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2018/11/20

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 印象

 

     印  象

 

ラリツクスの靑いのは

木の新鮮と神經の性質と兩方からくる

そのとき展望車の藍いろの紳士は

X型のかけがねのついた帶革をしめ

すきとほつてまつすぐにたち

病氣のやうな顏をして

ひかりの山を見てゐたのだ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月二十七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。宮澤家版「手入れ本」では本文の本詩全体に斜線を引いて削除している。「X」は底本では、やや右にずれて植字されている。

 今までになく、強い陰鬱と不安を感じさせる詩篇である。

「木の新鮮と神經の性質と兩方からくる」即物的に読むならば、「ラリツクス」(既出既注。裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi の属名)の樹形と枝の延び方は神経系のそれやニューロンの延伸を想起はさせる。しかし、万物に仏性があるとするならば、「木」もまた「神經」=精神を持つとも読める。しかも、その精神は「靑」である。もしかすると、それは実は「新鮮」と対峙する対象感覚ではないか? 即ち、それは「靑」冷めた精神であり、活性した「新鮮」さの中に、それとは真逆の鬱々とした蒼白もが重ねられているのではないか? それが後半のマグリットの絵にでもありそうな、何か不吉なものをさえ感じさせる「印象」とも重なるように私には思えるのである。

「展望車」諸家は、軌道上の風景を展望できるように、座席や大型の窓を特別に設けた鉄道車両とする。それに異論はない(私は主にそのマグリット的なシュールレアリスティクな幻像=「印象」に於いてという条件にあってであるが)。お世話になっているギトン氏はここから三回(下部左の「次へ→」で見られたい)に亙って、この「展望車」を緻密に考証しておられ(私は鉄道に全く興味がないので、ギトン氏の示される当時の展望車の資料提示をそのまま素直に読んだ)、最終的にこちらで、賢治が、当時存在し、賢治がかつて『東海道線で展望車を見た記憶』(それは可能性としてであるが、あり得ることをギトン氏は当時のデータを示して解説されており、私は承服出来る)『回想するきっかけが、何かあったはずで』、『そのきっかけとは、小岩井農場の《馬トロ》ではな』かったか、と推論され、『現在の観光用《馬トロ》の馭手は座っていますが、当時の業務用《馬トロ》では、馭手はトロッコの上に立って手綱を操っていたそうです』として、先の「小岩井農塲」の「パート九」でも、賢治は「馬車が行く 馬はぬれて黑い」/「ひとはくるまに立つて行く」『と、《馬トロ》に立っている馭手が描かれていました』と示され、そこから、『賢治は』大正一一(一九二二)年六月』、『長詩「小岩井農場」のための“歩行詩作”から』一『ヶ月後』に、『小岩井農場を』再度、『訪れた時に』(但し、全集年譜にはその事実は記されてはいない)、『走っている《馬トロ》の馭手が、すくっと真っ直ぐに立って、遠景に光る岩手山のほうを見ている印象から、以前に東海道線で見た展望車を思い出したのではないでしょうか?』と述べられて、この『展望車(展望デッキ)に直立する「紳士」とは、《馬トロ》の馭手ではないかと思うのです』と推定されておられる(ギトン氏の、その小岩井農場にあった旧馬車鉄道の写真はこちら)。推理小説を読むような解析・推理に私などは全く以って頭が下がり、彼の推論に異議なく賛同した。是非、ギトン氏のそれらのページを読まれんことを強くお薦めするものである。

「藍いろの紳士」「藍いろの」服を着た「紳士」では、ない。全身、「藍」色と表現したくなる、不気味な不吉な「紳士」なのである。であればこそ、続く「すきとほつてまつすぐにたち」/「病氣のやうな顏をして」いるのが、慄然とイメージされると言える。

「帶革」(おびかは(おびかわ)は獣皮革で出来たバンドであるが、特に剣や刀を腰に佩くために幅をやや広い作った革ベルトを指す。それに、不気味にそこだけ耀く金属の「X」字型の掛け金が光っている。

「ひかりの山を見てゐたのだ」「ひかりの山」は希望のようでもある。しかし、それは手の届かない彼方に輝く「ひかり」であるのかも知れず、孤独と陰鬱の「藍いろの紳士は」呆然となすすべもなく、孤独の「展望車」のデッキに立ちすくんで去ってゆく遠い「ひかりの山」を見つめているのではあるまいか? その「展望車」も遂には――点――となって消失してしまう……

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