佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九九 明治三陸地震で亡くなった妻の霊に逢う事
九九 土淵村の助役北川淸と云ふ人の家は字[やぶちゃん注:「あざ」。]火石(ヒイシ)にあり。代々の山臥[やぶちゃん注:「やまぶし」。山伏。]にて祖父は正福院といい、學者にて著作多く、村の爲に盡したる人なり。淸の弟に福二と云ふ人は海岸の田の濱へ聟に行きたるが、先年の大海嘯(オホツナミ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き殘りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところに在りて行く道も浪の打つ渚(ナギサ)なり。霧の布(シ)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく[やぶちゃん注:「まさしく」。]亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞[やぶちゃん注:読みは後注参照。]ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり。男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が聟に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顏の色を變へて泣きたり。死したる人と物云ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(ヲウラ)へ行く道の山陰を廻(メグ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(ミチナカ)に立ちて考へ、朝になりて歸りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。
[やぶちゃん注:NHKのテキスト情報サイトの「NHKテキストビュー」の「『遠野物語』に描かれる明治三陸大津波」によれば、実は『この話の主人公の福二は佐々木喜善の祖母の弟で』あるとする。『東日本大震災の津波でも大きな被害を受けてしまった山田町の船越半島の付け根に、田の浜という集落があ』り(ここ(国土地理院図))、『福二は当時、その集落の長根という家に婿に入って』おり、この三陸大津波に遭遇したのであった。この時、『田の浜では』百三十八『戸の家のうち』百二十九『戸が流失し、死者が』四百八十三『人、生存者は』三百二十五『人であり、半分以上の人が亡くな』ったとある。なお、後の昭和五(一九三〇)年、『佐々木喜善は』『「縁女綺聞」という文章の中で』、『自らこの話を書き起こしています(『農民俚譚(りたん)』所収)が、その文章は『遠野物語』よりも具体的で、福二は「おいお前はたきの(女房の名前)じゃないか」と声をかけます。そして「何たら事だ。俺も子供等も、お前が津浪で死んだものとばかり思って、斯(こ)うして盆のお祭をして居るのだのに、そして今は其の男と一緒に居るのか」と詰め寄ります。その言い方は、死んだと思っていたのに、実は生きていた奥さんに話しかけているように聞こえます。生と死の区別はここでも曖昧です』。『奥さんのほうは何もいわず、かすかにうつむいて、「二三間』(三・六四~五・四五メートル)『前に歩いて居る男の方へ小走りに歩いて追いつき、そうしてまた』、『肩を並べて、向うへとぼとぼと歩いて行った」とあります。これは『遠野物語』よりも残酷で、遣る瀬ない話ではないかと思います。ただ黙って去られるよりも、「いまはこの人と夫婦になっている」と宣言されたほうが、まだ諦めもつくでしょうか』。『しかし、この世ではともかく、あの世で奥さんが好きな人と一緒にいることまで自分が制限することはできません。福二はたぶん奥さんと出会うことで、遺体は見つからなくても、その死を受け入れざるを得ないと思えたのではないでしょうか。この話は悲しい出来事というよりは、それによって煩ったにせよ、絶望のなかで生きる希望をもって恢復(かいふく)していく、心の復興の物語として読んでこそ意味があるのではないかと思います。もちろん災害の悲惨さを伝えることは大事ですが、悲しみをどう乗り越えていくかというときに、この話はとても大きな意味をもっています』とある。
「先年の大海嘯(オホツナミ)」明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時三十二分に岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として発生した「明治三陸地震」。マグニチュード八・二~八・五の巨大地震であった。地震に伴い、二〇一一年三月九日の東北地方太平洋沖地震前まで、本州に於ける観測史上最高の遡上高であった海抜三十八・二メートルを記録する津波が発生、甚大な被害を与えた。本書刊行(明治四三(一九一〇)年六月)の十四年前のことである。参照したウィキの「明治三陸地震」によれば、死者・行方不明者は合計二万千九百五十九人(死者:二万千九百十五人/行方不明者:四十四人)。『行方不明者が少ない理由について、震災後当初は、宮城県の一部や青森県では検死を行い、死者数と行方不明者数を別々に記録し発表していたが、「生存者が少ない状況の下で、煩雑な検死作業をしていられなかった」という状況』と、災害時の『「検死を重視していなかった」等の』当時の社会的『背景により、「行方不明者」という概念はなくなり、死亡と見なされる者は全て「溺死」あるいは「死亡」として扱われた』ことによる。家屋流失は九千八百七十八戸、家屋全壊は千八百四十四戸、船舶流失は六千九百三十隻であった。
「船越村の方へ行く崎の洞ある所」位置的には前の国土地理院図(「田の浜」)を見て戴ければ判る通り、北西に向かって船越半島の根元にある岩手県下閉伊郡山田町船越へ船越湾を廻り込む形で向かったことが判る。問題は「崎の洞」(この後が「ある」と続くところも気になる)当初は「崎(さき)の洞(ほら)」で、ちょっとした鼻か岬状の部分に生じた海食洞のような陸地或いは海岸線を一般名詞として指しているかと思っていた。新潮文庫は確かに『ほら』のルビなのだが、「ちくま文庫」版全集は驚いたことに『ほこら』(「祠」であろう)とルビするのである。まず「祠」は「洞」と誤読・誤植し易いことが気になる。次に、文脈で「船越村の方へ行く崎の洞ある所」とある時、「ほら」と「ほこら」のどちらがより自然かを考えた。固有名詞(海岸地名)で「崎の洞」だったら、私は「ある」と繋げるのは、文体上、如何にも練れていない下手糞な文章のように思うのである。しかし、「崎の」「祠」(ほこら)「ある所」なら、これはそれよりは腑に落ちるのである。海岸のちょっと突き出た岬(御崎)にある小さな祠である(「洞」を一般名詞としてとってもよいが、「ある」のは空「洞」より物体としての「祠」の方がランドマークらしい)。「遠野物語」は原草稿なども残っているらしいから、一度、何時か親しく見て検証してみたいとは思っている(出版されているが、私は所持しない)。]
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