佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九五~九七 天翔ける愛石家・嗅ぐ男・菊池松之亟の臨死体験
九五 松崎の菊池某と云ふ今年四十三四の男、庭作りの上手にて、山に入り草花を掘りては我庭に移し植ゑ、形の面白き岩などは重きを厭はず家に擔(ニナ)ひ歸るを常とせり。或日少し氣分重ければ家を出でゝ山に遊びしに、今までつひに[やぶちゃん注:ママ。]見たることなき美しき大岩を見付けたり。平生の道樂なれば之を持ち歸らんと思ひ、持ち上げんとせしが非常に重し。恰も人の立ちたる形して丈もやがて人ほどあり。されどほしさの餘之を負ひ、我慢して十間ばかり[やぶちゃん注:約十八メートル強。]步みしが、氣の遠くなる位(クラヰ)重ければ怪しみを爲し、路の旁に之を立て少しくもたれかゝるやうにしたるに、そのまゝ石とともにすつと空中に昇り行く心地したり。雲より上になりたるやうに思ひしが實に明るく淸き所にて、あたりに色々の花咲き、しかも何處とも無く大勢の人聲聞えたり。されど石は猶益(マスマス)昇(ノボ)り行き、終には昇り切りたるか、何事も覺えぬやうになりたり。其後時過ぎて心付きたる時は、やはり以前の如く不思議の石にもたれたるまゝにてありき。此石を家の内へ持ち込みては如何なる事あらんも測りがたしと、恐ろしくなりて遁げ歸りぬ。この石は今も同じところに在り。折々は之を見て再びほしくなることありと云へり。
[やぶちゃん注:エンディングの二文が美事だ。]
九六 遠野の町に芳公馬鹿(ヨシコウバカ)とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。此男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾ひ、之を捻(ヒネ)りてつくづくと見つめ又は之を嗅(カ)ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりて其手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことして折々之を嗅ぐなり。此男往來をあるきながら急に立ち留り、石などを拾ひ上げて之をあたりの人家に打ち付け、けたゝましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすれば其晚か次の日か物を投げ付けられたる家火を發せざることなし。同じこと幾度と無くあれば、後には其家々も注意して豫防を爲すと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]、終に火事を免(マヌカ)れたる家は一軒も無しと云へり。
九七 飯豐(イヒデ)の菊池松之亟と云ふ人傷寒を病み、度々息を引きつめし時、自分は田圃に出でゝ菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、圖らず空中に飛上り、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下(マヘサガ)りに行き、又少し力を入るれば昇ること始の如し。何とも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつゝ門を入れば、紅(クレナヰ)の芥子(ケシ)の花咲き滿ち、見渡す限も知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡(ナ)くなりし父立てり。お前も來たのかと云ふ。これに何か返事をしながら猶行くに、以前失ひたる男の子居りて、トツチヤお前も來たかと云ふ。お前はこゝに居たのかと言ひつゝ近よらんとすれば、今來てはいけないと云ふ。此時門の邊にて騷しく我名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限なけれど、據[やぶちゃん注:「よんどころ」。]なければ心も重くいやいやながら引返したりと思へば正氣付きたり。親族の者寄り集ひ水など打ちそゝぎて喚生(ヨビイ)かしたるなり。
[やぶちゃん注:「傷寒」漢方では高熱を伴う急性疾患を指し、腸チフスなどとされる。しかし、この主人公、たびたび呼吸困難になっている様子からは、例えばマラリアが治りきっておらず、後遺症でしばしば急激な発熱症状が回帰するそれのように思われる。所謂、古典で言う「瘧(おこり)」である。後の幻視などもそうした熱性譫妄として理解出来る。
「喚生(ヨビイ)かしたる」所謂、「魂振(たまふ)り」「魂呼(たまよば)ひ(たまよばい)」「魂呼(たまよ)び」である。意識消失や仮死状態・臨死期の者の名などを大声で呼ぶことによって現世界へ霊魂を引き戻す呪的仕儀である。]
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