄命男だ、

ああ、なんといふいぢらしい男だ、

けふのかぐはしい初夏の野原で、

きらきらする木立の中で、

手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、

腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた、

襟には襟おしろひのやうなものをぬりつけた、

かうしてひつそりとしなをつくりながら、

わたしは娘たちのするやうに、

こころもちくびをかしげて、

あたらしい白樺の幹に接吻した、

くちびるにばらいろのべにをぬつて、

まつしろの高い樹木にすがりついた。 

 

[やぶちゃん注:五箇所の太字は底本では傍点「ヽ」。「あろうとも」はママ。前の「愛憐」の注で示した通り、風俗壊乱の一篇として、書店での発売分の初版からは切り取られて、存在しなかった

 初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。大きな改変はないが、風俗壊乱とされた一篇の初出形なればこそ、示すこととする(太字は同前)。

   *

 

  戀を戀する人 

 

わたしはくちびるにべにをぬつて、

あたらしい白楊の幹に接吻した、

よしんば私が美男であらうとも、

わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、

わたしはしなびきつた薄命男だ、

ああ なんといふいぢらしい男だ。

けふのかぐはしい初夏の野原で、

きらきらする木立の中で、

わたしは空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、

わたしの腰にこるせつとをはめてみた、

襟には襟おしろひのやうなものをぬりつけた、

かうしてひつそりとしなをつくりながら、

わたしは娘たちのするやうに、

こころもちくびをかしげて、

あたらしい白楊の幹に接吻した。

くちびるにばらいろのべにをぬつて、

まつしろの高い樹木にすがりついた。 

 

   *

敢えて指摘するなら、大きな変化は大道具の樹木の違いである。初出は「白楊」で、これが「はくやう(はくよう)」と読まれるなら、

双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ(山鳴らし)属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii(木製の小箱の材料にしたことから「箱柳(ハコヤナギ)」の異名を持ち、「白楊」と書いて「はこやなぎ」と読む人も多い)

或いは、同じヤナギ科 Salicaceae

ヤマナラシ属ドロノキ(泥の木)Populus suaveolens

の異名となる。しかし、私などはつい、これを「しろやなぎ」と読みたくなり、そう読むなら、やはり同じヤナギ科の、

ヤナギ属シロヤナギ Salix jessoensis

となる。初出形のそれが、この三種の孰れを指すかは判らぬが、改変された、「白樺」ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ Betula platyphylla となると、如何にもな高原のロケーションとなって(それが萩原朔太郎の確信犯であろとも)、私にはやらせに過ぎた臭さを覚える。個人的には私が見慣れた、好きなシロヤナギがいい

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『戀を戀する人(本篇原稿三種四枚)』として二種(一篇は無題で、二つ目は「戀を戀する人」)が載る。表記は総てママである。

   *

 

  

わたしが女の子であつたら

いつもからだ中におしろひをぬつてりつけて

いつもひとりぼつちであそんでゐたい

だれもゐない野原草むらの中で

ひとりで日光 兎のやうにあそんでゐたい

さびしい冬の日光をあびながら

すきな乾草のにほひを

兎のやうにころがつてゐたい、

きれいな月 のいい晚方には 夜の晚方には

高い樹木の幹にだきつきたい

そうしてずつと遠くの どこかの人の知らないところ 墓場の

いちにちすきな乾ぐさのにほひをかきながら

すきな乾草のにほひをかいでゐたい

そしてかなしい月夜の晚には

ふしぎに白いまつ白な手足をして

あほむけにつめたい死骸★になつてみたい//の眞似★[やぶちゃん注:「★」「//」の記号は私が附した。二候補が並置残存していることを示す。次の詩篇中のものは三種並存。]

さうして

わたしがきれいな女の子であつたら

わたしはほんとに幸福であるのに、

 

 

  戀を戀する人

 

おれはわたしはくちびるにべにぬつて

若々しい樹のあたらしい白楊の幹に切吻した、

よしんばわたしが美男であろうとも

わたしには五月 まるい林檎のやうな乳房がない

わたしの肌からはあの→もう★草花のにほひがしない//あらせいとうの花のにほひがしない//あやめおしろいのにほひがしない、★

わたしはしなびきつた不幸ものだ薄命男だ→ものだ男だ、

ああなんといふ不幸の奴だ、

けふのかぐはしいはつ初夏の野原で

わたしはきらきらする日光木立の中で

わたしは水色の手ぶくろをすつぽりとはめて見た

わたしの腰にコルセツトをはめてみた

かうしてそつとしなをつくりながら

わたしはれいのれでいあのお孃さんのするやうに

すこしこゝろもちくびをかしげながら

(くちびるにまつかのべにをぬつて)[やぶちゃん注:丸括弧は朔太郎のもの。以下同じ。]

あたらしい白楊の幹に切吻した、

くちびるにまつかの(ばらいろの)べにをぬつて

舌もちぎれるまでに吸ひこんだ

光るまつしろの光る高い樹木にすがりついた。

 

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 愛憐

 

さびしい情慾

 

 

  愛憐

きつと可愛いかたい齒で、

草のみどりをかみしめる女よ、

女よ、

このうす靑い草のいんきで、

まんべんなくお前の顏をいろどつて、

おまへの情慾をたかぶらしめ、

しげる草むらでこつそりあそばう、

みたまへ、

ここにはつりがね草がくびをふり、

あそこではりんどうの手がしなしなと動いてゐる、

ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、

お前はお前で力いつぱいに私のからだを押えつける。

そうしてこの人氣のない野原の中で、

わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、

ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、

おまへの美しい皮膚の上に靑い草の汁をぬりつけてやる。 

 

[やぶちゃん注:太字「いんき」「りんどう」は底本では傍点「ヽ」。「りん」「押つける」「うして」の下線部はママ。本詩集「月に吠える」は実は発売(大正六(一九一七)年二月十日印刷・同二月十五日発行の奥附である)に際して、内務省警保局から風俗壊乱を理由として発売禁止の内達を受けた。しかし、この「愛憐」と、次の「戀に戀する人」の二篇を削除することで発売が許可されたため、近親者その他に配布済みであった少部数以外には、別紙挟み込みで、

 注意 その筋の注意により、『愛憐』『戀を戀する人』の二篇(一〇三頁より一〇八頁まで)を削除する

の断り書きが附された。当該詩篇の載る三枚を、綴目じ目から一センチメートルほど残して切り取り、百三ページ目(「愛憐」の始めのページ)に当たる後に、上記の断り書きを印刷した、本文と同じ大きさの紙が貼られた(ここは底本の含まれるセットの解説書の那珂太郎氏の解説に拠った)。以上の削除経緯は筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第一巻(昭和五〇(一九七五)年刊)の本詩集の解題と那賀太郎「名詩鑑賞 萩原朔太郎」(昭和五四(一九七九)年講談社学術文庫刊)に拠ったが、後者では別刷挟み込みの文章は(漢字は正字化し、「頁」に附されたルビ「ページ」は那珂氏の添えたものと判断して除去した)、

 その筋の注意により『愛憐』『戀を戀する人』の二篇(一〇三頁より一〇八頁まで)を削除す

となっている。

 なお、解説書の那珂太郎氏の解説によれば、底本が依拠したものは、近親者その他に配布済みであったそれではなく、版が異なる『造本の無削除版が、少なくとも現在まで四冊発見されている』とあり、実は驚くべきことに、削除された初版とは、今私が電子化しているものとは、内容の順列が異なっていることが判明した。以下に示す。

   *

○削除対象となった一般市販用の初版の構成

1 北原白秋の序

2 萩原朔太郎の自序

3 詩集例言

4 詩篇本文

5 室生犀星の跋

6 挿画附言

7 詩集附録(田中恭吉・孝四郎・萩原朔太郎筆)

8 本文目次

9 挿画目次

  奥附

 

◎私がここで電子化している特殊初版の構成

1 北原白秋の序

2 萩原朔太郎の自序

3 詩集例言

4 本文目次

5 挿画目次

6 詩篇本文

7 室生犀星の跋

  奥附

8 挿画附言

9 詩集附録(田中恭吉・孝四郎・萩原朔太郎筆)

   *

妙な所に奥附があるなとは思っていた。那珂氏は『これはにわかに断定することはできないが、削除版のあとにこれと区別するために表紙左右寸法をやや広げて作られたものかと臆測される』が、『これが何部作られたかも確定できない』とされ、『本書は、より完全な形と見なされるこの無削除版をもとにつくられた』とあり、解説書末にある編集部の「復刻製作の概要」でも『復刻版用底本には某氏所蔵初版本を使用した。無削除版計四冊、削除版は四冊見た』とある。

 因みに、五年後の再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)では、以上の削除された二篇は復活している。

 因みに、本詩は本詩集初版で初めて示されたはずの詩篇であった。但し、前掲の那珂氏の本詩の解説では『大正四年晩春ころの作と思われ』るが、『掲載誌未詳』とある。前掲筑摩版全集解題の「初出形」の解説には、『初出誌が未詳なもの』として本詩集の先行する「苗」「掌上の種」「麥畑の一隅にて」「くさつた蛤」「贈物にそへて」そして本「愛憐」と、後の「白い月」の七篇を掲げつつ、『しかし初出誌未詳のもののなかには、雜誌・新聞發表を經ずに、直接原稿から單行本に收錄されたと思われるものもある(「月に吠える」の中の幾つかの作品は、「詩集例言」にあるように未發表作品と思われる)』(同全集は編者解説も総て漢字正字使用で仮名遣は現代仮名遣という今やちょっとあり得ない全集である)とある。

 那珂氏が本詩篇を大正四(一九一五)年晩春頃と推定されたのは、次の「戀を戀する人」の初出が大正四年六月号の『詩歌』であること、本詩集の「詩集例言」の「詩篇の排列順序は必ずしも正確な創作年順を追つては居ない。けれども大體に於ては舊稿からはじめて新作に終つて居る』。『「くさつた蛤」「さびしい情慾」等は大低同年代の作である』という言に基づくものであろうとは思われる。しかし、発表誌のクレジットは必ずしも編年順でなく、次の「五月の貴公子」の初出は『どくだみ』大正六年二月号(筑摩版全集の解題の情報のみ。初出形は載らない)であるのに対し、その次の次(その次は「白い月」で初出未詳)の「肖像」は大正四年六月号『詩歌』である。無論、発表詩の順が創作の順ではないし、「愛憐」を冒頭に配したことからも、私は那珂氏の推定も不審ではない。因みに、大正四(一九一五)年晩春頃とすれば、萩原朔太郎(彼の生まれは明治一九(一八八六)年十一月一日)は二十八か、二十九歳になったばかりで、未だ独身であった(上田稲子との結婚は大正八(一九一九)年五月、本詩集刊行後の二年後である)。

 にしても、これや次の「戀に戀する人」が、この時代にあって、風俗壊乱の猥褻物とされた事実は、最早、現代の若者には全く理解不能であろう。それがいいことなのか、悪いことなのかは一概には言えぬが。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『愛憐(本篇原稿三種四枚)』として以下の一篇のみ(標題は「情慾」)が載る。表記は総てママである。

   *

 

  情慾

  情慾

 

きつと可愛いかたい齒で

草のみどりをかみしめる少女よ

いとしい娘→戀びとよ

ちよつとこつちをおむき

けふもそのうす靑い草のいんきで

まんべんなくおまへの顏をいろどつて

おまへの情慾をたかぶらしめ

くいちにち野原であそぼう→いちにちけふも草むらのかげでこつそりとあそぼう、

み給ヘ

こゝにはつりがね草がほそいくびをふり

あそこにはりんどうの手がなよなよとしなしなとうごいて居る

またそしてあの透きとほつた蒼空では玻璃製の天上では

毛のはえた太陽がくるくるまわつて居る

ああこんなに わたしはもう力いつぱいわたしはもう力いつぱい

こんなにもしつかりとだきしめて居る

だんだんおまへが まつさを の顏が 靑く 草でそめられ顏がまつさをになり

ゆうれいのやうになつてくるまで→見えてくるまで→まつさをに靑くなるまでしつとりと見えるまで

おまへの黑いひらききつた瞳(ひとみ)に淚が光つて見えるまでほんのり淚が光るまで

わたしはおまへをいろどつてあげる→の額に→の皮膚を草でいろどをきりきりと可愛がつてやり

おまへの美しい皮膚に靑い繪具をぬりつけてやる、

 

   *

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