宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 白い鳥
白 い 鳥
⦅みんなサラーブレツドだ
あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが⦆
⦅よつぽどなれたひとでないと⦆
古風なくらかけやまのした
おきなぐさの冠毛がそよぎ
鮮かな靑い樺の木のしたに
何匹かあつまる茶いろの馬
じつにすてきに光つてゐる
(日本繪卷のそらの群靑や
天末のturquois(タコイス)はめづらしくないが
あんな大きな心相の
光の環(くわん)は風景の中にすくなくない)
二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなくし啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が來たのであんなにかなしく啼いてゐる
(それは一應はまちがひだけれども
まつたくまちがひとは言はれない)
あんなにかなしく啼きながら
朝のひかりをとんでゐる
(あさの日光ではなくて
熟してつかれたひるすぎらしい)
けれどもそれは夜どほしあるいてきたための
vaguc(バーグ)な銀の錯覺なので
ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が
靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)
どうしてそれらの鳥は二羽
そんなにかなしくきこえるか
それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき
わたくしのいもうとをもうしなった
そのかなしみによるのだが
(ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか
けさはすずらんの花のむらがりのなかで
なんべんわたくしはその名を呼び
またたれともわからない聲が
人のない野原のはてからこたへてきて
わたくしを嘲笑したことか)
そのかなしみによるのだが
まだほんたうにあの聲もかなしいのだ
いま鳥は二羽、かゞやいて白くひるがへり
むかふの濕地、靑い芦のなかに降りる
降りやうとしてまたのぼる
(日本武尊の新しい御陵の前に
おきさきたちがうちふして嘆き
そこからたまたま千鳥が飛べば
それを尊のみたまとおもひ
芦に足をも傷つけながら
海邊をしたつて行かれたのだ)
淸原がわらつて立ってゐる
(日に灼けて光つてゐるほんたうの農村のこども
その菩薩ふうのあたまの容(かたち)はガンダーラから來た)
水が光る きれいな銀の水だ
⦅さああすこに水があるよ
口をすゝいでさつぱりしてから往かう
こんなにきれいな野はらだから⦆
[やぶちゃん注:本篇を以って「無聲慟哭」パートは終わっている。大正一二(一九二三)年六月四日(月)の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。前の「風林」の翌日であり、ロケーションも生徒を連れた岩手山登山の帰りの柳沢の草原らしき雰囲気と読める。月曜で農学校は課業中のはずあるが、「東岩手火山」の際もそうであったように、この岩手山登山は校長公認の学校行事であった可能性が高い(但し、本当にこの日・月にかけて登山が行われたかどうかは事実確認はなされていない)。宮澤家版「手入れ本」は最終的に全篇抹消の意向を示す様態と校本全集版編者注がある。これは前の「月林」と全く同じ仕儀である。個人的には私は「月林」とこの「白い鳥」は本書にはなくてよい気がしている。少なくとも「無聲慟哭」パートに入れるべきではなかったと感ずる。そうして、トシを失った賢治には、未だ〈トシの死の後に詩を書くことは野蛮ではないか〉といった意識がトシの死後二年後の本書刊行の大正一三(一九二四)年四月にあっても、どこかに未だあったような気がする。トシを直截に詠み込んだこれら二篇を許せなかった彼が見える。それが許されるのは次の、二ヶ月後の「オホーツク挽歌」パート(大正一二(一九二三)年八月の創作群)を待たねばならなかったのである。
本篇は賢治にしては珍しく、題名「白い鳥」を見た読者の大半が意想する通りに展開する特異点の一篇ではないかと私は思う。少なくとも私は、若き日にこの詩篇の題名を見た時、倭建命(やまとたけるのみこと)とトシの霊魂の飛翔を想起し、それが詩篇中に出てくるので、あらっと意外に思ったからである。それほど賢治の詩篇は恒常的に読者の意表を突くことを通常属性としているばかりだからである。
・「鋭くかなくし啼きかはしながら」ママ。原稿は「鋭くかなしく啼きかはしながら」で誤植であるが、「正誤表」にない。まあ、これなら人によっては「かなしく」と脳内で補正して躓かないケースもあろう。
・「vaguc」原稿は「Vague」(大文字はママ)で誤植であるが、「正誤表」にない。「vague」(賢治は「バーグ」とルビを振るが、カタカナ音写なら「ヴェィグ」に近い)は英語で「(言葉・観念・感情などが)漠然とした・曖昧な・はっきりしない」、「(態度・行動などが)紛らわしい・どうとも採れる」で語源はラテン語の「vagus」(彷徨える・(考えなどが)定まらない)である。これでは調べても意味が判らぬという点で救命不能の致命的誤植である。
・以下の部分、
*
(あさの日光ではなくて
熟してつかれたひるすぎらしい)
けれどもそれは夜どほしあるいてきたための
vaguc(バーグ)な銀の錯覺なので
ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が
靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)
*
の「わたくしは見た)」の丸括弧の始まりがないのはママ(因みに「体」はママ)。而して原稿(推敲最終形。一部の消し忘れは操作した)を見ると、
*
(あさの日光ではなくて
熟してつかれたひるすぎらしい
けれどもそれは夜どほしあるいてきたための
Vague(バーグ)な銀の錯覺なので
ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が
靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)
*
となっている。これだと、丸括弧の不具合は解消されるし、中間部の二行が前後で齟齬する感じも無くなるのである。しかし、全集校訂本文は、
*
(あさの日光ではなくて
熟してつかれたひるすぎらしい)
けれどもそれは夜どほしあるいてきたための
vague(バーグ)な銀の錯覺なので
(ちやんと今朝あのひしげて融けた金(キン)の液体が
靑い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た)
*
と丸括弧を「ちやんと」の前に配しただけで澄ましている(「済まして」の誤字ではない。平然と「澄まして」いるのが「気に入らない」のである)。これは正直、太字で示した本書用原稿の形態で校訂本文とするのが妥当なのではないか? 大方の御叱正を俟つものではある。
・「靑い夢の北上山地からのぼったのをわたくしは見た)」底本では最後の「わたくしは見た)」の七字の文字部は字間が詰まっており、最後の丸括弧は半角のそれである(全集校異は『七字のみ字間四分アキなし』とのみで丸括弧には言及していない)。再現が面倒なのでここで注しておく。これは印刷業者が、本書本来の版組では一行字数が多過ぎ、次行に渡ってしまうのを避けるために行った、親切な仕儀である。
・「芦」二箇所のそれは、底本では下部は「戶」ではなく「戸」の字体であるが、表記出来ないので「芦」で示した。
「サラーブレツド」thoroughbred。サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された。
「あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが」「ああいう馬、誰が行ったら、おとなしくさせるのに、いいだろうか?」。
「古風なくらかけやま」岩手県滝沢市にある鞍掛山。標高八百九十七メートル。岩手山の南東の裾野の低いピークで、賢治がその景観を愛した小岩井農場の北方八キロ弱に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。ブログ・サイト「宮澤賢治の詩の世界」の「岩手山とくらかけ山」によれば、鞍掛山は網張(あみはり)火山群に属し、網張火山群の活動と形成期の初期は、更新世前・中期(約一万年前以降)であり、現在の岩手山の方は、その後の更新世中・後期に活動が開始され,成層火山体が形成され、ずっと後に山体南東部のカルデラが形成されたとあるから、岩手山を中心とした山塊の中では鞍掛山は「古風」、古株の独立峰なのである。なお、上記リンク先では先行する「岩手山」を最初に掲げて、その解釈を示しておられ、そこで否定的嫌悪的に描く岩手山は父政次郎の象徴とされ、『では、もしも「岩手山」が賢治にとって父親を象徴していたとすれば、母親を象徴するものは何でしょうか』。『それは、岩手山のふところに抱かれるように位置している、「くらかけ山」ではなかっただろうかと、私は思います』。『 まず、岩手山に寄り添うくらかけ山の姿は、妻として、主婦として、家長・政次郎を支えた妻イチの姿を、彷彿とさせるものがあります。雄大で男性的な岩手山に対して、なだらかな曲線を描くくらかけ山の山容は、優しく女性的です』。『そして、賢治の「くらかけ山」に対する感情は、岩手山に対するものとはまた少し異なって、自分がいちばん苦しい時、孤独な時に、最後の頼みとする「心のよりどころ」のようでした。「岩手山」と同じく『春と修羅』所収の「くらかけの雪」では、次のような思いが吐露されます』として「くらかけの雪」が引用されるが、リンク先の私のそれを見られたい。そこでも最終行に『(ひとつの古風(こふう)な信仰です)』と賢治は記している。さらに、『晩年になって「雨ニモマケズ手帳」に書き記された断片では、次のようになっています。
〔くらかけ山の雪〕
くらかけ山の雪
友一人なく
たゞわがほのかにうちのぞみ
かすかなのぞみを托するものは
麻を着
けらをまとひ
汗にまみれた村人たちや
全くも見知らぬ人の
その人たちに
たまゆらひらめく
『これはおそらく未完に終わっており、小倉豊文氏が指摘しているように、一行目の「くらかけ山の雪」が題名であって、詩の本文は「友一人なく」から始まるのかもしれません』。『しかしいずれにしても、「友一人なく」孤独な賢治が「かすかなのぞみを托する」のは、くらかけ山の雪だったのです』。『このことからも私は、「慈母」と呼ばれた母イチの存在を、連想してしまうのです』と述べておられる。
「おきなぐさ」既出既注。キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ(翁草)属オキナグサ Pulsatilla cernua。葉や花茎など、概ね、全草が白い長い毛で覆われる。「おきなぐさ」の私の注を参照されたい。花期は四~五月であるからすでに散っているが、開花後も種子が付いた白い綿毛が目立つのでそれを、「冠毛」と言っているかとも思われる。
「樺」賢治が諸作品に記す「樺」は殆んどが白樺、ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica である。
「天末」空と山岳大地の接するスカイライン。
「turquois(タコイス)」はトルコ石で、turquoise(ターコイズ:青色から緑色の色を呈する不透明な鉱物)(「turquois」は単数形)であるが、ここはターコイズ・ブルー(turquoise blue)で緑がかった青い色のこと。色見本サイトのそれをリンクさせておく。
「心相」「しんさう(しんさう)」は仏教用語では、主観としての現象世界の対象物の認識すべてを指す。即ち、我々が客観的対象と認識している、例えばここでの自然の景色は自己の観念が客観化して心の中に写した像であるとするのである。而してありがちな逆説的展開で以って最終的には「主観の心相」と「客観の色相」とは実は本質一体であるなどとのたもうてもいる。まあ、しかしここで賢治はそのような神経症的みたような意味で使ってはいまい。但し、だからと言って客観的即物的景観の意でもない。その客観的現象である「光の環(くわん)」が心に映って、彼の心を充溢させ(それが「大きな」という形容である)ているという感動を指している捩じった表現と私は採る。
「光の環(くわん)」これも前に出た日暈(にちうん)、「ハロウ」(英語:halo:ヘイロー)であろう。太陽やその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のこと。。太陽や月を光源として、それらに薄い雲がかかった際、その周囲に発生するように見える光の輪。日暈(ひがさ)。語源はギリシャ語の当該現象を指す語で、お馴染みの写真や映像で、強い光が当たった部分が白くぼやけることを指す「ハレーション」(halation)は、この「halo」に結果や状態を表わす名詞語尾「-ation」が附いたものである。他に宗教的聖像などの後光・光輪・光背の意もある。
「それは一應はまちがひだけれども」/「まつたくまちがひとは言はれない」この否定と一部留保の謂いは賢治の特異とするところであるが(ある意味では病的な関係妄想的気分を感じさせる時もある)、ここには賢治の中の二律背反のディレンマがよく現われていると言える。科学者・教師・家長・実行動的日蓮宗信徒(日蓮宗は天皇の日蓮宗化。国家の日蓮宗化を闡明している極めて政治的宗教であることは「立正安国論」を読めば一目瞭然である)という対社会的な存在としての自分(それが「白い鳥をトシと思うことは無意味で馬鹿げて誤りだ」とする)と、破戒をものともせぬ修羅の彷徨者・頽廃を孕んだ夢想家・幻想を偏愛する芸術至上主義者・突き抜けた神秘家としての反社会的存在としての自分(それが「いや! 全く間違いだとは言い切れぬ! 死んだトシに霊魂があり、それが白い鳥になることはあり得る!」と叫ぶ)を、彼は常に同時に心の内に持っている。その〈二人〉が常に言い争う。それを生身の賢治はただ黙って見ているしかない。そういう生身の賢治は恐らく発狂するしかないと思っているだろう。賢治が時に見せたという半狂乱的行動は私はそのようなものであったと考えている。
「あさの日光ではなくて」/「熟してつかれたひるすぎらしい」ここで正確な現実時間に戻っていることが判る。仮にこの生徒引率の山行の実行を想定した時、岩手山外輪山で御来光を拝んで、それから下山し、「馬返し」を経て、柳沢の放牧地辺りまで辿りついたとするなら、これは最早、朝ではない。即ち、前にあった「しめつた朝の日光を飛んでゐる」という描写は夢想感覚(心象)に於いて「朝」なのであり、この詩はオープニングから昼過ぎの現実時制であったのである。それで読者の認識は落ち着くからいいはずなのだが、そこで賢治はまた、そこに「けれどもそれは夜どほしあるいてきたための」「vaguc(バーグ)な」(「ぼんやりとした」が一番よかろう)「銀」(太陽のハレーションか「異邦人」のムルソーの「太陽が眩しかったから」の感じか)「の錯覺」による感覚変調「なので」私には「朝」なのだ(或いは後の「靑い夢の北上山地からのぼつた」のだから私は未だに「靑い夢」の中にいるのだ、と謂いたいのかも知れぬ)、と日常性をまたしても覆して、自己の故意の錯視感覚へと読者を引き戻そうとするのである。さても、これは彼の特異で偏奇なる嗜好であり、それは、ある種の読者にとっては激しい苛立ちを起させるものとなるとも思っている。そういう意味では賢治は自身の行動や言動が他者にどう感じられるかということを、相手の立場に立って考えることが出来ない、アスペルガー症候群(Asperger Syndrome)に近い人格の持ち主であったように私は考えている。アスペルガー症候群は天才にも多いということは御存じであろう。ここの表現のまどろっこしさは、賢治には極めて大真面目でしかも論理的な〈つもり〉なのである。
「ひしげて融けた金(キン)の液体」日の出や日没時の太陽は大気の屈折(回折と蜃気楼等)のために、帆立貝・円柱・円盤・四角等、多様な形に変化するのは御存じの通り。
「どうしてそれらの鳥は二羽」/「そんなにかなしくきこえるか」/「それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき」/「わたくしのいもうとをもうしなった」/「そのかなしみによるのだが」ここに賢治の非常に特異な心性がよく現われている。
彼の「悲しみ」は――私の愛する妹を失ったことによる――〈のではない〉――
のである。
愛する妹を失ったことが悲しみの核心――〈ではない〉――
のである。
彼は、二羽の鳥の鳴き声がいやまさに悲しく聴こえるのは、
「それは」自分〈「に」〉救う道を失った時、その時、同時に――「たまたま」――いや――「だから」かも知れない――愛する〈「わたくしの」〉「いもうとを」〈「も」〉「うしなつた」その「かなしみ」によるのだ
というのである。妹を失ったことは共時的に発生した副次的理由(そこに因果関係があるにしてもないにしてもそれは飽くまで二次的なものである)であって、
「わたくしの」「かなしみ」の核心は飽くまで――自分〈「に」〉救う道を失った――ことによる
というのである。この助詞の「に」が捩じれている。
「自分」の中「に」於いて、「自分」で「自分」「を救う道」を完全に「うしなつた」ことが「かなしみ」なのだ
と読むべきであろう。それはそれでよい。それは確かに真理であろう。我々は「わたくし」のこと、自分のことしか実際には真剣には考えられないものだろうからして。しかし、実は問題は別にある。論理を厳重に解析するのは賢治の性癖でもあろう。それは賢治が、
「自分」(=「わたくし」)の中で「自分」(=「わたくし」)を救う道を完全失ってしまったという「わたくし」(={自分」)の「かなしみ」、それに加えて、
その時、同時に逝ってしまった「わたくし」(=「自分」)「のいもうと」、「わたくしの」(=「自分」)愛するトシ「もうしなつてしまった」「わたくし」(=「自分」)が「かなしいから」、
その「二羽」の「鳥」の鳴き声を「かなしくきこえ」させ「る」のだ
と言っている点である。何? 総てが「わたくし」「自分」の問題でしかないことは判ってるって? そうじゃない! 問題なのはこの文脈では、
逝った妹トシは、「わたくしの」ものであり、「自分」が今までずっと思っている通りの存在であるはずの「いもうと」まで「も」失ってしまった、だから悲しい
と言っている事実が問題なのだ。賢治が悲しいのは、
「自分」を唯一無条件に理解してくれていた、「わたしの」(物理的兄妹であること)、(それ以上に信仰や精神や魂までも共有していた)「わたし」だけのものであった「いもうと」まで「も」、私を置いて逝ってしまった
と誤認している点である。賢治は少なくとも、この詩篇のここでは、トシの現実世界での精神的存在を、彼の好きそうな詩語で言うなら、溶解した自身と融合体していたはずのもの(悪く言えば賢治の精神的所有物)と捉えているのである。賢治よ、トシの魂は、最早、君の思想や幻想の一部なんかじゃ、ないんだよ。トシは君の考えるより、遙かに孤高な思想を抱えて、遙かに君を慈愛の眼で見降ろして、「じぶん」を「すくふちからを」持って、あちらの世界へと旅立ったのだ。……さても……賢治がそれに気づくには……「銀河鉄道の夜」の着想を得るまで、待たねばならぬようだ……
「ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか」前の「風林」である。
「すずらん」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン変種スズラン Convallaria majalis var. keiskei。日本在来変種。私の偏愛する花。
「またたれともわからない聲が」/「人のない野原のはてからこたへてきて」/「わたくしを嘲笑したことか)」乖離した超自我が破戒の意識の中にある彼を嘲り笑うのである。それが実は自分の内なる自分自身そ糾弾する今一人の自分に声であることは判っている。だから「そのかなしみによるのだが」と呟かざるを得ないのである。
「まだほんたうにあの聲もかなしいのだ」現実へ戻る。二羽の鳥の声である。
「日本武尊の新しい御陵の前に」/「おきさきたちがうちふして嘆き」/「そこからたまたま千鳥が飛べば」/「それを尊のみたまとおもひ」/「芦に足をも傷つけながら」/「海邊をしたつて行かれたのだ」「日本武尊」は「やまとたけるのみこと」(「のみこと」をつけて賢治が読んでいるかどうかは不明だが、私はつけて読む)。「御陵」は「みささぎ」と訓じておく。倭建命(やまとたけるのみこと)が死後、白鳥となったとする伝承は記紀に載り、よく知られるが、そこでは通常、白鳥(鳥綱カモ目カモ科Anserinae 亜科に属する広義のハクチョウ類であるが、本来、古来から本邦に自然に飛来して来る種はオオハクチョウ Cygnus Cygnus とコハクチョウ Cygnus columbianus の二種のみであったと考えられる)とされるのである(私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕」を参照されたい)が、ここで賢治は「千鳥」(チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae の属する種の総称(チドリという種は存在しない)。本邦では十二種が観察され、その内の五種が繁殖する。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい)としている。悲劇の英雄の変身するそれとしては大きなハクチョウが相応しいように見えるが、しかし、実は「白い千鳥」(種は不明)なので、賢治の謂いは正しいのである。道三(どうさん)氏のブログ「古事記演義」の「天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル」が細かな考証をされていて、読み物としても非常に面白いのでお薦めである。悲劇の人物はよく「白鳥」となって翔け去る。浦島太郎伝説の一ヴァージョンでも老人と化した浦島は白鳥(一説に白鶴)となって飛び去ったとする。この「白き鳥」とは浦島の鶴で推測出来るように、永遠の寿命を持った神聖な鳥なのである。その存在と同じ「白鳥」となったトシが、二羽で翔けてゆくのである。賢治は実際にはその一羽を自らに擬え、天空の彼方へトシと一緒に翔けり去ってしまいたかったのではなかったか。倭建命の挿話は、或いは、ここで生徒たちにその話を賢治が語ったのかも知れぬが、そうした死の願望を隠すための仕儀と私は読む。
「淸原」花巻農学校二年生であった清原繁雄。
「ガンダーラ」現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて紀元前六世紀から十一世紀の間存続した古代王国。一世紀から五世紀にかけては仏教を信奉したクシャーナ朝(中央アジアから北インドにかけて一世紀から三世紀頃まで栄えたイラン系王朝)のもとで最盛期を迎えた。一〇二一年にガズナ朝(現在のアフガニスタンのガズナを首都としてアフガニスタンからインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝)のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。ガンダーラの最も有名な王であるインド・グリーク朝(紀元前二世紀頃から西暦後一世紀頃までの間、主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国)のメナンドロスⅠ世は仏教徒となって以降、この地にギリシャ・シリア・ペルシャ・インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術を齎した。日焼けした頭の鉢の太いくりくり頭の清原君のそれが、眼に浮かぶ。面白いカットで可愛らしく終わって、エンディングとしては私は好きだ。
「さああすこに水があるよ」「古事記」の倭建命の部分の薨去パートである「思國歌(くにしのびうた)」の箇所で、山の神を討って死の元となる深手を負った直後、玉倉部(たまくらべ)の清水で休息して、いっときだけ、一心地をつくシーンを思い出した。]