萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 蛙よ
蛙 よ
蛙(かへる)よ、
靑いすすきやよしの生えてる中で、
蛙(かへる)は白くふくらんでゐるやうだ、
雨のいつぱいにふる夕景に、
ぎよ、 ぎよ、 ぎよ、 ぎよ、 と鳴く蛙(かへる)。
まつくらの地面をたたきつける、
今夜は雨や風のはげしい晚だ、
つめたい草の葉つぱの上でも、
ほつと息をすひこむ蛙(かへる)、
ぎよ、 ぎよ、 ぎよ、 ざよ、 と鳴く蛙(かへる)。
蛙(かへる)よ、
わたしの心はお前から遠くはなれて居ない、
わたしは手に燈灯(あかし)をもつて、
くらい庭の面(おもて)を眺めて居た、
雨にしほるる草木の葉を、 つかれた心もちで眺めて居た。
[やぶちゃん注:太字「すすき」と「よし」は底本では傍点「ヽ」。「しほるる」はママ。歴史的仮名遣では「しをるる」が正しい。朔太郎得意のオノマトペイアを使ったもので、ここだけ、特異的に底本の奇妙な特性(詩篇本文内の文末でない読点は、有意に打った字の右手に接近し、その後は前後に比して一字分の空白があるように版組されている。これは朔太郎の確信犯なのだろうが、これを再現しようとすると、ブラウザ上では、ひどく奇異な印象を与え、そこで躓いてしまう(少なくとも私は躓く)ので今までは「猫」以外では無視してきた)を再現してみた。その理由は、読者がそこで立ち止まり、そこに同時に蛙の「ぎよ」と「ぎよ」の鳴き声の絶妙なタイム感覚が生まれるのを、これで示したかったからである。但し、それに合わせて最終行の読点の後も空けた。一篇内では統一しないと、私の下らぬ恣意と不統一を指弾されるかも知れぬからである。しかし、私はもし、この詩を朗読したとしたら、最終行を、「雨にしほるる草木の葉を、」で止めて、有意な間を空けて「つかれた心もちで眺めて居た。」と読むから、これはまた、非常に私には自然で違和感はないのである。
初出は『感情』大正六(一九一七)年一月号。連構成やルビ(総てない)及び読点を含め、詩行順列その他の表現に有意な異同があるので、以下に示す。太字は同前。
*
蛙よ
蛙よ
靑いすすきやよしの生えてる中で
蛙は白くふくらんでゐるやうだ
雨のいつおあいにふる夕景に
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。
つめたい草の葉つぱの上で
ほつと息をすひこむ蛙
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ざよ、と鳴く蛙。
まつくらの地面をたたきつける
今夜は雨や風のはげしい晚だ
蛙よ
わたしの心はお前から遠くはなれて居ない
わたしは手に燈灯をとつて
くらい庭の面を眺めて居た
雨にしほるる草木の葉を、つかれた心もちで眺めて居た。
詩集「月に吠える」より
*
二連構成はママ。或いは、編集上の凡ミスかも知れない。因みに、これは詩集刊行の一ヶ月前のプレ広告となる。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『蛙よ(本篇原稿一種二枚)』として以下の一篇が載る。表記は総てママである。太字は底本では傍点「﹅」。
*
蛙よ
蛙よ、
靑いすすきやよしの生えて居る中で、
蛙は白くふくらんでゐるやうだ、
雨のいつぱいにふる夕景に、
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。
まつくらの地面をたたきつける、
今夜は雨や風のはげしい晚だ、
つめたい靑い草の葉つぱの上で、
ひきがへるがほつと息を吸ひこむやうだ。
雨のいつぱいにふる中で、
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。
蛙よ、
わたしの心はお前から遠くはなれて居ない。
わたしは手に燈灯(ともしび)をもつて、
くらい庭の隅を眺めて居た、
雨にしほるる草木の葉を、隙間からひつそりと眺めて居た。
*
以上の後に編者注があり、『附記として次の文がある』
として、
*
「蛙よ」の詩このやうに推稿す、先のと入れ代えにしてほし。
これは詩集に入れるなれば是非たのむ、
*
と記し、『右の附記によって、本稿は雜誌翌表作の修正稿と認められるが、じっさいには印刷の』(ママ)『まにあわなかった。』とある。ということは、これが――幻しの初出――であった可能性がすこぶる高いことになる。甚だ興味深い。]
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