佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 九~一六 山中の怪・尊属殺人・老話者・オクナイサマ・オシラサマ・コンセイサマ
九 菊池彌之助と云ふ老人は若きころ駄賃(ダチン)を業とせり[やぶちゃん注:「駄賃」とは駄馬を用いた運送業。]。笛の名人にて夜通(ヨドホ)しに馬を追ひて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜(ウスヅキヨ)に、あまたの仲間の者と共に濱へ越ゆる境木峠を行くとて、又笛を取り出して吹きすさみつゝ、大谷地(オホヤチ)【○ヤチはアイヌ語にて濕地の義なり内地に多くある地名なり又ヤツともヤトともヤとも云ふ】と云ふ所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺(シラカンバ)の林しげく、其下は葦(あし)など生じ濕(シメ)りたる澤なり。此時谷の底より何者か高き聲にて面白いぞーと呼はる者あり。一同悉く色を失ひ遁げ走りたりと云へり。
[やぶちゃん注:これは空気の逆転層による遠方の音がごく近くに聴こえる現象で説明がつくかも知れない。私は何度も下界を離れた高山で、遙か下界の町のざわめきを聴いた経験がある。概ね、天候が悪化する兆しででもあったので記憶が鮮明である。]
一〇 此男ある奧山に入り、茸(キノコ)を採るとて小屋を掛け宿(トマ)りてありしに、深夜に遠きところにてきやーと云ふ女の叫び聲聞え胸を轟かしたる[やぶちゃん注:「とどろかしたる」。]ことあり。里へ歸りて見れば、其同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子(ムスコ)の爲に殺されてありき。
[やぶちゃん注:その殺人事件の一部始終が次で語られるという配置がリアルに凄い。]
一一 此女と云ふは母一人子一人の家なりしに、嫁(ヨメ)と姑(シウト)との仲惡しくなり、嫁は屢(シバシバ)親里へ行きて歸り來ざることあり。其日は嫁は家にありて打臥して居りしに、晝の頃になり突然と忰(セガレ)の云ふには、ガガ【○ガガは方言にて母といふことなり】はとても生(イカ)しては置かれぬ、今日(ケフ)はきつと殺すべしとて、大なる草苅鎌を取り出し、ごしごしと磨(ト)ぎ始めたり。その有樣更に戲言(タハムレゴト)とも見えざれば、母は樣々に事を分(ワ)けて詫(ワ)びたれども少しも聽かず。嫁も起出でゝ泣きながら諫(イサ)めたれど、露(ツユ)從(シタガ)ふ色もなく、やがて母が遁(ノガ)れ出でんとする樣子(ヤウシ)あるを見て、前後の戶口を悉く鎖(トザ)したり。便用に行きたしと言へば、おのれ自ら外より便器を持ち來たりて此(これ)へせよと云ふ。夕方にもなりしかば母も(ツヒ)にあきらめて、大なる圍爐裡(イロリ)の側(カタハラ)にうづくまり只泣きて居たり。忰(セガレ)はよくよく磨(ト)ぎたる大鎌を手にして近より來り、先づ左の肩口を目掛けて薙(ナ)ぐやうにすれば、鎌の刃先(ハサキ)爐(ロ)の上(ウヘ)の火棚(ヒダナ)に引掛(ヒツカ)かりてよく斬(キ)れず。其時に母は深山の奧にて彌之助が聞きつけしやうなる叫聲[やぶちゃん注:「さけびごゑ」。]を立てたり。二度目には右の肩より切(キ)り下(サ)げたるが、此にても猶死絕(シニタ)えずしてある所へ、里人等(サトビトラ)驚きて馳付(ハセツ)け忰を取抑(トリオサ)へ直に警察官を呼(ヨ)びて渡(ワタ)したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕(トラ)えられ引き立てられて行くを見て、瀧のように血の流るゝ中より、おのれは恨も抱(イダ)かずに死ぬるなれば、孫四郞は宥(ユル)したまはれと言ふ。之を聞きて心を動(ウゴ)かさぬ者は無かりき。孫四郞は途中にても其鎌を振上げて巡査を追ひ𢌞しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に歸り、今も生きて里に在り。
一二 土淵村山口に新田乙藏(ニツタオトザウ)と云ふ老人あり。村の人は乙爺(オトヂイ)と云ふ。今は九十に近く病みてまさに死(シナ)んとす。年頃遠野鄕の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のやうに言へど、あまり臭(クサ)ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。處々(トコロドコロ)の館(タテ)の主(ヌシ)の傳記、家々(イヘイヘ)の盛衰、昔よりこの鄕(ゴウ)に行(オコナ)はれし歌の數々を始めとして、深山の傳說又は其奧に住める人々の物語など、此老人最もよく知れり。
【○惜むべし乙爺は明治四十二年[やぶちゃん注:一九〇九年。本書刊行の前年。]の夏の始になくなりたり】
一三 此老人は數十年の間山の中に獨(ヒトリ)にて住みし人なり。よき家柄なれど、若き頃財産を傾け失ひてより、世の中に思ひを絕(タ)ち、峠の上に小屋(コヤ)を掛け、甘酒(アマザケ)を往來(ワウライ)の人に賣りて活計[やぶちゃん注:「たつき」と読みたい。]とす。駄賃(ダチン)の徒(ト)はこの翁を父親(チヽオヤ)のやうに思ひて、親(シタ)しみたり。少しく收入の餘(アマリ)あれば、町に下(クダ)り來て酒を飮む。赤毛布(アカゲツト)にて作りたる半纏(ハンテン)を着て、赤き頭巾(ヅキン)を被(カブ)り、醉へば、町の中を躍りて歸るに巡査もとがめず。愈(イヨイヨ)老衰して後、舊里(キウリ)に歸りあはれなる暮(クラ)しを爲せり。子供はすべて北海道へ行き、翁唯一人也。
[やぶちゃん注:「赤毛布(アカゲツト)」「ゲツト」は「ゲット」で「毛布」英語「blanket」のカタカナ音写「ブランケット」の略。なお、明治初期、東京などの都会見物に来た田舎からの旅行者が多く赤い毛布を羽織っていたことから、当時はこの語が都市部では専ら「お上りさん」(或いは「旅慣れていない洋行者」にも使用された)を指すようになっていた。]
一四 部落(ブラク)には必ず一戶の舊家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀(マツ)る。其家をば大同(ダイドウ)と云ふ。此神の像(ザウ)は桑(クハ)の木を削(ケヅ)りて顏(カホ)を描(ヱガ)き、四角なる布(ヌノ)の眞中(マンナカ)に穴を明(ア)け、之を上(ウヘ)より通(トホ)して衣裳とす。正月の十五日には小字中(コアザヂウ)の人々この家に集り來りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦同じやうにして造り設(マウ)け、これも正月の十五日に里人(サトビト)集りて之を祭る。其式には白粉(オシロイ[やぶちゃん注:ママ。])を神像の顏に塗ることあり。大同の家には必ず疊(タヽミ)一帖の室(シツ)あり。この部屋(ヘヤ)にて夜(ヨル)寢(ネ)る者はいつも不思議に遭(ア)ふ。枕(マクラ)を反(カヘ)すなどは常のことなり。或は誰かに抱起(ダキオコ)され、又は室より突(ツ)き出(イダ)さるゝこともあり。凡そ靜かに眠ることを許さぬなり。
【○オシラサマは雙神なりアイヌの中にも此神あること蝦夷風俗彙纂に見ゆ】
【○羽後苅和野の町にて市の神の神體なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり之と似たる例なり】
[やぶちゃん注:「オクナイサマ」は恐らく「屋内様」「奥内様」で、地憑きの家霊神のように思われる。祖霊も習合しているかも知れないが、単純な祖霊(祖先)崇拝とは異なるような感じがする。但し、dostoev 氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語70(オクナイサマ)」』には、『オクナイサマは、形がオシラサマと似通っている棒状のものと、そうでないものがある。また、オクナイサマはオコナイサマとも云われている。佐々木喜善』の『「遠野のザシキワラシとオシラサ」では、山形のオコナイサマとは「御宮内様」の事であると記している。その山形の御宮内様とは、宮内の者が』六『尺の竿で検地をした筈が、実は』六尺三寸『の竿であった為、削られると思った土地が助かった農民達が喜びの余り、その』六尺三寸『の竿を細切れにして、各家で神として祀ったのがオコナイサマであると。しかしそれは、紛れもないオシラサマであろうとしている』(この「宮内」は恐らくは地名で、現在の山形県南部の米沢盆地北部に位置する南陽市の中心市街地で、その旧町名である。吉野川の谷口に位置し、熊野神社の門前町として発達し、中世には大津氏が居城、慶長年間 (一五九六年~一六一五年) 以降は米沢に次ぐ中心地として発達した)。『しかし「オコナイ」という言葉は、かなり古くからあり、「日本書紀(天智天皇記)」に「吉野に之りて、修行佛道(オコナイ)せむと講したまふ。」記しているが、元々オコナイとは仏教の行法一般を意味する言葉であった。恐らく、その行法に対して偶像が組み込まれ、その偶像が屋内で祀られた事からオクナイサマとも呼ぶようになったのではなかろうか。キリスト教もそうだが、偶像崇拝禁止でありながら異民族にキリスト教を布教する場合、形が無いと信仰心が生じない為に、イエス・キリストと一体になった十字架などを偶像とした。オコナイサマ・オクナイサマも、初めに信仰が入り込んで、それに合わせた偶像が設定された為に、棒状のオシラサマ型であったり、仏像型になったのではなかろうか。そしてまた掛軸型があるのはやはり、オクナイサマそのものが行法を主体とした言葉であった為に、いかに日々信心するかを重要視したので、神像』や仏像或いは掛軸であって『も問題は無かったのだろう』と述べておられる。俄かには賛同出来ないが、佐々木の如何にも現実的な解釈に比すと、遙かに興味深い仮説ではある。
「オシラサマ」東北地方に分布する家の神の信仰。茨城県などにもなくはないが、青森・岩手・宮城県北部などにことに濃厚である。「オシンメ様」(福島県)・「オコナイ様」(山形県)などとも称される。多くは桑の木に男女とか馬の顔を彫刻した長さ三十センチメートルほどのものを布裂れで幾重にも覆ってある。「貫頭型」と布を頭からかぶせた「包頭型」とがある。通常は神棚の祠(ほこら)に納めておくが、春秋の祭日に出して、神饌を供え、供養し、また「オシラアソバセ」をする。祭日は一月・三月・九月の十六日である。昔は同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたらしく、本家の老婆が祭文を読んだり、女の子が「オシラサマ」を背負って遊ばせたりもした。これを「オシラホロキ」とか「オシラアソバセ」とも称し、「イタコ」が参与して行う場合も多い。「金満長者」「せんだん栗毛」などの祭文を語りながら、「オシラサマ」を、一対、両手にとって打ち振り、神がかり風(トランス状態)になってお託宣をしたりもした(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「アイヌの中にも此神あること」私は昔からアイヌのイナウ(それは極東北方の少数民族の祭具や神道の御幣とも酷似する)とオシラサマには親和性があると思っている。陽物崇拝のシンボルそのものとも言え、豊饒神であるとも言える。
「蝦夷風俗彙纂」肥塚貴正編纂。前・後編。明治一五(一八八二)年刊。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらにある。
「羽後苅和野」現在の秋田県大仙市刈和野附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
「枕を反す」私の「佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事」をリンクさせておく。もうお気づきの方も多いであろうが、そこの引用に佐々木喜善の話をも引くように、妖怪或いは怪奇現象としての「枕返し」は、東北地方では座敷童子(ざしきわらし)の悪戯とされることが多いのである。]
一五 オクナイサマを祭れば幸(サイハヒ)多し。土淵村大字柏崎(カシハザキ)の長者阿部氏、村にては田圃(タンボ)の家(ウチ)と云ふ。此家にて或年田植(タウエ)の人手(ヒトデ)足(タ)らず、明日(アス)は空(ソラ)も恠(アヤ)しきに、僅(ワヅカ)ばかりの田を植え殘すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方(イヅチ)よりともなく丈低(タケヒク)き小僧(コザウ)一人來たりて、おのれも手傳ひ申さんと云ふに任(マカ)せて働(ハタラ)かせて置きしに、午飯時(ヒルメシドキ)に飯(メシ)を食はせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び歸りきて終日、代(シロ)を搔(カ)きよく働きて呉(く)れしかば、その日に植ゑはてたり。どこの人かは知らぬが、晚には來て物を食(ク)いひたまへと誘(サソ)ひしが、日暮れて又其影(カゲ)見えず。家に歸りて見れば、椽側(エンガハ[やぶちゃん注:ママ。後注参照。])に小さき泥(ドロ)の足跡(アシアト)あまたありて、段々に座敷に入り、オクナイサマの神棚(カミダナ)のところに止(トヾマ)りてありしかば、さてはと思ひて其扉(トビラ)を開き見れば、神像の腰より下は田の泥(ドロ)にまみれていませし由。
[やぶちゃん注:「椽側」「椽」は本来は「たるき(垂木)」の意であるが、芥川龍之介を始めとして、明治・大正期の作家は「緣」の代わりに「椽」を使用する例がすこぶる多く、完全な「緣側」の慣用語として幅を利かせていた。]
一六 コンセサマを祭れる家も少なからず。此神の神體はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石又は木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今は追々とその事少なくなれり。
[やぶちゃん注:「コンセサマ」は「金精様」「金勢様」。豊饒を願う陽物(男根/リンガ)崇拝である。「勢」は古くから男根の別称である。
「オコマサマ」恐らくは一つの表記は「御駒様」であろう。但し、ここで「コンセサマ」とよく似ているという通り、「オコマサマ」と呼ばれる神体は私の見た複数のそれは全くの大きな男根そのものを模していた。雄馬の長大なそれをシンボライズしているともとれるが、私はそれに擬えて意識的に対象の特定形状をずらした「こんせいさま」の転訛であるように思う。ウィキの「遠野物語」には、『コンセサマとは金勢様、あるいは金精様の漢字が充てられる男性器を模った精神で、生命力の象徴に悪霊や邪気を祓う力、あるいは縁結び、子宝、安産祈願などの加護が得られると考えられ信仰されてきた』。『オコマサマは東北地方から関東にかけて馬の守り神として信仰されてきたが、祀られた当初は他の神を祀ったものとする考え方もある』。『多数の駒形神社や馬頭観音の石塔などが存在する遠野で名高い駒形神社は附馬牛の駒形神社であるが、これは中世阿曾沼時代に蒼前駒形明神を祀ったのが初まりとされている』。『この「そうぜん」という言葉はやまとことばには存在せず、駒形神社の宗社である水沢の駒形神社は延喜式神名帳にも記載されている式内社で、原初山の神である水分神を祀ったものであったという』。『こういった伝承により、本来の駒形の神というものは北方より伝来したアイヌ語における山の神と関わりのあるものであったが、奥羽からアイヌの影響力が失われていくと共にその原義を失い、何を信仰していたものかわからなくなったところに、全国有数の馬産地としての必要性から馬の神としての神格が与えられたものと考える説もある』。『いずれにおいても石や木でできた男性器を神体とする点で同じであるが、コンセサマは主として女の神であるの対してオコマサマは馬の神であり、別の神格を有している』。「遠野物語拾遺」の一四・一五・一六話などの話から』窺うに、『佐々木喜善は少なくない』性風俗の絡んだ『伝承を柳田に語ったと考えられるが、柳田の性の民俗に関する伝承の考え方から』、「遠野物語」に『取り上げられた内容は極々概説的なものに限られている』とある。
「オコマサマの社は里に多くあり。石又は木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今は追々とその事少なくなれり」所謂、国家神道による政治的人心掌握の一環として行われた、神仏分離令やそれによるおぞましい廃仏毀釈の嵐の中で邪教淫祠としてヤリ玉に挙げられ、後の一村一社といった神社合祀政策などの流れによって多くが他の旧信仰物(塞の神・庚申塔・道祖神等々)と一緒くたに神社に強引に移されたり、公的神社組織に衣替えさせられた。これらは本来の素朴な信仰形態が概ね失われてしまった古代性器信仰である。無論、現在もどっこい生き残っているものは結構ある。msystem氏のブログの「岩手県内における金勢信仰 ~ 何でこんなに沢山あるの Vol.4」(過去三回分の踏査も読まれたい)を見られたいが、そこでmsystem氏は、柳田國男が佐々木喜善の語った中の具体的な性的内容部分を『編集時に、故意に割愛したと伝わってい』るとされ、『この点に関しては、後に』柳田國男『は、弟子に対して、次のように語っていた』として、「『民俗学は、まだ若い学問である。性の民俗学は、誤解を受けやすく、興味本位と思われるので、書かなかった』」」と述懐したともある(これは私も既に述べた)。同氏は別なブログの「オシラサマについて - オシラサマは「お知らせ様」?」という記載でも、「遠野物語」は佐々木喜善が『収集した民話・昔話を、柳田國男が整理・編集したものになり』、『悪く言えば「パクリ小説」で』あると述べてもおられる。これも私が冒頭注で主張したように、至極、賛同出来る見解である。]
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