佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五〇~五三 花や鳥
五〇 死助(シスケ)の山にカツコ花あり。遠野鄕にても珍しと云ふ花なり。五月閑古鳥(カンコドリ)の啼(ナ)くころ、女や子ども之を採りに山へ行く。酢(ス)の中に漬(ツ)けて置けば紫色(ムラサキイロ)になる。酸漿(ホヽヅキ)の實(み)のやうに吹きて遊ぶなり。此花を採ることは若き者の最も大なる遊樂なり。
[やぶちゃん注:「カツコ花」(カッコばな)は諸解説により、単子葉植物綱キジカクシ目ラン科アツモリソウ属アツモリソウ Cypripedium
macranthos var. speciosum の地方名と判明した。ウィキの「アツモリソウ」より引く。花は三~四センチメートル『程の袋状で、赤紫色。茎の頂上に通常』一『花、まれに』二『花つける。全体の高さ』三十~五十センチメートル、葉は』三~五『枚が互生する。冬は落葉する。北海道から本州に分布する。寒冷地を好み、北へ行くほど低山でも見られるようになる。草原、明るい疎林に生育する。本種全体としてはベラルーシ東部から温暖な東アジアに分布。和名は、袋状の唇弁を持つ花の姿を、平敦盛の背負った母衣(ほろ)』(背後からの矢・投石等から防御するための甲冑の補助武具。兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの。後には旗指物の一種となった。「ほろ」は「幌」「保侶」「保呂」「母蘆」「袰」等とも書く。ここはウィキの「母衣」に拠った)『に見立ててつけられている。また、この命名は熊谷直実の名を擬えた同属のクマガイソウ』(アツモリソウ属クマガイソウ Cypripedium japonicum)『と対をなしている』。『栽培目的で乱獲されることが多いラン科の中でも、最も激しく乱獲』・『盗掘される種類である。そのため、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」(平成四』(一九九二)『年六月五日法律第七十五号)に』基づき、一九九七年に『「特定国内希少野生動植物種」に指定されるに至った。現在では環境大臣の許可をうけた場合などの例外を除き、採集等は原則禁止である』。『ちなみに「特定国内希少動植物種」を栽培することは禁止されていない。販売・購入についても、国内希少動植物種は原則』、『譲渡禁止だが、特定国内希少動植物種の場合は無菌播種などによって人工的に増殖された個体は、環境大臣及び農林水産大臣への届け出をした者であれば販売、頒布等の業(特定事業)をおこなうことができる。また、譲受け等をする者(法人である場合にはその代表者)は届出業者に住所氏名を提示し、書類記録を提出してもらえば譲受け等をすることができる』。『近年までアツモリソウ類の無菌播種はきわめて困難とされていたが、培養に必要な特殊条件(培地の無機塩濃度の減量、暗所培養、種子および苗の低温処理、未熟種子の利用または長時間の洗浄処理、種類によっては微量の植物ホルモンの添加、等々)が解明され、現在は大量の苗を生産することが可能になっている。一部の業者は園芸的にすぐれた個体同士の交配育種も進めており、今後は園芸植物としての発展が期待される』。但し、『北方寒冷地の植物であるため、暖地での栽培は』摂氏二十度『程度以上に気温が上昇しないよう栽培に適する温度を維持する必要があり』、極めて『困難である』。『なお、人工増殖によって標準個体の価値は相対的に下がり続けているにもかかわらず、国産アツモリソウの盗掘は続いている。草原の管理放棄による植生遷移などが加わり、自然状態では存続が難しい個体数になってしまった自生地も多い。野生個体群の存続についてはますます楽観できない状況になりつつある』。『日本のアツモリソウの仲間には』、
ホテイアツモリソウ(布袋敦盛草)Cypripedium macranthos var. hotei-atsumorianum
レブンアツモリソウ(礼文敦盛草)Cypripedium macranthos var. rebunense
及び
同属のキバナアツモリソウ(黄花敦盛草)Cypripedium guttatum var. yatabeanum
『があり、いずれも寒冷地を好む』とある(脱線だが、私は幸いにして、嘗て礼文島を旅した折り、開花しているそれを見、さらにレブンアツモリソウの管理者で研究者であられる方が、たまたま、奇形であったために取り除かれた個体を剖検されるのを仔細に見学させて戴く機会を得、その花卉の精巧な驚くべき内部構造まで教授して戴き、メモする機会を持つことが出来た。されば、アツモリソウは植物に詳しくない私にとって、特異点の親しい花なのである)。この地方名は「閑古鳥(カンコドリ)」(カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」を参照されたい)は春から初夏にかけて繁殖のために啼き始めるので、アツモリソウの花期である四月中旬から六月と一致することからの命名と思われる。アツモリソウについては、個人ブログ「花々のよもやま話」の「アツモリソウ(敦盛草)」が画像もあり、非常によい。それによれば、属名の「Cypripedium」(シプリペディウム)」はギリシャ語の「Cypris」(女神のビーナス)と「pedilon」(スリッパ)が『語源で、花の形を女性用のスリッパにたとえたことにちなみ、種名の「macranthum」』(マクランサム)『は「大きな花の」』、種『小名の「speciosum」』(スペシオサム)『は「美しい、華やかな」を意味している』とある。]
五一 山には樣々(さまざま)の鳥住(ス)めど、最も寂(サビ)しき聲の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中(ヨナカ)に啼く。濱の大槌(オホヅチ)より駄賃附(ダチンヅケ)[やぶちゃん注:既出既注の駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)。駄馬を用いた運送業。]の者など峠を越え來たれば、遙に谷底にて其聲を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親(シタ)しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探(サガ)しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終に此鳥になりたりと云ふ。オツトーン、オツトーンと云ふは夫(ヲツト)のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴聲(ナキゴヱ)なり。
[やぶちゃん注:「オツト鳥」「夫鳥」。三浦佑之氏の論文「なぜ『遠野物語』か-配列と構成をめぐって-」(『路上』第五十五号「特集・遠野物語」(一九八八年十一月路上発行所刊)が、この前後の構成を含め、非常に興味深い考証をなされておられる。そこで(三浦氏は種同定に興味を示しておられないのだが)、この『夫鳥は、ブッポウソウ』(これだと、所謂、「姿の仏法僧」のこと。ブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis。本種の鳴き声は「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音で凡そ「ブッポウソウ」とは聴こえない)『だとかトラツグミ』(スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma。鳴き声は頗る気味が悪い。主に夜間に「ヒィー、ヒィー」「ヒョー、ヒョー」(地鳴きは「ガッ」)と鳴く(雨天や曇っている時には日中でも鳴いていることがある)。ウィキの「トラツグミ」によれば、『森の中で夜中に細い声で鳴くため鵺(ぬえ)または鵺鳥(ぬえどり)とも呼ばれ、気味悪がられることがあった。「鵺鳥の」は「うらなけ」「片恋づま」「のどよふ」という悲しげな言葉の枕詞となっている。トラツグミの声で鳴くとされた架空の動物は』、『その名を奪って鵺と呼ばれ』、『今ではそちらの方が有名となってしまった』とある)『だとか言われたりもするのだが、武藤鉄城『鳥の民俗』や高橋喜平『遠野物語考』が指摘するようにコノハズクのことらしい』とある。所謂、「声の仏法僧」、フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops である。私も本条のオノマトペイアから一番に想起したのは同種であった。酷似した話が佐々木喜善の「聴耳草紙」の一一四話「鳥の譚」の中の以下に出る(所持する「ちくま文庫」版で示す)。
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夫鳥(その六)
ある所に若夫婦があった。ある日二人で打揃うて奥山へ蕨採りに行った。蕨を採っているうちに、いつの間にか二人は別れ別れになって、互に姿を見失ってしまった。若妻は驚き悲しんで山中を、オットウ(夫)オットウと呼び歩いているうちにとうとう死んで、あのオットウ鳥になった。
また、若妻が山中で見失った夫を探し歩いていると、ある谷底でその屍体を見つけて、それに取り縋り、オットウ、オットウと悲しみ叫びながらとうとうオットウ鳥になった。それで夏の深山の中でそう鳴いているのだともいう。
齢寄(としより)達の話によると、この鳥が里辺近くへ来て啼くと、その年は凶作だというている。平素(ふだん)はよほどの深山に住む鳥らしい。
(私の稚い記憶、祖母から聴いた話。)
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なお、三浦氏は、以上の類話と本条を比較検討された上で、この話にも柳田國男の多分に恣意的な文学的改変が加えられているのではないかと推理しておられる。
《引用開始》
穿鑿的なもの言いになるが、五一話の設定は佐々木が柳田に語った内容と違っているのではないか。『遠野物語』五二・五三話の小鳥前生譚と『聴耳草紙』のそれとがほとんど一致するということをみても、佐々木が夫鳥の話だけを、柳田に語った時と『聴耳草紙』の時とで語り方を変えたとは考えにくい。しかも、未婚の幼い少女と少年のようにみえる五一話で、娘が相手をオットーンと呼ぶのはどうみても似つかわしくないし、類話からも孤立している。こうした点を考慮すると、二人の設定を柳田が変えたのかもしれないという想定は、それほど突飛な思いつきでもないのだが、これが佐々木のものでないとすれば、柳田がなぜこのような二人を選んだかということが問題になる。
カッコ花を語る五〇話は、『遠野物語』で唯一といっていいような穏やかな野遊びを語る話で、そこに登場するのは山と花と女や子どもたちである。そこから五一話への展開は、鳥で繋がってゆくとともに、その年若い娘や子どもたちの山入りという穏やかな風景からの連想によって構成しようとする意志が柳田には働いていたのではないか。だから、柳田も好んでいたらしいロミオとジュリエットを想い浮かべさせるような長者の家の二人の恋を暗示させるような設定をとったのではないかと思うのである。しかも、五〇話の穏やかさが実は「死助」という恐ろしい名を持つ山を舞台に語られているというところに、次の五一話に引き出された二人の悲恋は暗示されてもいる。そして、共同体の中で魂を鳥に変えなければならない者たちの暗部が、五〇話から五一話へという展開をとることによって、より鮮やかに増幅されていったのである。
《引用終了》
私もすこぶる同感である。]
五二 馬追鳥(ウマオヒドリ)は時鳥(ホトヽギス)に似て少(スコ)し大きく、羽(ハネ)の色は赤に茶を帶び、肩には馬の綱(ツナ)のやうなる縞(シマ)あり。胸のあたりにクツゴコ【○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり[やぶちゃん注:諸注、「口籠」を当てる。「口籠」は通常は「くつこ」「くちのこ」と読み、牛馬などが噛み付いたり、作物を食べたりするのを防ぐために、口にはめる籠(かご)で古くは藁縄、後に鉄や金属で作る。「和名類聚鈔」に既に載る。]】のやうなるかたあり。これも或長者が家の奉公人、山へ馬を放(ハナ)しに行き、家に歸らんとするに一匹不足せり。夜通し之を求めあるきしが終に此鳥となる。アーホー、アーホーと啼くは此地方にて野に居(ヲ)る馬を追ふ聲なり。年により馬追鳥里にきて啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く聲を聞くなり。
[やぶちゃん注:こちら(PDF)で「馬追鳥」の東北地方の類話譚及び全国の類話を集成してあり、必見である。
「馬追鳥(ウマオヒドリ)」諸家はハト科アオバト属アオバト Sphenurus sieboldii に同定。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 青䳡(やまばと)(アオバト)」を参照されたいが、平塚市・大磯町をフィールドに持つアマチュア・バードウォッチングのグループ・サイト「こまたん」の「アオバトの形態」によれば、『繁殖期に』は『オーアオーアーーオーアオー』『などと鳴』き、『この他、早口でつぶやくように』『ポーポッポッポッポ』……『と鳴く』とある。「サントリーの愛鳥活動」の「アオバト」で囀りが聴ける。dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語52(魔王鳥)」』には、『高橋喜平は、鳥類図鑑でアオバトは「アーオーアーオー」と啼くと記されている事を紹介している。川口孫冶郎「自然暦」で、恐山では「マオが鳴くと必ず天気が悪くなる。」と伝えられ、そのマオとはアオバトの方言であると。また、高橋喜平が盛岡でアオバトが啼いている時に、古老に啼いている鳥の名を聞くと「ここらではマオウドリと言っている。」と。ところが「注釈遠野物語」では、その高橋喜平「遠野物語考」を参考文献とし「遠野を中心とする地方だけが「マオー」といい、その鳴声に馬追鳥という漢字をあて、ウマオヒというルビを付けた。」と書き記しているが、遠野を中心とする地方に盛岡が入っているのか』? 『という疑問を感じる』ものの、『とにかく馬追鳥は「マオウトリ」であるのは確かのようだ。「遠野物語52」には「年により馬追鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり。」とあるが、高橋喜平は自らのエッセイに、こう記している』。『「山村ではマオウを見た者は死ぬといい伝えられ』て『おり、非常に淋しい声でマオウと啼き、その啼き声が鳥の名になっていた。どことなく赤ん坊の泣き声に似ていたが、夜の深山に啼くせいか、怨嗟そのもののようなひびきをもっていた。」』(中略)『飢饉をもたらす馬追鳥の啼き声はそのまま魔王の咆哮のようにも聞こえるが、気休めから「馬追」という漢字をあてる事によって、その魔を緩和させようとしたのではなかろうか』? 『山とは非情なものである。山に、山神に対する祈願とは「御怒りを鎮めてください。」であり、一方的な神の祟りを恐れた人々が山を神として崇めたのだった。遠野地方ではヤマセが吹くと飢饉となると言われたが、その風とは山が起こすものと信じられてきた。馬追鳥は深山に棲み、なかなかその姿を見る事が無かったという。姿が不明ながら、その恐ろしい啼き声は、山の魔王の啼き声とも捉えたのではなかろうか』? 『留場栄・幸子共著「遠野地方のむらことば」には「オット鳥ァむら近ぐで鳴げば、餓死になる。」というものがある。「遠野物語51」には、そのオット鳥が紹介はされているが、飢饉や餓死との結び付きは紹介されていない。そのオット鳥はコノハズクであるのだが、コノハズクの民俗には死に結びつく匂いはしない。もしかしてこの遠野地方の諺は、馬追鳥と間違って記されたものではなかろうか?山からは、人の生活の目安である紅葉が降りて来て、そして雪も降りてくる。そして深山に棲むというマオウ鳥もまた降りてくるのは、その基本が山であり、その山そのものが人の生き死にを左右しているからではなかったか。その生き死にの中のマオウ鳥の啼き声は、あたかもシューベルトの「魔王」のように人の死を司っていると信じられていたのかもしれない』と考察しておられる。民俗社会で「マオー」「マオウ」が「魔王」に転記されて理解されたかどうかは、私は俄かには断じ得ないが、個人ブログ「野鳥にまつわるお話」の「アオバトの民話(秋田県・遠野物語)」に、『武藤鉄城によれば、馬追鳥のほか、マオー・アオー・オエオ・魔王鳥などの別名を持つといい、それらはいずれもアオバトの鳴き声によって命名されていることがわかる』。『そして実は、このアオバトの由来譚は東北地方の一部に濃密に伝承され、一方で、アイヌにもアオバトを語る神謡(カムイユカラ)が伝えられているのである』ともあり、dostoev氏の説は非常に興味深い。]
五三 郭公(クワツコウ)と時鳥(ホトヽギス)とは昔ありし姊妹(アネイモト)なり。郭公は姊なるがある時芋(イモ)【○この芋は馬鈴薯のことなり】を掘りて燒き、そのまはりの堅きところを自ら食い、中の軟(ヤワラ[やぶちゃん注:ママ。])かなるところを妹に與へたりしを、妹は姊の食ふ分(ブン)は一層旨(ウマ)かるべしと想ひて、庖丁にて其姊を殺せしに、忽ちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところと云ふことなり。妹さてはよきところをのみおのれに吳しなりけりと思ひ、悔恨に堪へず、やがて又これも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりと云ふ。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡(モリヲカ)邊にては時鳥はどちやへ飛んでたと啼くと云ふ。
[やぶちゃん注:「郭公(クワツコウ)」前の「五一」の「閑古鳥(カンコドリ)」に同じい。
「時鳥(ホトヽギス)」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus
poliocephalus。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。]
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