佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八六~八八 末期の魂の挨拶
八六 土淵村の中央にて役場小學校などのあるところを字[やぶちゃん注:「あざ」。]本宿(モトジク)と云ふ。此所に豆腐屋を業とする政と云ふ者、今三十六七なるべし。此人の父大病にて死なんとする頃、此村と小烏瀨(コガラセ)川を隔てたる字下栃内(シモトチナイ)に普請(フシン)ありて、地固めの堂突(ドウヅキ)を爲す所へ、夕方に政の父獨來りて人々に挨拶し、おれも堂突を爲すべしとて暫時仲間に入りて仕事を爲し、稍暗くなりて皆と共に歸りたり。あとにて人々あの人は大病の筈なるにと少し不思議に思ひしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、其時刻は恰も病人が息を引き取らんとする頃なりき。
[やぶちゃん注:「堂突(ドウヅキ)」所謂、「よいとまけ」の唄で知られる、建築前の地固めの道具。丸太で櫓(やぐら)を拵えて、中へ真棒(心棒)を立て、「それーまけー、よいとまいた。それーまけー、よいとまいた』と掛け声で、全体は十二人ほど、櫓から下ろした一つの繩を三人ずつほどで取りかかって、四方から引いて突き固める。私の『日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受く』を参照。]
八七 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩[やぶちゃん注:「おほわづらひ」。]して命の境に臨みし頃、ある日ふと菩提寺に訪ひ來れり。和尚鄭重にあしらひ茶などすゝめたり。世間話をしてやがて歸らんとする樣子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣りしに、門を出でゝ家の方に向ひ、町の角を廻りて見えずなれり。其道にてこの人に逢ひたる人まだ外にもあり。誰にもよく挨拶して常の體(テイ)なりしが、此晚に死去して勿論其時は外出などすべき樣態[やぶちゃん注:「やうだい」。]にてはあらざりし也。後に寺にては茶は飮みたりや否やと茶椀を置きし處を改めしに、疊の敷合せへ皆こぼしてありたり。
八八 此も似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺[やぶちゃん注:「じやうけんじ」。]は曹洞宗にて、遠野鄕十二ケ寺の觸頭(フレガシラ)なり。或日の夕方に村人何某と云ふ者、本宿(モトジユク)より來る路にて何某と云ふ老人にあへり。此老人はかねて大病をして居る者なれば、いつの間によくなりしやと問ふに、二三日氣分も宜しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にて又言葉を掛け合ひて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね來たりし故出迎へ、茶を進め暫く話をして歸る。これも小僧に見させたるに門の外(ソト)にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見れば亦茶は疊の間にこぼしてあり、老人はその日失せたり。
[やぶちゃん注:「觸頭(フレガシラ)」江戸時代の寺院統制機構の一つ。幕府及び各藩の寺社奉行の下で、本山及び一般寺院の上申下達の仲介を行い、また、一定の統制に当たった寺院。室町幕府の「僧録司(僧録)」がその起源で、戦国期には各大名が有力寺院を「僧(総)録」とか「録所」の名で呼び、領内寺院の統制に当たらせた。宗派別に置かれた場合と、全宗派を合して一寺とした場合があり(ここは後者であろう)、これは江戸時代の各藩ごとの触頭の場合にも同様に見られる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]
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