佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇〇、一〇一 妖狐譚
一〇〇 船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉利吉里(キリキリ)より歸るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢ふ。見れば我妻なり。されどもかゝる夜中に獨此邊に來べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、矢庭に魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき聲を立てゝ死したり。暫くの間は正體を現はさざれば流石に心に懸り、後の事を連の者に賴み、おのれは馳せて家に歸りしに、妻は事も無く家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり歸りの遲ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅(オビヤ)かされて、命を取らるゝと思ひて目覺めたりと云ふ。さてはと合點して再び以前の場所へ引返して見れば、山にて殺したりし女は連の者が見てをる中につひに[やぶちゃん注:ママ。]一匹の狐となりたりと云へり。夢の野山を行くに此獸の身を傭(ヤト)ふことありと見ゆ。
一〇一 旅人豐間根(トヨマネ)村【○下閉伊郡豐間根村大字豐間根】を過ぎ、夜更け疲れたれば、知音[やぶちゃん注:「ちいん」。親友。知己(ちき)。]の者の家に燈火の見ゆるを幸に、入りて休息せんとせしに、よき時に來合せたり、今夕死人あり、留守の者なくて如何にせんかと思ひし所なり、暫くの間賴むと云ひて主人は人を喚びに行きたり。迷惑千萬なる話なれど是非も無く、圍爐裡の側にて煙草を吸ひてありしに、死人は老女にて奧の方に寢させたるが、ふと見れば床(トコ)の上にむくむくと起直る。膽潰れたれど心を鎭め靜かにあたりを見廻(ミマハ)すに、流し元の水口の穴より狐の如き物あり、面(ツラ)をさし入れて頻に死人の方を見つめて居たり。さてこそと身を潜め窃かに家の外に出で、背戶(セト)[やぶちゃん注:裏口。]の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後(アト)足を爪立(ツマタ)てゝ居たり。有合はせたる棒をもて之を打ち殺したり。
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