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2018/11/13

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート一

 

  小 岩 井 農 塲

 

[やぶちゃん注:以下、上記大パート標題のもとに、同題の「小岩井農塲」が載る。本全詩篇は詩篇本文全五百九十一行から成る長篇詩で、「パート○」(丸は漢数字)と呼ばれるゴシックの分割小見出しで一応、分かれている。但し、何故か「(パート五)」と「(パート六)」が一緒に縦一行に標題だけあって本文がなく、また、何故か「パート八」相当が存在せず、「パート七」の次に「パート九」が配されている変則的なものである。なお、本全詩篇は一九二二年五月二十一日の作とする。

 非常に長いので、注が附け難いため、パート毎に分割して示す。なお、賢治自身がパート分割をしているからには、こうした電子化表記が原詩篇を著しく損なう仕儀だとは私は考えていない。パート間にブレイク(休息)があってよいと私は思っている。全一括版は加工底本の渡辺宏氏の「森羅情報サービス」内の「宮沢賢治作品館」の「心象スケッチ 春と修羅」の「小岩井農場」、或いは、「宮澤賢治の詩の世界」のこちらで読める(但し、前者は漢字の一部が正字、後者は新字である)。なお、後者「宮澤賢治の詩の世界」では、先行する「草稿」(筑摩版全集の言う「下書稿」)の最終形態が複数のページに亙って美事に復元されてあるので(上記の本詩篇の最下部の左手にリンクがある)、そちらも参照されたい。これはなかなかに大変な作業で、感服した。因みに、その反対の右下には宮澤家「手入れ本」の全最終形も示されてある。私はここでは、その「手入れ」の内、有意に大きく変異していて気になる箇所のみを注(語注部分)で指示するに留める。

「小岩井農塲」ウィキの「小岩井農場によれば、明治二三(一八九〇)年十一月に『日本鉄道が東北本線を盛岡駅まで延伸開業した翌年の』明治二十四年、『日本鉄道会社副社長の小野義眞(おのぎしん)、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の三名が共同創始者となり』、三『名の姓の頭文字を採り「小岩井」農場と名付けられた』。『当時のこの地域一帯は、岩手山からの火山灰が堆積し冷たい吹き降ろしの西風が吹く不毛の原野で、極度に痩せた酸性土壌であったという。そのために、土壌改良や防風・防雪林の植林などの基盤整備に数十年を要した』。明治三二(一八九九)年に『三菱のオーナー一族・岩崎家の所有となる。戦前は育馬事業も行われており』、『三冠馬・セントライトなど数々の名競走馬を輩出した』。現在の『小岩井農場には、明治時代から昭和初期にかけて建設された牧畜関連の建築物がまとまって残っている。牛舎やサイロのほかに、事務所、倉庫、宿泊や職員の集会用の施設である「倶楽部」、煉瓦の躯体に土をかぶせた天然の冷蔵庫など、農場に関わる各種の建物が残っている。牛舎には大空間を確保するためにトラス架構が取り入れるなど、建築史のうえでも注目され、これらの建築群は日本の近代建築史、近代農業史を知るうえで価値が高い。これらの建物を使用しつつ保存するということが所有者である小岩井農牧の方針であり、文化庁もこうした所有者側の意向に理解を示している。牛舎では現在も牛が飼われており、現役の農場施設として使用しつつ保存するということで、文化財保存の新たな方向性を示すものでもある』とあり、『宮沢賢治は農場とその周辺の景観を愛好し、しばしば散策した。中でも』大正一一(一九二二)年五月の『散策は』、本詩篇の『もとになった。この詩の中には当時の農場の様子(飼育されていたハクニー馬や倉庫など)も描写されている』とある。]

 

 

 

          

 


         
パート 一

 

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた

そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ

けれどももつとはやいひとはある

化學の並川さんによく肖(に)たひとだ

あのオリーブのせびろなどは

そつくりをとなしい農學士だ

さつき盛岡のていしやばでも

たしかにわたくしはさうおもつてゐた

このひとが砂糖水のなかの

つめたくあかるい待合室から

ひとあしでるとき……わたくしもでる

馬車がいちだいたつてゐる

馭者(ぎよしや)がひとことなにかいふ

黑塗りのすてきな馬車だ

光澤消(つやけ)しだ

馬も上等のハツクニー

このひとはかすかにうなづき

それからじぶんといふ小さな荷物を

載つけるといふ氣輕(きがる)なふうで

馬車にのぼつてこしかける

 (わづかの光の交錯(かうさく)だ)

その陽(ひ)のあたつたせなかが

すこし屈んでしんとしてゐる

わたくしはあるいて馬と並ぶ

これはあるひは客馬車だ

どうも農塲のらしくない

わたくしにも乘れといへばいい

馭者がよこから呼べばいい

乘らなくたつていゝのだが

これから五里もあるくのだし

くらかけ山の下あたりで

ゆつくり時間もほしいのだ

あすこなら空氣もひどく明瞭で

樹でも艸でもみんな幻燈だ

もちろんおきなぐさも咲いてゐるし

野はらは黑ぶだう酒(しゆ)のコツプもならべて

わたくしを欵待するだらう

そこでゆつくりとどまるために

本部まででも乘つた方がいい

今日ならわたくしだつて

馬車に乘れないわけではない

 (あいまいな思惟の螢光(けいくわう)

  きつといつでもかうなのだ)

もう馬車がうごいてゐる

 (これがじつにいゝことだ

  どうしやうか考へてゐるひまに

  それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)

ひらつとわたくしを通り越す

みちはまつ黑の腐植土で

雨(あま)あがりだし彈力もある

馬はピンと耳を立て

その端(はじ)は向ふの靑い光に尖り

いかにもきさくに馳けて行く

うしろからはもうたれも來ないのか

つつましく肩をすぼめた停車塲(ば)と

新聞地風の飮食店(いんしよくてん)

ガラス障子はありふれてでこぼこ

わらじや sun-maid のから凾や

夏みかんのあかるいにほひ

汽車からおりたひとたちは

さつきたくさんあつたのだが

みんな丘かげの茶褐部落や

繋(つなぎ)あたりへ往くらしい

西にまがつて見えなくなつた

いまわたくしは步測のときのやう

しんかい地ふうのたてものは

みんなうしろに片附(づ)けた

そしてこここそ畑になつてゐる

黑馬が二ひき汗でぬれ

犁(プラウ)をひいて住つたりきたりする

ひわいろのやはらかな山のこつちがはだ

山ではふしぎに風がふいてゐる

嫩葉(わかば)がさまざまにひるがへる

ずうつと遠くのくらいところでは

鶯もごろごろ啼いてゐる

その透明な群靑のうぐひすが

 (ほんたうの鶯の方はドイツ讀本の

  ハンスがうぐひすでないよと云つた)

馬車はずんすん遠くなる

大きくゆれるしはねあがる

紳士もかろくはねあがる

このひとはもうよほど世間をわたり

いまは靑ぐろいふちのやうなとこへ

すましてこしかけてゐるひとなのだ

そしてずんずん遠くなる

はたけの馬は二ひき

ひとはふたりで赤い

雲に濾(こ)された日光のために

いよいよあかく灼(や)けてゐる

冬にきたときとはまるでべつだ

みんなすつかり變つてゐる

變つたとはいへそれは雪が往き

雲が展(ひら)けてつちが呼吸し

幹や芽のなかに燐光や樹液(じゆえき)がながれ

あをじろい春になつただけだ

それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね

すみやかなすみやかな萬法流轉(ばんぽうるてん)のなかに

小岩井のきれいな野はらや牧塲の標本が

いかにも確かに繼起(けいき)するといふことが

どんなに新鮮な奇蹟だらう

ほんたうにこのみちをこの前行くときは

空氣がひどく𥺝密で

つめたくそしてあかる過ぎた

今日は七つ森はいちめんの枯草(かれくさ)

松木がおかしな綠褐に

丘のうしろとふもとに生えて

大へん陰欝にふるびて見える

 

[やぶちゃん注:・「ひとあしでるとき……わたくしもでる」底本は八点リーダであるが、字が有意に下がってしまうので、六点で表記した(以下も同じ個所は同じであるから、特にこの注記はしない)

・「これはあるひは客馬車だ」底本では半角下がって組まれているが、これは組版の誤りと断じ、前後からもそうする意味はなく、現存の底本原稿もそのようになっていない。迂闊に読めば見落とすレベルであるから、ここは特異的に詰めた。

・「わたくしを欵待するだらう」「欵待」は原稿では「歡待」であるが、これでも意味は同じいので問題はない。底本校訂本文も「欵待」を採用している。

・「新聞地風の飮食店(いんしよくてん)」「新聞地風」はママ。原稿は「新開地風」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」は修正している。

・「わらじ」「草鞋」であろうが、であれば「わらぢ」が正しいが、原稿も「わらじ」。全集校訂本文もママである。

・「犁(プラウ)をひいて住つたりきたりする」「住つたり」はママ。原稿は「往つたり」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」は本行の書き換えをしながら、「住」を修正していない。気づかなかったようである。

・「馬車はずんすん遠くなる」「ずんすん」はママ。原稿は「ずんずん」で誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」も修正なし。気づかなかったようである。

・「すみやかなすみやかな萬法流轉(ばんぽうるてん)のなかに」のルビ「ばんぽうるてん」の「ぽ」はママ。原稿は正しく「ばんぱうるてん」であるから、誤植。「正誤表」にはない。しかし「手入れ本」には修正がない。但し、古典作品でも「法」を「ぽう」とするケースは頗る多く、気にはならない。

・「空氣がひどく𥺝密で」𥺝密」は原稿もママ。「稠密」(「ちうみつ(ちゅうみつ)」と読み、「一つ所に多く集まっていること・混み合っていること」の意)の完全な誤字であるが(「𥺝」は「康熙字典」に「𥹜𥺝」で「米粉餠」とある)、「手入れ本」にも修正したものはない。筑摩版全集校訂本文は、流石に完全な誤字として特異的に「稠密」としている。

 

「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」これは六行後で「さつき盛岡のていしやばでも」とあることから、盛岡駅でないことが判る。これは大正一〇(一九二一)年六月二十五日の盛岡・雫石間の橋場線開通とともに開業した「小岩井駅」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「化學の並川さん」宮沢家「手入れ本」では「化学の古川さん」に訂されてあるが、Michia氏のブログ「宮澤賢治、風の世界」の「宮沢賢治の直喩Ⅰ 『春と修羅』、「小岩井農場」を中心に―人間への思い―」によれば、『〈古川さん〉は盛岡高等農林学校教授古川仲右衛門』(明治一一(一八七八)年~昭和三六(一九六一)年)『と推定される。出版時には、現存人物の名前を避けていた結果と思われる』とする。原稿でも「並川」であるから、この推察は正しいかも知れない。同ブログでは続けて、『古川は』大正三(一九一四)年から大正一〇(一九二一)年まで『在職し、担当科目は、土壌、肥料、化学、分析化学、同実験、食品化学、農学大意だった』。大正四年から同七年に『在校した賢治は、指導を受け、得業論文の終りに古川の名前をあげて』『〈終リニ臨ミテ本論ヲ草スルニ際シ、終始指導ノ労ヲ執ラレタル古川教授、並ビニ多クノ注意ヲ賜ハリタル関教授ニ深謝ス。〉』と謝辞を表しており、『この詩のほかに、歌稿A546に〈ゆがみたる青ぞらの辺に仕事着の古川さんはたばこふかせり〉(歌稿B〈ゆがみたる蒸溜瓶の青ぞらに黒田博士はたばこふかせり〉)がある』とされ、『古川は』大正十年に『同校を退職して大垣に帰り、サツマイモからのアルコールの抽出などの実験、トマトの栽培の普及、電線の敷設や、医師の招聘、土壌調査、天然ガスの採掘など、農村振興に寄与した』。『在任中からの姿勢も同様であれば、賢治のその後の農業への姿勢は、古川の教育の影響とも言える』と記しておられるから、賢治にとって忘れ難い恩師であったことが窺える。なお、この「化學の並川さんによく肖(に)た」「オリーブのせびろ」を着こなした、「そつくりをとなしい農學士」の男というのは、どうにも私にはルネ・マグリットの絵の登場人物のような感じがしてならない。そこから既に私は賢治の超現実的マジックにかけられてしまっているの知れない。

「砂糖水のなかの」/「つめたくあかるい待合室」コロイド粒子の「ゾル」の空気感の表現である。

「ハツクニー」ハクニー種(Hackney)。イギリスのノーフォーク県を中心とする地方原産の馬。速歩をよくする。ノーフォークトロッター(Norfolk Trotter)にサラブレッドをかけ合せた、本来は乗用馬として改良されたものであったが、後、軽輓馬(けいばんば:軽い車や橇などをひかせる馬)として速歩能力のある馬となったもので、特に前後肢の関節を深く折り曲げ、前膝を伸展させながら歩く高揚歩様を行うことで知られる。性質は温順で、毛色は栗毛が多く、軽四輪馬車の輓馬やショー・ホースなどとして使用されるところから全部、断尾されていることが多い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「わづかの光の交錯(かうさく)だ」映画の監督或いは撮影者の意図的にハレーションを「これから五里もあるくのだし」「五里」は二十キロメートル弱。現在の小岩井駅から現在の小岩井農場の現在の管理センターまでを実測してみても、六キロメートル弱であるが、小岩井農場自体が広汎であり、次に見る通り、彼はここまでの倍以上は有にある鞍掛山山麓まで足を延ばす予定であるのだから、おかしくない。

「くらかけ山」既出既注であるが、再掲する。岩手県滝沢市にある鞍掛山。標高八百九十七メートル。岩手山の南東の裾野の低いピークで、小岩井農場の北方(直線)八キロ弱に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「おきなぐさ」既出既注

「黑ぶだう酒(しゆ)」赤ワインのこと。現在でも、赤ワインに使用されるブドウ品種は「黒ブドウ」と総称する。黒味がかった紫の果皮を持つ。なお、宮澤家「手入れ本」では、この「野はらは黑ぶだう酒(しゆ)のコツプもならべて」/「わたくしを欵待するだらう」の二行に「☓」印を附して削除している。

「本部」当時の小岩井農場内の本部と呼ばれた地区。小岩井農場本部事務所があった。suzukikeimori氏のブログ「宮澤賢治の里より」の「155 小岩井農場(その1)」で、まさにこの詩篇の通りに、小岩井駅から農場本部までの道を辿った記録が写真とともに読め、陸地測量部大正元年測図の地図も添えられている(なお、この地図から実測すると、当時の小岩井駅からこの本部まではせいぜいニキロメートル強であり、この距離の短さが、ここでの「本部まででも乘つた方がいい」という言い回しのニュアンスを腑に落ちさせる。なお、地図見ると、南東方向から北西に向けてのルートに「馬車鉄道」とあるが、賢治のそれは鉄道」ではないから、これとは関係がないものと判断する)。必見!

「あいまいな思惟の螢光(けいくわう)」/「きつといつでもかうなのだ)」馬車に乗って行きたい気が詩人の中で強く蠢いている。その紳士や御者が同乗を誘ってくれないかなどとも心内では密かに思ってもいる。しかし、賢治の持つ、ある種の、他者との接触や関係性を持つに際しての強く躊躇する感覚、不快な対人関係性を強く忌避する感覚が、同時に同じレベルで起こってきているようである。それが「もう馬車がうごいてゐる」という事実を前に、逆に「どうしやうか考へてゐるひまに」/「それが過ぎて」しまって、それまでの自分のこんがらかった意識が無化されてしまい、結局、「滅(な)くなるといふこと」を「これがじつにいゝことだ」とフィード・バックするのである。これは、この私(藪野)にはすこぶる腑に落ちることである。私も賢治と同じ感じを、日々、あらゆる場面で感ずる神経を持ってしまった人種だからである。なお、宮澤家「手入れ本」では、この二行を削除し、代りに丸括弧なしの「ところがどうだ」にしてあり、「(これがじつにいゝことだ」/「どうしやうか考へてゐるひまに」/「それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)」も一緒に「☓」印で削除している。こうした自身のアンビバレントな捩じれた感覚を賢治は最終的に抑制すべきと判断したようである。それは次の異様な削除と無縁ではあるまい。

「うしろからはもうたれも來ないのか」宮澤家「手入れ本」はこの行を縦線で削除し、そればかりか、次行の「つつましく肩をすぼめた停車塲(ば)と」から九行目の「西にまがつて見えなくなつた」までの全十行に「☓」印を附し、上部の余白に『一行空け』と指示している。強い異様な賢治の内的検閲が感じられる。

「つつましく肩をすぼめた停車塲(ば)」小岩井駅のこと。「フォト蔵」の「あそびんにん」さんの撮られた現在の小岩井駅の写真をリンクさせておく。

sun-maid のから凾」「Sun-Maid」は現在も続く、一九一二年創業のアメリカ合衆国のドライ・フルーツ会社。公式サイト(日本語)の沿革をリンクさせておく。特に主力商品であるカリフォルニア・レーズンの乾葡萄で世界的に知られ、ここもそのトレード・マークの赤い帽子を被った摘んだ葡萄を入れた籠を抱えた少女を描いた罐(空「凾」(かん))であろう(前の「ガラス障子」に繋がるなら店の飾り窓に置かれたものか、しかし敢えて「空の罐」と言っているところや草鞋と併置されていて詩人はずんずん歩いているのであれば、誰かが食べ終えて打ち捨て、汚れて錆びたもののように私は見る)。グーグル画像検索「Sun-Maidでその意匠が見られる。

「丘かげの茶褐部落」「繋(つなぎ)」「宮澤賢治の詩の世界」の『「小岩井農場」詩碑』に、『「丘かげの茶褐部落」というのは、これだけではどこのことかわかりません。しかし「盛岡手づくり村・四季だより」というページの記載によれば、これは現在は御所ダムの造成によって御所湖の湖底に沈んでしまった』、二十『数戸の「尾入野部落」あたりを指すのだそうです。昔そのあたりには、長くて高い「茶褐色」の岩肌が露出した崖があったことと関係しているようです』。『 駅から出てきた人々の行き先としてもう一つ挙げられている「繋」の部落ともども、どちらも小岩井の駅からは線路をはさんで反対側の、南の方角にあたります』とある。

「步測のときのやう」遺跡や地質調査の際の歩測による距離実測をするかのように、謂いであろう。

「犁(プラウ)」plow。英語。耕作用の犁(すき)。『しばしば農業の象徴とされる』と英和辞典にある。

「ひわいろ」「鶸色」。鶸(スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する種群の総称であるが、「ヒワ」という種は存在しない)の羽の色に因んだ、黄味の強い明るい萌黄色。これ(サイト「伝統色のいろは」の鶸色のページ)。

「嫩葉(わかば)」「若葉」に同じい。

「鶯もごろごろ啼いてゐる」これはウグイスの囀りのオノマトペイアではあるまい。あちこちの茂みの中に「ごろごろ」いて、盛んに囀ているのであろう。

「(ほんたうの鶯の方はドイツ讀本の」/「ハンスがうぐひすでないよと云つた)」「ドイツ讀本」はドイツ語学習の初級読本のことであろう。幾つかの解釈があるようだが、私は「ハンス」をデンマークの詩人で童話作家のハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年)とし(そのドイツ語訳が先の本に載っていてなんら不思議でない)、彼の、中国を舞台に小夜啼鳥(さよなきどり:スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos:「西洋の鶯(うぐいす)」とも称せられるほど鳴き声が美しいとされ、「ナイチンゲール」の名でも知られる。別名を「ヨナキウグイス」(夜鳴鶯)或いは「墓場鳥」とも)の鳴き声を巡る童話「小夜啼鳥」(デンマーク語:Nattergalen/英語:Nightingale)のこととするのが、取り敢えずは腑に落ちるウィキの「小夜啼鳥童話によれば、同作は『「みにくいアヒルの子」などとともにアンデルセンの童話の中で最も有名なもののひとつで』、「ナイチンゲール」「夜鳴きうぐいす」の『題名でも知られる』。「あらすじ」は、『中国の皇帝の住む御殿と御苑は』、『とてもきらびやかでぜいたくなものであった。世界中の国から旅行者が中国の都にやってきて、だれもが』、『その御殿や御苑に感心したが、その中でも御苑の林に住む』、『さよなきどりの声が』、『いちばん素晴らしい』、『と皆が賞賛し、その声は』、『書物を通じて』、『皇帝の耳に入るようになった。しかし』、『皇帝自身は』、『さよなきどりを知らず、家来に』、『さよなきどりを探させる』。『家来の求めに応じて宮中に赴いたさよなきどりは』、『その美しい鳴き声で皇帝を感動させ』、『宮中にとどまるが、ある日、日本の皇帝から』、『細工物のさよなきどりが贈られる。宝石で飾られた美しい細工物のさよなきどりは』、『疲れることを知らず』、『同じ節で美しい鳴き声を奏で、いつしか』、『本物のさよなきどりはいなくなってしまう。しかし、皆は』、『常に同じ節で鳴く細工物のさよなきどりで満足し』、『誰もが』、『その節を覚えてしまう』。『それから五年がたち、皇帝は重い病にかかる。皇帝はすでに死神に魅入られており、皇帝は細工物のさよなきどりの声を求めるが』、『ねじを巻くものは誰もいなかった。そこに本物のさよなきどりがやってきて』、『鳴き声を聞かせる。死神はさよなきどりの美しい声を聞くと消えてしまい、皇帝は死の淵から復活する』というものである。この寓話は、世間の人々が「ほんたうの鶯」(≒サヨナキドリ=夜啼鶯)「の方」を愛さず、「〈機械仕掛けの偽物の鴬(≒サヨナキドリ=夜啼鶯)〉を賞翫した救い難い愚かさを中心に据えているわけだが、私は、それを賢治は、「ほんたうの鶯の方」を「ドイツ讀本の」「ハンス」・アンデルセンの「ナイチンゲール」の童話では(それは「ほんたうの鶯」(「うぐひす」)「でない」「サヨナキドリ」の物語であるけれども)「ほんたうの鶯」(≒サヨナキドリ=夜啼鶯)「の方」を愚かな人々は「うぐひすでないよと云つた」哀れに悲しい話を書いていたのを思い出した、と言いたいのではなかろうか? と読むのである。即ち、ここには実は、賢治が他者に対して内心強く持っていた「君たちの認識や感覚はどこか違う! そこには致命的な誤認があるのではないか?」という他者との乖離感情に裏打ちされたものがあると読み、しかも同時にまた、それを抑圧せねばならないという意識も働いたために、この部分には表現上の舌足らずな、一見、難解に見える捩じれ(フロイト風に言えば「言い間違い」)が生じたのではないか? というのが私の分析である。

「このひとはもうよほど世間をわたり」/「いまは靑ぐろいふちのやうなとこへ」/「すましてこしかけてゐるひとなのだ」私が前の注の末尾に示した賢治の世間(外界の一部である人間社会)に対する強い乖離感覚による、批判的言辞として私にはすこぶる腑に落ちる。

「冬にきたときとはまるでべつだ」宮澤家「手入れ本」では、この行を縦線で抹消し、次行「みんなすつかり變つてゐる」以下、最後まで総てに「☓」印を附している。則ち、前の「すましてこしかけてゐるひとなのだ」という物言いを以って断ち截られてしまっているのである。これは尋常なこととは思われない。だからこそ、私は前に述べた乖離が、この「手入れ」をしている最中、ある種、病的なまでに賢治の中で昂まっていたようにさえ感ずるのである。しかし、本詩篇パートがかくされて公刊されていたら、私はこの「小岩井農場」のイメージは激しく厭な感じに変性していたと思う。

「萬法流轉(ばんぽうるてん)」日蓮宗の信者の彼らしい言い方である。万「物」流転ではないのである、「物」は単なる仮の姿の変性したものに過ぎない(私に言わせれば、「荘子」の言う「物化」そのものである)、大切な真の実在は仏教にあっては「法」(カルマ)のみである。因みに日蓮宗の「南無妙法蓮華經」の定番の筆書きは鬚文字と呼ばれ、つんつんと棘のように飛び出ているのは御存じだろう。但し、「法」にのみそれはない。カルマに棘があってはいけないのである。

「標本」これは科学的な冷たい実体標本の意味ではなく、「標本」本来の持つ意味、則ち、動物・植物・鉱物などの自然界の対象物の全種・全種類の、その自然のままの基本的属性・あるがままの正しき様態を示すために存在し、「繼起(けいき)」(着実にその核心を継ぎ、また新たに生起する)ものの総ての象徴の謂いである。それはまさに「新鮮な奇蹟」以外の何ものでもない。

「七つ森」既出既注であるが、再掲しておく。岩手県岩手郡雫石町の岩手山南麓に広がる里山の森。賢治の幻想の「イーハトーブ」世界の一部に比定されている(現在、国名勝指定)。「生森(おおもり)」・「石倉森」・「鉢森」・「三角(みかど)森」・「見立森(みてのもり)」・「勘十郎森」・「稗糠(ひえぬか)森」の七つの独立した丘陵を名数として数える。ここ(グーグル・マップ・データ)。

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