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2018/12/13

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 目次 ~「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 附全注釈~完遂

 

      目 次

[やぶちゃん注:目次部分は当初は電子化するつもりであったが、クレジットを挟むリーダの特異性(八点で圧縮されたもの)クレジットが半角の漢数字であるなど、正確な再現が難しいことから、総て画像で示し、それぞれの画像の後で問題点(既に殆んど各篇の注で述べたが、最後の最後まで誤植があり、さらに不可解な本文標題との違いや、クレジットの不審その他、呆れるばかりに満載である)を注で示すこととした。ヴァーチャルを冠したからには、これもよかろうと存ずる。]

 

Mokuji1[やぶちゃん注:「丘の幻惑」の標題は本文では「丘の眩惑」である。なお、「目次」全四枚分の原稿のうち、冒頭の一枚が焼失しているため、賢治がここでどちらを書いているかは判らない。取り敢えず、本文注では私は誤植と採っておいた

「戀と病熱」はクレジットが『一九二、二三、二〇』でおかしい。ところが、校本全集本文下の注によれば、『日付が「……)』(ここに右ママ注記)『一九二二、三、二〇)……」となっている冊もある』とあるのである。既にこの異様な現象、即ち、初版本(推定一千部発行)には再版本も二刷もないにも拘わらず、植字が異なったものがあるというのは、多くの読者にとって不可解なことであろう。これは校本校異の「春と修羅」の冒頭の次の一節がこれを氷解して呉れる。

   《引用開始》

 製本上特記すべきことに、目次の綴じ込み方の問題がある。初版本は八頁ずつ一折りになって刷られ、全体で四十折りが一冊に製本されているが、実際に調べてみると、目次は八頁分で、それがちょうど一折りをなしており、そのあとにつづく奥付と正誤表との二頁は、目次前の六頁と組になって一折りをなしている。言いかえれば、奥付と正誤表とを含む八頁一折り(第三十九折)の、第六頁と第七頁との間に、別の八頁一折り(=目次)がはさみ込まれて製本されているのである。このことは、「目次は奥付や正誤表(および本文末尾)といっしよ刷られたものではない」ことを示しており、はじめは目次は巻末にでなく、巻頭に置かれることになっていたのではないかとの推測を可能にする。

   《引用終了》

即ち、「目次」は挿し込みであり、刷られている最中にこのような誤植を見出し(後で示すが校本全集校異では触れていない「宗教風の戀」のクレジットの、私の所持するものとの違い)、二度以上の刷り直しというか、植字替え・脱植字の補填が行われたのかも知れないとも考えられるのである(最終的な私の推理は後述する)。さらに後に見る通り、存在しない「途上二篇」が「目次」に残っているところからは、実はこの「目次」原稿は本篇最終原稿が決定される以前に書かれて印刷所に送られていた可能性をも示唆するものとも言えるのである。なお、このことは本来なら、私の所持する復刻本の復元過程で正確に明らかにされるべきはずの事実であったと私は思う。セット物で高い金を払って買ったにも拘わらず、今回、それが解説に一言も記されていないことに私は甚だ怒りを感じた。校本全集発刊後のことなのに、である。

 

Mokuji2

 

[やぶちゃん注:既にそれぞれの本文注で述べたが、この「目次」のクレジットには特異点がある。この「春と修羅」「眞空溶媒」と、後に掲げる「靑い槍の葉」「原體劔舞連」及び「永訣の朝」「松の針」「無聲慟哭」(三篇続き)の七篇のそれが、二重丸括弧(⦅ ⦆)で表記されている点である。「無聲慟哭」の私の考えを再掲すると、これらの詩篇はその最初の原型からは大きく変わった可能性が高い。さればこそ、その⦅起点日⦆として丸括弧が使われていると読めるのである。これらは確かに、そのクレジットの日に起筆し、その日のうちに、一つの心象像として一応の完結したソリッドな詩形を成したものではあるが、その後に複数回、有意な改変が行われて決定稿となったのであり、それをよく理解している賢治は、そうした詩篇の産みの苦しみを自ら記憶するために、或いは、読者のここから後にはこの二重丸括弧の詩篇のグラデーションがずっと残って行くということを伝えたかったからなのではないかと私は思うのである(校本全集にはこの二重丸括弧と丸括弧の意味の違いについては、特に取り立ててては考察されておらず、最初の着手日とするらしい記載は年譜に仄めかされているだけである)。 

 

Mokuji3

 

[やぶちゃん注:」(」は「叫」の異体字)は本文では「高原」という標題となっている。ここは「目次」原稿が残存しており、やはり「び」である。

び」→「高原」のページ数が「一二七」となっているが、実際には「一二六」ページで、原稿も「一二六」で正しく、誤植である(但し、「一二六」ページには標題「高原」のみが最終行に配され、詩篇本文は「一二七」ページではある。しかし、開始ページは標題のみであっても「一二六」でなくてはならない)。

「印象」は「一二六」ページとなっているが、実際には「一二七」ページで、原稿も「一二七」となっており、誤植である。

「途上二篇」という詩篇は、既に本文注で述べたが、実際には本文には、ない。本書の最終決定稿の前に削除廃棄されてしまったものと推定される(現存しない)。その結果として以下の詩篇のページ数に以下に見るようなとんでもない齟齬が生じてしまっている。

「電車」のページ数は、実際には「一三〇」で誤り。原稿も「一三一」。以下も同じなので原稿の数字は略す。

「天然誘接」のページ数は、実際には「一三一」で誤り。

「原體劔舞連」のページ数は、実際には「一三二」で誤り。

「グランド電柱」のページ数は、実際には「一三七」で誤り。

「山巡査」のページ数は、実際には「一三七」で誤り。

「電線工夫」のページ数は、実際には「一三九」で誤り。] 

 

Mokuji4

 

[やぶちゃん注:「風林」のクレジットは『一九二二、六、三』であるが、原稿は一九二三で誤植。但し、本文注でも示したが、「目次」原稿は最初、『一九二、』と誤って書いたものを『一九二三』に訂している。恐らくはこの校正がごちゃついていて、植字工が見誤ったものかとも思われる。何故、賢治がこんなミスをしてしまったかということへの心理的可能性は「風林」の私の注での考察を見られたい。

「不貧慾戒」は原稿は正しく「不貪慾戒」で誤植本文内の二箇所でも同じ誤植している。]

 

Mokuji5

 

[やぶちゃん注:「目次」の、そして「心象スケツチ 春と修羅」本文の最終ページである(見開き左ページの奥附のためにカラーで読み込んだ画像であるため、前の四枚とは画質が異なるのはお許しあれ)。

「宗教風の戀」は全く正しいのだが、校本全集の「目次」原稿の校異を見ると、『初版本では』クレジットの『「一九二三」の「二」欠落』と注がある(ある冊では――とは――ない。校本全集編者は以下の現実に気づいていないのである)。ところが、私のこれは正しいのである。即ち、先の変異と同じく――初版本の中にはここが正しくなっている冊が――ある――ということなのである。そこで一つの推理が可能となるように思われるのである。即ち、「戀と病熱」はクレジットが『一九二、二三、二〇』で誤っているものと、『一九二二』と正しくなっている冊があるというのは、或いは、印刷中、この「宗教風の戀」のクレジットの「二」の活字が、組版から何らかの物理的理由で落ちてしまい、その「二」の小さな活字が床に落ちているのに気づいた印刷工が、既に刷った分を点検してみたところ、真っ先に初めの方の「戀と病熱」の脱字を見出し、「そこから落ちたんだ」と早合点(誤認)し、そちらにその拾った活字を組み入れたのではなかったか? という仮説である。私には見てきたように、その場の映像が見えるような気がするのである。

「火藥と紙幣」本文でも問題にしたが、編年体の本書ではこのクレジットはおかしい。しかし、「目次」原稿を見ると、『九、一〇、』なのである。私は「(一九二三、一〇、一〇)」賢治の誤記であると考えるのが自然であるとした。詳しくは本文の注を見られたい。

「過去情炎」のページ数は誰もが誤植と思うであろうが(実際は二八八ページ)、実はこれは原稿通りで、賢治の誤記なのである。

「イーハトヴの氷霧」本文標題は「イーハトブの氷霧」である。

「冬と銀河鐡道」本文標題は「冬と銀河ステーシヨン」である。] 

 

[やぶちゃん注:終りに。恐るべき波状的な誤植が「春と修羅」を修羅の如く最後の最後まで襲っていることが判る。何故? と思う読者が多いであろう。私もずっとそれが気になっていた。それについては底本とした昭和五八(一九八三)年刊の日本近代文学館刊行・名著復刻全集編集委員会編・ほるぷ発売の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の、「解説」で中村稔氏が「多すぎる誤植の背景」という一節の中で以下のように述べておられる。やや長いが、当該節全文を引用させて貰う。引用の限界を越えているというのであれば、第一段落は既に本文で私も仔細に検証しているし、最終段落は誤植とは無縁な後日談であるから、著作権侵害と指摘されればカットしてもよいが、誤植だらけの以下の真相と「春と修羅」の受難と復活は、本電子化プロジェクトの最後にどうしても欲しい内容なのである。それは販売を請け負った関根書店(但し、以下で中村氏が述べているように、この書店、かなり汚ない商売をしては、いる)や印刷した花巻の吉田印刷所の吉田忠太郎氏の名誉のためにも、である。

   《引用開始》

 それにしても大正十三年(一九二四)刊行されたこの『春と修羅』は、心くばりのゆきとどかない、詩人にまことに気の毒な感じのする出版物である。巻末に二十ケ所以上の誤植を示した正誤表が付されているが、じつは誤植はこれだけではない。さきに述べた背表紙の「詩集」の文字もそのひとつだが、これは賢治白身が承知していたことなので別としても、たとえば、表紙をあけて扉をみると、「心象スツケチ」とある。この詩集全体が「心象スケツチ」と名付けられているのは、この誤植された扉の傍題からも示されているわけであるが、この詩集の中三篇には、心象スケッチを英語で表現した mental sketch modified と副題されている。詩集の題をとられた作品「春と修羅」のほか、「青い槍の葉」、「原体剣舞連」の二編がそれであるが、この「青い槍の葉」をみるとmentalsketchmodified [やぶちゃん注:この文字列は中村氏の本文では上下引っ繰り返し(活字の頭が左向き)で印字されてある。表示出来ないので、かく注した。これは私の本文でも注してある。]と上下をさかさまに、語を分けることなしに一連に印刷されている。じつさい、昭和四十八年筑摩書房から刊行された『校本 宮沢賢治全集』をみると分るとおり、正誤表以外にも数十の誤植があり、正誤表自体にも誤植があるようである。一体、出版社はどういう神経でこの詩集を作ったのだろうか、という疑問がわくのが当然といってよい。

 奥付にみるように、この本は「東京京橋区南鞘町十七番地 関根書店」の発行とされている。良心的な出版社であれば、これほどに粗雑な本を出版することはおそろしく恥ずかしいことのはずだが、関根書店をこの点で責めることはできない。というのは、じつは『春と修羅』は宮沢賢治の自費出版であって、関根書店はたんに配本だけをひきうけた名義上の発行者にすぎなかったからである。つまり、東京をはじめとする全国的な反響を期待して、東京の出版社に、題字を書いた尾山篤二郎の縁をたよって、配本を依頼した、というのが実状であったようである。だから、関根書店には誤植の責任はないわけだが、一千部発行されたこの詩集のうち関根書店は五百部の委託をうけ、これをほとんど正規の取次を通じて配本はしなかったらしい。右から左へゾッキ本[やぶちゃん注:見切り品と見做し、定価を度外視して安価で取引される本や雑誌を指す書店業界の用語。「ゾッキ」は「一括り」「一纏め」などを意味する語である。]として流してしまった模様で、定価二円四十銭のこの詩集が、昭和初年にはどこの古本屋でも五銭でならんでいたといわれる。この方がもっと罪ふかいともいえそうである。

 だから、誤植の責任は、奥付に示された花巻川口町の吉田忠太郎という印刷者にあるのだが、ここでも吉田印刷所を責めるのは無理のようである。何ぶん大正末の花巻の印刷所であるから、おそらくは商店のちらしとか名刺のたぐいしか印刷した経験はなかったろう。たぶん英語も読めなかったろうし、ローマ字の活字ももっていなかったろう。ローマ字に限らず、この詩集で用いられた難しい表現の多くについて活字が揃わなかったはずだし、ましてやここで賢治が何を語ろうとしているのか、まったく不可解だったろう。当時のわが国でおそらくは最も先端をゆく作品でみちあふれたこの詩集の原稿を手にした、東北の片田舎の印刷屋さんの当惑が目に浮かぶようである。それ故、宮沢賢治も印刷所に無理がいえなかったようである。それよりも、およそ人に迷惑をかけ苦労をかけることは、賢治にはたえられることではなかった。「校正などもきびしいことがいえず、まちがいがあってもあとで正誤表をつけるからいいです(事実そうなったが)という、印刷所にはありがたいお客であった」、と堀尾青史は『年譜 宮沢賢治伝』に記している。

 だから『春と修羅』がこんなにも誤植の多い本として発行されたのは、結局において宮沢賢治その人の気質と人柄にまでその原因を遡ることができるわけである。そして、一千部発行されたうち百部も売れたか、どうか疑問であるとされているのだが、それでも、草野心平、高村光太郎、谷川徹三、中島健蔵ら少数具眼の人々は、この詩集の真価をはっきりと認めたのである。一見詩風を異にするようにみえる中原中也の如き詩人でさえ、五回にわたって宮沢賢治について書き残していることを、角川書店刊の『中原中也全集』が示している。古本屋で五銭かそこらで買っては友人に贈って、中原が友人たちに『春と修羅』を奨揚していたとは、中原の友人たちの証言である。そうしてみれば、誤植などというものは、真に価値ある本にとっては些細な、とるにたらぬことだ、といえるかもしれない。宮沢賢治自身がそう考えていたのかもしれない。彼にはおよそおごりたかぶったところはなかったが、それでもその作品についての自信は強固なものであったはずである。

   《引用終了》

……そうだねえ、ジョバンニ……修羅に精一杯生き急いだ君にしてみれば……この「心象スケツチ 春と修羅」は……芥川龍之介の言葉を剽窃させて貰うなら――人生は誤植の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。(「芥川龍之介の「侏儒の言葉」「人生」のアフォリズム全三章の最後のものの「落丁」を「誤植」に置き換えたもの)――なのだねえ…………

 

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