佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八九~九二 山中の怪人
八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山[やぶちゃん注:「あたごやま」。]の裾を廻(マハ)るなり。田圃に續ける松林にて、柏崎の人家見ゆる邊より雜木(ザウキ)の林となる。愛宕山の頂には小さき祠ありて、參詣の路は林の中に在り。登口(ノボリクチ)に鳥居(トリヰ)立ち、二三十本の杉の古木あり。其旁には亦一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言傳ふる所なり。和野[やぶちゃん注:「わの」。]の何某と云ふ若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降(クダ)り來る丈(タケ)高き人あり。誰ならんと思ひ林の樹木越しに其人の顏の所を目がけて步み寄りしに、道の角(カド)にてはたと行逢ひぬ。先方は思ひ掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顏は非常に赤く、眼は耀(かがや)きてかついかにも驚きたる顏なり。山の神なりと知りて後(あと)をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。
【○遠野鄕には山神塔多く立てり、その處は曾て山神に逢ひ又は山神の祟を受けたる場所にて神をなだむる爲に建てたる石なり】
[やぶちゃん注:「愛宕山」岩手県遠野市土淵町の象坪山(ぞうつぼやま)の別名。ここ(国土地理院図)。標高三百九十九・五メートル。Yamaneko氏のブログ「山猫を探す人Ⅱ」の「象坪山(愛宕山)その1」の当地の画像(祠・石像・堂らしきものの残骸)がそれらしい雰囲気をよく伝える。]
九十 松崎村に天狗森と云ふ山あり。其麓なる桑畠にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畠の畔(クロ)に腰掛けて居眠りせんとせしに、極めて大なる男の顏は眞赤(マツカ)なるが出で來れり。若者は氣輕にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面惡く[やぶちゃん注:「つらにくく」。如何にも憎いと思わせるような面構えであるさま。]思ひ、思はず立上りてお前はどこから來たかと問ふに、何の答[やぶちゃん注:「こたへ」。]もせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思ひ、力自慢のまゝ飛びかゝり手を掛けたりと思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて氣を失ひたり。夕方に正氣づきて見れば無論その大男は居らず。家に歸りて後[やぶちゃん注:「のち」。]人にこの事を話したり。其秋のことなり。早地峯の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩(ハギ)を苅りに行き、さて歸らんとする頃になりて此男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奧にて手も足も一つ一つ拔き取られて死して居たりと云ふ。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。
[やぶちゃん注:本書は明治四三(一九一〇)年刊であるが、採集時を四、五年減ずるとして、明治一〇(一八七七)年ほどまで溯れるか。]
九一 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人綽名(アダナ)して鳥御前(トリゴゼン)と云ふ。早地峯、六角牛の木や石や、すべて其形狀と在處(アリドコロ)とを知れり。年取りて後茸採(キノコト)りにとて一人の連と共に出でたり。この連の男と云ふは水練の名人にて、藁と槌[やぶちゃん注:「つち」。]とを持ちて水の中に入り、草鞋[やぶちゃん注:「わらぢ」。]を作りて出て來ると云ふ評判の人なり。さて遠野の町と猿ケ石川を隔つる向山(ムケエヤマ)と云ふ山より、綾織村の續石(ツツヾキイシ)とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、兩人別れ別れになり、鳥御前一人は又少し山を登りしに、恰も秋の空の日影、西の山の端[やぶちゃん注:「は」。]より四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭(アカ)き顏の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢ひたり。彼等は鳥御前の近づくを見て、手を擴(ヒロ)げて押戾すやうなる手つきを爲し制止したれども、それにも構(カマ)はず行きたるに女は男の胸に縋る[やぶちゃん注:「すがる」。]やうにしたり。事のさまより眞の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前はひやうきんな人なれば戲れて遣らんとて腰なる切刃(キリハ)を拔き、打ちかゝるやうにしたれば、その色赭き男は足を擧げて蹴りたるかと思ひしが、忽ちに前後を知らず。連なる男はこれを探(サガ)しまはりて谷底に氣絕してあるを見付け、介抱して家に歸りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かゝる事は今までに更になきことなり。おのれは此爲に死ぬかも知れず、外の者には誰にも云ふなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりに其死にやうの不思議なればとて、山臥[やぶちゃん注:「やまぶし」。山伏。]のケンコウ院と云ふに相談せしに、其答には、山の神たちの遊べる所を邪魔したる故、その祟をうけて死したるなりと云へり。此人は伊能先生なども知合なりき。今より十餘年前の事なり。
[やぶちゃん注:「南部男爵家」旧陸奥盛岡藩主であった南部伯爵家の一門。南部行義 (明治元(一八六八)年~明治三五(一九〇二)年:明治三〇(一八九七)年男爵受爵)か。
「續石(ツツヾキイシ)」現在の岩手県遠野市綾織町上綾織にある。ここ(グーグル・マップ・データ。右コンテンツの画像も必見)。文字通りの「續石」、ドルメン(dolmen:フランス・ブルターニュ地方に多く見られ、古い現地語であるブルトン語で「石の机」を意味する「dol men」を語源とする)様の人工支石や、本話柄と親和性の強い二つの並列列石が現存する。dostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語91(山神の祟り)」』も必見。
「伊能先生」【二〇一八年十二月三十一日全面改稿】「七二」の注に出した遠野出身の人類学者・民俗学者伊能嘉矩(いのうかのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年)。特に台湾原住民の研究では台湾総督府雇員となって「台湾蕃人事情」(明治三三(一九〇〇)年台湾総督府民政部文書課刊。粟野伝之丞との共著)等の膨大な成果を残した。明治三九(一九〇六)年に本土に戻ってからは、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになり、「上閉伊郡志」「岩手県史」「遠野夜話」等を著し、その研究を通じて柳田國男と交流を持つようにもなり、郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の「遠野物語」成立に影響を与えた。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。ここはウィキの「伊能嘉矩」に拠った。当初、大呆けをかましてしまい、時代の合わない伊能忠敬か等と不審注を附してしまったが、いつも御教授を戴く T 氏よりメールを頂戴し、トンデモ注を変更出来た。御礼申し上げる。]
九二 昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早地峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなる頃、丈の高き男の下より急ぎ足に昇り來るに逢へり。色は黑く眼(マナコ)はきらきらとして、肩には麻かと思はるゝ古き淺葱色(アサギイロ)の風呂敷にて小さき包を負ひたり。恐ろしかりしかども子共の中の一人、どこへ行くかと此方より聲を掛けたるに、小國さ行くと答ふ。此路は小國へ越ゆべき方角には非ざれば、立ちとまり不審する程に、行き過ぐると思ふ間も無く、早見えずなりたり。山男よと口々に言ひて皆々遁げ歸りたりと云へり。
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