佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇六~一〇八 山田の蜃気楼・山の神伝授の占い
一〇六 海岸の山田にては蜃氣樓年々見ゆ。常に外國の景色なりと云ふ。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往來眼ざましきばかりなり。年毎に家の形など聊かも違ふこと無しと云へり。
一〇七 上鄕村に河ぷちのうちと云ふ家あり。早瀨川の岸に在り。此家の若き娘、ある日河原に出でゝ石を拾ひてありしに、見馴れぬ男來り、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面[やぶちゃん注:「おもて」。]朱[やぶちゃん注:「しゆ」。]のやうなる人なり。娘は此日より占(ウラナヒ)の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりと云へり。
一〇八 山の神の乘り移りたりとて占を爲す人は所々にあり。附馬牛(ツクモウシ)村にも在り。本業は木挽(コビキ)なり。柏崎の孫太郞もこれなり。以前は發狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神より其術を得たりし後は、不思議に人の心中を讀むこと驚くばかりなり。その占ひの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、賴みにきたる人と世間話を爲し、その中にふと立ちて常居(ジヤウヰ)[やぶちゃん注:居間。既出既注。]の中(ナカ)をあちこちとあるき出すと思ふ程に、其人の顏は少しも見ずして心に浮びたることを云ふなり。當らずと云ふこと無し。例へばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡又は刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が燒くるとか言ふなり。歸りて掘りて見るに必ずあり。かゝる例は指を屈するに勝へず。
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