萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 山に登る 旅よりある女に贈る
山に登る
旅よりある女に贈る
山の頂上にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寢ころんで居た。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつて口(くち)にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。
おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのである。
[やぶちゃん注:初出は『感情』大正六(一九一七)年一月号であるから、これも前詩同様、プレ広告で、詩篇末下方に『詩集「月に吠える」より』とある。初出形は、添辞の「贈る」が「送る」であること、詩篇総てに句読点がないこと、「ねころんで居た」が「ねころんでゐた」、「口」にルビがないこと、「お前」は「おまへ」、「思つてゐる」が「思つて居る」である以外は、変更はない。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『山に登る(本篇原稿四種四枚)』として以下の二篇が載る。前者は同題であるが、添え辞があり、『――旅先より室生に送る――』とし、後者は無題。表記は総てママである。太字は底本では傍点「﹅」。
*
山に登つたときの記憶る
旅ノ消息
――旅先より室生に送る――
山の頂上にきれいな草むらがある、
おれわたしはそこへ登つていつた。
そのうへで わたし おれたちは ひるめ ねころんでゐた。そのうへで私おれたちはねころんでゐた。
空には風がながれてゐる
目をあげてとほい麓の方をながめると、
いちめんにひろびろした海のけしきのやうに思はれた、
わたしはおれはまるい石ころをひろつて、くちびるにあてながら
どこといふあてもなしに
おれわたしはおまへのことを考へながら思ひつめて
おれはぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた→あるいてゐる→あるきはじめたあるい★てゐる//てゐた★[やぶちゃん注:「★」「//」の記号は私が附した。二候補が並置残存していることを示す。以下でも同じ。]
くいつまでもいつまで步いてゐたい、
すこしはなれたところで馬のなき聲がきこえてくる、
みれば麓の方から
百姓づれがあがつてくるのだ、
おれは はればれしたおれの心が
山の頂上にのぼつてゐると
からだ中が靑々してしまつて
なんにもかんがへることがなくなるのだ。
――ある女に――
――旅先よりKにおくる――
*
「K」は室生犀星のこととしか思われないのだが、このイニシャルは不審。「K」で始まる彼の本名(照道)・呼称・号や、朔太郎と二人の関係の中で作られた綽名は私は知らない。元がエレナ詩篇であるが、それでも「K」は同じく不審である(エレナのモデルは馬場ナカ。「エレナ」は彼女の洗礼名。彼女は結婚して佐藤姓となっているが、孰れも「K」というイニシャルとは無縁である)。他の女性では、思い当たる人物は私には判らぬ。なお、後に編者注があり、『本稿には、欄外のあちらこちらに次の各行が記されている』として、
*
おれは けふもしきりにおまへのことを思ひつめてゐたるのである。
やつぱり、あなたを思ひつめてゐるのである。
おれはあのひとを戀してゐる
*
とある。
*
○
山の頂上にきれな草むらがある
わたしはいつもそこへのぼつていつた、そこの上で私たちはねころんでゐた
目をあげてとほい麓の方を眺めると
いちめんにひろくした海のけしきのやうに思はれた
空には風がながれてゐる
わたしおれは石ころ小石を、ひろつて、くちにあてながら
どこといふあてもなしに
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた
おまへのことを
しきりにあのひとのことを思つてゐるのである、
おまへのことを思ひつめてゐるのである、
むかしのゆめを追ひかけてゐるのである。
旅中より E女に
*
この「E女」はエレナで腑に落ちる。後に編者注があり、『本稿には、欄外のあちらこちらに次の各行が記されている。』として、
*
おまへあなたのことを思つてゐるのである、
おまへにと逢ひ★たくなつた//たいのである、★
旅中より、(室生に)
(おれはあのひとを戀してゐ た るのだ、おまへに逢ひたいのだ、
しきりにとお前に逢ひたいのであるたくなつたるのである、
しきりに一目お前とあひたいのだ、たくなつたのだ、
あの娘が戀しいのである、
しきりにおれはおまへに逢ひたいのだ
おれはあの人ひとを戀してゐたのだ、
*
と記されてある。この草稿版を見るに、これらは、朔太郎が本来はエレナ詩篇として書いたものを、対象を親友室生犀星に変換して意識的に倒錯させている不全な半隠蔽半露呈の奇体な詩篇であることが判る。とすれば、「K」とは、その異性から同性へとズラす過程で、半意識的或いは無意識にイニシャルを書き間違えた、フロイトの言う「言い(書き)間違い」であるように思われる。とすれば、不審な「K」は、わざと変えたものの、本名に名のナカの「カ」がその淵源であるとも言えるのかも知れない。]
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