佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三六~四二 狼
三六 猿の經立(フツタチ)、御犬(オイヌ)の經立は恐ろしきものなり。御犬(オイヌ)とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山(フタイシヤマ)は岩山なり。ある雨の日、小學校より歸る子ども此山を見るに、處々(トコロドコロ)の岩の上に御犬(オイヌ)うずくまりてあり。やがて首を下(シタ)より押上(オシア)ぐるやうにしてかはるがはる吠(ホ)えたり。正面より見れば生(ウ)まれ立(タ)ての馬の子ほどに見ゆ。後(ウシロ)から見れば存外(ゾングワイ)小さしと云へり。御犬のうなる聲ほど物凄く恐ろしきものは無し。
[やぶちゃん注:「經立(フツタチ)」現代仮名遣「ふったち」で「年(とし)經(ふ)りて立つ」、ある生き物が歳を永く「經」(へ)て異形ののものとして「立」(た)った(或いは「経立(へだ)たって」)ものの意であろう。千葉幹夫氏の「全国妖怪語辞典」(一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」第八巻所収)には青森では「ヘェサン」「フッタチ」とし、『動物が年老いて霊力を備えたものをいう』とあり、ウィキの「経立」には、『青森県、岩手県に存在すると言われる妖怪あるいは魔物。生物学的な常識の範囲をはるかに越える年齢を重ねたサルやニワトリといった動物が変化したものとされる』。『民俗学者・柳田國男の著書『遠野物語』の中にも、岩手県上閉伊郡栗橋村(現・釜石市)などでのサルの経立についての記述がみられる。サルの経立は体毛を松脂と砂で鎧のように固めているために銃弾も通じず、人間の女性を好んで人里から盗み去るとされている。この伝承のある地方では、「サルの経立が来る」という言い回しが子供を脅すために用いられたという』(ここは後の「四五」の内容を元に述べている)。『また』、『國學院大學説話研究会の調査による岩手県の説話では、下閉伊郡安家村(現・岩泉町)で昔、雌のニワトリが経立となり、自分の卵を人間たちに食べられることを怨んで、自分を飼っていた家で生まれた子供を次々に取り殺したという』。『同じく安家村では、魚が経立となった話もある。昔』、『ある家の娘のもとに、毎晩のように男が通って来ていたが、あまりに美男子なので周りの人々は怪しみ、化物ではないかと疑った。人々は娘に、小豆を煮た湯で男の足を洗うように言い、娘がそのようにしたところ、急に男は気分が悪くなって帰ってしまった。翌朝に娘が海辺へ行くと、大きなタラが死んでおり、あの男はタラの経立といわれたという』とある。
「狼」絶滅した哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科 イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax。学術的に信頼出来る確実な最後の生息情報は明治三八(一九〇五)年一月の奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村鷲家口)で捕獲された若い♂(後に標本となって現存)である。実際には本邦では野犬・山犬も混同して「狼」と呼んできた経緯があり、佐々木は目撃者を「小學校」としており、本書の刊行が明治四三(一九一〇)年のことであることを考えると、広義の、人間が飼育していない野生の通常の犬(イヌ属 Canis)類と見做して読むべきとも言われようが、いや、私は寧ろ、我々が滅ぼしたニホンオオカミがそれに強い怨念を持ってここに〈狼の経立(ふったち)〉となって現われたのかも知れぬとも思うのである。
「山口の村に近き二ツ石山」同名の山が遠野の遙か北西にあるが、それではなく、遠野の旧山口村『集落の南の雑木林の中にある岩で、別名』、『夫婦岩と呼』ぶものであると、佐藤誠輔訳・小田富英注「遠野物語」(二〇一四年河出書房新社刊)の注にある。]
三七 境木峠(サカイゲタウゲ)と和山峠(ワヤマタウゲ)との間にて、昔は駄賃馬[やぶちゃん注:「だちんば」。]を追(オ)ふ者、屢(シバシバ)狼に逢ひたりき。馬方(ウマカタラ)は夜行には、大抵十人ばかりも群(ムレ)を爲し、その一人が牽く馬は一端綱(ヒトハヅナ)とて大抵五六七匹(ピキ)までなれば、常に四五十匹の馬の數なり。ある時二三百ばかりの狼追ひ來り、其足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、其めぐりに火を燒きて之を防ぎたり。されど猶其火を躍り越えて入り來るにより、終には馬の綱(ツナ)を解(ト)き之を張(ハ)り囘(メグ)らせしに、穽(オトシアナ)などなりとや思ひけん、それより後は中に飛び入らず。遠くより取圍(トリカコ)みて夜の明るまで吠えてありきとぞ。
[やぶちゃん注:どうも数字がどれも誇大過ぎる。駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)の運送業者が一度に一人で五~七頭の馬を牽いていたというのは、予備の馬にしても多過ぎる気がするし、第一、七頭以上の多数の馬を駄賃馬稼一人が飼育管理していたとは到底思えない。次の「三八」の「小友(オトモ)村の舊家の主人」でさえ飼っていたのは七頭である。さらに、ニホンオオカミも大規模な群れは作らず、二~十頭ほどの群れで行動した(北海道産でやはり絶滅してしまったタイリクオオカミ亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai はかなりの群れを作ったらしいが、現存するタイリクオオカミでも記録上の最多でも四十二頭で、平均ではやはり三~十一頭の間であり、規模の大きな群れにあっても主な仕事を担うのは繁殖ペアで、最も捕食効率が良いのもペアの狼とされている)から、「二三百」はこれ、芝居がかって大袈裟過ぎる。実録風の狼に襲われる本邦の民話でも二~三頭であることが多いように私は感ずる。
「馬の綱(ツナ)を解(ト)き之を張(ハ)り囘(メグ)らせしに」馬引きと馬の命でもある手綱は神聖なものであり(実際に現在でも正月の注連繩にそれを附ける習慣のある地方がある。オシラサマも馬形である)、ここでそれを張り巡らすことは彼ら(人と馬。文字通り、ここでは一蓮托生)にとって防衛のための霊的な結界を作ることに他ならない。この行為は現実的物理的な防禦線なのではなく、遙かに呪的な装置なのである。
「穽(オトシアナ)などなりとや思ひけん」オオカミは知能が高く、それが繩・竹・蔓などを用いた罠(落とし穴でなくても、絡めて捕縛するタイプのものもでも陥穽(かんろう)=罠である)はないかと警戒したのである。
「ありき」「步き」と採る。]
三八 小友(オトモ)村の舊家の主人にて今も生存せる某爺(ナニガシヂー[やぶちゃん注:長音符はママ。])と云ふ人、町より歸りに頻に御犬[やぶちゃん注:前に出た通り、「狼」。]の吠ゆるを聞きて、酒に醉ひたればおのれも亦其聲をまねたりしに、狼も吠えながら跡より來るやうなり。恐ろしくなりて急ぎ家に歸り入り、門の戶を堅(カタ)く鎖(トザ)して打潛(ウチヒソ)みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる聲やまず。夜明(ヨア)けて見れば、馬屋の土臺(ドダイ)の下を掘り穿ちて中に入り、馬の七頭ありしを悉く食ひ殺してゐたり。此家はその頃より産稍傾きたりとのことなり。
三九 佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より歸りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。橫腹は破れ、殺されて間(マ)もなきにや、そこよりはまだ湯氣(ユゲ)立てり。祖父の曰く、これは狼が食ひたるなり。此皮ほしけれども御犬(オイヌ)は必ずどこか此近所に隱れて見てをるに相違なければ、取ることが出來ぬと云へり。
[やぶちゃん注:佐々木喜善の生年は明治一九(一八八六)年(十月五日)である。まだ、ニホンオオカミは、いた。既に注した通り、学術的に信頼出来る確実な最後の生息情報は明治三八(一九〇五)年一月の奈良県吉野郡小川村鷲家口(現在の東吉野村鷲家口)で捕獲された若い♂であった。]
四〇 草の長さ三寸あれば狼は身を隱すと云へり。草木(サウモク)の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節(キセツ)ごとに變りて行くものなり。
[やぶちゃん注:「三寸」約九・一センチメートル。]
四一 和野の佐々木嘉兵衞、或年境木越[やぶちゃん注:「さかひげごえ」。]の大谷地(オホヤチ)へ狩にゆきたり。死助(シスケ)[やぶちゃん注:「三二」に既出既注。]の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り盡し山もあらは也。向(ムカフ)の峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走り來るを見て恐ろしさに堪へず、樹の梢に上(ノボ)りてありしに、其樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野鄕には狼甚だ少なくなれりとのことなり。
四二 六角牛(ロツコウシ)山の麓(ふもと)にヲバヤ、板小屋など云ふ所あり。廣き萓山[やぶちゃん注:「かややま」。]なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯豐村(イヒデムラ)の者ども萓を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち歸りしに、その日より狼の飯豐衆(イヒデシ)の馬を襲(オソ)ふことやまず。外の村々の人馬には聊かも害を爲さず。飯豐衆相談して狼狩を爲す。其中には相撲(スモウ[やぶちゃん注:ママ。])を取り平生力自慢(チカラジマン)の者あり。さて野に出でゝ見るに、雄(ヲス)の狼は遠くにおりて來らず。雌(メス)狼一つ鐵と云ふ男に飛び掛りたるを、ワツポロ【○ワツポロは上羽織のことなり】を脱ぎて腕(ウデ)に卷き、矢庭に其狼の口の中に突込みしに、狼之を嚙む。猶强く突き入れながら人を喚(ヨ)ぶに、誰も々々[やぶちゃん注:「たれもたれも」。]怖れて近よらず。其間に鐵の腕は狼の腹まで入(ハイ)り、狼は苦しまぎれに鐵の腕骨を嚙み碎きたり。狼は其場にて死したれども、鐵も擔(カツ)がれて歸り程なく死したり。
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