佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五四 神女
五四 閉伊川(ヘイガハ)の流(ナガレ)には淵(フチ)多く恐ろしき傳說少なからず。小國川との落合に近きところに、川井と云ふ村あり【○下閉伊郡川井村大字川井、川井は勿論川合の義なるべし[やぶちゃん注:ウィキの「遠野物語」の「閉伊川の機織淵」に位置が地図で示されてある。]】。其村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取落(トリオト)したり。主人の物なれば淵に入りてこれを探(サグ)りしに、水の底に入るまゝに物音聞ゆ。之を求めて行くに岩の陰に家あり。奧の方に美しき娘機(ハタ)を織りて居(ヰ)たり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。之を返したまはらんと言ふ時、振り返りたる女の顏を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我が此所(コノトコロ)にあることを人に言ふな。其禮としてはその方身上(シンシヤウ)良(ヨ)くなり、奉公をせずともすむやうにして遣らんと言ひたり。その爲なるか否かは知らず、其後胴引(ドウビキ)など云ふ博奕(バクチ)に不思議に勝ち續(ツヾ)けて金(カネ)溜(タマ)り、程なく奉公をやめ家に引込みて中(チウグラヰ)の農民になりたれど、此男は疾(ト)くに物忘れして、此娘の言ひしことも心付かずしてありしに、或日同じ淵(フチ)の邊(ホトリ)を過(ス)ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴(トモナ)へる者に以前かゝることありきと語りしかば、やがて其噂は近鄕に傳はりぬ。其頃より男は家産再び傾(カタム)き、又昔の主人に奉公して年を經たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷(ナンガ)とも無く熱湯を注(ソヽ)ぎ入れなどしたりしが、何の效もなかりしとのことなり。
[やぶちゃん注:本条については、三浦佑之氏の論考「機織淵-『 遠野物語 』 第五四話をめぐって-」(『遠野常民』第八十三号・遠野常民大学(一九九九年二月・講演一九九八年十月)が必見。最後の主人(娘の父)の行為がよくわからないが、三浦氏は『考えられるのは、たとえば、遠野は冬になると寒いですから水が凍るし、そうすると「ちょっと熱湯でも入れて温かくしてやって娘を居心地良くしてやろうか」と思っているのかな、というふうにもとれますよね。あるいは、「この噂は家にとってはとても良くない噂である。何とか娘を亡き者にしよう」と思って、熱湯を注ぎ込んで殺してしまおうとしている惨い父親だ、とも考えられないわけでもない。そうだとしても、そんな淵にいくら熱湯を注ぎ込んだって何の役にも立たないというのは誰が見てもわかるわけで、温度は上がりそうもないですし、ましてや熱湯で娘を消してしまうことなどとてもできそうもないですね』。『そういう父の狂気、それはおそらく家の問題、家によくない噂が立って困る、噂を消したいという父親の一種の狂気といったものが、そういう考えられないような行動を父親にとらせているんだろう、というふうに考えられるわけです。ただしその結論については、私にはなんとも、どう考えていいのかわからないところがありま』す、と述べておられる。ここにはこの淵で入水したと思われる娘の背景に何とも言えない暗い影がある。古来、機織りは妻となった者の、最初に行わねばならない絶対の神聖な行為でもあったからである。
「ハタシ」小学館「日本国語大辞典」によれば、岩手県採取で機織り機・機織り台とある。しかし、何か不審な気がする。織りの糸が截たれれば、総て台無しになる。にも拘らず、何故、それを大事な機織りに立て掛けて置いたのだろう? これが既に本話の最後の、約束を破ることで世界が元に戻ってしまうことを既に暗示しているもののようにも思われる。
「胴引(ドウビキ)」「手本引(てほんび)きのことと思われる。親(これを「胴(どう)」「胴元」「胴師」「胴親」「胴頭(どがしら)」「札師」とも呼ばれる』。『元来、胴は筒という字で書かれ、これはサイコロを入れる筒に由来するが、親が軍資金を腹巻きに入れていたことから、胴の字が当てられるようになった』)が一から六までを『図案化した』六『枚の札の中から自らの意志で』一『枚を選び出し、子は』一『点から』四『点張りのいずれかの賭け方で親が選んだ札を推理して勝負に挑む』。一『点張りは当たる確率が低くなるだけに配当が高く』、四『点張りは確率が高くなるだけに配当が低くなっている。 人数制限は特になく』、十五『人程度の多人数が同時に参加することができ、ひと勝負は』二『分前後の短時間で決着する。任意のタイミングで参加退出が可能なことから、不特定多数が出入りする賭場の都合に適っていた。「ホンビキ」「失地(しっち)」「釣り」とも呼ばれる』。一『人の親に対して複数の子が賭けを行うところは追丁株(おいちょかぶ)と似ているが、偶然性よりも過去の推移や相手の性格や癖(キズ)を読むといった心理戦の攻防に主眼が置かれる。その興奮や恍惚感から、手本引きを知ると』、『他のギャンブルがつまらなくなると言う人も多く、丁半やアトサキ(バッタ撒き/ジャンガー)などの賭博よりも格上とされ、日本における「究極のギャンブル」「博奕の華」「賭博の終着駅」と称賛される』とある。詳しくは参照引用したウィキの「手本引き」を参照されたい。]
« 和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶲(ひたき) (コサメビタキ?・キビタキ?・ルリビタキ?) | トップページ | 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五五~五九 河童 »