萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 室生犀星の跋「健康の都市」・奥附(但し、まだ続き有り)
跋
健 康 の 都 市
大正二年の春もおしまひのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらつた。私が當時雜誌ザムボアに出した小景異情といふ小曲風な詩について、今の詩壇では見ることの出來ない純な眞實なものである。これから君はこの道を行かれるやうに祈ると書いてあつた。私は未見の友達から手紙をもらつたことが此れが生まれて初めてであり又此れほどまで鋭く韻律の一端をも漏さぬ批評に接したことも之れまでには無かつたことである。私は直覺した。これは私とほぼ同じいやうな若い人であり境遇もほぼ似た人であると思つた。ちようど東京に一年ばかり漂泊して歸つてゐたころで親しい友達といふものも無かつたので、私は 飢ゑ渴いたやうにこの友達に感謝した。それからといふものは私たちは每日のやうに手紙をやりとりして、ときには世に出さない作品をお互に批評し合つたりした。
[やぶちゃん注:「ちようど」はママ。
「私は未知の友から一通の手紙をもらつた」残念ながら、この書簡は残っていないようである。筑摩書房版「萩原朔太郎全集」第十三巻(昭和五二(一九七七)年刊)の書簡で、最初に犀星の登場するものは、大正三(一九一四)年二月二十八日附前田夕暮宛葉書(書簡番号三一)で、それはまさに犀星(満二十四歳)が朔太郎(二十七歳)に初めて対面した折りであって、『犀星氏と一日利根の河畔を步きました』とある。全集注によれば、『宛名書は「萩原生」をふくめて室生犀星の筆蹟。犀星はこの時初めて前橋の朔太郎を訪ね、二月十四日から三月八日まで滞在した』とある。この凡そ一ヶ月もの滞在を契機として以後、非常に親密となり、次の段以降で語られるように、互いを「恋人」と呼ぶほどの仲になった。但し、同全集年譜によれば、初対面時の犀星の受けた朔太郎の印象は、『生活は非常にハイカラで、手紙は洋封筒を用い、便箋は歐文字のすかし入り、部屋はごてごてしたセセッション式』(Secession-style:大正初期によく使用された語で、セセッション=ウィーン分離派の作品の特徴である幾何学的意匠や渦を巻く植物模様等見られる様式を指すことが多い)、『紅茶にウイスキーをしたたらせ、蓄音器を鳴らし、服裝は半外套洋服にトルコ帽だった』(これらの服は幾度が自分でデザインして作らせた、という注記がある)と述べている。また、犀星の後の「わが愛する詩人の伝記」(『婦人公論』昭和三三(一九五八)年三月号)には、『前橋の停車場に迎へに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを咥(くは)へてゐた。第一印象はなんて気障(きざ)な虫酸(むしず)の走る男だらうと私は身ブルヒを感じた』とある(ここは「前橋文学館」の二〇一八年二月十四日のブログに拠った)。それに対し、犀星が朔太郎に与え初対面のそれは、『田舍書生といった』印象で、『胡散臭いやつが來た、といった感じ』方で、後の朔太郎の「室生犀星の印象」(『秀才文壇』大正七(一九一八)年六月号)では(筑摩版全集を底本とした。太字は底本では傍点「ヽ」)、『室生のリズムが、どういふものかすつかり氣に入つてしまつて、たまらなく感心したのでたうとう未見の彼と逢ふことになつた。鄕里の停車場で始めて逢つた時の室生は、詩から聯想してゐたイメーヂとは、全で[やぶちゃん注:「まるで」。]ちがつた人間であつた。私は貴族的の風貌と、靑白い魚のやうな皮膚を心貌(しんばう)[やぶちゃん注:心の中に浮かべる容貌。]に畫いて居た。然るに事實は全く思ひがけないものであつた。妙に眉を怒らした眼のこはい男が現はれた時、私にはどうしてもそれが小曲詩人の室生犀星とは思へなかつた。』(改行)『かういふわけで、室生の最初の印象は甚だ惡かつた。容貌ばかりでなく、全體の態度や、言葉づかいや、言行からして、何となく田舍新聞の記者とかゴロツキ書生とかいふ類の者を思はせる所があつた』と述べている。朔太郎は勝手に犀星を繊細な美少年と堅く思い込んでしまっていたらしく、彼のごっつい容貌を見て、実際にはガックりきたのである。いや、正直、分らぬでもない。しかし、洋服にトルコ帽の半外套のヒョロ男と一緒に利根川畔を歩くのも、私は御免蒙りたくなる。但し、朔太郎は上記のそれに続けて、『然るに不思議なことは、その後益〻彼と親しんでくるに從つて、彼の容貌や、そのユニツクな人格や態度が、奇體に藝術的な美しさを以て見られてきた。「愛とは美なり」といふことは、實際どんな場合にも事實である。彼と私との友情が如はるに順つて、始め不快であつた彼の怪異な風采が、次第次第に快美なリズムに變つてきたのは不思議である。今の室生は勿論、全體に於て昔の金澤時代の彼とは違つて居るが、とにかく彼の容貌には、どこかヱルレエヌやベトーベンに見るやうな、藝術的の「深みある美しさ」があることを、近來になつてしみじみと感じてゐる。ほんとの美といふものは、矢張人格や心性からくる者であつて、單なる皮膚や肉づきから生れる者ではないやうだ。「偉人の容貌には奧深き美がある」といふことは、たしかに眞賓である』と讃えている。後に、その二人の間に割って入ってしまう形になったのが、芥川龍之介であることはあまり知られているとは思われない。これ以上は、脱線になる。私の非常に古い電子データである萩原朔太郎「芥川龍之介の死」をお読みあれかし。]
私はときをり寺院の脚高な椽側から國境山脈をゆめのやうに眺めながら此の友のゐる上野國や能く詩にかかれる利根川の堤防なぞを懷しく考へるやうになつたのである。會へばどんなに心分(こゝろもち)の觸れ合ふことか。いまにも飛んで行きたいやうな氣が何時も瞼を熱くした。この友もまた逢つて話したいなぞと、まるで二人は戀しあふやうな激しい感情をいつも長い手紙で物語つた。私どもの純眞な感情を植ゑ育ててゆくゆく日本の詩壇に現はれ立つ日のことや、またどうしても詩壇の爲めに私どもが出なければならないやうな圖拔けた强い意志も出來てゐた。どこまで行つても私どもはいつも離れないでゐようと女性と男性との間に約されるやうな誓ひも立てたりした。
[やぶちゃん注:「椽側」はママ。「椽」は本来は「たるき(垂木)」の意であるが、芥川龍之介を始めとして、明治・大正期の作家は「緣」の代わりに「椽」を使用する例がすこぶる多い。]
大正三年になつて私は上京した。そして生活といふものと正面からぶつかつて、私はすぐに疲れた。その時はこの友のゐる故鄕とも近くなつてゐたので、私は草臥れたままですぐに友に逢ふことを喜んだ。友はその故鄕の停車場でいきなり私のうろうろしてゐるのをつかまへた。私どもは握手した。友はどこか品のある瞳の大きな想像したとほりの毛唐のやうなとこのある人であつた。私どもは利根川の堤を松並木のおしまひに建つた旅館まで俥にのつた。淺間のけむりが長くこの上野まで尾を曳いて寒い冬の日が沈みかけてゐた。
[やぶちゃん注:滞在した宿は、前橋公園からほど近い利根川畔の旅館兼下宿「一明館」。現存しないようである。]
旅館は利根川の上流の、市街(まち)のはづれの靜かな磧に向つて建てられてゐた。すぐに庭下駄をひつかけて茫茫とした磧へ出られた。二月だといふのにいろいろなものの芽立ちが南に向いた畦だの崖だのにぞくぞく生えてゐた。友はよくこの磧から私をたづねてくれた。私どもは詩を見せ合つたり批評をし合つたりした。
大正四年友は出京した。
私どもは每日會つた。そして私どもの狂わしいBARの生活が初まつた。暑い八月の東京の街路で時には劇しい議論をした。熱い熱い感情は鐵火のやうな量のある愛に燃えてゐた。ときには根津權現の境内やBARの卓(テーブル)の上で試作をしたりした。私は私で極度の貧しさと戰ひながらも盃は唇を離れなかつた。そしていつも此友にやつかいをかけた。
[やぶちゃん注:「BAR」は縦書である。]
間もなく友は友の故鄕へ私は私の國へ歸つた。そして端なく私どもの心持を結びつけるために『卓上噴水』といふぜいたくな詩の雜誌を出したが三册でつぶれた。
[やぶちゃん注:「端なく」思いがけず。何のきっかけもなく。
『卓上噴水』は朔太郎が前年六月に創設した「人魚詩社」から、十ヶ月目の大正四(一九一五)年三月に、やっと発刊した詩誌。誌名は犀星が附けたもので、発行所は金沢の室生のところであったが、第三号(同年五月号)で短命に終わった。]
私どもが此の雜誌が出なくなつてからお互にまた逢ひたくなつたのである。友は私の生國に私を訪問することになつた。私のかいた海岸や砂丘や靜かな北國の街々なぞの景情が友を遠い旅中の人として私の故鄕を訪づれた。私が三年前に友の故鄕を友とつれ立つて步いたやうに、私は友をつれて故鄕の街や公園を紹介した。私のゐるうすくらい寺院を友は私のゐさうな處だと喜んだ。または廓の日ぐれどきにあちこち動く赤襟の美しい姿を珍らしがつた。または私が時時に行く海岸の尼寺をも案内した。そこの砂山を越えて遠い長い渚を步いたりして荒い日本海をも紹介した。それらは私どもを子供のやうにして樂しく日をくらさせた。そのころ私は愛してゐた一少女をも紹介した。
[やぶちゃん注:朔太郎の金沢の犀星を訪問したのは、大正四(一九一五)年五月八日正午に着、同月十七日の夜行で帰橋した。全集年譜によれば、『二等室から朔太郎は赤い房のついた薄鼠色の土耳古帽をやや阿彌陀にかぶり、』粗い『格子縞の洋服姿で降り立った』とある。
「尼寺」石川県金沢市金石北にある海月寺(かいげつじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「ほっと石川旅ねっと」の「海月寺」によれば、『犀星が若い頃、この』二『階に下宿し、後に小説「海の僧院」として、ここでの生活を作品に残している』とあり、また、個人ブログ「つとつとのブログ」の「海月寺」にも、『室生犀星は』十三『歳で高等小学校を中退して、金沢地方裁判所の給仕として就職し』たが、『ここで俳句などの先人に出会い』、『文学に目覚めた』とされる。十九歳で『金石』(かないわ:金沢市の北西部にある港町)『出張所に移った際に』、『この海月寺の』二『階に下宿し』た(わずか一年に『満たない期間で』はあった)。それでも、彼は十九『歳当時』、『すでにペンネームの「犀星」を名乗っており』、『北陸の俳壇界では知られた存在だった』という。『俳壇以外にも詩や小説を書くようになっており、寺の』二『階部屋で後に発表した多くの作品を書いて』おり、『現在も犀星の使った部屋はそのまま保存されている』という。
「愛してゐた一少女」新潮社日本詩人全集第十五巻「室生犀星」(昭和四二(一九六七)年刊)の年譜を見る限りでは、幼馴染の七つ歳下の村田艶(えん)(この大正四年で数え二十歳)のことと思われる。]
友は間もなくかへつた。それから友からの消息はばつたりと絕えた。友の肉體や思想の内部にいろいろの變化が起つたのも此時からである。手紙や通信はそれからあとは一つも來なかつた。私は哀しい氣がした。あの高い友情は今友の内心から突然に消え失せたとは思へなかつた。あのやうな烈しい愛と熱とがもう私と友とを昔日のやうに結びつけることが出來なくなつたのであらうか。私には然う思へなかつた。
『竹』といふ詩が突然に發表された。からだぢうに巢喰つた病氣が腐れた噴水のやうに、友の詩を味ふ私を不安にした。友の肉體と魂とは晴れた日にあをあをと伸上がつた『竹』におびやかされた。竹を感じる力は友の肉體の上にまで重量を加へた。かれは、からだぢう竹が生えるやうな神經系統にぞくする恐竹病におそはれた。そしてまた友の肉體に潜んだいろいろな苦悶と疾患とが、友を非常な神經質な針のさきのやうなちくちくした痛みを絕えず經驗させた。
ながい疾患のいたみから
その顏は蜘蛛の巢だらけとなり
腰から下は影のやうに消えてしまひ
腰から上には竹が生え
手が腐れ
しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり
ああけふも月が出で
有明の月が空に出で
そのぼんぼりのやうなうすあかりで
畸形の白犬が吠えて居る
しののめちかく
さむしい道路の方で吠える犬だよ
私はこの詩を讀んで永い間考へた。あの利根川のほとりで土筆やたんぽぽ又は匂い高い抒情小曲なぞをかいた此れが紅顏の彼の詩であらうか。かれの心も姿もあまりに變り果てた。かれはきみのわるい畸形の犬がぼうぼうと吠える月夜をぼんぼりのやうに病みつかれて步いてゐる。ときは春の終わりのころであらうか。二年にもあまる永い病氣がすこしよくなりかけ、ある生ぬるい晚を步きにでると世の中がすつかり變化つてしまつたやうに感じる。永遠といふものの力が自分のからだを外にしても斯うして空と地上とに何時までもある。道路の方で白い犬が、ゆめのやうなミステツクな響をもつてぼうぼうと吠えてゐる。そして自分の頭がいろいろな病のために白痴のやうにぼんやりしてゐる。ああ月が出てゐる。
[やぶちゃん注:先の引用詩は本詩集の「ありあけ」。初出形から最終行の句点意外を除去した形である。筑摩版全集の「跋・健康の都市」の校異末尾によれば、『本跋文中の引用詩は、雜誌初出形ないし犀星の記憶に基づくもので、詩集收錄作品とは一致しない』として、『ここでは假名遣、用字の誤りの校異のみにとどめた』とする。これは杜撰だろ! 私はやる!]
私は次の頁をかへす。
遠く渚の方を見はたせば
ぬれた渚路には
腰から下のない病人の列が步いてゐる
ふらりふらりと步いてゐる
彼にとつては總てが變態であり恐怖であり幻惑(げんわく)であつた。かれの靜かな心にうつつてくるのは、かれの病みつかれた顏や手足にまつわる惱ましい蛛蜘の巢である。彼は殆んど白痴に近い感覺の最も發作の靜まつた時にすら、その指さきからきぬいとのやうなものの垂れるのを感じる。その幻覺はかれの魂を慰める。ああ蒼白なこの友が最も不思議に最も自然に自分の指をつくづく眺めてゐるのに出會して淚なきものがゐようか。私と向ひ合つた怜悧な眼付はどんよりとして底深いところから靜かに實に不審な病夢を見てゐるのである。
[やぶちゃん注:「春夜」からの引用の一行目の「見はたせば」はママ。初出形であるが、総ての末尾の読点が除去されており、元では「遠く渚の方を見わたせば、」と歴史的仮名遣は正しい。二箇所の「步いて」は最終行は「あるいて」であり、二箇所の末尾の「ゐる」は孰れも「居る、」である。
「蛛蜘の巢」の「蛛蜘」はママ。敢えて直さない。「蜘蛛」は「蜘」だけで「くも」と読めるし、気がつくのは数人で、だからと言って躓くとも言えず、じきに行き過ぎ、誤読もしないとあれば、取り立てて鬼の首を獲って強制訂正する必要もないと私は感ずるからである。]
それらの詩編が現はれると間もなく又ばつたり作がなかつた。私のとこへも通信もなかつた。私から求めると今私に手紙をくれるなとばかり何事も物語らなかつた。たうとう一年ばかり彼は誰にも會はなかつた。かれにとつて凡ての風景や人間がもう平氣で見てゐられなくなつた。ことに人を怖れた。まがりくねつて犬のやうに病んだ心と、人間のもつとも深い罪や科やに對して彼は自らを祈るに先立つて、その祈りを犯されることを厭ふた。ひとりでゐることを、ひとりで祈ることを、ひとりで苦しみ考へることを、ああ、その間にも彼の疾患は辛い辛い痛みを加へた。かれはヨブのやうな苦しみを試みられてゐるやうでもあつた。なぜに自分はかやうに肉體的に病み苦しまなければならないかとさへ叫んだ。
かれにとつて或る一點を凝視するやうな祈禱の心持!どうにかして自分の力を、今持つてゐる意識を最つと高くし最つと良くするためにも此疾患を追ひ出してしまひたいとする心持!この一卷の詩の精神は、ここから發足してゐるのであつた。
[やぶちゃん注:感嘆符の後に字空けがないのはママ。]
彼の物語の深さはものの内臟にある。くらい人間のお腹にぐにやぐにやに詰つたいろいろな機械の病んだもの腐れかけたもの死にそうなものの類ひが今光の方向を向いてゐる。光の方へ。それこそ彼の求めてゐる一切である。彼の詩のあやしさはポオでもボドレエルでもなかつた。それはとうてい病んだものでなければ窺知することのできない特種な世界であつた。彼は祈つた。かれの祈禱は詩の形式であり懺悔の器でもあつた。
[やぶちゃん注:「とうてい」はママ。
「窺知」(きち)とは「窺(うかが)い知ること」の意。]
凍れる松が枝に
祈れるままに縊されぬ
といふ天上縊死の一章を見ても、どれだけ彼が苦しんだことかが判る。かれの詩は子供がははおやの白い大きい胸にすがるやうにすなほな極めて懷しいものも其疾患の絕え間絕え間に物語られた。
[やぶちゃん注:この引用は困りものである。現行の「天上縊死」の初出形とも異なり、現在残る「月に吠える」草稿原稿(全集第一巻末に所収)の「天井縊死」のパートには原稿七種八枚が載るが、そこにもこの表現は見当たらない。或いは、最早、存在しない「天上縊死」の初期原稿の犀星の断片的な記憶なのかも知れない、などと如何にもながら、好意的に夢想してみると、少しばかり、夢が広がるようで、気持ちはいい。]
萩原君。
私はここまで書いて此の物語が以前に送つた跋文にくらべて、どこか物足りなさを感じた。君がふとしたころから跋文を紛失したと靑い顏をして來たときに思つた。あれは再度かけるものではない。かけても其書いてゐたときの情熱と韻律とが二度と浮んでこないことを苦しんだ。けれどもペンをとると一氣に十枚ばかり書いた。けれどもこれ以上書けない。これだけでは兄の詩集をけがすに過ぎぬ。一つは兄が私の跋文を紛失させた罪もあるが。
唯私はこの二度目の此の文章をかいて知つたことは、兄の詩を餘りに愛し過ぎ、兄の生活をあまりに知り過ぎてゐるために、私に批評が出來ないやうな氣がすることだ。思へば私どもの交つてからもう五六年になるが、兄は私にとつていつもよい刺戟と鞭撻を與へてくれた。あの奇怪な『猫』の表現の透徹した心持ちは、幾度となく私の模倣したものであつたが物にならなかつた。兄の纎細な恐ろしい過敏な神經質なものの見かたは、いつもサイコロジカルに滲透していた。そこへは私は行かうとして行けなかつたところだ。
兄の健康は今兄の手にもどらうとしてゐる。兄はこれからも變化するだらう。兄のあつい愛は兄の詩をますます砥ぎすました者にするであらう。兄にとつて病多い人生がカラリと晴れ上つて兄の肉體を温めるであらう。私は兄を福祉する。兄のためにこの人類のすべてが最つと健康な幸福を與へてくれるであらう。そして兄が此の惱ましくも美しい一卷を抱いて街頭に立つとしたらば、これを讀むものはどれだけ兄が苦しんだかを理解するやうになる。この數多い詩篇をほんとに解るものは、兄の苦しんだものを又必然苦しまねばならぬ。そして皆は兄の蒼白な手をとつて親しく微笑して更らに健康と勇氣と光との世界を求めるやうになるであらう。更らにこれらの詩篇によつて物語られた特異な世界と、人間の感覺を極度までに纎細に鋭どく働かしてそこに神經ばかりの假令へば齒痛のごとき苦悶を最も新しい表現と形式によつたことを皆は認めるであらう。
[やぶちゃん注:「假令」底本は「例令」であるが、これでは全く読めない。「假」の誤植と断じて、特異的に訂した。筑摩全集版もそう強制訂正している。]
も一步進んで言へば君ほど日本語にかげと深さを注意したものは私の知るかぎりでは今までには無かつた。君は言葉よりもそのかげと量と深さとを音樂的な才分で創造した。君は樂器で表現できないリズムに注意深い耳をもつてゐた。君自らが音樂家であつたといふ事實をよそにしても、いろはにほへを鍵盤にした最も進んだ詩人の一人であつた。
ああ君の魂に祝福あれ。
大聲でしかも地響のする聲量で私は呼ぶ。健康なれ!おお健康なれ!。と。
千九百十六年十二月十五日深更
東京郊外田端にて
室 生 犀 星
[やぶちゃん注:「健康なれ!おお健康なれ!。と。」の前の感嘆符の後の字空けがないのと、後の感嘆符の後の異例の句点はママである。]
月に吠える 完
[やぶちゃん注:次の百九十八ページ(右ページ。ノンブル有り)をめくると、上記の一行が、左やや端にある。
その見開きの左ページが以下の奥附になっているが、本詩集はそれで終わっていない。既に「愛憐」の注で述べた通り、本書は非常に特殊な条件で作成された、数部のみ作成された一種の特装本なのであり、実は、この後まだ「挿画附言」と「詩集附録(田中恭吉・孝四郎・萩原朔太郎筆)」(途中に恩地孝四郎の版画二葉が挿し入れ)と続くのである。]
大正六年二月 十 日印刷
定價九十錢
大正六年二月十五日發行
┃ 著 者 萩原 朔太郎
┃不 東京市外田端一六三
┃許 發行人 室生 照 道
┃複 東京市芝區櫻田町十九番地
┃製 印刷者 岡 千代彦
┃ ―――――――――
發行所 東京市外田端一六三 感 情 詩 社
發行所 東京市外西大久保二四七 白日社出版部
(振替二六一六三)
[やぶちゃん注:傍線は底本では連続した一直線。以上全体が□で囲われ、その下方罫外に沿って右から左に、ごく小さなポイントで、
(印刷所 自由活版所)
とある。
発行者の室生照道は室生の戸籍上の本名。ウィキの「室生犀星」によれば、犀星は明治二二(一八八九)年八月一日、旧『加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と』、『その女中であるハルという名の女性の間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として』、「照道」の『名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは』七『歳のときであり、この際』、『室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは』、『犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は』、『母親についての』ダブル・バインド(Double bind:二重拘束・二重束縛)『を背負っていた』のであり、「犀星発句集」(昭和八(一九四三)年刊)に『収められた』一句、
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
『は、犀星自身』、五十歳を『過ぎても、このダブル』・『バインドを引きずっていたことを』示している、とある。]
[やぶちゃん注:以下、「插畫附言 詩集附錄」と題した、田中恭吉と恩地孝四郎と作者萩原朔太郎の文章。田中恭吉と恩地孝四郎のそれは、個人ブログ「あどけない詩」にある、新字新仮名のデータを加工用にさせて戴いた。ここに御礼申し上げる。]
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