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2018/11/22

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 原體劍舞連(はらたいけんばいれん)

 

          (はらたいけんばいれん)
      
mental sketch modified

 

  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

こんや異装(いさう)のげん月のした

鷄(とり)の黑尾を頭巾(づきん)にかざり

片刄(かたは)の太刀をひらめかす

原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ

鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を

アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ

生(せい)しののめの草いろの火を

高原の風とひかりにさゝげ

菩提樹皮(まだかは)と繩とをまとふ

氣圏の戰士わが朋(とも)たちよ

靑らみわたる灝氣(かうき)をふかみ

楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ

蛇紋山地(じやもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ

ひのきの髮をうちゆすり

まるめろの匂のそらに

あたらしい星雲を燃せ

 dah-dah-sko-dah-dah

肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ

筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び

月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し

敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ

こんや銀河と森とのまつり

准(じゆん)平原の天末線(てんまつせん)に

さらにも强く鼓を鳴らし

うす月の雲をどよませ

 Ho! Ho! Ho!

     むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)

     まつくらくらの二里の洞(ほら)

     わたるは夢と黑夜神(こくやじん)

     首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ

     靑い仮面(めん)このこけおどし

     太刀を浴びてはいつぷかぷ

     夜風の底の蜘蛛(くも)おどり

     胃袋はいてぎつたぎた

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

さらにただしく刄(やいば)を合(あ)はせ

霹靂(へきれき)の靑火をくだし

四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき

樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ

赤ひたたれを地にひるがへし

雹雲(ひやううん)と風とをまつれ

 dah-dah-dah-dahh

夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ

月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並

打つも果(は)てるも火花のいのち

太刀の軋(きし)りの消えぬひま

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

太刀は稻妻(いなづま)萓穗(かやほ)のさやぎ

獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の

消えてあとない天(あま)のがはら

打つも果てるもひとつのいのち

 dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年八月三十一日の作。本書後尾の「目次」の創作クレジットを示す表示は、先行する詩篇「春と修羅」「眞空溶媒」「靑い槍の葉」と同様、他の詩篇のそれの丸括弧でなく、二重丸括弧のそれで『⦅一九二二、八、三一⦆』(実際には漢字と読点は半角)となっている。本書以前の発表誌等は存在しない。

・「こんや異装(いさう)のげん月のした」原稿は「こんや異装(いさう)の弦月のした」とするが、最終校正で訂したものらしく、宮澤家版「手入れ本」では「こよひ異装(いさう)のげん月のした」とあって「げん」はひらがなのママである。

・「原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ」「体」はママ(原稿は新字採用なので不明だが、「手入れ本」の指示はないから、恐らくは賢治自身が「体」で書いていると推定される)。新字採用の稿本全集校訂本文も当然ながら(とは思わないが)「原体村」である。ルビの「おどり」の「お」は原稿もママ。全集校訂本文も「お」。

・「鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を」原稿では「鴇」を「鵇」(異体字)とする。宮澤家版「手入れ本」では、

 若やかに波だつむねを

と大きく改変している。

・「生(せい)しののめの草いろの火を」宮澤家版「手入れ本」では、

 ふくよかにかゞやくむねを

と大きく改変している。

・「楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ」「掬(ぶな)」は原稿では「椈」で誤植であるが、「正誤表」にはなく、「手入れ本」でも修正されていない。見落としであろう。全集では「椈」と訂する。「椈」はブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata

・「あたらしい星雲を燃せ」の後の字下げの「dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では初行の「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」と同じ。「手入れ本」も手を加えていないから、最終校正で変えたものか。

・「こんや銀河と森とのまつり」宮澤家版「手入れ本」では、

 こよひ銀河と森とのまつり

と変更している。

・「さらにも强く鼓を鳴らし」原稿では「鼓」に「こ」のルビがあるが、「手入れ本」に修正はないから、これでよしとしたものか。しかし私などは「つづみ」と訓じてしまい、「原体剣舞」を知らない読者には不親切である。

・「Ho! Ho! Ho!」原稿は「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」とするも、その下の余白に『 ノ代リニ daa 又ハdah」と注記する。最終校正でかく変更したものらしい。「ä」(ドイツ語のウムラウト(Umlaut)附き)を用いた原型は、賢治がこの詩篇で出る一連のオノマトペイアに発音上の変化を持たせることを当初は考えていたことを示している。因みにドイツ語のそれは「エ」と殆んど同じであるから、これだとそのままなら、「デェ・デェ・デェ・デェ・デェ・スコ・デェ・デェ」か。

・「むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)」「たつた」のルビはママ。本書用原稿も「たつた」。「手入れ本」は藤原嘉藤治所蔵本の現存の一本のみが「たこく」とするだけで、全集校訂本文も「たつた」である。私は「たっこく」で知っており、行ったこともあるので、「たつこく」の誤植かと思ったので調べてみたが、「たつた(たった)」の読みは見当たらない。後で引く後の童話「種山ヶ原」では「たつこく」のルビを振るから、いよいよ不審で、さらに検索してみたところ、米地(よねち)文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』(『総合政策』第十八巻第二号(二〇一七年)・PDFでダウン・ロード可能)の『達谷の読み「たつた」』に以下の記載を見出せた。

   《引用開始》

 この詩の達谷には「たつた」とルビが振られているが、その地に近い所で育った米地にはそのような呼び方を聞いた記憶はないし、歴史や地名の研究者に問い合せても、そのような読みがあったとは聞いたことがない、ということであった。

 賢治が「たっこく」という正しい読みを知っていたことは童話「種山ヶ原」では達谷に「たつこく」とルビが振られていることからもわかる。

 原稿が遺されていないので推定ではあるが、おそらく、「たつこく」と賢治が少し斜めに書いたのを、後の二文字を一字と見間違えた植字工が、左下の「く」と右上の「こ」とを合わせて「た」と読んだのであろう。『春と修羅』には誤植が多かったが、それを賢治はあまり気にしなかったらしく、存外、語感がよいので誤植をそのままにしたのかも知れない。

   《引用終了》

この最後の推理には不審がある。本書用原稿は現存し、先に述べた通り、校本全集の「校異」に活字化されており、そこには確かに「たつた」とルビが振られているからである。しかし、やはり、「たつた」という異名はなかった可能性が高いことはこれで明らかであろう。ここは一種の仮想の唄部分であり、以上の『存外、語感がよい』音数律も悪くないと賢治が思った『ので誤植をそのままにしたのかも知れない』というのも頷けないことはない。また、全く単に賢治が最初に誤記し、見落とし続けていたという大ボケもあり得る。本書では誤植ルビに関しては訂していないケースが今までも複数あったからである。

・「アンドロメダもかゞりにゆすれ」原稿では、最初、アンドロメダではなく、「カシオペア」としたものを削除し、

 Ho! アンドロメダもかゞりにゆすれ

とするが、ご覧の通り、「Ho! 」はない。最終校正で変更したものらしい。

・「太刀を浴びてはいつぷかぷ」原本では「太刀」は「大刀」で誤植であるが、「正誤表」にあるので、訂正して示した。

・「蜘蛛おどり」の「お」は原稿もママ。全集校訂本文も「お」。

・「胃袋はいてぎつたぎた」原稿は「はいて」は「吐いて」。最終校正でかくしたものらしいが、個人的には「吐いて」のままの方が躓かずによかったようには思う。「吐」という漢字が感覚的に賢治が嫌ったものと思われる。

・「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。先の校正指示が影響した印刷所側の改変かとも思われる。

・「dah-dah-dah-dahhは底本ではご覧の通り、最後の「dahh」の前にあるハイフンだけが有意に上にある。植字のミスであるが、原則に則り、再現した。なお、原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。最終校正での賢治の変更と思われる。

・「月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並」原稿は「矢なみ」。最終校正での賢治の変更か。

・「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。三つ前の注で述べた通り、先の校正指示が影響した印刷所側の改変かとも思われる。

・「獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の」底本では「星座」が「屋座」と誤植しているが、「正誤表」にあるので訂した。

・「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」は原稿では「dä-dä-dä-dä-dä-sko-dä-dä」。同前。

 

「原體劍舞連(はらたいけんばいれん)」本詩篇を取り上げたウィキの「原体剣舞連」によれば、岩手県奥州市江刺区原体(はらたい)地区(旧仙台藩の江刺郡原体村で、後に大田代・小田代・石山・土谷地区とともに田原村となり、現在は岩手県奥州市江刺区田原の最北端地区で伊手川流域。字に土公・稲荷・内舘・山舘・沢内・谷地田(やちだ)などがある。ここはウィキの「原体」に拠った。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、どうも賢治が見たのはここではなく、もっとずっと東の種山ヶ原に近いところであるようだ。後述)に古くから伝わる民俗芸能の一つで、『踊り手に「信坊子」』(「すぼっこ」と読む。空也上人に『擬せられる聖者の仮の姿とされる』と中路正恒「ニーチェから宮沢賢治へ:永遠回帰・肯定・リズム」(一九九七年創言社刊)にある。但し、グーグル・ブックスで確認したもので私は原著を持っても読んでもいない)『「信者」「亡者」の役の全てを子供達が演じ、その純真無垢』な『清らかさにより』、『先祖の霊を鎮めようと伝えられてきた念仏踊り(鬼剣舞』(おにけんばい)『)の一種と思われる』とある。「鬼剣舞」はウィキの「鬼剣舞」によれば、『念仏踊りに分類される』もので、『正式には念仏剣舞の一つであるが、威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけ』、『勇壮に踊るところから、明治後期以降』(明治三〇(一八九七)年頃)に『「鬼剣舞」と呼称されるようになったとみられる』。『かつては男性が演じることがほとんどであったが、最近では女性の演じ手も増えている』。『この踊りの独特の歩行に、修験道の鎮魂の呪術のひとつ「反閇(へんばい)」があ』り、これは『陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、「大地を踏み』、『悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行われる舞い」の要素と、念仏によって御霊や怨霊を往生させて、災厄を防ぐ浄土教由来の信仰的要素が見られる』とある。「需要研究所」のサイト「宮沢賢治の宇宙」のこちらに、に先の中路氏の著作についての言及があり、そこに、『最近たまたま、中路正恒さんの"nomadologie" というサイトの中に「宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって」という文章があるのを見つけた』。『この中で、原体剣舞の庭元に伝わる家伝書によると、黒面をつけた人(賢治が青仮面と書いているのは実際は黒い仮面)が演じるのは空也上人であり、とすると青仮面を悪路王に結びつける賢治の解釈は誤解だと、中路さんは書いている』。『しかし、江刺市の調査によると江刺の』十四『の剣舞のなかに、ひとつだけ』、『その起源として悪路王との関係が語られている、熊野田剣舞という剣舞がある。賢治は、この剣舞のことを江刺地方の地質調査の際に聞いた可能性があるのではないかと中路さんは言う』。『また、補説によると、賢治の短歌に出てくる上伊手剣舞は熊野田剣舞と同じ系統のもののようだ。となると「原体剣舞連」の詩には、上伊手剣舞の印象が投影されている可能性も強くなる』。『この中路さんの文章のお陰で、賢治の「原体剣舞連」をめぐる事実関係がかなりすっきりしてきたようだ』とあるのを見出した。調べてみると、中路氏のサイトは「nomadologie ou pensées éphémères 遊動の哲学のために」で、そこの『「ひとつのいのち」考――宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって――』というのが、言及されたそれである。私は、「原体剣舞」を見たことがなく、その民俗学的淵源も知らないので、まずはそれをじっくりと読み解きながら本詩篇を読むのが順序ではあろう。しかしそれを踏んで注をしている余裕が今の私にはない。中路氏は賢治に大きな誤認(大徳(だいとこ)の聖人空也上人をモデルとする祭内の重要人物を悪玉蝦夷悪路王に誤認して詩篇世界を構成してしまったこと)があったと指摘されるわけだが、ここではまず読者に中路氏のそのを読んで戴き、その既読条件下を措定して必要最低限の注に留めることとする。そうでないと、この私の「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版は永久に完成しそうにないからである。悪しからず。

 なお、中路氏の言う「原体剣舞」に登場する、空也上人に擬えた、『黒面をつけた人(賢治が青仮面と書いているのは実際は黒い仮面)』=賢治が悪路王と誤認して本詩篇を書いてしまった〈その人〉は〈この人〉である(共著ブログ「イーハトーブログ」の「シュガもっち」氏の記事の写真にリンクしてある)。

 まず、この原体剣舞の舞踏を賢治が――☆いつ――★どこで――見たかであるが、これは中路氏の上記論文の冒頭で、『当時盛岡高等農林学校の学生であった宮沢賢治は、大正六(一九一七)年 の八月から九月にかけて、同級生らと地質調査のために江刺郡地方を訪れ、その際にその地方のさまざまな剣舞を目にすることになる。子供たちによって舞われるその地方の剣舞は、賢治にある強い印象を与えたようである。その印象は直ちに短歌に詠まれ、また後には物語に、詩に、そして歌曲に取り入れられてゆくことになる』とされておられる。則ち、これは先の「高原」で注した五年も前の調査行(大正六(一九一七)年八月二十八日から推定九月八日までの十日ほど)での体験に基づく回想詩篇ということになる。全集年譜でも、賢治の短歌によってこの調査行で、賢治が種山ヶ原や『江刺郡田原村原体(合併前は原体村)に行ったことが推定できる』とある。年譜の言う短歌は(以下、校本全集をもとに漢字を恣意的に正字化した「めん」は「假面」二字へのルビ。)、

 

   原體劍舞(ばい)連

 さまよへるたそがれ鳥に似たらずや靑假面(めん)つけて踊る若者

 若者の靑假面(めん)の下につくといきふかみ行く夜をいでし弦月

 

の二首であるが、これは大正六(一九一七)年十月十七日発行の盛岡高等農林学校内文芸同人誌『アザリア』第三号に(「メン」は同前)、

 

 原體劍舞(バヒ)連   賢治

 やるせなきたそがれ鳥に似たらずや靑假面(メン)つけし踊り手の歌。

 若者の靑假面の下につくといき深み行く夜を出でし弦月。

 靑假面の若者よあゝすなほにも何を求めてなれは踊るや。

 

がある。さらに、調査行の終り頃に保阪嘉内に宛てた葉書(推定九月三日・校本全集書簡番号四十)では、

 

 うす月にかゞやきいでし踊り子の異形のすがた見れば泣かゆも。

 劍まひの紅(あか)ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。

 月更けて井手に入りたる劍まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。

 うす月の天をも仰ぎ大鼓うつ井手の劍まひわれ見て泣かゆ。

 

と四首を詠んで送っている(短歌のみが記載されている。三首目の「井手」と最後の「大鼓」の、「井」と「大」には全集編者によって誤字の可能性(「伊」と「太」のであろう)を示す記号が添えられてある。以下の引用を参照)。後者の四首を掲げられた上で、中路氏は上掲の『「ひとつのいのち」考――宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって――』で、『彼は、思わず泣いてしまうほどの感銘を、この剣舞から受けたのだ。そして、これらの歌から判断すると、彼が感銘を受けたのは、まず何よりも、踊り子たちの「異形のすがた」であったようである。そして「紅ひたゝれ」が「地にひるがへる」様も、うす月の差す時刻や、太鼓の音などの環境的な状況とともに、彼には印象の深いものであったようである。さらにわれわれは、ここで、この剣舞が、「井手の剣まい」と呼ばれるものであったことにも、少し注意しておこう。「井手」とは、江刺地方のひとつの村落であり、今日普通には「伊手」と表記される土地のことである。今日その土地では、「寺地剣舞」と呼ばれる剣舞が踊られている』。『そしてこのことは、大正六年の当時も同じであったと推察される』とある。さて、それでは、ここに出る中路氏の言われる、賢治が「原体剣舞」を見た★場所――「井手」=「伊手」とはどこなのか? 調べて見ると、江刺区伊手で、この附である(グーグル・マップ・データ)。種山ヶ原の西の麓であり、或いは、種山ヶ原に遊んだ帰りに見た可能性もある。後の童話「種山ヶ原」にも「種山剣舞連」が登場し、そこで本篇の詩句が生かされてもいる。中路氏は上掲論文の「補説」で、★現在の「伊手」でも特に「上伊手」地区で、そこの「漆立屋敷」に伝承されていた剣舞であった可能性が高い、とさらに限定されておられる。また、「祭りの追っかけ」氏のブログ「祭りの追っかけ」の『原体剣舞 「太刀入り剣舞」』によれば、『この伊手は鉱山で有名な集落で、幕藩時代には相当な賑わいがあり、金掘技術とともに様々な文化が移入された地域でもある。玉里の熊野田念仏剣舞の伝書には「江刺郡伊手村漆立屋敷庭元より」伝授されたとあるので、現在では伝承が無くなっている剣舞がここにあったと推察する』ともあり、或いは我々はもうすでに賢治の見たそれを見ることは出来ないのかも知れない。なお、上記ブログ記事は解説も詳しく、写真(動画もある。但し、舞台での舞い)もあって必見である。

 なお、「原體劍舞連(はらたいけんばいれん)」の「連」というのは、祭事の――「原體劍舞」の「連」中(衆)――の意か(童話「種山ヶ原」では、『鷄の黑い尾を飾つた頭巾をかぶり、あの昔からの赤い陣羽織を着た。それから硬い板を入れた袴をはき、脚絆や草鞋をきりつとむすんで、種山劍舞連と大きく書いた澤山の堤燈に圍まれて、みんなと町へ踊りに行つたのだ。ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー。踊つたぞ、踊つたぞ。町のまつ赤な門火の中で、刀をぎらぎらやらかしたんだ。楢夫さんと一諸になつた時などは、刀がほんたうにカチカチぶつつかつた位だ』(恣意的に漢字を正字化し、促音を正字にした。後の同作からの引用も同じ仕儀を施した)と出るのはそれらしく読める)とも採れるが、或いは、詩の「連」や音楽の「連」弾のニュアンスを賢治は含ませているのかも知れない。

 「原体剣舞」はYou Tube maturinookkake氏の原体剣舞@みちのく盂蘭盆まつり」で見ることが出来る。

 

mental sketch modified既出既注

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」後の童話「種山ヶ原」での表記に倣うなら、「ダー・ダー・ダー・ダー・ダー・スコ・ダー・ダー」或いは「ダー・スコ」は「ダースコ」となる。上記の映像音声を視聴するに、原体剣舞の囃子の中の文句ではなく、太鼓囃子と鉦のそれをオノマトペイアしたものと思われる。

「げん月のした」「弦月の下」であるが、☆これが実際に見えた月であるなら、その日をそれである程度まで限定出来ることになる。ここでいつもお世話になっている「暦のページ」で調べて見ると(大正六(一九一七)年九月の月例表)、保阪宛書簡の推定が正しいとするなら、賢治が原体剣舞を実見した時に弦月は見えないことになることが判った。同年九月一日は満月で、前の三日間はあり得ず、下弦の月になるのは、推定で帰花した九月八日だからである。但し、調査行からの帰還の終期は十一日に学校の第二学期が始業しているから、十日までは確実に延ばせる(或いは江刺郡役所という公機関からの依頼調査であるからには食い込むこともあり得なかったとは言われない)し、保阪宛の葉書の日付は推定であるから、九月六日以降の体験だったのかも知れない等と、専ら、下弦の月に合わせて考えていたのだが、先に示した米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』では、

   《引用開始》

短歌からは江刺郡地質調査中の1917(大正6)年93日以前の数日間に見たことがわかる。なお、この年のお盆は岩手では旧暦で行われ、その716日が、新暦の92日であり、秋の星座アンドロメダ座が登場するのである。[やぶちゃん注:これは後の詩篇の「アンドロメダ」の解釈注ともなっている。]

   《引用終了》

とあるのを見つけてしまった。ということは、弦月は実は満月の虚構だったということになる。賢治にまんまと私は騙されて馬鹿をみたということであった。Dah……しかし……本当に私は賢治に驒されたんだろうか? この回想詩篇でその虚構が組まれたというのならまだしも、先に掲げた通り、賢治は実見したその涙さえ出た感動を短歌に、

 

 若者の靑假面(めん)の下につくといきふかみ行く夜をいでし弦月(歌稿)

 若者の靑假面の下につくといき深み行く夜を出でし弦月。(『アザリア』第三号初出形)

 

と詠んでいるのだ。詠嘆のそこにさえ最初から賢治は虚構を持ち込んだことになるが、本当にそうか? やっぱり私の中には虚構説に組み出来ない私がいるのである。

「鷄(とり)の黑尾を頭巾(づきん)にかざり」先のmaturinookkake原体剣舞@みちのく盂蘭盆まつり」330以降に道路の奥からやってくる一団の中の八名の少年剣士らの頭飾りである。なお、童話「種山ヶ原」には主人公が唄う囃し歌の形で、

   *

「ダーダー、スコ、ダーダー。

    夜の頭巾は、鷄の黑尾、

    月のあかりは………、

 しつ、步け、しつ。」

   *

と出る。中路正恒氏の『「ひとつのいのち」考――宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって――』には、『頭巾にかざられる「鶏の黒尾」は、原体剣舞で用いられ、普通「鶏羽菜 (ザイ、「采」とも記す)」と呼ばれているものであろうし、「赤ひたたれ」[やぶちゃん注:本詩篇の後半に出る。]と言われたものは、普通「座衣・尾口」と呼ばれているもののことである、と考えられるのである。尤も、これらの道具立ては、ここに描かれている限りにおいて、伊手(井出)の寺地剣舞と特に変わるところはなく、この詩の前半部の、弦月の下に異装で踊る子供たちへの共感的な感銘は』[やぶちゃん注:中略。]『賢治が「井出の剣舞」、乃至は「上伊手剣舞」と呼ぶ「剣舞」から受けた印象が基礎になっている、と考えられるのである』とある。

「片刄(かたは)の太刀をひらめかす」同前7:45以下で抜刀した少年たちの剣舞が見られる

「鴇(とき)いろのはるの樹液(じゆえき)を」「鴇いろ」は鳥の鴇(ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon。私はいつも思う。このニッポニア・ニッポンという学名の鳥を絶滅させた日本人は日本人を名乗る資格はない、と)の風切羽のような黄みがかった淡く優しい桃色を指す。これ(リンク先は色見本サイト)。全体は、春という生命の息吹きの霊液(ネクター)としてのシンボライズ。

「アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ」「アルペン」は「Alpine」でここは「高山の・高山性の」という一般形容詞で、「高地の農民(農業)」で「その粒粒辛苦に春の女神がネクターを注ぎかけるの意であろう。但し、原体は河岸地で低く、高くても八十メートル、伊手でも平地部は二百メートルに満たないから、これは賢治のアルプス幻想による加飾(modified)である。

「生(せい)しののめの草いろの火を」「生(せい)東雲(しののめ)の草色の火を」「生」命の曙を越えたまさに日の出直前の地平の回折する陽光を萌える植物の「生」気の色「草」色と重ねて「生」を盛んに燃え立たせる「火」としたものであろうが、どうも造語の響きは今一つな気がする。中原中也の「春と修羅」評に現れるという「聖しののめ」という記憶違いに端を発する作品論などもあるようだが、私には語る価値もない話である。

「菩提樹皮(まだかは)」既出既注。「菩提樹(まだ)」とは本邦特産種である落葉高木アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica。ここはその樹皮を張り付けた「けら」(既出既注)、簑である。先の動画を見る限りでは現行の「原体剣舞」の少年たちの衣装は、もっと洗練されて(しまって)いる。

「氣圏の戰士わが朋(とも)たちよ」ここに賢治の彼らへの強い共感、即ち、賢治自らをも「菩提樹皮(まだかは)と繩とをまとふ」「氣圏の戰士」と自負する自己同一性(アイデンティティ)の意識が叫ばれる。

「灝氣(かうき)」現代仮名遣「こうき」。広々として澄み渡った大気。

「ふかみ」「深み」深め。深くし。

「楢」ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称であるが、ここはその中でも主要な種とされるミズナラ Quercus crispula ととっておく。

「うれひをあつめ」落葉広葉樹であるミズナラとブ(ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata)の深い葉蔭の翳りを指すか。ネガティヴなものではなく、次の「篝」に対する自然界のザイン(ドイツ語:Sein:実在・存在・本質)としての光と影であろう。

「蛇紋山地(じやもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ」蛇紋岩(じゃもんがん:serpentinite:サーペンティナイト)を主構成岩石とする北上山地を指す。「蛇紋岩(サーペンタイン)」として「カーバイト倉庫」で既出既注。その注で記した通り、現在、「日本地質学会」により「岩手県の岩石」に選定されている。「篝」は夜に行われた「原体剣舞」の祭りの篝火を北上山地の山塊に反映させたマクロとミクロの賢治マジックであろう。

「ひのきの髮」先の少年剣士の「鷄(とり)の黑尾」の「頭巾(づきん)」飾りの別形容。

「まるめろの匂のそらに」「まるめろ」はバラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連マルメロ属マルメロ Cydonia oblonga。果実はリンゴに柑橘系を合わせたような甘酸っぱいよい匂いがある。それを秋の夜の澄んだ蒼天の「灝氣」とした。

「あたらしい星雲を燃せ」宇宙規模へと無限遠に拡張し、新しい星雲をも現出させる賢治マジック。

dah-dah-sko-dah-dah」先のように童話「種山ヶ原」での表記に従うなら、「ダー・ダー・ダースコ・ダー・ダー」。

「腐植」腐植土。森林生態系に於いて地上部の植物により生産された有機物が、朽木や落葉・落枝となって地表部に堆積し、それを資源として利用するバクテリアなどの微生物やミミズなどの土壌動物による生化学的な代謝作用により、分解されて土状になったもの。厳密には土ではない(ウィキの「腐植土」に拠る)から、「と土」と並列させた賢治の表現は実は怖ろしく正確であることが判る。堆肥となるから、ここは農林業を営む人々のテリトリーである林や畑地を指す。

「炭酸に粗(あら)び」ギトン氏はこちらで、『二酸化炭素を含んだ雨水によって石灰岩が侵蝕される地質現象を、ちょっと連想させます。骨も石灰岩もカルシウム塩ですから』と注しておられる。鋭い。

「師父(しふ)」「原体剣舞」の少年たちの舞いを指導し、本番ではお囃子と祭事進行の裏方に徹する少年たちの親を指す。「師父」には「父のように敬い親しむ師匠」の意があるが、これは父宮澤政次郎(まさじろう:祖父喜助の代からの質屋・古着屋の家業を拡張して栄えさせる商才があったと同時に、読書家であり、浄土真宗の熱心な信者としてまさに花巻の知識人であったことは言うまでもなかろう)との強烈な確執を考えると、かなり意味深長な語彙と思われるが、ここではそれを考察し出すとエンドレスになるので触れない。但し、後の「心象スケツチ 春と修羅 第三集」の詩篇野の師父(昭和二(一九二七)年の創作か)を読めば、農夫の聖人的存在、土に生きる理想的人物、父でない父的存在(漱石の「こゝろ」の学生にとっての「先生」のようなものである)として至上に敬愛されていることは知っておかねばなるまい。

「准(じゆん)平原」「準平原」。Peneplain。ペネプレーン。浸食輪廻に於ける終末期の地形。長期間の浸食作用や削剥作用の働きによって土地が浸食基準面近くまで低平面化された小起伏の広い平坦面。原体はまだしも、伊手はまだその状態ではないから、ここは次の「天末線(てんまつせん)」(地平線)を幻視の仮想空間に現出させてスケールをワイドにするための演出的言辞であろう。

●「Ho! Ho! Ho!」/「むかし達谷(たつた)の惡路王(あくろわう)」/「まつくらくらの二里の洞(ほら)」/「わたるは夢と黑夜神(こくやじん)」/「首は刻まれ漬けられ」(「たつた」の読みの不審は前注参照)この囃し歌は、童話「種山ヶ原」にも、

   *

 ホウ、そら、やれ、

   むかし 達谷(たつこく)の 惡路王、

   まつくらあくらの二里の洞(ほら)、

   渡るは 夢と 黑夜神(くろやじん)、

   首は刻まれ 朱桶に埋もれ。

   *

と出る。

・「Ho!」は以上の引用から見ると、祭りの囃しの合いの手として賢治は使用している。

・「達谷」現在の岩手県西磐井郡平泉町にある毘沙門天を祀った岩窟堂「達谷窟(たっこくのいわや)」(正しくは「達谷窟毘沙門堂」)で知られる。ウィキの「達谷窟」によれば、延暦二〇(八〇一)年に、『征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた』もので、『平泉の南西約』六『キロメートルに位置する。北上川の一支流太田川を西にさかのぼると、谷を分岐する丘陵尾根があり、その先端部に現在の天台宗達谷西光寺がある。達谷西光寺境内の西側には、東西の長さ約』百五十『メートル、最大標高差およそ』三十五『メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている』。『別当は』同地にある天台宗『達谷西光寺であるが、境内入口には鳥居が建てられており』、今も『神仏混淆の社寺となっている』。『源頼朝も鎌倉への帰路に参拝している』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「惡路王」(生没年不詳)は、平安前期、坂上田村麻呂や藤原利仁に滅ぼされたと伝えられる人物で、蝦夷の族長阿弖流為(阿弖利為:アテルイ)の訛ったものとする見方もある。達谷窟を巣窟としたとされ、これを討った田村麻呂がそこに京の鞍馬寺を模して九間(十六メートル強)四面の精舎を建立し、多聞天の像を安置したと伝える。文治五(一一八九)年九月、源頼朝は平泉を攻撃、藤原泰衡らを討滅したあと、この窟に立ち寄り、田村麻呂の武勇譚を聞いている。現在、茨城県桂村の鹿島神社と同県鹿島町にある鹿島神宮には田村麻呂が納めたという悪路王の首級(木造)が伝えられており、前者は元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に徳川光圀が修理したものである。これらの事実は、蝦夷社会に広がった鹿島神に悪路王の怨霊の慰撫が求められていたことを示すものであろう(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。私の「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」や、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 六 鬼と大人と』が少しだけ(ごく少しだけである)参考になろう。中路氏は『「ひとつのいのち」考』で、『賢治は、原体剣舞の舞手たちの役を、大きく読み誤りながらも、剣舞による供養の、非常に重要な、本質的なところは、充分に、いや充分以上に、読み取っていた、と言うことが出来るであろう。本質的なところ、とは、戦に滅びた亡霊たちが自らの依りつきどころ、を見出す、ということ、それを舞手の舞において見出す、ということである。この〈依りつき〉があってはじめて、恨みを残す霊たち(「四方の夜の鬼神」たち)の、慰撫や鎮魂が可能になるであろう。賢治はそのような、真に〈招霊力〉のある剣舞の舞を見たのであろうし、そしてその〈招霊〉の働きを、「原体剣舞連」の詩において定着させたのである』。『ところで、賢治のこの剣舞に対する最大の読み誤りは、黒面をつけた〈空也上人〉を〈悪路王〉と読み違えたことである。そして、この黒面の空也上人の姿は実におどろおどろしく、実際、亡者たちの首領といった趣を持っているのである。この剣舞で空也上人は亡者たちの中にあり、そのあり方をとおして亡者たちを導いている。ここには確かに、黒面の少年を、亡者となった戦士たちの首領としての悪路王、とする解釈を、誘う要素があるであろう』と述べておられ、終りの「補説」では、賢治は上伊手地区の「上伊手剣舞」の(それは先に引用した通り、『「漆立屋敷」に伝承されていた剣舞であった可能性』の高いもの)を見、また、『剣舞と「悪路王」とを結びつける解釈のヒントを、この剣舞の連中から得た可能性もある、と考えられる』と記しておられる。なお、この地方に伝わる「剣舞」の民俗学上で判明しているところの諸伝承は引用過多となってしまうので、是非、中路氏の『「ひとつのいのち」考』を精読されたい。但し、先に示した米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』の「2. 詩のなかの悪路王」の「1)先行研究の悪路王観」では、それに反する意見が述べられている。まず、以上の中路氏の意見を中心に紹介した上で、『筆者らはこのような悪路王を悪虐人とする読みは誤りと考え、以下の諸論に賛同する』と始めて、『門屋(2000)は「冷酷無比の鬼とされた蝦夷の復権を賢治は強く願った」ことをこの詩に強く感じる、と述べた。卓見であろう。松田(2001)も行間から「遠い昔のこの気骨の抵抗者への強い思慕の念」が透けて見えるという。力丸(2001)は詩のなかの「気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる灝気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ」という箇所を、縄文の文化が弥生に押され、消え去った先住の人の怨念、地霊を鎮める祈りが剣舞に籠められている、とみた』。『米地・米地(2013)も悪路王は勇者、屈せざる者と捉え、「原体劍舞連」の仮面の踊り手たちはヤマトに抗して戦う雄々しいエミシの姿だったと記した』とするのである。私は孰れの認識も理解出来る。そのキャラクターのモデルは縄文人や弥生人やアイヌや蝦夷やアテルイや悪路王や悪鬼大武丸・高丸や、はたまた空也や坂上田村麻呂ででもあるかも知れぬ。「伝承」は「伝承」であるが故に自在にメタモルフォーゼするし、そもそも、あらゆるこの世の祭儀の真相やルーツなどは、実は、とうの昔に消滅して永遠に封印されてしまった可能性の方が高い。縄文人にまで溯るのはよいと思うが、だったら、賢治好みのネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis)やジャワ原人(ヒト属ホモ・エレクトス・エレクトス Homo erectus erectus:旧名ピテカントロプス・エレクトス Pithecanthropus erectus)、いやさ、無脊椎動物の(「剣舞」なんだから、どうよ!)「蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)」まで溯ればよかろうが。縄文人は戦いを嫌ったから戦士ではないぜ、怨念抱くのは後代の人、御霊信仰は滅ぼした方の呵責と神経症的信仰、というクソ反論もやろうと思えば出来る(無論、やる気はない)。そもそも誤認を論うなら、「剣舞」の明らかなルーツである「念仏踊り」が、若くして亡くなった者たちの霊を鎮める儀式であった(だからこそ舞の主役を演ずるのが生者である「小ども」たちなのだ)ことから始めるべきであろう。確かに言えることは――賢治は少し淋しそうな笑みを浮かべながら、彼らのインキ臭い卓上の論争を黙って聴いている――ということである。

・「二里の洞(ほら)」本邦の神話の得意の黄泉の国や人穴伝承の地底異界を匂わせたか。次注の最後の引用部も参照されたい。

・「黑夜神(くろやじん)」元はヒンズー教の夜を支配するであったが、仏教にとりいれられて天部の一尊となった黒闇天(こくあんてん)の別名。ウィキの「黒闇天」によれば、「黒闇女」「黒夜天」「暗夜天」「黒耳」などの異名を持つ。仏教では『吉祥天の妹。また閻魔王の三后(妃)の』一『柱ともされる。中夜・闇と不吉・災いをも司る女神』。『つねに姉の吉祥天と行動を共にするが、彼女の容姿は醜悪で』、『性格は姉と正反対で、災いや不幸をもたらす神と、設定されている』。「涅槃経」には『「姉を功徳天と云い』、『人に福を授け、妹を黒闇女と云い』、『人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」とある』。『ヒンドゥー教では』『シヴァ神の妃であるドゥルガーと同一視され、またヤマ(閻魔)神の妹とされた』ともされる(ここには「要出典」要請が掛かっている)。但し、「大日経疏」には『「次黒夜神真言。此即閻羅侍后也」などとあることから、密教では中夜を司り』、『閻魔王の妃とする。彼女の図画は胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に確認できる。その姿は肉色で、左手に人の顔を描いた杖を持っている』とある。先の米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』では、『「首は刻まれ漬けられ」にあたる部分は、童話「種山ヶ原」のなかの剣舞の描写では「首は刻まれ 朱桶に埋もれ」とある。祟りを畏れて刻まれた悪路王の首を、黒夜神は首桶に入れ、洞窟を通って彼の故郷へと帰す、と筆者らは解した』とし、『黒夜神は悪路王を地獄へは落とさず、彼の故郷へとその首を運んだのである』「吾妻鏡」には『「坂上将軍於此窟前、建立九間四面精舎、令模鞍馬寺安置多聞像」というくだりがある。その達谷窟の毘沙門天(多聞天)は坂上田村麻呂に化身している』。『その毘沙門天がアジールとしての窟にかくまった悪路王の魂を、故地に戻すべく、后である吉祥天と計らって、彼女の妹の黒夜神に、焔摩天が悪路王を罰しないことを懇願させ、悪路王の首を達谷窟に運ばせた、と賢治は幻想したのであろう』。『吉見(1993)は霧山のある旧増沢村(のち廃村、上衣川村、現奥州市)が原体劍舞の本家であり、霧山を賢治が達谷に変えたと考えた』。『しかし賢治は達谷から霧山へと洞窟が続いている、という伝説を用いたのである。達谷窟は凝灰岩の岩蔭洞で浅く、実際には奥に延びる洞窟は無いが、伝承では奥に秘密の洞窟があり、霧山の洞口に繋がると言われていた。(現在、霧山山腹の洞窟の入口は崩落し洞口がない。)達谷窟との距離は北西方に約10km、二里半である』。『黒夜神は達谷窟の姉夫婦に頼まれ、悪路王の首と達谷窟にあった彼の魂(夢)とを彼の棲家であった霧山へ洞窟を通って届けたのである。暗黒の洞窟でも、深夜を司る黒夜神は通過できる』。賢治はここで「わたるは夢と黑夜神(こくやじん)」と述べているが、この『「わたる」という語は二つの場を繋ぐ部分を通ることで、渡り廊下は建物間を、渡し舟は両岸の土地を繋ぐ。この場合は、磐井郡の達谷窟から胆沢郡の衣川付近の悪路王の故地霧山へと渡ったのである』。『黒夜神とともに渡るのは「夢」すなわち悪路王の魂である。悪路王の抱いた「夢」が黒夜神をして洞窟を走らせる。おそらく、その夢とは北方の民の自由と独立であろう。その悪路王の魂を受け継いで剣舞の若者は踊るのである』とある。これは、なかなか読ませる分析である。

 

「アンドロメダもかゞりにゆすれ」前注「げん月のした」を参照されたい。

●「靑い仮面(めん)このこけおどし」/「太刀を浴びてはいつぷかぷ」/「夜風の底の蜘蛛(くも)おどり」/「胃袋はいてぎつたぎた」この囃し歌は先に引用した童話「種山ヶ原」のそれに続いて、

   *

やつたぞ。やつたぞ。ダー、ダー、ダースコ、ダーダ、

   靑い 仮面(めん)この こけおどし、

   太刀を 浴びては いつぷかぷ、

   夜風の 底の 蜘蛛おどり、

   胃袋ぅ はいて ぎつたりぎたり。

   *

とある。

・「仮面(めん)こ」の「こ」は岩波の「広辞苑」に、接尾語として、『特に意味なく種々の語につく。東北地方の方言に多い』とし、「牛(べこ)っこ」「ちゃわんこ」「ぜにこ」の例を上げるそれととる。ここは囃子の音数律としても「こ」が欲しい。

・「こけおどし」「虛假威し」。愚か者を感心させる程度の浅はかな手段。また、見せかけは立派であるが、中身のないこと。

・「いつぷかぷ」は「あっぷあっぷ」と同じ。童話「種山ヶ原」に、

   *

「ホウ、そら、遣れ。ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」「ドドーン ドドーン。」

 「夜風さかまき ひのきはみだれ、

  月は射そゝぐ 銀の矢なみ、

  打ぅつも果てるも 一つのいのち、

  太刀(たち)の軋(きし)りの 消えぬひま。ホツ、ホ、ホツ、ホウ。」

 刀が靑くぎらぎら光りました。梨の木の葉が月光にせわしく動いてゐます。

「ダー、ダー、スコ、ダーダー、ド、ドーン、ド、ドーン。太刀はいなずま すすきのさやぎ、燃えて……」

 組は二つに分れ、劍がカチカチ云ひます。靑假面(あをめん)が出て來て、溺死(いつぷかつぷ)する時のような格好(かつこう)で一生懸命跳ね𢌞ります。子供らが泣き出しました。達二は笑ひました。

 月が俄かに意地惡い片眼になりました。それから銀の盃のやうに白くなつて、消えてしまひました。

   *

と「溺死」に「いつぷかつぷ」とルビする。サイト「坂上田村麻呂の旅」の「宮沢賢治の悪路王」で本詩篇を取り上げ、これは延暦八(七八九)年に紀古佐美(きのこさみ天平五(七三三)年~延暦一六(七九七)年:奈良後期から平安初期の公卿)『率いる征夷の大軍を北上川の巣伏に破った「阿弖流為(アテルイ)」を思わせる』とされ、『征夷軍兵士』四千『人が「阿弖流為」の蝦夷軍団に挟み撃ちされ、逃げ場を失って、北上川』で千三十六人もの溺死者を出して大敗したと記されてある。逆転した事実であるが、神話は規定されたシステムであって、立場が入れ替わってもそのまま起動するから、これでよいのである。そもそも岩手の「剣舞」と言っても、複数あり、それがまた、かなり違ったバリエーションを持っている。剣士が鬼面をつけているものもある。ただ、この「あっぷあっぷ」は溺れているのではなく、悪路王が正義の剣士の太刀を浴びて、断末魔の叫びを上げて血を吹き出し「あっぷあっぷ」するように、「夜風」に揺れる「蜘蛛」の「おどり」のようなジタバタをし、胃袋を丸ごと吐き出すような血みどろのスプラッター場面を夢幻しているのである。なお、勘違いしている方が多いと思うが(私もそうであったが)、「ぎつたぎた」とは「ギッタギタに斬り刻む」ことではない。これは小学館「日本国語大辞典」によれば、副詞「ぎったぎった」で方言とし、『油などのついて粘るさま』とあり、採取地を『岩手県西磐井郡平泉』としているのである。即ち、これは言うなら、「血油でギットギトになった凄惨なさま」を言っているのである。なお、ギトン氏はこちらで、この「蜘蛛おどり」を、『剣舞の独特のステップ』(先に掲げた動画を見れば判る。確かに蜘蛛と言われれば蜘蛛っぽい)を指しているとされ、但し、この動きは『じつは、地下の怨霊を鎮めるための山伏の踏み足なのだそうです』。『しかし、ここでも、賢治はそれを知らないので、「悪路王」が、田村麻呂の太刀を浴びて、断末魔の苦しみにのたうっているようすと理解しているのです』と述べておられる。ギトン氏がリンクされているYou Tube Japanese folk performing arts 東北文映研ライブラリー映像館の「北上翔南高校鬼剣舞部文化庁長官受賞記念公演は舞台であるが、皆、美しく輝いていて、見ごたえがある。必見!(ギトン氏は4:20 - 6:00 辺りで「蜘蛛おどり」のステップが見られると指示しておられる)



「霹靂(へきれき)」雷。稲妻。

「赤ひたたれ」「赤直垂」。垂領(たりくび)・闕腋(けってき)・広袖で、組紐の胸紐・菊綴(きくとじ)があり、袖の下端に露(つゆ)がついている上衣と、袴と一具となった衣服。古くは切り袴、のちには長袴を用いた。元来は庶民の労働着で、身幅・袖幅の狭い、布製の上衣であった。彼らが武士として活動するようになって、端袖(はたそで)を加え、共布の袴を着けるなど、形を整えた。鎌倉時代には幕府出仕の公服となり、江戸時代には三位以上の武家の礼服となった(三省堂「大辞林」に拠る。名称部位のそれはサイト「日本服装史」の「直垂姿の武士の画像がよい)。

「雹雲(ひやううん)」ウィキの「によれば、「雹」は積乱雲から降る直径五ミリメートル以上の氷粒で、直径それ未満の氷粒は「霰(あられ)」と呼ぶとし、『雹は激しい上昇気流を持つ積乱雲内で発生するので雷と共に発生する場合が多い』。『雹は空中で、落下して表面が融解し、再び上昇気流で雲の上部に吹き上げられて融解した表面が凍結することを繰り返す。その過程で、外側に他の氷晶が付着したり、過冷却の水滴が付着し凍結したりして、だんだんと氷粒が成長していく。そのため、大きな雹を割って内部を見ると、融解後に凍結した透明な層と、付着した氷晶の不透明な層が交互にある同心円状の層状構造をしていることが多い。成因は氷あられと全く同じであり、氷あられが成長して雹になる』とある。賢治が夢想したのはスーパーセル(supercell)のような超巨大な積乱雲であったに違いない。

「まつれ」「祭れ」。

「打つも果(は)てるも」相手を敵として討つ者も、その者から敵として討たれて滅び果てねばならない運命にある者も。

 

「萓穗(かやほ)」「萓」は「萱」の異体字。茅(かや)。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。それらの穂先。

「さやぎ」「さやぐ」の名詞化。「さやぐ」は「さやめく」で「ざわざわと音を立てる」の意。

「獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の」ギトン氏はこちらで、『「しし座」は』『日本では春の星座です』が、『しかし、こ』こで『は、“しし座流星群”のことを言っている(原体剣舞の夜に見たということではないでしょうけれども』『)という意見も有力です』。『たしかに、流星が光芒をひいて消えた後には、夜空しか残りませんから、』次行の『「消えてあとない天のがはら」へ、きれいに続きます』とされる。「火の雨」であるからにはそうであろう。但し、ギトン氏も注されておられる通り、しし座流星群(Leonids:レオニズ/フランス語 Les Léonides:レオニード)は毎年十一月十四日頃から十一月二十四日頃まで出現が見られ、十一月十七日頃に極大を迎えるので、ここで実際には見えない。

 

 最後に。何度か引かさせて戴いた、米地文夫・神田雅章共著の論文『賢治の詩「原体剣舞連」と達谷窟毘沙門堂 ―悪路王とアルペン農の謎―』の「アテルイ・悪路王への賢治の思い」を引く。

   《引用開始》

 東北以外の人々は、しばしば、東北人を侵略者の坂上田村麻呂を崇拝し、自分たちの英雄アテルイを悪鬼のように思っていた、とその愚かしさや卑屈さなどを批判してきた。

 そして、そのことを指摘したのは、戦後、非東北人である作家豊田正恒(1980)であった、と言われることが多い。彼は小説『荒野のフロンティア』(1980)の中でこう語る。「…アテルイは、まぎれもなく、古代東北の王者であったにもかかわらず、平安末あたりから悪路王の名で呼びかえられ、現地においてすら賊酋として、おとしめられている。中央中心の収奪史観によって、勝者の歴史しか残されなかったのである。(中略)なんとも情ない状態である。」

 この豊田の見解は二重に誤っている。豊田は、東北地方北東部にはアテルイないし悪路王らを追慕する伝説等が昔からあったことに気付かず、第二には、彼らを悪者に仕立てたのは、いわゆる中央ではなく、東北の仙台藩だったことを知らなかった、のである。実際は歴史上のアテルイやモレ、伝説上の悪路王や人首丸らに対して、岩手の里人は深い共感と敬意とを持っていた。それは後の安倍貞任親子に対する感情にも繋がっている。

 それを熟知する賢治は悪路王へのシンパシイを詩に籠め、豊田よりも遥かに以前、それを活字にした。戦前、大和朝廷軍は天皇の軍、皇軍で、御稜威を野蛮な東北に広める官軍であり、アテルイらは賊軍であった。戦後とは事情が違う、その状況のもとで、賢治は精一杯の表現をしたのである。

   《引用終了》

この主張に私は激しく共感するものである。]

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