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2018/11/15

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート四



         
パート四

 

本部の氣取(きど)つた建物が

櫻やポプラのこつちに立ち

そのさびしい觀測臺のうへに

ロビンソン風力計の小さな椀や

ぐらぐらゆれる風信器を

わたくしはもう見出さない

 さつきの光澤消(つやけ)しの立派の馬車は

 いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。

 五月の黑いオーヴアコートも

 どの建物かにまがつて行つた

冬にはこゝの凍つた池で

こどもらがひどくわらつた

 (から松はとびいろのすてきな脚です

  向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか

  それとも野はらの雪に日が照つてゐるのでせうか

  氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです

  おまへさんたちの頰つぺたはまつ赤ですよ)

葱いろの春の水に

楊の花芽(ベムベロ)ももうぼやける……

はたけは茶いろに堀りおこされ

廐肥も四角につみあげてある

並樹ざくらの天狗巢には

いぢらしい小さな綠の旗を出すのもあり

遠くの縮れた雲にかかるのでは

みづみづした鶯いろの弱いのもある……

あんまりひばりが啼きすぎる

  (育馬部と本部とのあひだでさへ

   ひばりやなんか一ダースできかない)

そのキルギス式の逞ましい耕地の線が

ぐらぐらの雲にうかぶこちら

みぢかい素朴な電話ばしらが

右にまがり左へ傾きひどく乱れて

まがりかどには一本の靑木

 (白樺だらう 楊ではない)

耕耘部へはここから行くのがちかい

ふゆのあひだだつて雪がかたまり

馬橇(ばそり)も通つていつたほどだ

 (ゆきがかたくはなかつたやうだ

  なぜならそりはゆきをあげた

  たしかに酵母のちんでんを

  冴えた氣流に吹きあげた)

あのときはきらきらする雪の移動のなかを

ひとはあぶなつかしいセレナーデを口笛に吹き

往つたりきたりなんべんしたかわからない

   (四列の茶いろな落葉松(らくやうしやう))

けれどもあの調子はづれのセレナーデが

風やときどきぱつとたつ雪と

どんなによくつりあつてゐたことか

それは雪の日のアイスクリームとおなし

 (もつともそれなら暖爐(だんろ)もまつ赤(か)だらうし

     muscobite も少しそつぽに灼(や)けるだらうし

  おれたちには見られないぜい澤(たく)だ)

春のヴアンダイクブラウン

きれいにはたけは耕耘された

雲はけふも白金(はくきん)と白金黑(はくきんこく)

そのまばゆい明暗(めいあん)のなかで

ひぼりはしきりに啼いてゐる

  (雲の讚歌(さんか)と日の軋(きし)り)

それから眼をまたあげるなら

灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ

亞鉛鍍金(あえんめつき)の雉子なのだ

あんまり長い尾をひいてうららかに過ぎれば

もう一疋が飛びおりる

山鳥ではない

 (山鳥ですか? 山で? 夏に?)

あるくのははやい 流れてゐる

オレンヂいろの日光のなかを

雉子はするするながれてゐる

啼いてゐる

それが雉子の聲だ

いま見はらかす耕地のはづれ

向ふの靑草の高みに四五本乱れて

なんといふ氣まぐれなさくらだらう

みんなさくらの幽靈だ

内面はしだれやなぎで

鴇(とき)いろの花をつけてゐる

  (空でひとむらの海綿白金(プラチナムスポンヂ)がちぎれる)

それらかゞやく氷片の懸吊(けんちよう)をふみ

靑らむ天のうつろのなかへ

かたなのやうにつきすすみ

すべて水いろの哀愁を焚(た)き

さびしい反照(はんせう)の偏光(へんくわう)を截れ

いま日を橫ぎる黑雲は

侏羅(じゆら)や白堊のまつくらな森林のなか

爬蟲(はちゆう)がけはしく齒を鳴らして飛ぶ

その氾濫の水けむりからのぼつたのだ

たれも見てゐないその地質時代の林の底を

水は濁つてどんどんながれた

いまこそおれはさびしくない

たつたひとりで生きて行く

こんなきままなたましひと

たれがいつしよに行けやうか

大びらにまつすぐに進んで

それでいけないといふのなら

田舍ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ

それからさきがあんまり靑黑くなつてきたら……

そんなさきまでかんがへないでいい

ちからいつぱい口笛を吹け

口笛をふけ 陽(ひ)の錯綜(さくさう)

たよりもない光波のふるひ

すきとほるものが一列わたくしのあとからくる

ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り

またほのぼのとかゞやいてわらふ

みんなすあしのこどもらだ

ちらちら瓔珞(やうらく)もゆれてゐるし

めいめい遠くのうたのひとくさりづつ

綠金寂靜(ろくきんじやくじやう)のほのほをたもち

これらはあるひは天の鼓手(こしゆ)、緊那羅(きんなら)のこどもら

 (五本の透明なさくらの木は

  靑々とかげらふをあげる)

わたくしは白い雜囊をぶらぶらさげて

きままな林務官のやうに

五月のきんいろの外光のなかで

口笛をふき步調をふんでわるいだらうか

たのしい太陽系の春だ

みんなはしつたりうたつたり

はねあがつたりするがいい

  (コロナは八十三萬二百……)

あの四月の實習のはじめの日

液肥をはこぶいちにちいつぱい

光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴つた

  (コロナは八十三萬四百……)

ああ陽光のマヂツクよ

ひとつのせきをこえるとき

ひとりがかつぎ棒をわたせば

それは太陽のマヂツクにより

磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた

  (コロナは七十七萬五千……)

どのこどもかが笛を吹いてゐる

それはわたくしにきこえない

けれどもたしかにふいてゐる

  (ぜんたい笛といふものは

   きまぐれなひよろひよろの酋長だ)

 

みちがぐんぐんうしろから湧き

過ぎて來た方へたたんで行く

むら氣な四本の櫻も

記憶のやうにとほざかる

たのしい地球の氣圈の春だ

みんなうたつたりはしつたり

はねあがつたりするがいい

 

[やぶちゃん注:「乱」は総てママ。

・「さつきの光澤消(つやけ)しの立派の馬車は」「立派の」はママ。原稿は「立派な」であるが、「手入れ本」修正はなく、筑摩版全集校訂本文は「立派の」を採用している。

・「楊の花芽(ベムペロ)ももうぼやける……」ルビ「ベムペロ」(「へ」の半濁音「゜」)は「楊の花芽」四字へのルビであるが、原稿は「ベムベロ」(「へ」の濁音「゛」)で、誤植である。但し、「正誤表」にはなく、宮澤家「手入れ本」はこのリーダを除去しているものの、「ベムぺロ」はママである。全集本文は原稿と同じ「ベムべロ」である。nenemu8921氏のブログ「イーハトーブ・ガーデン」(美しい写真有り)の「やなぎ」に、『カワヤナギ』(ネコヤナギキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gilgiana の異名)『の若い花芽を総称して、東北ではベムベロと呼』ぶとある。

・「muscobite」はママ。原稿は「muscovite」(モスコヴァイト・白雲母)で誤植であるが、「正誤表」にはない。「手入れ本」では修正されている。無論、全集本文は正規の綴りである。白雲母は当時のストーブの耐熱の覗き窓に使われていた。私はそれが使われた実物を見たことがある。

・「ひぼりはしきりに啼いてゐる」「ひぼり」は「ひばり」の誤植。「正誤表」にはない。「手入れ本」にはこの補正はないが、宮澤家本でこの一行を「鳥は頻りに啼いてゐる」に直してある。無論、全集校訂本文は「ひばり」に訂している。

・「いま見はらかす耕地のはづれ」の「見はらかす」はママ。総てでママ。

・「懸吊(けんちよう)」ママ。「懸吊」(現代仮名遣「けんちょう」)は「かけつるすこと」の意。原稿は「けんちやう」であるから誤植であるが、これも誤字で、正しい歴史的仮名遣は「けんてう」手入れ本の修正はない。

 

「本部の氣取(きど)つた建物」「本部」は既出既注であるが、再三、引かさせて戴いているギトン氏の「ゆらぐ蜉蝣文字」の「第3章 小岩井農場」の、「《N》 降りしきる魂のしずく 【27】 小岩井農場・パート4」に(今回の注は多くをギトン氏のお世話になる同性愛画像の注意注はもう附さないのでリンク・クリックは自己責任でお願いする)、『《農場本部》の建物は、明治』三六(一九〇三)『年建築の』二『階建て木造建物で、現在も使われています。見るからに洒落た明治時代風(鹿鳴館風?)の木造建築で、当時は、飾りつきポーチ、バルコニー、時計台、望楼が付いていました』。『「気取った建物」と言っているのは、そのことでしょう。現在は、バルコニーと時計台が無いようですが、修築があったのでしょうか』とあり、先にも示した写真地図附きの別ページのリンクが示されてある。私は二十六前に修学旅行の引率で一度訪れたが、入口で待っていただけで、遂に何も見ずに終わった。つくづく惜しいことをしたと思う。妻が足が悪くなった今は、訪れても、農場を歩き回ることはもう望めないからである。

「櫻」前注冒頭にリンクしたギトン氏の解説に『今も《本部》の脇にある老桜(当時は若木)のようです』とある。まだ、あったのだ。

「觀測臺」同じくギトン氏の解説に、『農場が国の依頼で気象観測をしていたのだそうです。盛岡測候所が開所したのは』大正一二(一九二三)『年で、それまでは岩手県の内陸には、公の気象観測施設がありませんでした。そこで、水沢の天文台で気象観測を行なう一方、各地の事業所に国が依頼して、気象観測場所を設けていたそうです』。『小岩井農場では、《農場本部》のすぐ近くに、本部の屋根よりも高い気象観測用の櫓を建て、風力計、風信器(風向計)などの気象観測機械を置いて観測していました』とある。ギトン氏のこちらの別ページで、明治三七(一九〇七)年頃の小岩井農場本部とその気象観測台(右手に立つ櫓)の写真が見られる。但し、ここがポイントで、実はこのロケーションでは、この写真にある「觀測臺」は実は、もう無くなっているのである(後注参照)。

「ロビンソン風力計」ロビンソン風速計(Robinson's cup anemometer)のこと。三個又は四個(現行は軽くするために三個が主流)の半球形の風杯(賢治の謂う「椀」)をつけた風速計。一八四六年にアイルランドのた天文学者トマス・ロムニー・ロビンソン(John Thomas Romney Robinson 一七九二年~一八八二年)が考案した。日本の風観測で最も親しまれた風速計で、風程(ふうてい)百メートル毎に電気接点が開閉するようになっていて、電気盤又は自記電接計数器とともに使用され、平均風速を測定する。但し、風速や風の乱れの大小によって、風杯の回転が変化し易い欠点がある。現在の気象庁では明治一九(一八八六)年から昭和三五(一九六〇)年頃まで使用された。以降も、鉄道の鉄橋・高速道路の橋桁・ビルの屋上などで見かけられる(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「風信器」風向計(anemoscopewind vane)の旧称。風向を測定する器械で昭和二五(一九五〇)年以前は「風信器」と呼んだ。矢羽根を使って、その位置を機械的に自記させるもので、矢羽根の位置の変化を電気抵抗の変化に変えて記録電流計で自記させるもの、または、風向角に従って等間隔に接点を附けておき、その接点の開閉によって風向を自記させるもの等がある。矢羽根には、垂直に取り付けた二枚羽根のものと 、一枚羽根のものがあり、全体の重心が支柱の上になるように作られてある。日本では当初、風向は「風信器」で、風速は「ロビンソン風速計」(風速計がない場合には目視に拠った)で、それぞれの観測が行なわれていたが、「気象観測法」が制定された明治一九(一八八六)年から、風向観測には風信器が、風速観測にはロビンソン風速計が、それぞれ使用されるようになった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「わたくしはもう見出さない」細かいことを言うと、この「見出ださない」対象は、三行目の「そのさびしい觀測臺」から五行目の「風信器」のみが、その目的語である。「氣取つた」「本部の」「建物」やその傍らに植えてある「櫻やポプラ」はあるけれど、その横に立っていた「觀測臺」(櫓)を、私は、今はもう、見出すことが出来くなってしまった、と謂っているのである。残存する「下書き稿」には、ここは、

   *

あすこが本部だ。觀測台は無い。

全く要らなくなったのだ。

要らなくなるのが當然だ。

   *

と記した後、全集編者によれば、『この行の次に何かを挿入しようとして、余白へ線を引き出しいるが、その先に何も』書いてはいない、とある。これは気になる。「要らなくなるのが當然だ」とそっけない割に、何か書き加えたかった詩人の感懐の余韻が垣間見える。そもそも、冷徹に「全く要らなくなったのだ」から、「要らなくなるのが當然だ」という意識であれば、事実としても景観としても「全く要らな」いむさ苦しい盆踊りの櫓みたような(先のギドン氏の写真を見られよ。但し、賢治がそう思ったわけではない。私の比喩である)不要物であったのなら、それを敢えて、かく決定稿で出す必要が、ない、からである。彼がここで、無いものをわざわざ詠み込んだのは、そこに消えた「觀測臺」への懐かしさと幽かな哀感が詩人を捉えたからではなかったか? さても、ギトン氏のこちらの解説によれば、『農場に残っている記録によると、これらの観測器機は、観測方式が地上観測に変わった』大正一〇(一九二一)『年ころに観測台から、耕耘部構内に移されたとなってい』るとあり、本詩篇の創作は翌年の五月二十一日である。即ち、『賢治が来た時には、観測台自体が、もう取り壊されて無くなっていたのです』として、先に掲げた「下書き稿」を引かれ、『非常に素っ気無い言い方をしているのは、おそらく、これ以前に、観測機械が撤去されたカラの観測台を、すでに見ていたのだと思います』。『観測をしなくなったのだから、櫓を置いておく必要が無くなった、それで、取り壊された──当然のことじゃないかと言っている訳ですが、ここにはむしろ、取り壊された観測台に対する愛惜の念が、過剰と思えるほど現れています』。と言い添えて上で、さらに本決定稿では、『観測機械を取り払われたカラの櫓があった時のようすが、《心象》の中に現出しているわけです。「さびしい観測臺」という名指しは、用の無くなったヤグラの寂しさですが、作者としては、今はもう存在しないヤグラに対する愛惜の気持ちを含んでいることになります。賢治がカラの観測台を見たのは、雪に埋もれた』一『月だけではなく、前年の無雪期にも来ているのではないかという気がします。いずれにしろ、賢治は、気象観測機械があった時には、たいへん気に入って、ここを通るたびに眺めていたのだと思います。というのは』「銀河鉄道の夜」に『描かれている《アルビレオの観測所》は、ここのロビンソン風力計をモデルにしていると思われる』からで、『賢治は、ロビンソン風速計の形と動きに、とくべつな愛着を持っていたのだと思います』。『「アルビレオの観測所」の屋上に設置された「サファイアとトパース」』二『つの球は、二重星(食変光星)を思わせますが、また、ロビンソン風速計の風杯からヒントを得たようにも思えます』。『「水の速さをはかる器械です…」という鳥捕りの説明は、検札が来たために途中で切れてしまいますが、もし最後まで説明したら、“地球から見れば、この空間全体が天の川なのだから、天の川の水とは、いま窓の外を吹いている風のことなのだ”という説明になったはずです』と推察されており、私もこれに激しく共感するのである。ギトン氏が別ページで引用されている、「銀河鉄道の夜」の当該箇所(第九章「ジョバンニの切符」の冒頭部)を筑摩版校本全集第十巻を参考に、促音等はママで、恣意的に漢字を正字化して示しておく。

   *

 

        〔九、〕ジョバンニの切符

 

「もうここらは白鳥區のおしまひです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの觀測所です。」

 窓の外の、まるで花火でいっぱいのやうな、あまの川のまん中に、黑い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、靑寶玉と黃玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしづかにくるくるとまはってゐました。黃いろのがだんだん向ふへまはって行って、靑い小さいのがこっちへ進んで來、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな綠いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たうたう靑いのは、すっかりトパースの正面に來ましたので、綠の中心と黃いろな明るい環とができました。それがまただんだん橫へ外れて、前のレンズの形を逆に繰り返し、たうたうすっとはなれて、サファイアは向うへめぐり、黃いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのような風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんたうにその黑い測候所が、睡ってゐるやうに、しづかによこたはったのです。

「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」鳥捕りが云ひかけたとき、

「切符を拜見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌が、いつかまっすぐに立ってゐて云ひました。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

文中の「靑寶玉」は「サファイア」、「黃玉」は「トパーズ」のこと。現行の諸本ではそのようにルビする(但し、本文の後に出る通り、賢治は「トパース」と読んでいる)。二箇所の「たうたう」は底本のママ。「外れて」は「それて」。

「いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。」今頃、あの馬車は、どこかの隅の方で、忘れられたように停まっているのであろうし……。

「五月の黑いオーヴアコート」これはパート二に登場した、途中の道で詩人の「うしろから五月のいまごろ」なのに、「黑いながいオーヴアを着」て「やつてくる」「醫者らしいもの」のことを指している。

「冬にはこゝの凍つた池で」/「こどもらがひどくわらつた」この二行によって、この二行と以下の「(から松はとびいろのすてきな脚です」/「向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか」/「それとも野はらの雪に日が照つてゐるのでせうか」/「氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです」/「おまへさんたちの頰つぺたはまつ赤ですよ)」の丸括弧挿入部の時制が冬に巻戻って、氷結した池でスケートをする少年たちと詩人のシークエンスが描かれる。ギトン氏のこちらによると、『農場に保存されている当時の日誌には、《本部》の下にある池が冬季に厚く結氷するので、職員たちが終業後に除雪作業をして、スケート場にしていたことが、記されているそうです。この池は、長径十数メートルほどの池で、ふだんは蘆や水草に被われています』(これは岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』(二〇〇五年未知谷(みちたに)刊)に拠るとある)。以下、『つまり、農場職員の正規の仕事としてではなく、職員と家族のレクリエーションとして、池を除雪してスケートをしていたわけです。「屈折率」「くらかけの雪」の』大正一一(一九二二)年一月六日の『日誌』(農場のという意味であろう)『には、天候は「半晴」、「スケート場の手入れ」と記されているそうです。なお、子供用の小さい足のスケート靴が、当時入手できたとは思えないので、「スケート」と言っても、子どもたちは、わらぐつなどで滑ったり転んだりして遊んだの』であろうと注記されておられる。

「から松」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi。漢字表記は「落葉松」「唐松」。

「とびいろ」鳶色。トビ(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)の羽毛の色のような赤みがかった茶色。

「葱いろの春の水に」ここで時制が現在に戻る。

「楊の花芽(ベムベロ)」この方言の語源は捜し得なかったが、ネットを見る限り、現在でも東北地方で普通に用いられているようである。賢治の大正六(一九一七)年四月の歌稿の中に、

 ベムベロはよき名ならずや Benbero の短き銀の毛はうすびかり

という一首を見出せる。

「廐肥」「きゆうひ(きゅうひ)」と読んでおく(「うまやごえ」という訓もあるが)。家畜の糞尿や敷き藁などを腐らせた肥料。遅効性であるが、有機質に富む。

「天狗巢」前パートに既出既注。

「いぢらしい小さな綠の旗を出すのもあり」天狗巣病は最終的には枯死に至るが、即座にそうなるわけではないから、小さな葉(花を咲かせないのが本病の特徴であるが、ごく稀に花も咲くようで、ギトン氏の画像のこちらに実例写真がある)生ずる。

「遠くの縮れた雲にかかるのでは」ごく高い位置に出現した天狗巣病の塊りを指していよう。

「育馬部」パート三の最後の注を参照されたい。

「キルギス式の逞ましい耕地」「キルギス」(Kirghiz)は古代よりモンゴル高原北西部のエニセイ川上流にいたトルコ系民族。十三世紀頃から天山山脈北西部に南下した。十九世紀後半、ロシアに征服された。現在はキルギス共和国の主要民族。中国文献では「堅昆(けんこん)」「結骨(けつこつ)」「黠戛斯(かつかつし)」などと記す。ギトン氏のこちらによれば、『この「逞ましい耕地の線が/ぐらぐらの雲にうかぶ」と言っているのは、「下丸2号」という20ヘクタールを超える広大な畑のことで』、『《農場本部》の西側、「馬トロ』『軌道」(現在のバス通り)と川(越前堰)の間のスロープを占めていたそうです。広いスキー場くらいある耕地面が、緩やかなスロープを作り、その果ては雲の中に消えてゆくようだったといいます』(前出の「賢治歩行詩考」に拠るとする。因みに、前に少し触れた、この「馬トロ軌道」については、『小岩井農場にあった簡素な軌道馬車で、荷物の運搬や作業員の移動に使っていました。「トロ馬車」とも言います。この』大正一一(一九二二)年『当時は、《農場本部》付近と、育牛部近くの製乳所(現在、県道沿いに土産品売店があるあたり)の間を結んでいましたが、まもなく小岩井駅まで延長されま』した)と注がある。ギトン氏は『「キルギス式の逞(たく)ましい耕地の線」とは、この広大な耕地に、草原を疾駆する遊牧民キルギスの精悍なイメージを重ねているのだと思います』と述べておられる。その通りと思う。ギトン氏の「小岩井農場 略図⑴」の拡大図の左下方中央辺りかと推測される。

「みぢかい素朴な電話ばしら」同前のギトン氏の解説に『小岩井農場内の各所と、盛岡市内にある肥料店をむすんでいた私設電話線』の電信柱とある。

「(白樺だらう 楊ではない)」宮澤家「手入れ本」では、ここから実に十四行(「おれたちには見られないぜい澤(たく)だ)」まで)に斜線を附している。

「たしかに酵母のちんでんを」/「冴えた氣流に吹きあげた」積もった粉雪を「酵母の沈殿」と換喩し、馬橇が捲き上げた雪煙をかくスケール大きく表現したもの。

「セレナーデ」(ドイツ語:Serenade(南ドイツ・オーストリアでは「セレナーデ」、北ドイツでは「ゼレナーデ」と発音する)音楽用語としては、十六世紀以後、「夕べの音楽」を意味し、小夜(さよ)曲又は夜曲とも訳される。元来は、夜、恋人の窓辺でギターを奏でながら歌う歌であり、ここはそれでよい。なお、それを口笛で吹く「ひと」とは無論、詩人自身である。このやや狂乱をせ感じさせる冬の日の行動について、ギトン氏はこちらで、私が前に「習作」の注で示した、心の友とも思っていた保阪嘉内との関係の急激な悪化を大きな要因の一つとして挙げ、この『極寒の地吹雪に身を曝さなければならない“灼けるような”煩悶』は、大正一〇(一九二一)年に『おける保阪との決裂、それにからんでの宗教的信念の動揺が、大きかったのだと思』うと述べておられる。確かに肯んぜられる。

「落葉松(らくやうしやう)」先に注したカラマツ。

「それは雪の日のアイスクリームとおなし」この唐突な表現は、まず「下書き稿」の当該部分が大きな糸口となる。ソリッドなパートを抜き取る(促音は正字化した・「体」は本書で略字が多く認められることから、ママで表記した)。

   *

冬の間だつて雪が堅くなつて

馬そりがあつた位だ。

あのときはきらびやかな

ふゞきのなかでおぼつかない

セレナアデを吹き往つたり來たり

何べんおれはしただらう。

けれどもあの變てこなセレナアデが

透明な風や吹雪とよく調和してゐた。

一体さうだ。あの白秋が

雪の日のアイスクリームをほめるのも同じだ。

もつともあれはぜいたくだが。

   *

これによって、「雪の日のアイスクリーム」は賢治のオリジナルな幻想的感覚的表現ではないことが明らかとなる。賢治の残された著作類には、彼の名は殆んど認められないようであるが、千田孝之氏のサイト内の、今野真二著「北原白秋ー言葉の魔術師」(二〇一七年岩波新書刊の書評内に、宮澤賢治が本「春と修羅」初版本(千田氏は「雪と修羅」と誤記)を既に詩壇の大御所となっていた北原白秋(賢治より十一年上)に贈呈している事実が記されており、『賢治も咀嚼したうえで白秋のイメージを受け継いで』おり、『詩は概念よりもリズムこそ重要だ』、『という点で賢治と白秋は共通しているようだ』と言い添えておられる。「白秋」が敢えて「雪の日のアイスクリームをほめる」可能性は高いし、その感覚も腑に落ちるような気もする。というより、詩人或いは詩人気取りの人間は「雪の日のアイスクリーム」こそ美味なりと「ほめ」るような印象は「詩人」というレッテルの裏にこびりついた饐えた属性の一つとして嵌まり過ぎているとも言える。しかし、実は問題なのが、どうも「白秋が雪の日のアイスクリームをほめ」ている詩篇や短歌が存在しないようだということなのである(あれば、是非、御教授願いたい。さすれば、ここの注や多くの諸家の解釈は大きな変更を余儀なくされる大発見となる)。ここで私の考察は停滞してしまうが、このところお世話になっているギトン氏の「ゆらぐ蜉蝣文字」の「□第3章 小岩井農場」のこちらこちら(後者は少年の全裸画像があるので注意)では、知られた「東京景物詩及其他」(大正二(一九一三)年刊)の「花火」との関係性を指摘されている。所持する昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊「北原白秋詩集」(正字正仮名)を底本として「花火」を示す・太字は底本では「ヽ」である。

   *

 

   花  火

 

花火があがる、

銀(ぎん)と綠の孔雀玉(くじやくだま)‥パツとしだれてちりかかる。

紺靑の夜の薄あかり、

ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。

 

花火が消ゆる。

薄紫の孔雀玉‥‥紅(あか)くとろけてちりかかる。

Toron‥‥Tonton‥‥Toron‥‥Tonton‥‥

色とにほひがちりかかる。

兩國橋の水と空とにちりかかる。

 

花火があがる。

薄い光と汐風に、

義理と情(なさけ)の孔雀玉‥‥淚しとしとちりかかる。

淚しとしと爪彈(つまびき)の歌のこころにちりかかる。

團扇片手のうしろつき、つんと澄ませど、あのやうに

舟のへさきにちりかかる。

 

花火があがる、

銀(ぎん)と綠(みどり)の孔雀玉‥‥パツとかなしくちりかかる。

紺靑(こんじやう)の夜に、大河に、

夏の帽子にちりかかる。

アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。

わかいこころの孔雀玉、

ええなんとせう、消えかかる。

 

   *

これは明治四四(一九一一)年六月の作で無論、夏の情景である。また、この前年より白秋は隣家の夫人松下俊子と恋に落ちていた。この詩の書かれた翌年の七月、俊子が白秋のもとに走り、夫(別居中)によって二人は姦通罪で告訴され、二週間に亙って未決監に拘置されている。以上の情景もそうした禁断の二人の映像なのである。ギトン氏は、この詩こそがここの原拠であるとされ、『賢治が、「白秋が/雪の日のアイスクリームをほめる」と言っているのは』、『「アイスクリームひえびえとふくむ手つき‥」』『「わかいこころの孔雀玉‥消えかかる」』『という部分だと思います』。『つまり、花火のように華々しく燃え盛った恋の情熱が、一瞬にして冷えてしまう状況を、情緒深く歌にしている部分です』。『それは「贅沢だ」と言うのです』。『おそらく、花火で比喩されるような華々しい恋を、「贅沢だ」と批判しているのでしょう』。『その一方で、「同じだ」と言っているのは、どんな意味でしょうか?』『賢治の口ずさむ「変てこなセレナイデ」(「変てこなセレナアデ」に推敲)は、白秋の場合とは逆に、胸のうちから溢れ出す・灼けるような情熱であり、それが、外部の吹雪によって冷やされる関係にあります』。『つまり、白秋の“花火  アイスクリーム”とは、逆の関係になっているのです』。以下でギトン氏は初版本のこの部分を示し、『白秋の名を伏せたのは、はばかってのことでしょうから、内容的には変更は無いと思います。つまり、「雪の日のアイスクリーム」は、白秋の詩「花火」を指しています』『(この暗示は、非常に判りにくいですが)』。『白秋の名を外したことから、「花火」と無関係な解釈をするなら、次のようになるでしょう』。『風・雪とセレナーデとの釣り合いが、「雪の日のアイスクリームとおなし」だと言っている意味は、セレナーデを口ずさみながら、極寒の地吹雪の中を歩き回るという特異な趣向は、寒い日に冷たいアイスクリームを食べるという季節外れの情趣にも比べられる』、『と』。『「風やときどきぱつとたつ雪」は、隅田川に打ち上げられる花火に相当する景物です。もとは厳しいだけだった地吹雪が、賢治の推敲の過程で、次第にそうした審美的な性格を帯びてきたのです』。『そして、「あの調子はづれのセレナーデ」とは、いかにもスマートで控えめな言い方ですが、じつは作者にとっては、極寒の吹雪にも釣り合うほどの熱い情念なのです』と解析しておられる。即ち、この核心には、吹雪をも瞬時に蒸発させる賢治の熱烈な保阪嘉内への甘い「アイスクリーム」のような「暖爐(だんろ)」のように「まつ赤(か)」な「muscobite も少しそつぽに灼(や)ける」如き激しい恋情と、アンビバレントにそれを「おれたち」(複数形に注意!)「には見られないぜい澤(たく)だ」とする、それを内的に絶対零度に冷やすための凶暴な意思が働いていると私にも感じられるのである。私はこのギトン氏の解釈を、現在望み得る最も説得力のある解釈の一つとして強く推薦したい。

「ヴアンダイクブラウン」Vandyke Brown。油絵具の色名。腐食土が炭化した褐炭から、砂や木を除去して精製した顔料で、ややくすんだ茶色を指す。ヴァンダイクとは、バロック期のフランドル出身の画家アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck 一五九九年~一六四一年)で、宗教画・肖像画の名手として知られ、彼の作品に於ける暗褐色の色調の効果が絶妙であったことから、この色名に名が献ぜられた(英語の色名は彼の死後の一八五〇年の命名)。この色の絵具はまさに彼と同時代に登場した絵の具であった(以上は主に「きもの用語大全」の「ヴァンダイクブラウン」に拠った。リンク先で色を確認出来る)。

「耕耘」「かううん(こううん)」と読む。「耘」は「草を刈る」の意。田畑を耕し、雑草を取り去ること。耕して作物を作ること。なお、宮澤家「手入れ本」ではこの「春のヴアンダイクブラウン」と次行「きれいにはたけは耕耘された」は数本で抹消されてある

「白金(はくきん)」platinum(ラテン語)。元素記号 Ptウィキの「白金によれば、『学術用語としては白金が正しいが、現代日本の日常語においてはプラチナと呼ばれることもある。白金という言葉はオランダ語の witgoudwit=白、goud=金)の訳語である』。『単体では、白い光沢(銀色)を持つ金属として存在する』とある。

「白金黑(はくきんこく)」黒色の粉末状の白金。塩化白金などの水溶液をホルマリンなどで還元して得られる、強力な酸化・還元の触媒として知られる。

「雲の讚歌(さんか)と日の軋(きし)り」ギトン氏はこちらで、『共感覚』(シナスタジア:synesthesiasynæsthesia:ある刺激に対し、通常の感覚だけでなく、異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象。例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりすることを指す。英語名 synesthesia は、ギリシア語で「共同」を意味する接頭辞「syn-」と、「感覚」を意味する「aesthesis」から名づけられたもの。感性間知覚とも称する。ここはウィキの「共感覚」に拠った)とされ、『雲と太陽の輝く強い光が、音として描写されている』とする。私も同感する。私の教え子にも単位の文字や文字列(それぞれ別色彩として感知されると言っていた)に色を感じる女生徒が一人いた。

「灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ」「蛇に似たもの」とは♂の「雉子」(キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor)の有意に長い尾を指している。

「亞鉛鍍金(あえんめつき)」鍍金工法の一種で、主に鉄の表面に施し、鉄よりもイオン化傾向の大きな亜鉛が優先的に腐食することで、鉄の腐食を抑制する。亜鉛は自ら溶解して水酸化亜鉛( Zn(OH)2 :白錆(しろさび))となる。ここはキジの体色としては附合しないので、多色を持つキジが、亜鉛鍍金が鉄を保護しているように、の中で一種の保護色を成していることを指しているものと思われる。

「山鳥」日本固有種であるヤマドリは本邦には、キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans を始めとして五亜種が棲息する。キジとヤマドリの違いが判らない方は、私の和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を比較されたい。

「山鳥ですか? 山で? 夏に?」この謂いは不審。ヤマドリは名は知られるものの、野外で出逢うことは実は稀れであることから、こんな挿入が入ったか。まあ、前で「山鳥ではないと言っているのだから、この一行は寧ろ、不要な感じがする。賢治の意図も判らぬ。

「向ふの靑草の高みに四五本乱れて」/「なんといふ氣まぐれなさくらだらう」/「みんなさくらの幽靈だ」不正列とランダム、桜は桜でも、このプロムナードで既に見たソメイヨシノ(バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属(サクラ亜属)品種ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensis)の整然と豊饒に咲いた並木でない、「さくらの幽靈だ」と称していることから、これは、ギトン氏もこちらで指摘されておられるように(ギトン氏はこの後の部分でも複数回で考証されている。下部の「→次へ」を見られたい)、広義の通称「山桜」(標準種はサクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura であるが、当該種は花は白い)の類であろう。しかも、後で「鴇(とき)いろの花をつけてゐる」とあるからには、これはヤマザクラに比べて、花や葉が大きく、花の色が淡紅色であることから、ベニヤマザクラ(紅山桜)の異名を持つ、サクラ属オオヤマザクラ Cerasus sargentii である可能性が濃厚である。

「内面はしだれやなぎで」ここは「下書き稿」では、

   *

そして向ふの高みに四五本乱れて

何といふ氣まぐれなさくらだ。

みんなさくらの幽靈だ。

精神はやなぎだ。そして鴇いろの花をつける。

もう寂しくないぞ。

誰も私の心もちを見て呉れなくても

私は一人で生きて行くぞ。

こんなわがまゝな魂をだれだつて

なぐさめることができるもんか。

けれどもやつぱり寂しいぞ。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

となっているから、これは実際の「枝垂れ柳」(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica)を意味していないことが明らかになる。而してフィード・バックすると、「しだれやなぎ」に「幽靈」が呼応する。外見は妖艶な鴇色の花を飾り立てながら、その内実、精神はすでにおぞましい孤独な幽霊と化している、賢治は謂いたいのであろう。それは畢竟、絶対に現世では救出されることのない、賢治自身の孤独な精神を意味しているのではあるまいか?

「空でひとむらの海綿白金(プラチナムスポンヂ)がちぎれる」platinum sponge。塩化白金酸アンモニウム((NH4)2[PtCl6])を加熱或いは還元して得られる灰色の多孔質の海綿状物質。表面積が大きい、良好な白金触媒の一種。白金海綿を融解あるいは鍛造すると、塊状の白金が得られる。灰色の翳りを持った空の雲の一塊りが風に千切れるのを形容したものであろう。

「それらかゞやく氷片の懸吊(けんちよう)をふみ」天空に懸け吊るされてある「かゞやく氷片」は雲であるが、それを「ふみ」(踏み)行くのは、「ひとむらの」「ちぎれ」た「海綿白金(プラチナムスポンヂ)」である灰色のそれであるが、それに対し、賢治は「靑らむ天のうつろのなか」を「かたな」(刀)「のやうに」鋭く切り裂きつつ「つきすす」んで、「すべて水いろの哀愁を焚(た)」いて天空を焼き尽くし、同時に「さびしい反照(はんせう)の偏光(へんくわう)を」も「截れ」! と命じる(「偏光」とは光波の振動方向が規則的な状態を指すから、時空間の不可逆的な規律を破ることを命じていると採る)。それは今や、賢治の意識の中では、灰色ではなく、おどおどろしい「日を橫ぎる黑雲」へと変じている。これが、まさに賢治の時空間を溯る呪文であることが判る。それが以下の太古の恐竜の跋扈する中世代幻想へと、文字通り、「つきすす」むこととなるのである。但し、宮澤家「手入れ本」では「かたなのやうにつきすすみ」を「かたなのやうにつきすすめ」と命令形にしたあお、次行「すべて水いろの哀愁を焚(た)き」を縦線で消し、「さびしい反照(はんせう)の偏光(へんくわう)を截れ」から「水は濁つてどんどんながれた」までの七行にも「☓」印を附している。しかし、これらがない「パート四」は如何にも削げ落ちて瘦せたものとなり、面白さが半減する。あとの後半部の大幅な削除といい、この手入れの際の賢治が何を考えているのか、私には判らぬ。「宮澤賢治の詩の世界」の宮澤家「手入れ本」の全最終形を見られれば、一目瞭然である。これは異装をして詩人面をした若造の似非詩人の小手先で作った出来損いとしか言いようがないものに変貌してしまう。

「侏羅(じゆら)」ジュラ紀(Jurassic period)。約一億九千九百六十万年前に始まり、約一億四千五百五十万年前まで続く地質時代。三畳紀の次で白堊紀の一つ前に当たる中生代の中心時代(名前はフランス東部からスイス西部に広がるジュラ山脈に於いて広範囲に分布する石灰岩層に因む。以上はウィキの「ジュラ紀」に拠る)。

「白堊」白堊紀(はくあき:Cretaceous period)。約一億四千五百万年前から六千六百万年前の地質時代。ジュラ紀に続く時代で、中生代の終わりの時期に当たる(次代は新生代古第三紀の暁新世)。「白堊」の「堊(本来の音は「アク」で「ア」は慣用)」の字は「粘土質の土」、「石灰岩」を意味し、石灰岩の地層から設定された地質年代であるため、「白堊紀」の名がついた(「白亜」の「亜」は「堊」の同音の漢字による書き換え。以上はウィキの「白亜紀」に拠る)。

「爬蟲(はちゆう)がけはしく齒を鳴らして飛ぶ」中生代白亜紀後期に棲息していた、お馴染みの翼竜の一種である、爬虫綱†翼竜目翼指竜亜目オルニトケイルス上科 Ornithocheiroidea プテラノドン科プテラノドン属 Pteranodon のイメージ。

「田舍ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ」「ダブルカラ」は「double collar」(二枚襟)で、カッター・シャツなどの襟部分を、一部、色の違う布で二重に装飾したものを言う。私は持っていないが、画像を見ると、なかなか都会的にお洒落である。しかしここは「田舎」風とある。ギトン氏はここで、この言い方に着目され、これは『おそらく、本来のダブルカラー(二枚襟、または付け襟のシャツ)ではなくて、ノータイのワイシャツの襟をはだけて、上着の襟の外に出して重ねた着こなし』『のことではないでしょうか?』(『こういう着こなしを「襟乗せ」と云うそうです。ファッション性の高い服が増えた現在では、かえってだらしなく見えますが』)。『賢治は、ワイシャツの襟を黄色い作業服の襟の外に出して、気取って歩いていたのかもしれません』。『花巻農学校で宮澤賢治の同僚だった堀籠文之進氏』『によると、賢治は、この』大正一一(一九二二)年三月『頃から、「かたい感じがなくなっ」て「髪を伸ばしてポマードをつけたりし」ていたと言います』。『オシャレと言っても、賢治の場合はどれほどか判りませんが』、『ともかく、後世の私たちが見馴れたイガクリ頭の‘無欲質実’な写真は、どうやら“詐欺画像”のようです』とする。ここには、芸術的にも趣味嗜好に於いても、ある意味で洒落者であった現代人宮澤賢治の中に、それに反した反近代――原始人の集団的無意識への憧憬や超古代幻想への願望がパラドキシャルに存在していたことが私には強く感じられる。されば、「それからさきがあんまり靑黑くなつてきたら……」という以下の呟きは、当時の現在の現実社会に生きている賢治自身の憂鬱な色彩を意味しているように思われるのである。

「そんなさきまでかんがへないでいい」以下、眼前に見えてくる明るい、子らの登場する情景に転換する。ところが、宮澤家「手入れ本」では、驚くべきことに、次の行の「ちからいつぱい口笛を吹け」まででこの詩を終わらせているのである。「口笛をふけ 陽(ひ)の錯綜(さくさう)」を「口笛をふけ 陽(ひ)のふるひ」と直した後、ここから最終行までの四十二行に斜線を引いているのである。「宮澤賢治の詩の世界」の宮澤家「手入れ本」の全最終形を参照されたい。

「ちらちら瓔珞(やうらく)もゆれてゐるし」瓔珞(ようらく)は装身具及び仏堂・仏壇等の荘厳具(しょうごんぐ)の一種。古くはインドの貴族の装身具として用いられていたものが仏教に取り入れられたもので、菩薩以下の仏像に首飾り・胸飾りとして用いられているのをしばしば見かけ、寺院・仏壇等に於いて天蓋などの荘厳具として用いられることもある。しかし、既出のギトン氏の「《N》 降りしきる魂のしずく 【27】 小岩井農場・パート4」によると、『岡澤氏』(先に注した岡澤敏男著『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』を指す)『によれば、ポーチには瓔珞飾りが下がっていたそうです。「小岩井農場」と同日付の作品〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕は、賢治がどこかの寺院で瓔珞飾りを見て、触発されて書いたものと思っていましたが、《農場本部》建物の瓔珞だったのかもしれません』とある。ギトン氏の言う「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」は、渡辺宏氏のサイトで示すと、「心象スケッチ 春と修羅・補遺」の〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます(現存詩篇部分(冒頭部欠損))である。確かに、クレジットは『一九二二、五、二一』であり、全集年譜でも本篇「小岩井農塲」と同日の創作となっている。「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます。〕」は全体が宗教的幻想であって、実際の寺院の瓔珞ではないように読め、この本部にあった飾りとしての瓔珞が一つの契機になっていた可能性は十分にあるように思われる。ここでは、日差しの中を行く子らの純真な存在とその笑い声・歌声を、菩薩の金色の瓔珞の輝きに比喩していると私は読む。ギドン氏もこちらで、『ここに描かれている「こどもら」が、現実に賢治の出会った子どもたちだったことを明らかにされたのは、岡澤敏男氏です。いま賢治が歩いているのが、農場本部から小岩井小学校の前を通ってゆく道すじであ』ったのであり、『通学の生徒たちに出会うことは当然に考えられてよいことなのです。「透き通るもの」、‘瓔珞を付けている’といったモディフィケーション』(modification:部分的な変更や修正)『はあっても、じっさいに会った生徒たちの姿をもとにしていると考えるのは自然です』と述べておられる。

「遠くのうた」遠い過去の古いわらべ歌の謂いか。

「綠金寂靜(ろくきんじやくじやう)」涅槃寂静(煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということ)に、この自然(但し、ここは厳密には鮮やかに建設されて管理された農場としての反自然・非自然なのであるが。それも恐らく賢治は認識していたであろう。それはまた彼をして憂鬱にさせることではあったに違いない)のロケーションに相応しい緑色を帯びた金色で形容したものであろう。

「ほのほ」浄火としての炎。

「天の鼓手(こしゆ)、緊那羅(きんなら)」サンスクリット語の漢音写。元来はインド神話上の半神で、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」のインドの二大叙事詩に多く現われ、美しい声で歌を歌い、また、馬の頭をしているともされる。仏教に取入れられて、羽を持った歌神と見做されている。仏陀の教えを守護するは護法善神の一尊として八部衆の中に含められている。音楽の神であればこそ拍子(リズム)を打つ「鼓手」ででもあろう。

林務官」明治二三(一八九〇)年に施行された旧々「刑事訴訟法」で司法警察官として犯罪を捜査すべき官吏を指定しているが、これに「林務官」という官吏が含まれており、林務官は当時の農商務省が国有林管理のために各地方へ設置した林区署及びそこに所属する営林関係職員を指し、これが営林関係職員を司法警察職員として指定した最初の例である(以上は「いんちきやかた 研究分館」の「森林管理局員」に拠った)

「コロナは八十三萬二百……」「コロナ」(Corona)は太陽の周りに見える自由電子の散乱光或いは太陽表面の最も外縁にある電気的に解離したガス層を指す。参照したウィキの「コロナ」によれば、太陽表面が』六千『度程度であるのに対し、コロナは』百『万度以上と非常に高温で』、太陽表面から『高度』五百キロメートルあたりから』、『温度が上昇し始め、高度』二千キロメートルを『境に』一万度から百万度まで『急激に上昇する。なぜ』、『コロナが発生するのか、そして表面から離れているにも関わらず』、『温度が上昇するかは』、『現在でもはっきりとは分かっていない。太陽表面の運動によりひき起こされた波(アルヴェン波』(Alfvén wave:磁気流体波の一種で磁場中のプラズマの中を伝わる横波)『)が衝撃波となって温度を上げているという説や、コロナ中の小さな爆発現象が温度を上げているなど諸説ある』とある。しかし「八十三萬二百」「八十三萬四百」「七十七萬五千」という変異する数値の意味は判らぬ。現在、コロナの温度が百万度以上とするから、これはコロナの温度とみてもおかしくはないが、それでは以下のシークエンスと続かない。これは、寧ろ、コロナとして、宇宙へ放射される自由電子の散乱光の、地球表面に到達する光の束をドンブリ勘定で言っているとするなら、腑に落ちるようにも思われなくはない。なお、このコロナの数値や「太陽マヂツク」という語は実は、賢治の散文と楽譜(初回歌詞附きで、その歌詞は原稿画像を見る限り、「コロナはしちじふろくまんにひゃく」(拗音「ゃ」は小さい)とある)の特異なコラボレイション童話「イーハトーボ農学校の春」(決定稿。初期題名は「太陽マヂツク」)にも登場している。同作は大正一二(一九二三)年から翌年年頃に書かれたと推定されており、本詩篇の後に書かれた強い親和性を持った作品である。その作中では、「コロナは六十三萬二百」・「コロナは三十七萬十九」・「コロナは六十七萬四千」・「コロナは八十三萬五百」・「コロナは六十三萬十五」・「コロナは三十七萬二千」・「コロナは八萬三千十九」・「コロナは十萬八千二百」・「コロナは三十七萬二百」という細かな数値の変化を見せて九回もリフレインされてある。「新校本 宮澤賢治全集」(一九九五年筑摩書房刊)を底本とした楽譜(但し、最初だけ)を添えたものが、「青空文庫」のこちらにあるのでリンクさせておく。

「あの四月の實習のはじめの日」これは直近の一ヶ月前(本篇は五月二十一日の作)の大正一二(一九二三)年四月となる(賢治の稗貫郡群立稗貫農学校教諭着任は前年十二月三日)。畑山博著「教師 宮沢賢治のしごと」(一九九二年小学館ライブラリー刊)の賢治自筆時間割の画像を見ると(五十一ページ所収。大正一四(一九二五)年のもの)、同校の実習は毎日、午後の第六限目(最終時限)に行われた。同書の『第八章 実習「イギリス海岸」』によれば、実習は二時間配当であったが、他の教師が休みなしで二時間みっちり実働させたのに対し、賢治は効率よく生徒を作業に割り当て、一時間実働させてそれをこなしてしまい、後の一時間は『畦に寝転んだりいろいろして、話をしてくれるのです』(賢治の教え子瀬川哲男氏談)とある。

「液肥」「えきひ」。糞尿の混合物の液体肥料。

「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」先の「イーハトーボ農学校の春」には、冒頭に「太陽マヂツクのうた」がその楽譜とともに出、その後、ここと全く同じ「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」が現われ、その後に「太陽マヂツクの歌」が三度、現われる。「光炎菩薩」とは浄土真宗で親鸞が弥勒菩薩の大智を「不可思議光」と言い換えたことを想起させるが(私は無神論者であるが、親鸞の思想は青年期より興味を持ち、「教行信証」を始め、関連書はかなりよく読んでいる方である)、ここは、太陽をそうしたものに喩え、さらにその太陽光が、自然界の生きとし生けるもの総ての衆生の物心に対して無量の恵みを施す妙法を「マヂツク」(magic)と言い換えているのであろう。因みに、ギトン氏はこちらで、『前年の』大正一〇(一九二一)年十月に、フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 一八四四年~一九〇〇年)の「ツァラトゥストラはかく語りき」(Also sprach Zarathustra:一八八五年発表)を登張竹風(信一郎)なる人物が訳し、そのタイトルを「如是經 一名 光炎菩薩大獅子吼經 序品 つあらとうすとら」(訳註及び論評附き・星文館書店刊)『という題名の本が出版されて』おり、『浄土真宗では、「光炎王」というと、阿弥陀如来の別名のひとつだ』とされ、この訳[やぶちゃん注:翻案と言うべきであろう。]『にも、ツァラトゥストラの生まれ変りが親鸞だとか』『わけのわからないことが書いてある』とあり、『ともかく、宮澤賢治なら「光炎菩薩」という題名を見て』、『興味をそそられたことは、間違』いないと思われるとし、「ツァラトゥストラは語りき」』『のいちばん始めは、山の洞穴に籠っていたツァラトゥストラが、ある朝』、『昇った太陽に向かって何やら宣言してから山を下りて来る』『という始まり』であることからも、このキテレツな「如是經 一名 光炎菩薩大獅子吼經 序品 つあらとうすとら」と、この賢治の「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」の連関性を示唆しておられる。私もそれに同感する(因みに、私が所持し、愛読する哲学者の全集はニーチェとヴィトゲンシュタインの二人のそれである)賢治が狂信的なファンダメンタリストと決定的に異なる点は、科学者でもあった彼が、あらゆる分野・他宗教・他宗派をも越境し、それらの異文化的異教的思想をも積極的に理解しようとした点にあると考えており、その点に於いて、まさに宮澤賢治という存在を稀有の天才の一人と私は認識しているのである。

「ひとつのせきをこえるとき」これは先の「イーハトーボ農学校の春」のコーダによって「一つの堰を越える時」であることが判る。この小流れには去年までは「ちいさな丸太の橋(はし)」があったけれども、「雪代水(ゆきしろみづ)」(雪解け水)「で流れ」てしまってないので、肥桶(こえおけ)を担いでその堰(滞留した小さな池塘)を飛び越えねばならない、というシークエンスである。しかし……肥桶の「天秤棒」……「水を跨いで飛び越える」……「一つのせき」(それは「関」でもあるかも知れない)……意味深長ではないか(次注に続く)。

「ひとりがかつぎ棒をわたせば」/「それは太陽のマヂツクにより」/「磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた」この詩篇だけでは絶対に解読出来ない。これもまた、暗号であり、このアイテムを、先の「イーハトーボ農学校の春」(リンク先は先と同じ「青空文庫」版)の全表に照らし合わせて初めて、字背の意味するところを解読することが可能となるのである。ここもやはり、いや、こここそ、その方面に深い感受性を持っておれるギトン氏の分析を見るに若くはない。「イーハトーボ農学校の春」は『「阿部時夫」という一人の生徒のことに集中して書かれています』。『この生徒は背が高くて、体格の釣り合う相手がいなかったので、教師の賢治が、天秤棒の相棒を組んだのです』。『回想記などを見ると、賢治は、当時の日本人の平均よりは背も体格も大きくて、がっちりしていたそうです』。『しかし、阿部は、たまたま賢治と相棒を組んだというだけではありませんでした』。『「阿部時夫などが、今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑ってゐます。〔…〕けれども今日は、こんなにそらがまっ青で、見てゐるとまるでわくわくするやう、〔…〕もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでゐられるでしょうか。」』『と書いているように、浮き立つような春の嬉しさを顔に出さずにはいられない』のであり、『その生徒の素朴な性格は、作者の深く共感するところとなっていたから』なのであるとされ(ここまでの引用は)、『「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」という表現が、「小岩井農場」と『太陽マヂツク』、両方にありますが、とりあえずは、空高くから照って大地を暖めてくれるやさしい太陽──という意味にとれます』。『しかし、散文『太陽マヂツク』をおしまいまで読んでゆくと、この“菩薩のマヂック”という言葉には、特別な意味のあることが分かるのです』。『「おや、このせきの去年のちいさな丸太の橋は、雪代水で流れたな、からだだけならすぐ跳べるんだが肥桶をどうしやうな。阿部君、まづ跳び越えてください。うまい、少しぐちゃっと苔にはいったけれども、まあいゝねえ、それではぼくはいまこっちで桶をつるすから、そっちでとってくれ給へ。そら、重い、ぼくは起重機の一種だよ。重い、ほう、天びん棒がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った。太陽マヂックなんだ。ほんたうに。うまい。〔…〕』。『楊の木でも樺の木でも、燐光の樹液がいっぱい脈をうってゐます。」』『「天びん棒☆がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った」』『ことを、「太陽マヂック」と呼んでいるのです』(以下、本詩篇の四行、

ああ陽光のマヂツクよ

ひとつのせきをこえるとき

ひとりがかつぎ棒をわたせば

それは太陽のマヂツクにより

磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた

が引かれる)。これ『に対応します』。『「小岩井農場」を読んでいると、まるで、生徒たちがおおぜい並んで、天秤棒をリレーで渡しているように読めますが、そうではないのです』とされ、『じっさいには、散文のほうに書いてあるように、賢治と阿部、二人だけの体験なのです』。因みに、『いままで三人称で呼ばれていた阿部時夫が、ここでいきなり二人称になっていることに、注目すべきです。この少年に対する作者の思い入れの強さが現れていると言うべきです』。『そして、「小岩井農場」のほうでは逆に、作者と少年との私秘的な体験をカモフラージュするかのように、「ひとりが」「もひとりの」と、両者ともに三人称(ないし不定人称「ひと」)に、されているのです』。『そこで、具体的に、小川を堰き止めた細長い池を飛び越そうとしている場面を、思い浮かべてみてください』。『賢治は、長い天秤棒の片端を下腹にあて、両手で握って支えています。棒の先には重い肥え桶(カラの)が吊るされています。その棒の先が、池の向こう側にいる阿部少年の手に「磁石のように……吸い着い」たというのです』。『賢治の格好は何かを象徴していないでしょうか?』『勃起した長大な男性器が「磁石のように君の手へ吸い着いて行った」という隠れた意味をもつ表現になっていることは、否定できないでしょう』。『賢治自身は意識していない可能性もありますが』、『この程度の深層心理的解釈は許されると思います』。『『太陽マヂック』で、作者が阿部少年を誘って、他の生徒たちとは違う道を通って学校に戻ったのも、二人だけの時間を過ごすためだったと解せます』。なお、『森惣一によれば、宮澤賢治はハバロック・エリスの『性学体系』を読んでフロイトの精神分析をよく知っていたと云いますから』、『この部分も、意識して性的願望の表現として書いている可能性があります。なお、賢治はなぜ『性学体系』のような分厚い専門外の専門書を読んだかですが、同性愛志向のある自分の性欲が、異常なものではないかどうか、確かめようとしたのだと思います』とある。美事な解析である。私は諸手を上げて賛意を表するものである。因みに私は、小学校高学年でフロイトの「夢判断」に惹かれ、高校までに殆どの著作を読み終えた。今も、書斎の最上段にはフロイトの著作集が、一列、座を占めている。

「どのこどもかが笛を吹いてゐる」再び、現実の風景に戻ったかのように見せて、その実、主人公の詩人は夢想の中に未だあって、帰ってこない。だからこそ「それはわたくしにきこえない」/「けれどもたしかにふいてゐる」と続く。

「ぜんたい笛といふものは」/「きまぐれなひよろひよろの酋長だ」意味は不明だが、なんとなくしっくりくる。笛の音(ね)は確かに「きまぐれ」で「ひよろひよろ」していて定まらない呪的響きを持っている。呪的であるのは古代のシャーマン及びその呪法と結ばれることによって権威を維持した「酋長」の属性・風格である。

 最後に。このパートでは、ギトン(リンク先はサイト・トップ・ページ)のサイト内の複数の考察に、一方ならぬ助力を得た。ここに改めて謝意を表するものである。

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