七七 山口の田尻長三郞と云ふは土淵村一番の物持なり。當主なる老人の話に、此人四十あまりの頃、おひで老人[やぶちゃん注:「お秀老人」で、「六九」に登場した土淵村の山口の大同の当主大洞萬之亟の養母で佐々木喜善の祖母の姉のこと。]の息子(ムスコ)亡(ナ)くなりて葬式の夜、人々念佛を終り各[やぶちゃん注:「おのおの」。]歸り行きし跡に、自分のみは話好(ハナシズキ)なれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落(アマオチ)ちの石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるやうなり。月のある夜なれば其光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。此人大膽者にて足にて搖(ウゴ)かして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨(サマタ)げて外にせん方(カタ)もなければ、終に之を跨(マタ)ぎて家に歸りたり。次の朝行きて見れば勿論其跡方もなく、又誰も外に之を見たりと云ふ人は無かりしかど、その枕にしてありし石の形と在(アリ)どころとは昨夜の見覺(ミオボ)えの通りなり。此人の曰く、手を掛けて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければ唯足にて觸(フ)れたるのみなりし故、更に何物のわざとも思ひ付かずと。
[やぶちゃん注:遺体或いはそれに変じた霊や魔性のものが道を塞ぐという怪談はしばしば語られるもので、それに怖じず、それを跨ぐことで、却って何らの呵責や魔障を受けずに済むことが多いのである。これもその類話の一つである。嘘だって? 私の「宿直草卷二 第六 女は天性、肝ふとき事」を見よ!
「軒の雨落(アマオチ)」建築用語では「軒先から地面に垂直に降ろした地面部分」を「雨落ち」と称する。旧和建築では現在のように軒樋を付けることはまずなく、軒から雨水を垂れ流しにして溝で屋敷外へ流し出していたが、この場合、雨水が直に地表表面の土に溜まって泥になると、それが内側に跳ねて建物が汚れるため、その位置や溝に玉砂利や敷石を引いた。]
七八 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長藏なる者、今も七十餘の老翁にて生存す。曾て夜遊びに出でゝ遲くかへり來たりしに、主人の家の門は大槌(オホヅチ)往還に向ひて立てるが、この門の前にて濱の方より來る人に逢へり。雪合羽(ユキガツパ)を著たり[やぶちゃん注:「きたり」。]。近づきて立ちとまる故、長藏も恠しみて之を見たるに、往還を隔てゝ向側なる畠地の方へすつと反(ソ)れて行きたり。かしこには垣根ありし筈(ハヅ)なるにと思ひて、よく見れば垣根は正しくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、後になりて聞けば、此と同じ時刻に新張村(ニヒバリムラ)の何某と云ふ者、濱よりの歸り途に馬より落ちて死したりとのことなり。
[やぶちゃん注:「雪合羽」裾が拡がった形の雪国で用いられる合羽。雪が滑り落ちやすく なるように足元まで隠れるほど長いもので、材質は毛・木綿・藁(但し、その場合は雪蓑と称することが多い)で出来ている。]
七九 この長藏の父をも亦長藏と云ふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき。若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに歸り來たり、門(カド)の口(クチ)より入りしに、洞前(ホラマヘ)に立てる人影あり。懷手をして筒袖の袖口を垂れ、顏は茫としてよく見えず。妻は名をおつねと云へり。おつねのところへ來たるヨバヒト【○ヨバヒトは呼ばひ人なるべし女に思ひを運ぶ人をかく云ふ】では無いかと思ひ、つかつかと近よりしに、裏の方へは遁げずして、却つて右手の玄關の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、猶進みたるに、懷手のまゝ後(アト)ずさりして玄關の戶の三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入(ハイ)りたり。されど長藏は猶不思議とも思はず、其戶の隙に手を差入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉(トザ)してあり。茲に始めて恐ろしくなり、少し引下らんとして上を見れば、今の男玄關の雲壁(クモカベ)【○雲壁はなげしの外側の壁なり】にひたと附きて我を見下す如く、其首は低く垂れて我頭に觸るゝばかりにて、其眼の球は尺餘も、拔け出でゝあるやうに思はれたりと云ふ。此時は只恐ろしかりしのみにて何事の前兆にても非ざりき。
[やぶちゃん注:「洞前(ホラマヘ)」岩手県下に多く見られる草葺き民家形式である「曲り屋造り」(平面はL字形を成し、突出部は広い厩(うまや)で主屋の土間と繋がる独特の形状を成す)が、この接合部の屋根の谷の部分を「洞(ほら)」と呼ぶ。この向かって右側(厩の反対部分)が主人以外の家人の通用の出入り口に当たる(正規の玄関はその手前の右部分にある)。なお、厩の大きさは二間(三・六四メートル弱)四方以上あり、「うまや(んまや)」「まや」とも呼ぶ。次の条の底本の図を参照のこと。
「ヨバヒト【○ヨバヒトは呼ばひ人なるべし女に思ひを運ぶ人をかく云ふ】」如何にもクソな注である。夜這い行為は農村部では第二次世界大戦後まで実際に存在した。この注は民俗学的考現学的にもクソ文学的なオブラート二重のない方がマシな不要注に他ならない。性風俗除外派の柳田のお笑い注と言ってもよい。
「なげし」「長押」。柱と柱の間の壁面に取り付ける装飾的な水平に打ち付けた横木或いは平面材。ここは叙述から、先に示した正規の玄関の上部の上長押(かみなげし)であろう。]
八〇 右の話をよく呑込む爲には、田尻氏の家のさまを圖にする必要あり。遠野一鄕の家の建て方は何れも之と大同小異なり。
[やぶちゃん注:ここに以下の図がある。図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの四十一と四十二コマの画像(後者は図のみをトリミングした)を用いた。一枚目の図は改頁部分は詰めて認識する必要があるが、中央の「主人ネマ」と下部の「坪マヘ」以外は仕切りがあるので注意されたい。]
門は此家のは北向なれど、通例は東向なり。右の圖にて厩舍[やぶちゃん注:「うまや」。]のあるあたりに在るなり。門のことを城前(ジヤウマヘ)と云ふ。屋敷のめぐりは畠にて、圍墻[やぶちゃん注:「いしやう」或いは「かこみ」。垣根や土塀のこと。]を設けず。主人の寢室とウチとの間に小さく暗き室あり。之を座頭部屋[やぶちゃん注:「ざとうべや」。]と云ふ。昔は家に宴會あれば必ず座頭を喚びたり。之を待たせ置く部屋なり。
【○此地方を旅行して最も心とまるは家の形の何れもかぎの手なることなり此家などそのよき例なり】
[やぶちゃん注:図のキャプションを右から左、上から下に注する。
「ハタ」「畑」。
「ホリ」「堀」。その上の堀の左(本文に従えば南側)は「門」の略字。
「クラ」「クヲ」に見えるが「クラ」で「蔵」(南端のそれも同じ)。門のそばにあるのは長屋門形式の変形であろうか。
「井」(三画目は直線)井戸。
「ウラ口」(他でもそうだが、「ラ」は「ヲ」に見えるので注意されたい)「裏口」。
「ヱン」「緣」。
「ウツコ」「ウツギ」のことであろう(「空木(うつき(ぎ))」の「木」を「こ」と読んだもの)。「ちくま文庫」版全集では「ウツギ」となっている。既出既注のミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギDeutzia crenata。
「ヒバ」「檜葉」ヒノキ(球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキChamaecyparis obtusa)やサワラ(椹。ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera)の別名。
「井ロリ」(「井」三画目は直線)は「ヰロリ」で「囲炉裏」。
「ウチ」(「内」であろう)「常居」「じやうゐ(じょうい)」と読み、家の中で家族がいつもいる居間のこと。
「ウラ茶ノマ」「裏茶の間」。
「小ザシキ」「小(こ)座敷」で「(七、五)」は七畳半(しちじょうはん)は、八畳の広さの内の半畳を欠いた間取りのものと四畳半に三畳を加えた間取りのものがあるが、孰れにしても、この図のような正方形にはならない。「マハリエン」(「𢌞り緣」)の一画が(図の「小ザシキ」の下部(南北の孰れかが半畳分凹んでいて、そこが給仕口等になっているのであろう。
「主人子マ」「子」はカタカナの「ネ」の代字(以下略す)。「主人」の「寢間」。
「城まへ」「城前」。家を城に見立て、そのエントランス部分。「カドノクチ」も「曲り家」の「角」(或いは「曲り家」そのもの)の入「口」の通路の意と思われる。
「坪マヘ」「坪前」。家の「前」の「坪」庭。
「奉公人子マ」「奉公人」の「寢間」。
「オモテ茶ノマ」「表茶の間」。
「カベ」「壁」。客や主人らは西の「オモテ茶ノマ」或いは十二畳の「ザシキ」(座敷)から家に入る形であろう。
「カラウスバ」「唐臼場」。米を精米する唐臼を置いて作業をする場所。「美濃加茂市民ミュージアム 美濃加茂市教育センター」公式サイト内の「カラウス(唐臼)」を見て戴けば、井の字型のニュアンスが判ると思う。
「ウマヤ」「厩」。季節によっては、この屋外の厩を馬牛のために用いるのであろう。
「馬ノカマ」よく判らないが、冬季に厩を温めるための「竃(かま)」であろうか。家人の厨房のそれの指示がないが、察するに、常居の北西にある土間がそれであろう。
「ウマヤ」この曲り家に接合する方の厩の周囲の長方形の十個の記号は柵であろうか。
「ホラマヘ」「洞前」。「七九」に既出既注。
「ニハ」「庭」。
「ナガヤ(納屋)」「長屋」。これも位置的に長屋門の大きな変形と捉え得る。
「ハタ」「畑」。
「クラ」「藏」。
以下、「常居」「ウチ」の拡大図。但し、見れば一致しないことで判る通り、これは前の田尻家のそれでは、ない。
「臺ドコロ」「臺所」(台所)。厨房。
「キンスリ座」「木尻(きじり)座」の転訛。本来は、爐の薪の尻をそちらの方へ向けておくことに由来した。煙いのを我慢せねばならぬ、囲炉裏では最もよくない座で、最上席の主人の正面であるが、格別に身分の低い者の末席で、雇い人・出入の者の座る最悪の座席であった。
「ケグラ座」第二位の席。奥の厨房に近い位置で、主婦の座。北側になることが多いので「北座」とも称される。この座には祖母や娘も並んで座る。食事の給仕をする場所であることから、食(け)に因み、「けざ」「けどこ」「けんざ」「けぐらざ」など多くの呼び名がある。農家の主婦は主人とともに農事を担い、食物の配分などの家政の責任者であったことから、囲炉裏での座は低くなく、ここは第二位の定席だったのである。
「爐」「ろ」。囲炉裏。
「客座」狭義のゲストの意ではなく、外来者・他所(よそ)から来た者の意。客がない時は家長以外の男の席なので「男座」とも称する。第三位の座でグレードは低い。
「橫座」「よこざ」。囲炉裏端の主人の定席。囲炉裏の最上席。茣蓙又は畳を横に敷くところからこの呼称がありる。戸主権の象徴とされる席で、主人が不在の時でも他の者はこの席に座らず、また、「横座を譲る」ことは「隠居」を意味した。
「側椽」「そくえん」。緣側。「椽」の「緣」への慣用使用は既に述べた。]
八一 栃内の字[やぶちゃん注:「あざ」。]野崎に前川萬吉と云ふ人あり。二三年前に三十餘にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でゝ歸りしに、門(カド)の口(クチ)より廻(マハ)り椽(エン)に沿ひてその角(カド)迄來たるとき、六月の月夜のことなり、何心なく雲壁(クモカベ)を見れば、ひたと之に附きて寢たる男あり。色の蒼ざめたる顏なりき。大に驚きて病みたりしが此も何の前兆にても非ざりき。田尻氏の息子丸吉此人と懇親にて之を聞きたり。
八二 これは田尻丸吉と云ふ人が自ら遭ひたることなり。少年の頃ある夜常居(ジヤウヰ)より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽(カス)かに茫としてはあれど、衣類の縞も眼鼻もよく見え、髮をば垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戶にがたと突き當り、戶のさんにも觸(サハ)りたり。されど我手は見えずして、其上に影のやうに重(カサ)なりて人の形あり。その顏の所へ手を遣れば又手の上に顏見ゆ。常居(ジヤウヰ)に歸りて人々に話し、行燈[やぶちゃん注:「あんどん」。]を持ち行きて見たれば、既に何物も在らざりき。此人は近代的の人にて怜悧なる人なり。又虛言を爲す人にも非ず。
[やぶちゃん注:「怜悧」(れいり)は「頭の働きが優れていて、賢いこと」。]