佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五五~五九 河童
五五 川には河童(カツパ)多く住めり。猿ケ石川殊に多し。松崎村の川端(カハバタ)の家(ウチ)にて、二代まで續けて河童の子を孕(ハラ)みたる者あり。生れし子は斬(キ)り刻(キザ)みて一升樽(イツシヤウダル)に入れ、土中に埋(ウヅ)めたり。其形(カタチ)極めて醜恠なるものなりき。女の聟の里は新張(ニヒバリ)村の何某とて、これも川端の家なり。其主人人(ヒト)に其始終(シヾウ)を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に歸らんとするに、女[やぶちゃん注:「をんな」。]川の汀(ミギワ[やぶちゃん注:ママ。])に踞(ウヅクマ)りてにこにこと笑ひてあり。次の日は晝(ヒル)の休に亦此事あり。斯くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某と云ふ者夜々(ヨルヨル)通(カヨ)ふと云ふ噂(ウワサ)立ちたり。始には聟が濱の方へ駄賃附(ダチンヅケ)[やぶちゃん注:既出既注の駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)。駄馬を用いた運送業。]に行きたる留守をのみ窺ひたりしが、後には聟(ムコ)と寢(ネ)たる夜(ヨル)さへ來るやうになれり。河童なるべしと云ふ評判段々高くなりたれば、一族の者集まりて之を守れども何の甲斐も無く、聟の母も行きて娘の側(カタハラ)に寢(ネ)たりしに、深夜にその娘の笑ふ聲を聞きて、さては來てありと知りながら身動きもかなはず、人々如何にともすべきやうなかりき。其産は極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽(ウマフネ)に水をたゝへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水搔(ミヅカキ)あり。此娘の母も亦曾て河童の子を産みしことありと云ふ。二代や三代の因緣にはあらずと云ふ者もあり。此家も如法の豪家にて○○○○○と云ふ士族なり。村會議員をしたることもあり。
[やぶちゃん注:「馬槽(ウマフネ)」飼馬桶。
「如法の豪家にて」文字通りの富豪であって。
「○○○○○と云ふ士族なり」岩波文庫版では「何の某という士族なり」とあるが、伏字の字数と合わないことから、これは岩波の編者の恣意的な改変で、原話では実名或いは特定可能な地名を含んだ屋号であったものと思われる。【2018年12月27日追記】いつもいろいろなテクストに対して情報提供を下さるT氏から、石井正巳氏の論文「『遠野物語』の文献学的研究」(PDF)の紹介を受けた。その中で石井氏は「五、本文の書き換え――物語五五の場合―」という一章を設け、この条を現在残る本文として最も古い、遠野市に寄贈された旧池上他隆祐蔵の、初稿本三部作のうちの毛筆原稿本に溯って、その書誌上の痙攣的な恣意的「書き換え」行為を具に検証されておられる。同章冒頭に示されたその現存最古の初期形を全文引用しておく。なお、後に石井氏が補足してある推敲過程を取消線で挿入し、また、恣意的に漢字を正字化し、ルビ「カッパ」の表記は「カツパ」とした。句読点が標題以降にないのはママで、踊り字「〱」は正字化した。
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五五、川には河童(カツパ)多く住めり。猿ケ石川殊に多し松崎村の川端の家にて二代迄つゞけて河童の子を孕みたる者あり生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ土中に埋めたり形極めて恠しきものなりき女の聟の里は新張(ニヒバリ)村の某此も川端の家なり其主人人に其始末に語れり彼の家一同或日畠に行きて夕方歸らんとするに女川の汀に踞りてにこにこと笑へり次の日の晝休にも同じことなりかくすること日を重ねしに其頃其女の許に村の某といふ者通ふといふ噂たてり始は聟が濱の方へ駄賃附に行きたる留守を窺ひしか[やぶちゃん注:ママ。]後には聟とねたる夜さへ來るなり河童なるべしといふ評判高くなりたれは[やぶちゃん注:ママ。]一族集まりて之を守れとも[やぶちゃん注:ママ。]何の甲斐も無く聟の母も行きて娘の側に宿りしに深夜其女の笑ふ聲を聞きさては來てありと知りながら身動きもかなはず人々如何ともすべきやうなしかりき其産は極めて難産なりしに或者の曰く馬槽に水をたゝへ其中にて産めまば安からんとのことに之を試みたれば果して然りき其子は手に水搔あり此女の母も亦曾て河童の子をうめりと云ふ二代や三代の因緣には無しといふ者もあり此家も如法の豪家にて白岩市兵衞といふ士族なり村會議員をしたることもあり
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以下、この氏名伏字の書誌的考証が本文で続くが、T氏のメールの内容が要所を押さえておられるので、以下に引用させて戴く(一部に私が論文を元に変更を加え、言い回しの一部に手を加えさせて貰った)。
《引用開始》
同氏の研究では『○○○○○』の部分は柳田國男の原稿(毛筆とペン書き)及び初校校正まで実名で記載され、以降の校正で『○○○○○』になった。
『○○○○○』が』『何の某』に変更されたのは、柳田文庫の朱書加筆本で、以降の「朱書加筆本」を基にした戦後の文芸春秋新社本(昭和二三(一九四八)年刊)、角川本(昭和四三(一九六八)年刊)は『何の某』になった。
その後がまたややこしく、筑摩書房の定本柳田國男集(昭和六三(一九八八)年刊)で「遠野物語」初版を底本にし『○○○○○』 に戻った。
岩波文庫版(昭和五三(一九七八)年刊)は、『初版本(明治四十三』(一九一〇)『年、聚精堂刊)、増補版(昭和十』(一九三五)『年、郷土研究社刊)版』(「増補遠野物語」)』『および成城大学柳田文庫所蔵の著者加筆本と交合した』と記載しているので、初版『○○○○○』の箇所は「朱書加筆本」の『何の某』を採用したもの、というのが石井正巳さんの考察です。
定本柳田國男集で河童が川童に変更されているなど、細かい変更が多数あるようです。(確かに定本柳田國男集は川童でした。)
この論文を読むと、文献学的研究の面白さと、手に入る本文のややこしい話が分かりました。
《引用終了》
私も本電子化中、「河童」を「川童」に〈学術用語〉として強引に統一化しようとするかのようなこの時の柳田國男の堅意地めいたアカデミストの一面を感じたのであるが、生物種の和名学名じゃあるまいし、しかも各地の「かっぱ」の属性の変異(特に本邦では西日本と東日本では大きな相違がある)や呼称の多様さでは妖怪の中でも群を抜いている一種である以上、「かっぱ」或いは私の嫌いなカタカナ表記の「カッパ」でよかろうかいと思ったものである。因みに、このワードの「かっぱ」の変換は「河童」であり、所持する民俗学及び妖怪関連書でも「河童」が有意に多く、柳田も以後の「かっぱ」を扱った著作では「河童」と記し(「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の冒頭に収録されている論文「河童駒引」等)、「川童」が〈学術用語〉として認められることは遂になかったし、今も、ない。その優れた功績は偏に何と言っても私は芥川龍之介の「河童」(昭和二(一九二七)年三月発行。リンク先は私の電子化。私は他に『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』や『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈』及び『芥川龍之介「河童」決定稿原稿(電子化本文版)』等を手掛けている)のお蔭と信じて疑わない。さても、最後に、T氏にまたしても助けられた。心より御礼申し上げるものである。]
五六 上鄕村の何某の家にても河童らしき物の子を産みたることあり。確なる證とては無けれど、身内(ミウチ)眞赤(マツカ)にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌(イマ)はしければ棄てんとて之を携へて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、賣りて見せ物にせば金になるべきにとて立歸りたるに、早取り隱されて見えざりきと云ふ。
【○道ちがへは道の二つに別かるゝ所卽追分なり】
[やぶちゃん注:「追分(おひわけ)」は「辻」であり、民俗社会では集落の外れにあって、山向う・川向う・異国・異界に繋がる霊的な場所であった(それ故にそこに塞ノ神や道祖神などを置いて異界からの邪気の村落への侵入を防御した)。そこではこうした子捨て行為が許される(それを人柱として防禦システムに取り入れるという意味もあったであろう)特殊な異界との通路でもあったのである。「取り隱されて見えざりき」は子捨て・子殺しの言い訳なのではなく、身内の頑是ない赤子を見世物にして儲けようという、よりおぞましい化け物となった何某の家の主人にあきれた、そうした異界の「なにもの」かが、その子を確かに受け取ったと解されることで、「古事記」の蛭子(ひるこ)同様、異人の魂送りのモチーフともなっている。]
五七 川の岸の砂(スナ)の上には河童の足跡(アシアト)と云ふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などは殊に此事あり。猿の足と同じく親指(オヤユビ)は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず[やぶちゃん注:九センチに足りない。]。指先のあとは人のゝやうに明らかには見えずと云ふ。
五八 小烏瀨川(コガラセガハ)の姥子淵(ヲバコフチ)の邊に、新屋(シンヤ)の家(ウチ)と云ふ家(イへ)あり。ある日淵(フチ)へ馬を冷(ヒヤ)しに行き、馬曳(ウマヒキ)の子は外(ホカ)へ遊びに行きし間に、河童出でゝ其馬を引込まんとし、却りて馬に引きずられて厩(ウマヤ)の前に來り、馬槽(ウマフネ)に覆(オホ)はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを恠しみて少しあけて見れば河童の手出でたり。村中の者集まりて殺さんか宥さんか[やぶちゃん注:「ゆるさんか」。]と評議せしが、結局今後(コンゴ)は村中の馬に惡戯(イタヅラ)をせぬと云ふ堅き約束をさせて之を放したり。其河童今は村を去りて相澤(アヒザハ)の瀧の淵に住めりと云ふ。
【○此話などは類型全國に充滿せり苟も河童のをると云ふ國には必ず此話あり。何の故にか】
[やぶちゃん注:「河童駒引き」である。私は多くの河童関連書を所持しているが、石田栄一郎氏の「河童駒引考」(初版一九四八年刊/新版・一九九四年岩波文庫刊)は柳田國男の「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の冒頭に収録されている論文「河童駒引」を補足する形をとっているが、最も優れた河童を追った著作の一つと思う。そこで石田氏は河童は水神が零落した妖怪であり、古えの民俗社会に於いてはその水神に馬を生贄として捧げた供儀があったものが、長い時間をドライヴしてきて変形して生き残ったものと推定されている。]
五九 外(ホカ)の地にては河童の顏は靑しと云ふやうなれど、遠野の河童は面(ツラ)の色(イロ)赭(アカ)きなり。佐々木氏の曾祖母、穉(ヲサナ)かりし頃友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃(クルミ)の木の間より、眞赤(マツカ)なる顏したる男の子の顏見えたり。これは河童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。此家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。
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