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« 和漢三才圖會第四十三 林禽類 山烏(やまがらす) (ミヤマガラス) | トップページ | 宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 松の針 »

2018/11/28

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 永訣の朝

 

 

 

  無 聲 慟 哭

 

 

        永 訣 の 朝

 

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

うすあかくいつさう陰慘(いんざん)な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

靑い蒪菜(じゆんさい)のもやうのついた

これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

ああとし子

死ぬといふいまごろになつて

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

わたくしもまつすぐにすすんでいくから

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから

おまへはわたくしにたのんだのだ

 銀河や太陽、氣圈などとよばれたせかいの

そらからおちた雪のさいごのひとわんを……

…ふたきれのみかげせきざいに

みぞれはさびしくたまつてゐる

わたくしはそのうへにあぶなくたち

雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち

すきとほるつめたい雫にみちた

このつややかな松のえだから

わたくしのやさしいいもうとの

さいごのたべものをもらつていかう

わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ

みなれたちやわんのこの藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

Ora Orade Shitori egumo

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ

あああのとざされた病室の

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

   (うまれでくるたて

    こんどはこたにわりやのごとばかりで

    くるしまなあよにうまれてくる)

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 

[やぶちゃん注:本書の目次では大正一一(一九二二)年十一月二十七日のクレジットを持つ。トシの死の当日である(トシはこの日の夜午後八時三十分、満二十四歳(十一月五日が彼女の誕生日であった)で亡くなった)が、これはどう見ても、この日に本篇以下の三篇(後の「松の針」と「無聲慟哭」)が書き得たとは以下に示す当日の状況から見て到底、思われない。これについては本書の「目次」クレジットの幾つかにある二重丸括弧(⦅ ⦆)の解明を含め、「無聲慟哭」のところで考証したいと考えている。本書以前の発表誌等は存在しない。なお、「そらからおちた雪のさいごのひとわんを……」の末尾のリーダは底本では八点、「…ふたきれのみかげせきざいに」の冒頭のリーダは四点である。

・「Ora Orade Shitori egumo」は底本では頭の「Ora」が「Cra」で誤植しているが(但し、原稿は「(Ora Ora de Shitori egmo)」である。最終校正で他の部分は改めたか。「C」を見落としたのは「O」のカスレと見做してしまったからかも知れない)、「正誤表」にあるので(但し、「誤」を「cra」(「c」に傍点「ヽ」)、「正」を「ora(「o」に傍点「ヽ」)と小文字とするまたしても「正誤表」を誤植してしまっている)、流石にその誤りで示すのは悲惨過ぎるので、原則を破り、正しく大文字とした

 「手入れ本」は宮澤家版が最後の部分に有意な変更をしている。以下に示す。

   *

どうかこれが兜卒の食に變つて

やがてはおまへとみんなとに

聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

   *

「兜卒」はママ。「兜率天」であろうから、誤字(弥勒菩薩が釈迦入滅から五十六万七千万年、現在も、衆生を済度するために修行しているのが兜率天である)。言わずもがなであるが「食」は「しよく(しょく)」で「食べ物」。しかし、これは完全に改悪であり、採れない(「とそつ」の語の響き「食」の単漢字が生理的に私には不快だからである)松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割の最後)によれば、『草野心平は「天上のアイスクリーム」を「兜卒の天の食」に変えた点について、〈アイスクリームも悪くはない。けれども賢治は矢張りアイスクリームをも包含する天の食にしたかったのだろう。訂正された方が厳粛でカッチリしていて「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」にふさわしい、と私も思う。〉と述べてい』るらしいが、私は断然、拒否する。もしこうなっていたら、私のただの語彙感触上からの勝手な憶測であるが、本詩篇が高校の国語教科書に載る率はがっくり下がっていたと思う。賢治は後、本書刊行から二年八ヶ月後の大正一五(一九二六)年十二月発行の『銅鑼』に本篇を再掲しているが、幸いなことに、この改変は賢治の意識の中でも無効となったらしく、以上の本篇とは基本的に有意な異同はなく、ほぼ同じである。なお、他の変更が藤原嘉藤治所蔵本にはあるが、有意なものと思われないので略す。

 なお、本篇の次に「松の針」が配され、その次に「無聲慟哭」が示されるが、その「無聲慟哭」の最終行から、二行空けて、八字下げで、その前の三篇全体への「註」が配されてある(底本の百九十と百九十一ページの見開き)。以下にそれを画像で示しておく。

 

Museidoukokutyuu

 

これは、言うまでもなく、トシが逝ったその日に立て続けに詠まれた(とポーズする)絶唱群(「永訣の朝」「松の針」「無聲慟哭」三篇)の中に用いられた花巻方言(本篇のローマ字表記部一箇所を含む)を標準語訳したものである。こうした注は既に北原白秋の作品等にも認められるが、私はそれでも非常に画期的なものであったと思う。トシと交わした肉声を刻する当たって、その原型としての花巻弁を詩語に写したそれは、非常に高く評価されてよい。私は方言の肉声の強いリアリズムを詩篇で感じて激しく胸打たれたのは、賢治のこれら三篇と、山之口貘の「弾を浴びた島」(リンク先は私の電子化)だけであると言ってよい。

 ここで、校本全集の年譜からトシの死の前後を引用しておきたい。トシ病状は次第に重くなり、大正一一(一九二二)年十一月十九日には、下根子桜の宮澤家の別宅に移していた(既に「高級の霧」で注したように、七月六日の段階で、病状の悪化とともに母イチ(当時四十五歳)も看病疲れとなったことから、下根子桜(現在の花巻市桜町)にあった別宅(後に賢治が独りで自炊生活に入った場所でもある)にトシは移されていた)トシを、豊沢町の実家へ戻している。十一月十九日に豊沢町の自宅に戻った。その八日後にトシは亡くなってしまうのであった。

   《引用開始》[やぶちゃん注:注記号を除去した。下線は私が施した。]

一一月二七日(月) みぞれのふる寒い朝、トシの脈搏甚だしく結滞し、急遽主治医藤井謙蔵の来診を求める。医師より命旦夕に迫るをしらされ、蒼然として最愛の妹を見守る。この一日の緊張したありさまは〈永訣の朝〉〈松の針〉〈無声慟哭〉にえがかれている。

 いよいよ末期に近づいたとき、トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなづくようにして八時三〇分逝く。享年二四歳。押入れに首をつっこんで慟哭する。

一一月二八日(火) 弔問客でごつた返し、お通夜の食事を出すのに家族は追われた。宮津家には下に浄土真宗の、二階に日蓮宗の仏壇があり、賢治はその御曼陀羅に祈りつづける。

一一月二九日(水) 寒い風の吹く日、鍛冶町安浄寺で葬儀が行われる。花巻高女生徒二年以上が門前の両側に整列し、校長の追悼のことばがあった。賢治は宗旨がちがうために出ず、柩を火葬場へ送り出すとき、町角からあらわれて人びとと共に柩に手をかけて運んだ。火葬場は同じく鍛冶町(現在は藤沢町)にある地蔵寺となりの他のそばにあり、うすぐらく陰気な上に、道はじめじめとわるく叔母の梅津セツは着物にゴム靴というありさま、その上火葬場が火事で焼けていたため、野天で焼く始末であった。薪や萱を山のように積んだ。安浄寺の僧侶がかんたんな回向をしたあと、賢治は棺の焼け終るまでりんりんと法華経をよみつづけ、そこにいた人びとにおそろしいような、ふるえるような感動を与えた。遺骨は二つに分けるといい、自分の持ってきた丸い小さな罐に入れた。

   《引用終了》

なお、年譜、この直後の十二月のある日、『はげしい吹雪の日、学校の帰り妹』トシ『に似た女性を見てショックをうける』ともある。これは大正一二(一九二三)年八月一日のクレジットを持つ、次の「靑森挽歌」の残存草稿の一つ「靑森挽歌 三」の中盤に以下のように出現する。私が確かなソリッド・パートと判断する箇所のみを引用する(校本全集第二巻を用いたが、漢字を恣意的に正字化し、促音等も正字に直した)。

   *

私が夜の車室に立ちあがれば

みんなは大ていねむつてゐる。

その右側の中ごろの席

靑ざめたあけ方の孔雀のはね

やはらかな草いろの夢をくわらすのは

とし子、おまへのやうに見える。

「まるつきり肖たものもあるもんだ、[やぶちゃん注:「肖た」は「にた」。]

法隆寺の停車塲で[やぶちゃん注:これは奈良の関西本線の法隆寺駅らしい。]

すれちがふ汽車の中に

まるつきり同じわらすさ。」

父がいつかの朝さう云つてゐた。

そして私だつてさうだ

あいつが死んだ次の十二月に

酵母のやうなこまかな雪

はげしいはげしい吹雪の中を

私は學校から坂を走つて降りて來た。

まつ白になった柳澤洋服店のガラスの前

その藍いろの夕方の雪のけむりの中で

黑いマントの女の人に遭つた。

帽巾に目はかくれ

白い顎ときれいな齒

私の方にちょつとわらつたやうにさへ見えた。

( それはもちろん風と雪との屈折率の關係だ。)

私は危なくんだのだ。

(何だ、うな、死んだなんて

いゝ位のごと云つて[やぶちゃん注:いい加減なこと言って。]

今ごろ此處ら步てるな。)

又たしかに私はさうんだにちがひない。

たゞあんな烈しい吹雪の中だから

その聲は風にとられ

私は風の中に分散してかけた。

   *

 

 なお、年譜には「トシの死―一一月二七日」という注があり、これは非常に重要な事実を我々に伝えて呉れるので、かなり長いが、やはり全文を引用したい。

   《引用開始》[やぶちゃん注:下線は私が附した。]

 トシが病臥したのは、宮澤家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家で、八畳七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。あるときは雨がもって大さわぎをしたし、すきま風になやまされるので八畳の病室は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が高く小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない。母の看病疲れで七月下板子の別宅へ移ってほっとしたトシも、寒さや道の悪さ、食糧運搬の不自由などから一一月一九日再びこの病室へもどるときは「あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くて厭な家だもな」とつぶやいたが、予感通り一週間後に死を迎えたのである。

 二七日朝からみぞれ。七畳半に寝泊りしているつきそいの細川キヨが炭火をまっ赤におこし、火鉢にうつして部屋をあたため、藤本看護婦が蚊帳に入って脈をはかる。トシの脈は一〇秒に二つしか打たない。健康な人なら一〇秒に一二、三打つ。キヨがだれよりも先に二階にいる賢治へしらせ、賢治はすぐ仲町の藤井謙蔵医師へ電話、まもなく羽織袴の医師の来診があって危険がしらされた。家中が緊張し、やせて、白くとがったおとがいにも黒い長い髪のまとわりつくトシを見守っている。トシはみぞれを兄にとってきてもらつてたべ、そえられた松の針でほげしく頰を刺し、「ああいい、さっぱりした、まるで林のながさ来たよだ」とよろこぶ。

 トシは幼少から父の自慢の子であった。新しい婦人の生き方にも関心深かった父[やぶちゃん注:四十八歳。]は、母校の教諭になった娘を誇らしく思っていた。その愛娘がながい闘病生活にあえぎ、いま死へ向かおうとするのを見ては、哀れで言うすべもなく、思わず「とし子、ずいぶん病気ばかりしてひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人になんぞ生まれてくるなよ」となぐさめた。トシは「こんど生まれてくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよに生まれてくる」と答える。また母は愛情の籠ったことばで娘をなぐさめる。

 夜、母の手で食事したあと、突然耳がごうと鳴って聞こえなくなり、呼吸がとまり、脈がうたなくなる。呼び立てられて賢治は走ってゆき、なにかを索める[やぶちゃん注:「もとめる」。]ように空しくうごく目を見、耳もとへ口を寄せ、南無妙法蓮華経と力いっぱい叫ぶ。トシは二へんうなずくように息をして彼岸へ旅立った。八時半である。賢治は押入れをあけて頭をつっこみ、おうおう泣き、母はトシの足元のふとんに泣きくずれ、シゲ[やぶちゃん注:トシのすぐ下の妹。二十一歳。この年の一月に結婚していた。]とクニ[やぶちゃん注:末妹。十五歳。花巻高等女学校四年生。]は抱きあって泣いた。岩田ヤス[やぶちゃん注:賢治の父方の叔母。三十九歳。]が「泣かさるんだ、泣かさるんだ」(泣くのはもっともだ、泣いた方がいいんだ)といい、母は「ヤスさん、トシさんをおよめさんにしないでくやしい」と号泣した。やがて、賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシ梳いた

 重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。そして女たちは経かたびらを縫う。そのあけがた、針の手をおいてうとうとしたシゲは、落葉ばかりのさびしい野原をゆくゆめを見る。自分の歩くところだけ、草花がむらがって、むこうから髪を長くたらした姉が音もなく近づいてくる。そして「黄色な花コ、おらもとるべがな」ときれいな声で言った。

   《引用終了》

年譜の編者によるものであるが、これだけインパクトの強い年譜の注というのは極めて珍しい。名文である。

 なお、私は高校国語教師三十三年の中でたった一度だけ、この「永訣の朝」を朗読したことがあった(解析的授業はしていない。慥か、「説明しては感動が薄れるだけだね」と言った記憶がある)。賢治を敬して遠ざけ続けた私だったが、実際に音読してみると、この一篇は完全に分析を拒否して、燦然と輝く名詩篇であることが判る。

 

「あめゆじゆとてちてけんじや」既に画像で示した『註』に『あめゆきとつてきてください』とある。なお、後の童話「手紙」の「四」を鬼の首を獲ったように掲げて、これは実はチュンセ(賢治)が「雨雪とつてきてやろうか。」と聴き、ポーセ「うん」がうんと答えたから、そっちが真相で「心象スケツチ」なんだから、これは虚構だ、などと偉そうに薀蓄垂れている阿呆を見かけたが、これはもう賢治を読む資格のない輩の物言いに過ぎぬ(そもそも「心象スケツチ」で無効なものは童話も同じだよ。大馬鹿者が)。さらに言い添えると、私も二十代の頃に耳にし、その瞬間はハッとしたものの、「けんじや」はトシが賢治兄のことを「賢じゃ」(じゃは「者」で男性への尊称接尾語とするのであろう)と呼んでいたというまことしやかな話は、今の私には、いやったらしい甘さを持った、残るべきでない「賢治伝説」の如何にもな腐った「都市伝説」(アーバン・レジェンド)にしか感じられない。

菜(じゆんさい)」(校本全集校異は見落としているが、原稿は「蓴菜」である。但し、「蒪」は「蓴」の異体字であるから問題はない私の好きなスイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。天然の菱の実や蓴菜を採ったことがある私は私の世代(昭和三十二年生まれである)では珍しいであろう。

「これらふたつのかけた陶椀」「これら」というしみじみとした賢治(とトシ)の視線、「ふたつ」である理由、「かけ」ている理由、これらを綜合すれば、これは容易に賢治とトシが小さな頃から使っていた陶器の椀であろうと読める。それは後に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」/「みなれたちやわんのこの藍のもやうにも」でも明らかだ。試みに今調べてみたところ、菅原宮沢賢治「永訣の朝」におけるいくつかの疑問点について : 教材化のための作品研究の試みPDF)に、『「ふたつのかけた陶椀」とは「明らかに兄妹が幼少時に使ったお揃いの茶碗』『であるという点に,異論は出されていない。さらに「ふたつ」とは「自分ととし子の子供のころから共有した生の象徴」とする見解もある』とある。

「まがつたてつぽうだまのやうに」直進するはずの銃弾が幾折れにも左右に曲がって行くかのように、トシの病室から渡り廊下・母屋・その廊下から庭へと、走ってゆく賢治の姿を見る。この彼の事実としての曲折動態は、後の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」の直線の志向の決意に応じて、そちらを際立たせることとなる。

「蒼鉛(さうえん)いろ」「蒼鉛」はビスマス(Bi)で、純正のそれは淡く赤みがかった銀白色を呈する。

「ああとし子」/「死ぬといふいまごろになつて」/「わたくしをいつしやうあかるくするために」/「こんなさつぱりした雪のひとわんを」/「おまへはわたくしにたのんだのだ」/「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」私のこの下りにキリストを感ずる。マリアよりもキリストを感ずる。或いはマリア的キリストを感ずると言うべきか。トシはあらゆる生きとし生けるものの象徴の一人である「わたしに」、「こんなさつぱりした」「あめゆじゆ」、「雪のひとわんを」「とてちてけんじや」と「たのんだ」ことによって、あらゆる原罪を背負った人間たちを、涼やかに「ひとわん」に掬い(救い)あげて呉れたのだ、と私には響き返ってくる。

「銀河や太陽、氣圈などとよばれたせかいの」/「そらからおちた雪のさいごのひとわんを」ここでは常に膨張する幻想宇宙も所詮、ちっぽけなものへと縮まってしまっているように感じられる。賢治が普段得意としている無限の天文学的スケールの幻想が、トシとの永遠の訣別の間際になって、それも所詮、実在ではないちっぽけな仮想体に過ぎないという無常の真空を賢治は感じているのではないか?

「…ふたきれのみかげせきざいに」「二切れの御影石材に」。花崗岩の別名というか、建築用石材名である御影石(神戸市御影が産地として知られることに由来)が庭に置かれていたのである。本詩篇では具体的な人工物は極度に外されて画面外へ押し出されてある。最初から戻って見ても、実に「靑い菜(じゆんさい)のもやうのついた」二つの欠けた「陶椀」一つである。この仕儀によって、トシに含ませる「みぞれ」の純「白」の「天上のアイスクリーム」の清らかなイメージがしっかりと醸成されるようになっているのである。

「雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)」氷水化している「みぞれ」(霙)は固体と液体という物性様態の異なる二つの部分からなるので「二相系」で腑に落ちるが、それ以上にその二相は完全に分離せず、溶け合って「霙」という一体を形成している。さらに見れば、先の菅原氏の論文にも出るように、先の「ふたつ」(二つ)の陶椀といい、「ふたきれの」(二片)の御影の石材といい、この「二」は賢治とトシのみを画面の中に封じ込めるための暗号であることも容易に判る。

Ora Orade Shitori egumo「おら、おらで、しとり、えぐも」。『註』によれば、『あたしはあたしでひとりいきます』。痛烈にして悲痛な直接話法である。彼がこれのみを最後の最後にローマ字とした気持ちが私にはいたく判る。原稿では当初は「おらおらでしゆとり行(え)ぐも」としていたものを、かく書き換えている。

「くらいびやうぶやかやのなかに」/「やさしくあをじろく燃えてゐる」/「わたくしのけなげないもうとよ」ここを読む時、遠く、本「心象スケツチ 春と修羅」の「序」の冒頭の謎の詩句、「わたくしといふ現象は」/「假定された有機交流電燈の」/「ひとつの靑い照明です」/「(あらゆる透明な幽靈の複合体)」/「風景やみんなといつしよに」/「せはしくせはしく明滅しながら」/「いかにもたしかにともりつづける」/「因果交流電燈の」/「ひとつの靑い照明です」/「(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」が目から鱗が落ちる如く、氷解するのだと私は思う。

「(うまれでくるたて」/「こんどはこたにわりやのごとばかりで」/「くるしまなあよにうまれてくる)」『註』によれば、

   *

またひとにうまれてくるときは

こんなにじぶんのことばかりで

くるしまないやうにうまれてきます

   *

である。

「聖い」「きよい」。

「資糧」原義は「資金と食糧」であるが、ここは生きとし生ける衆生の魂に真に資するところの聖なる食物の意。]

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