宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 小岩井農塲 パート二
パート二
たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし
雨はけふはだいじやうぶふらない
しかし馬車もはやいと云つたところで
そんなにすてきなわけではない
いままでたつてやつとあすこまで
ここからあすこまでのこのまつすぐな
火山灰のみちの分だけ行つたのだ
あすこはちやうどまがり目で
すがれの草穗(ぼ)もゆれてゐる
(山は靑い雲でいつぱい 光つてゐるし
かけて行く馬車はくろくてりつぱだ)
ひばり ひばり
銀の微塵(みぢん)のちらばるそらへ
たつたいまのぼつたひばりなのだ
くろくてすばやくきんいろだ
そらでやる Brownian movement
おまけにあいつの翅(はね)ときたら
甲蟲のやうに四まいある
飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と
たしかに二重(ふたへ)にもつてゐる
よほど上手に鳴いてゐる
そらのひかりを吞みこんでゐる
光波のために溺れてゐる
もちろんずつと遠くでは
もつとたくさんないてゐる
そいつのはうははいけいだ
向ふからはこつちのやつがひどく勇敢に見える
うしろから五月のいまごろ
黑いながいオーヴアを着た
醫者らしいものがやつてくる
たびたびこつちをみてゐるやうだ
それは一本みちを行くときに
ごくありふれたことなのだ
冬にもやつぱりこんなあんばいに
くろいイムバネスがやつてきて
本部へはこれでいいんてすかと
遠くからことばの浮標(ブイ)をなげつけた
でこぼこのゆきみちを
辛うじて咀嚼(そしやく)するといふ風にあるきながら
本部へはこれでいゝんですかと
心細(こころぼそ)さうにきいたのだ
おれはぶつきら棒にああと言つただけなので
ちやうどそれだけ大(たい)へんかあいさうな氣がした
けふのはもつと遠くからくる
[やぶちゃん注:・「そいつのはうははいけいだ」は底本では「そいつのほうははいけいだ」。「其奴(そいつ)の方は背景だ」であろうが、さすれば、「ほう」は「はう」の誤りである。原稿でも「ほう」であるが、「正誤表」で訂正されているので直した。但し、「正誤表」がまた誤っていて、ページ数を「七四」とすべき、ところを「四七」としてしまっていて、読者には意味が判らぬものとなっている。つくづく運のない本である。まあ、しかし、ここは正誤補正されたものと採って、直す。
・「本部へはこれでいいんてすかと」「て」はママ。原稿は「で」。誤植。
「たむぼりん」タンバリン(tambourine)のこと。カタカナ音写は「タンバリーン」が近い。なお、サンバやボサノヴァなどのブラジル音楽で使用される似た発音のタンボリン(Tamborim)があるが、これは片面太鼓をスティックで打つ打楽器で、全く異なる。ここは飛天の楽の音(ね)のイメージか。何らかの音響的な気象現象とは思われない。恐らく、後に出るブラウン運動の微粒子の衝突の音を幻想したものと思われる。
「しかし馬車もはやいと云つたところで」/「そんなにすてきなわけではない」/「いままでたつてやつとあすこまで」/「ここからあすこまでのこのまつすぐな」/「火山灰のみちの分だけ行つたのだ」逆接の接続詞「しかし」は前の部分を指すのではなく、「パート一」の、ぐじぐじした馬車への乗車願望が満たされなかったことへの不満の代償的批評である。これはかなりの粘着質である。私は賢治の人格にはそうした妙な細部に拘る強い、神経症的な固着性を感ずる(これは私にも若干あるのでよく判る)。本書の「手入れ」もその証左である。
「すがれ」「末枯(すが)れ」(これで「うらがれ」とも読む)「盡(すが)れ」。草木の枝先や葉先が枯れること。
「ひばり ひばり」/「銀の微塵(みぢん)のちらばるそらへ」/「たつたいまのぼつたひばりなのだ」前にも注した「揚げ雲雀」の急速な上昇と縄張りを主張する鳴き声をも字背のサウンド・エフェクトとして入れ、それを見上げた刹那の視覚上のハレーショーンを組み込んだ。以下は、それを賢治得意に科学用語の錬金術で装飾する。
「Brownian movement」ブラウン運動。現行では英語は「Brownian motion」。液体のような溶媒中に浮遊する微粒子(例:コロイド)が、不規則(ランダム)に運動する現象で、一八二七年に、スコットランド生まれの植物学者ロバート・ブラウン(Robert Brown 一七七三年~一八五八年)が、水の浸透圧で破裂した花粉から、水中に流出して浮遊した微粒子を顕微鏡下で観察中に現象として発見し、翌年、論文「植物の花粉に含まれている微粒子について」(A
brief account of microscopical observations made on the particles contained in
the pollen of plants)で発表した。参照したウィキの「ブラウン運動」によれば、『この現象は長い間原因が不明のままであったが』一九〇五年に『アインシュタインにより、熱運動する媒質の分子の不規則な衝突によって引き起こされているという論文が発表され』、『この論文により』、『当時不確かだった原子および分子の存在が、実験的に証明出来る可能性が示された。後にこれは実験的に検証され、原子や分子が確かに実在することが確認された』とある。
「おまけにあいつの翅(はね)ときたら」/「甲蟲のやうに四まいある」/「飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と」/「たしかに二重(ふたへ)にもつてゐる」四枚あるわけでは無論ないが、強力な飛翔力・上昇力を持つスズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis は、見た目の羽根全体が、体の大きさの割には閉じている時にはよく後部に延びてシャープでありながら、質的にはみっちりしてもいる。ウィキの「ヒバリ」によれば、全長十七センチメートルに対して、翼開長は三十二センチメートルあり、『後頭の羽毛は伸長(冠羽)する』。『上面の羽衣は褐色で、羽軸に黒褐色の斑紋(軸斑)が入る』。『下面の羽衣は白く、側頸から胸部にかけて黒褐色の縦縞が入る』。『胸部から体側面にかけての羽衣は褐色』、『外側尾羽の色彩は白い』。『初列風切は長く突出』し、『次列風切後端が白い』とあり、こうした羽毛の色の違いから、賢治の言う以上の謂いは実は非常に腑に落ちると言えるのである。なお、私は、雲雀が大好きだ。なお、原稿を見ると、「漆ぬりの方と」は「漆ぬりの鞘と」とあり、私は「二枚ある」の非科学性を相殺するのに「鞘」の方が良かったと感じている。
「光波のために溺れてゐる」宮澤家「手入れ本」ではこの行を縦線で抹消している。これは前行の「そらのひかりを吞みこんでゐる」という能動性を、反転させた裏からの感覚描写なのであったろうが、二項対立的になってしまって確かによくない。
「イムバネス」Inverness。インバネス・コート。ケープ(cape:外套の一種。肩を覆って腰丈に達する程度までのものを指し、前開きを特徴とする)のついた袖無しの外套。丈が長く、ゆったりとしている。名称はスコットランドのインバーネス地方に由来する。日本には明治初期に移入され、男性の外套として「二重回し」「とんび」などと呼ばれて明治の中頃には特に流行した。
「心細(こころぼそ)さうにきいたの」に「おれはぶつきら棒にああと言つただけ」だった「ので」「ちやうどそ」うした冷たく荒っぽく答えた分「だけ」、「大(たい)へんかあいさうな氣がし」てしまった、というのは、ある種、つき合い難いであろう賢治の対人間の膜のようなものに対して、実は自身がある自責意識を同時に持っていたことが判る。それは賢治の、ひねくれて見える存在の核心にある、限りない対象への優しさの実在の証明である。
「けふのはもつと遠くからくる」これは或いは本パートの中で唯一、読解に困る一行であるかも知れぬが、しかし、これは前の部分の複雑した感懐の添え辞である。即ち、そうした自身の実際のすげない冷たい態度に対して、そんなことをすることへの憐憫から生ずる自己批判の感情が、直ちに彼の心内へと突き刺さるのではなく、大きな波長で、遠くの方から、投擲するように、大きな大きなカーブを描いて、彼に伝わってくる、彼を指弾してくるのである。そう解釈した時、前の聊か事大主義的ともとれる「遠くからことばの浮標(ブイ)をなげつけた」という換喩が生きてくると言えるのいではないか? その男の投げかけた問いは、大海の大波(波長)に投げて、挿し浮かべられた標的、賢治の心性のあり方を試すための「buoy」だったのである。]
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