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2018/12/28

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 七二~七四 カクラサマ

 

七二 栃内(トチナイ)村の字[やぶちゃん注:「あざ」。]琴畑(コトバタ)は深山の澤にあり。家の數は五軒ばかり、小烏瀨(コガラセ)川の支流の水上(ミナカミ)なり。此より栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像(ザゾウ[やぶちゃん注:ママ。])あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中に在りしが、今は雨(アマ)ざらし也。之をカクラサマと云ふ。村の子供之を玩物(モテアソビモノ)にし、引き出して川へ投げ入れ又路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬやうになれり。或は子供を叱(シカ)り戒めて之を制止する者あれば、却りて祟を受け病むことありと云へり。

【○神體佛像子供と遊ぶを好み之を制止するを怒り玉ふこと外にも例多し遠江小笠郡大池村東光寺の藥師佛(掛川志)、駿河安倍郡豐田村曲金[やぶちゃん注:「まがりがね」。]の軍陣坊社の神(新風土記)、又は信濃筑摩郡射手の彌陀堂の木佛(信濃奇勝錄)など是なり】

[やぶちゃん注:「神體佛像」が「子供と遊ぶを好」むのは判るが、「之を制止する」者に「祟を受け病む」というのは尋常な事態ではない。これは寧ろ、その「神體佛像」だと思っているものが、特殊な条件下で神霊に祭り上げられた対象であった、即ち、それが一種の御霊(ごりょう)であるからに他ならないと私は思う。ネットを縦覧した限りでは、この「カクラサマ」をしっかり掘り下げておられるのは、たびたび引用させて戴いているdostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語73(恐ろしいカクラサマ)」』にとどめを刺すと思う。そこでdostoev氏は『佐々木喜善「遠野雑記」では「不思議なるは、栃内村字米通路傍の森の中に在すカクラサマは、全く陰茎形の石神なることなり。然れども未だ彼のオコマサマの如く、男女の愛情其の他の祈願にて、このカクラサマに参詣したり等の話を聞きたることなし。」』を引き、佐々木の素朴な不審を示された後、『しかし』、伊能嘉矩(いのうかのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年:遠野出身の人類学者・民俗学者。特に台湾原住民の研究では台湾総督府雇員となって「台湾蕃人事情」(明治三三(一九〇〇)年台湾総督府民政部文書課刊。粟野伝之丞との共著)等の膨大な成果を残した。明治三九(一九〇六)年に本土に戻ってからは、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになり、「上閉伊郡志」「岩手県史」「遠野夜話」等を著し、その研究を通じて柳田國男と交流を持つようにもなり、郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の「遠野物語」成立に影響を与えた。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。ここはウィキの「伊能嘉矩」に拠った)の「遠野のくさぐさ」では『「積善寺境内に当たる所に一溝ありて、大鶴堰と云ふ。蓋し大鶴(タイカク)はオカクの転にて、オカクラサマの略さられに非じか。即ちこゝにオカクラサマの鎮まりしより、土名となりけんことうつなし。」』(「うつなし」は上代からの形容詞で「疑いない・確かだ」の意)とあるとする。「堰」であり、「鎮」である。ピンとくるこられる方も多いであろうが、これは橋に見られる人柱なのではないか、と思いつつ、dostoev氏の記事を読み続けると(引用が長くなるので諸検証部を中略して結論部だけを繫げておくので必ずリンク先を全文読まれたい)、『カクラサマが男女二対となっているのは、もしかして』『理不尽の元に死んでいった男女二人を祀った可能性があるかもしれない。ただし、その多くが罪人であった可能性は、カクラサマが紐によって結ばれ引き回されるという市中引き回しの刑を想起させる事である』とし、遠野のカクラサマへの特異な対応は、まさに『オシラサマが屋内で祀られ毎年恒例のオシラアソベやらオセンダクをされるのと対局で、触らぬ神に祟り無し』とする対象が『カクラサマで』あったからに他ならななかったからではないか?』と述べられた上、『ただカクラサマに触れ』得『るのは、神の子の内である子供達だけであった』のであり、『それはつまり、カクラサマとされた神は、罪人として川に鎮められた人柱では無かった』『だろうか』と結んでおられる。非常に肯んずることの出来る論考と思う。なお、柳田國男はこの四年後の大正三(一九一四)年八月発行の『郷土研究』(第二巻第六号)に「子安地蔵」という短い論考を発表しており、そこで本邦の各地に伝わる仏像虐待の風習に言及しているが、そこで、このカクラサマを引き合いの初めとして、以下のように述べている(底本は「ちくま文庫」版全集を用いたが、ルビは一部を略した)。

   *

 我々の地蔵は子供がお好きで大人には存外厳格である。『南路志続篇稿草』巻二十三に採録したる怪談抄の中に、土州山内家家中乾(いぬい)氏の表石垣の辺の一所、物なくして人のよく蹶(つまず)く所あり。ある年の夏の門涼(かどすずみ)のとき、若党ここにて仮睡してありし夢に、僧来たりて連夕[やぶちゃん注:「れんゆう」。]告げるところあり。これによりて地を掘り見るに、平石に地蔵の半身彫りたるが石垣の内にあり。すなわち浄洗して小丁稚(でっち)に命じて常通寺へやりしが、この子供中途地蔵の包薦(つつみこも)に縄を附けて引摺(ひきず)り行く。傍輩の中間途中にて出会いこれを戒め自ら肩に担わんとすれば、両足しびれ歩行ならず。再び小者(こもの)に渡しければまた縄を附けて行きけり。その中問屋敷へ帰るや否(いなや)、俄かに発熱して譫言(うわごと)をいうよう、せっかく丁椎に引張られて面白く思いしに、無用の誡(いましめ)を与えしゆえ祟るぞとの仰せなり。すなわちかの丁稚に頼み深く詫びければ無事になれり。その地蔵は今も常通寺(高知)にありという。この話を見た人はあるいは思い出されるかも知らぬ。以前佐々木君の「遠野雑記」の中に(人琴学雑誌二八巻四号)遠野のカクラサマは野天にありて、夏は子供らのために舟の用を勤めて川に浮かび、冬はまた橇(そり)に代用せられて走らせらる。しかもこれを悦びてこれを叱る大人に対しては機嫌よからず。土淵村字大洞の野中のカクラサマなどは、かくして子供等のために川に流され、今は台石と松の木のみあり。この神は諸々の神たちの道中したまうときの休場の神なりという(以上)。奥州のカクラサマは路傍の神には珍らしい木像である。しかとは判らぬが円頂の御姿であった。地蔵の一族でないまでも、その外戚の道祖神とは縁が近そうだ。『駿河新風土記』に、今の安倍郡豊田村大字曲金の軍陣坊社、これも路傍の荒神である。この社の神体は常に子供の弄び物となり、これを叱った老人に祟のあったこと、その書物のできた弘化年中[やぶちゃん注:一八四五年~一八四八年。但し、後で示す通り、完成はそれより前。]よりさらに六七十年前の事実だと言い、またほど近い不二見村大字北矢部の十八祖社の神体たる烏帽子・直衣(のうし)の木像にも、同じ出来事があったと記してある。遠江では小笠郡大池村、東光寺の薬師堂の古い木像についても同じ伝説のあること、これは『掛川志』に見えている。『信濃奇勝録』巻一には、西筑摩郡の射手の弥陀堂の本尊の木像、五体すでに完(まった)からず。春分の日児童小弓にてこれを射る。この日醴(あまざけ)を造り児童をもてなす。木像平日は菰の上に置く。縄にて樹上につるしなどすとある。これも同じ例である。

 仏像虐待の慣習はいかにも不審な話であるが、晴雨を禱(いの)りないしは瘧(おこり)を落す目的をもって、これを行うという例今も稀ではない。それがまた石地蔵に多いようである。化地蔵、切られ地蔵の類に至っては、ほとんと言語道断の冷遇であって、何のために菩薩としておくのか判らぬくらいである。しかしそれにもしかるべき中世的理由があったのであろう。我々はそれを忘れた。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「現在の静岡県掛川市下俣の曹洞宗醫王山東光寺であろう。前身の創建は養老年間(七二〇年代)で行基菩薩の開基とし、元は真言宗。本尊薬師如来は平将門の念持仏であり、「天慶の乱」(九四〇年)の後、将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、醫王山平将寺を建立(一五三〇年代)、後に曹洞宗に改宗し、東光寺と改称している。将門である。御霊のチャンピオンの一人ではないか。

「掛川志」「掛川誌稾(こう)」掛川藩主太田資順(すけのぶ)が藩政資料とするために文化二(一八〇五)年に藩士斎田茂先(さいだしげとき)・山本忠英(ただふさ)に編纂させた藩領地誌。全十五巻。

「駿河安倍郡豐田村曲金の軍陣坊社の神」現在の静岡市駿河区曲金にある軍神社(ぐんじんじゃ)。個人ブログ「神が宿るところ」の「軍神社」に、『社伝によれば』、延暦二〇(八〇一)年、『桓武天皇の命を受け』、『坂上田村麻呂が蝦夷を平定したことを記念して創建されたという。一説には、日本武尊が東国平定を祈願して創建されたともいう。祭神は武甕槌命(タケミカヅチ)。かつては、隣接する曹洞宗の寺院「仏国山 法蔵寺」と一体で、祭神は摩利支天とされており、今川氏以来、武家の信仰を受けた。なお、祭神については、武甕槌命と経津主命(フツヌシ)の』二『神とするともいわれるが、一方でこの2神は同一とする説がある(これは当神社に限ったことではなく、フツヌシはタケミカヅチの別名であるとする説があることによる。)。タケミカヅチは「鹿島神宮」(常陸国一宮)、フツヌシは「香取神宮」(下総国一宮)の祭神で、どちらも武神とされて、武家の信仰を集めた』。『ところで、当神社は、かつては「軍人坊」と称されていた。「坊」という言葉には、僧侶の住む場所(僧坊)という意味もあるが、奈良・平安時代には』四町(約四三六メートル)『四方に区切られた方形の行政区画を意味した。元は、ここに有度軍団が置かれ、軍人が集まる場所ということで「軍人坊」と称したのではないかとされている。当神社の北側を古代東海道が通過しており』、『この付近では、古代東海道は近世東海道とほぼ重なっており、近世東海道は当神社の少し西側からカーヴして横田見附~府中宿に向かった。こうしたことから、駿河国府の東側入口の警備を固めていた場所ではないかと考えられる。なお、「グン」の音から、ここを「有度郡家」所在地とする説もある』(有度(うど)郡は「大化の改新」(六四六年)の後に七つの郡に分けられた駿河国の一つ。その郡司家のことであろう)。『さて、当神社には次のような昔話が伝えられている。即ち、村の悪童らが軍神社の神像を持ち出し、首に縄をかけて道に引き回して遊んでいたのを、村の老人が見咎め、神像を洗い清めて社に戻した。ところが、その夜、その老人が病気になって神懸り、「子供らと楽しく遊んでいたのに、なぜ邪魔をしたのか。」とうわ言をいうようになった。驚いた家族が神に謝罪すると、老人は回復したという。実は、似たような話は他所にもあるが、子供に悪戯されるのは地蔵菩薩であることが多い(地蔵菩薩は子供の守り神と考えられたため。)。そして、当神社のこの昔話では、「神像」と言っているので、神仏混淆後に作られた話ということになる(神像が作られるようになるのは、仏教の影響であり、本地垂迹説の影響で僧形の神像等も多数作られた。)。昔話と言っても案外新しく、せいぜい江戸時代頃に僧侶が作った話ではないか、とも思われる』とある。戦で死んだ勇ましい武人とは御霊の典型である。

「新風土記」「駿河国新風土記」か。新庄道雄(通称三階屋甚右衛門。駿府江川町で宿屋を営んでいた町人であるが、好学の士で、三十代半ばで「駿河大地誌」の編纂者の一人に選ばれており(同書自体は頓挫)、平田篤胤の門人でもあった)が文化一三(一八一六)年から天保五(一八三四)年にかけて記した全二十五巻の駿河地誌。

「信濃筑摩郡射手の彌陀堂の木佛」先の柳田の「子安地蔵」には『西筑摩郡の射手の弥陀堂』とあり、西筑摩郡は現在の木曽郡であるが、「射手」の地名が見当たらない。識者の御教授を乞う。以下の「信濃奇勝録」巻一にあるとするのも、国立国会図書館デジタルコレクションの画像でざっと見てみたが、探し方が悪いのか、見当たらない。

「信濃奇勝錄」江戸末期の信濃国佐久郡臼田町(現在は長野県佐久市内)の神官であった井出道貞(いでみちさだ)が信濃国各地を十数年に亙って実地踏査を重ね、その見分した成果を記録した地誌。全五巻。]

 

七三 カクラサマの木像は遠野鄕のうちに數多(アマタ)あり。栃内の字西内(ニシナイ)にもあり。山口分の大洞(オホホラ)と云ふ所にもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人の之を信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳(イシヤウ)頭(カシラ)の飾[やぶちゃん注:「かざり」。]の有樣も不分明なり。 

 

七四 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。何れのカクラサマも木の半身像にてなた[やぶちゃん注:鉈。]の荒削(アラケヅ)りの無恰好[やぶちゃん注:「ぶかつこう」。]なるもの也。されど人の顏なりと云ふことだけは分(ワカ)るなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其地に常[やぶちゃん注:「つね」。]います神をかく唱ふることゝなれり。

[やぶちゃん注:「荒削りの無恰好なるもの也。されど人の顏なりと云ふことだけは分るなり」鉈彫りの木端のような木仏……これは或いは円空の彫ったものではなかったか? 私は円空がハンセン病患者であったのではないかという仮説を支持するものであるが、それに気づいた遠野の民が彼を追い払った、追い払ったが、その残された素朴な木仏を見て、後悔とまでは言わずとも、内心、忸怩たるものを残した、その結果、こうした伝承が生まれたと考えるのは突飛ではないと思う。野に埋もれた円空仏は沢山ある。知られた円空でなくてものよい。他にも幾多の最早、名の知れぬ行脚僧は無数に漂泊し、仏像を彫った。凡そ円空と祟りは結びつかぬが、子どもと円空は如何にも親和性がある。]

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