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2018/12/27

佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六三・六四 マヨヒガ

 

六三 小國(オグニ)の三浦某と云ふは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍(ロドン)なりき。この妻ある日門(カド)の前(マヘ)を流るる小さき川に沿ひて蕗(フキ)を採(ト)りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奧深く登りたり。さてふと見れば立派なる黑き門(モン)の家あり。訝(イブカ)しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き雞(ニハトリ)多く遊べり。其庭を裏(ウラ)の方へ廻(マハ)れば、牛小屋ありて牛多く居り、馬舍(ウマヤ)ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。終に玄關より上(アガ)りたるに、その次の間には朱と黑との膳椀(ゼンワン)をあまた取出したり。奧の座敷には火鉢(ヒバチ)ありて鐵甁(テツビン)の湯のたぎれるを見たり。されども終に人影は無ければ、もしは山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、驅(カ)け出(ダ)して家に歸りたり。此事を人に語れども實(マコト)と思ふ者も無かりしが、又或日我家のカド【○このカドは門には非ず川にて門前を流るゝ川の岸に水を汲み物を洗ふ爲家ごとに設けたる所なり】に出でゝ物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて來たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、之を食器に用ゐたらば汚(キタナ)しと人に叱(シカ)られんかと思ひ、ケセネギツ【○ケセネは米稗其他の穀物を云ふキツは其穀物を容るる箱なり大小種々のキツあり[やぶちゃん注:食用の穀類を入れる米櫃(こめびつ)の類い。]】の中に置きてケセネを量る器(ウツワ[やぶちゃん注:ママ。])と爲したり。然るに此器にて量り始めてより、いつ迄經(タ)ちてもケセネ盡きず。家の者も之を恠しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由(よし)をば語りぬ。此家はこれより幸運に向ひ、終に今の三浦家と成れり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き當りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ來べきものなり。其人に授(サヅ)けんが爲にかゝる家をば見する也。女が無慾にて何物をも盜み來ざりしが故に、この椀自ら流れて來たりしなるべしと云へり。

 

六四 金澤村(カネサハムラ)【○上閉伊郡金澤村】は白望(シロミ)の麓(フモト)、上閉伊郡の内にても殊に山奧にて、人の往來する者少なし。六七年前此村より栃内村の山崎なる某(ナニガシ)かゝ[やぶちゃん注:「何某嬶」か。]が家に娘の婿を取りたり。この聟實家に行かんとして山路に迷ひ、又このマヨイガに行き當りぬ。家の有樣(アリサマ)、牛馬鷄の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄關に入りしに、膳椀を取出したる室あり。座敷に鐵瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然として後には段々恐ろしくなり、引返して終に小國(ヲグニ)の村里に出でたり。小國にては此話を聞きて實(マコト)とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち來り長者にならんとて、聟殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奧に入り、こゝに門ありきと云ふところに來たれども、眼にかゝるものも無く空(ムナ)しく歸り來たりぬ。その聟も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。

[やぶちゃん注:「某(ナニガシ)かゝ」が「何某嬶」とすれば、或いはこの家は主人が早世した、裕福ではない母子家庭であったと採れる。そこに婿入りした若者となれば、彼は「マヨヒガ」に呼ばれる資格があったのではないか? しかし、山崎の人々(ここに婿入りした家の主人が出てこないのは前の推定を強固にするものと思う)に慫慂されて山崎の人々とともに「マヨヒガ」を求めてしまった結果、そこには辿りつくことは出来ない。そうして、欲を出して人々が一緒であってもなくても、彼は「マヨヒガ」には永遠に行き着くことは出来ないし、若者(婿)の家が裕福になることも、ない。それは、既にして、人々の先頭に立って「マヨヒガ」を目指したその前、人々の語りによって、欲が、この若者の内に独自に芽生えてしまったからであり、それは前話の最後で『女が無慾にて何物をも盜み來ざりしが故に、この椀自ら流れて來たりしなるべし』という謂いと美事な好対照を成すのである。ともかくも、私は「遠野物語」の中で、ブッチギリにこの「マヨヒガ」(迷ひ家)の話が好きだ。一見、似ているように見える中国や本邦の古典的な桃源境や龍宮異界譚とは、何か本質的には異なる、徹底した〈山界の物怪〉であるからである。この怪異は山中に忽然と豪華な屋敷が出現し、さっきまで誰かがいた、今も誰かがいるように感じられる特異的な日常感覚がその家の中には、ある。しかし、異人も何も出現しない(前話には『牛小屋ありて牛多く居り、馬舍(ウマヤ)ありて馬多く』いた動物を出すが、これは特異な日常性をより強固にするための仕儀に過ぎない。その証拠にこの話を読んで、この牛や馬を泉鏡花の「高野聖」の山中の妖女が変身させた人間だなどと読む人はまずなかろうからである。そうした妖魔性を本話が本来的に持っているのであれば、欲を持って探しに行く者は決して帰ってはこないはずだからである)。則ち、〈全く即物的に、あり得ない場所に豪家があり、日常性に満ちていて、しかも誰もいないというランドマーク的怪異〉なのである。これは本邦の怪談の中でも群を抜いてオリジナリティに富んだ優れものであると私は考えている(後世の怪談や随筆では擬似怪談として盗賊集団や差別されたハンセン病患者の家系が山中に住んでいるという話(作話・実話)はゴマンとあるのであるが、それらでは必ずその悪党や主人や娘が登場し、真相が最後に明かされるという、本質的には本話とは源を異にするものである)。体験者(作話者)の原型には物を持てくることで裕福になる、欲がなく、恐れて帰った者には「マヨヒガ」が川を使って不思議な物を贈り届けてくれるというのは、なかったのではなかったか? 怪異の不審を怪異の論理の中で腑に落ちるように後の道学や文芸趣味を持った改変者が付加させたものなのではないかとさえ思っているのである。

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