宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 不貪慾戒
風景とオルゴール
不 貪 慾 戒
油紙を着てぬれた馬に乗り
つめたい風景のなか、暗い森のかげや
ゆるやかな環狀削剝(くわんじやうせうはく)の丘、赤い萓の穗のあひだを
ゆつくりあるくといふこともいゝし
黑い多面角の洋傘(かうもりがさ)をひろげ
砂砂(すなさ)糖を買ひに町へ出ることも
ごく新鮮な企畫である
(ちらけろちらけろ 四十雀)
粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が
タアナアさへもほしがりさうな
上等のさらどの色になつてゐることは
慈雲尊者(じうんそんじや)にしたがへば
不貧慾戒(ふどんよくかい)のすがたです
(ちらけろちらけろ 四十雀(しじふから)
そのときの高等遊民は
いましつかりした執政官だ)
ことことと寂しさを噴く暗い山に
防火線のひらめく灰いろなども
慈雲尊者にしたがへば
不貧欲戒のすがたです
[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月二十八日の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。以下のような特異的な不都合があるので「手入れ本」は示さない。
・「粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が」全集校異によれば、底本の中にはこの『行頭の「粗剛な」の三字がなく三字分が空白になっているものがある』とある(印刷中に活字が脱落したものと思われるが、「手入れ本」の内、宮澤家版はそれであるが、何故か「粗剛な」を補っていない。なお、初版の発行部数は推定で一千部である)。私が加工データとさせて戴いている渡辺宏氏のそれもそう(「粗剛な」なしの三字分空白)なっている。私の底本は「粗剛な」が入っているので、そのまま電子化した。原稿では「粗剛な
Oryza sativa(オリザサテイヴア)といふ植物の人工群落が」(「オリザサテイヴア」は学名のルビ。学名は斜体になっていない)となっている。最終校正で変更したものと思われる。
・「不貧欲戒」二箇所とも「貧」はママ。原稿は標題通り、「貪」で誤植であるが、「正誤表」にない。
「不貪慾戒」仏教に於いて、十悪(十不善業道。「華厳経」の「十地品(じっち/じゅうじぼん)」の第二の「菩薩住離垢地(りくち)」で勧められてある菩薩としてなすべき十の良いことをすることの戒め)を否定形にして戒律とした十善戒の内の不慳貪(ふけんどん:激しい欲を抱かない)のこと。江戸後期の真言僧で本詩篇に出る慈雲尊者(享保三(一七一八)年~文化元(一八〇五)年:大坂生まれ。諱は飲光(おんこう)。顕・密・禅の各教を学修し、特に梵学に優れた。また、神道を研究し、天明六(一七八六)年には雲伝神道(河内国葛城山麓の真言律宗高貴寺で創唱したもので、記紀を基本教典とし、密教の理に拠って神道を説いたもの。赤心と君臣の大義を神道の奥義として、夫婦朋友の道を説く儒教を退けた。名称は「慈雲所伝の神道」の意)を唱道している)恐らく安永四(一七七五)年に板行した「十善法語」によって広く宣揚されたものと思われる。特に本邦の真言宗系で重んじられているが、四国遍路の大衆化により、宗派を問わず、普及してきている。内容は、三業(さんごう:身(身体全般)・口(言語活動)・意(意志・欲望)の三種は引き起こす業(ごう))にそれぞれ以下のように対応する。「身業」として、不殺生・不偸盗(与えられていないものを自分のものとしない)・不邪淫、「口業」として不妄語・不綺語(中身のない言葉を話さない)・不悪口(ふあっく:乱暴な言葉を使わない)・不両舌(他人を仲違いさせるようなことを言わない)、「意業」として、不慳貪・不瞋恚(ふしんに:激しい怒りをいだかない)・不邪見(因果の道理を無視した誤った見解を持たない)である(以上は主にウィキの「十善戒」に拠った)。
「環狀削剝(くわんじやうせうはく)」地形用語。「環狀」地形という語自身が「削剝」を含む。環状に連なっている山稜・丘陵の一部が削剥された形状を呈する地形で、特に火山岩分布域に発達する。内側に降った降水が地下水として削剥部に集中してそのような地形を作っている可能性があるものである(こちらの資料(PDF)に拠った)。
「萓」「萱(かや)」の異体字。茅(かや)。イネ科(単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae)及びカヤツリグサ科(イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae)の草本の総称。細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物のそれで、代表種にチガヤ(イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)・スゲ(カヤツリグサ科スゲ属 Carex)・ススキ(イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis)がある。
「黑い多面角の洋傘(かうもりがさ)をひろげ」/「砂砂(すなさ)糖を買ひに町へ出ることも」/「ごく新鮮な企畫である」ごくハイソサエティのお洒落なポーズ。「不貪慾戒」をちゃかしていることが窺える。
「ちらけろ」散らばれ。散開しろ。
「四十雀」スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ Parus minor。一般大衆の比喩であろう。冒頭の「馬」や後の「高等遊民」「いましつかりした執政官」からは、一茶の「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」を下敷きにしている。
「粗剛な」荒っぽく、猛々しいこと。
「オリザサチバ」単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa。
「タアナア」イギリスのロマン主義の画家で風景画をよくしたジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William
Turner 一七七五年~一八五一年)。
「さらど」salad。サラダ。
「そのときの高等遊民は」/「いましつかりした執政官だ)」「高等遊民」は明治以降の用語で、専門の教育を受けていながら、正業につかず、ぶらぶら遊んで暮す男のこと。夏目漱石は肯定的に、文化人を指す語として用いて人口に膾炙した。「こゝろ」の「先生」のような存在である(リンク先は私のブログ・カテゴリ)。教員となる以前の賢治の生き方はそれに当たる。「執政官」は本来はラテン語「consul」(コンスル)で、古代ローマの政務官の一つを指し、都市ローマの長官で、共和政ローマの形式上の元首であるが、ここは公的な定職の謂いで、農学校教諭であった現在の賢治を指している。これもまた「不貪慾戒」をちゃかしていることは明らかであるが、寧ろ、ここに至れば、自虐的表現として顕在化する。既にして、教師としての自分に批判的な印象が示されていると私は読む。賢治は本書が刊行された(大正一三(一九二四)年四月二十日発行)二年後の大正一五(一九二六)年三月三十一日を以って花巻農学校を依願退職しており、その前年四月十三日附の教え子杉山芳松宛の書簡で「來春はやめてもう本統の百姓になります」と辞職の決意を示していた。
「ことことと寂しさを噴く暗い山に」/「防火線のひらめく灰いろなども」「防火線」は森林火災の延焼を防ぐために設けられた細長い空地、防火帯のこと。外化された心象風景の中の孤独な賢治が見える。そうしてこれは、「不貪慾戒」と「高等遊民」を止揚(アウフヘーベン)した孤高な農民詩人たらんとする決意の秘かな表明でもあるのではなかろうか。]
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