宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 かはばた
か は ば た
かはばたで鳥もゐないし
(われわれのしよふ燕麥(オート)の種子(たね)は)
風の中からせきばらひ
おきなぐさは伴奏をつゞけ
光のなかの二人の子
[やぶちゃん注:これを以ってパートとしての「春と修羅」は終わっている。大正一一(一九二二)年五月十七日の作。現存稿は底本原稿のみで(大きな異同を感じないので略す)、これ以前の発表誌等も存在しない。「手入れ本」は、菊池曉輝氏所蔵本が全行文字末(二行目は「種子は」の後)に「……」を附し、宮澤家本が、「おきなぐさは伴奏をつゞけ」を「どのおきなぐさもゆれつゞけ……」と改変している。
「かはばた」「川端」と採っておく。
「しよふ」は「背負ふ」であろうか。
「燕麥(オート)」単子葉植物綱イネ目イネ科カラスムギ属エンバク Avena sativa で、同属の野生種で私たちにお馴染みの、カラスムギ Avena fatua の栽培種である。明治のごく初期に日本に移入され、東北や北海道で盛んに栽培された。粗挽き或いは圧扁した「オートミール」(oatmeal)で知られる他、味噌やウィスキーの原料、及び肥料に用いられた。……亡き祖母がよく作ってくれたオートミール……美味しくなかったけど、今は懐かしい……。
「風の中からせきばらひ」「われわれのしよふ燕麥(オート)の種子(たね)は」の係助詞「は」は、この主格をも示すように読め、だとすれば、燕麦の乾いた種子の籾等を吸い込んで咳払いをするのは「風」とも読める。孰れにせよ、実在の「われわれ」ではあるまい。
「おきなぐさは伴奏をつゞけ」「おきなぐさ」は前篇「おきなぐさ」で既出既注であるが、「伴奏をつゞけ」はよく判らない。次の不詳の「光のなかの二人の子」(あるネット記載では後の「小岩井農場」で「わたくしの遠いともだちよ」と賢治が呼びかける「ユリア」と「ペムペル」のような存在とあるのを見かけた)が天使のような存在の幻視とすれば(これも前の続きで、実際の子どものようには私にも読めない)、彼らが奏でる天界の楽の音(ね)を「おきなぐさ」が先取り、奏でているというのであろうか?]
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