フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶻嘲(あさなきどり) (ヤツガシラ) | トップページ | 宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 宗教風の戀 »

2018/12/07

宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 雲とはんのき

 

        雲とはんのき

 

雲は羊毛とちぢれ

黑綠赤楊(はん)のモザイツク

またなかぞらには氷片の雲がうかび

すすきはきらつと光つて過ぎる

  ⦅北ぞらのちぢれ羊から

   おれの崇敬は照り返され

   天の海と窓の日おほひ

   おれの崇敬は照り返され⦆

沼はきれいに鉋をかけられ

朧ろな秋の水ゾルと

つめたくぬるぬるした蒪(じゆん)菜とから組成され

ゆふべ一晚の雨でできた

陶庵だか東庵だかの蒔繪の

精製された水銀の川です

アマルガムにさへならなかつたら

銀の水車でもまはしていい

無細工な銀の水車でもまはしていい

   (赤紙をはられた火藥車だ

    あたまの奧ではもうまつ白に爆發してゐる)

無細工の銀の水車でもまはすがいい

カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの

感官のさびしい盈虛のなかで

貨物車輪の裏の秋の明るさ

  (ひのきのひらめく六月に

   おまへが刻んだその線は

   やがてどんな重荷になつて

   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

 手宮文字です 手宮文字です

こんなにそらがくもつて來て

山も大へん尖つて靑くくらくなり

豆畑だつてほんたうにかなしいのに

わづかにその山稜と雲との間には

あやしい光の微塵にみちた

幻惑の天がのぞき

またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が

こころも遠くならんでゐる

これら葬送行進曲の層雲の底

鳥もわたらない淸澄(せいたう)な空間を

わたくしはたつたひとり

つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら

一挺のかなづちを持つて

南の方へ石灰岩のいい層を

さがしに行かなければなりません

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月三十一日(金)の作。本詩篇は本書以前の発表誌等は存在しない。但し、ギトン氏のこちらによれば、『この作品は』『「不貪慾戒」と』『「宗教風の恋」の間に挟まれていますが、《初版本》の原稿には、後から追加されたものです』(中略)。『内容的に言っても』、『「不貪慾戒」と』『「宗教風の恋」が、同様の禁欲的方向を向いているのに対して』、本『「雲とはんのき」はそれらとは異なり、じっさいには』この後の同年九月十六日の連作「宗教風の恋」「風景と折りゴール」「風の偏倚」「昴」『を経た後の葛藤に満ちた時期の特徴を示しています』とある。また、当日は金曜日であるが、『この日は天長節(大正天皇誕生日)で祝日で』あった『から、作者は汽車に乗って出かけてい』るのである、とある。

・「黑綠赤楊(はん)のモザイツク」の「はん」は「赤楊」二字へのルビ。

・「つめたくぬるぬるした蒪(じゆん)菜とから組成され」の「蒪(じゆん)菜」の「蒪」の字はママ。原稿は「蓴」。但し、この「蒪」の字は「蓴」の異体字であるから、完全な誤りとは言えない。「正誤表」にない。

・「山も大へん尖つて靑くくらくなり」原稿は「山も大へん光つて靑くくらくなり」であるから、恐らくは誤植なはずなのだが、「正誤表」にはない。「手入れ本」では後で見る通り、

・「山も大へん靑ぐらくなり」と変えていて、「尖つて」もカットされている。不思議なことに、校本全集校訂本文は「山も大へん尖つて靑くくらくなり」を採用している。

・「一挺のかなづちを持つて」原稿の「挺」は「梃」。孰れも通用する字なので問題はない。

 宮澤家版「手入れ本」の最終形を示す。

   *

 

        雲とはんのき

 

沼はきれいに鉋をかけられ

朧ろな秋の水ゾルと

つめたくぬるぬるした蓴(じゆん)菜

西から沼にそゝぐのは

ゆふべ一晚の雨でできた

陶庵だか東庵だかの蒔繪の

精製された水銀の川です

アマルガムにさへならなかつたら

銀の水車でもまはしていい

無細工な銀の水車でもまはしていい

   (赤紙をはられた火藥車だ

    あたまの奧ではもうまつ白に爆發してゐる)

無細工の銀の水車でもまはすがいい

カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの

感官のさびしい盈虛のなかで

貨物車輪の裏の秋の明るさ

  (ひのきのひらめく六月に

   おまへが刻んだその劃は

   やがてどういふ重荷になつて

   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

 手宮文字です 手宮文字です

こんなにそらがくもつて來て

山も大へん靑ぐらくなり

豆畑だつてほんたうに白くかなしいのに

その山稜と雲との間

あやしい光の微塵にみちた

幻惑の天がのぞき

またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が

こころも遠くならんでゐる

これら葬送行進曲の層雲の底

鳥もわたらない淸澄(せいたう)な空間を

わたくしはたつたひとり

つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら

一挺のかなづちを持つて

南の方へ石灰岩のいい層を

さがしに行かなければなりません

   *

「はんのき」「黑綠赤楊(はん)」「榛の木」。既出既注。ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonicaウィキの「ハンノキ」によれば、湿原のような過湿地に於いて森林を形成する数少ない樹種である。花期は冬の十二~二月頃で、葉に先だって、『単性花をつける。雄花穂は黒褐色の円柱形で尾状に垂れ、雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び』、『雄花穂の下部につける』が、『花はあまり』、『目立たない』とある。後者の謂いは、ハンノキのその赤い雌花穂に基づく「赤楊(はん)」に、賢治が木肌から「黑綠」を附したものであろう。従って賢治の語彙としては「黑綠赤楊(こくりよくはん)」で一語ということになる。

「すすきはきらつと光つて過ぎる」かなり判りにくいが(一読、最後まで判らなかった方もおられるかも知れぬ)、この一行から、詩人は列車に乗っており、本篇全体は車窓から見る景色なのである。

「⦅北ぞらのちぢれ羊から」/「おれの崇敬は照り返され」/「天の海と窓の日おほひ」/「おれの崇敬は照り返され⦆」これは「春と修羅」補遺詩篇の一つである「ダルゲ」の中で、ダルゲなる人物が歌いだすそれとして、

   *

  西ぞらのちゞれ羊から

  おれの崇敬は照り返され

    (天の海と窓の日覆ひ)

  おれの崇敬は照り返され

   *

酷似したものが現われる。また、生前一冊に綴じられていた初期の散文詩風の短篇「圖書館幻想」にも(このリンクのみは正字をしている「青空文庫」版のもの。但し、以下の引用は校本全集を用いて、漢字を恣意的に正字化して私が引いた)、ダルゲが歌いだすそれに、

   *

  西ぞらの

  ちゞれ羊から

  おれの崇敬は照り返され

  (天の海と窓の日覆ひ。)

  おれの崇敬は照り返され。

   *

と出る。なお、このダルゲなる人物は研究者によれば、一説に、かの親友保阪嘉内のこととする一方、ドイツの仏教徒パウル・ダールケのことともする。後者はその人物を私は知らないのでこれ以上は深入りしない(興味が湧かない)。ともかくも手っ取り早く「ダルケ」と「圖書館幻想」について知りたい向きには、渡辺宏氏の「宮沢賢治 Kenji-Review」第四百十一(二〇〇七年一月発行)がよい。「おれの崇敬は照り返され」のリフレインは芥川龍之介の「或舊友へ送る手記」の附記の最後、『僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた』を思い出させずにはいないとだけ言い添えておく。

「水ゾル」「蠕蟲舞手(アンネリダ・タンツエーリン)」で既出既注。「ゾル」はドイツ語「Sol」で、コロイド粒子(colloid:物質が〇・一~〇・〇〇一マイクロメートル程度の微粒子となって液体・固体・気体の中に分散している状態)が液体中に分散していて且つ流動性を呈しているもの。ここはそうした水溶液を指す。

「蒪(じゆん)菜」既出既注。私の好きなスイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi。而して「永訣の朝」で賢治がトシのために「あめゆじゆ」を掬ってきた二人の揃いの「陶椀」に「靑い蒪菜(じゆんさい)のもやう」が「つい」ていたことも忘れてはいけない。

「陶庵だか東庵だか」蒔絵師の名であろうが、不詳。

「蒔繪」(まきゑ)は漆で文様を描き、金・銀・錫・色粉(いろこ)などを付着させた漆工芸の代表的なもの。

「精製された水銀の川です」「ゆふべ」、「一晚」中、「雨」が降ったがしかし、今、「雲は」「北ぞら」で「ちぢれ羊」の「羊毛と」なって「ちぢれ」てしまっていて、「なかぞらには氷片の雲がうか」んでいるだけ、「すすき」も「きらつと光」る「はんのき」も「モザイツク」にくっきり見える。心象であるが、「おれの崇敬は照り返され」のであり、その「照り返され」た「おれの崇敬は」「天の海と窓の日おほひ」だというのであるから、空は清々しく快晴で、鮮やかな眩しいまでの陽光が射しているのである。だから、「沼はきれいに鉋をかけられ」たように輝き、昨夜(ゆうべ)の雨で出来上がった「西から沼にそゝぐ」小流れも「陶庵だか東庵だかの蒔繪」のように、「精製された水銀の川」となっているというのである。

「アマルガムにさへならなかつたら」アマルガム(amalgam)は水銀と他の金属との合金の総称。広義では、混合物一般を指す。水銀は他の金属との合金を作り易い性質があり、常温で液体になる合金も多い(なお、「アマルガム」という語は一四〇〇年頃に使われるようになったもので、中世ラテン語の「amalgama」または、古フランス語の「amalgame」を語源とする。それらの語源は、ギリシャ語の「柔らかな塊り」を意味する「malagma」まで遡るともされる。ここはウィキの「アマルガム」に拠った)ここは「水銀」の川に「銀」の水車を作ると、「銀スズアマルガム」(現在、一般に「アマルガム」して使われ、知られるもの。銀とスズの合金に銅や亜鉛を添加した粉末を水銀で練ったもの)のように水銀の流れがそこで固体化してしまうか、或いは銀の水車が溶けてしまうかも知れない、その虞れ「さへ」ないのであれば、「銀の水車でもまはしていい」と夢想の中で遊んでいるのである。

「(赤紙をはられた火藥車だ」/「あたまの奧ではもうまつ白に爆發してゐる)」「赤紙」は危険物を示す張り紙で、今、この瞬間、賢治の脳がそうした危険な状態にある「火藥車」であり、いや! 既にしてその「あたまの奧」の中心武では、「もう」「まつ白」な「爆發」が発生してしまって「ゐる」! ヤバいぞ!!! と賢治は言っているのである。そうした危急の精神状態にあっては、さっきまでのお遊びの、他愛もない夢想は下らない! だから「無細工」(ぶさいく)な「銀の水車でもまはすがいい」と言い捨てているのである。

「カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの」「カフカズ」はカフカス(Кавказ:ラテン文字転写: Kavkaz)で、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる一帯を指す、所謂、「コーカサス」(英語:Caucasus)地方のこと。松井潤氏のブログ「HarutoShura」の本詩篇の解説(分割掲載の一つ)に、『「カフカズ風に帽子を」というと、コーカサス地域で着用されている毛皮の帽子パパーハ』(ロシア語で「папа́ха」。リンク先に写真有り)『が思い浮かびます。パパーハは』、普通、『一方向が外に向けて開けた円筒状をしていて、こめかみ部分に帽子のつばが触れるような形で頭に装着します。使用しないときには、折りたたむことができるような耳当てが付いているものもあるそうです』とある。但し、ここは「折つてかぶるもの」とあり、さらに原稿を見ると、最初、「ロシア」と書いたものを、消して「カフカズ」としている点からみて、これは所謂、折り返しのある、典型的な「ロシア帽」のことであろうと思われる。説明するよりも、ウィキの「ロシア帽」の画像を見て貰うのが手っ取り早いのだが、ロシア語では「Ушанка」(ウシャンカ)或いは「Шапка-ушанка」(シャープカ・ウシャーンカ)と呼ばれ、『零下数十度にもなる寒冷地で頭部の防寒のため着用される毛皮(ファー)の帽子』である。『その独特のスタイルから、ウォッカ、バラライカ、ルバシカ』『などと共にロシアを象徴するものとして知られている』『ウシャンカの』「уш」(ウーシュ)とは「уши」(ウーシェ)、即ち、「ухо」(ウーハ:「耳」の意)の『複数形を示しており、名前はこの帽子の特徴である耳当てに由来する。従って、コサック帽やアストラカン帽などの耳当ての無い帽子は基本的に「ウシャンカ」とは呼ばない。耳当ては通常上方へ折畳んだ状態で、付属の紐を頭頂部で結び固定されている。耳当てを使用した場合、耳や顎、後頭部が完全に隠れる。耳当てが顎に干渉すると』、『首の動きが若干制限されるが、この場合は耳当ての紐を後頭部で結び合わせる』とあるそれである。そんな風に見える帽子(八月三十一日であるから、耳当てのある薄地の帽子の耳当てを上か後頭部で結びとめたものであろう)を被った乗客が車内にいたか、或いは、通過する沿線の道か農地にいたのであろう。賢治は、外地っぽい錯覚を楽しもうとしているのかも知れない。しかし急速に賢治の内的昂奮は鎮火されてしまう。

「感官のさびしい盈虛のなかで」「盈虛」は、もとは「月が満ちたり欠けたりすること」で、そこから転じて「栄えることと衰えること」の意となる。何が起こったのか、爆発炎上しかけていた賢治の脳は、あらゆる外界の感覚的刺激がある波を持ちながらだんだんに着実に衰微してしまうのである。ただ、こうした一瞬の内的な急降下の変質は今までの詩篇でもしばしば見てきたから、奇異には感じられない。

「貨物車輪の裏の秋の明るさ」ギトン氏はこちらで、『貨物車の下の暗がりと、その向こうで明るい陽を浴びている秋の風景との』『《明暗の対比》を表現しています』。『陽が明るければ明るいほど、暗がりはますます暗さを増すのです』と評釈されておられる。同感である。

「(ひのきのひらめく六月に」/「おまへが刻んだその線は」/「やがてどんな重荷になつて」/「おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)」「おまへ」は賢治の自問と解く。とすれば、「六月」はこの年の六月で、賢治がトシの死の痛手から詩作を止めてから、凡そ六ヶ月振りに詩作を始めたのと一致する(その復帰第一作風林」は六月三日である)し、「おまへが刻んだその線」も心象スケッチとしてのそれ以後の詩篇群を指すと読める。それが「やがてどんな重荷になつて」「おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない」ぞ! と自分で自分に詰め寄っているのである。「男らしい償ひ」というのが今一つ判らぬが、「重荷」に成り得る核心部のそれは、トシに纏わるトシの霊的存在を認めてそれを信じたことであろう。それは科学者としての賢治や日蓮宗信徒としての賢治とは相容れない重大な問題を孕んでいるからである。とすれば、「男らしい償ひ」とは自決以外にはないように私には思われる。或いは、限りなく自殺に近い何らかの仕儀である。

「手宮文字」「てみやもじ」と読む。明治一九(一八八六)年頃に北海道で発見された文字で、「北海道異体文字」「アイノモジ」「アイヌ文字」(但し、アイヌは現在でも文字を持たなかったとされている)とも呼ばれるものである。ウィキの「北海道異体文字」によれば、『東京人類学会の会員であった荘司平吉は北海道においてアイヌの民具などを収集していたが、その中には文字の記された古器物が存在していた』。明治十九年九月六日『の『陸奥新報』と同月』十二『日の『奥羽日日新聞』に』、『その一部である樹皮と帯が紹介され、榎本武揚が千年ほど前に蝦夷が用いた文字であろうと鑑定している。また同年』十二『月の第』二十五『回東京人類学会では、文字の記された古器物として獣皮・六角四面の石片・和紙・鞘袋が荘司により』、『出品された』。『人類学者の坪井正五郎は』、翌明治二十年二月『の『東京人類学会報告』第』十二『号において「コロボックル北海道に住みしなるべし」を発表し、自身のコロボックル説に基づき』、『荘司の収集した古器物に見られる「異様の文字」について、後述する手宮洞窟の彫刻や忍路環状列石と同様にコロポックルのものであるとした』。『また坪井は同年』八『月の『東京人類学会雑誌』第』十八『号にて「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」を発表し、この「異体文字」について手宮洞窟の彫刻とは異なり』、『記号が規則的に並んでいることから文字であると断言して差支えないとした上で、ユーラシア大陸から渡来した人々によって用いられたものである可能性を示唆した』。『同年』十『月の『東京人類学会雑誌』第』二十『号では荘司自身により「アイノ及び北海道の古代文字」が発表されている。その中で荘司は確証はないとしながらも、古い時代に蝦夷が用いた文字ではないかとしている』。翌明治二十一年には『国学者の落合直澄によって『日本古代文字考』が著された。同書では北海道異体文字について、日本語が通じず漢字を用いない蝦夷によって用いられたものとしている。そして』十四『の記号を組み合わせた』五十『の文字と』、『それらの合字から成り立っているとしたが、読み方が伝わらないために解読はできないとする。また平田篤胤の著した『神字日文伝』附録疑字篇に採録される出雲石窟の文字』『や「神代十干」』、『落合が実見したとされる吉見百穴の文字』『との関連を示唆している』。以下、『手宮の「文字」』の項「手宮洞窟で発見された岩絵」の画像はこれ。慶応二(一八六六)年に『発見された手宮洞窟の岩絵を文字とする説もある。この彫刻は小樽市にある続縄文時代の遺跡であり』、大正一〇(一九二一)年『には国の史跡に指定されている』。明治一一(一八七八)年に『榎本武揚や開拓使大書記官の山内堤雲、考古学者のジョン・ミルン』(John Milne 一八五〇年~一九一三年:イギリス・リバプール出身の鉱山技師・地震学者・人類学者・考古学者。明治九(一八七六)年に工部省工学寮教師として招聘され、明治二八(一八九五)年帰国。帰国後であるが、東京帝国大学名誉教授の称号を受けている。日本に於ける地震学の基礎をつくった)『による調査が行われて以降、広く知られるようになった』。『この手宮の彫刻は古く「ジンダイモジ」』『(ジンダイ文字』『)、「アイヌ文字」』『、「アイヌ古代文字」』『、「奇形文字」』『のように称されていたが、後述の中目の説が広まって以降は主に「古代文字」と呼ばれるようになった。吾郷清彦は「手宮古字」と称している。宮沢賢治の詩「雲とはんのき」(詩集『春と修羅』に掲載)の中には「手宮文字」として登場する』。『考古学者の鳥居龍蔵は』大正二(一九一三)年十月発行の『歴史地理』(第二十二巻第四号)に『「北海道手宮の彫刻文字に就て」を投稿している。この中で鳥居は、手宮の彫刻は突厥文字』(古代チュルク語に属する突厥語やウイグル語を表すのに使用された文字で、突厥文字を用いて記された碑文を「突厥碑文」という。形態が古ゲルマン人のルーン文字に似ているところから、チュルク・ルーン文字ともいう。突厥文字は一八九三年にデンマークの言語学者トムセンによって解読された)『であると主張し、靺鞨』(まつかつ:隋唐時代に中国東北部の沿海州に存在した農耕漁労民族)『の用いたツングース系の言語を記したものである可能性を示唆している。さらに言語学者の中目覚は』、大正七(一九一八)年二月発行の『尚古』第七十一号に『「我国に保存せられたる古代土耳其』(トルコ)『文字」を投稿し、手宮の「古代文字」を解読したと主張している。中目はこの彫刻を突厥文字とする鳥居の説を支持し、靺鞨の言語で「……我は部下をひきゐ、おほうみを渡り……たたかひ……此洞穴にいりたり……」』『と解読した。また同月の『小樽新聞』において中目は、『日本書紀』に見える阿倍比羅夫と戦った粛慎とは靺鞨人のことであり、この戦いによって死亡した靺鞨人の族長を埋葬したのが手宮洞窟の遺跡であると主張している』。『一方』、『郷土史研究家の朝枝文裕は』昭和一九(一九四四)年に「小樽古代文字」を『著し、手宮の彫刻を古代中国の漢字とする説を唱えた。朝枝はこの彫刻を、約三千年前に古代中国の王朝である周の人々によって記されたものとしている。その内容については、周から遠征のために派遣された船団がこの地を訪れたが、そこで船団の指導者である「帝」が死亡したため葬り、その後重大な変事が発生したため血祭りの儀式を執り行った旨を記したものであると解読している。さらに朝枝は、古代中国の王朝である殷や周から派遣された船が、卜占に用いる鹿の角を求めてしばしば北海道を訪れたと主張している』『また』、『神代文字の研究者である相馬龍夫は』、昭和五三(一九七八)年に『解読日本古代文字』を著し独自の説を唱えている。相馬は手宮の彫刻について、百済系民族によって北陸地方を追われた勢力に属する人々の記した文字であり、その内容を訳すと以下のようになると主張している。なお宇ノ気、能登、加賀、鹿島、邑知、野野、羽咋、輪島はいずれも現在の石川県にあたる地域の地名である』とある。私は広く主張されている神代文字をトンデモ学説の一つとしか捉えていない。手宮洞窟の陰刻は、ネット上で私が見る限りでは文字ではなく、絵である(保存館で現物も見た)。人、及び、熊や鹿といった獣類らしきものの擬人化、人の中には何らかの動物的仮装を施した呪術者(シャーマン:shaman)と思しき存在も見えるように思う小樽市公式サイト内の「手宮洞窟保存館」にも、『手宮洞窟』は慶応二(一八六六)年に『相模』『国』『小田原から、朝里地区のニシン番屋の建設に来ていた、石工の長兵衛によって発見されました。手宮洞窟周辺は、小樽軟石と呼ばれる凝灰岩』『が露出しているところで、長兵衛は建築用の石を捜している途中で』、『偶然』、『洞くつ内の岩壁にさまざまな文様が刻まれていることを発見しました』。『この彫刻はジョン・ミルン』『によって初めて学術的な観察と報告がなされました。また、開拓使(現在の北海道庁)、渡瀬荘三郎などによって次々と調査が行われました』。『手宮洞窟に描かれている彫刻(陰刻』『画)がいつ誰によって刻まれたのか、それが何を表現したのか、かつてはいろいろな説がありました。しかし、現在まで行われたさまざまな調査研究により、ある程度のことがわかるようになってきました』。『この彫刻が刻まれた時代は、発掘調査により、今からおよそ』千六百『年前頃の続縄文』『時代中頃〜後半の時代で、本州の弥生』『時代の終わり頃から古墳時代の初めの時期にあたります。この頃の北海道は、豊かな自然を背景とし、縄文文化をさらに発展させた狩猟採集文化の時期で、その文化は新潟県からサハリンにまで及んでいました』。『同じ時代に刻まれた彫刻が、余市町のフゴッペ洞窟にあります。フゴッペ洞窟の彫刻は舟、魚、人などが描かれたものと考えられますが、手宮洞窟のものと非常に良く似ているものがあります』。『手宮洞窟の彫刻は、石斧などによって刻んだ後、磨いて仕上げたと推定されます。発掘調査では、彫刻を刻んだ岩や続縄文時代の土器と共に、刃の部分が傷んだ石斧も出土しています』。『国内では、手宮洞窟のような彫刻は、現在のところ、フゴッペ洞窟にしか発見されていません。そのため、この彫刻をめぐっていろいろな解釈がありました。かつてはこれを「文字」と考え、解読した人すらあらわれました』。『しかしフゴッペ洞窟の発見以来、アムール川(シベリア東側を流れる川)周辺に見られる、岩壁画と良く似た古代の彫刻であることがわかってきました。シベリアのサカチ・アリアン遺跡の岩絵とフゴッペ洞窟にはほとんど同じような舟の像が描かれていますし、手宮洞窟にある「角のある人」と似たものもあります。このような岩壁画は日本海を囲むロシア、中国、朝鮮半島などに見られ、手宮洞窟もこのような日本海を囲む大きな文化の流れを表すものだと考えられます』。『手宮洞窟では「角のある人」の他、手に杖のようなものを持った人や四角い仮面のようなものをつけた人が描かれています。このほか、角のある四足動物も描かれています』。『このような角をもつ人はシベリアなどの北東アジア全域でかつて広く見られた、シャーマン(激しい踊りや祈りをして占いや収穫のお告げをする人)を表現したものではないか、という説が有力です』。『手宮洞窟保存館はこのように』四~五『世紀頃、北海道に暮らしていた続縄文文化の人々が、日本海をはさんだ北東アジアの人々と交流をしていたことを示す大変貴重な遺跡です。古代人の心を知る上で第一級の遺跡といえるでしょう』とある。

 さて。ここでもう話を賢治の「手宮文字」に戻してよかろう。

 本詩篇が書かれた頃、手宮洞窟で発見されたそれは、俄然、「文字」しかも、文字を持たないはずの「アイヌ」の文字、或いは、遠い昔、大陸から渡って来た人々の文字として脚光を浴び、その完全なる解読が強く期待されていたことが判る。

 しかし、私は、賢治が鮮明な手宮洞窟の陰刻の写しを見ていたとすれば、これを文字だとは思わなかったとほぼ断言出来るように思う(その中には賢治が愛する「鹿(しし)踊り」を髣髴とさせる人物さえ描かれているではないか!)。

 そもそも、ここで特異的な一字下げで「手宮文字です 手宮文字です」と出るのは、「サイレンだ! サイレンだ!」「シグナルなんだ! シグナルなんだ!」という警鐘の表現に外ならないということである。

 ということは、「手宮」のそれを「文字」とすることは、絵を文字だと思い込んでしまい、大勘違いに気づくことなく、全くの徒労に終わる解読研究を続ける作業に外ならない。即ち、

「手宮文字」=永遠に解読不能である「手宮」洞窟の実は「文字」でない陰刻列

である。さらにまた、彼はこの洞窟の名前にも親和性を持ったのではなかったか?

の「宮」澤賢治の「手」が刻した「文字」様列→「宮」澤賢治の「手」になる「心象スケッチ」

である(彼はこうした文字遊びを好んだことは、本書の科学用語と詩語のを読めば、一目瞭然である)。

 この「永遠に解読不能の文字列」を最も狭義に採るとするならば、この詩篇のこの直前の、意味不明な内容を含む文字列、即ち、

   *

(ひのきのひらめく六月に

 おまへが刻んだその線は

 やがてどんな重荷になつて

 おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

   *

がそれとなる。しかし、それをそうしたものと採るならば、ほぼ自動的にフィード・バックして、前の二つ、

   *

⦅北ぞらのちぢれ羊から

 おれの崇敬は照り返され

 天の海と窓の日おほひ

 おれの崇敬は照り返され⦆

   *

と、

   *

(赤紙をはられた火藥車だ

 あたまの奧ではもうまつ白に爆發してゐる)

   *

も「永遠に解読不能の文字列」ということになる。

 いや、これをさらにさらに広義に採るならば、

――私「宮」澤賢治の「手」になる「文字」(詩)のように見える「心象スケツチ 春と修羅」は「字」面を追って何となく判ったような気はするかも知れないが、そこで私が描こうとしたもの(私固有の霊的哲学や人生的苦悩といったもの)は遂にあなた方には読解不能である――

と表明しているように思われてならないのである。

 或いは、賢治は自分の奇体な詩篇が、遠い将来、幾たりかの研究者の、怖ろしく斬れ味の怖ろしく悪いメスと錆びたピンセットによって杜撰に解剖され、〈変奇にして奇体なる稀有の天才的科学者にして詩人である畸形人間〉という長ったらしい学名を附されて「詩人」の標本ケースに並べられることを、既にして予期していたのではあるまいか? とさえ私には思われてくるのである。

「こんなにそらがくもつて來て」/「山も大へん尖つて靑くくらくなり」/「豆畑だつてほんたうにかなしいのに」/「わづかにその山稜と雲との間には」/「あやしい光の微塵にみちた」/「幻惑の天がのぞき」/「またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が」/「こころも遠くならんでゐる」先ほどまでの生き生きとしたカラー映像が次第にモノクロームに変容し、それらは総てが「遠く」並んでいる(「葬送行進曲の層雲の底」とはその雲の並び飛ぶそれを葬列に喩えた。そうして当然、それはトシの野辺の送りをフラッシュ・バックさせる)「心」――誰にも理解されない、爆発から一転、爆縮へと変化し、のような孤独な賢治の「心」へと戻って行ってしまう。

「鳥もわたらない淸澄(せいたう)な空間を」/「わたくしはたつたひとり」/「つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら」「鳥」は霊となったトシであり、トシ喪失の癒し難い心傷が未だ賢治を捉え続けていることが表明されている。

「一挺のかなづちを持つて」/「南の方へ石灰岩のいい層を」/「さがしに行かなければなりません」そうした孤独者としての彼は「石灰岩」(炭酸カルシウムを主成分とする堆積岩の総称。石灰質の殻をもつ生物の遺骸を主とする生物起源と、化学的沈殿によるものがあるが、普通は両者が混っている。生物起源のものは、化石の種類によって、貝殻石灰岩・有孔虫石灰岩・サンゴ石灰岩・フズリナ石灰岩などと呼ぶ。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の保存状態のよい地層を目指して、「一挺の」金槌「を持つて」「南の方へ」(北へはかの「オホーツク挽歌」の旅でトシを捜しに行ったから、今度は「南の方」なのである)「さがしに」(誰を? 何らかの別の生命体となって時空を溯り、「石灰岩」を構成する化石と変じているかも知れないトシを、である)「行かなければな」らないのである。]

« 和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶻嘲(あさなきどり) (ヤツガシラ) | トップページ | 宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版 宗教風の戀 »