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2018/11/27

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 マサニエロ

 

        マ サ ニ エ ロ

 

城のすすきの波の上には

伊太利亞製の空間がある

そこで烏の群が踊る

白雲母(しろうんも)のくもの幾きれ

   (濠と橄欖天蠶絨(かんらんびらうど)、杉)

ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの

七つの銀のすすきの穗

 (お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれてゐる、桐が)

赤い蓼(たで)の花もうごく

すゞめ すゞめ

ゆつくり杉に飛んで稻にはいる

そこはどての陰で氣流もないので

そんなにゆつくり飛べるのだ

  (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)

ひとの名前をなんべんも

風のなかで操り返してさしつかえないか

  (もうみんなが鍬や繩をもち

   崖をおりてきていゝころだ)

いまは烏のないしづかなそらに

またからすが橫からはいる

屋根は矩形で傾斜白くひかり

こどもがふたりかけて行く

羽織をかざしてかける日本の子供ら

こんどは茶いろの雀どもの抛物線

金屬製の桑のこつちを

もひとりこどもがゆつくり行く

蘆の穗は赤い赤い

  (ロシヤだよ、チエホフだよ)

はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ

  (ロシヤだよ ロシヤだよ)

烏がもいちど飛びあがる

希硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ

お城の上のそらはこんどは支那のそら

烏三疋杉をすべり

四疋になつて旋轉する

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年十月十日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。宮沢家版「手入れ本」の最終形はサイト「宮澤賢治の詩の世界」のを見られたい。

・「風のなかで操り返してさしつかえないか」「操り返して」の「操」はママ。原稿もママである。「繰り替して」の賢治の誤記。「手入れ本」でも修正していないので、賢治は「繰り返す」は「操り返す」と書くと思い込んでいた可能性が高い。こうした強い思い込みはによる長期に亙る誤用例は萩原朔太郎等にも生涯的に認められる。かく言う私は「たたり」=「祟」の字を二十九になるまで「崇」と同字であると思っていた。高校国語教師になっても、なんと七年間、そう思い続けていたのであった。

 本篇は、「城」、旧稗貫農学校裏に相当した花巻城址(後注する)の秋の実景から、「マサニエロ」(後注する)に導かれて、「伊太利亞製」の映画のような地中海イタリアはナポリの「橄欖」(オリーヴ)の香気が漂って来、城の堀端の「蘆の穗」の「赤い」色からは「ロシヤ」革命の旗から、その広大な大地の荒らしい草原へと飛翔、最後には蒼穹は「支那」の気圏へとメタモルフォーゼする。賢治の天馬空を翔るが如き詩想の変幻自在の空間的感覚変容の妙味が、たった三十五行の詩の中に複雑に圧縮されていると言える。

 

「マサニエロ」Masaniello(一六二〇年(アマルフィ生まれ)~一六四七年(ナポリにて没))はナポリの漁夫で本名は Tommaso Aniello d'Amalfi(トンマーゾ・アニエッロ・ダマルフィ)。 一六四七年、スペイン支配下のナポリで、果物税を課して属領からの収奪を強化しようとしたスペインに対し、ナポリ市民の不満が爆発、同年七月、マザニエッロの指導下で下層民による反乱が発生し、これが広範囲な市民反乱へと拡大した。彼らは王宮に侵入し、役所や牢獄を破壊、マザニエッロは「ナポリ人民の総司令官」に選出されたが、わずか五日後に仲間の一団によって暗殺された(その後、反乱は、市民だけでなく農民をも巻き込み、反スペイン暴動に発展したが、一年後にスペイン軍に鎮圧されている)。また、マザニエッロは最後は精神障害を起こしていたとも言われる。賢治が彼の名を出したのは、特に彼の革命家としてのそれに惹かれたものではなく、恐らくは彼を素材とした、フランスの作曲家ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール(Daniel-François-Esprit Auber  一七八二年~一八七一年)、が一八二七年に作曲した架空のオペラ「ポルティチの唖娘(おしむすめ)」(La Muette de Portici:一八二八年二月・パリ・オペラ座初演・全五幕)からの、賢治の好きなイタリア風人名の響きの良さからの借用に過ぎないと私は思う。反乱を背景としつつ、架空のマザニエッロの唖の妹フェネッラ(Fenella)を登場させ、彼女の死で終わる悲劇である。そのストーリーを如何にしても解釈の力動の一つにしないと気が済まない方は、ウィキの「ポルティチの唖娘」を読まれるがよかろうが、しかし数奇の妹とは、どう考えても、私にはトシにオーバー・ラップしてならない

「城」旧稗貫農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校はその後身に当たるが、位置は異なる。同校は現在の総合花巻病院附近であったらしい(グーグル・マップ・データのこちらで確認されたい))裏にある花巻城址(盛岡藩花巻郡代の居城。古くは鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)と称し、「前九年の役」の安倍頼時の城柵と伝えられる。ウィキの「花巻城」によれば、『稗貫氏は室町時代には十八ヶ城(稗貫郡宮野目村)を本城としていたが、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。周辺には八重畑館や大瀬川館など同じ稗貫一族の城郭が複数あった』。しかし、天正一八(一五九〇)年の豊臣秀吉による奥州仕置により、『稗貫氏は没落し、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政が入部、長政帰洛ののちは同族浅野重吉が目代として駐留した。しかし同年の冬、旧領を奪還しようとする和賀氏と稗貫氏が一揆を起こした(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め』、『稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正』十九『年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。同年中に稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、名称も花巻城と改められた』とある)

「白雲母」muscovite(既出既注)。雲母の一種で、ガラス光沢又は真珠光沢があり、無色又は白色透明。六角板状の結晶で、薄く剝がれる。白雲母は当時のストーブの耐熱の覗き窓に使われていた。

「濠」「ほり」。花巻城址の南方に濠跡らしき池が認められる。

「橄欖天蠶絨(かんらんびらうど)、杉」オリーヴ色をした天蚕糸で織った厚手の織物であるが、ここは杉の木を形容したものであろうが、「橄欖」をわざわざ出したのはイタリアと親和性からであろう。

「ぐみの木」茱萸の木。バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のグミであるが、私は即座に秋に実が赤く熟すアキグミ Elaeagnus umbellata を想起してしまう。赤いそれは点描されないもの季節的には、それをここに思い描いても、問題はないし、「赤い蓼(たで)」も直後に示されるので私は部分着色した画面を見る。「そんなにひかつてゆするもの」と言っているのもその実に相応しい。

「桐畑」「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。箪笥材として古くから栽培され、特に東北地方は産地として知られる。本邦産に樹木の中で最も大きな葉をつける種であり、「ゆする」というのはそれが風に靡くさまにマッチし、前の茱萸の木の「ゆする」さま、風に靡く「すすきの穂」「波」の映像とともに、描写はクロース・アップを多用した、すこぶるシネマティクなものである。

「赤い蓼(たで)の花」ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta であろう。

「なんだか風と悲しさのために胸がつまる」「悲しさ」に読む者も自然、「胸がつまる」一行である。私は愛する友人で決別してしまった保阪嘉内や、日増しに病態の悪化する最愛の妹トシへの思いはこれに共振して仕方がないのだ。さればこそ「ひとの名前をなんべんも」/「風のなかで操り返してさしつかえないか」は標題のお洒落な感じのイタリア人名「マサニエロ」のそれを呟くことを意味するのであろうが、それは賢治にとっては、「銀河鉄道の夜」の「カンパネルラ」と同じく、嘉内やトシの面影に連動する響きを持っていたものとして転用造語して命名されたものなのではあるまいか。なお、ギトン氏ついで、トシ説は否定され、賢治が秘かに愛していた『宮澤家のすぐ近所の蕎麦屋の娘』『大畠ヤス子という女性だという』説(澤口たまみ「宮沢賢治 愛のうた」二〇一〇年盛岡出版コミュニティー刊に拠るとある)を出されつつ、最終的に保阪嘉内であるとされる。面白いのは、最後でギトン氏が、「繰り返して」の誤字の「操」を指して、『「操」とは、“ただ一度の恋”に対する「みさお」で』あるとされているところである。フロイトの「言い間違い」理論に重ねるなら、ちょっと興味深くはある。因みに、ギトン氏はこの「マサニエロ」の名も「まさにエロ」と読め、『賢治が「エロ」という言葉を“エロティック、性愛”の意味で使っていたことは』、森荘已池氏の「宮沢賢治の肖像」(一九七四年津軽書房刊)に、昭和六(一九三一)年の賢治の発言に、「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」とある』ことを例証として示しておられる。これも面白い立派な解釈の一つであると私は思う。

「もうみんなが鍬や繩をもち」/「崖をおりてきていゝころだ」幻想の中にあっても、収穫という農事のクライマックスの、現実の農民の活動を想起することを忘れない。彼はそれを自然の摂理の一つとして認識している(自然科学のマクロで捉えれば、農地は反自然であるが、彼は農科学者であり、そうした今風の中途半端な自称エコロジストのエコロジーは寧ろ噴飯物であろう)。

「いまは烏のないしづかなそらに」/「またからすが橫からはいる」パンして烏がインする。オフで烏の鳴き声を出すのもよい。続く「屋根は矩形で傾斜白くひかり」/「こどもがふたりかけて行く」/「羽織をかざしてかける日本の子供ら」/「こんどは茶いろの雀どもの抛物線」/「金屬製の桑のこつちを」/「もひとりこどもがゆつくり行く」のカット・バックの効果的な多用とともに、優れた映像詩となっている。

「金屬製の桑」バラ目クワ科クワ属 Morus のクワ類は、秋になると枝が灰色或いは褐色になる。

「蘆の穗は赤い赤い」賢治は山巡査」で「蘆(よし)」とルビしているから、ここもそう読んでおく。そこで注した通り、「葦(あし)」「葭(よし)」「アシ」「ヨシ」と書き換えても孰れも総て同一の、湿地帯に植生する単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。秋に咲く花は暗紫色を呈し、長さ二十~五十センチメートルの密集した円錐花序である。

「ロシヤだよ、チエホフだよ」「赤い」から「ロシヤ」(賢治と当時のロシアについては山巡査」の私の注を参照されたい)へ、それが「チエホフ」を引き出し、ロシアの広い原野が夢想される。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов:ラテン文字転写:Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)には短編小説「曠野」(Степь 一八八八年発表)があり、ギトン氏はで、本篇のここは同作の印象に引かれて登場させたものと分析しておられ、「曠野」に見られるように、『チェーホフの描くロシアの大地は、人間に‘飼いならされ’ていない原初の自然の息吹に満ちて』おり、『そこに描かれた人間たちは、剥き出しの現実そのものであり、農民的な素朴な心性の奥に、おどろおどろしいものを見え隠れさせてい』て、『人間の恐るべき“なまの”姿が映し出されて』おり、賢治のここでの『詩句は、けっして情緒豊かなメルヘンだけを指してはいない』とされる。その読みの深さには何時もながら、感服する。

「はこやなぎ」本邦産種ならば、日本固有種のキントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパヤマナラシ変種ヤマナラシ Populus tremula var. sieboldii の別名である。箱の材料にしたことから「箱柳」と呼び、「白楊」とも書く。学名で判る通り、所謂、広義のポプラである。

「希硫酸の中の亞鉛屑は烏のむれ」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の解説(分割版の最後)には、『固体の化学物質と液体の化学物質を反応させて気体を発生させるときに用いる“キップの装置”に、亜鉛の縮れた屑を入れて希硫酸を滴下させると、化学反応によって水素が発生』するが、『「稀硫酸の中の亜鉛屑は烏のむれ」というのは、その反応によって黒くなった亜鉛が細々になって移動し、あたかも「烏のむれ」が飛んでいるようにみえるという喩えなので』あろうとされる。「キップの装置」とは、オランダの化学者ペトルス・キップ(Petrus Jacobus Kipp)によって発明された、雪達磨のように縦に三つに並んだガラス製の容器から成る実験器具である。ウィキの「キップの装置を見られたい。]

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