宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 栗鼠と色鉛筆
栗鼠と色鉛筆
樺の向ふで日はけむる
つめたい露でレールはすべる
靴革の料理のためにレールはすべる
朝のレールを栗鼠は橫切る
橫切るとしてたちどまる
尾は der Herbst
日はまつしろにけむりだし
栗鼠は走りだす
水そばの苹果綠(アツプグルリン)と石竹(ピンク)
たれか三角やまの草を刈つた
ずゐぶんうまくきれいに刈つた
綠いろのサラアブレツド
日は白金をくすぼらし
一れつ黑い杉の槍
その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は
古い壁畫のきららから
再生してきて浮きだしたのだ
色鉛筆がほしいつて
ステツドラアのみぢかいペンか
ステツドラアのならいいんだが
來月にしてもらひたいな
まああの山と上の雲との模樣を見ろ
よく熟してゐてうまいから
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年十月十五日の作。本書以前の発表誌等は存在しない。「手入れ本」は有意な変更と思われないので略すが、菊池曉輝氏所蔵「手入れ本」では最終連六行総てに「☓」印を附し、藤原嘉藤治所蔵本の一本(現在、所在不明)では、その前の「その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は」から以下総てを「*」で挟んで抹消を示している。本詩篇を以って「東岩手火山」パートは終り、遂に「無聲慟哭」パートがやってくる。トシの死はこの翌月十一月二十七日のことであった。
・「アツプグルリン」のルビはママ。原稿は「アツプルグリン」で誤植であるが、「正誤表」にはない。「手入れ本」や全集は訂する。
「栗鼠」哺乳綱齧歯目リス形亜目リス科 Sciurinae 亜科 Sciurini 族リス属リス亜属ニホンリス Sciurus lis。
「樺」既に注した通り、賢治が「樺」と書く時は概ね「白樺」(ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバ日本産変種シラカンバ Betula platyphylla var. japonica)を指す。但し、松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本篇の解説(分割版の最初)を見ると、「宮澤賢治語彙辞典」では『この詩の場合は「ダケカンバである可能性が大きい」と』するとある。しかし、ブナ目カバノキ科カバノキ属ダケカンバ Betula ermanii はシラカンバによく似ているが、それよりもさらに高い高度に分布する樹種(漢字表記「岳樺」がそれを物語る。シラカンバより樹皮がかなり赤茶色がかっていること、葉に少し光沢があること(シラカンバの葉には光沢はない)ので識別できる)であり、私は以下に示すロケーションを考えると、やはりシラカンバでよいように思われる。さても以上の点景対象から、恐らくは岩手軽便鉄道(現在のJR釜石線)沿線で花巻からそう遠くないところがロケーションであると思う。
「靴革の料理のためにレールはすべる」「つめたい露」によって湿った革靴の臭いが結果して立ち昇ってくるのを、「レール」が「すべる」の原因へと転倒して表現したものであろう。
「橫切るとしてたちどまる」横切ろうとして、ふと、立ち止まって、周囲をきょろっと見回すカット。
「尾は der Herbst」後部はドイツ語で、「der」は定冠詞、「Herbst」(ヘルプスト)は「秋」の意。無論、ニホンリスがモヘアのような大きな尾をさっち振り立てるのを季節に換喩したもの。
「水そばの苹果綠(アツプグルリン)」「水そば」は恐らく「水蕎麥」であろう。正式和名は溝蕎麦(みぞそば)でナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii。葉は明るい緑色で互生する。葉の形が牛の額に似ていることから、「ウシノヒタイ」(牛の額)の異名もある。花期は晩夏から秋にかけてで、茎の先端で枝分かれした先に、直径四~七ミリメートルほどの、根元が白く、先端が薄紅色を呈する、多数の金平糖のような花を咲かせる(但し、他のタデ科Polygonaceae と同じく、花弁に見えるものは萼である)。私が偏愛するものである。花はこれ(ウィキの「ミゾソバ」の画像)。「アツプルグリン」(補正した)は「apple Green」で柔らかい黄みのかかった緑。一般には青林檎の果皮のような、やや青みがかった薄い緑を指す。
「石竹(ピンク)」石竹色を略して示した(この頃に大正期に流行ったルビ俳句を思い出す。漢字熟語に自由な当て読みをして音数律を合わせるのである)。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の花のような淡い赤色或いは桃色に近い色。ミゾソバの蕚花弁の尖端のグラデーションである。
「三角やま」諸家諸説紛々である。松井潤氏のブログ「HarutoShura」ではこちらで、『賢治が好んで作品に取り上げた七つ森の「三角森」、あるいは乳頭山の南東にそびえる「三角山」(標高』一四一九『メートル)でしょうか』とされ、ギトン氏はこちらとこちらで、後の童話「税務署長の冒険」に出る「三角山」を「江釣子森」(三百七十九メートル)と推定比定された上で、『江釣子森は、花巻西郊の湯口村と湯本村の間にある山で、見る方向によっては、とんがり帽子の三角に見え』、『地元では、むかしから江釣子森を「三角山」と呼んでいる地域があ』るとされる。さらに、『しかし』、この森は『湯口村のほうから見ると、馬の背のようにも見え』、これはまさに次に言い換えられる『綠いろのサラアブレツド』と一致するとされる(ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、『少なくとも現在では、“江釣子森”は木立に覆われていて、草原の山ではない』と言い添えがある)。他にも「税務署長の冒険」の「三角山」は『江釣子森と瀬川を挟んだ隣にある』草井山 (四百十三メートル)』『だという説もあ』るとされつつ、本詩篇について見るなら、『草井山のほうは線路から遠すぎるように思』われるされる。『江釣子森にしろ草井山にしろ、当時ちょうど伐採されて、草の山になっていたのかもしれ』ず、『そう考えるならば』、『「草を刈つた/ずゐぶんうまくきれいに刈つた」は文字通りの草刈りではなく、森林の伐採をそう表現していることにな』り、『たしかに、少し離れた麓から見れば、バリカンできれいに刈り取ったように見えるで』あろうし、『山を被っていた森林が刈られて、地形の輪郭の線がよく見えるようになったので、馬の形』と表現したのではないか、また、『もし江釣子森ならば、作者の歩いている「レール」は、湯口を通っている花巻電鉄の線路にな』ると指摘される。『ともかく、どちらにしろ、また、別の山だとしても、「三角山」は、花巻近郊のどれかの山で、作者のいる線路からは少し離れている──早池峰のように遠くではないけれども、すぐ近くではなく、背景の山だと思ってよさそうで』あるとある。私も「綠いろのサラアブレツド」(Thoroughbred:サラブレッド。 Thorough (完璧な・徹底的な)+ bred(品種)で、「人為的に完全管理された血統」「純血種」の意。家畜の馬の一品種で、英国原産種にアラビア馬その他を交配して数世紀に亙って主として競走用に改良・育成された)を気持ちよく解読されている点でも、ギトン氏の説に賛同するものである。
「白金」platinum(ラテン語)。元素記号 Pt。ウィキの「白金」によれば、『学術用語としては白金が正しいが、現代日本の日常語においてはプラチナと呼ばれることもある。白金という言葉はオランダ語の witgoud(wit=白、goud=金)の訳語である』。『単体では、白い光沢(銀色)を持つ金属として存在する』とある。
「くすぼらし」「燻ぼらし」。太陽光のハレーションをかく言ったものであろう。
「早池峰(はやちね)」岩手山の南東五十四キロメートル弱の位置にある、早池峰山(はやちねさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。岩手県宮古市・遠野市・花巻市に跨り、標高千九百十七で北上山地の最高峰である。
「藥師嶽」東岩手火山の火口を取り囲む外輪山の、北西にある最高峰(岩手山のそれでもある)を薬師岳(二千三十八メートル)と称する。
「雲環(うんくわん)」山の頂上やその中・下部を山を取り巻くように掛かっている雲のことであろう。以前に出て注した「ヘイロー」(halo)、太陽の「暈環」(かさ)とする説を見たが、それでは「その早池峰(はやちね)と藥師嶽との雲環(うんくわん)は」という情景が上手く映像に描けない。
「きらら」「雲母(きらら)」。日本画や浮世絵の「雲母摺(きらずり)」に「雲母粉(きらこ/きららこ)」(雲母を粉砕して粉状にしたもの)が用いられることは既に述べた。ここはその雲の輪に太陽光が散乱するさまを、かく「再生してきて浮きだしたのだ」と表現したものであろう。
「色鉛筆がほしいつて」これを賢治の自問自答(自己内の仮想幻想の会話)と採る向きもあるようだが、私はしかし、断然、遂に確かにトシがここに登場していると読む人間である。最終連は「ステッドラーの色鉛筆が欲しい」とトシが病床で言ったことへの、賢治の答えとしてあると読む。無論、実際にこう素気無く答えたのではなく、それを病床に届けてやろう思ったのであろうが、「來月にしてもらひたい」と賢治が思ったその来月の末、十一月二十七日の午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)でトシは逝くのであった。トシと本詩篇が全く無縁なものであるとしたら、私は「手入れ本」に見られる、異様な後半の削除の説明がつかないと思う。この最終連を消し去るのは、賢治の中の激しい悔恨の表現に他ならないと、私は思うのである。
「ステツドラア」ドイツのニュルンベルクに本拠を置く、鉛筆や色鉛筆を始めとする筆記具や製図用品の先駆である世界的メーカー、ステッドラー有限合資会社(STAEDTLER Mars GmbH
& Co. KG)。一六六二年頃にニュルンベルクでフリードリヒ・シュテットラー(Friedrich Staedtler)が鉛筆を発明し、その子孫が一八三五年に創業した。一八八七年(明治二十年)に、鉛筆十二硬度及び四十八色もの色鉛筆の量産を開始しており、本詩篇が書かれた四年後の大正一五(一九二六)年には、大阪に事務所を設立し、日本でもこの頃からステッドラー社製品が進出し始めたとウィキの「ステッドラー」にある。
「みぢかいペン」ギトン氏が、こちらで、ステッドラー社製の短い子ども用の色鉛筆の廃番品の写真を公開して呉れている。小難しいテクスト論を薀蓄して展開することは好き勝手に未来の誰彼でも奔放に出来るが、直きに失われてしまうかも知れない民俗的即物的証拠物件を特定するこうした作業にこそ私は深い敬意を感ずる。]
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