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2018/11/29

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 無聲慟哭

 

           

 

こんなにみんなにみまもられながら

おまへはまだここでくるしまなければならないか

ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ

また純粹やちいさな德性のかずをうしなひ

わたくしが靑ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまへはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進(じやうしん)のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

  (おら、おかないふしてらべ)

何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら

またわたくしのどんなちいさな表情も

けつして見遁さないやうにしながら

おまへはけなげに母に訊(き)くのだ

  (うんにや ずゐぶん立派だぢやい

   けふはほんとに立派だぢやい)

ほんたうにさうだ

髮だつていつさうくろいし

まるでこどもの苹果の頰だ

どうかきれいな頰をして

あたらしく天にうまれてくれ

  ⦅それでもからだがくさえがべ?⦆

  ⦅うんにや いつかう⦆

ほんたうにそんなことはない

かへつてここはなつののはらの

ちいさな白い花の匂でいつぱいだから

ただわたくしはそれをいま言へないのだ

   (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは

わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

ああそんなに

かなしく眼をそらしてはいけない

  

[やぶちゃん注:以下の『註』は「永訣の朝」で示した通り、「無聲慟哭」の最終行のある底本の百九十ページと百九十一ページの見開きに、詩篇本文二行分を空けて、全体が八字下げで示されてあるが(原本画像)、ブラウザの不具合を生じるので、かく上げてある。]

 

 

 ※あめゆきとつてきてください

 ※あたしはあたしでひとりいきます

 ※またひとにうまれてくるときは

  こんなにじぶんのことばかりで

  くるしまないやうにうまれてきます

 ※ああいい さつぱりした

  まるではやしのなかにきたやうだ

 ※あたしはこわいふうをしてるでせう

 ※それでもわるいにほひでせう

 

[やぶちゃん注:本書の目次では前の「永訣の朝」「松の針」と合わせて以上の三篇を大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジット、トシの死の当日(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)で亡くなった)とするであるが、これはどう見ても、この日にこの三篇が書き得たとは、当日の臨終後の賢治の悲痛な状況(押入れに首を突っ込んで慟哭した)から見ても、到底、信じられない。以下、この点について考証する。

 まず以って、「永訣の朝」という標題の「永訣」という語は、トシが永遠に去ったその日に附し得るものではないと思う(少なくとも私には出来ない)。

 さらに冷静に観察すれば、「永訣の朝」「松の針」は時系列で整然と並んで配されてあり、それは「永訣の朝」の取り敢えずの既定形が出来たことを踏まえて、「松の針」が、やおら、創作され、しかもやはり安定した既定形が出来上がっていると読める。「無聲慟哭」はやはりその題名自体が、まさに深く静かに考えて、この時の自分のぎりぎりの悲傷の極みであるはずの心象を詩語にモデイファイ(「mental sketch modified」)する余裕を見せて創作され、配置されていると言える。

 これは、明らかにトシの死から有意な時間の経過が必要な仕儀である(そうしたことが瞬時に出来るのが詩人宮澤賢治だというならば、私は宮澤賢治という男を人間として逆に信用出来なくなる。それは死臭の芬々たる中で超然として小奇麗な和歌を苦吟する藤原定家みたような非人間性を覚えるからである)。

 だいたい、冒頭の「永訣の朝」の起筆が「けふのうちに」/「とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」で始まるのは、それを後に読む読者が既にしてこの人はもう亡くなっているという感覚のもとに読まれることを確信犯で前提としているのである。

 校本全集年譜に拠れば、賢治はトシの死後、現在知られる限りでは、本格的な詩作に関しては(文語詩篇ノートに同年十二月にメモらしきものはあるが、詩篇ではない)、次に載る「風林」の翌大正一二(一九二三)年六月三日まで、実にトシの死からは六ヶ月、前に書かれた「栗鼠と色鉛筆」からは七ヶ月近くも行っていないのである(但し、既に作られてあった本書で先行する「東岩手火山」の初期形「心象スケツチ 外輪山」と童話「やまなし」を四月八日附『岩手毎日新聞』に発表したり(「東岩手火山」で既注)、童話「氷河鼠の毛皮」(『岩手毎日新聞』(四月十五日附)や童話「シグナルとシグナレス」(五月に『岩手毎日新聞』に十一回で連載)したり、五月二十五日の県立花巻農学校(稗貫郡立稗貫農学校へ昇格した)新校舎(町の郊外に別に建築された)完成による開校式で自作劇「異稿 植物医師」(このリンク先は渡辺宏氏の「宮沢賢治 Kenji-Review」の第八百五十七号。そこに『初演形の台本は残っていな』い『が、出演した農学校生徒が記憶から書き起こし、再現』したものが電子化されてある)と「飢餓陣営」を演出・上演しており、文芸活動が沈滞していたわけではない)。

 トシの死の衝撃を考えれば、これは尤もな話であり、本三篇は、概ね、この詩篇封印の時間の中で醸成されたものと考えてよい。これらを決定稿に至らせずに、「風林」を書くことは、賢治には出来なかったと私は思われる。そうした「無聲」沈黙の行の中でこの三篇は産みの苦しみの末に誕生したものと捉えている。

 かく考えると、本書の「目次」クレジットの幾つかにある二重丸括弧(⦅ ⦆)の謎を解く鍵がここにはある気はする。それを持つのは、これより前の「春と修羅」「眞空溶媒」「靑い槍の葉」「原體劔舞連」だけで、本三篇以降に存在しない。

 「靑い槍の葉」は既に注した通り、本書刊行以前に「國柱會」の機関紙『天業民報』の大正一二(一九二三)年八月六日附に掲載されるという特異点の詩であるから、推敲が通常の詩よりも重ねられたことが窺え、全集年譜を見ると、創作クレジットの大正一一(一九二二)年六月十二日の条には、『この詩を労働歌として田植えの時生徒に歌わせる』とあるのである。これは田植え唄であり、唄わせてみて、歌詞としての唄い易さ等を勘案したと考えるのが自然であり、さすれば、これはこの日にプロトタイプが出来、しかも唄として実際に生徒らに歌わせ、後に『天業民報』にも発表し、本書で決定稿としたのであればこそ、この原型からは大きく変わった可能性が高い。さればこそ、その⦅起点日⦆として丸括弧が使われていると読める。

 それ以外の「春と修羅」「眞空溶媒」「原體劔舞連」は本書の中でも、「無聲慟哭」パートの三篇を別格として、ある種の「心象スケツチ」のクライマックス或いは外輪山のピークを成す中・長篇詩であり、本書用原稿の推敲跡や刊行後の手入れを見ても、原型に対する初期推敲がかなり綿密に行われていることが推測されるのである。

 それらは確かに、そのクレジットの日に起筆し、その日のうちに、一つの心象像として一応の完結したソリッドな詩形を成したものではあるが、その後に複数回、有意な改変が行われて決定稿となったのであり、それをよく理解している賢治は、そうした詩篇の産みの苦しみを自ら記憶するために、或いは、読者のここから後にはこの二重丸括弧の詩篇のグラデーションがずっと残って行くということを伝えたかったからなのではないかと思うのである。

   *

 本詩篇「無聲慟哭」の注に戻る。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。トシの死の前後に状況は前の「永訣の朝」の私の注を参照されたい

・「おまへはまだここでくるしまなければならないか」藤原嘉藤治所蔵「手入れ本」では、

 おまへはまだここでくるしまなければならないのか

とする。

・「精進(じやうしん)」のルビはママ。原稿は「しやうじん」であるから誤植であるが、「正誤表」になく、「手入れ本」の補正もない(ルビで見落とした可能性が大)。校本全集校訂本文は驚くべきことに「じやうしん」のママである。

・「(おら、おかないふしてらべ)」原稿は「(※おら、おっかなぃふうしてらべ?)」(「※」は他(前の二篇にも)にも見られ、『註』と対応させるための記号。最終校正で本文詩篇からは総て除去したものと思われる)である。最終校正で変更したものらしい。

・「⦅それでもからだがくさえがべ?⦆」/「⦅うんにや いつかう⦆」の二重丸括弧はママ。原稿は前後と同じ普通の丸括弧である。「正誤表」なし、「手入れ本」修正なし。とすれば、最終校正でここをかく二重丸括弧にして強調した可能性が強い

 

「無聲慟哭」個人的感懐であるが、私は後年、「源氏物語」の「夕顔」の帖の、夕顔が亡くなり、結局、その通夜の席に向かった光源氏が、粗末な板屋の中で僧らが無言念仏(ごくごく低声(ひきごえ)で声にならない念仏を唱えること。葬送の前にこれを唱えると、十五の功徳があるとされた)を唱える中、光が夕顔の亡骸に最後の悲傷に満ちた対面をするシークエンスを読んだ瞬間、「これこそ賢治の無声慟哭だ!」と思わず叫んでしまったのを思い出す。

   *

 道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原[やぶちゃん注:賀茂河原。]のほど、御前驅(みさき)の火もほのかなるに、鳥邊野(とりべの)の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき亂る心地したまひて、おはし着きぬ。

 邊りさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて、行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明(みあかし)の影、ほのかに透きて見ゆ。その屋には、女一人[やぶちゃん注:夕顔の侍女右近。]泣く聲のみして、外の方に、法師ばら二、三人物語しつつ、わざとの聲立てぬ念佛ぞする。寺々の初夜(そや)[やぶちゃん注:午後十時過ぎ頃の勤行。]も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。淸水(きよみづ)の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大德(だいとこ)の聲たふとくて、經うち讀みたるに、淚の殘りなく思さる。

 入りたまへれば、火取り背(そむ)けて、右近は屛風隔てて臥したり。いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか變りたるところなし。手をとらへて、

「我に、今一度、聲をだに聞かせたまへ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を盡くしてあはれに思ほえしを、うち捨てて、惑はしたまふが、いみじきこと。」

と、聲も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。

 大德たちも、誰(たれ)とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、淚落としけり。

 右近を、

「いざ、二條へ。」

とのたまへど、

「年ごろ、幼くはべりしより、片時たち離れ奉らず、馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか歸りはべらむ。いかになりたまひにきとか、人にも言ひはべらむ。悲しきことをばさるものにて、人に言ひ騷がれはべらむが、いみじきこと。」

と言ひて、泣き惑ひて、

「煙(けぶり)にたぐひて、慕ひ參りなむ。」[やぶちゃん注:御主人様の火葬の烟と一緒になって、お跡を慕って追い申し上げまする。]

と言ふ。

「道理(ことわり)なれど、さなむ世の中はある[やぶちゃん注:かように世の中は無常なものなのだ。]。別れといふものの悲しからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひ慰めて、我を賴め。」

と、のたまひこしらへて、

「かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ。」

とのたまふも、賴もしげなしや。

 

   *

「ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ」/「また純粹やちいさな德性のかずをうしなひ」/「わたくしが靑ぐらい修羅をあるいてゐるとき」トシの末期を前にして、賢治自身が露悪的に修羅道(それは自身の日蓮宗への信仰に対する激しい揺らぎを意味していよう)を彷徨している自己を暗示的に暴露する。いや、それを暴露することによって、実は逆にトシを襲う死に拮抗し、それを遠ざけようとする原始的な類感呪術的なものをも私は感ずる。

「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが」/「あかるくつめたい精進(じやうしん)のみちからかなしくつかれてゐて」/「毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき」/「おまへはひとりどこへ行かうとするのだ」「螢光菌」については、広く真正細菌 Bacteria 類には蛍光色素を持つ種が認められるが(例えば、プロテオバクテリア門 Proteobacteriaガンマプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属 Pseudomonas 等)、ここは「毒草」との並列、おぞましい「修羅」の妖光という属性から見て、一科一属一種の原始的かつ貴重なコケ植物で、暗所では金緑色(エメラルド色)に光る、マゴケ(真苔)植物門マゴケ綱マゴケ亜綱シッポゴケ目ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属ヒカリゴケ Schistostega pennata をイメージしていると採っておく(農科学者である賢治を考えれば、真正菌類でも構わない)。ウィキの「ヒカリゴケ」によれば、『北半球に分布し、日本では北海道と本州の中部地方以北に、日本国外ではロシア極東部やヨーロッパ北部、北アメリカなどの冷涼な地域に広く分布する。洞窟や岩陰、倒木の陰などの暗く湿った環境を好む。日本の自生地にはマッカウス洞窟(北海道目梨郡羅臼町)、長野県佐久市や光前寺(長野県駒ヶ根市)、群馬県嬬恋村(浅間山溶岩樹型)、吉見百穴(埼玉県)、北の丸公園(東京都)などがある』。『小型のコケ植物で配偶体(茎葉体)は』一センチメートル『程度。葉は披針形で、朔柄は』五ミリメートル『程度で直立し、先端につく朔は球形。原糸体(胞子から発芽した後の糸状の状態)は、一般的な蘚類が持つ糸状細胞の他に、直径』十五マイクロメートル(一マイクロメートルは〇・〇〇一ミリメートル)『程度の球状であるレンズ状細胞を多く持つ』。『ヒカリゴケは自力で発光しているのではなく、原糸体のレンズ状細胞が暗所に入ってくる僅かな光を反射することによる。またレンズ状細胞には葉緑体が多量にあるため』、『反射光は金緑色(エメラルド色)になる』。『生育環境の変化に敏感で、僅かな環境変化でも枯死してしまうほどに脆い存在である。そのため』、『生育地である洞窟の開発や大気汚染、乾燥化などの影響を大きく受けて、その個体数は減少し続けていると言われており、絶滅が危ぶまれている。日本ではその生育地の大部分は国立公園内にあり、採取は規制されているほか、国や地方自治体により天然記念物に指定されている』とある。「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが」は、話者である賢治にしてみれば、無論、日蓮宗であり、トシは賢治に誘われて、彼が、歌人で父方の親戚筋に当たる関徳弥らと開いていた法華経輪読会にも参加したりしたことがあり、末期の様子からも賢治は、彼女を当然の如く、自身と同行二人の日蓮宗信徒としての認識を持って言っている謂いであることは疑いない。しかし、トシの信仰はもっとオリジンなものであったようである。私が感銘した賢治関連書の一つに、山根知子氏の『宮沢賢治 妹トシの拓いた道―「銀河鉄道の夜」へむかって―』(二〇〇三年朝文社刊)があるが、その「第二部。第一章 賢治の前を歩いたトシ」で、山根氏は短い生涯の中でトシが辿った信仰遍歴を解説され、最後に、トシ直筆の「自省録」『における宗教的表現を追ってゆくと(なお、「自省録」引用中の「彼女」はトシ自身を指す)、「実在」「絶対者」「彼女の深い深いところにある本然の声」といった言葉をはじめ、特定の宗教に還元されない表現によって語り進められているところが多い。そのなかに「彼女は今こそ神と人との前にひれ伏さねばならない。/わがあやまちを許させたまへ/と祈らねばならぬ」「神の前に本当の謙遜を教へられた」ほか、「神を求める」「讃美」などキリスト教的表現があり、また「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に」という法華経の一節が使われていたり』、『「一念三千の理法や天台の学理は彼女には今は口にするだに僭越ではあるけれども、彼女の理想が小乗的傾向を去って大乗の煩悩即菩提の世界に憧憬と理想をおいてゐる事は疑ひなかった」などの仏教的表現がキリスト教的表現とも混在しながらなされており、最終的には既成の宗教の形にとらわれないでむしろそうした宗教の根底にある宇宙の生命と深く触れ、自己と宇宙との正しい関係を得ることがめざされている』。『トシの意識』は『既成の宗教にとらわれないで宗教の根底にある「宇宙の霊」をめぐる内容を指し示そうとして、その概念を示しやすい既成の宗教の表現を借りたというのが真実だろう』。この『トシの言葉から、宗教の生命に触れようとする姿勢が』『確認される。これらのトシの姿勢と相対して賢治の信仰に対する姿勢を改めて概観すると、一六歳の年に』『歎異砂信仰を父に対して宣言したことからはじまり、一八歳の年の『漢和対照 妙法蓮華経』との出会いにより』、『新たに法華経信仰および日蓮への帰依の思いが深まり、一九二〇(大正九)年末には日蓮主義団体の国柱会に入会してのち翌年一月に家出上京する頃まで、賢治の姿勢は長男として父に信仰的に自立した自分を見せたいあまりに、性急に自らの身を既成宗教や既成団体に徹底帰属させようとするものと見受けられる。しかし、のちにトシの死後において、一九二六(大正一五)年六月頃に善かれた「農民芸術概論綱要」では既成宗教に対して「宗教は疲れて」いると批判の姿勢を見せ、童話「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)においては「ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」と宗教の根底で通じ合う価値観が示され、一九二九(昭和四)年(推定)の書簡』『では「宇宙意志」を第一義として語るようになるなど、トシの姿勢に近づいてくるのである。このように見てくると、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」とトシの死に際して語ったトシの信仰への思いを、賢治は残された人生の歩みのなかで徐々に確認していったといえるように思われるのである』と述べておられる。私はこれに激しく共感する。トシは恐らく、兄を思って日蓮宗の信者であるように、その致死期にさえ振る舞って上げたのだとも思っているくらいである。トシが賢治に対して慈悲深い観音やマリアのように、である。

「苹果」賢治は概ね音の「ひやうくわ(ひょうか)」ではなく「りんご」と読んでいる。リンゴの果実。

「かへつてここはなつののはらの」/「ちいさな白い花の匂でいつぱいだから」「永訣の朝」の朝に引用した、トシのすぐ下のシゲに纏わる、逝去の夜の体験に、

   *

 重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。そして女たちは経かたびらを縫う。そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。

   *

とある。或いは、シゲがこれを語ったのを賢治は聴いたのではなかったか? 実際、後の「靑森挽歌」の中に、

   *

おしげ子たちのあけがたのなかに

ぼんやりとしてはいつてきた

⦅黃いろな花こ おらもとるべがな⦆

たしかにとし子はあのあけがたは

まだこの世かいのゆめのなかにゐて

落葉の風につみかさねられた

野はらをひとりあるきながら

ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ

   *

と出るのである。

 

「ただわたくしはそれをいま言へないのだ」/「(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)」/「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは」/「わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ」前に注したように、彼の言う「修羅」が、実は自身の日蓮宗への信仰への激しい揺らぎであるとするなら、この謂いはすこぶる腑に落ちる。賢治は「信仰」と「修羅」の自身の中のアンビバレントな「ふたつのこころ」を心眼に於いて見詰めている。しかし、それを死を前にして信仰を堅く持っているお前(トシ)――無論、これは実は誤認であると私は思っているが――には「いま」とても「言へないのだ」と賢治は述懐するのである。

「ああそんなに」/「かなしく眼をそらしてはいけない」これは賢治の最後のトシへの、精一杯の(しかしそれは実は〈独り善がりの〉でもある)声掛けである。……トシの視線は永久に賢治と読者から外(そら)され……トシは永遠の眠りに……落ちる……そこに無窮の安寧があるかないか、それは賢治と我々、惨めな生きている者の勝手な謂いである……

 

 なお、底本では、以上の末尾の『註』の後、その次のページ(百九十二ページ相当)をめくると、完全な白紙ページでノンブルもなく、見開きの左ページ百九十三ページから「風林」が始まっている。この仕儀は、パート標題の裏が白紙ページであるものの、パート内で版組としては、本書でここだけにしかない特異点である。これは本書用原稿には一ページを空ける指示は示されていない。出版上では、ここまでの組み方から見ても、ここを詰めて百九十二ページから「風林」を組んで至極、普通である。この白紙ページには私は賢治の本詩篇の余韻を醸しだすという意向が働いているのではないかと強く思うのである。]

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