佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六九~七一 「おひで」ばあさまの話(オシラサマ他)
六九 今の土淵村には大同(ダイドウ)と云ふ家二軒あり。山口の大同は當主を大洞萬之亟(オホホラマンノジヤウ)と云ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姊なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止(トマ)れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。昨年の舊曆正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある處に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜(ヨル)になれば厩舍(ウマヤ)に行きて寢(イ)ね、終に馬と夫婦になれり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連(ツ)れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父は之を惡(ニク)みて斧をもつて後(ウシロ)より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乘りたるまゝ天に昇り去れり。オシラサマと云ふはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき。本(モト)にて作りしは山口の大同にあり。之を姊神とす。中にて作りしは山崎の在家(ザイケ)權十郞と云ふ人の家に在り。佐々木氏の伯母が緣付きたる家なるが、今は家絕えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありと云へり。
[やぶちゃん注:後の佐々木喜善の「聴耳草紙」(昭和六(一九三一)年)の「一一五番 オシラ神」には、本条では概ねカットされてしまっている後日談の附随した同一人物の語ったものが載っており(底本は「ちくま文庫」版)、
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一一五番 オシラ神
昔、ある所に百姓の爺様婆様があって、美しい娘を一人持っていた。そしてまた厩舎には一匹の葦毛の馬を飼っていた。その娘が年頃になると、毎日毎日厩舎の木戸木にもたれて、何かしきりに話をしていたったが[やぶちゃん注:ママ。]、とうとうその馬と夫婦になった。
父親はひどく怒って、ある日その馬を曳き出して、山畠へ連れて行って、大きな桑の木の枝につるし上げて責め殺した。そして生皮を剥いでいるところへ娘が来て見て泣いていた。するとその生皮が、父親に剥ぎ上げられると、そばで見ていた娘の体の方へ行ってぐるぐると巻きついて、天へ飛んで行った。
爺様婆様は家で娘のことを案じて毎日毎夜泣いていた。するとある夜娘が夢に見えて、父も母も決して泣いてくれるな。オレは生れようが悪くて仕方がないので、ああした態(ざま)になったのだから、どうかオレのことはあきらめてクナさい。その代り春三月の十六日の朝間、夜明けに土間(にわ)の臼の中を見てケテがんせ。日の中に不思議な馬頭の形をした虫が、ずツばり(多数)湧いているから、それを葦毛(あしげ)を殺した桑の木から葉を採って来て飼っておくと、その虫が絹糸をこしらえますから、お前達はそれを売って生活してケテがんせ。それはトトコ(蚕)という虫で世の宝物だからと言った。そう聞いて両親は夢から覚めた。
爺様婆様は不思議な夢もあればあるものだと思っていたが、三月の十六日の朝間になったから、早く起きて土間の日の中を覗いて見ると夢で見た通りの馬の頭の形をした虫が多く湧いていた。そこで山岳へ行って桑の木の葉を採って来てかけると、よく食って繭をかけた。
これが今の蚕の始まりであるという。そうして馬と娘は今のオシラ様という神様になった。それだからオシラ様は馬頭(うまがしら)と姫頭との二体がある。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]
(私の稚い時聴いた記憶、村の大洞お秀婆様という巫女婆様がことの外私を可愛(めご)がって、春の野に蓮華などを摘みに私を連れ出して、こんな話を多く語って聴かしてくれた。この婆様から他の多くの呪詛の文句やカクシ念仏の話を聴かされた。この人は私を育ててくれた祖母の姉である。)[やぶちゃん注:「カクシ念仏」隠し念仏。主に東北地方で広まった秘密宗教的な浄土真宗及び真言宗の異端である秘事法門の一つ。信徒たちは自ら「御内法(ごないほう)」と呼ぶが、世間からは「御庫(おくら)念仏」「庫法門(くらほうもん)」「土蔵秘事」などと呼ばれる。「西の隠れキリシタン」に対して「東の隠し念仏」とさえ言われた。もと、室町時代に東北地方に行われていた密教系の念仏が、江戸幕府の宗教政策の下、寺院本末化や檀家制度に当たり、浄土真宗の傘下に入るのを得策として、表面上は密教色を去り、真宗の教義による外見を装い、内では秘密念仏的性格を堅持し続けたもの。岩手県で現在行われているものは、真宗と新義真言宗との習合したものと見られている。この佐々木の祖母の姉「大洞お秀婆様」は「隠し念仏宗」の信者・呪術師であったことが後の「七一」で判明する。]
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それを読むと、一見、本伝承は全く以って中国の蚕馬(さんば)・蚕女(さんじょ)・馬頭娘(ばとうじょう)等の古伝承のマンマの翻案のように見える。この中国の神話は「柳田國男 うつぼ舟の話 三」や「柳田國男 炭燒小五郞が事 五」の私の注で説明しているのでそちらや、或いは手っ取り早く纏めて読むなら、ウィキの「蚕馬」を参照されたいが、私は個人的には馬と娘の異類婚姻譚が中国と日本とで共時的に発生し、蚕と馬の相似形で後付けされた「養蚕創造神話」としての共通はあるものの、全体は一種の平行進化ではないかという考えを捨てきれないでいる。さらに言えば、本「遠野物語」の条は、父百姓が「妻は無くて美しき娘あり」という設定(エレクトラ・コンプレクスを匂わせる)、娘と馬との関係を知ったその父が馬を「つり下げて殺した」にも拘わらず、娘が「死したる馬の首に縋りて泣」いたのを見て、「父は」さらに激情して「之を惡(ニク)み」、その死んだ馬の「首」を「斧をもつて後(ウシロ)」から「馬の首を切り落」すシークエンス(エディプス・コンプレクスに於ける男根切除の象徴である)はフロイトならずとも痛く気になるのである。しかも貧しい百姓が食い扶持だけで雇った若者を「馬」と捉えるより、実際には婚姻する「娘」には兄弟がおり、馬はその父によって「馬」のように酷使され、遂には殺される(フロイトの「父親殺し」の反転設定)肉親の若者の隠蔽されたシンボルなのではないかと考える方が判り易い。開闢・人創世の始まりには近親相姦が当たり前で、それがまた連続されることで繁栄するという多重的構造は、寧ろ、神話では汎世界的に当然の設定であることは言を俟たない。インセスト・タブーの変形道義譚としてこれらを見ることは凡そ無理がないと私は考えている。]
七〇 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマの在る家には必ず伴ひて在(イマ)す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみ在る家もあり。又家によりて神の像も同じからず。山口の大同に在るオクナイサマは木像なり。山口の辷石(ハネイシ)たにえと云ふ人の家なるは掛軸(カケヂク)なり。田圃(タンボ)のうちにいませるは亦木像なり。飯豐(イヒデ)の大同にもオシラサマは無けれどオクナイサマのみはいませりと云ふ。
[やぶちゃん注:「九」から「一六」の「オクサイサマ」・「オシラサマ」・「コンセイサマ」の叙述とを並べて把握する必要がある。]
七一 此話をしたる老女は熱心なる念佛者なれど、世の常の念佛者とは樣(サマ)かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を傳ふることはあれども、互に嚴重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊かたりとも知らしめず。又寺とも僧とも少しも關係はなくて、在家(ザイケ)の者のみの集(アツマ)りなり。其人の數も多からず。辷石(ハネイシ)たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿彌陀佛の齋日(サイニチ)には、夜中人の靜まるを待ちて會合し、隱れたる室にて祈禱す。魔法まじなひを善くする故に、鄕黨に對して一種の權威あり。
[やぶちゃん注:「六九」の私の注の中で述べた「カクシ念仏」を参照。
「阿彌陀佛の齋日(サイニチ)」(旧暦の)毎十五日。]
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