古今百物語評判卷之五 第五 仙術幻術の事
第五 仙術幻術の事
ある人、問(とひ)て云(いふ)、「仙術というものは、天仙・地仙のわかちありて、千萬年の齡(よわひ)をたもちて、空をかけり、地をくゞり、千里を目前にちゞめ、芥子(けし)を須彌(しゆみ)になし、さまざまの奇妙あり。猶、老子を先祖(ぐわんそ[やぶちゃん注:原典のルビ。])となせるとや。さて又、幻術とふものは、魔法とひとつにて、いろいろの不思議をなし、劔(けん)をのみ、火をつかみ、身を自由にかくしなどするよし、承り候が、いかやうの理(ことわ)りぞや。うけ給はり度(たく)侍る」といひければ、先生、こたへていはく、「仙人の沙汰、三代[やぶちゃん注:続く叙述から考えると。中国史で最も古い三つの王朝、夏・殷・周の時代を指すか。その時には仙道は少しも流行ってはいなかった、というのであろう。]の盛(さかん)なるときは、なし。戰國の末に起りて、秦漢にさかむなり[やぶちゃん注:盛んとなったものである。]。老子を元祖と云(いへ)るは、「老子經」[やぶちゃん注:「老子」のこと。]に『谷神不ㇾ死』(谷神(こくしん)死せず)という論あるをとりて、無理につけそへたる説なり。秦の始皇、徐福をして、不死のくすりをもとめしより此かた、世々の帝王、民を勞して、金(こがね)をついやし給へども、終(つゐ)に得給ふ事、あらず。其(その)仙人の大將たる者、多く、刑罰にあひたり。その僞りたる事、論ずるに及ばず。扨(さて)、空をかけり、雲にのぼる事は、程子(ていし)[やぶちゃん注:(二程子。北宋の思想家。程顥(けい)と頤(こう)の兄弟。思想傾向が近いことから、一緒に論じられることが多い。彼らの学は「程学」とも称され、北宋道学の中心に位置し、宋学の集大成者朱子への道を開いた。天地万物と人間を生成調和という原理で一貫されているところに特徴がある。]の説に、人は陸(くが)につきて生るゝ者なれば、決して其理(り)なし。『もし、山中に深くこもり居て、人事をまじへず、欲をたち、松の葉をくらひなどせば、人の壽命より少し長生(ちやうせい)をする事あり』とのたまへる事、「二程全書」[やぶちゃん注:程兄弟の文集・語録・著述などを集大成した思想書。全六十八巻。明の徐必達の校訂になり、一六〇六年に刊行された。宋学の先駆となる著作集である。]に見えたり。かく、さだかならざる事を、愚なる人の信じて、深山幽谷に、猶も藥をもとめなどして餓死におよぶ者あれば、神仙の書に記していはく、『後(のち)に羽化(うげ[やぶちゃん注:原典のルビ。])して、其ゆく處を知らず』など、奧(おくゆ)かしきやうに申(まうし)なせり。又、其(それ)、刑りく[やぶちゃん注:「刑戮」。]にあふて死(しに)たる事を、たゞしき史官の書(ふみ)に記しをきたれば、又、其書には『尸解(しかい)なり』と書きたり。『尸解』とは、此形をもぬけて、たましゐを自由にするをいふことなり。其説の強(し)ゐたる事[やぶちゃん注:この場合は、「誣(し)ひたる事」が表記も意味も正しい。「事実と違うことを言うこと」である。]、知りぬべし。幻術の事は、元、天竺より起りたる事、こゝもと[やぶちゃん注:本邦。]にて云へる「魔法」のごとし。さまざまの術ある事、記したれども、仙術よりは、また、あさまなる[やぶちゃん注:程度が低い。]事にて、一通りの[やぶちゃん注:それなりに有象無象の。]法、有(あり)とみえたり。其(その)劍を吞(のむ)といふも、實(じつ)にのむにはあらず、人の目に、のむがごとく見ゆるなるべし。他(た)の事も、皆、是におなじ。さて、仙道にても幻術にても、さまざま、よく得たる者ありて、人をあざむく時は、必ず、害にあふ。畢竟、實事にあらず、もしくは、習(ならひ)あふせても[やぶちゃん注:完全に習得することが出来ても。]、身をとゝのへ、國を治(をさめ)る便(たよ)りにあらず。聖賢のいはざるところなれば[やぶちゃん注:今まで実在した真の聖賢が誰一人としてそれを述べていないものであるから。]、何の用にか立つべけむ[やぶちゃん注:反語。]。そのうへ、こゝもとにても其術の益なきしるしには、彼(か)の狐をつかふ者、白き狐を殺し、其靈をまつり、其面(おもて)の骨をさき、己(おのれ)がひたひ[やぶちゃん注:「額」。]につけぬれば、よく形をかくす、と云へり。されども、砂をまきをけば[やぶちゃん注:ママ。]、其足跡、つき、日影には、かげ、うつり、さかしき犬あれば、其(その)氣(き)を知る、と云へり。是れ、何ぞとげて益あるべけむや[やぶちゃん注:「とげて」は「遂げて」。反語。最終的に益のある術とは言い得ないものである。]。すべて、正法(しやうばう)に奇特(きどく)なしといふ事、世話(せわ)[やぶちゃん注:世間話。]ながら、よく道理にかなへり」と語られき。
[やぶちゃん注:「『谷神不ㇾ死』(谷神(こくしん)死せず)」「老子」上篇の第六章に出る。
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谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。
(谷神は死せず。是れを玄牝(げんぴん)と謂ふ。玄牝の門(もん)、是れを天地(てんち)の根(こん)と謂ふ。綿綿(めんめん)として存(そん)するがごとく、之れを用ゐて勤(つ)きず。)
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訳すなら、
――流れて已まぬ谷川の神は決して死なない。それは「神秘なる牝」と名ざす。「神秘なる牝」のその「入口」、そこが天と地の動静の根源である。それは細々とした流れであるが、どれだけ汲み出しても、在り続け、決して尽きることはない。――
の意である。
「尸解」元隣の謂いは正しくない。尸解とは尸解仙という仙人となる様態の一つを指す語である。これは、生きているうちに羽化登仙したり、仙化(せんげ)する高級なものではなく、人が、一旦、死んだ後に生返り、他の離れた土地で仙人になることを指すからである。「ブリタニカ国際大百科事典」に(コンマを読点に代えた)、『死体を残して霊魂のみが抜け去るものと、死体が生返って』、『棺より抜け出るものとがある。前者の場合も、死体は腐敗せず、あたかも生きているがごとくであるという』。晋(二六五年~四二〇年)の道教研究家葛洪(二八三年~三四三年)の撰した神仙術のバイブル「抱朴子」(内篇二十篇・外篇五十篇が伝わり、特に内篇は神仙術に関する諸説を集大成したもので、後世の道教に強い影響を及ぼした。私の愛読書の一つである)『では、昇天する天仙や名山に遊ぶ地仙よりも、尸解仙が低い地位におかれている。これは不死であるはずの仙人が死の形をとるからである』とある通りである。]
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