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2018/11/20

譚海 卷之三 土御門家の事

 

土御門家の事

○土御門は陰陽博士(おんみやうはかせ)家也、因て改曆の事を掌る。其家、制作する所の測量の書器等あれども、古代の物にして、西洋の精密なるにしかざるゆゑ、今時(きんじ)は關東に測量所を置(おか)れ、御沙汰あれば空名(くうめい)を持(じ)するのみ也。

 又遠江三河より來る年始萬歳(ねんしまんざい)の免許も土御門より出す。文字は板行(はんぎやう)にて、土御門政所(まんどころ)の印有(あり)、三年に壹度つつ白銀一兩つつを出(いだ)し引替(ひきかへ)に登る、惣萬歳の名代(みやうだい)として一人上京する事也。道中關所川渡(かはわたり)等も此免許をもつて通る事也。

[やぶちゃん注:改行はママ。特異点である

「土御門家」安倍氏嫡流の土御門家のこと。室町時代の陰陽師安倍有世(ありよ嘉暦二(一三二七)年~応永一二(一四〇五)年:平安期のゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)の十四代目の子孫)の末裔。ウィキの「土御門家」によれば、『安倍氏の氏長者を代々勤めた。安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様』、『本姓ではなく』、『家名を称するようになった。一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の南北朝時代の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている』。『応仁の乱を避けて、数代にわたり』、『若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名武田氏の守護国であり』、『庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた』とある。

「陰陽博士家」ウィキの「陰陽博士を引く。『律令制で陰陽寮に設置された教官の』一『つ。陰陽師を教育することを掌った。定員』一『名(ただし実数には異説あり)。正七位下相当』。「日本書紀」の持統天皇六(六九二)年の『条が初出。ただし、定員については』「続日本紀」の養老五(七二一)年に、大津首(おおつのおびと 生没年不詳)と津守通((つもり のとおる 生没年不詳)の『両名が陰陽博士として登場しており、実際には定員が複数だったとする見方もある。陰陽生』十『名を教育するのが役目であったが』天平二(七三〇)年に、『陰陽寮強化の一環として』、内三名を『陰陽得業生として給費し、更にそこから後任の陰陽師・陰陽博士が選ばれた。後には博士に対して職田』四『町が与えられた』。『奈良時代から平安時代初期にかけては、大津氏・弓削氏・滋岳』(しげおか)『氏などが、平安中期には惟宗』(これむね)『氏・安倍氏・賀茂氏などが世業としていたが、平安後期以後は安倍氏と賀茂氏による世襲となった』とある。

「改曆の事を掌る」陰陽博士やその直属の陰陽師はそうした教育職と並行して、中務省陰陽寮の機関官員としえ、占術もさることながら、天文・時・暦の編纂を主に担当する部署としての役割が目立ったものとなっていった。ウィキの「陰陽寮によれば、『四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している』。『博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦』三『博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ』。『因みに天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏や天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている』。『飛鳥時代(』七『世紀後半)に天武天皇により設置され、明治』二(一八六九)年に『時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として』、『翌年』、『廃止された』とある。天文観測や時間管理の関係上、計測のための「測量」機器類が必需品であったのである。

「今時」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村淙庵の見聞奇譚をとり纏めたもの。

「測量所」江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関で、主に編暦を司った「天文方(てんもんかた)」のこと。ウィキの「天文方によれば、渋川春海が幕府最初の公定暦としての「貞享暦」を作製し(この瞬間に土御門家の役割は終わった)、その功績を認められて『天文方に任じられた翌』年の貞享二(一六八五)年に牛込藁町の地に司天台を設置した』が、元禄二(一六八九)年には本所、同一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転』した。『春海の没後』、延享三(一七四六)年に『神田佐久間町』へ、明和二(一七六五)年には『牛込袋町に移り』、天明二(一七八二)年になって、『浅草の浅草天文台(頒暦所』(はんれきしょ)『とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用され』ており、『高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に『渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。明治二(一八六九)年に『天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止され』た。従って、ここで言う「測量所」は「浅草天文台」ということになる。

「空名を持する」公的に暦を出すに当たって、朝廷の陰陽博士として、ただ名前だけを記した(貸した)のである。

「年始萬歳」三河萬歳(みかわまんざい)のこと。愛知県の西三河地方を根拠地として(正統な狭義の文化芸能としてのそれは愛知県西尾市上町(かみまち)の「森下万歳」(西野町万歳と、同県安城(あんじょう)市別所町の「別所万歳」の二つである。ここは予祝行事を生業とした広義の大道芸のそれであるが、そこに本文に出る「惣萬歳」はいて、そうした連中たちの元締めをしていたものであろう)、正月初頭に、主に関東・関西地方を門付けして回る祝福芸。太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が一組となり、才蔵の打つ鼓の拍子に乗って祝言を述べ、滑稽な言葉のやり取りをし、舞を舞って祝儀を貰うもの。江戸時代には幕府の保護を受けて盛んに行われた。才蔵は、江戸の四日市に房総から集まる志望者より選び、一春の契約をした(主に三省堂「大辞林」に拠った)。

「板行」印刷物。

「つつ」「づつ」。後も同じ。

「白銀」銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形して紙に包んだもので、贈答用に用いた。通用銀の三分(枚)に相当する。少し後になるが、秤量貨幣の通用銀であった天保丁銀は十六匁で、これは一両の約四分の一であるから、三分だと、〇・七五両相当だから、もう一枚分の銀を足さないといけない。]

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