和漢三才圖會第四十三 林禽類 小雀(こがら) (コガラ)
こがら 正字未詳
小雀 【俗云古加良】
△按狀似山雀而小故俗曰小雀頭黑頸頰白如圓紋
背腹白翅尾黑其聲滑多囀捷輕上下見難
慈鎭
拾玉春來ても見よかし人の山里にこからむれゐる梅の立枝を
*
こがら 正字は未だ詳らかならず。
小雀 【俗に「古加良」と云ふ。】
△按ずるに、狀、山雀〔(やまがら)〕に似て、小さし。故に俗に「小雀」と曰ふ。頭、黑く、頸・頰白くして圓紋のごとし。背・腹、白く、翅・尾、黑し。其の聲、滑〔らかにして〕多く囀り、捷輕〔(しようけい)に〕上下〔すれば〕見〔きはめ〕難し。
慈鎭
「拾玉」
春來ても見よかし人の山里に
こがらむれゐる梅の立枝を
[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科コガラ属コガラ亜種コガラ Poecile montanus restrictus が日本に留鳥として分布する種(私の偏愛する小鳥である)。ウィキの「コガラ」によれば(リンク先で鳴き声が聴ける。とてもしっかしした声である)、『ユーラシア大陸中緯度地域を中心に広くに分布する』。『日本では北海道、本州、四国、九州に周年』、『生息する』。『日本では本州以南では山地から亜高山帯の森林内に生息し、北海道では平地でも見られる』。『北海道留萌振興局天塩郡天塩町の町の鳥に指定されている』。全長は十二~十三センチメートル、翼開長は二十一センチメートル。『背面や翼、尾羽は褐色、腹面は淡褐色で覆われる』。『頭頂部と咽頭部の羽毛は黒い。側頭部から胸部にかけては白い羽毛で覆われる。ベレー帽を被ったようにも見える』。『雌雄同色』。『北海道に分布しているハシブトガラ』(シジュウカラ属ハシブトガラ Parus palustris)『と似ているが』、『嘴がやや細いこと、鳴き声が違うこと、頭上と喉に光沢がないことなどにより区別できる』。『平野から山地までの森林に生息する。種小名montanusは「山」の意。繁殖期にはペアで縄張りを形成する。亜高山帯で繁殖した個体は、冬季低地に下りて越冬する。秋から冬にかけてシジュウカラ科の他種と混群を形成することもある』。『食性は雑食で、昆虫類、節足動物、果実等を食べる。固い果実でも』、『こじ開けて食べることができる』。『繁殖形態は卵生で、枯れ木に穴を掘り、その中に樹皮、苔などを使って皿状の巣を作る。日本では』四~七『月に』一『回に』五~九『個の卵を産む。抱卵はメスのみが行い、抱卵期間は』十二~十五『日程である。雛は約』十八『日で巣立ちする』とある。
「捷輕〔(しようけい)に〕上下〔すれば〕見〔きはめ〕難し」東洋文庫訳では『軽やかにあちこちと素早く上下に飛び廻るので見きわめにくい』とある。「きはめ」を挿入したのはそれを参考にしたものである。
「慈鎭」「拾玉」「春來ても見よかし人の山里にこがらむれゐる梅の立枝を」「拾玉集」は平安末から鎌倉初期の僧侶で歌人で「愚管抄」の著者として知られる慈円(慈鎮は諡(おくりな)の私家集。鎌倉最末期から貞和二(一三四六)年にかけて、青蓮院尊円親王が集成した(同親王の命により慶運が編纂したともされる)。五巻本(五千九百十七首)と七巻本(流布本・四千六百十三首)がある。前者には青蓮院本ほかの善本が存し、和歌の配列はほぼ年代順で,慈円の全歌集に近い。歌風は平易な詞を用いてのびやかで、新しい趣向を好んで、仏教的な述懐歌に特色が見られる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は摂関藤原忠通の子。兄の基実・基房・兼実は摂関、兼房は太政大臣になった。生まれた翌保元元(一一五六)年に「保元の乱」が起こったが、乱の原因をつくった忠実は慈円の祖父であり、敗死した頼長は叔父に当たる。二歳で母を、十歳で父を失い、永万元(一一六五)年に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり、仁安二(一一六七)年、天台座主明雲を戒師として受戒得度した養和元(一一八一)年に慈円と改名。兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝の後援を受けて後鳥羽天皇の摂政となるや、その推挽によって建久三(一一九二)年、三十七の若さで天台座主となり、天皇の御持僧となった。頼朝とも親交を結び、政界・仏教界に地位を築き、仏教興隆の素志実現の機を得、建久から承久(一一九〇年~一二二二年)の凡そ三十年の間、国家鎮護の祈禱の生涯を送った。「保元の乱」以来の無数の戦死者や罪なくして殺された人々の得脱の祈りに加え、新時代の泰平を祈るところに慈円の本領があった。一年後に座主を辞し、東山の吉水(よしみず)の地に営んだ祈禱道場大懺法院に住んでいたため、吉水僧正とも呼ばれたが、その後も三度、都合、四度、天台座主に補せられている。後鳥羽院とは、このように師檀の関係も深く、また、歌人としても深く傾倒しあっていた間柄であったが、武家政治に関しては対立し、彼は院の方針に危険を感じ、遂に承久元(一二一九)年に院の前を去った。以後、入滅まで四天王寺別当の地位にあった。「承久の乱」(一二二一)年後は新たに大懺法院を整備し、朝廷と幕府とのための祈りとして行法を再開するが、病いのため、比叡山山麓の坂本で没した。慈円の学統は台密三昧(たいみつさんまい)流を汲み、特に安然(あんねん)の思想を受けること深く、教学の著も多い。政治にも強い関心をもち、「愚管抄」七巻を著した。その文学の愛好と造詣とは数多くの和歌となり、「新古今和歌集」には現存歌人として最高の九十二首もが採られてある。後鳥羽院は、その歌を「西行がふり」とし、「すぐれたる歌はいづれの上手にもをとらず、むねとめつらしき様を好まれき」と推賞している。「平家物語」成立の背景には彼の保護があったとも伝えられている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、同歌集は所持しないので、校合は不能。]
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