宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 風景觀察官
風 景 觀 察 官
あの林は
あんまり緣靑(ろくせう)を盛り過ぎたのだ
それでも自然ならしかたないが
また多少プウルキインの現象にもよるやうだが
も少しそらから橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふやうにしたら
どうだらう
ああ何といふいい精神だ
株式取引所や議事堂でばかり
フロツクコートは着られるものでない
むしろこんな黃水晶(シトリン)の夕方に
まつ靑さおな稻の槍の間に
ホルスタインの群(ぐん)を指導するとき
よく適合し效果もある
何といふいい精神だらう
たとへそれが羊羹(やうかん)いろでぼろぼろで
あるひはすこし暑くもあらうが
あんなまじめな直立や
風景のなかの敬虔な人間を
わたくしはいままで見たことがない
[やぶちゃん注:・「緣靑(ろくせう)」はママ。原稿は「綠靑(ろくせう)」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」は一本で訂正。
・「それでも自然ならしかたないが」宮澤家「手入れ本」は、
それでも木がさうならしかたないが
とする。
・「も少しそらから橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふやうにしたら」宮澤家「手入れ本」は、
も少し雲から橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふやうにしたら
とする。因みに、本書用原稿では「橙」を「とう」と歴史的仮名遣を誤っているが、完成品は正しいところを見ると、これは珍しく、校正工か植字工の独自の采配かも知れない。
・七行目の一行空けは原稿では、「ええ」と書いたものを削除してあるだけで、行詰めの指示はないから、そのまま組むと、行空けは出来ない。最終校正段階で指示したともとれるが、或いは出来上がった一行空けを見て、賢治はその偶然の行空けが、本詩篇ではかえって後半の別カット(前からのパンでもよい)効果を発揮する思って、これいじらなかった可能性もあるように思われる。
大正一一(一九二二)年六月二十五日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。
「風景觀察官」無論、宮澤賢治の幻想世界での架空の官名。いい響きだ。
「緣靑(ろくせう)」銅や銅合金の表面に生じる錆(空気中の水分と二酸化炭素の作用により生じる塩基性炭酸銅(CuCO3・Cu(OH)2))、或いは、その錆と同成分から出来ている緑色の単斜晶系炭酸塩鉱物である孔雀石(malachite:マラカイト)から得られる明るく鈍い青緑色の顔料。古くから緑色顔料として用いられた。この色(リンク先は色見本サイト)。
「プウルキインの現象」プルキニェ現象(Purkinje Phenomenon)。チェコの生理学者・解剖学者ヤン・エヴァンゲリスタ・プルキニェ(Jan Evangelista
Purkyně 一七八七年~一八六九年)が解明したことから名づけられた、暗い所では赤よりも青に対する色覚が強くなる視感度のずれの現象を指す。ウィキの「プルキニェ現象」によれば、『色は網膜の視細胞で感知しているが、明るい場所では赤が鮮やかに遠くまで見え、青は黒ずんで見える。一方、暗い場所では』、『青が鮮やかに遠くまで見えるのに対して、赤は黒ずんで見える。これは、桿体』(かんたい)『と呼ばれる視細胞の働きによるもので、人の目は暗くなるほど』、『青い色に敏感になる』のである。この表現から、陽がかなり下がった夕刻近くがロケーションであることが判り、「橙黃線(たうわうせん)を送つてもらふ」が最後の射光である夕陽の要望であることで腑に落ちる。
「フロツクコート」男性用礼装として嘗て使われた(十九世紀中頃から二十世紀初頭)、ダブル・ブレストの上着であるフロック・コート(Frock
Coat)は、もとの起源がポーランド軽騎兵の服装であり、乗馬の際、風が入らないように前合わせがダブルで襟が高くなったものとされており、これらの特徴を持った上着は十八世紀には既に軍服として使われていたとウィキの「フロックコート」にあるから、今、この近代的牧場(これは小岩井農場ではないようだが、それでも明治に入って盛んになったハイカラな酪農家の牧場のように思われる(一連の「小岩井農塲」でお世話になったギトン氏もこちらで、『ちょっと気になるのは、当時花巻の近くで、乳牛を何頭も(「ホルスタインの群」と書いてあります)飼う農家があったのだろうかという疑問です。日本では酪農は生乳の供給が中心でしたから、大きな都会の近くでなければ成り立ちませんでした』。『小岩井農場や、北海道の農場のように、チーズやバターを造る加工工場がある場所ならば、生乳以外にも需要があったと思いますが、花巻に乳製品工場があったという話は見たことがありません』。『もっとも、『新校本全集』に載っている当時』(大正一〇(一九二一)年頃)『の「町並図」を見ますと、宮澤賢治の自宅から近い豊沢川畔に、「牛乳(中村)」と書かれた家があります』(第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」)。『これは、『銀河鉄道の夜』でジョバンニが牛乳をもらいに行く“牧場”のような、生乳を売っている酪農家の家ではないでしょうか』と述べておられるのである)。さても、この牧場(まきば)の中景に、それを着ている作業者(指導者)がいるのは少しも場違いでないし、何か突き抜けてモダンで、「いい精神」=いい自然とその一部である人間の、トータルな霊気の充満を感じさせ、思いの外、「よく適合し」、風景上のホルスタインの白黒の肌とフロック・コートの黒と牧場の緑の色の配合の「效果もある」と賢治は感じているのではあるまいか。
「黃水晶(シトリン)の夕方」「黃水晶」は既出既注。「きずいしょう」で「citrine/citrine quartz:シトリン・クォーツ」。黄色みを帯びた水晶のことであるが、ここは落日の夕景の色彩として腑に落ちる。「シトリン」という響きも透明でよい。
「ホルスタイン」ウィキの「ホルスタイン」によれば、『ホルスタイン(Holstein)、またはホルスタイン・フリーシアン(Holstein Friesian
cattle)はウシの品種のひとつで、名前はドイツの』北海に突き出たデンマークのユーラン半島の根の部分で、ドイツの最北端に位置する『シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州』(Land
Schleswig-Holstein)『にちなむ。日本では主に乳牛としてのイメージが強いが、欧州では肉乳両方を目的として肥育されている』。『ライン川下流のデルタ地帯』『に産した在来種を起源として、ゲルマン民族の移動に伴われて西に進み、オランダに定着して乳用種として改良されたものである。よって、起源はドイツであるが、品種としての原産地という意味では、オランダのフリースラント』(Friesland:オランダとドイツの北海沿岸の地方名)『が正しい。ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州も、この品種が牛の主流をなしている。その後、アメリカにもオランダからもたらされた』(一七九五年~一八五二年)。『初めはホルスタインと称したが、その後』、『フリーシアンとも称され、対立したが』、一八八九年から統一してホルスタイン・フリーシアンと称することになった』本邦には、アメリカを経由して明治一八(一八八五)年に移入されて牧牛・搾乳業が盛んとなったことから、『当初はアメリカと同様の呼称を用いていたが、次第に略され、ホルスタインと呼称するようになった。なお、欧州ではむしろフリーシアンの方が共通的な呼称である』とある。因みに、子規の弟子で歌人・小説家として知られる伊藤左千夫(元治元(一八六四)年~大正二(一九一三)年)は子規から「牛乳屋」と綽名されて日記にも登場するが、彼は明治二二(一八八九)年に東京本所茅場町(現在の錦糸町駅前附近)に牛舎を建てて、乳牛を飼育して牛乳の製造販売をしていたことに由来する。また、かの芥川龍之介の実父新原敏三は明治八(一九七五)年に山口県から上京し、渋沢栄一らの経営していた箱根の牧場で働き、その才覚を買われて明治一六(一九八三)年から東京市京橋区入船町の「耕牧舎」の経営を任されていた。芥川龍之介の「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月発表)の「三」の冒頭で龍之介は、『僕は母の發狂した爲に生まれるが早いか養家に來たから、(養家は母かたの伯父の家だつた。)僕の父にも冷淡だつた。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかつた』と起筆しており、それに先立つ大正一四(一九二五)年一月に発表した「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」の「二 牛乳」でも、『信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の祕密だつた。誰にも決して知らせることの出來ぬ彼の一生の祕密だつた』として「牛乳」を媒介物として、しかも乳牛飼育搾乳業を営んでいた実父という存在への、極度に捩じれた意識を一章をかけて語っている(リンク先は孰れも私の古い電子テクスト)。大きな脱線かもしれぬが、記しておくことにした。
「たとへそれが羊羹(やうかん)いろでぼろぼろで」/「あるひはすこし暑くもあらうが」フロック・コートの色が実はもうすっかり焼けて色が煤け(「羊羹」色は、僅かに赤みを帯びた濃い茶色で、昔は黒染や濃紫の衣服が色褪せてきた様を形容する語であった。この色(リンク先は色見本サイト))、綻びだらけでボロボロになっていて、或いは分厚くて今の季節では夕方でも少し暑くもあるのであろうが。]
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