宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 習作
習 作
キンキン光る
西班尼(すぱにあ)製です
(つめくさ つめくさ)
こんな舶来の草地でなら
黑砂糖のやうな甘つたるい聲で唄つてもいい
と┃また鞭をもち赤い上着を着てもいい
ら┃ふくふくしてあたたかだ
よ┃野ばらが咲いてゐる 白い花
と┃秋には熟したいちごにもなり
す┃硝子のやうな實にもなる野ばらの花だ
れ┃ 立ちどまりたいが立ちどまらない
ば┃とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ
そ┃みきは黑くて黑檀(こくたん)まがひ
の┃ (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)
手┃このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると
か┃かんがへたのはすぐこの上だ
ら┃じつさい岩のやうに
こ┃船のやうに
と┃据えつけられてゐたのだから
り┃……仕方ない
は┃ほうこの麥の間に何を播いたんだ
そ┃すぎなだ
ら┃すぎなを麥の間作ですか
へ┃柘植(つげ)さんが
と┃ひやかしに云つてゐるやうな
ん┃そんな口調(くちやう)がちやんとひとり
で┃私の中に棲んでゐる
行┃和賀(わが)の混(こ)んだ松並木のときだつて
く┃さうだ
[やぶちゃん注:「┃」は底本では連続(改ページ部分は除く)長い横線である(本篇全画像を上に示した)。大正一一(一九二二)年五月十四日の作。現存稿は底本原稿のみで(大きな異同を感じないので略す)、これ以前の発表誌等も存在しない。
さて、この各行の一字目を縦に読む(これだけは、横書電子化のうま味のあるところで、すんなり読めて意味も用意に採れる)と、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という七五調定型詩のようなものが現われる。さてもこれは、大正八(一九一九)年一月一日に、かの「藝術座」が松井須磨子主演で(明治一九(一八八六)年~大正八(一九一九)年:この公演中の四日後の一月五日に東京市牛込区横寺町(現在の東京都新宿区横寺町)にあった「芸術倶楽部」の道具部屋に於いて縊死自殺した。ともに劇団を立ち上げた不倫相手島村抱月(妻子がいた)は二ヶ月前の前年の十一月五日にスペイン風邪で病死しており、それが自死の引き金であった)東京有楽座で公演した、かのメリメ原作のビゼーのオペラ「カルメン」の劇中歌として、北原白秋が作詞し(但し、白秋は英訳本「カルメン」からアリア「ハバネラ」(Habanera:冒頭の歌詞から「恋は野の鳥」(L'amour
est un oiseau rebelle)の題名でも呼ばれる)を意訳したもの)、中山晋平が作曲した「戀の鳥」の詩句の一部を下敷きとして組み直したものである。以下に、所持する正字正仮名の新潮文庫昭和二五(一九五〇)年刊「北原白秋詩集」より引く。
*
恋の鳥
――『カルメン』の唄より――
(カルメンのうたふ小曲)
捕らへて見みればその手から、
小鳥は空へ飛んで行く、
泣いても泣いても泣ききれぬ、
可愛いい、可愛い戀の鳥。
たづねさがせばよう見みえず、
氣にもかけねばすぐ見みえて、
夜も日も知らず、氣儘鳥、
來きたり往(い)んだり、風の鳥。
捕(と)らよとすれば飛とんで行き、
逃げよとすれば飛びすがり
好(す)いた惚(ほ)れたと追つかける、
翼(つばさ)火の鳥、戀の鳥。
若しも翼を擦り寄せて、
離しやせぬぞとなつたなら、
それこそ、あぶない魔法鳥、
戀ひしおそろし、戀の鳥。
*
見て戴けば、判る通り、第二連冒頭の「捕(と)らよとすれば」に、第一連の「その手から」/「小鳥は空へ飛んで行く」を接合したものである。但し、こう歌詞をいじくり、しかも、奇妙な形の本詩篇の構造を考えると、そこには、何か、誰かにしか判らない暗号とまで言わないまでも、本篇本文の意味するところを、誰かに何か匂わせるような性質が、この詩篇には潜ませてあるのではないか? という思いはしてくる。そんな思いの中でネット上を調べてみたところ、azalea氏のブログ『宮沢賢治と「アザリア」の友たち』の「八ヶ岳エスペラント館|宮澤賢治センター2月の定例研究会 とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く[作品に関すること]」に行き当たった。そこには、まさに私が推測した通りの可能性が語られていたので、少々、吃驚した。賢治がこの詩を密かに捧げたと思われる相手の候補は、かの「銀河鉄道の夜」のカンパネルラのモデルともされる同い年の盛岡高等農林学校時代(保阪の方が一年後輩。同校の文芸同人誌『アザリア』でともに詩や文章を競ったが、大正七(一九一八)年三月発行の第六号に保阪が寄稿した「社会と自分」という文章の中に、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があったことが問題視されて保阪は退学処分となった)からの親友で文芸記者から農業実践家となった保阪嘉内(ほさかかない 明治二九(一八九六)年~昭和一二(一九三七)年)であった(保阪についてはウィキの「保阪嘉内」とウィキの「宮澤賢治」を参照されると、概ね、関係が判るが、端折って言うと、宗教上の問題で、大正一〇(一九二一)年(賢治が東京へ家出した年)の七月に二人は決裂してしまい、以後は悲しいことに、書簡のやり取りも激減し、疎遠となってしまった)。azalea氏のブログには、以下のように記されてある。まず『「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という賢治の詩「習作」に書かれているものと同じ詩句が、保阪家で歌われてきた家庭歌の歌詞の一節にもなってい』たことが語られ、この白秋の詩篇が改変されてあるのは(書簡番号は後に合わせて半角とし、行空部分には「* * *」を附した)、
《引用開始》
これは賢治の記憶違いでしょうか、それとも何か意味があるのでしょうか。
私は、これが大正8年に賢治と嘉内が再会したことを物語っていることの一つではないかと考えています。
ではなぜ、そう考えるのかと言えば、当時としては流行歌であった「恋の鳥」の歌詞を賢治も嘉内も同じように間違えるとは思えないからです。
しかも賢治はこの詩句をアンダーラインを引いた上に右から左に横一列に書くという、ずいぶん目立った書き方をしています。
そこには何らかの意図があると思わざるを得ません。
* * *
ここで賢治の書簡を見ると、大正9年7月22日付け保阪嘉内宛の書簡166に「東京デオ目ニカゝッタコロハ」という文言があります。これは大正7年12月31日付け保阪嘉内宛の書簡102で賢治が「私は一月中旬迄は居なけばならないのでせう。/あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか」と嘉内に再会を持ちかけていることと対応するものと考えてよいのではないでしょうか。
大正8年、東京では1月1日から芸術座で松井須磨子主演の「カルメン」が上演されました(その松井須磨子は1月5日未明に自殺し、公演は中止になってしまいますが)。「恋の鳥」はその劇中歌の一つで、当時の流行歌ともなりました。
おそらく二人が大正8年に再会した時、一緒に「カルメン」を見たか(註2)、あるいは「カルメン」か「恋の鳥」について語りあった(松井はトルストイ原作の「復活」を演じていますし、嘉内は白秋の作品を好んでいたので十分あり得ることと思います)ことがあったのではないでしょうか。
その時、おそらくは嘉内が「僕なら1番と3番を一緒にして『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』とするけどな。その方が絶対にいいよ」みたいなことを言った。
賢治は「習作」を発想した時、その嘉内の言葉を思い出した。
もしかしたらその時の賢治の心の中には「恋の鳥」の旋律が流れていたのかも知れません。
さらには、その再会の時に話題となった諸々のこと(たとえば*[やぶちゃん注:伏字で中略する。ブログ主の知人の個人ハンドル名が出るため、*で伏字とした。]さんが推測されているように書簡102aにつながることなど)も思い出したかも知れません。
そして、賢治は上述のようにして「習作」にその詩句を記した。
この詩を含む『春と修羅』が嘉内の元に賢治から送られ、嘉内は「習作」を読んでニヤリと笑った・・・というのは想像しすぎですが、そんな感じで賢治を懐かしく思い出したのではないでしょうか。
(この時なにがしかの手紙も本と一緒に入っていたかも知れません)
「『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』か、懐かしいな。そういえば、そんなことがあったな。賢治さんは、覚えていてくれたんだねえ・・・」
この詩の中に、二人にしかわからない暗号のようなものが隠されているとすれば、そういうことではないかと思います。
* * *
嘉内は『春と修羅』を開き「習作」を目にするたびに、賢治と東京で大正8年に再会した時のことを思い出し、やがてその詩句に自分の賢治への思いを交えて歌を作った。
それがどの時点のことかは今のところ見当がつきませんが、早ければ『春と修羅』が刊行された大正13年のこと、遅ければ嘉内が賢治の没後に花巻を訪ねたころのことのような気がします。
このようにして生まれたのが、保阪家の家庭歌(「勿忘草の歌」という題は保阪庸夫氏が2007年に付けたものです)として伝わっている歌ではないでしょうか。
* * *
要は、
(1)『春と修羅』所載の「習作」に記された標記の詩句は賢治から嘉内に宛てたメッセージのようなものであり、それを汲み取った嘉内が同じ詩句を使って家庭歌を作ったのではないか
(2)そのメッセージは大正8年に賢治と嘉内が再会したことに由来するものと思われる
ということですが、いずれもまだまだ想像の域を出るものではありません。[やぶちゃん注:以下、引用が度を越すので略すが、以下の部分も非常に重要な考察を行っておられるので、リンク先を読まれんことを切に願う。]
《引用終了》
とあるのである。推論ではあるけれども、以上は謎めいた特異敬体を持つ本篇を考える上で、極めて重要な提言であると思われる。なお、そこに出る「保阪家の家庭歌」(「勿忘草の歌」)というのは、ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の『「勿忘草」の人』に示されていたので、以下に引く(「心友 宮沢賢治と保阪嘉内」からの引用とある。恣意的に漢字を正字化し、歴史的仮名遣に変更した。「保坂」はママ)。
*
勿忘草(わすれなぐさ)の歌
―保坂家家庭歌―
捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く
仕合はせ尋ね行く道の遙けき眼路に淚する
抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く
仕合はせ求め行く道にはぐれし友よ今何處(いづこ)
流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水淺葱(みづあさぎ)
波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く
*
その一行目はまさしくこれだ。そこには『保阪嘉内が家族とともによく歌っていたという』ともあった。
「手入れ本」は藤原嘉藤治所蔵本の一本(現在、所在不明のもの)で、二行目の「西班尼(すぱにあ)製です」が「西班尼(すぱにあ)製のそら」で「です」を削除、「(あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)」の「痛いもや」(「靄」であろう)を「痛い霧」と変えているだけである。この改変の少なさも本書中の今までのそれと比して特異点であり、本詩篇が何か特別な個人的思い入れがあることと関係があるようにも思われる。
「西班尼(すぱにあ)」イスパニア。スペイン王国(Reino de España)。「西班牙」が一般的であるが、こうも漢字表記する。「スペイン」は英語表記の「Spain」に基づく通称。
「つめくさ」マメ目マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属
Trifoliastrum 節 シロツメクサ Trifolium repens のこと。ヨーロッパ原産の帰化植物。本邦に夥しく繁殖したのは、明治以降に家畜の飼料用として導入されたものが野生化して以降のことであるから、「こんな舶来の草地」という謂いはすこぶる正しい。
「鞭をもち赤い上着を着てもいい」ここまでドライヴしてくると、これは一読、「カルメン」の一場面だろうと推測出来る。生憎、私は正当なオペラの「カルメン」の舞台を見たことがない(有名どころの海外のモダン・バレエ脚色を二種見たが、私には退屈で、愛したアントニオ・ガデス舞踏団のそれだけが記憶に残っているだけ)のだが、何となくありそうな感じがした。「赤い上着」はカルメンの衣装だし、「鞭」も鳴らすとこがあったような気がした。うろ覚えでは仕方がないので、調べてみたところ、やはり、ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の『賢治は「カルメン」を見たか(本篇)』にあった。詳しくはそちら(海外の舞台リハで鞭を鳴らすシーンが動画でリンクされてある)を見られたい。
「黑檀(こくたん)」ツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros に属する熱帯性常緑高木の数種に与えられている総称。インド・スリランカなどの南アジアからアフリカに広く分布する。本黒檀(セイロン・エボニー/イースト・インディアン・エボニー)Diospyros ebenum が最も知られる最高級種で、インドやスリランカを原産とする。他にインドネシア原産の縞黒檀(マカッサル・エボニー/カリマンタン・エボニー)Diospyros celebica・ラオスなどの東南アジア原産の斑入(ふいり)黒檀(ブラック・アンド・ホワイト・エボニー/ペール・ムーン・エボニー)Diospyros malabarica・ラオスやベトナムなどの東南アジア原産の青黒檀(ムン・エボニー/ブラック・アンド・ホワイト・エボニー)Diospyros mun などがある。しかし「野ばら」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora の木の幹って「黑檀まがひ」の感じかなぁ。家の亡き母が丹精した薔薇の木の幹は確かにごつごつとして黒っぽいけど。
「すぎな」シダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属スギナ
Equisetum arvense。この栄養茎が「杉菜」で、胞子茎が土筆(つくし)。
「間作」「あひさく(あいさく)」とも読むが、「かんさく」でよかろう。農作物の収穫後に次の作物を作り始めるまでの余暇期間を利用して、野菜などを栽培すること。
「柘植(つげ)さん」これは木の柘植ではない。先に引いた「宮澤賢治の詩の世界」の『「勿忘草」の人』に、『柘植六郎という盛岡高等農林学校の教授で、園芸などを担当していたということです(『新宮澤賢治語彙辞典』より)』とある。保阪と繋がる人物がここに出てきた。ブログ主も『賢治は、どこかの(スペイン風とも感じられる)気持ちのよいつめくさの草地を歩いているようですが、もう』四『年あまり前に卒業した盛岡高等農林学校のことを思い出して、書き込んでいるのです』と記しておられる。これはますます賢治と保阪の本詩篇での関係性が、いやさかに浮かび上がって来ざるを得ない。
「和賀(わが)」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本「習作」の記事に、『「和賀」は岩手県中西部の地域で、秋田県との県境の』一千『メートル級の山々が連なる和賀山塊や国内最大級のブナの巨木のある原生林などで知られる。かつては多くの鉱山があって賑わい、賢治はひんぱんに出かけている。かつては和賀軽便軌道が敷設され、軌道と道路の両側に松並木が植えられていたようだ』とある。岩手県和賀郡西和賀町の和賀岳は標高千四百三十九メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
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