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2018/12/20

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三一~三五 山中の怪

 

三一
 遠野鄕の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり。殊に女に多しとなり。 

 

三二 千晚ケ嶽(センバガダケ)は山中に沼(ヌマ)あり。此谷は物すごく腥(ナマグサ)き臭(カ)のする所にて、此山に入り歸りたる者はまことに少(スクナ)し。昔何の隼人と云ふ獵師あり。其子孫今もあり。白き鹿を見て之を追ひ此谷に千晚こもりたれば山の名とす。その白鹿擊たれて遁げ、次の山まで行きて片肢(カタアシ)折れたり。其山を今片羽山(カタハヤマ)と云ふ。さて亦前なる山へ來て終に死したり。其地を死助(シスケ)と云ふ。死助權現(シスケゴンゲン)とて祀れるはこの白鹿なりと云ふ。

【○宛然として古風土記をよむが如し】

[やぶちゃん注:「千晚ケ嶽(センバガダケ)」現在の仙磐山(せんばんやま)。標高千十六・二メートル。この山は「仙葉山」「仙羽山」(せんばやま)とも呼ばれるようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。その西六キロメートル強の位置に「片羽山」がある(双子峰で北にある雄岳が最高標高で千三百十三メートル。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る)。現地では「片葉山」と書くようである(足が折れたとするから「片輪」とするのではちと単純過ぎる。両山の別称に「葉」が共通するのは天狗の秋「葉」山等を連想される)。登山記録記事を見たが、孰れも上級者向きのコースで、航空写真を見ても、この間の尾根と谷は見るからに難所という感じがする。ある方の仙磐山登山の記載ではまさに「鹿道」(ししみち:獣道)に入り込んで迷ったとさえあるのである。

「死助權現」dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『遠野不思議 第四百七十六話「死助権現(ぼっちらしの権現)』に、祀られていたそれが別な場所に現存するとある(写真有り)。そこには『縫』(「遠野物語拾遺」の「九六」・「一一〇・「一八五」・「二二一」に登場する遠野の稀代の名狩人「旗屋(はたや)の縫(ぬい)」。ブログ主は「何の隼人(はやと)」と「旗屋の縫」を同一人物と推定されておられる)『の倒した鹿は、角が八つに分かれており、きっと山ノ神の化身に違いないと、縫に鹿の肉を勧められた人々は決して、その肉を食べようとはしなかったという』。『縫が鹿を仕留めた処に石の権現様を祀り、鹿の霊を供養する事にしたのだと。この石の権現様が「ぼっちらしの権現」で「死助権現」とも呼ばれる』。明治二二(一八八九)年頃、『区画整理の為に栗橋の人間が遠野から、自分の土地へと下げたのが、この写真に祀られている権現様である』とある。個人ブログ『「遠野」なんだり・かんだり』の「畑屋の縫」には、「注釈遠野物語」『によると、縫の名前が初めて文章に登場するのは』、元禄一〇(一六九七)年三月に『盛岡へ出頭した遠野の古人(古人~境目論争があったときに証人となる監視役のこと)』七『人の中に「鳥海長峰よりひこう峠迄之様子存候百姓縫殿」と記されたときからだという。慶安元年』(一六四八年)『の生まれ。江戸時代になって百姓の身分であっても高橋姓であり、「先祖遠野譜代」と由緒にあることから、阿曾沼氏の家臣であったことを示すという。確かに上郷町細越畑屋は、ひとかたまりが高橋姓である』。『この縫の霊を祀ったともされる畑屋観音堂の棟札には「大檀那当城主義長公御武運長久郡中安全如意満足奥州南部遠野於機屋村建立」とあるとか』。『板沢館、刃金館、爪ヶ森館、篠ヶ館、林崎と館があった上郷に釜石側との山々を知り尽くしていた高橋氏が武士として鉄砲を所持して住んでおり、後に猟師として土着した可能性が高いという』。『この御堂の本尊である千手観音は』延宝六(一六七八)年に『青笹町中沢村の工藤藤九郎が高橋縫之助に頼まれ、京都妙伝寺前の仏師から壱両で買い、届けたものと記されているという』とある。また、ウィキの「遠野物語」には、『この話は三山の由来譚であり、その舞台となったのが千晩ヶ嶽、現代における釜石市の仙磐山となる。「縫」は「鵺」とされることもあり』、「遠野物語拾遺」や「聴耳草子紙」『などに多く取り上げられ、題目の畑屋の縫に関する伝承は遠野市上郷町細越の小字である畑屋に伝わっている』。『この地には「縫」を祀ったとも、殺』(あや)『めた「畜霊」を祀ったとも云われる畑屋観音堂があり、その棟札には』延宝六(一六七八)年に『機屋村高橋縫之介から頼まれ、中沢村の工藤氏藤九郎が参拝に行った京都で仏師から買い求め、この年の』五月十四日に『購入し、同月』二十九『日に届けたものと記されて』おり、『この時』、『高橋縫之介は』三十一『歳であったという。また、釜石市甲子町には千晩神社があり、その由緒によると勧請されたのは』文禄二(一五九三)年『頃で、次のような伝承がある』(以下、「釜石市文化財報告書 第十五集 歴史の道」の「甲子道と小川新道」を出典とする。漢字を私が恣意的に正字化して示した)。――『元文三[やぶちゃん注:一七三八年。]年機屋ノ奴ハ國守ノ命ヲ受ケ千晚山ニ九百九十九日籠リ將ニ千日ニナラントスル曉、千晚樣ノ御告ニ依リ國守所望ノ鰭廣ノ大鹿ヲ見付ケ之レガ俊足ノ蹄ヲ狙ヒテ少シモ傷ツケスニ射止メテ國守ニ獻セリト云フ、其ノ際機屋ノ奴ノ使用セシ鍋ヲ千晚ニ納メタリト云ヘトモ今ハ無シ』――『中世の遠野は阿曾沼氏に代わって南部氏が南下して支配する一方、北上する仙台の伊達氏との間で境界にあった』。『旧領主であった阿曾沼広長や新支配者の鱒沢左馬之助などと伊達藩の間には三度の戦闘があり(平田・赤羽根峠・樺坂峠の戦い)、さらにその後、小友の赤坂金山の支配権を巡り南部と伊達との境は緊張状態が続いた』。『それを受け、藩境を明確にする為に藩境塚が設置され、御境古人が任命された』。元禄一〇(一六九七)年に『記された「遠野領における境論争の有無についての書上」には盛岡へ出頭した古人』七『名の中に「鳥海長峰よりひこう峠迄之様子存候百姓縫殿」という名があり、文書に「縫殿」という名が確認できる』。或いは、享保七(一七二二)年の『「御境古人共由緒書上之事」に寄るところ、遠野領の藩境には小友の五輪峠から仙人峠の仙人堂までに』七『人の古人が充てられ、その中にはたや六左衛門七十五という人物が書き記され、高橋縫之介とはたや六左衛門はいずれも』慶安元(一六四八)年に『生まれたことになる』。『これらの事から「百姓縫殿」と「高橋縫之介」と「はたや六左衛門」は同一人物と考えられている』。『仙磐山は鉱物の標本とも言われるほどの鉱産地であり、その開山譚の背景には六角牛山、片羽山、権現山、五葉山らに深い関わりを持った「畑屋の縫」がいたのではなかろうかとも考えられている』とある。

「宛然」「ゑんぜん(えんぜん)」は「そっくりそのままであること」で「宛(さなが)ら」の意。] 

 

三三 白望(シロミ)の山に行きて泊(トマ)れば、深夜にあたりの薄明(ウスアカ)るくなることあり。秋の頃茸(キノコ)を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢ふ。又谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の聲など聞(キコ)ゆることあり。此山の大さは測(ハカ)るべからず。五月に萓[やぶちゃん注:「かや」。「萱」の異体字。]を苅りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き滿ちたる山あり。恰も紫の雲のたなびけるが如し。されども終に其あたりに近づくこと能はず。曾て茸を採りに入りし者あり。白望の山奧にて金の樋(トヒ)と金の杓(シヤク)とを見たり。持ち歸らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなはず。又來んと思ひて樹の皮を白くし栞(シヲリ)としたりしが、次の日人々と共に行きて之を求めたれど、終に其木のありかをも見出し得ずしてやみたり。

[やぶちゃん注:「白望(シロミ)の山」は遠野の東北約二十キロメートルに位置する、現在の岩手県宮古市小国(おぐに)の白見山。標高千百七十三メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。この山中のオー・パーツ(その発見された対象物がその場所或いは時代と全く齟齬すると考えられる物であることを指す超常現象用語。れっきとした英語で、out-of-place artifacts」の略「OOPARTS。「場違いな工芸品」の意)は明らかに「六三」「六四」を初出とするとする、まさに「マヨヒガ」(迷い家)の必要条件の豪華な付属物の属性であり、白望山とその地区小国は後の二話とも一致するから、私は「遠野物語」の「マヨイガ」の初出はこの「三三」とするべきであると考える。因みに、私は柳田がすっかり広めて一般化させてしまった感のある民俗学上の和名学名表記みたような怪しげなカタカナ表記用語は、実は生理的に甚だ――虫唾が走るほどに――嫌いである(同様に日本語の方言である沖繩言葉をカタカナ表記するのもやはり厭である)が、ここではひとまず、本文に従っておく。だいたいが「マヨイガ」は小さな頃から「迷い蛾」に見えて気持ち悪くて仕方がないのである。 

 

三四 白望の山續きに離森(ハナレモリ)と云ふ所あり。その小字(コアザ)に長者屋敷と云ふは、全く無人の境なり。玆(コヽ)に行きて炭を燒く者ありき。或夜その小屋の垂菰(タレコモ)をかかげて、内を窺(ウカヾ)ふ者を見たり。髮を長く二つに分けて垂(タ)れたる女なり。此あたりにても深夜に女の叫聲[やぶちゃん注:「さけびごゑ」。]を聞くことは珍しからず。

[やぶちゃん注:「離森」諸情報を綜合すると、南岸である(国土地理院図)。なお、東北地方で「森」と言った場合は、必ずしも我々の想起する平地にある森ではなく、寧ろ、小高い丘陵や幾つかの山塊の個別なピーク或いは独立した台地を指すことが多い。しかもそこが樹木に覆われておらず、下草ばかりであったり、丸裸であったりしても「森」なのである。これは宮澤賢治修羅」第四梯形などを読めば一目瞭然である。ここは無論、炭焼きに入るので、かなりの森林帯の山である。] 

 

三五 佐々木氏の祖父の弟、白望(シロミ)に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を橫ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るやうに思はれたり。待てちやアと二聲ばかり呼はりたるを聞けりとぞ。

  

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