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2018/11/29

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 風林

 

        風  林

 

  (かしはのなかには烏の巢がない

   あんまりがさがさ鳴るためだ

ここは艸があんまり粗(あら)く

とほいそらから空氣をすひ

おもひきり倒れるにてきしない

そこに水いろによこたはり

一列生徒らがやすんでいる

  (かげはよると亞鉛とから合成される)

それをうしろに

わたくしはこの草にからだを投げる

月はいましだいに銀のアトムをうしなひ

かしははせなかをくろくかがめる

柳澤(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも

ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには

騎兵聯隊の灯も澱んでゐる

⦅ああおらはあど死んでもい⦆

⦅おらも死んでもい⦆

  (それはしよんぼりたつてゐる宮澤か

   さうでなければ小田島國友

      向ふの柏木立のうしろの闇が

      きらきらつといま顫えたのは

      
Egmont Overture にちがひない

   たれがそんなことを云つたかは

   わたくしはむしろかんがへないでいい⦆

⦅傳さん しやつつ何枚、三枚着たの

せいの高くひとのいい佐藤傳四郞は

月光の反照のにぶいたそがれのなかに

しやつのぼたんをはめながら

きつと口をまげてわらつてゐる

降つてくるものはよるの微塵や風のかけら

よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ

⦅ほお おら……⦆

言ひかけてなぜ堀田はやめるのか

おしまひの聲もさびしく反響してゐるし

さういふことはいへばいい

  (言はないなら手帳へ書くのだ)

とし子とし子

野原へ來れば

また風の中に立てば

きつとおまへをおもひだす

おまへはその巨きな木星のうへに居るのか

鋼靑壯麗のそらのむかふ

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で

  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

  …………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて

      一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……

  ただひときれのおまへからの通信が

  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ

とし子 わたくしは高く呼んでみやうか

  ⦅手凍(かげ)えだ⦆

  ⦅手凍えだ?

   俊夫ゆぐ凍えるな

   こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい⦆

俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか

あの靑ざめた喜劇の天才「植物醫師」の一役者

わたくしははね起きなければならない

 ⦅おゝ 俊夫てどつちの俊夫⦆

 ⦅川村⦆

やつぱりさうだ

月光は柏のむれをうきたたせ

かしははいちめんさらさらと鳴る

 

[やぶちゃん注:まず、標題であるが、「ふうりん」と読んでおく。風が吹く林の意の賢治の造語と思われる。本篇は大正一二(一九二三)年六月三日(日)の作とする。校本全集年譜には同日にには、本篇が詩篇として久し振りに(後述)書かれたことを記した上、『生徒を引率しての岩手登山中のスケッチ』と記す。しかし、この日にそのような岩手登山が決行されたとは一言も書かれていない(事実確認する資料が添えられていないということである)。稗貫農学校の岩手山登山は大正十一年から始まり、夏休みの行事であった旨の記載が全集にはあるが、それは夏に限らず頻繁に行われた(或いは学校から許可された)ものだったのか。前年のそれは明らかに賢治一人の引率であったように読め、これもどうもそんな感じがする。なお、この登山は先行する前年九月に行われたそれを題材とした「東岩手火山」を一読すれば判る通り、御来光を拝むことをメインとした、午後から登り出して、九合目の小屋で一泊する甚だ危険な山行である(私は一応、高校の山岳部の顧問の経験があるが、こんな遅い時刻の登攀は許可されないし、引率もしたくない。実際、本篇では「月光」が描写される)。さらに言っておくと、底本の「目次」では『一九二二、六、三』(原本で総て半角)であるが、実は初版本「目次」の原稿が一部残っており、そこで「一九二二」と書い後、最後の「二」を「三」に訂していることから、かく決定することに一応しておく但し、後掲する本篇の初稿断片でも、この「一九二二」が出るのはかなり不審である。後述する)。このクレジットは前作「無聲慟哭」(トシの死の当日、大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジット)から七ヶ月後である(クレジットの問題は「無聲慟哭」の私の冒頭注を参照されたい)。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。本篇に限っては、「夜と柏」と題された清書後に手入れした原稿(断片か)が残っている(後掲する)。宮澤家版「手入れ本」では削除と削除痕(削除線を消しゴムで消した痕)が甚だ多く、最終的には全篇を削除していると採るのが至当であるらしい

・「(かしはのなかには烏の巢がない」本書用原稿では「烏」は「鳥」であり、校本全集校異では『おそらく誤植』とし、校訂本文を「鳥」とする。「正誤表」にない(「手入れ本」は削除志向として以下も扱わない)。まあ、普通に読むと、私は「烏」(からす)でなくて「鳥」(とり)であろうとは思う。

・「柳澤(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも」原稿は「柳澤(やなぎさわ[やぶちゃん注:「わ」はママ。])の杉はなつかしく」で「コロイドよりも」はない。「正誤表」に修正はない。しかし、この「コロイドよりも」はそもそもが意味が取れないから、とんでもない錯文の可能性が深く疑われる(全集校異には『語順誤植か』とする)「ざわ」は「さわ」の誤植であるが、「正誤表」に修正はない。しかし、校訂本文は「やなぎざわ」とし、「コロイドよりも」もそのままである。これはかなり不思議だ。

・「騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」原稿では「澱」は「淀」。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

「きらきらつといま顫えたのは」「顫えた」(ふるえた)の「え」はママ。原稿もママで「正誤表」や「手入れ本」に修正なく、校訂本文も「え」のママ。歴史的仮名遣では「顫へた」でないとおかしい。

・「わたくしはむしろかんがへないでいい⦆」末尾の二重丸括弧はママ。原稿は前に合わせて普通の丸括弧閉じるであるが、「正誤表」や「手入れ本」に修正はなく、全集校訂本文もここだけを二重丸括弧閉じるとする。しかし、これは本詩篇全体を見渡せば、丸括弧閉じると校訂するのが正しいと思うのだが。不思議。

・「…………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて」原稿は「…………此處(ここ)あ 日(ひ)あ 永(な)あがくて」と字空けがある。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

・「一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……」の「一日」のルビは原稿では「いぢにぢ」。「正誤表」や「手入れ本」に修正はない。

 本書用原稿を見ると、標題は最初、「かしはばやしの夜」で、次に「風と哀傷」とし、三度目に「風林悲傷」とした後に、「傷」を消し、上の「悲」も削除したような形で決定されているようである。因みに、最初のそれは後に童話「かしはばやしの夜」の題名として転用されている。

 以下、「夜と柏」と題された清書後に手入れした原稿(断片か)の最終形を示す(漢字を正字化し、促音等も正字にした)。

   *

 

        夜と柏。(一九二二・六・三・)

 

こゝは草があんまり粗(あら)く、

空氣を吸ひ倒れるには適しない。

そこに水いろによこたはり

一列、生徒らがやすんでゐる。

 (陰はつめたさと亞鉛とでできてゐる。)

それをうしろへ、

私はこの草にからだを投げる。

月はいま次第に銀のアトムを失ひ、

柏はからだを黑くかがめる。

「あゝ、俺はあど死んでもい。」

「おらも死んでもい。」

 (それは宮澤かさうでなければ小田島國友、

  向ふの闇のところがきらきらつと顫ふのは

 Egmont Overture にちがひない。

  誰がいまの返事をしたかは私は考へないでいゝ。)

「傳さん、シヤツツ何枚、三枚着たの?。」

傳さんは月光のうしろの鈍い黃昏のなか、

きつと口をまげて人のよささうな笑ひかたをしてゐる。

降つて來るものはよるの微塵や風のかけら。

橫に鉛の針になって流れるものは月の光。

 

   *

「一九二二・六・三・」である。本書用原稿で誤ったものが、それ以前の草稿でも誤っているというのは、この草稿を見ながら、決定稿を書いたとすれば、やや判らぬでもない。しかし、草稿で誤り、完全時系列で構成している本書で目次部分でも誤る(最終的には修正不能の印刷上の誤植であるが、自筆目次原稿さえも西暦の一桁目を落とすというのは尋常ではない)というのは、普通は考えられない。私はこれは、トシの死を認めたくない賢治の無意識がやらかしてしまった「しくじり行為」の一つであると採れると思っている。

 

「かしは」「柏」「槲」。ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata。火山地帯では群落がしばしば見られる。カシワの葉は柏餅のそれでお判りの通り、大きく厚いために「がさがさ鳴る」ことは事実だが、だから鳥が厭がって「巢がない」とは言えないだろう。葉には殺菌作用のある芳香のあるオイゲノール(eugenol)が含まれるが、それを鳥が忌避するとも思われない。山のひっそりとした柏林を措定するための感覚的表現であろう。

「ここは艸があんまり粗(あら)く」/「とほいそらから空氣をすひ」/「おもいきり倒れるにてきしない」下草が岩肌を覗かせて疎らであるか、がさついた藪であるために、登攀の一本をとるのに深呼吸をして、ぱったりと思いっきり倒れるには適していないというのである。生徒たちはかなりバテているようだ。

「水いろ」月光を受けていることを指すのあろう。後の「かげはよると亞鉛とから合成される」も月「影は夜と亜鉛」(青白色を帯びて鈍い光沢を有する)「から合成され」て、疲れ切った少年たちを深く静かに取り巻いているのである。

「銀のアトムをうしなひ」低い位置からの月光の鋭く突き刺すようなそれが、時間の経過に伴って中天へと動くことでソフトに変化し、身に馴れて穏やか感ぜられるようになったことを、月の光の中の銀の原子の衰弱として捉えたものであろう。

「柳澤」現在の岩手県滝沢市柳沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。西端に岩手山神社があり、そこから北西に三キロ半行ったところに、「馬返し」登山口がある。

「ぼうずの沼森(ぬまもり)」「ぼうず」は月光の指す中にこんもりと丸く見えることの謂いであろう。「沼森」は現在の岩手県滝沢市鵜飼沼森。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「騎兵聯隊」松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本作の解説(分割)で、『騎兵第』三『旅団(第』二十三及び第二十四『聯隊)のことで』明治四二(一九〇九)『年に盛岡市厨川に創設され』たとされ、『詩人は、岩手山中腹辺りに立っているとみられ』るとされ、ギトン氏はこちらで、『騎兵連隊のあった場所は分かりませんが、小岩井農場に騎兵が現れることもあったようですから、この近くに駐屯地があったのでしょう。現在、射撃場のあるあたりだ』った『とすると、柳沢から見て「沼森」の手前になりますが』とされる。

「柳澤の杉はなつかしくコロイドよりも」/「ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには」/「騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」この三行を眺めていると、

柳澤の杉はなつかしく

ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには

騎兵聯隊の灯もコロイドより澱んでゐる

という文字列の組み替えをしたくなる。聯隊内の電「灯も」闇の中に溶け込んでしまって「コロイドより」粒立ちを失って「澱んでゐる」ようにべったりと見える、というのはどうか?

「ああおらはあど死んでもい」/「おらも死んでもい」「あぁ! 俺(おら)はもう、後(あと)、死んでもいい!」「俺も、死んでも、いいわい!」と、歩き疲れた生徒たちが暗闇の中で、次々に音を挙げる。

「宮澤」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、「新校本全集 第十六巻(下)補遺・伝記資料篇」に『掲載されている「稗貫郡立農蚕講習所・稗貫農学校・花巻農学校在職時指導生徒卒業生名簿」を参考にすると』、これは大正一四(一九二五)年三月の『卒業生の「宮沢(臼崎)吉太郎」のことかと推測され』るとある。

「小田島國友」前記ブログで大正一三(一九二四)年三月の卒業生とし、『大正』十四『年卒業生は、この詩が書かれた時点では第』一『学年、大正』十三『年卒業生は第』二『学年』であったとされる。

「柏木立」「かしはこだち」。

Egmont Overture」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 一七七〇年~一八二七年)の、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の一七八七年の同名の戯曲のために作曲した劇付随音楽「エグモント」(Egmont:作品八十四)の序曲。曲についての解説はウィキの「エグモント(劇音楽)」を参照されたいが、『作品の題材は、エフモント(エグモント)伯ラモラールの物語と英雄的行為である。作品中でベートーヴェンは、自らの政治的関心を表明している。圧政に対して力強く叛旗を翻したことにより、死刑に処せられた男の自己犠牲と、とりわけその英雄的な高揚についてである。初演後、この楽曲には称賛の評価がついて回った。とりわけ』、ドイツの幻想作家として知られるエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 一七七六年~一八二二年:私の偏愛する作家である)『がこの作品の詩情を賛えたものが名高く、ゲーテ本人もベートーヴェンは「明らかな天才」であると述べた』とある。そちらで序曲部分を手短に聴け、以下に諸演奏へのリンクもある。ウィキの「ラモラール・ファン・エフモント」によれば、ラモラール・ファン・エフモント(オランダ語:Lamoraal van Egmont 一五二二年~一五六八年)は『フランドルの軍人、政治家。八十年戦争初期の指導者の一人』。当時、『ネーデルラント地方を支配していた神聖ローマ皇帝カール』Ⅴ『世のアルジェ遠征に従軍』、一五五四年、『イングランドへ渡り、カールの子フェリペ(フェリペ』Ⅱ『世)とメアリー』Ⅰ『世の婚儀を成立させた』一五五七年にはフェリペⅡ世の『対フランス戦におけるフランドル騎士団の指揮官を任じられ』翌年の『サン・カンタン、グラヴリーヌ』の戦い『で戦功を挙げ』、一五五九年、『フェリペからフランドル、アルトワ両州の知事に指名された』。その後、『故郷に戻り、スペインによるネーデルラント属領支配に憤った彼は、カルヴァン派の浸透し始めた地元ブルジョワ階級に支持を受け、オラニエ公ウィレム』Ⅰ『世、ホールン伯フィリップらとともに、フェリペの派遣した総督でパルマ公妃マルゲリータおよび枢機卿グランヴェルの専制に抵抗し』、一五六四『年には、グランヴェルをスペインへ退去に追い込んだ』。『しかし』、『フェリペが宗教裁判政策を改めることはなく、ラモラールはその緩和のためにスペイン宮廷へ赴くが、むなしく帰国した。その後』一五六六『年に組織された中小貴族の反対同盟には加わらなかったが、ラモラールに対する王の疑惑は解けなかった』。翌年、『新総督アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドが着任すると』、『ただちに逮捕され、翌年の裁判でモンモランシーとともに死刑を宣告されてブリュッセルで斬首刑に処された』とある。以前の「マサニエロ」といい、この手の悲劇的結末に終る英雄は修羅に生きると自認した賢治の好みではあったらしい。そこはまたそうした解析のお好きな方に丸投げすることとする。寧ろ、私にはその解剖されたエグモントの処刑の意味よりも、ここでの、「向ふの柏木立のうしろの闇が」/「きらきらつといま顫えたのは」/「Egmont Overture にちがひない」という、賢治の特異な視覚的変調と聴覚的共感覚の器楽的幻覚に非常に強く惹かれる。こんなところも、突如、あばら家にベートーヴェンが鳴り響くタルコフスキイ(「ノスタルジア」Nostalghia):イタリア・ソ連合作。一九八三年公開)とすこぶる親和性があるように思われるのである

「たれがそんなことを云つたかは」/「わたくしはむしろかんがへないでいい」これが賢治の内的な急激な精神変調の呼び水となっている。「そんなこと」とは最初の「⦅ああおらはあど死んでもい⦆」を指す。これは即ち、先の「永訣の朝」の臨終間際のトシの言葉「(Ora Orade Shitori egumo)」(おら、おらで、しとり、えぐも)を賢治にフラッシュ・バックさせてしまうのである。

「傅さん しやつつ何枚、三枚着たの」賢治が「傳さん」に呼びかけた。「傳さん」「佐藤傳四郞」は先のブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、大正一三(一九二四)年卒業生にいるとある。

「月光の反照のにぶいたそがれのなかに」「月光の反照」(はんせう:照り返し。)「の鈍い黃昏の中に」。

「降つてくるものはよるの微塵や風のかけら」常套的な星の降るような夜空に比して何とオリジナリティのある表現であることだろう。しかも、この縦(垂直)の幻想の自由落下に対し、横「に鉛の針になつてながれる」「月光」を挿し入れるのも憎い。

「にぶ」「鈍」。「鈍色(にびいろ)」「にび」と同義の色名。薄墨に藍をさした染色の伝統色名のこと。濃い鼠色。リンクするまでもないかろうが、色見本サイトのそれ

「堀田」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、やはり、大正十三年卒業生の堀田昌四郎と思われるとする。

「⦅ほお おら……⦆」/「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」/「おしまひの聲もさびしく反響してゐるし」/「さういふことはいへばいい」/「(言はないなら手帳へ書くのだ)」或いは、堀田は「はあぁ、おら、もうこれ以上、歩けん」とはっきり表明しかけて口ごもったのかも知れない。しかしそうだとしても、変調をきたした賢治にはそうした余韻として響きはしない。先の通りの「ほお おらもあど死んでもい」であり、その声は闇に、大地に、空に、宇宙に「おら、おらで、しとり、えぐも」というトシの声となって反響するのである。その幻しのトシの声に対して賢治は、「さういふことはいへばいい」/「(言はないなら手帳へ書くのだ)」という、如何にも脆弱で無効な彼賢治にしか適応不可能な処方として投げ出されるのである。生徒に言うなら確かにメモせよだろう、メモするのは何を使う? お前は彼女が欲しがった色鉛筆さえ与えてやれなかったのではなかったか? 言って楽になることもあるであろう、言っても書いてもその恐怖から逃れられぬものもあるであろう、しかし、今、ここではそうした施術は何の効果も齎さず、遂にトシの魂への呼びかけとなって、生徒たちは消え失せ、賢治の立っている空間は、一瞬にして野と風と柏の林から遂には宇宙空間へと変容してゆくのである。

「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか」ギトン氏は本詩篇については一貫して、この詩篇が創作されたとする日に生徒を引率して岩手山登山が行われたとして、検証しておられ、このシーンは実際の木星が見えていたとこちらで述べておられる。これは、この晩にちょうど木星が、よく見える位置にあったためと思われ』、『午前〇時の星図を見』る『と、この夜は、木星が南西の空に出ていた』ことが判るとして、サイト「賢治の事務所」の大正一二(一九二三)日の夜空の星座図がある『「風林」の創作』がリンクされてある。ああ! 蝎の目の前だねえ、ジョバンニ!

「鋼靑壯麗」「鋼靑」「谷」にも既に出たし、「銀河鉄道の夜」に出現するが(「六 銀河ステーシヨン」の冒頭。『そしてジヨバンニはすぐうしろの天氣輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になつて、しばらく螢のやうに、ぺかぺか消えたりともつたりしてゐるのを見ました。それはだんだんはつきりして、とうとうりんとうごかないやうになり、濃い鋼靑のそらにたちました。いま新らしく灼いたばかりの靑い鋼の板のやうな、そらの野原に、まつすぐにすきつと立つたのです』の一箇所)、他で私は見たことがない。賢治の造語と思われる。鋼(はがね)の紫色を帯びた切れるよう冴えた青のことか。

のそらのむかふ

「ああけれどもそのどこかも知れない空間」トシがいる時空間を指す。既に木星などという名指すことの出来る既知的世界でないことを賢治は無意識で感じている。そこは日蓮宗等によって安心立命する世界ではない(そもそも仏教はその元からして変生男子(へんじょうなんし)説(女は男に生まれ変わらないと往生出来ない)を抱えている)ことも、賢治は直感的に判っている。

「光の紐やオーケストラ」エグモントに引かれた連想と思われる。天界の音楽を光波のあざなえる紐に喩えたものか。

「ほんたうにあるのか」賢治にしてこうした彼の幻想を支えるものへの根源的懐疑のはっきりした表明は珍しい。これはある意味、彼には致命的な懐疑であり、危険である。

「…………此處(ここ)あ日(ひ)あ永(な)あがくて」/「一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……」というトシからの、霊界からの通信が「ただひときれ」、「いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ」った、という驚天動地の事実(幻覚・夢想)が語られる。永劫の光明の中にいるというのか? 賢治の性癖には悪戯っぽいところがあり、虚構の怪談を語って周囲を怖がらせたりすることもあったし、童話の多くにはそうした霊界や異界性を狙ったものもはなはだ多い。しかし、どうも私はこの話はそうした創作や文学的虚構ではないように思われる。精神変調の中で実際に見た(と思っている)一通の霊界通信を読み、それは瞬時に消え失せたのであろう。汽車に乗っている際の短い夢であったとしてもそれは、確かな霊体験として賢治には意識されいるのである。

「とし子 わたくしは高く呼んでみやうか」トシの肉声の応答を求めて賢治は彼女の名を高く叫ぼうとする、と、――「手凍(かげ)えだ」(手が凍(こご)えた)――と生徒の会話で、賢治は「はっ」と現実へと帰還するのである。

「俊夫ゆぐ凍えるな」「俊夫は、よく凍えるなぁ。」。

「こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい」「こないだも、自分のボタン、俺に掛けさせたじゃないか。」。

「俊夫てどつちの俊夫」「川村」ブログ「宮澤賢治の詩の世界」の「《ああおらはあど死んでもい》の話者」によれば、『字が一つ違っていますが、大正』一三(一九二四)『年卒業生の「長坂(川村)俊雄」と推測され』、『「どっちの俊夫」とあるのは、同じ学年に「高橋俊雄」もいるためで』あろうとある。次注も参照のこと。

「あの靑ざめた喜劇の天才」『「植物醫師」の一役者』「植物醫師」は
慟哭」の注で示した、この前月の五月二十五日に県立花巻農学校開校式で、賢治が演出して上演された自作劇「異稿 植物医師」(リンク先は渡辺宏氏の「宮沢賢治 Kenji-Review」の第八百五十七号)のこと。ギトン解説によれば、『河村俊雄(「川村俊夫」は賢治の誤字)も、小田島、佐藤と同級ですが、「喜劇の天才」は事実でした。そもそも、河村は、友達の受験の付き添いで来ていたのを、賢治が気に入って受験させ、その後は村長を動かし、両親を説得させて入学させた経緯があります。賢治はよほど河村が気に入っていたらしく、「植物医師」という戯曲は、河村の役柄に合わせて書いたと言われるほどです』とある。畑山博「教師 宮沢賢治のしごと」(初版一九八八年小学館刊)によれば、『長坂俊雄は「植物医師で」主役の爾薩待』(恐らくは「にさつたい」と読む。先の渡辺氏の電子化では「待」を「侍」と誤っているので注意されたい)『医師をやった。この劇は、初めは英語劇としてやるはずだったが、準備が整わず、ふつうの岩手弁の野外劇でやられることになった』とし、以下、長坂の証言として、『「わたしは医師ですから、白衣を着て、聴診器を持って診察室で待っているのです。するとそこへ、稲の病気で困っている農民が相談にやってくる。と、病人は稲なのに、お医者はいきなりその農民の脈の方を診ようとしてしまうのですね。やっていて、自分でおかしくて、おかしくてどうしようもないような劇でしたよ」』。『「それで、脈をとるとき、もう片方の手で懐中時計をポケットから出して演ずることになっていたのです。それを、わたしは、賢治先生には内緒で、シャツの下に大きな目覚まし時計を隠しておいて、いきなり取り出してみせたんです。すると観客はもちろん、賢治先生も大喜びで、わたしに喜劇の天才というあだ名をくれたのです……」』とある

「わたくしははね起きなければならない」ここは泊まった九合目の小屋の中の景で終わっているか。そこまでの実景が説明されねばならない理由はないから、それでよいのである。変調した危ない夢想にあっても、本能的に教師であった賢治は彼らを正しく岩小屋へ導いていたと考えれば、かえって読む我々もどこか、ほっと安心するではないか。]

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