宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 たび人
た び 人
あめの稻田の中を行くもの
海坊主林(うみぼうずぼやし)のはうへ急ぐもの
雲と山との陰氣のなかへ步くもの
もつと合羽をしつかりしめろ
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年九月七日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「うみぼうずぼやし」の「ぼうず」(正しい歴史的仮名遣は「ばうず」)と「ぼやし」はママ。原稿は「うみぼうずばやし」で「ぼ」は明らかな誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」も修正がない(他に手入れもない)。小さなルビで誤植に気づかなかった例である。「ぼうず」は古典でもあるケースで気にはならない。前の「電線工夫」と同じく、一種、アフォリズム風の小品である。実景であろうが、陰鬱である。この旅人は孤高に人生を歩む賢治自身の投影であり、「もつと合羽をしつかりしめろ」と言う叱咤激励の声は無論、詩人自身へ鏡返しされて反響している。そうして、それは、私には遠く梅崎春生の遺作となってしまった「幻化」のエンディングの、主人公久住五郎が、阿蘇の噴火口を巡り歩く生死の賭けをした丹尾章次に呼びかける「しっかり歩け。元気出して歩け!」の叫び声へと響き合うのである(リンク先は私のブログでの分割電子化注のそれ。その一括版(PDF)はこちらにある)。
「海坊主林(うみぼうずぼやし)」で一語の賢治の造語であろう。稲田の中に残っている、一叢(ひとむら)こんもりと丸い雑木林の形状を妖怪のそれに喩えたものと採る。妖怪としての「海坊主」やそれに類する怪異はさんざん注してきたし、まず、皆さんは御存じであろう。「船幽霊」と同じものと捉えるケースもあるが、本質的には両者はその発生と出現様態に差があり、ここで賢治が名指しているのは、お馴染みの概ね円筒形の頭をしたオバQ見たような巨大な妖怪妖怪したそれである。どうしてもと言われる御仁は私のウィキの「海坊主」からの引用を主とした、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (二)』の注でも参照されたい。まあ、ウィキそのものを見た方がヴィジュアル的にはよかろうかい。]
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