和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)
ほとゝきす 子規 杜宇
蜀魂 子嶲
鶗鴂 陽雀
杜鵑
怨鳥周燕
卜ウ ケエン 催歸
本綱杜鵑狀如雀鷂而色慘黑赤口有小冠春暮卽鳴夜
啼達旦鳴必向北至夏尤甚晝夜不止其聲哀切田家候
之以興農事惟食蟲蠧不能爲巢居他巢生子冬月藏蟄
蜀王本紀云爲蜀望帝淫其臣鱉靈妻乃禪位亡去時此
鳥鳴故蜀人見杜鵑鳴而悲望帝其鳴如曰不如歸歳時
記云此鳥初鳴先聞者主別離學其聲令人吐血登厠聞
之不祥厭法但作狗聲應之又云三月三日杜鵑初鳴至
商陸子熟乃止蓋商陸不熟之前正杜鵑哀鳴之候五雜
組云有謝豹蟲以羞死見人則以足覆靣如羞狀是蟲聞
杜鵑聲則死故謂杜鵑亦曰謝豹轉借以爲名矣然不言
其蟲之形狀 万葉鶯の卵の中の霍公鳥ひとりうまれて【下畧】
△按【保度度木須】 𪇖𪈜 郭公 霍公鳥 時鳥【万葉集和名抄及本
朝古者多用此等之字皆謬矣】杜鵑狀類雀鷂而色灰黑腹白有鷹彪
翅羽亦有白斑口中赤頭有小冠毛脛掌蒼色其前指
二有連膜後趾二與諸鳥異矣季春鳴聲如曰本尊掛
歟至夏最甚至初秋聲止冬月則蟄于深山中毎食蟲
蠧但不能營巢窺鶯之虛巢借生卵凡鶯卵四或五杜
鵑卵只二也人畜之在樊中乃不鳴冬月不育故難畜
京洛近處多有之以爲哀愁之鳥然歌人喜聞初鳴聲
此與歳時記之說異
肉【甘平】 味有臊氣不佳或云燒末服之能治痘疹熱毒
*
ほとゝぎす 子規 杜宇〔(とう)〕
蜀魂 子嶲〔(しすい)〕
鶗鴂〔(ていけつ)〕 陽雀
杜鵑
怨鳥 周燕
卜ウ ケエン 催歸
「本綱」、杜鵑、狀、雀-鷂〔(つみ)〕のごとくして、色、慘〔(くら)き〕黑なり。赤口〔(あかぐち)〕にして、小冠、有り。春の暮れ、卽ち、鳴き、夜、啼きて、旦〔(あした)〕に達す。鳴くこと、必ず、北に向く。夏に至り、尤も甚だし。晝夜、止まず。其の聲、哀切なり。田家、之れを候〔(ま)ちて〕、以つて農事を興す。惟だ、蟲・蠧〔(きくひむし)〕を食ひ、巢を爲す能はず、他の巢に居て、子を生ず。冬月、藏蟄〔(ざうちつ)〕す。「蜀王本紀」に云はく、『蜀の望帝、其の臣鱉靈〔(べつれい)〕が妻に淫するが爲に、乃〔(すなは)ち〕位を禪〔(ゆず)〕り、亡去〔(ばうきよ)せ〕る時、此の鳥、鳴く。故に蜀人〔(しよくひと)〕、杜鵑の鳴くを見て望帝を悲しむ。其の鳴くこと、「不如歸」と曰ふがごとし』〔と〕。「歳時記」に云はく、『此の鳥、初めて鳴くときは、先づ、聞く者、別離することを主〔(つかさど)〕る。其の聲を學べば、人をして血を吐かしむ。厠(〔かは〕や)に登〔(い)りて〕之れを聞くときは不祥なり。厭(まじなひ)の法に〔は〕、但〔(た)〕だ、狗の聲を作〔(な)〕して之れに應ずべし』〔と〕。又、云はく、『三月三日、杜鵑、初めて鳴き、商陸子(やまごばうのみ)、熟すに至りて、乃〔(すなは)〕ち、止む。蓋し、商陸〔(やまごばう)〕熟さざるの前は、正に、杜鵑、哀鳴〔(あいめい)〕の候なり。「五雜組」に云はく、『謝豹蟲〔(しやへうちゆう)〕有り。羞づを以つて死す。人を見れば、則ち、足を以つて靣〔(おもて)〕を覆ひ、羞づる狀のごとし。是の蟲、杜鵑の聲を聞けば、則ち、死す。故に「杜鵑」を謂ひて、亦、「謝豹」曰ふ。轉借して以つて名と爲す』〔と〕。然れども、其の蟲の形狀を言はず。
「万葉」
鶯の卵の中の霍公鳥〔(ほととぎす)〕ひとりうまれて【下畧。】
△按ずるに【「保度度木須」。[やぶちゃん注:以下の漢字熟語は総て「ほととぎす」と訓ずる。]】 𪇖𪈜。郭公。霍公鳥。時鳥【「万葉集」・「和名抄」、及び、本朝の古へは、多く、此れ等の字を用〔ふれども〕、皆、謬〔(あやま)りなり〕。】。杜鵑の狀〔(かたち)〕、雀鷂〔(つみ)〕に類して、色、灰黑。腹、白〔にして〕鷹〔の〕彪〔(ふ)〕有り。翅-羽〔(はね)〕にも亦、白斑有り。口中、赤く、頭、小〔さき〕冠毛、有り。脛・掌は蒼色、其の前の指二つ、連〔なれる〕膜、有り、後趾二つ〔も〕諸鳥と異な〔れ〕り。季春、鳴く聲、「本尊掛けたか(ほ〔ん〕ぞんかけたか)」と曰ふがごとし。夏に至りて最も甚だし。初秋に至りて、聲、止む。冬月、則ち、深山の中に蟄〔(すごもり)〕す。毎〔(つね)〕に蟲・蠧〔(きくひむし)〕を食ふ。但し、巢を營〔(つく)〕ること能はず、鶯の虛〔(から)の〕巢を窺ひ、借りて卵を生む。凡そ、鶯は、卵、四つ或いは五つ、杜鵑の卵は只だ二つなり。人、之れを畜〔(か)〕ふに、樊〔(かご)〕の中に在れば、乃ち、鳴かず。冬月、育たず。故に畜ふは難〔(かた)〕し。京洛〔の〕近〔き〕處に、多く、之れ有り。以つて「哀愁の鳥」と爲す。然〔れども〕、歌人〔は〕初めて鳴く聲を聞くことを喜び、此れ、「歳時記」の說と異な〔れ〕り。
肉【甘、平。】 味、臊〔(なまぐさ)き〕氣〔(かざ)〕有りて佳ならず。或いは云はく。燒〔きて〕末にして之れを服〔せば〕、能く痘疹〔(とうしん)〕の熱毒を治すと。
[やぶちゃん注:カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。ウィキの「ホトトギス」より引く。『全長は』二十八センチメートル『ほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウ』(カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)『やツツドリ』(カッコウ属ツツドリ Cuculus saturatus)『よりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある』。『アフリカ東部、マダガスカル、インドから中国南部までに分布する』。『インドから中国南部に越冬する個体群が』五『月頃になると中国北部、朝鮮半島、日本まで渡ってくる。日本では』五『月中旬ごろにくる。他の渡り鳥よりも渡来時期が遅いのは、托卵の習性のために対象とする鳥の繁殖が始まるのにあわせることと、食性が毛虫類を捕食するため、早春に渡来すると餌にありつけないためである』(下線太字やぶちゃん)。『日本へは九州以北に夏鳥として渡来するが、九州と北海道では少ない』。『カッコウなどと同様に食性は肉食性で、特にケムシを好んで食べる。また、自分で子育てをせず、ウグイス』(スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone)『等に托卵する習性がある』(托卵については「林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」で詳述したので、参照されたい)。『オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッ キョキョキョキョ!」と聞こえ、「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」とも聞こえる。早朝からよく鳴き、夜に鳴くこともある。この鳴き声の聞きなしとして「本尊掛けたか」や「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られる』。『ホトトギスの異称のうち』、『「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し』、『帝王となり』、『「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去』(ゆ)『くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった』。『日本では、激情的ともいえるさえずりに仮託して、古今ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、すでに『万葉集』では』百五十三『例、『古今和歌集』では』四十二『例、『新古今和歌集』では』四十六『例が詠まれている。鳴き声が聞こえ始めるのとほぼ同時期に花を咲かせる橘や卯の花と取り合わせて詠まれることが多い』として、「千載和歌集」後徳大寺左大臣実定(保延五(一一三九)年~建久二(一一九二)年)の、
ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明(ありあけ)の月ぞ殘れる
と芭蕉の友人山口素堂(寛永一九(一六四二)年~享保元(一七一六)年)の知られた一句、
目には靑葉山ほととぎす初鰹
を掲げる。『他にも夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。『枕草子』ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれる』。『平安時代以降には「郭公」の字が当てられることも多い。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りによるものと考えられている。松尾芭蕉もこの字を用いている』。『宝井其角の句に「あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥」がある。ホトトギスは美しい声で鳴くが』、『醜いトカゲなどの爬虫類や虫などを食べる、すなわち「人や物事は見かけによらない」ということを指す』。『万葉の時代から「ウグイスの巣に卵を産んで育てさせる」という託卵の習性が知られる一方、時代や地域によってはカッコウあるいはウグイスと混同されている例もある』。よく聴く例の天下人三人の詠んだとされる『句では』、『鳴き声を愛でる鳥すなわちウグイスであるとの考え方も一般的である。従って作品中に「ホトトギス」とある場合でも、季節や時間帯によっては注意が必要となる』。『江戸時代から「厠(かわや)の中にいるときにホトトギスの声を聞くと不吉である」という言い伝え、迷信が日本各地に伝わっているが、この出典は『酉陽雑俎』および『太平広記』である』と、本文内の幾つかの記載とも繋がっているが、望帝の話は「華陽国志」に拠るもので、良安の言っている「蜀王本紀」(前漢の四川の学者揚雄作とされる秦に征服される以前の古代の「蜀」王国に関する史書であるが、偽作とされる)は(ウィキの「望帝杜宇」から引く)、『男子の杜宇は天より落ちてきて、朱提に留まった。江源の井戸の中から出てきた利という女子を妻に娶った。その後、自立して王となった。その称号を望帝と称した。汶山の小さい県を治め、そこは郫』(ひ)『と言われ、人々の往来が激しかった』。『望帝は年を重ねて百歳あまりとなった。荊州で鱉霊という男が死んだが』、『その死体が無くなってしまった。荊人はこれを探したが、見つけることができなかった。鱉霊の死体は江水に沿って上流へ向かい、郫に至って遂にそこで生き返った。望帝に謁見し、望帝は鱉霊を相とした。その頃、玉山で』、『まるで堯の時のような洪水があり、望帝は治めることができなかった。鱉霊を玉山へ派遣したところ』、『民は安寧を得ることができた』。しかし、『鱉霊が治水の為に出かけていた間、望帝は鱉霊の妻と密通した。帝はこれを深く後悔し、自ら徳が薄く、鱉霊のようではないと知り』、『国を委ねて授け去った』。『堯が舜に禅譲したように、鱉霊が即位した。開明帝と号した』とあるのに基づいているのである。
「雀-鷂〔(つみ)〕」タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis。同属はタカ目タカ科の中では最も小さい体型のグループで、アジア東部の中緯度地方で繁殖し、冬は中国南部・マレー諸島・フィリピンまで渡るが、南日本で越冬するものいる。本邦では、平地や低山帯の森林で繁殖し、専ら、林の中を飛びながら、小鳥を空中で捕まえる。同属のハイタカ(ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus)よりも小型で、全長は♂が約二十六センチメートル、♀で約三十センチメートルと、ハイタカのように、♀の方が♂よりも一回り、大きい。雌雄とも上面は暗灰青色であるが、下面は♂が淡赤褐色、♀が白と黒の横縞で、一見すると別種のように見える(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「田家」農家。
「蟲・蠧〔(きくひむし)〕」これは狭義の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類ではなく、ヨシなどの茎に寄生して食害する虫類(或いはその幼虫)を指していると思われる。
「藏蟄〔(ざうちつ)〕」巣籠り。
「禪〔(ゆず)〕り」禅譲し。
「亡去〔(ばうきよ)せ〕る時」亡くなった時。
「歳時記」「荊楚(けいそ)歳時記」。中国南方の荊楚地方(長江中流域。現在の湖北省及び湖南省)の年中行事を記した月令(がつりょう:月毎の自然現象・行事・儀式・農作業などを記したもの。「時令(じれい)」とも称し、古代の制度・習俗や農業技術を知る上で重要)の一種で、梁の宗懍(そうりん)によって書かれ、隋の杜公瞻(とこうせん)によって注釈が加えられたもの。全一巻。
「先づ、聞く者、別離することを主〔(つかさど)〕る」一番初めにそれを聴いてしまった者は、近々何ものかと別離をする予兆である。
「其の聲を學べば、人をして血を吐かしむ。」人が軽率にも、その初音の鳴き声を真似する時は、直ちにその人に血を吐かせる(病いを齎す結果となる)。
「厠(〔かは〕や)に登〔(い)りて〕之れを聞くときは不祥なり」便所に入っている最中にその初音を聴いてしまった時は、身に不吉なことが起こる。
「厭(まじなひ)の法に〔は〕」その不祥を避けるには。
「但〔(た)〕だ、狗の聲を作〔(な)〕して之れに應ずべし」ただ、犬の鳴き声を真似して応じるだけでよい。
「商陸子(やまごばうのみ)」本邦の山菜としての「山牛蒡」とは、モリアザミ(キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium
dipsacolepis)・オニアザミ(アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense)・オヤマボクチ(雄山火口:キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ Synurus pungens:和名は茸毛(じょうもう:葉の裏に生える綿毛状のもの)が嘗ては火起こし時の火口(ほくち)として用いられたことに由る)・ヤマボクチ(山火口:ヤマボクチ属ヤマボクチ Synurus palmatopinnatifidus var. indivisus)の根、及び、本物のキク目キク科ゴボウ属ゴボウ Arctium lappa (余り知られていないの言っておくと、本種ゴボウは紫色のアザミによく似た、総苞に棘のある花を咲かせる)の根の通称総称である。しかし、アザミ類の開花期を考えてみても容易に分かる通り、これらの種子が熟すのは夏で、おかしい。そこで調べて見ると、まず、現在、ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡/アメリカヤマゴボウ) Phytolacca americana なる種が本邦に自生するが、別名に見るようにこれは北アメリカ原産で、明治初期以降に各地で繁殖した帰化植物であって、タクソンで判る通り、先の「山牛蒡」類との類縁関係はない。しかも、このヨウシュヤマゴボウは全草有毒で(果実を含む。特に種子の毒性は高い。アルカロイドのフィトラッカトキシン(phytolaccatoxin)、サポニンのフィトラッカサポニン(phytolaccasaponins)、アグリコンのフィトラッキゲニン(phytolaccigenin)などが主成分で、根には硝酸カリウム(KNO3)が多く含まれる)、誤食すると強い嘔吐や下痢を発症し、重篤なケースでは中枢神経麻痺から痙攣・意識障害へ進み、呼吸障害・心臓麻痺によって死に至ることもあるので注意が必要である(ここはウィキの「ヨウシュヤマゴボウ」に拠る)。だが、この良安の記載は「荊楚歳時記」からの引用(ややこしい部分があるのでこの注の最後に再度、注する)である。さらに既に察せられたと思うが、以上の有毒成分は当然、漢方の生薬に転じる感じがする。そこで「商陸子」「商陸」を調べると、やっぱりだ。ブログ「健康食品辞典」の「商陸」に、『中国を原産とし』、『日本でも野生化しているヤマゴボウ科の大型多年草ヤマゴボウ(Phytolacca esculenta)の根を用いる。ヨウシュヤマゴボウ(P.americana)のほうがよく見られるが、この根は美商陸という』(ここに『ヤマゴボウの葉は食用にされるが、多量に食べないほうがよい』と続くが、素人判断は危険。以下、『漬け物で「やまごぼう(山牛蒡)」と称されているものは、キク科のモリアザミなどの根を漬けたもので、ヤマゴボウとはまったく別の植物である』とも言い添えてある)。『根には多量の硝酸カリウムや有毒な配糖体のフィトラッカトキシン』(phytolaccatoxin)・サポニンであるフィトラッカサポニン(phytolaccasaponin)『が含まれる。硝酸カリウムには利尿作用があり、古くから利尿薬として利用されてきた。しかし、有毒成分のフィトラッカトキシンのため、食べると嘔吐や下痢が出現し、さらには中枢神経麻痺から痙攣、意識障害が生じ、ひどければ』、『呼吸障害や心臓麻痺により』、『死亡することもある』(前掲の通り)。『漢方では』逐水・消腫の『効能があり、水腫、腹水、脚気、腫れ物などに用いる。逐水とは瀉下と利尿作用で腹水や胸水、浮腫などを治療することである』。『全身性浮腫を伴う喘息症状には木通・沢瀉などと配合する(疏鑿飲子)。肝硬変などによる腹水に牡蠣・沢瀉などと配合する(牡蠣沢瀉散)。ただし』、『毒性が強いため、慎重に投与する必要がある』。『外用として新鮮な商陸に塩を加えてつきつぶしたものを頑固な腫れ物に用いる。アメリカではヨウシュヤマゴボウの根を扁桃炎や耳下腺炎、乳腺炎、水腫などの治療に用いていたといわれる』とあり、これによって「商陸子」「商陸」は本邦の食用として出回っている「山牛蒡」ではなく、有毒植物であるナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属 Phytolacca の「ヤマゴボウ」類であることが確定する。同属は世界で三十五種あるが、本邦では帰化したものを含めて以下の三種が自生する。
ヤマゴボウ Phytolacca esculenta(中国原産)
マルミノヤマゴボウ Phytolacca japonica(日本在来種(関東以西・四国・九州。他に台湾・中国等に分布)であるが、調べてみると、これも根に硝酸カリウムを含むので危険)
ヨウシュヤマゴボウ Phytolacca americana(北アメリカ原産)
因みに、サイト「三河の植物観察」のこちらで、在来種のマルミノヤマゴボウ(丸実の山牛蒡)の画像を見てみたら、家の裏山でも見かけたことがあるものであった。因みに、ヨウシュヤマゴボウの全草を食べてしまうという危険がアブナい実験をされている「ざざむし。」氏のブログ「ざざむし」(ここはずっと以前に何度か訪ねたのを思い出した)の「有毒なヨウシュヤマゴボウを上から下まで食べ尽くしてみる」も見られたい(しかし真似はなさらぬがよろしい)。なお、中文サイトの「荊楚歳時記」を調べてみたが、この記載は見当たらなかった。ところが、後に出る、「五雜組」で試しに検索してみたところが、瓢簞から駒! 「巻十 物部二」に、
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陸、商陸也。下有死人、則上有商陸、故其根多如人形、俗名樟柳根者是也。取之之法、夜靜無人、以油炙梟肉祭之、俟鬼火叢集、然後取其根、歸家以符煉之、七日卽能言語矣。一名夜呼、亦取鬼神之義也。此草有赤、白二種、白者入藥、赤者使鬼。若誤服之、必能殺人。又「荊楚歲時記」、「三月三日、杜鵑初鳴、田家候之。此鳥晝夜鳴、血流不止、至商陸子熟、乃止。」。蓋商陸未熟之前、正杜鵑哀鳴之候、故稱夜呼也。
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とあった!
「五雜組」既出既注。「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以下は、「巻九 物部一」に以下のように載る。
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謝豹、蟲也。以羞死、見人則以足覆面如羞狀。是蟲聞杜鵑聲則死。故謂杜鵑亦曰謝豹。而鵑啼時得蝦、曰謝豹。蝦。賣筍曰謝豹筍、則又轉借以爲名、其義愈遠矣。一云、「蜀有謝氏子、相思成疾、聞子規啼、則怔忡若豹。因呼子規爲謝豹。」。未知是否。
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「謝豹蟲」不詳。堀麦水著の加賀・能登・越中の奇談集「三州奇談」正編(宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃成立)巻之二「土下狗龍」に、老女を食い殺した家の地下に穴を掘って潜んでいた獣にを掘り出して打ち殺したが、その獣は狸に似ていたが、声は出せない獣とし、ある人は「『シタヌキ』というものである」と言ったが、感じは概ね「うごろもち(土豹)[やぶちゃん注:モグラ。]にして狗(いぬ)」のようなものであるとあり、ある好事家は、「狗龍と云ふものにて、是れが雛を謝豹蟲といふ」と答えている。「謝豹蟲は日出れば死すと聞へしが、年經ては堅剛に成りて死せざり物にや。又は是れ、別物成るや」と言っているのを見つけた程度だ。良安の言うように(末尾の「然れども、其の蟲の形狀を言はず」は良安の附言)、具体的な形状・生態が中国の本草書等には書かれていない、得体の知れぬ怪しい虫(動物)である。知りたい。
「羞づを以つて死す」顔形を見られると、恥じて死ぬ。
「万葉」「鶯の卵の中の霍公鳥〔(ほととぎす)〕ひとりうまれて」「万葉集」巻第九「雑歌(ぞうか)」の「高橋虫麻呂歌集」に載る(一七五五・一七五六番)、以下。
霍公鳥(ほととぎす)を詠める一首
幷(あは)せて短歌
鶯の 生卵(かひこ)の中に 霍公鳥 獨り生まれて 己(な)が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯(う)の花の 咲きたる野邊(のへ)ゆ 飛び翻(かけ)り 來(き)鳴き響(とよ)もし 橘(たちばな)の 花を居(ゐ)散らし 終日(ひねもす)に 鳴けど聞きよし 幣(まひ)はせむ 遠くな行きそ 我が屋戶(やど)の 花橘(はなたちばな)に 住み渡れ鳥
反歌
かき霧(き)らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥
「幣(まひ)はせむ」は「捧げ物(贈り物)をするから」の意。
「杜鵑の卵は只だ二つなり」これは誤り。ホトトギスが托卵するのは一つの巣に対し、常に一卵である。万一、二卵あった場合は、別のホトトギスが時間差で産み入れたと見るべきものである(加藤昌宏氏の「神戸の野鳥観察記」のこちらに拠った)。
「歌人〔は〕初めて鳴く聲を聞くことを喜び」東洋文庫版訳では注で、「新古今和歌集」の柿本人麻呂の一首(一九〇番)、
鳴く聲をえやは忍ばぬ郭公(ほととぎす)初卯(はつう)の花の陰に隱れて
と、「拾遺和歌集」の大中臣輔親(おおなかとみのすけちか 天暦八(九五四)年~長暦二(一〇三八)年)の(一〇七八番)、
足引(あしひき)の山郭公(やまほととぎす)里馴(さとな)れてたそがれ時に名のりすらしも
を例として揚げている(「足引(あしひき)の」は「山」の枕詞)。しかし前者は出典未詳で、私は人麻呂の歌とは思わない。後者は、「今昔物語集」の「巻第二十四」の「祭主大中臣輔親郭公讀和歌語第五十三」(祭主大中臣輔親、郭公(ほととぎす)を和歌に讀む語(こと)第五十三:「祭主」は伊勢神宮の神官の長を指す)の冒頭の即詠の誉れのエピソードで知られる一首。短いので載せておく。
*
今は昔、御堂の大納言[やぶちゃん注:藤原道長。]にて、一条殿に住ませ給ひける時、四月の朔(ついたち)の比(ころほひ)、日、漸く暮れ方(がた)に成りにけるに、男共(をのこども)を召して、「御隔子(みかうし)參れ」と仰せられければ、祭主の三位(さむゐ)輔親が勘解由(かげゆ)の判官(はうがん)にて有りけるが參りて、御簾(みす)の内に入りて御隔子を下(おろ)す程に、南面の木末(こずゑ)に、珍しく郭公の一音(ひとこゑ)鳴きて過ぎければ、殿、此れを聞し食(め)して、「輔親は此の鳴く音(ね)をば聞くや」と仰せられけるに、輔親、御隔子を參りさして[やぶちゃん注:降ろすのを途中で止めて。]、突居(ついゐ)て[やぶちゃん注:跪(ひざまず)いて。]、「承はる」と申しければ、殿、「然らば遲き」[やぶちゃん注:「それにしては歌が出来るのが遅いではないか」。]と仰せられけるに、輔親、此(か)くなむ申しける。
足引の山ほととぎす里なれてたそかれどきになのりすらしも
と。殿、此れを聞し食して、極(いみ)じく讚(ほめ)させ給ひて、表(うへ)に奉たりける[やぶちゃん注:着ておいでになられた。]紅(くれなゐ)の御衣(おほむぞ)一つを取りて、打ち被(かづ)けさせ給ひつれば[やぶちゃん注:輔親の頭上にお掲げあそばされたので。]、輔親、給はりて、臥し禮(をが)みて、御隔子を參り畢(は)てて、御衣を肩に懸けて、侍(さぶらひ)[やぶちゃん注:侍所。護衛兵の詰所。]に出でたりければ、侍共、これを見て、「此れは。何(いか)なる事ぞ」と問ひければ、輔親、有りつる樣を語りけるに、侍共、皆、聞きて、極じく讚め喤(ののし)りけり。
*
「歳時記」先の「荊楚歳時記」を指す。]