宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 戀と病熱
戀 と 病 熱
けふはぼくのたましひは疾み
烏(からす)さへ正視ができない
あいつはちやうどいまごろから
つめたい靑銅(ブロンヅ)の病室で
透明薔薇(ばら)の火に燃される
ほんたうに、けれども妹よ
けふはぼくもあんまりひどいから
やなぎの花もとらない
[やぶちゃん注:「ブロンヅ」はママ。現存稿はなく、これ以前の発表誌等も存在しない。大正一一(一九二二)年三月二十日の作品。本書で初めて最愛の妹トシ(明治三一(一八九八)年十一月五日~大正一一(一九二二)年十一月二十七日:二歳歳下)がはっきりと詠まれた詩篇である。トシはこの前年大正十年の六月頃より病臥し、八月には熱が続き(この八月中旬にトシの病気の電報を受け、賢治は東京から花巻に帰っている)、九月に遂に喀血(母校であった花巻高等女学校教諭心得(英語・家事担当)を九月十二日附で退職している)した。本詩篇には「病室」とあるが、私の所持する諸本では、この時期にトシが病院に入院していた事実は見出せなかったから、この「病室」とは、自宅のそれを指すようである(翌年七月六日に病状が悪化し、母も看病疲れとなったことから、下根子桜(現在の花巻市桜町)にあった別宅(後に賢治が独りで自炊生活に入った場所でもある)に一旦、移され、十一月十九日に豊沢町の自宅に戻り、その八日後に亡くなった)。菊池曉輝氏所蔵「手入れ本」では、一行目の「たましひは」を「たましひも」とした後、全行に斜線を引く。宮澤家本では、同じく「たましひは」を「たましひも」とした後、全体を以下のように六行目を除いて、大きく改変している。
*
戀 と 病 熱
けふはわたしの額もくらく
烏(からす)さへ正視できない
いもうとちやうどいまごろ
つめたく陰氣な靑銅(ブロンヅ)いろの病室で
透明薔薇(ばら)の火に燃されだす
ほんたうに、けれども妹よ
けふはわたしもあんまり重くひどいから
やなぎの花もとつて行かない
*
なお、全集校異に、『本作品については』、『先駆的な断片が「冬のスケッチ」』(前篇で注記した)『見られる』とある。そこで掲げられているのは以下である。筑摩版全集第六巻の「冬のスケッチ」(一七)と(三七)の分離した詩篇である(漢字を正字化した)。
*
からす、正視にたえず、
また灰光の桐とても
見つめんとしてぬかくらむなり。
*
あまりにも
こゝろいたみたれば
いもうとよ
やなぎの花も
けふはとらぬぞ。
*
前の「灰光」は「くわいくわう(かいこう)」で、石灰光・灰光灯とか呼ばれた、カルシウム・ライト(calcium light)の輝きを指すのであろう。これは酸素と水素を細管から吹き出させて燃焼させて得られる無色の炎(酸水素炎)のことである。キリ(シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa)の樹皮は灰白色で、縦に浅く裂け、あたかもそれは白い火炎のように見えるからである。「ぬかくらむなり」は「額(ぬか)眩むなり」であろう。
「戀と病熱」奇妙な題だ。恋の病いとトシの結核の熱を引っ掛けたなどという不謹慎な感覚は賢治にはあり得ない。「けふはわたしもあんまり重くひどいから」とは何だ? それが賢治の側の「熱」い「戀」の「病」いのそれであったとするなら? それなら詩篇全体が異様に腑に落ちるではないか? その相手は誰かというのは、まあ、それが判らないと詩篇が読み解けないわけではないから、ここは、やめておこう。悪しからず。賢治の相手の穿鑿が好きな人はネット上にワンサカいる。そちらでどうぞ。
「疾み」「やみ」と読んでいよう。
「あいつはちやうどいまごろから」肺結核の発熱は一般に夜になってから起こるのを常としている。
「つめたい靑銅(ブロンヅ)の病室」これは暗い部屋の比喩形容のように読まれがちだが、実景の色だと思う。後に注で全文を引く予定であるが、校本全集の年譜には、「トシの死―一一月二七日」という注があり、そこに『トシが病臥したのは、宮澤家が大正八年に買いとった隣りの佐藤友八家で、八畳七畳半の粗末な建物、これに廊下を通じて主家とゆききした。あるときは雨がもって大さわぎをしたし、すきま風になやまされるので八畳の病室は一年を通じて屏風を立て、蚊帳をつるありさま、その上、窓が高く小さく、暗く陰気で病人の気の晴れることはない』とあるのである。トシの病室は何と、一年を通じて屏風を立て回し、青蚊帳を吊っていたのだ。これを「つめたい靑銅(ブロンヅ)の病室」と言わずして何と言おうか!
「透明薔薇(ばら)の火」妖しい結核の症状としての激しい熱と、その熱性譫妄症状の苦しみを示している。]
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