萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 靑樹の梢をあふぎて
靑樹の梢をあふ
ぎて
まづしい、さみしい町の裏通りで、
靑樹がほそほそと生えてゐた。
わたしは愛をもとめてゐる、
わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる、
そのひとの手は靑い梢の上でふるへてゐる、
わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。
わたしは遠い遠い街道で乞食をした、
みぢめにも飢えた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで淚をながした、
うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを步きまはつた。
愛をもとめる心は、かなしい孤獨の長い長いつかれの後にきたる、
それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。
道ばたのやせ地に生えた靑樹の梢で、
ちつぽけな葉つばがひらひらと風にひるがへつてゐた。
[やぶちゃん注:「飢えた」「みぢめ」「飢えた」はママ。なお、本篇は全五連から成っているが、恐らく、当該詩集を読んだ人の中で、迂闊な読者(叙述的には切れており、句点も打たれているので「かなり迂闊な」人物だけとは思うが)は全三連で読む可能性がある。たまたま、そこ(第一連と第二連の間、及び、第四連と第五連の間)で改ページがなされてあるからである。ただ、寧ろ、綺麗に連を改ページのリズムで誤たず組めると朔太郎は踏んで、標題を改行しているのであろうから、寧ろ、そういう読者は朔太郎の「読者」の範疇に属さない大阿呆ということに朔太郎自身によってされてしまうのかも知れない。
初出は『感情』大正六(一九一七)年二月号。第二連二行目「そのひとの手は靑い梢の上でふるへてゐる、」以外は行末に句読点がないこと、第二連冒頭「わたしは愛をもとめてゐる、」が「わたしは愛をもとめて居る」となっていること、同二行目の「乙女」に「おとめ」(ママ)のルビがあること、第二連最終行「わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。」の「ゐる」が「居る」となっていること、詩篇末下方に『詩集月に吠えるヨリ』とある以外は、仮名遣いの誤りも含めて同じである。これもまた、前詩と同様、共時的広告である。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『靑樹の梢をあふぎて(本篇原稿五種六枚)』として二篇の無題がチョイスして載る。表記は総てママである。後者の一部にある「○」印は朔太郎自身が附したもの。
*
○
くらい
まづしい、くらいさむしい町の裏通りをあるいてゐるとで
ほそなが靑樹がほそほそと生えてゐた
ひからびた葉つぱが、梢→風靑空でふるえてゐた
わたしはそこを通り な かゝつて
くらいまづしい家屋の窓から
わたしおまへはほそい手をさし出してゐるた
手はひからび葉つぽのやうにふるえてゐる
だれがおまへを愛してゐる
わたしはいつもひとりでその道を通る
おまへはわたしを
おれは淚をながしてお前をこゝにまつてゐる、
いつもおまへ を愛して→の手
わたしを愛する、心のまづしい女をその道にもとめてゐる、
その→女そのひとの手は靑白い空の下で葉つぱのやうにふるえる
わたしは愛をもとめてゐる
けれどもかなしい窓の下にちかづいて嵐のやうにおまへをよんでゐる、
ああ、みな、おまへは煙のやうに消える、
愛はまづしい裏通りの靑樹を求める心はさびしい感情である、孤獨の長い長い病氣つかれののちにきたる、それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である、
けれどもわたしおれはいつもまづしい町の裏通をあるいてゐる
そして陰氣な心で道ばたの空地にふるえる靑樹をながめる、みてゐる、
靑い空は遠い天上を遠いところに光つてゐる
そして私の心は、かなしいくらい窓をみつめる、
窓にはまぼろしのやうな手が見知らぬ女の手がまぼろしのやうにふるえてゐる、
ああ おれのかなしみは心は遠い遠い街道のほとりにかなしむのだ、
おれはの心臟は乞食のやうにおととろへきつてゐる、
○
まづしい、田舍の陰氣な町の裏通りで
靑樹がほそほそと生えてゐる、
白つぽい街路の隅まづしい陰氣な長屋がしろつぽい街道の空では上でふるへてゐる、
葉つぱがひらひらうごいてゐる、街
路ばたのまづしい、くらい家屋の窓の中で
あるときおまへはしくしくと泣いてゐたやうだ
黃いろい→小さな→道ばたのきたないまづしい、くらい窓の中から
おまへは手をさしのばしてゐた、
なにを求めんとしておまへのくるしい心が
人氣のない街道に向つてあへいでゐた手をのばしてゐるのだ、
ほそい かなしい病身の 女の手が夕ぐれの窓にふるえてゐる おまへの顏 おまへの苦しい心の愛を求めてゐるのだ、
おれは淚をながしてゐる
○おれは淚をながしてゐる
○陰氣なしろつぽい街路の上をあるいてゐる
○おまへのかなしい病氣の窓の下に立つてゐるのだをもとめるために
ふるえるお前の愛の手をもとめ
そうして空氣の中で淚でそれをぬらすために
おれはおまへを愛してゐる
また見も知らぬおまへの愛を愛してゐる、
まづしい、不幸な、病氣の、女をあはれむ
おまへの愛をもとめてゐる、
死ん□婦のやうな
よもふしあはせな、さびしい草のやうな少女の愛をもとめてゐる、
おれは そのひとの手は靑白い空
ああ少女の愛をもとめてゐる
愛をもとめる心は、さびしいくるしい、孤獨のながいながい→つかれのためいきである、
それはおほきな湧きあがる海のやうな熱病の感情である、
けれどもおれはいつでもまづしい町の裏通りを步いてゐる
そこの空地にふる生える草靑木をみつめてゐる
そしておれの心はかなしくくらい窓の下 を で遠い遠い 靑い はればれした靑空の下 で をさまよひながら
おれの心は陰氣な窓の下にたたづみながら
み知らぬ少女の、ふるえるさびしい手をもとめてゐる、
その手は靑空白い空氣の中で幽靈のやうにふるえてゐる、
ああこの田舍はおれの心臟をくさらした、
いまは乞食のやうに
いつさいの「不幸」からな幽靈がおれの背後から石をなげつけてゐたのだ、
ああ、おれの心はこの遠いまづしい街路の上で
おれの心は風ほこりのやうにかなしみさまよひかなしみてゐるのだ、
おれの心臟はくさり きつて→はてて かゝつてゐる
おれの生涯は乞食
ああなになれば乞食のごとくに
ああおれはくさりきつた心臟→乞食のやうに→この故鄕をはなれて〉くさりきつた心臟といんきな田舍の町を捨てゝしまつて
おれはどこかの新らしい都をもとめ行かねばならぬ
田舍はわたしの心臟をくらした、
*
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