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2018/11/04

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 插畵附言・萩原朔太郎「故田中恭吉氏の藝術に就いて」 / 萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版~完遂

 

2

 

[やぶちゃん注:奥附をめくると、裏はノンブルなしで、見開きの左ページに、上の恩地孝四郎の二色刷の版画「抒情(よろこびすみ)」が配されてある。

 それをめくると、見開き左ページに以下。]

 

 

 

 插  附 言   詩集附錄

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、田中恭吉と恩地孝四郎と作者萩原朔太郎の文章。田中恭吉と恩地孝四郎のそれは、個人ブログ「あどけない詩」にある、新字新仮名のデータを加工用にさせて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 上記標題紙をめくった見開き左から。ノンブルが新たに「3」から起こされて今まで通り、左下に附されてある。

 これ以降の本文は、ごく小さなポイントで組まれているが、読み難くなるだけなので、無視し、ポイントは今までの本文と同じとした。まず、田中恭吉の遺稿。最初の「恭吉」の書かれた部分までが、かっちりページ「3」に収まっている。次の韻文は、次の見開き4」と「5に収まっている。なお、「恭吉」の記名位置は、ブログ・ブラウザの不具合を考え、再現していない。]

 

朔太郞兄

 私の肉體の分解が遠くないといふ豫覺が私の手を着實に働かせて呉れました。兄の詩集の上梓されるころ私の影がどこにあるかと思ふさへ微笑されるのです。

 

 私はまづ思つただけの仕事を仕上げました。この一年は貴重な附加でした。

 

 いろんな人がいろんなことを言ふ。それが私に何になるでせう。心臟が右の胸でときめき。手が三本あり、指さきに透明紋がひかり、二つの生殖器を有する。それが私にとってたつた一つの眞實!

 

 蒼白の藝術の微笑です。かの蒼空と合一するよろこびです。

                 恭  吉

 

 

 

傷みて なほも ほほゑむ 芽なれば いとど かわゆし

こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

 ■

むなしき この日の 涯に ゆうべを 迎へて 懼るる

ひと日に ひと日を かさねて なに まち侘ぶる こころか

 ■

こよひも いたく さみしき かなしみに 包まり 寢ねむ

さはあれ まどの かなたに まどかに 薰(く)ゆる ゆうづき

 ■

痴愚の なみだを ぬぐひて わが しかばねに 見入れよ

あふげば 靑空(そら)を ながるる やはらかき 雲の こころね

 ■

わかれし ものの かへりて 身につき まつはる うれしさ

すこやかよ すこやかよ 疾く かへりね わがやに

 

月映  告別式より        恭  吉

 

[やぶちゃん注:「かわゆし」「ゆうづき」はママ。「靑空(そら)」のルビは二字へのもの。「月映」は雑誌名で、「つくはえ」と読む。大正三(一九一四)年、当時、二十代前半の美術学生で友人あった田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎らによる、木版画や詩を載せたもので、田中恭吉が亡くなる(大正四(一九一五)年十月二十三日)頃、一年ほどで終刊となった。参考にした「東京ステーションギャラリー」の展示会情報のこちらがよい。

 次が恩地孝四郎。標題「插附言」は大きなポイントで二行の頭を占有して、その右下から一字下げなしで本文は始まるが、再現し難いので、普通に次行から始めた。後の段落との関係から、最初に一字下げを行った。]

附言

 萩原君の詩は凡そ獨特なものだ。その獨特さに共通した心緖を持つ故田中恭吉がその挿を完成しないで逝いたのは遺憾なことだ。ただその稿が殘っていたことがせめてもの幸いでした。彼の最後の手紙に

「私はとうてい筆をとれない私の熱四十度を今二三度出れば私の脉百四十を、いま二三十出れば私は亡くなる。私はいますべてをすてて健康を欲してゐる。最初私は氏の詩歌の挿に百枚の豫稿をつくりその中から二十――三十の繪を選んで美しいものにしたいと思つた。そして(不明)上な勢いで着手し稿五葉をつくりしのち臥床した。」――一九一五年八月、その死後、彼の從弟の厚意によって私の手許に集まったのが、この集の包紙の表裏にかきつけた十三枚の稿と、口繪の金色の繪であった。外にどれ程あつたか分からない。十三枚のでさへ、心なき消毒人によつて害はれ[やぶちゃん注:「そこなはれ」。]浸みほけてゐる。前者は赤い藥紙に赤いインキで書かれ、後者は黑い羅紗紙に金色のインキでかかれてゐる。

[やぶちゃん注:田中の手紙の引用中の「とうてい」はママ。]

 之らの繪は彼の死ぬ三月まえに執筆せられ彼の遺したものの最も後のものです。一九一五年七月。兩種とも製版複製に困難なものであるだけ題が損じた。遺憾とする。すべて題はない。裝丁についても、彼の構想を見るべき草稿があるけれど、それは依ることの出來ない程の草稿なので止むなくそれから適はしい[やぶちゃん注:「ふさはしい」。]ものを取り出でて、心持を移して私が作つた。

[やぶちゃん注:「兩種とも製版複製に困難なものであるだけ題が損じた」「兩種とも製版複製に困難なものであるだけ」に「題が損じた」という意味が私にはよく判らない。識者の御教授を乞うものである。正直、恩地の文章は何だか捩じれていて読み難い。]

 插については彼はかういつてゐる。「他人の詩集に挿するのは重大だと思ふ。だから私がもしそれをやる場合にはむしろ原詩に執しないわがままなを挿みたいと思ふ。」

 併し乍ら、他から、私が見るに彼の資性と萩原君の資性との類似といふことよりも、いみぢい交通からなる、それは不識の美しい人生の共感だが、倍加された緊密な美がある。むろん恭吉自身のものであるが又同時に彼一個のものでもない。この病弱な、纎細な、又死に對しての生の執着の明るいそして暗い世界の存在に呼吸した生息がこれらの一線にも浸み出てゐる。一九一四年七月

[やぶちゃん注:「いみぢい」はママ。「不識」低次元の人智などでは理解し得ない、の意と解しておく。空隙なく、次の後に書かれ別文章に続いている。]

「死人とあとに殘れるもの」及び「冬の夕」は共に一九一四年十二月、彼が病苦から輕くせられてゐた頃、その「死」の体覺及「發病の回想」から生まれた心境と見るべく前者は稿では鉛筆のあとを止めてゐる。

[やぶちゃん注:「体覺」の「体」はママ。]

「悔恨」及び「懈怠」は、翌年二月、書きためた稿をまとめて集とした「心原幽趣」のうちから拔いた。その序詞。

「これ痛き感謝のこころなり。なみだにぬれしほほゑみなり。おもへばきのふ死なむとしてあやふくも生きながらへたる身かな。――畧――しひたげられ さひなまれつつ、いかばかり生きのちからのいみぢきかを ためさむねがひなり。」

[やぶちゃん注:引用中の「いみぢき」はママ。読点なしの字空けもママ。]

「悔恨」は過ぎし日のあやかしのいのちをかえりみて。「懈怠」は病み疲れた肉心の嫌忌と、又ある胥情と又腐れ果つべき肉體と。それらの心境を示して美しく。

[やぶちゃん注:「胥情」読もうなら「しよじやう(しょじょう)」だが、こんな熟語は知らない。動詞なら「見る・暫く待つ・助ける」であるが、ピンとこない。識者の御教授を乞う。

 

3

 

[やぶちゃん注:以上の文章がページ「8」(右ページ)で、その見開きの左ページに上の恩地孝四郎の二色刷の版画「抒情(ひとりすめば)」が配されてある。]

 

 假りに名づけて「こもるみのむし」とするものはおそらく同年二月――三月にかかれたものであろふ。仕上がったではないけれど、こもる病体と、外界の光輝の痛さ鋭さが美しくかかれている。

[やぶちゃん注:「病体」の「体」はママ。]

 扉にしたものは小さいアイボリ紙にかいたもので詩集空にさくエーテルの花などと橫にかいてあるのをとつて題とした、この世は光(まぶ)しい。一九一五年上半期。

 包紙に用いた「夜の花」は彼自身、もしも詩集でも出すことがあれば表紙にするのだといったもので、いま、採りたてのこの詩集に用ひた。一九一五年一月、發病後小康を得て東京市外池袋に起臥した頃かいたもので、ワツトマン紙に丹念にかかれてある。印刷で止むなくを損じたけれど彼の纖細な淸麗な情趣が籠められてゐる。

[やぶちゃん注:「ワツトマン紙」ワットマン紙(Whatman paper)は、イギリスのワットマン(James Whatman)が作った、厚い手漉きの高級図画用紙。麻や木綿の襤褸(ぼろ)を原料とした吸水性の良い紙で、特に水彩画用に適する。そのため、ワットマン紙は水彩画用紙の代名詞にもなっている。ワットマンが一七四五年に設立した「ワットマン社」は、イギリスのケント地方を代表する製紙メーカーとなっており、各種の紙を製造しているが、日本では濾紙やペーパー・クロマトグラフィー用紙の製造元として知られる。一時中断していた画用紙製造も一九六〇年代には再開されている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 私の插については別にいうべくない。すべてこの集について版を刻つたもの。

 最後に、この集が三者の心緖に快く交通して成ったことの記銘を殘しておく。

      一九一六年十二月  恩地孝四郞

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、「插附言 詩集附錄」と題した中の、「故田中恭吉氏の藝術に就いて」と題した作者萩原朔太郎の文章。これは「青空文庫」の「詩集〈月に吠える〉全篇」の末尾にある、新字旧仮名のデータを加工用に使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。太字下線は底本では傍点「●」、太字は傍点「ヽ」である。]

 

 故田中恭吉氏の藝術

 に就いて

 

 雜誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の藝術を始めて知つたのは、今から二年ほど以前のことである。當時、私があの素ばらしい藝術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはつたかと言ふことは、殊更らに言ふまでもないことであらう。實に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を、田中氏の藝術によつて一層はつきりと凝視することが出來たのである。

 その頃、私は自分の詩集の裝幀や挿を依賴する人を物色して居た際なので、この新らしい知己を得た悦びは一層深甚なものであつた。まもなく恩地孝氏の紹介によつて私と恭吉氏とは、互にその鄕里から書簡を往復するやうな間柄になつた。

 幸にも、恭吉氏は以前から私の詩を愛讀して居られたので、二人の友情はたちまち深い所まで進んで行つた。當時、重患の病床中にあつた恭吉氏は、私の詩集の計をきいて自分のことのやうに悅んでくれた。そしてその裝幀と挿のために、彼のすべての「生命の殘部」を傾注することを約束された。

 とはいへ、それ以來、氏からの消息はばつたりえてしまつた。そして恩地氏からの手紙では「いよいよ恭吉の最後も近づいた」といふことであつた。それから暫らくして或日突然、恩地氏から一封の書留小包が屆いた。それは恭吉氏の私のために傾注しつくされた「生命の殘部」であつた。床中で握りつめながら死んだといふ傷ましい形見の遺作であつた。私はきびしい心でそれを押戴いた。(この詩集に挿入した金泥の口繪と、赤地に赤いインキで薄くいた線がその形見である。この赤い繪は、劇藥を包む赤い四角の紙に赤いインキで描かれてあつた。恐らくは未完成の下圖であつたらう。非常に緊張した鋭どいものである。その他の數葉は氏の遺作集から恩地君が選拔した。)

 恭吉氏は自分の藝術を稱して、自ら「傷める芽」と言つて居た。世にも稀有な鬼才をもちながら、不幸にして現代に認められることが出來ないで、あまつさへその若い生涯の殆んど全部を不治の病床生活に終つて寂しく夭死して仕舞つた無名の天才家のことを考へると、私は胸に釘をうたれたやうな苦しい痛みをかんずる。

 思ふに恭吉氏の藝術は「傷める生命(いのち)」そのもののやるせない叫であつた。實に氏の藝術は「語る」といふのではなくして、殆んど「叫」に近いほど張りつめた生命の苦喚の聲であつた。私は日本人の手に成つたあらゆる藝術の中で、氏の藝術ほど眞に生命的な、恐ろしい眞實性にふれたものを、他に決して見たことはない。[やぶちゃん注:末尾の太い鈎括弧(閉じる)はママ。]

 恭吉氏の病床生活を通じて、彼の生命を惱ましたものは、その異常なる性慾の發作と、死に面接するえまなき恐怖であつた。

 就中、その性慾は、ああした病氣に特有な一種の恐ろしい熱病的執拗をもつて、えず此の不幸な靑年を苦しめたものである。恭吉氏の藝術に接した人は、そのありとあらゆる線が、無氣味にも悉く「性慾の嘆き」を語つて居る事に氣がつくであらう。それらの異常なる繪は、見る人にとつては眞に戰慄すべきものである。

「押へても押へても押へきれない性慾の發作」それはむざむざと彼の若い生命を喰ひつめた惡魔の手であつた。しかも身動きも出來ないやうな重病人にとつて、かうした性慾の發作が何にならうぞ。彼の藝術では、凡ての線が此の「對象の得られない性慾」の悲しみを訴へて居る。そこには氣味の惡いほど深酷な音樂と祈禱とがある。

 襲ひくる性慾の發作のまへに、彼はいつも瞳を閉ぢて低く唄つた。

 

 こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

 

 何といふ善良な、至純な心根をもつた人であらう。たれかこのいぢらしい感傷の聲をきいて淚を流さずに居られやう。[やぶちゃん注:「居られやう」の「やう」はママ。]

 一方、かうした肉體の苦惱に呪はれながら、一方に彼はまた、眼のあたり死に面接するえまなき恐怖に襲はれて居た。彼はどんなに死を恐れて居たか解らない。「とても取り返すことの出來ない生」を取り返さうとして、墓場の下から身を起さうとして無益に焦心する、悲しいたましひのすすりなきのやうなものが、彼の不思議の藝術の一面であつた。そこには深い深い望の嗟嘆と、人間の心のどん底からにぢみ出た恐ろしい深酷なセンチメンタリズムとがある。[やぶちゃん注:「にぢみ出た」はママ。]

 併し此等のことは、私がここに拙惡な文章で紹介するまでもないことである。見る人が、彼の藝術を見さへすれば、何もかも全感的に解ることである。すべて藝術をみるに、その形狀や事實の槪念を離れて、直接その内部生命であるリズムにまで觸感することの出來る人にとつては、一切の解説や紹介は不要なものにすぎないから。

 要するに、田中恭吉氏の藝術は「異常な性慾のなやみ」と「死に面接する恐怖」との感傷的交錯である。

 もちろん、私は繪の方面では、全く智識のない素人であるから、專問的の立場から觀照的に氏の藝術の優劣を批判することは出來ない。ただ私の限りなく氏を愛敬してその夭折を傷む由所は、勿論、氏の態度や思想や趣味性に私と共鳴する所の多かつたにもよるが、それよりも更に大切なことは、氏の藝術が眞に恐ろしい人間の生命そのものに根ざした叫であつたと言ふことである。そしてかうした第一義的の貴重な創作を見ることは、現代の日本に於ては、極めて極めて特異な現象であるといふことである。

             萩 原 朔 太 郞

 

[やぶちゃん注:最終段落の「繪」はママ。「專問的」もママ。「由所」は再版では「以所」で、筑摩版全集強制校訂補正では「所以」である。

 以上を以って特殊特装版の初版萩原朔太郎詩集「月に吠える」は終わっている。]

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