宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 山巡査
山 巡 査
おお
何といふ立派な楢だ
綠の勳爵士(ナイト)だ
雨にぬれてまつすぐに立つ綠の勳爵士(ナイト)だ
栗の木ばやしの靑いくらがりに
しぶきや雨にびしやびしや洗はれてゐる
その長いものは一体舟か
それともそりか
あんまりロシヤふうだよ
沼に生えるものはやなぎやサラド
きれいな蘆(よし)のサラドだ
[やぶちゃん注:「体」はママ。大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。原稿は「ロシヤふう」は「ロシヤ風」であるが、最終校正でひらがなにしたか。「手入れ本」は手入れなし。特異点。
「山巡査」無論、賢治の造語。言わずもがな、次の「楢」の木を擬人化したもの。それと一体となった詩人が雨の中を栗林から沼へと、自然を指差点呼しつつ巡邏してゆく。
「楢」既出既注。ブナ目ブナ科コナラ属
Quercus の総称であるが、ここはその中でも主要な種とされるミズナラ Quercus crispula ととっておく。
「勳爵士(ナイト)」「ナイト」は「勳爵士」三字へのルビ。主にヨーロッパのキリスト教国家に於いて、勲章の授与に伴って王室又は教皇から授与される、中世の騎士階級に由来した栄誉称号「Knight」の訳語。特にイギリス(連合王国)の叙勲制度に於いて王室より叙任されるものが著名。他に「勲功爵」「騎士爵」「士爵」などの訳が見られる。称号としての「ナイト」を「騎士号」とも訳す。なお、英国に於いては「ナイト」は貴族身分ではなく、世襲権を持たない準貴族の扱いである(ここはウィキの「ナイト」に拠った)。
「その長いものは一体舟か」/「それともそりか」地に帰ることとなった倒木であろう。
「あんまりロシヤふうだよ」「そり」(橇)から連想された。この九年前の一九一七年(大正六年)十一月七日、「十月革命」で「ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ」政権が樹立(当時の賢治は満二十一歳で盛岡高等農林学校三年)され、そのトップにレーニンがなり、「ボリシェビキ」を改称した「ロシア共産党」を率いて内戦に勝利し、事実上の建国の始動期にあったが、本詩篇の書かれた直後、一九二二年(大正十一年)の翌月末(年末)の十二月三十日(当時の賢治は二十六歳)ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国(一九一八年七月成立)に、ウクライナ・ベロルシア・ザカフカースの三つのソヴェト社会主義共和国が加わって、遂に「ソ連共産党」の一党独裁による「ソヴィエト社会主義共和国連邦」を成立させている。ロシアが世界中で大きな話題になっていた中で、この「あんまりロシヤふうだよ」という、やや傍観者的な風刺を感じさせる謂い掛けが用いられていることに着目したい。宮澤賢治はこの世紀の一大イベントとなった「ロシア革命」と巨大な社会主義国家の出現をどう思っていたか。Kenjitomorris氏のブログ「賢治とモリスの館」の「宮沢賢治とロシア革命」によれば、「羅須地人協会」に出入りしていた伊藤与蔵氏の「聞き書き」を素材に、賢治が、イギリスの詩人でデザイナーであると同時にマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)が主導したデザイン運動「アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts
Movement:「美術工芸運動」。産業革命により生じた、安価ながら粗悪なステロタイプの商品の大量生産の蔓延を批判し、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張したもので、自ら「モリス商会」を設立、装飾された書籍・インテリア製品などを製作した。その製品自体は結局、高価なものになって、裕福な階層にしか使えなかったという批判もあるが、生活と芸術の一致を目指したモリスの思想は世界的に大きなインパクトを与え、「アール・ヌーヴォー(Art nouveau:新しき芸術)」・「ウィーン分離派」(Wiener Secession:一八九七年にウィーンで画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)を中心に結成された芸術家のグループ。単に「セセッション」とも表記される)・ユーゲント・シュティール(Jugendstil:一八九六年にミュンヘンで刊行された雑誌『ユーゲント』(Die
Jugend:若者・青春の意)に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。「ユーゲント」は「若さ」、「シュティール」は様式を意味するドイツ語で、「アール・ヌーヴォー」と意を同じくし、「青春様式」と訳されることもある)などの美術運動にもその影響が見られる)の芸術論を読んでおり、特に『芸術と労働の関係については』『モリスなどの思想を継承してい』たとあり、このソヴィエト社会主義共和国連邦成立という壮大な歴史の実験は、賢治が『「農民芸術概論」を書き、羅須地人協会が設立、活動を始める』四『年前のこと』であるとされ、以下のように述べておられる。
《引用開始》[やぶちゃん注:クエスチョン・マークの後に字空けを入れた]
モリスなど『ユートピア便り』の社会主義や芸術思想とロシア革命の現実が、賢治など多くの知識人の眼にどのように映り、どのように受け止められたか? プロレタリア独裁の暴力革命、「労・兵ソビエトと全国の電化」の社会主義の現実は、産業革命の工業化の資本主義を超えようとしていたモリスの「ユートピア社会主義」の夢とは、余りにもかけ離れた暗い現実ではなかったか? 知識人の間に動揺が走り、思想的混乱が生じたのも当然だったろう。東大の卒業論文のテーマにモリスを選んだ芥川竜之介が、「ただぼんやりとした不安」という謎めいた遺書を残して自殺した。「ぼんやりとした不安」の背後には、ロシア革命とソ連邦の現実があったという推測もある。[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒論(無論、英文)は戦災により消失し、現在、我々がそれを読むことは出来ない。非常に残念なことである。]
では、こうした思想界の混乱や動揺の中で、モリスの芸術思想、そして社会主義を受容・継承しようとしていた賢治は、ロシア革命をどう受け止めていたか?
「聞き書き」には、「私は小ブルジョア」の項目があった。賢治はそこで「革命が起きたら、私はブルジョアの味方です」と言い切り、「私は革命という手段は好きではない」とも語っていた。彼が自分の出身階層が小ブルジョアであることは、いわば客観的事実として率直に認めていたことであって、賢治らしい率直さだと思う。プロレタリア独裁のテーゼからは、小ブルジョワが反革命の側につく。そこから賢治は、自らは客観的な階層的地位からすれば、反革命の立場に立たざるを得ないことを率直に語ったのであろう。
しかし、ここで賢治が「革命という手段は好きではない」と語っていることは、ロシア革命に対する不賛成・反対の意思表示である。プロレタリア独裁の暴力革命の方式に、賢治がはっきり反対の立場に立とうとしていたことがわかる。モリスなどの、西欧社会主義・社会民主主義の思想的伝統の流れからすれば、レーニンのボルシェビズムは相容れないものだろう。賢治のロシア革命に対する明確な否定の態度表明は、モリスなどの社会主義の思想からは、むしろ当然ともいえる立場の意思表示だったのではないか?「農民芸術論」、そして羅須地人協会の運動を理解する上でも、大事な論点提起だと思う。
《引用終了》
(「小ブルジョア」と「小ブルジョワ」の違いはママ。著作権侵害とならないよう引用を最小限にするため、前後を省略してある)と述べておられる。これは、賢治という人間のある種の偏頗な性格や非社会性や作品群の示す世界観を鳥瞰するに、肯んずることの出来る結論であり、さすれば、この「あんまりロシヤふうだよ」という何か微苦笑を含んだ揶揄を感じさせる言い掛けも腑に落ちてくるのである。
「やなぎやサラド」/「きれいな蘆(よし)のサラドだ」「サラド」は「サラダ」(salad)。視認する即物対象の一般名と別な並列対照物の換喩表現の名を並べるのは、新手の手法。「やなぎ」は彼の好きな「ベムベロ」=「カワヤナギ」=ネコヤナギキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gilgiana であろう。「蘆(よし)」は「葦(あし)」「葭(よし)」「アシ」「ヨシ」と書き換えても孰れも総て同一の、湿地帯に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。ウィキの「ヨシ」によれば、『もともとの呼び名は「アシ」であり、日本書紀に著れる『豊葦原(とよあしはら)の国』のように、およそ平安時代までは「アシ」と呼ばれていたようである』。「更級日記」においても、『関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書かれている』。八『世紀、日本で律令制が布かれて全国に及び、人名や土地の名前に縁起のよい漢字』二『字を用いる好字が一般化した。「アシ」についても「悪し」を想起させ』、『連想させ』て『縁起が悪いとし、「悪し」の反対の意味の「良し」に変え、葦原が吉原になるなどし、「ヨシ」となった。このような経緯のため』、『「アシ」「ヨシ」の呼び方の違いは地域により変わるのではなく、新旧の違いでしか無い。現在も標準和名としては、ヨシが用いられる。これらの名はよく似た姿のイネ科にも流用され、クサヨシ』(イネ科イチゴツナギ亜科カラスムギ連クサヨシ属クサヨシ Phalaris arundinacea)・『アイアシ』(イネ科アイアシ属アイアシ Phacelurus latifolius)『など和名にも使われている』とある。ヨシの『垂直になった茎は』二~六メートル『の高さになり、暑い夏ほどよく生長する』。『葉は茎から直接』、『伸びており、高さ』二十~五十センチメートル、幅二~三センチメートルで、『細長い』。カメラが林を抜けて湿原へ向かう。そこに大好きな「ベンベロ」(猫柳)と、こんもりとしたグリーンの、雨に洗われて生き生きと輝くサラダのような蘆原が見えてくる。ロシアが出てきた序でに、これも私はタルコフスキイに撮って貰いたい一篇である。]
« 大和本草卷之十三 魚之上 𫙬𮈔魚 (ギギ類) | トップページ | 宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 電線工夫 »