宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 林と思想
グ ラ ン ド 電 柱
林 と 思 想
そら、ね、ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちいちな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ
[やぶちゃん注:「蕈(きのこ)のかたちのちいちな林があるだらう」の「ちいちな」はママ。原稿もママ。「正誤表」にはない。宮澤家「手入れ本」で「ちいさな」と訂正する。大正一一(一九二二)年六月四日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。本書用原稿最終形では最終行は、
こゝいらはふきの花でいつぱいだな
となっているが、「手入れ本」での修正はないので、最終校正段階で「な」を除去したものと推定される。確かに「な」はない方がよい。
標題と「わたしの」自然=全宇宙存在に対する哲学的な思考が、随分速く流れ行っては、瞬時にその「林」の中で「みんな」「溶け込んで」いると賢治は語りかけてくる。大塚常樹氏の「宮沢賢治 心象の宇宙論(コスモロジー)」(一九九三年朝文社刊)の「宮沢賢治の空間認識」の「第三章 水の宇宙哲学――コロイドとモナド」末尾で、この冒頭から「溶け込んでゐるのだよ」までを引かれ、『こうして賢治の世界認識は《モナド》』(monad:ギリシア語の「モナス」(monas:「単位・一(いつ)なるもの」の意)に由来する概念で「単子」と訳される。古代ではピタゴラス学派やプラトンによって用いられ、近世ではニコラウス・クサヌスやブルーノが、モナドを、「世界を構成する個体的な単純者・世界の多様を映す一者」として捉えた。これらの先駆思想を継承して、ライプニッツは彼の主著「モナドロジー」に於いて、独自の単子論的形而上学思想を説いた。ライプニッツは物理的原子論を批判し、宇宙を構成する最も単純な要素、即ち、自然の真のアトムは、不可分であって空間的拡がりをもたぬ「単純者」であり、いわば「形而上学的点」とも言うべきものであると主張した。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『化されたコロイド粒子によって、宇宙という巨大な水溶液へと拡大し、《溶解》する。それはもはや宇宙という名の、巨大な《母の子宮》以外のなにものでもないのである』と述べておられる。
「ふきの花」キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus。私の好きな「蕗の薹」の成長して開花した花である。私は小さな頃から、「蕗の薹」に母を感じた。それは一緒に裏山にそれを摘みに行ったからばかりではなく、あの包のようなそれに母を感じた。二〇一一年三月にALSで母を亡くしてからも、私は、あの䑓(うてな)の中に赤子に戻った母がいるように感じ続けている。さればこそ、「こゝいらはふきの花でいつぱいだ」という最後の一行に私は強く打たれるし、大塚氏の評言にも激しく共感するのである。大塚氏は実はこの引用の直前で「如来の胎児(タターガタ・ガルバ)」にも言及されているのである。「タターガタ・ガルバ」はサンスクリット語で「如来の胎児」を意味し、これは「如来蔵」の説を意味する。それは、総ての人々には如来となり得る種子があるとする主張で、人々が本来持っているところの「自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)」に悟りの可能性を見出し、これを「如来蔵」又は「仏性(ぶっしょう」と呼び、すべての人々は如来の胎児を内に蔵しているというのである(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]
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