佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 四三 熊と素手で格闘
四三 一昨年の遠野新聞にも此記事を載せたり。上鄕村の熊と云ふ男、友人と共に雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分(テワケ)してその跡を覓(モト)め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊此方を見る。矢頃(ヤゴロ)あまりに近かりしかば、銃をすてゝ熊に抱へ[やぶちゃん注:「かかへ」。]つき雪の上を轉(コロ)びて、谷へ下る。連(ツレ)の男之を救はんと思へども力及ばず。やがて谷川に落入りて、人の熊下(シタ)になり水に沈みたりしかば、その隙(ヒマ)に獸の熊を打取りぬ。水にも溺(オボ)れず、爪の傷は數ケ所受けたれども命に障(サハ)ることはなかりき。
[やぶちゃん注:本書刊行は明治四三(一九一〇)年六月であるから、明治四一(一九〇九年となるが、dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語43(大熊)」』に遠野常民大学著・後藤総一郎監修「注釈遠野物語」(一九九七年筑摩書房刊)から、当該記事『遠野新聞』の引用があり、そのクレジットは明治三九(一九〇六)年十一月二十日とある。佐々木からの聴き取りから実に四年も柳田が放置していたことが判る(漢字を恣意的に正字化し、「熊と格闘」とあるのを見出しととらさせて貰って前に配した)。
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熊と格鬪
上鄕村仙人峠は今は篠切りの季節にて山奧深く分け入りしに淡雪に熊の足跡あるを見出し仝村細越佐藤末松を先頭に七八人の獵夫等沓掛山をまきしに子連れの大熊を狩出したれば狙ひ違はず二發まで見舞たれども斃るゝ氣配のあらざれば畑屋の松次郞は面倒臭しと獵銃打ち捨て無手と打組みしも手追ひの猛熊處きらはず鋭爪以て引搔きしも松次郞更にひるまず上になり下になり暫が間は格鬪せしも松次郞が上になれば子が嚙み付くより流石の松次郞も多勢に無勢一時は危く見えしも勇を鼓して戰ひしに熊も及ばずと思ひけん松次郞打ち捨てゝ逃げんと一二間離れし處を他の獵夫の一發に斃れしも松次郞の負傷は目も當てられぬ有樣にて腰より上は一寸の間きもなく衣類は恰もワカメの如く引き裂かれ面部に嚙み付かんと牙ムキ出せばコブシを口に突き込みし爲め手の如きは見る影もなき有樣にて今尚ほ治療中なりと聞くも恐ろしき噺にて武勇傳にでも有り相な事也。
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ウィキの「遠野物語」には、本条『では熊はクマと格闘してもほぼ無傷で生還した屈強な男と書かれているが、新聞記事の内容とは異なる部分がいくつかある』「遠野物語」では知人と二人で『六角牛山へ入ったとなっているが、遠野新聞では篠切の季節(旧暦の』十『月から雪の降りはじめる季節)に佐藤末松を筆頭とする』七、Ⅷ『人からなる一団が沓掛山で遭遇した事件とされている。熊と呼ばれた畑屋の松次郎は負傷で目も当てられない状態となり、着衣はずたずたに裂け、クマが噛み付こうとした際に拳を口に押し込んで難を逃れた為に手は酷い有様で、発行時点でも治療を必要としていたとなっている。あるいは、松次郎の近所に住む高橋金助の証言によれば、こちらは怪我は負ったものの、病院へ行く必要があるような状態では無かったとされており、新聞では読み物として面白くするために誇張されていたのではないかと考えられている』とある。]
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